履歴考5(本能寺の変後の政争史) |
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ここで、「履歴考5(本能寺の変後の政争史)」を確認する。 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【本能寺の変後の光秀の動向】 | ||||
信長を討ち取った光秀は、信長・信忠父子の残党追捕を行なった。さらに信長本国の近江に進出して勢多城主の山岡景隆を誘降しようとしたが、景隆は拒絶して逆に瀬田橋と居城を焼いて甲賀に退転した。6.4日、光秀は近江をほぼ平定した。6.3~4日、諸将の誘降に費やした。 6.5日、光秀軍が安土城に入った。光秀は、長年にわたって信長が蓄えた安土城の財宝を家臣たちに惜しげもなく分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受けている。光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者となった。 政権担当者として朝廷から承認を得るために6.7日まで勅使の到着を待った。結果論であるが、この時間の空費が光秀にとって裏目に出た。東上する羽柴秀吉の軍を防ぐためにすぐに摂津方面に軍を進めて諸大名を組織しなかったことが山崎の敗戦につながる。 6.9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。6.13日、「天王山の戦い」となった山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれたと云われている。期待していた細川忠興、筒井順慶らの支持を得られなかったことが戦力不足を招き、間接的にではあるが敗因を招いたと云える。京都で政務を執ったのが10日から12日の3日間であったため、三日天下と呼ばれた。 「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」がフロイス「日本史」の「五畿内編Ⅲ」の次の一文を記している。
とりあえず以上を書き付けておく。その後、八切止夫氏の別章【信長殺し、光秀ではない】、別章【織田信長殺人事件】、別章【信長殺しは秀吉か】で補足した。 |
織田信長の実弟で、千利休に茶の湯を学んだ織田長益(有楽斎)は、本能寺の変で信長の長男・信忠と行動を共にせず二条御所を脱出し助かった。残された信忠が自害したため、後世、「逃げの有楽」と言われた。「逃げたのではなく、戦国の世を生き抜いて何かを残そうとした」の説もある。豊臣秀頼の母・淀君のおじに当たる有楽斎は、戦国最後の戦いとなった大坂の陣で大坂城にあった。豊臣家滅亡を防ごうとした穏健派と伝わるが、主戦派に押され、落城前に城を出て新たな世の始まりを見届けた。江戸初期、京都市東山区にある建仁寺の塔頭(たっちゅう)・正伝永源院(しょうでんえいげんいん)を中興している。手がけた茶室「如庵」は国宝に指定されている。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を受け、「正伝院」と「永源庵」の両寺が一つになった。今も正伝永源院には、有楽斎が創始した「有楽流茶道」が、ゆかりの茶道具とともに受け継がれている。12月に住職と家元を継ぐ副住職の真神啓仁さん(45)が語る。 「型にとらわれすぎず、客に窮屈な思いをさせない。武将らしくない柔らかで穏やかな茶風が、有楽斎の人となりを伝えている」。有楽斎は東京・有楽町の地名の由来になっている。 |
本能寺の変後の政争史 |
【光秀の書状】 |
光秀は京都を押さえると、光秀は権力地盤を固める為、直ちに諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。 光秀と関係の深い長宗我部元親、斎藤利堯、姉小路頼綱、一色義定、武田元明、京極氏らが呼応する形で勢力を拡大している。(他に北条氏、上杉氏、紀伊や伊賀の国人衆等)。誠仁親王は、変の後の7日に勅使として吉田兼見を派遣し京都の治安維持をまかせている。光秀はこの後、9日に上洛し昇殿して朝廷に銀5百枚や、五山や大徳寺に銀各百枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。 |
