「山口の討論」考



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 2013.08.11日 れんだいこ拝


【「キリスト教宣教師と仏僧との頂上決戦の場「山口の討論」」考】
 「キリスト教宣教師と仏僧との頂上決戦の場「山口の討論」」参照。

 キリスト教宣教師と仏僧・信教徒との宗教討論の「山口の討論」として知られる宗教会議が1551年4月から約半年にわたり行われた。教義論争ばかりなく、戒律破りの僧侶の生態批判も行われ。討論では、「天地万物の創造主は善であるのか悪であるのか?」、「もし神が善であるなれば、なぜ悪い者を造るのか?」、「神が人間を造ったことが本当なら、悪い悪魔が人間を悪に誘うことを知っていながら、なぜ悪魔の存在を許しておくのか?」といった仏僧からの質問が飛び交った。但し大きな対立へと発展することはなかった。僧侶たちの飲酒、尼僧との性行為が明らかにされ、ザビエルたちは聖職者としてあるまじき行為であると糾弾した。山口の町ではそれから2ヶ月の間に500人前後の人たちが新たに洗礼を受け、キリスト教徒になっている。

 イエズス会は、さらなる戦略として用意されたのが適応主義政策を採った。「日本の流儀を習得するともに、カトリックの教義に危険が生じない限りにおいて日本文化に生活の仕方などを合わせるべきだ」というものであった。これにより、イエズス会の司祭たちは、日本に滞在中は肉食をしない覚悟で臨んだ。日本人の習慣を奇異に思ったり悪く言ったりしないよう徹した。日本人は形式美をこの上なく尊重する国民であると見抜き、その形式の美学に合わせるべく、キリスト教の諸典礼やイエズス会関連施設を美しく整えた。ヴァリニャーノは日本人にとって有益なものをもたらすことも布教のためのひとつのステップと考えた。硝石や火器、中国産生糸など、日本国内では手に入らないあらゆる物資を長崎に寄港する南蛮船に運び込んだ。その点、鹿児島の種子島への鉄砲伝来は領国の富国強兵化を求めていた九州の大名たちの思惑を汲み取ったうえで、イエズス会により画策された計画のひとつであったと捉えることができよう。ザビエルは、日本人が「よい武器を持っていることが何よりも自慢」とする様を知り、「私はこれほどまでに武器をたいせつにする人たちをいまだかつて見たことがない」と書き残している。ポルトガル船は鉄砲や大砲、硝石や鉛などの軍需物資をもたらしていた。これらの軍需物資は、その入手がきわめて困難であったため、鉄砲などの場合、『長崎古事集一』には「其頃日本ニて鉄砲と云もの不見馴重寶なる物とおもひ、しハらくハ其名を重寶と名付」と言及されているように、その頃の日本では「見馴れない物」であった。新たな布教地「日本」において、福音の布教と霊魂の獲得をおこなおうとしている宣教師たちが、日本人の武器に対する嗜好に着目し、鉄砲などの軍需物資を「外交儀礼品」として提供し、それと引き換えに領内での布教を認めさせた。

 日本人は領主の意向に大いに左右されること、そして領主からの好意と援助を得られなければ布教は難しいこと、いわゆる忖度の文化をイエズス会の宣教師たちは理解していた。これらが日本での布教が成功した最大の要因であると言える。以上の適応主義政策を実行するために、イエズス会の宣教師たちは日本の文化や日本人の行動律を学び、教会内でそれを伝授するために、自ら日本文化の翻訳者となることが求められた。
翻訳作業の中で宣教師たちが直面したのが、キリスト教の「神」を日本人向けにどう訳すかどうかであった。結局、「大日」と訳したが、後に「大日」という仏教用語は「神」に対する日本語訳に相応しくないとして却下した。「大日」問題をめぐり仏教用語をどう扱うかが取り沙汰されるなかで、1555年9月23日付の『ガゴの書簡』では仏教用語は「虚偽の言葉」、「有害な言葉」と看做(みな)された。そこで、今後の翻訳方針として、出版物における語彙や表記の統一を図ることを名目上の理由に、仏教用語の代わりにラテン語を使用する「原語主義」に則らなければならないとした。ところが、1611年に印刷された長崎のイエズス会学院の『ひですの経』では、原語主義が忠実に守られておらず、使用が禁止されたはずの仏教用語が多数見受けられた。例えば原語主義に則れば、ポルトガル語で天使を意味する「anjo」は仏教用語を用いず、そのまま「anjo」とすることが求められたが、残念なことに第29章だけでも漢字表記である「安如」の使用が5回、平仮名表記では2回確認された。また、全体的に表記が統一されておらず、独特の漢字表記や類似のキリシタン版にはない当て字のような用語(例えば、「天心」「尊主」「妙理」)も数多く見られた。こうした事態はキリスト教典の日本語翻訳がいかに難航したかを物語っている。

