千利休(キリシタン茶人)考 |
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).1.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、千利休を確認する。 2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【千利休の履歴】 | ||||
ここで「千利休考」しておく。「ウィキペディア千利休」、「あの人の人生を知ろう ~ 千 利休」、「今日は何の日?徒然日記」の「千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?」、「本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説」、「「キリスト教信仰と茶道」」、「キリスト教の茶の湯への影響」、「☆茶道はキリスト教の儀式だった☆」その他を参照する。 | ||||
千利休は、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))。戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。 また、堺の今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。博多の神屋宗湛、島井宗室。いずれも 戦国時代の著名な茶人ですが、豪商でもあっ。信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”。 |
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堺と博多を ブレイクさせた端緒となったのが、室町三代将軍・義満の始めた勘合貿易。応仁の乱で将軍が凋落したのちは、瀬戸内海は二分され、東の細川が堺を育て、西の大内が博多を育てた。 | ||||
1522(大永2)年 、和泉国・堺で納屋衆(倉庫業)を業とする商家である屋号「魚屋(ととや)」で生まれる。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。幼名は与四郎(與四郎)、のち法名(号)を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。 利休の祖父は、千家系譜によれば、「里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤」とあり、新田里見氏の一族田中氏の出身とされる。また千利休由緒書は次のように記している。
利休の祖父の名は初めは専阿弥、後に千阿弥といい、足利義政の同朋衆であったので、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。内容を疑問視する向きがあり、山上宗二の「山上宗二記」(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(後の道安)と記しており、利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとしている。「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとする説もある。 当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地であった。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国だった。多くの商人は同時に優れた文化人でもあった。この地で育つことになる。 この堺は切支丹信仰の萌芽を見せていた。1550(天文19)年の暮、聖ザビエルが堺の町にやって来たとき、堺の富商であると同時に有数の茶人でもあった日比屋了珪(慶)が面倒をみている。8年後の1559(永禄2)年10月、トルレスの命を受けたヴィレラがロレンソ、ダミアンなど三人の日本人を従えて堺の町にやって来ている。1561(永禄4)年、日比屋了珪は当時豊後にいたトルレスに進物を贈りデウスの教えを説く者を派遣してもらいたいと強く要請し、同年8月、ヴィレラが再び堺の地に来て、1年間日比屋家に滞在し布教している。但し、布教は容易ではなく、1年間で得られた信者数は僅か40人にすぎなかった。 1563(永禄6)年、畿内で日本人宣教師ロレンソの説教を聞いて高山飛騨守友照(ダリオ)が入信し、その息子の高山右近(ジュスト)が12歳で受洗している。 1564(永禄7)年、12月、アルメイダとフロイスが豊後からやって来たが、了珪は屋敷内の瓦葺三階建の建物を聖堂にあてて、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信した。こうして了珪は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに尽力した。千利休が茶湯の世界に登場し、活躍を始めたのもこの頃のことである。了慶の屋敷から200mの所に千利休の屋敷があり、50mの所に今井宗久の屋敷があった。(「キリスト教の茶の湯への影響」参照) 16歳の時、利休は幼少のころから茶湯を好み茶の道に入る。17歳で北向道陳にについて東山流の茶を学ぶ。 