「山口の討論」考 |
(最新見直し2013.08.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「「山口の討論」考」を確認する。 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【「キリスト教宣教師と仏僧との頂上決戦の場「山口の討論」」考】 |
「キリスト教宣教師と仏僧との頂上決戦の場「山口の討論」」参照。 キリスト教宣教師と仏僧・信教徒との宗教討論の「山口の討論」として知られる宗教会議が1551年4月から約半年にわたり行われた。教義論争ばかりなく、戒律破りの僧侶の生態批判も行われ。討論では、「天地万物の創造主は善であるのか悪であるのか?」、「もし神が善であるなれば、なぜ悪い者を造るのか?」、「神が人間を造ったことが本当なら、悪い悪魔が人間を悪に誘うことを知っていながら、なぜ悪魔の存在を許しておくのか?」といった仏僧からの質問が飛び交った。但し大きな対立へと発展することはなかった。僧侶たちの飲酒、尼僧との性行為が明らかにされ、ザビエルたちは聖職者としてあるまじき行為であると糾弾した。山口の町ではそれから2ヶ月の間に500人前後の人たちが新たに洗礼を受け、キリスト教徒になっている。 イエズス会は、さらなる戦略として用意されたのが適応主義政策を採った。「日本の流儀を習得するともに、カトリックの教義に危険が生じない限りにおいて日本文化に生活の仕方などを合わせるべきだ」というものであった。これにより、イエズス会の司祭たちは、日本に滞在中は肉食をしない覚悟で臨んだ。日本人の習慣を奇異に思ったり悪く言ったりしないよう徹した。日本人は形式美をこの上なく尊重する国民であると見抜き、その形式の美学に合わせるべく、キリスト教の諸典礼やイエズス会関連施設を美しく整えた。ヴァリニャーノは日本人にとって有益なものをもたらすことも布教のためのひとつのステップと考えた。硝石や火器、中国産生糸など、日本国内では手に入らないあらゆる物資を長崎に寄港する南蛮船に運び込んだ。その点、鹿児島の種子島への鉄砲伝来は領国の富国強兵化を求めていた九州の大名たちの思惑を汲み取ったうえで、イエズス会により画策された計画のひとつであったと捉えることができよう。ザビエルは、日本人が「よい武器を持っていることが何よりも自慢」とする様を知り、「私はこれほどまでに武器をたいせつにする人たちをいまだかつて見たことがない」と書き残している。ポルトガル船は鉄砲や大砲、硝石や鉛などの軍需物資をもたらしていた。これらの軍需物資は、その入手がきわめて困難であったため、鉄砲などの場合、『長崎古事集一』には「其頃日本ニて鉄砲と云もの不見馴重寶なる物とおもひ、しハらくハ其名を重寶と名付」と言及されているように、その頃の日本では「見馴れない物」であった。新たな布教地「日本」において、福音の布教と霊魂の獲得をおこなおうとしている宣教師たちが、日本人の武器に対する嗜好に着目し、鉄砲などの軍需物資を「外交儀礼品」として提供し、それと引き換えに領内での布教を認めさせた。 日本人は領主の意向に大いに左右されること、そして領主からの好意と援助を得られなければ布教は難しいこと、いわゆる忖度の文化をイエズス会の宣教師たちは理解していた。これらが日本での布教が成功した最大の要因であると言える。以上の適応主義政策を実行するために、イエズス会の宣教師たちは日本の文化や日本人の行動律を学び、教会内でそれを伝授するために、自ら日本文化の翻訳者となることが求められた。翻訳作業の中で宣教師たちが直面したのが、キリスト教の「神」を日本人向けにどう訳すかどうかであった。結局、「大日」と訳したが、後に「大日」という仏教用語は「神」に対する日本語訳に相応しくないとして却下した。「大日」問題をめぐり仏教用語をどう扱うかが取り沙汰されるなかで、1555年9月23日付の『ガゴの書簡』では仏教用語は「虚偽の言葉」、「有害な言葉」と看做(みな)された。そこで、今後の翻訳方針として、出版物における語彙や表記の統一を図ることを名目上の理由に、仏教用語の代わりにラテン語を使用する「原語主義」に則らなければならないとした。ところが、1611年に印刷された長崎のイエズス会学院の『ひですの経』では、原語主義が忠実に守られておらず、使用が禁止されたはずの仏教用語が多数見受けられた。