 さらに、対外的な出来事が立て続けに発生した。準管区長のガスペル・コエリョは、中国遠征を企てていた秀吉に、九州のカトリックの援助ばかりか、ポルトガル海軍の支援をも取り付ける約束をしている。原則としてイエズス会士がその国の政治に介入することは禁じられていたにもかかわらず。コエリョの行動をきっかけに、秀吉はイエズス会に対し日本に対する西欧の軍隊の襲撃を準備する諜報員ではないかと疑うようになった。また、家康自身が篤い仏教徒であり、日本国内で仏教が復興し始めたこともイエズス会にとっては想定外の出来事であった。家康は当初、キリスト教全般に対し寛容な態度を示し、お抱えの通訳者としてジョアン・ロドリゲスを召し入れた。が、後に三浦按針の名のもとに徳川幕府に仕えることになるイギリス人航海士のウィリアム・アダムズが豊後に停泊したのをきっかけに事態は急変。貿易戦争をめぐってポルトガル人とスペイン人に対する格好の均衡勢力を得たと判断した家康はその新参者を歓迎した。こうして、ジョアン・ロドリゲスはウィリアム・アダムズにとって代わられるとともに、プロテスタント系の船乗りたちによって反カトリック言説が流布。イベリア半島の影響力が低下したことで、それに伴いイエズス会士の威信が失墜。家康はすべての宣教師の日本からの退去と、キリスト教徒に対しては仏教への改宗を命じた。その後、第3代将軍・家光によって鎖国政策が敷かれた。