18歳の時、道陳の紹介で当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩く。紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光は一休の弟子で、茶会の儀式的な形よりも茶と向き合う者の精神を重視した。大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していく。紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めた。この頃、堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。大徳寺では大林・笑嶺・古溪の三和尚に参禅し、和敬清寂の侘び茶を会得している。 23歳の時、最初の茶会を開く。利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など茶会全体の様式にまで拡大した。当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。 43歳の時、利休は松永久秀主催の茶会に茶匠として招かれている。 1568(永禄11)年、46歳の時、信長が活力に湧く自由都市・堺に目をつける。圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にした。これにより軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。特徴的なことは、信長が武力だけでなく文化の面でも覇権を目指したことである。茶道に力を入れ、いやしくも武将として一国一城の主ともあるほどの者ならば、この数奇の道に入らぬ者はないほど隆盛させた。堺の納屋衆や博多衆など町家出身の茶人が武将の間に伍して、最も活躍したのも永禄から天正にかけての時代、つまり覇権が信長の手に帰して、後に転じて秀吉が信長に代って天下に号令を下した約30年ほどの期間であり、それはまた切支丹の歴史にとっても最も華々しい弘法の時代でもあった。 信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用した。堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用した。信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。 1569(永禄12)年、宣教師ルイス・フロイスが織田信長と会見し、京都居住布教を許可される。信長は、安土城を築くにあたってルイス・フロイスに築城上の意見を求めさせ、その結果本丸には大天主、小天主が築かれ、その上天主の内部には金・銀・朱泥が施されて、キリスト像やマリア像が祀られ、屋上には金色燦然たる十字架がかかげられたと云う。この天主という言葉自体も、太田錦城(1765-1825)は「梧窓漫筆拾遺」の中で次のように記している。
これによれば天守の名は天主教から出たものと云うことになる。新井白石も西洋紀聞(下巻)の中で次のように記している。「デウスというもの、漢に翻して天主とす。……天主教法の字は最勝王経に出づ」。諸橋漢和によると「【天守閣】城の本丸の中に、特に高く設けた物見櫓の称。三層・五層・七層などで、八棟造りなどに建てる。天主閣の名は、松永久秀が多聞城を築いた地に、織田信長が安土城を築いて、天主を祀ったことに起るという。一説に、仏教の帝釈を中央に、四隅に四天王を祀って守護神としたことに起るという。又、上杉謙信が、天主の称を憎んで天守と改めたともいう」。 1570(元亀元)年、49歳の時、千利休が信長の茶会において薄茶を点てている。これが初見となる。(「今井宗久茶湯書抜」) 教会あるいはキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれている。古田織部の指導で作られた織部焼には十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されている。織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯籠」とも呼ばれている。キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ「日本巡察記」)として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示している。往時のキリスト教と茶の湯は、想像する以上に濃密な関係を持っていたといえる。 このような中で、利休の妻や娘も信者になっている。 1576(天正4)年、安土城が完成する。1579(天正7)年、信長は安土に教会建立を許可し、翌年にはセミナリオ(神学校)も誘致し、すでにキリシタンとなっていた高山右近が1500人の人夫を寄進し、安土教会の大成寺(ダイウス寺)と、木造三階建の神学校(セミナリヨ)とを建てた。このような中で、やがて全国百余侯中の三割にもあたる30侯が切支丹大名となり、いわば一つのブームとなっていった。この頃の風潮を示すよい例は、切支丹武士が戦場で十字を切り、聖母マリヤの名を唱えて出陣したところが大いに戦功を得て、しかも死傷がなかったなどという風聞がまことしやかに語られ、切支丹でない武士までがマリヤ像や十字架をこぞって求めることが流行したと云う。 