例えば原語主義に則れば、ポルトガル語で天使を意味する「anjo」は仏教用語を用いず、そのまま「anjo」とすることが求められたが、残念なことに第29章だけでも漢字表記である「安如」の使用が5回、平仮名表記では2回確認された。また、全体的に表記が統一されておらず、独特の漢字表記や類似のキリシタン版にはない当て字のような用語(例えば、「天心」「尊主」「妙理」)も数多く見られた。こうした事態はキリスト教典の日本語翻訳がいかに難航したかを物語っている。 さらに、対外的な出来事が立て続けに発生した。準管区長のガスペル・コエリョは、中国遠征を企てていた秀吉に、九州のカトリックの援助ばかりか、ポルトガル海軍の支援をも取り付ける約束をしている。原則としてイエズス会士がその国の政治に介入することは禁じられていたにもかかわらず。コエリョの行動をきっかけに、秀吉はイエズス会に対し日本に対する西欧の軍隊の襲撃を準備する諜報員ではないかと疑うようになった。また、家康自身が篤い仏教徒であり、日本国内で仏教が復興し始めたこともイエズス会にとっては想定外の出来事であった。家康は当初、キリスト教全般に対し寛容な態度を示し、お抱えの通訳者としてジョアン・ロドリゲスを召し入れた。が、後に三浦按針の名のもとに徳川幕府に仕えることになるイギリス人航海士のウィリアム・アダムズが豊後に停泊したのをきっかけに事態は急変。貿易戦争をめぐってポルトガル人とスペイン人に対する格好の均衡勢力を得たと判断した家康はその新参者を歓迎した。こうして、ジョアン・ロドリゲスはウィリアム・アダムズにとって代わられるとともに、プロテスタント系の船乗りたちによって反カトリック言説が流布。イベリア半島の影響力が低下したことで、それに伴いイエズス会士の威信が失墜。家康はすべての宣教師の日本からの退去と、キリスト教徒に対しては仏教への改宗を命じた。その後、第3代将軍・家光によって鎖国政策が敷かれた。 |
「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像 ― 好意的な印象から好戦的な態度へ ―」。
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「日本のカトリック教会の歴史」の「1.聖フランシスコ・ザビエルによる キリスト教の伝来」。 1549年8月15日、聖母被昇天の祝日に、聖フランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸しました。ザビエルは、*1イエズス会の*2コスメ・デ・トーレス司祭と*3ジョアン・フェルナンデス修道士、*4ヤジロウ(アンジロウ)という日本人を伴っていた。9月29日、ザビエルは、薩摩藩主(鹿児島)の島津貴久(しまづ たかひさ)に謁見し、宣教のための許可を求めた。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、その願いに快く許可を与えた。同時に、小さな家をも貸し与えた。ザビエルは、日本語を上手に話すことができれば、多くの人たちがキリスト教徒になるだろうと考え、宣教師たちに日本語を学ぶようにすすめている。ザビエルたちの真摯(しんし)さに深い感銘を受け、洗礼を受ける人たちがあらわれた。そのひとりに「ベルナルド」という洗礼名を受けた青年がいた。彼は、ザビエルの忠実な同伴者となり、平戸、山口、都へと旅をともにした。1551年、ザビエルと共にインドへ赴き、さらにヨーロッパに渡り、 1553年イエズス会に入会し、日本人の最初のイエズス会司祭となった。ベルナルドは、ポルトガルで勉強を続けていたが、1557年、道なかばで病気のために亡くなっている。ザビエルが鹿児島に滞在した1年の間に、約100人が洗礼を受け、信徒となつている。通訳があったとはいえ、言葉もよくわからないザビエルの教えを聞き100人もの人が洗礼を受けている。 ザビエルは、日本の諸宗教を知るために、寺々を訪問し、僧侶たちと話した。そのなかのひとつ、曹洞宗 福昌寺(そうとうしゅう ふくしょうじ)をたびたび訪ね、東堂(とうどう・前住職)の忍室(にんじつ)と親しく話し合った。しかし、しだいに仏僧たちの反感が強くなり、キリスト教の禁令を、領主貴久に要求した。