6.9日付の光秀の自筆による覚書。この覚書の宛先部分は切りとられているが、3カ条にわたるその内容から、明らかに細川藤孝(ほそかわふじたか)に宛てたものである。光秀は、青年時代から藤孝と親密な関係を結んでいた。それは娘の玉子(後の細川ガラシャ)を藤孝の息子・忠興(ただおき)に嫁させていることからもうかがわれる。覚書の第1条は藤孝に重臣による援軍を依頼し、第2条は味方になる場合の恩賞を伝える内容であるが、第3条で光秀は、今回のクーデターの目的は、藤孝の子息・忠興を取り立てるためのものであったと念を押し、50日、100日のうちに畿内と近国を平定して地盤を確立したのちは、それを光秀の子息・十五郎や忠興に引き渡して、自らは隠居するつもりだと記している。 この覚書を書いた時点で光秀は、細川忠興が夫人を幽閉し、藤孝は光秀の要請を拒絶したことを知っていたから、このような言い訳めいた言辞になったとも思われるが、それでも光秀の念頭には、幕府の管領であった細川氏一門の忠興を擁立すること、すなわち将軍・足利義昭を奉じて幕府体制を復活させ、それを補佐する管領に忠興を据えようとする構想があったと考えられるのである。 ところで、この覚書にある光秀の花押を詳しく調べた立花京子氏は、その不自然な筆運びを指摘している。確かに、文章も含めて全体的に勢いのない筆跡である。しかしこれこそ、信頼していた細川父子に裏切られたことを悟った直後の、光秀の落胆ぶりを如実に示しているのではなかろうか。 |
【家康一行の伊賀越】 | |||||
1582(天正10).6.2日、本多平八郎忠勝と茶屋四郎次郎が本能寺の変を知り、堺にいた家康一行に織田信長が明智光秀によって討たれたことを報告する。茶屋四郎次郎の茶屋由緒記は次のように記している。
この時、家康は次のように述べたと伝えられている。
家康は自害すら考えたが家来たちに諌められ三河に戻ることにしたと伝わる。商人である茶屋は多方面に顔が利き、大量の金銀も持参していた。そして、同伴していた家来の内に伊賀の出である服部半蔵が居り、彼の導きに従った。伊賀者由緒忸御陣御伴書付には服部半蔵ら伊賀者190人が伊賀から伊賀白子まで家康のお供をしたことが記されている。後に徳川四天王といわれた酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政らと共に山城国と大和国の間道を通り伊賀越えにて伊勢へ出る道を選択し、速攻で三河に帰国した。徳川実紀のうちの徳川家康に関する記録「東照宮御実紀」( http://www.j-texts.com/jikki/toshogu.html)文中に「これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす」と記されている。 東大阪の飯盛山から枚方を抜けた家康に対して、梅雪は、少し北のルート=木津川河畔を通るという別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたとされる(田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もあり)。 享年42歳。次のように記されている。
イエズス会日本年報は次のように記している。
但し、三河深渦城主の松平家忠が残した家忠日記は次のように記している。
四国討伐に参加していた津田信澄(父は信長の実弟-信勝)が、明智光秀の女婿だという理由で内通を疑がわれ、織田信孝、丹羽長秀らによって大坂城で討たれる。信澄は享年28歳。蒲生賢秀が留守居役として安土城を守っていたが、本能寺の変の報を受けると信長の妻子を連れて自らの本拠地である日野城(滋賀県蒲生)へと避難する。織田信長の次男-織田信雄(のぶかつ)が、安土城を放棄した蒲生賢秀(がもうかたひで)から信長、信忠らが討たれたこと、光秀の軍勢が安土に入ったことの報を受けている。 織田信雄が安土城に入城し、安土城を炎上させたとされている。イエズス会系の「日本西教史」では、信雄が安土城に火をつけた犯人だとしていて、イエズス会のフロイスは「信雄は智に乏しかったから」と理由を述べている。しかし、信雄は安土まで来ることなく退却しているという説の方が有力視されており、フロイス式の信雄放火犯説の信憑性は低い。明智秀満が安土城に放火してから坂本城に移ったとする説もある。これは「太閤記」、「秀吉事記」による。むしろ安土城に脅威を覚えていたバテレンの差し金による仕業と読むべきだろう。 |
【秀吉の事件対応考】 |
翌日、秀吉は信長秀の死を隠して毛利と和睦した。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。変の情報をいち早く秀吉に伝えたのは細川藤孝だっと云う。「武功夜話」がこれを裏付けている。 |
【秀吉の高松城水攻めの結末】 |
秀吉は備中高松城水攻めの最中、裏で十年前のよしみであった毛利家の外交僧・安国寺恵瓊を通して和平工作を進めていた。恵瓊は、秀吉が京都奉行をしていた頃、将軍足利義昭公の処遇をめぐり、織田信長の代理人としての秀吉と交渉するために初めて出会った。その時の交渉は決裂に終わったが、席上で恵瓊は秀吉の非凡な才能を知り、「信長の時代は三年や五年は続くだろうが、やがて大きくひっくり返る。しかし秀吉はなかなかの者である」と国もとの重臣にあてた書状の中で述べている。本能寺の変より十年も前、秀吉の天下制覇を予言していた。本能寺の変を知った秀吉は早急に恵瓊に相談し、城主清水宗治の切腹をもって城内の五千人の兵を助けるという講和条件を申し出た。恵瓊は独断で高松城に赴き、宗治を説いて講和条件が成立した。 清水長左衛門宗治が、五千人の家臣と兵を守る為、舟上切腹で見事な最期を遂げた。清水宗治の辞世句「浮世をば 今こそ渡れ もののふ(武士)の 名を高松の 苔(こけ)に残して」。羽柴秀吉は敵将ながら「天晴れ、武士のかがみである・・・!」と絶賛した。恵瓊はその後、秀吉に信頼され、部下となり六万石の大名に取り立てられている。 |