1582(天正10)年、利休60歳の時、6.1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。 6.13日、千宗易は、京都は山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)寺で、明智光秀とを羽柴(豊臣)秀吉の「天下分け目の天王山」となった山崎の合戦の帰趨を見守っていた。小雨がそぼ降る中、午後4時から開始された合戦は、わずか1-2時間で勝敗が見え始め、光秀軍が敗走した。その知らせを聞くやいなや、宗易は、秀吉が陣を敷く宝積寺へとおもむき、寺へと招いて勝利の茶を点てた。 本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え知行3千石を与えられた。秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉が関白となってからは,天下一の茶湯者と評され,大名から僧侶・町人にいたるまで門下に加わった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。「利休七哲」と称される人々は江岑夏書に初見し次のように記されている。「一番 蒲生氏郷、二番 高山右近 (南坊)、三番 細川忠興 (三斎)、四番 芝山宗綱、五番 瀬田掃部、 六番 牧村利貞、 七番 古田織部」。 秀吉は茶会を好んだが自慢できる茶器が不足していた。そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった。 1585(天正13)年、63歳の時、10月、秀吉が関白就任の返礼で正親町天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。「利休」号の考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお「茶経」の作者とされる陸羽にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。 利休と秀吉は茶の湯の最盛期「北野大茶湯」が蜜月のピークだった。やがて徐々に両者の関係が悪化していく。秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕(ごう)を埋めている。堺の権益を守ろうとする利休と秀吉が暗闘し始める。茶の湯に関しても、秀吉が愛した派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のものであった。秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていった。 翌年、大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服し、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記している。 利休は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされている。 1587(天正15)年、65歳の時、豊臣秀吉の九州遠征のとき同行し筥崎宮に20日あまり滞在した。この時、秀吉は小寺休夢(黒田孝高の叔父)らと浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)で茶会を催した。このとき利休は秀吉の命により、松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる。 秀吉は九州を平定。実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許された。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休がこの茶会を主管した。当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となった!秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。 6月、九州を平定した秀吉は突如、禁教・棄教令を出し、宣教師の追放を命じた。 1588(天正16)年、66歳の時、秀吉のもとで厚遇され、宗易は、「利休居士」の称号を与えられ、その名声は天下に轟く。 1589(天正17)年、67歳の時、秀吉の悩みが解決する。淀殿が男児・鶴松を出産する。 1590(天正18)年、68歳の時、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑される(しかも耳と鼻を削がれて!)。 利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だった(切腹の1ヶ月前)。 10.20日、聚楽第の利休屋敷に博多の豪商・神谷宗湛1人を招いている。これが利休の最後の茶会とされている。 1591(天正19)年、69歳の時、1.13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に秀吉のメンツが潰されている。1.22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。 閏正月22日、愛弟子・細川忠興宛に自筆の書状を送っている。