 「聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像 ― 好意的な印象から好戦的な態度へ ―」。
 1549年に来日したフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier,1506-1552)が宣教を開始 した二年後の1551年、イエズス会は山口において仏教の僧侶や信徒たちと討論をおこなった。「山口の討論」として知られている。1542年、ザ ビエルはアジアでの宣教を開始するためにゴアに到着した。しかし、それから七年後の書簡 を見てみると、彼はインド宣教に対して不満感を示しはじめており、ポルトガルの植民地行 政が産んだ新しいキリスト者(改宗者)に対するポルトガル王国とポルトガル政権の無関心 さを、次のように嘆いていることがうかがえる。 陛下よ、このようにはっきり申し上げることをお許しください。と申しますのは〔陛下 アジア・キリスト教・多元性 14 に対し奉り〕私心を捨てて献身しようと思っております私は、臨終にあたって、この世 でどのような権力を持つ者であっても逃れることのできない神の審判が、すべてを露わ になさるであろうと思っているからでございます。陛下よ、私はこちらで行われている ことを知っておりますので、〔あらかさまに申しあげますが〕、このインドにおいては、 キリスト教のために〔陛下が〕命令される訓令も勅令もすべて、実施される望みはまっ たくありません。それで、今までより以上に時間を失いたくありませんので、私は日本 へ脱出します。 その後、ザビエルは、インドでの宣教を通して経験した困難5に対する明確な解決策を見 いだすことはできなかったものの、より良い布教の成果を求めて日本へ向かうことにな る。1549年8月15日に来日したザビエルは、ポルトガルとの貿易関係を深めようとした薩摩藩の島津隆久に大いに歓迎された。ザビエルは同年11月5日に鹿児島にて、ローマに滞在し ていた仲間たち宛ての長い書簡をしたため、マラッカ(現在のマレーシア、ムラカ州)から 九州上陸までの旅路について語っており、そこには日本人や日本宗教についてのザビエルの 印象に関する最初の記録が確認できる。日本語も充分に理解できず、また来日してから、まだ短期間しか経っていなかったため、ザビエルの書簡に見られる日本文化および日本宗教に ついての描写というのは、ルイス・フロイス(Luís Fróis)をはじめ、その後に訪日するこ とになる宣教師たちが遺した史料と比較すると不正確な解釈も散見される。 ザビエルは、日本伝道の初期にキリシタンへと改宗し、パウロ・デ・サンタ・フェとの 洗礼名を授かった日本人アンジロウから重要な援助を得た。日本人、また日本の宗教につい て、いろいろと語ったアンジロウはザビエルにとって最大の情報源であった。ザビエルはア ンジロウを通じて、日本についての理解を進めたが、一方で、アンジロウの誤った認識・理 解や翻訳によりミスコミュニケーションの問題がいくつか生じた。
  1549年6月22日の書簡を見てみると、ザビエルはアンジロウとの対話を通じて、日本宗教への最初の批判を、次のように記している。 ああ日本の人たちよ、人間に奉仕させようとして神がおつくりになった被造物を、あな たたちが神々として礼拝しているのを悲しく思います」と言っているのを私〔筆者注: ザビエル〕は聞きました。なぜこのようなことをいうのかと彼〔筆者注:アンジロウ〕に 質問しましたら、故郷の異教徒たちは太陽と 月を拝んでいますが、太陽と月はイ エス・キリストを認める人たちの召使いたちと下男たち のようなものであり、昼と 夜を照らすことの他には役立ちません。人間たちはこの明晰によって神に奉仕し、こ の地上において神の御子イエズス・キリストを賛美するものですと答えました。 聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像―好意的な印象から好戦的な態度へ― 日本人が神として崇拝していた太陽と月は、ユダヤ教、またキリスト教思想から見ると、 天地創造の4日目に神によってつくられ、単なる昼と夜を照らす役目を与えられた召使だと 言われている。この神学的な解釈の他に、実験または天体観察によりルネサンスの知識人 が生み出した科学知識による影響があったとも考えられる。つまり、月や太陽というのは自 然科学の対象であった。イエズス会士は科学者たちと議論しただけでなく、積極的に、この 科学という新しい分野に貢献したことも忘れてはならない。したがって日本人が崇拝して いた神々〔太陽と月〕はただの自然の現象であり、それらはキリスト教の神の被造物である ということにアンジロウは気づき、非常にショックを受けたであろうことは想像にかたくな い。 ところで、ザビエルの書簡に現れる僧侶の最初の描写は日本に到着する前の話になる。
 1552年1月29日にザビエルは長い手紙を書いている。新たな情報を得た上で、真 言宗と禅宗の違いを詳しく記すその手紙のなかでは、初めて釈迦と阿弥陀の名称が仏教の主 な崇拝対象として記録される。加えて、仏教の戒律についても明確に述べられている。しかし、僧侶の罪や虚偽への批判は繰り返し、きわめて強く主張されている。その理 由の一つは、民衆の宗教の占有を失うことを恐れ始めた僧侶がキリスト教宣教に対して、否定的な態度をとり、宣教を妨げたことにあろう。なお、それは日本における最初のキリスト 教の禁止(禁教)と繋がっている。当初の好意的な印象が一変したことは、この書簡に記さ れた「山口の討論」において確かめられる。
  イエズス会の主たる創立メンバーのひとりとして知られているイグナ チオ・デ・ロヨラの『霊操』では、世界が「二つの旗」に分かれており、そのなかで福音の 真理を信じるキリストの兵士たちはカトリック教徒に率いられながら、「バビロニア」の者 はルシフェルの命令に従っていると述べている。そして、この戦争に勝つために悪魔はキ リストの真理を拡げようとする人に対して自らの力や使者を用いて様々な困惑を与えており、 つまり布教の成功を妨げるものは悪魔に支配下におり、真理の信仰の敵でもあるという。こ の“敵の闘い”というモチーフはルネサンス時代に入ると対抗宗教改革の宣教師と深く繋が ってくる。ザビエルの書簡を正確に理解するためには、彼に上述したような、神学的知見、 いうならば神学的遺産があったことを念頭に置き、読み進める必要がある。
 初めてザビエルが山口を訪れたとき、粗末で破れた服を着ていたために、周防国の領主で あった大内義隆は面会の依頼を断った。しかし、後奈良天皇(在位:1526-1557)との謁見が 失敗した後、1551年4月にザビエルが山口へと戻り、教皇大使に相応しい服を着用し、ヨー ロッパからの珍しい贈り物と日本国王宛のゴア司教の書状を持参すると、ようやく大内から 布教許可が得られた。このことはイエズス会側の史料のみならず、日本側の史料、すな わち義隆が亡くなった1551年から、あまり歳月が経っていない時期に作製された「大内義隆 記」にも記されている。