【秀吉の大返し】 | ||
午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる。6.8日、羽柴秀吉が姫路城に到着する。家臣団にありったけの兵糧・金銀を分与し、戦の準備を整える。6.9日、羽柴秀吉、姫路城から出陣する。6.11日、羽柴秀吉軍、摂津尼ヶ崎に到着する(姫路から尼ヶ崎までは約80㌔)。秀吉は“変”から10日で全軍を大坂まで戻したことになる。 6.6日、光秀は上杉に援軍を依頼。 6.7日、安土で勅使の吉田兼和(兼見)と面会している。朝廷から祝儀を受ける。正親町天皇は、本能寺の変後のわずか7日間に三度も勅使を派遣している。明智光秀公家譜覚書によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたという。 6.8日、光秀が安土を発って上洛し、朝廷工作をする。京都に帰還した。本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。(豊内記)。 6月9日、「明智光秀公家譜覚書」によれば、細川忠興が娘婿と云う縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対して次のように記した書状を送っている。
しかし、細川父子は応ぜず、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示した。髻を払い、以後、幽斎を名乗る。さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶・義絶した。光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた。
6.10日、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えなかった。 6.11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。6.12日、羽柴秀吉が、中川清秀、蜂谷頼孝、高山右近、池田恒興らを味方につける。秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に着いた黒田孝高に占領されていた。天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。四国討伐軍の織田信長の三男-織田信孝、丹羽長秀らと摂津富田(せっつとんだ)で合流している。 |
【山崎の合戦】 |
6.13日(西暦7.2日)、本能寺の変から11日後のこの日、本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍が現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる天王山の麓山崎で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田勝入4千、中川清秀2千500、織田信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆ら8千の2万7千、但し4万の説もある)。これに対し明智軍1万7千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。圧倒的な兵力差にもかかわらず明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時、戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。秀吉は後に「山崎のこと、ひとつにかかって秀吉一個の覚悟にあり」と語っている。敗れた光秀は、勝龍寺城(しょうりゅうじじょう、京都府長岡京市)に入った。 同日深夜、夜にまぎれて間道を坂本城に逃れるべく、わずかの供廻り光秀主従十三騎が、坂本を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹薮で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる。深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる。享年55歳であったとされている。 6.14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋の桔梗(ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。 