引木の鞘とは狂言袴と呼ばれる高麗筒型茶碗を云う。万一を予期して形見の意味で忠興に与えたとも言われているが、何かの隠語の可能性が高い。大徳寺の木像安置事件が取り沙汰されて煩悶してる姿が伝わる。 2.14日、細川忠興の家老・松井康之に宛てた自筆の書状が存在する。
利休が堺の自宅に蟄居謹慎を命じられ、淀川を下る前の飛脚を使っての見舞いを松井に感謝し、羽代(細川忠興)、古織(古田織部)の見送りに感激してる姿がありありと感じれる書状となっている。 |
【千利休の最後の履歴】 |
1591(天正19)年、69歳の時、2.23日、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命ぜられる。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないという理由であった、とされている。 秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家が利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。 利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。2.25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされた。 2.26日、秀吉が利休を堺から京都に呼び戻す。利休は葭屋町の自邸に移った。2.27日、前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命嘆願は適わなかった。 大政所や北政所が【利休の為に命乞いをするから、関白様によく謝罪するように】と利休に密使を遣い勧告している。利休は【それがし、天下に名がある者が婦女子の為に死を免れたとあっては、後世の聞こえもいかがか】と言い固辞したという史料も現存する。 2.28日、この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。検使として尼子三郎左衛門・安威摂津守・蒔田淡路守の3人がやって来て、「切腹せよ」。利休は静かに「茶室にて茶の支度が出来ております」と述べ、使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて切腹した。享年69歳。切腹の介錯をつとめたのは利休の茶湯の弟子でもある蒔田淡路守で、彼が利休の首を一刀の元に斬り落とすと、利休の後妻のおりきが次の部屋から出て来て、死骸に白小袖を掛けたとされている。 利休の首は蒔田、尼子の両人が秀吉の元に届けて切腹の状況を報告した。秀吉は首実検さえせず、聚楽の一条戻橋の磔にされた木像の下に晒された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の侍大将・岩井信能ら3000の軍勢が包囲し、厳重に2日間警備をした。 利休が死の前日に作ったとされる辞世の句(遺偈)は「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 提ル我得具足の一ッ太刀 今此時ぞ天に抛」。 |
【千利休没後の茶道史考】 |
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。 利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。 秀吉が没すると、織部が家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。 1613(慶長18)年、厳しいキリシタン禁教令発布により、礼拝の対象物である聖母像、聖画像、十字架の入手が不可能となり、キリシタン(キリスト教またはその信者の意味)は、表面的には神徒、仏徒となって、転宗したと偽り、ひそかに仮託として、キリシタン燈籠、異仏の大黒天、弁財天、慈母観音、石仏地蔵、丸鏡、珠数、根付、茶碗、香炉、火入、皿、壺、燭台などを信仰の代用対象物として秘匿した。 1615()年、大阪の陣で豊臣家が滅亡した後、家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになり、「織部は豊臣方と通じていた」として切腹を命じた。利休、織部に切腹命令が出たことは世の茶人たちを萎縮させた。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。 後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。 千利休の自害後、聚楽第敷地にあった利休聚楽屋敷(毘沙門町および葭屋町通元誓願寺下ル町の晴明神社の近くにあったという)は、秀吉の手によって取り壊された。十数年後、この屋敷跡地は、利休七哲の一人である細川忠興の長男長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。 茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。 1595(文禄4)年頃、利休死後数年を経て、徳川家康や前田利家の取りなしにより道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期姻戚関係が生じる。 三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。利休忌につき、千家では利休切腹の1ヶ月後を命日としており、表千家は3月27日、裏千家では3月28日に大徳寺で追善茶会を開いている。 利休の茶道は,子孫である千家によって代々受け継がれ,本流には表千家(不審庵),裏千家(今日庵),武者小路千家(官休庵)の3系統があり,傍系はすこぶる多い。 |