 その後、日本における最初のキリスト教と日本仏教との宗教討論が開始された。それは 「山口の討論」として知られるものである。この討論がおこなわれたとき、ザビエル自身は すでに山口の地を離れていたが、その際の報告をジョアン・フェルナンデス修道士から受け ている。その時のイエズス会士の主な目的は、日本宗教における誤謬や過ちを指摘するだけでな く、彼らがキリスト教布教の敵だと見なしていた僧侶の教えや理屈の弱点を攻め、仏教の信 徒たちの前で僧侶の無知を示すことにより改宗者、すなわち新たなキリスト教徒を生みだす ところにあった。以下に、ザビエルによって山口での宣教を振り返って書かれた1552年の書 簡で確認しておこう。 この山口の町で二ヵ月が過ぎ、さまざまな質問を経たのち、五〇〇人前後の人たちが洗 礼を受け、そして今も神の恩恵によって日々洗礼を受けています。大勢の人たちがボン ズやその宗派の欺瞞を私たちに知らせてくれました。もしも信者たちがいなかったら、 私たちは日本の偶像崇拝の実態をつかむことができなかったでしょう。信者になった人 たちは非常に深い愛情をもって私たちに接してくれます。かれらこそ真実な意味でキリ スト信者であると信じてください。

 ザビエルは僧侶の不正な行為を訴え、仏教の戒律、いわゆる「四分 律」 を遵守すべきである僧侶たちの飲酒や尼僧との性行為を弾劾した。さらにザビエル は、718年の「僧尼令」によって許されていた僧侶と童子との同衾 どうきん を厳しく批判してい る。もっともザビエルにとって僧侶が上記のような不正行為を犯すことは驚くべきことで はなかったという。 ボンズ〔筆者注:僧侶〕やボンザ〔筆者注:僧尼〕のあいだで犯している罪がたとえどん なに多くても、私は少しも驚きません。なぜなら、神を礼拝しない人たちが自分たちの 主なる神として悪魔を礼拝したり、ひどい罪を犯したりすることをやめられはしないの ですから、むしろ悪魔の誘いによって、もっと大きな罪を犯さないのが不思議でなりま せん。要するに、僧侶は福音の真理およびキリスト教について知らなかったために、不正な行 為を犯してきたのだとザビエルは述べているのである。偶像礼拝、すなわち偽りの神を拝む ことにより僧侶は自覚せずに迷信行為をおこない、それゆえ悪魔と暗黙の契約を結んでいる というのがザビエルの抱いた印象であった。 さらに、西洋の観点だとまったく理解し難い釈迦の誕生などの解釈を聞き、釈迦と阿弥陀 は悪魔が神を装った、いわゆる悪魔だとして、次のように紹介されている。 神のご慈愛のお蔭で、山口の町では昔から〔悪魔が〕持ち続けていた信頼を失いつつあ りますので、私たちは〔これからも〕二つの悪魔である釈迦と阿弥陀、その他すべての 悪魔との闘いに勝利を収めるように、神に懇願しなければなりません。それで主なる神 への愛と奉仕のために、この手紙を読むすべての方が心をこめて祈ってくださることを、 心からお願いいたします。60 このようにザビエルは僧侶について描写する際、“対立と対称”すなわち神父の典型 (あるべき姿)を表す純潔や潔白といった反対の定義を用いたのである。その上で、相手の 宗教を代表する神についても真理のキリスト教の神と対立させ、「偽りの神」および悪魔と して紹介したのである。
 最も興味深いザビエルと仏教の教えとの間のミスコミュニケーションの事例は、アンジ ロウがおこなった、誤った大日如来(梵語 Mahāvairocana)の解釈から生じた。ザビエル に日本についてのさまざまな情報を提供したアンジロウは、日本の寺院にある大日如来の像 は三つの頭を持っているというと説明した。ただし、それはアンジロウの誤りであり、大日ではなく、仏教の三宝を保護する荒神を指していたことを大和昌平が指摘している。そして、 このことは、ニコロ・ランチロットの『第一日本報告 第一稿』 にも記されている。 もう一種類別の司祭がおり、彼らもまた黒色の衣服を着ており、多くの苦行を行う。朝、 午後、真夜中と一日に三度お祈りをする。これらすべての司祭たちの祈りの家〔寺院〕 は同一の様式である。すべての者は金色の木像〔仏像〕をいくつか持っており、ある者 たちは壁に描いた画像を持っている。すべての者は唯一の神を崇拝する。それは彼らの 言葉でデニチ(Denychy)〔大日〕と呼ばれている。(彼が述べるところでは)このデ ニチはしばしば唯一つの身体に三つの頭を持って描かれる。