光秀の重臣・斉藤利光が捕まり、秀吉は、通常の斬首ではなく、身体を引き裂く「車裂(くるまざき)」という残虐な方法で処刑している。ちなみに斉藤利光の妻は長宗我部元親の妹である。この線で、明智と長宗我部が繋がっていた。この時、利光の娘・お福は4歳。その後、稲葉重通(いなばしげみち)の養女となる。家康は、天下を取ったその後、後に3代将軍となる家光の乳母に取り立てている。これが後の春日局であり、権勢を誇り江戸城大奥の礎を築いた。(「松のさかえ」という文書(江戸城紅葉山文庫)によれば、春日局のことを「家康の愛妾で三代将軍家光の実母」と記されている) 春日局は大奥で大出世し、果ては幕府をも動かす権力を握る。 安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形を敷く。 |
【安土城炎上】 |
6.14-15日、安土城は炎上した。放火犯人について諸説ある。明智光秀の娘婿秀満説、明智秀満が退去した後、安土に入った信長の次男織田信雄説、落ち武者狩りのために城下に入った農民放火説等々。奇妙なことにバテレン指図説がない。 |
【「明智の三日天下」】 |
6.15日、坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」。左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」。左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃した。 6.17日、光秀の首が本能寺に晒され明智の謀反はここに終わった。光秀の天下は12日間となった。これを世に「明智の三日天下」と云う。この年、天正遣欧使節が長崎を出航している。 この間の6.15日、準備を整えた徳川家康が明智光秀討伐のために出陣している。京へ向け軍を進めていた徳川家康は、尾張あたりまで来たところで羽柴秀吉が明智光秀を討ったという知らせを聞き撤退する。 |
【清洲城会議】 |
6.27日、清洲城にて織田家の後継者を決める会議が開かれる。織田家筆頭家老である柴田勝家が織田信長の三男の信孝を推し、羽柴秀吉が信長の嫡男の信忠の遺児である三法師(秀信)を推した。信長の次男の信雄は後継者争いに参入することができなかった。信長の四男の秀勝(幼名・於次/おつぐ)は秀吉に養子縁組されており信長の後継者争いの対象にはならなかった。 会議では、秀吉の明智光秀討伐における功績が大きく池田恒興、丹羽長秀が秀吉を支持した。信孝は神戸氏の養子に出ており織田家の後継者としての正当性は三法師のほうがあると諭されたこと、信孝を後見人にする(信孝が三法師を預かる)という妥協案が出された等の理由で勝家は秀吉案を了承せざるを得なかった。信長の重臣の一人だった滝川一益は、信長の死を聞きつけた北条が挙兵したためその対応に追われ出席できなかった。 清洲会議のあと、お市は勝家と再婚している。清洲城会議で、三法師が安土城に移動することに決まっていたが、織田信孝は柴田勝家と滝川一益を味方に引き入れると、これを無視し、三法師を清洲城に留め置いたままにした。10月、柴田勝家が滝川一益、織田信孝と組んで、柴田秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまく。10.15日、柴田秀吉は、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として信長の葬儀を行なう。 12.7日、羽柴秀吉が長浜城を急襲。城主である柴田勝豊は、叔父(または伯父)である柴田勝家の援軍が豪雪のため期待できないことから勝ち目なしとみて降伏した。12.9日、羽柴秀吉は柴田勝家討伐の動員令を発令。(勝家の本隊が雪のため越前から出てこれないと踏んでの挙兵だった)5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣。12.16日頃、織田信孝が岐阜城を秀吉軍に包囲された形になり、三法師を引き渡し和睦する。このとき、生母(坂氏)、妹、娘、側室(神戸の板御前)を人質として差し出す。 1583(天正11)年、1月、伊勢において、秀吉方と滝川一益が交戦。2.28日、柴田勝家の家臣の前田利家が出陣。3.9日、柴田勝家が3万の軍を率いて出陣。3.10日、柴田勝家軍の先鋒の佐久間盛政が北近江の柳ヶ瀬に着陣。3.17日、羽柴秀吉の本隊が北近江木之本に到着。4月半ば、柴田勝家優勢と見るや、織田信孝が岐阜で再び挙兵した。羽柴秀吉は本隊を率いて岐阜へ移動開始。4.20日、佐久間盛政が奇襲をかけ、大岩山を守っていた中川清秀隊を破る。清秀は討ち死にする。ついで岩崎山も占拠する。 |
【賤ヶ岳の戦い】 |
3月、秀吉軍は田上山に、勝家軍は越前国境の玄蕃尾に本陣を置き、それぞれ本陣を中心として一帯に陣城を築いた。秀吉軍は田上をはじめ大岩山砦、岩崎山砦、賤ヶ岳砦を築いて柴田軍と対峙した。