【利休の家族及び子孫考】 |
家族
利休の最初の妻をお稲といったが、三好長慶の娘でそれを誇りとしていた。4人の子をなした。しかし松永久秀に長慶が滅ぼされ、気鬱になり若死にしている。男の子は与の助後の紹安。そのあと能師宮王三郎の後家おりきと、一緒になる。男の子が一人、吉兵衛後の少庵。千利休切腹後、この少庵が会津の蒲生氏郷のもとに逃れ、のちに千家を再興した。千利休の出生、女たちとの関係についてはそれなりに興味深い。(「千利休とその妻たち 三浦綾子」) |
【利休逸話考】 |
ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!。秀吉は利休の美学の神髄を教えられたと云う。 秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。 弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。 秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。 利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。利休が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。 「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)。 ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は突然の訪問にも関わらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えた上で素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望しその場で退席した。 福島正則は細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた。 |
【利休の茶の湯考】 |
「わび茶」の完成者としての利休像は『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されてきている。偽書である『南方録』では、新古今集(実際は六百番歌合)の藤原家隆の歌、「花をのみ
まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。 なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。 「露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。 |
【れんだいこの千利休考その1】 |
荒木村重も又松永久秀同様にキリシタン大名、武将だったと推理できるが、この方面からの論がない。しかし、荒木村重の履歴を見ればバテレンと気脈を通じていたことが分かる。何よりも1578(天正6)年の信長叛旗の必然性が、バテレン指令と見なさない限り見えてこない。1579(天正7)年の村重の家族も家臣も捨てての単騎脱出が理解できない。明智光秀との繋がりの線、高山右近との繋がりの線の必然性が見えてこない。晩年、「千利休らと親交をもった」とあるが千利休もバテレンと通じていたと見なすと明智光秀との線の必然性が見えてくる。豊臣秀吉が動かぬ証拠を突きつけ、切腹を命じた事情が透けて見えてくる。しかしこれは表に出てこないので全く推理するしかない。
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの千利休考その2】 |
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【利休とバテレンの通底考】 | ||
「キリスト教信仰と茶道」が、「この文章は、表千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が1994年1月の福音自由誌に書いておられたものです」として、「キリスト教信仰と茶道」の関係を明らかにしている。他の関連言及を含めて総合的に確認する。
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【利休茶道とミサの通底考】 |
安部龍太郎氏の著作「信長はなぜ葬られたのか」の「ミサと茶席の不思議な共通点」(p123)を参照する。茶道のお濃茶作法はミサに倣っているのではないのか。茶席の雰囲気はミサのそれとよく似ている。他の人を寄せ付けない茶室は、ミサがそうであるように同じ信仰を持った者たちが同志的な結束を誓い合う空間に相応しい。お菓子を戴くのもミサのパン切れをいただくのに準(なぞら)えられる。皆でお濃茶を回し飲みするのも、ミサの聖杯回し授与に似ている。利休七哲の中にキリシタンやその関係者が多いことは紛れもない事実である。 |