貴久は、貿易のことを考え、躊躇(ちゅうちょ)していたが、1550年7月、フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダを船長とするポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、キリスト教の禁止に踏み切つた。活動できなくなったザビエルは、祈りのうちに、ヤジロウの助けで、教理の本を日本語に翻訳したりしていた。はじめから日本の都である京都を目指していたザビエルは、この機会にそれを実行することにし、1550年8月、仲間とともに平戸へ向かつた。 ザビエルの一行は平戸に赴き、領主 松浦隆信(まつうら たかのぶ)に謁見し、宣教の許可を得た。彼らは、隆信の家臣の木村という武士の家に滞在した。そして、ザビエルとフェルナンデスは、鹿児島でつくった簡単な教理の本を使って宣教を開始した。ザビエルたちの謙遜な姿に、木村家でも家族全員が、洗礼に導かれた。この木村の孫にあたる木村セバスティアンは、最初の邦人司祭として長崎で叙階され、1622年9月10日、長崎の西坂で火あぶりによって殉教した。また、彼の従弟レオナルドもイエズス会に入り、1619年11月18日、長崎で殉教。甥の木村アントニオは、1619年11月26日、長崎で斬首され殉教した。この3人は、日本205福者殉教者にあげられている。ザビエルたちは、2カ月の間平戸に滞在し、100人くらいの人びとに洗礼を授け、彼らをトルレ神父スに任せて、都へ向かうため山口に旅立つた。 当時、山口は、日本で一番栄えている町のひとつで、大友文化といわれる京風の文化が花開いていた。ザビエルが訪れたときの領主は、最も有力な守護大名のひとりの大内義隆(おおうち よしたか)だった。彼は、学問や芸術の保護を奨励し、各方面のすぐれた学者や僧侶を招いていた。ここでも、ザビエルはフェルナンデスを伴い、宣教を行つた。しかし、山口で受洗した人はわずかでした。 1550年12月、ザビエルは、フェルナンデスとベルナルドを伴い都に向かった。山口から岩国までは徒歩で、岩国から堺までは船の旅。この旅は、冬の厳しい寒さと、食物の不足、それにあわせて一部の人たちの不親切のために、大変苦しいものだった。堺では、後に教会の柱となる商人 日比屋(ひびや)を訪れ、歓迎された。1551年1月、ザビエルたちは、小西の家に、都の宿を得た。小西家の長男 立佐(隆佐)は、それから8年後の1560年、洗礼を受けた。彼は、キリシタン大名として名高い小西行長(こにし ゆきなが)の父です。 そのころ京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃していた。後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍 足利義輝(あしかが よしてる)は、近江に逃れていた。ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいた。しかし、天皇との謁見も、宣教も許されず、比叡山に入ることもできなかった。夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたたび山口での宣教を試みた。 1551年4月、ザビエルはフェルナンデスやベルナルド、もう1人の日本人キリシタンを伴い、ふたたび山口に入つた。先回のような貧しい姿ではなく、盛装してインドの副王使節として領主に謁見した。その際、ザビエルは、天皇に献呈するはずだったインドの副王と、ゴア司教の信任状と贈り物を大内義隆に差し出した。義隆が返礼にと用意した贈り物を辞退し、ただ福音の宣教を行うことの許しを願つた。義隆は喜んで許可を与え、無人の寺を住居として提供した。そこで宣教をはじめたザビエルは、ひとりの目の不自由な琵琶法師に洗礼を授けた。彼は、ロレンソと呼ばれ、イエズス会の最初の日本人入会者となり、説教師として多くの人に福音を伝えた。山口では、ザビエルが滞在した4カ月の間に、約500人が洗礼を受けている。このころザビエルは、神を表すために用いてきた真言宗の「大日」を、ラテン語の「デウス」に改めている。これは、多くの各宗派の仏僧たちが、ザビエルに論争をしかけてきたおかげで、より仏僧たちの考えを理解することができたためである。
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(私論.私見)