それゆえ、コヂCogy〔荒 神〕と呼ばれる。この人〔アンジロウ〕は、三つの頭の意味がわからない。しかしデニ 聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡における僧侶像―好意的な印象から好戦的な態度へ― 21 チもコヂも、私たちの神と三位一体のように、すべて一つであることを知っている、と 言った。 大和は、アンジロウの誤解について次のように指摘している。 大日と荒神は全く別ものである。荒神は三宝荒神と呼ばれ、仏教における仏法僧の三宝 の守護神として日本仏教において信仰された。そして荒神が三面六臂(三つの頭と六本 の腕をもつ像容)に描かれることから、アンジロウは大日が三つの頭を持つと誤って語 ったのだろう。アンジロウはなぜ荒神が三面に彫られるのかを知らないと言いながら、 三位一体と同じように一仏を表わすのだと憶測で述べているのだろう。
 東馬場は、仏教に対するアンジロウの知識不足は日本伝道の一つの大きな問題となり、ザビ エルと僧侶たちとの間でミスコミュニケーションを引き起こす理由になったと指摘している 69。 アンジロウの無理解により、誤った説明を聞いたザビエルは「大日」をキリスト教の三 位一体と同一であると捉え、大日という表現を用いて、辻々で人々に宣教をおこなった。し かし、山口で真言宗の僧侶らとデウスをめぐる論争をおこなったことで、すぐに大日如来が 三位一体とまったく異なるものであることにザビエルは気づかされた。その結果、撤回し、 むしろ大日如来を拝まないようにと、同行していたジョアン・フェルナンデス(Juan Fernández)修道士に命じた。このときのことルイス・フロイスは次のように 『日本史』に記している。 仏僧たちはこれらのことを全く知らず、あまりにもかけ離れていて、寓話か夢物語のよ うに思い、奇異なことと〔見なし〕、司祭から聞いたことを笑う者もいた。司祭は、ジョアン・フェルナンデス修道士に対し、街頭において、大日如来 を拝んではならぬ、大日如来を神と見なしてはいけない、かの宗派はあらゆる他の日本 の宗派と同様に、偽りの当てにならない教えであり、悪魔が考案したものだと説教する ように命令した。フロイスの記録を見てみると、実際には、彼らの論争の中心は「デウス」の概念 になっていたようである。しかしながら岸野はルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida) やカミッロ・コンスタンツォ(Camillo Costanzo)らの書簡を、その証左として、来日以前 から山口の論争まで、ザビエルが「大日」の仏教用語を用いていたことを指摘している。
 論争そのものはザビエルの書簡において確認でき、またその際に同行していたフェルナンデ スとトルレス(Cosme de Torres, 1510-1570)の書簡にもうかがえることから、このエピソー ドは実際に起きたものだと見なしてよい。ザビエルと僧侶との衝突というのは、 一見すれば、単なる言語上のミスコミュニケーションの問題にすぎないように思われるかも しれない。しかし、キリスト教神学の伝統的成果からザビエルが会得した考え方についても、 合わせて検討する必要があろう。 ザビエルの伝道は日本初のキリスト教の布教活動であったことも、やはり重要な点であ る。つまり先例がなかったためにザビエルは、それまでの如何なるヨーロッパの宣教師たち が体験したことのなかった妨害や困難に遭った。さらに日本におけるポルトガルの影響はイ ンド、あるいはアメリカのものとは異なり、商品や銃などの貿易のみに限られていた。その ためザビエルは、両方の世界の共通点を探し、円滑な宣教活動が展開できるようにキリスト 教の教義をその当時の日本人の宗教を代表していた仏教の考え方に適応させようと試みた。しかし山口の討論から解ることは、仏教用語の使用が誤解を招き、ユダヤ・キリ スト教における「神」の定義から外れていたために、ザビエルがこの適応方策を速やかにと りやめたということである。シュールハマーは次のように指摘している。 フランシスコ神父は日本人のイデオロギーと習慣に適応することに覚悟はできていたこ とは本当であるが、それは神の規則が許す限りであった。そうしたなか、僧侶たちは宣教師から次々に批判を受けたため、抵抗だけでなく、より積 極的な反対運動を始めた。