【日比屋了珪(慶)(ひびやりょうけい)考】 |
生没不詳。 堺の貿易商。日本人からは「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物である。 1550(天文19)年、12月、ザビエルが京都めざし瀬戸内海を堺へ向かっていく途中、寄港した港の有力者がザビエルの貧しい姿に同情して、堺にいる友人が了慶を紹介したらしい。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商であった。京都へ行ったザビエルであったが、京都は応仁の乱による戦禍で荒れ果て、思うように布教することができず、わずか11日であきらめて堺へ帰った。それから1ヶ月あまり病気で療養したザビエルを了慶は親切に世話をしたという。病気が癒えたザビエルは堺を出て平戸に戻り、再び山口で布教。領主の大内義隆に謁見、珍しい贈り物で歓心を買い布教が許されたらしい。その後ザビエルは、日本布教を確固たるものにするためには、日本文化の源・中国の布教に着手すべきとの判断から、日本滞在2年3ヶ月で中国に向かい、旅の途中、1552年志半ばで中国南部の広東において46歳で昇天した。 1559(永禄2)年、布教のため堺にやってきたのがビレラで、了慶はこのときも布教を応援し、自分の家を教会堂とし、「南蛮寺」といわれた。1563.12月には、我が国初めてのクリスマスが南蛮寺で行われたという。了慶は自ら率先して洗礼を受け、サンチョと名乗った。その後13歳の息子も洗礼を受けてビセンテと名乗り、熱心のあまり九州・豊後へ行って宣教師トルレスの教えを受け、日本人イルマン(布教の助手)の中でももっとも優れた人物であった。娘も洗礼を受けモニカといい、十字架と聖書を四六時中手にして、みずから異教徒であるとして叔父との婚約を捨て、のちキリシタンの男性と結婚した。 日明貿易で繁栄を誇った堺は、自分たちの力で自分たちの町を守ることを考え、周囲に堀を巡らす自治都市へと発展していく。その中心が「会合衆」(えごうしゅう)と呼ばれる36人の大商人であり了慶もその一人であった。同じ会合衆仲間の薬問屋、小西如清(じょせい)の子ペントにその娘を嫁がせて、キリスト教流の結婚式を挙げた。小西行長はペントの弟にあたる。 ビレラの後を受け継いで、1564(永禄7)年に畿内の布教にあたったのがフロイスで、フロイスもはじめは了慶の家を会堂としていた。了慶などの熱心な信者もいたが、堺での布教はかなり困難であった。その理由は、堺の人々はその富のためにかなり傲慢であり、「天国へ行くために自分の利権と名誉を捨てなければならないなら天国など行きたくない」という現実主義者が多かったことや、宣教師が布教のため金持ちに近づき貧者を避けたこと、堺がその富ゆえに、相国寺、東福寺に眼を付けられ、仏教が浸透していた、などであるとされる。 日比屋了慶とルイス・デ・アルメイダとの逸話。 |
「戦国時代、そして大航海時代の当時、日本もヨーロッパの国々の支配への触手が伸びたわけです。その先兵が例によって宣教師達だったわけですね。茶の湯に限らずキリスト教の影響は広範に渡って及んだもののようです。けれど、民度の高さに、簡単には支配の手が及ばないことを悟ったとも聞いています。下々の民衆であっても、渡来の文化に興味を示し、理解し、学習し、習得し、我が物としていく文化に脅威を覚えたのでしょうか 」。 |
【「利休七哲」考】 |
「利休七哲」と称される人々は江岑夏書(こうしんなつがき)に初見し次のように記されている。「一番 蒲生氏郷、二番 高山右近 (南坊)、三番 細川忠興 (三斎)、四番 芝山宗綱、五番 瀬田掃部、 六番 牧村利貞、 七番 古田織部」。江岑夏書は、1663(寛文3)年、千宗旦の三男である表千家四代江岑宗左によって書かれた覚書で、父宗旦の利休茶の湯に関する談話を主に記した書となっている。 |
「一番 蒲生氏郷」 蒲生氏郷(がもううじさと) 1556~1595(弘治2年~文禄4年) 近江蒲生郡の日野城にて誕生。藤原秀郷の子孫と言われるが蒲生郡に居していたため蒲生姓を名乗った。氏郷の父、賢秀は日野城主にして、六角承禎に仕えており、信長が上洛に先立ち近江平定し、承禎を攻めた折、賢秀は降伏し、氏郷は人質として承禎から信長に差し出され岐阜に送られた。永禄12年(1569)、元服して忠三郎。妻は信長の娘の冬姫。同年、初陣により戦功があり、日野城に帰された。元亀元年(1570)には朝倉攻め。同2年(1571)、伊勢長島の合戦。同3年(1572)、長篠合戦。同6年(1575)、摂津伊丹攻め、同9年(1578)、伊賀攻め。同10年(1579)、武田攻め。文武両道に秀れ、ことにその才智は信長によく認められたという。本能寺の変では、信長の妻子を守って日野城に篭城。その後、秀吉に属し滝川一益を攻めた。秀吉にもその才を愛され、天正12年(1584)、小牧の合戦で立てた戦功により伊勢松島に封じられ12万石が与えられた。正四位下、左近衛少将。その後、紀州攻め、九州遠征。天正18年(1590)小田原に出陣後、やはり戦功により陸奥守護となり、42万石。翌19年(1591)会津黒川(若松)城にあって92万石。これは秀吉の奥州方面司令官を任されたことを意味し、伊達政宗や徳川家康の監視役であり、牽制役でもあった。元々会津を所領にしていた伊達政宗には、大崎、葛西などの一揆を煽動されて悩まされている。武勇のみならず茶の湯にも秀れ「利休七哲」に数えられ重んじられたため、利休の自刃ののち細川三斎とともに千家再興に尽力した。また、高山右近との友誼によりキリシタンに帰依しており洗礼名はレオン。朝鮮の役において秀吉とともに名護屋城に居たが、発病を得て会津に戻り、文禄4年(1595)2月7日、京において没。40歳。あまりの才気ゆえに秀吉に妬まれ毒殺されたとも石田三成と直江兼続に謀殺されたとも種説あるが、いずれも確証はない。 |