戦いは柴田軍の佐久間盛政が、中川清秀の守る大岩山砦を攻撃したことで火ぶたが切られた。盛政の猛攻撃に大岩山砦は全滅、さらに岩崎山砦も落ち、盛政は賤ヶ岳砦に迫った。大岩山、岩崎山の陥落を聞いた秀吉は、岐阜には織田信雄をあたらせ、本隊を木之本に戻す。52kmを5時間で移動するという驚愕の離れ業をやってのけ、盛政は撤退を余儀なくされた。羽柴軍は撤退する盛政軍を追撃、激しい戦いが展開されて盛政隊の殿である柴田勝政隊を敗走させた。勝家の家臣の前田利家隊が戦線から離脱する。勝家の与力大名だった金森長近と不和勝光の隊も戦線から離脱する。4.21日、柴田勝家軍が総退却し越前北の庄へと軍を退いた。4.22日、羽柴秀吉軍は柴田勝家軍を追って越前に侵入する。秀吉は越前府中城で前田利家と会見する。4.23日、秀吉軍(主力は前田利家隊と堀秀政隊)が北ノ庄城を包囲する。4.24日、柴田勝家は、お市の方(享年37)らとともに自害する。 4月後半、織田信孝が柴田勝家が北ノ庄城で自害したことを知らされ、織田信雄の説得のもと降伏する。人質として出されていた生母(坂氏)、妹、娘、側室(神戸の板御前)は処刑された。4.29日(もしくは5.2日)、織田信孝が更迭先の大御堂寺(愛知県美浜町)で自害する。享年26歳。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの功績を秀吉が無視したとし、信雄は秀吉との関係を絶った。 |
【大阪城築城】 |
8月、大阪城築城が大々的に開始された。近国の諸大名から人夫、木石などを数多く徴発し、堀、外郭、城門から始めて、内城、天守閣、大名屋敷といった順序で工事を進め、完成を見たのは凡そ1591(天正末)頃の事であった。大坂城は、施設の面から見ても信長の安土城を遙かに上回る大規模を誇っていた。七層九重の天守閣の高さで天下一を誇るだけに、石蔵(石垣)造りの内部が二重の倉庫にくぎられ、莫大な数量の弾薬・兵糧を蓄えた。本丸には、鉄の門・大中小の書院・五つの名物茶器座敷・黄金の茶室・寝所。西の丸には正妻や女中たちのいる奥御殿。二の丸、三の丸は側室の居所。山里の丸にはさびた数寄屋があった。 |
【小牧、長久手の戦い】 |
1584(天正12)年、3.8日、秀吉は堀尾吉晴に北伊勢出兵を命じた。3.10日、秀吉は大坂より入京。翌日近江の坂本に出陣した。3.13日、これに対抗するため信雄は信長の盟友であり秀吉と互角に戦える唯一の武将である徳川家康に援助を求めここに同盟が成立した。家康は盟友の遺児を援助するという大義名分のもとに、八方に檄を飛ばして反秀吉勢力の結集を図った。3.15日、家康は自ら八千の精兵を率いて北尾張の小牧山に堅固な本陣を構えた。3.17日、徳川軍の一部の急襲で尾張の羽黒砦を奪取された秀吉方の部将森長可が犬山城主の池田恒興と謀り、秀吉の甥の三好秀次を大将とし、家康の本拠三河を攻略しようとして尾張の長久手に至った。それを知った家康は、三好勢と同等の1万6千の兵を率いて三好勢を二つに分断し、急襲攻撃を仕掛け大勝を博した。長可と恒興は敗死し、その為に戦術的には家康が優位に立つかに見えた。3.27日、秀吉自ら3万余りの大軍を率いて犬山城に入った。まもなく小牧山を中心に両軍の主力が対峙した。秀吉軍の総兵力15万余に対して、徳川軍3万4千余、織田軍2万6千余、合わせて6万1千といわれる。秀吉は家康との全面的決戦の好機を狙いながら、美濃・伊勢方面における信雄の支城を陥れ、次第に反秀吉勢力を制圧し、徳川・織田連合軍を包囲する態勢を形成するとともに、しばしば講和戦略を家康方にもちかけた。しかし家康がその条件を受け入れなかったため、容易には成立しなかった。11.11日、秀吉は信雄と伊勢の矢田川原で会見し、有利な条件で単独講和を結んだ。12.12日、織田信雄が羽柴秀吉と和睦してしまったことで大義名分を失った徳川家康は、秀吉に人質として次男の於義丸(のちの結城秀康)を差し出すことで和睦。三河の岡崎に帰還し、戦いは終結した。 1585(天正13)年、羽柴秀勝が亀山城で病死。享年18歳。秀勝は1582年(天正10年)の高松城の水攻めから参戦していて、その戦姿は賞賛されるほどの雄姿だった。 |
【羽柴秀吉、関白になる】 |
藤原五摂家の筆頭に当たる近衛前久が関白太政大臣の職を辞め、これに代わって同じ五摂家の一家である二条昭実が関白に就任しようとした。すると、前久の子信輔(信尹)が筆頭の家柄を主張し、昭実を退けて、自分がこれに代わろうとした。しかし昭実も信輔がその父の前久と仲の悪い弱点を知っているため、信輔に関関白職を譲ろうとせず、互いに争っていた。この様子を見て取った右大臣・菊亭晴季は好機逸すべからず、前久を説得し、秀吉を前久の猶子として、関白職を譲らせた。「関白を五摂家で廻り持ちするとは、おかしな話だ。五摂家、五摂家と空威張したとて、一在所さえ切り従えられぬ五摂家などよりも、現に一国々々と国をば切り従えている、この秀吉の方が、どれだけましだか分からぬ。だから関白職を預かった次第である」。7.11日、秀吉は、関白の顕職に就任した。最高官位に上ることで織田家の一族旧臣や徳川家康などの諸国大名まで臣従させることになった。 |