 「日本のカトリック教会の歴史」の「1.聖フランシスコ・ザビエルによる キリスト教の伝来」。

 1549年8月15日、聖母被昇天の祝日に、聖フランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸しました。ザビエルは、*1イエズス会の*2コスメ・デ・トーレス司祭と*3ジョアン・フェルナンデス修道士、*4ヤジロウ(アンジロウ)という日本人を伴っていた。9月29日、ザビエルは、薩摩藩主(鹿児島)の島津貴久(しまづ たかひさ)に謁見し、宣教のための許可を求めた。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、その願いに快く許可を与えた。同時に、小さな家をも貸し与えた。ザビエルは、日本語を上手に話すことができれば、多くの人たちがキリスト教徒になるだろうと考え、宣教師たちに日本語を学ぶようにすすめている。ザビエルたちの真摯(しんし)さに深い感銘を受け、洗礼を受ける人たちがあらわれた。そのひとりに「ベルナルド」という洗礼名を受けた青年がいた。彼は、ザビエルの忠実な同伴者となり、平戸、山口、都へと旅をともにした。1551年、ザビエルと共にインドへ赴き、さらにヨーロッパに渡り、 1553年イエズス会に入会し、日本人の最初のイエズス会司祭となった。ベルナルドは、ポルトガルで勉強を続けていたが、1557年、道なかばで病気のために亡くなっている。ザビエルが鹿児島に滞在した1年の間に、約100人が洗礼を受け、信徒となつている。通訳があったとはいえ、言葉もよくわからないザビエルの教えを聞き100人もの人が洗礼を受けている。

 ザビエルは、日本の諸宗教を知るために、寺々を訪問し、僧侶たちと話した。そのなかのひとつ、曹洞宗 福昌寺(そうとうしゅう ふくしょうじ)をたびたび訪ね、東堂(とうどう・前住職)の忍室(にんじつ)と親しく話し合った。しかし、しだいに仏僧たちの反感が強くなり、キリスト教の禁令を、領主貴久に要求した。貴久は、貿易のことを考え、躊躇(ちゅうちょ)していたが、1550年7月、フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダを船長とするポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、キリスト教の禁止に踏み切つた。活動できなくなったザビエルは、祈りのうちに、ヤジロウの助けで、教理の本を日本語に翻訳したりしていた。はじめから日本の都である京都を目指していたザビエルは、この機会にそれを実行することにし、1550年8月、仲間とともに平戸へ向かつた。

 ザビエルの一行は平戸に赴き、領主 松浦隆信(まつうら たかのぶ)に謁見し、宣教の許可を得た。彼らは、隆信の家臣の木村という武士の家に滞在した。そして、ザビエルとフェルナンデスは、鹿児島でつくった簡単な教理の本を使って宣教を開始した。ザビエルたちの謙遜な姿に、木村家でも家族全員が、洗礼に導かれた。この木村の孫にあたる木村セバスティアンは、最初の邦人司祭として長崎で叙階され、1622年9月10日、長崎の西坂で火あぶりによって殉教した。また、彼の従弟レオナルドもイエズス会に入り、1619年11月18日、長崎で殉教。甥の木村アントニオは、1619年11月26日、長崎で斬首され殉教した。この3人は、日本205福者殉教者にあげられている。ザビエルたちは、2カ月の間平戸に滞在し、100人くらいの人びとに洗礼を授け、彼らをトルレ神父スに任せて、都へ向かうため山口に旅立つた。

 当時、山口は、日本で一番栄えている町のひとつで、大友文化といわれる京風の文化が花開いていた。ザビエルが訪れたときの領主は、最も有力な守護大名のひとりの大内義隆(おおうち よしたか)だった。彼は、学問や芸術の保護を奨励し、各方面のすぐれた学者や僧侶を招いていた。ここでも、ザビエルはフェルナンデスを伴い、宣教を行つた。しかし、山口で受洗した人はわずかでした。