二番 高山右近 (南坊) 「高山右近(キリシタン武将)考」に記す。 |
三番 細川忠興 (三斎) 細川忠興(ほそかわただおき) 1563~1645(永禄6~正保2) 戦国・江戸初期の武将。 細川幽斎(藤孝)の子で通称を与一郎といった。三斎と号するようになったのは1619年(元和5)に家督を子忠利に譲って隠居してからである。父幽斎とともに織田信長に重んじられ丹後宮津城主となった。妻の細川ガラシアが明智光秀の娘だったという関係で1582年(天正10)の本能寺の変後、明智光秀から招かれたが、これには従わず豊臣秀吉の側に属し、以後、豊臣大名の一人として好遇された。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは父幽斎とともに東軍徳川家康方に属し、そのときの軍功によって豊前小倉城主となり39万9,000石を領する。父幽斎と同様、単なる武将ではなく文化人大名としても有名で、和歌・絵画はもちろん蹴鞠・乱舞をはじめ有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた。茶の湯は千利休に学び利休門下七哲の一人に数えられるほどであった。著書に『細川三斎茶書』がある。 |
四番 芝山宗綱 芝山宗綱 監物丞、利休七哲の一人。桃山時代の武人で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。 |
五番 瀬田掃部 瀬田掃部(せたかもん) ?~1595 名は正忠。従五位下掃部頭。 近江の出身とされるが武士として北条氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えた。茶の湯を千利休から学び大成する。高麗茶碗を愛用したことで知られている。豊臣秀次の一連の騒動に巻き込まれ処刑された。掃部形と称される大きな櫂先の茶杓を好んだことで知られる。お皿のように浅い高麗茶碗を持っていたが、水の取り扱いや茶筅をすすぐときなどとても難しいものであった。しかし、あまりにみごとなお茶碗なので、利休に銘をたのみ、ついた名前が『水海』。そして持ち主の瀬田と琵琶湖にかかる瀬田の唐橋とをかけて"勢多"と名付けられた茶杓を添えたと云われる。彼は、普通の人なら使わない大きな平茶碗を茶に使い、さらにさらし茶巾という、客の前で水音さわやかに茶巾を絞る点前をやって見せた。利休もその点前に感心し大いに認めることとなった。 |
六番 牧村利貞 牧村利貞(まきむらとしさだ) ?~1593(文禄2)兵部大輔。名を政治・政吉・高虎・正春ともいう。 稲葉一鉄の庶長子重通の子で、外祖父牧村政倫の名跡を継ぐ。はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどに従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に属して小牧・長久手・九州の諸戦に参加した。1584年、高山右近の勧めでキリスト教徒となり、自らも説教を行い蒲生氏郷を改宗させた。また利貞は利休七哲の一人に数えられる高名な茶人でもあり、信長在世中から多くの茶会に名を連ね、ユガミ茶碗と呼ばれる変形茶碗を世に広めたことでも知られる。小田原平定後の1590年、伊勢国多岐・度会2郡内で2万600石を与えられ岩出城主となる。1592年、文禄の役が起こると石田三成とともに舟奉行として渡海するが、1593年7月2日に戦死。嗣子兵丸幼少のため、遺領は弟の稲葉道通が相続した。道通はのち関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後加増され同国田丸4万5700石に移封されたが、15歳になった兵丸が遺領の返還を求めると刺客を放ってこれを暗殺したという。なお道通の稲葉家は、子の紀通が1648年に発狂して自害したため廃絶となっている。 |
七番 古田織部 古田織部(ふるたおりべ)1544~1615(天文13~元和1) 利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代の茶人・大名。美濃の古田重定の子。信長・秀吉に仕え1585年(天正13),従五位下織部正に任ぜられ,織部と称されるようになる。小牧の合戦・九州平定などでの働きがあり,京都西岡で3万5,000石を領する。茶道に近づき千利休に学んで利休高弟七哲の一人となる。師の没後、一流をなし古織流・織部流をなのった。2代将軍秀忠を教え、諸大名にも茶の湯を伝授。茶室や庭園にかかわる織部灯籠の創案者でもある。関ケ原合戦では家康方に属したが、元和元年の大坂の合戦では豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。73歳であった。織部流のその後は古田斎宮を称し4世までつづく。織部の教えをうけた織部系の人物としては遠州流の小堀政一、近世を通じ系統を維持した清水道閑、本阿弥光悦がいる。また織部が瀬戸で造らせた茶器を織部焼という。 |