 1550年12月、ザビエルは、フェルナンデスとベルナルドを伴い都に向かった。山口から岩国までは徒歩で、岩国から堺までは船の旅。この旅は、冬の厳しい寒さと、食物の不足、それにあわせて一部の人たちの不親切のために、大変苦しいものだった。堺では、後に教会の柱となる商人 日比屋(ひびや)を訪れ、歓迎された。1551年1月、ザビエルたちは、小西の家に、都の宿を得た。小西家の長男 立佐(隆佐)は、それから8年後の1560年、洗礼を受けた。彼は、キリシタン大名として名高い小西行長(こにし ゆきなが)の父です。

 そのころ京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃していた。後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍 足利義輝(あしかが よしてる)は、近江に逃れていた。ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいた。しかし、天皇との謁見も、宣教も許されず、比叡山に入ることもできなかった。夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたたび山口での宣教を試みた。

1551年4月、ザビエルはフェルナンデスやベルナルド、もう1人の日本人キリシタンを伴い、ふたたび山口に入つた。先回のような貧しい姿ではなく、盛装してインドの副王使節として領主に謁見した。その際、ザビエルは、天皇に献呈するはずだったインドの副王と、ゴア司教の信任状と贈り物を大内義隆に差し出した。義隆が返礼にと用意した贈り物を辞退し、ただ福音の宣教を行うことの許しを願つた。義隆は喜んで許可を与え、無人の寺を住居として提供した。そこで宣教をはじめたザビエルは、ひとりの目の不自由な琵琶法師に洗礼を授けた。彼は、ロレンソと呼ばれ、イエズス会の最初の日本人入会者となり、説教師として多くの人に福音を伝えた。山口では、ザビエルが滞在した4カ月の間に、約500人が洗礼を受けている。このころザビエルは、神を表すために用いてきた真言宗の「大日」を、ラテン語の「デウス」に改めている。これは、多くの各宗派の仏僧たちが、ザビエルに論争をしかけてきたおかげで、より仏僧たちの考えを理解することができたためである。

 1551年9月に、府内(ふない)に、ポルトガル船が入港したことを聞き、ザビエルは、山口の教会を、平戸から呼びよせたトーレス神父に任せて、豊後(ぶんご)に向かった。豊後の領主*5大友義鎮(おおとも よししげ・後の「宗麟」そうりん)は、まだ20歳で、家督を継いだばかりだつた。義鎮は、尊敬をもってザビエルを迎え、キリスト教の話しを聞き、領地内での宣教を許可した。

 そのころ山口では、大内義隆が、陶隆房(すえ たかふさ・後の「晴賢 はるかた」)の反乱によって殺された。トーレス神父やフェルナンデスにも危険が迫つたが、幸い難を逃れた。内乱がおさまると、隆房は、豊後の義鎮に使者を送り、弟晴英(はるひで)を山口の領主として招くことを伝えた。晴英はこれを承諾し、翌年、山口に移り、大友義長(おおとも よしなが)と名乗った。彼が、宣教師たちを保護したので、毛利元就(もうり もとなり)が山口を占領する1556年まで、宣教が続けられ、教会は栄えた。

 インドのイエズス会に、多くの困難があることを知ったザビエルは、出港するガマの船で、一度インドに帰り、問題を解決することにした。1551年11月15日、ザビエルは豊後を出港した。ザビエルが日本にきて、2年2カ月が過ぎていた。そのとき、彼は翌年、新しい宣教師を連れてふたたび日本に来るつもりだっが、これが、日本との永遠の別れとなった。ザビエルが日本を離れたとき、日本のキリスト教の信徒数は2000人ほどいた。

*1 イエズス会
 イエズス会は、聖イグナチオ・デ・ロヨラによって創立されました。  ロヨラははじめ、司祭ではなく軍人の道を選んでいましたが、1521年パンプローナでの戦いでフランス軍と戦い、重傷を負います。療養中の苦しみの中、神に仕える決心をし、バルセロナの巡礼地モンセラートで、過去の生活を悔い改め、マンサレーナで修行をしました。その孤独の中で平安に満たされ、神に触れる体験をし、〈霊操〉を生み出しました。  モンマルトルの丘で、ザビエル等の6名の同志とともに「清貧」「貞潔」「聖地巡礼」の誓願を立て、修道会創立に向かって歩みだします。  「より大きな神の栄光のために」働くことを使命とするイエズス会は、特に学校を設けて、青少年の教育に力を注ぎました。他方、会員の中からは多くの学者を輩出し、カトリック教会の発展の重要な役割を果たしました。  イエズス会は、非キリスト教徒への宣教活動を活発に展開しました。当時、アジアでの活動の中で、その国の文化や習慣を尊重する宣教方針を取ったため、逆に他の修道会との間に論争を引き起こしています。
*2 コスメ・デ・トーレス司祭
 スペインのバレンシアで生まれ、ラテン語の教師を勤めたあと、メキシコで住み込み司祭になっています。
 その時フランシスコ会から入会を勧められていますが、それを断り、後に従軍司祭としてスペイン艦隊の遠征に従軍しました。
 1546 年、彼はモルッカ諸島(インドネシア)でザビエルに出会い、深い感銘を受けました。その後、ザビエルに再会したいがため、ジャバ、マラッカ経由でゴアに行き、ザビエルが宣教の旅から帰るのを待ちつづけます。2年後の1548年、ザビエルに再会すると、早速イエズス会に入会し、日本へ宣教の旅に随行します。
 日本では、ザビエルと共に、平戸や山口で宣教活動を行い、ザビエルの離日後は、その志を継いで、20年にわたり日本で宣教をし続けました。
*3 ジョアン・フェルナンデス修道士
 スペインで生まれ、リスボンの裕福な商人でしたが、1547年、イエズス会に入会し、ほどなくして、ザビエルの一行に加わっています。
 ザビエルは、謙虚な彼を司祭にと思いましたが、彼はその申し出を辞退します。日本では1日2回、ザビエルと2人で街頭に立ち、ザビエルの通訳や、教理書を読み上げたりして、福音宣教に力を注ぎました。
 彼は、日本で修道士としての生涯をささげました。
*4 ヤジロウ
 ヤジロウは、ザビエルの手紙では、「アンジロウ」と書かれています。
 イグナチオによってインドに派遣されたザビエルは、さらに東へと宣教の足を延ばしました。1547年、マラッカ(マレーシア)で、日本人のヤジロウと出会っています。
 ヤジロウは、薩摩の国の下級武士の出身でしたが、かつて自分が犯した大きな罪(一説には、人を殺して日本にいられなくなったといわれています)の赦しを求めて、ザビエルに会いに来ました。
 ザビエルは、ヤジロウを紹介され、彼の話すポルトガル語を聞き、理知的で、知識欲旺盛な様子を見て、ヤジロウに、「もし日本に行けば、日本の人びとは信者になるだろうか」と尋ねています。ヤジロウは、「すぐにはならないでしょうが、あなたの言われたことについて色々尋ね、話されたことが本当に行われているのか、あなたの生活ぶりを見て信者になるか考えるでしょう」と答えています。
 以前から ザビエルは、「新しく発見された日本という島には、理性的な国民が住む」と、商人達から聞いていました。そして、ヤジロウと出会ったことで、日本へ宣教に赴くことは、神のみ旨ではないか、と考えるようになります。
*5 大友義鎮(1530-1587年)
 ザビエルを招待した大友義鎮は、後の大友宗麟で、豊後(今の大分)を本拠地にして肥後、日向、筑後へ勢力を伸ばしていました。
 当時の義鎮は、家督を継いだばかりの若い領主でしたが、ザビエルに来訪を懇願する手紙を送っています。ちょうどそのころ、ポルトガル船が豊後の港に入港しており、船長のドアルテ・ダ・ガマ(インド航路の発見者、ヴァスコ・ダ・ガマの息子)からも手紙を受けています。ザビエルが豊後に着くと、船からは礼砲が鳴り響き、人びとを驚かせました。義鎮は、礼砲の習慣や、聖職に対する尊敬の念を知り、感嘆しています。彼もまた、威厳と尊敬をもってザビエルを迎え、ポルトガルとの友好を求め、領内での宣教活動の許可を与えました。
 義鎮は、ザビエルから強い影響を受けており、27年後にフランシスコの洗礼名で、信仰に入っています。また、大友、大村、有馬の3人は、天正少年使節をローマに派遣しており、正使の一人、伊東マンショと義鎮は親類にあたります。
 ヤジロウは、ゴアの聖パウロ学院で教理を学び、パウロ・デ・サンタ・フェとうい霊名で、洗礼を受けました。ザビエルと共に鹿児島に上陸し、ザビエルの通訳・案内役を務めました。ザビエルの上洛後は、鹿児島に残りましたが、その後はわかりません。
 2人の出会いは、東西の宗教の交流だけでなく、互いの思想や文化の門を開くきっかけとなりました。





(私論.私見)