履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)」を確認する。「ウィキペディア織田信長」、「信長概略年表」、「」その他を参照する。 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)】 |
【光秀に徳川家康接待役を命じる】 |
1582(天正10)年、49歳の時、5月の初め、織田信長の招きで徳川家康が上洛することになった。その宿所を大宝院と定め明智光秀に接待役を命じた。光秀は大任を喜び、大宝院に仮の御殴を造り、壁に絵を飾り、柱に彫刻を施し、庭に珍しい草花を植えるなど準備を整え、四方の番所や道の警回に万全を期した。 しかし、その様子を知った信長は光秀を呼び出して言った。 「こんどの接待を何と心得ているのか。賛沢の限りを尽くすとは不届きだ。関東の上客に、これほどのことをすれば、京都の朝廷から勅使を迎える時には、どうするつもりだ」。 光秀は満座の中で恥をかかされ、怒りを顔に現した。すると、信長は言った。 「誤りを反省しないのか。誰か、光秀の頭を打て」 。周りの者たちは顔を見合わせるだけのサマを見て、小姓の森蘭丸(森成利)が立ち、光秀のそばに寄り、 「ご上意でござる」 と言って鉄扇で打った。光秀の鳥帽子は破れ、額に血が流れた。光秀は屈辱に耐えながら信長の前を退いたとの逸話がある。 |
【信長の神格化】 |
5.12日、信長は自身の誕生日に神格化宣言を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを“冒涜的な欲望”と記している。具体的には、安土城内に巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、信長を拝めと朝廷にも命じている。その上、総見寺に信長信仰の御利益や功徳を記した木札を掲げさせた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。 |
【徳川家康が元武田家の重臣・穴山梅雪(信君)の一行と共に安土城を訪れる】 |
5.15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が元武田家の重臣・穴山梅雪(信君)の一行と共に安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。接待役を命じられていた明智光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。5.17日、家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より、「備中高松城の水攻めの最中に毛利の援軍がやって来た。援軍を送ってほしい」旨の知らせを受けた。現在戦闘中の岡山・高松城の救援に毛利の大軍が上って来るという知らせだった。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。明智光秀配下の大名として細川忠興(丹後田辺城主)、筒井順慶(大和郡山城主)、池田恒興(摂津有岡城主)、中川清秀(摂津茨木城主)、高山右近(摂津高槻城主)らを任命した。 5.21日、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、近江(坂本)などの領地を召し上げ、代わりに未だ毛利の所領の出雲、石見を与える」というものだった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫~滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよと云う国替え御沙汰であった。この日、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した家康の一行が京都へ出発している。
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【光秀の愛宕権現参詣】 |
5.26日、明智光秀は、近江坂本城から丹波亀山城(亀岡市)に移った。5.28日、光秀は愛宕山の愛宕権現(愛宕神社)に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、京都から連歌師の里村紹巴らを招き西坊威徳院で百韻の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。「時は今 雨が下(した)しる 五月哉」。(“時”は明智の本家“土岐”。“雨”は天(あめ)。つまり土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」)。これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐「水上まさる、庭の松山(なつ山)」。(“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)。連歌界の第一人者である里村紹巴「花落つる、流れの末をせきとめて」。(“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい)。光秀の旧知の大善院宥源「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」。(信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ))。この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。連歌百韻が終わると、光秀はこれらの歌を神前に納める。
これには後日談がある。常山紀談によると、光秀を討った後、秀吉が連歌師の紹巳を呼んで尋ねている。「天が下知る″時″というのは天下を奪う心の表れだ。そなたは知っておったのであろう」。紹巳は弁解した。「この発句は、天が下なる、でありました」。秀吉は追及した。 「それならば、その懐紙を見せよ」。ということで愛宕山から懐紙が取り寄せられた。そこには、 「天が下しる」とあった。紹巴は落涙しながら言った。「ご覧下さい、懐紙が削られています。″天が下しる″と書き換えられた跡がはっきりしています」。たしかに書き換えた痕があると秀吉は紹巴を許した。 さて問題の懐紙は、連歌の当日、書き付け役の江村鶴松が"天が下しる"と書き留めたが、光秀が討たれたあと、紹巴がひそかに西坊と心を合わせ、″しる″の部分を一度削って、また、その上に初めのように"しる"と書いたと云う。 5.29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓(近習)が30人、わずか180名のみで京都・本能寺(四条西洞院)へ入る。この日、家康の一行が京都から堺へ向かっている。嫡子織田信忠は妙覚寺に滞在していた。 5.30日、京都から堺に移動した徳川家康は、堺の浦を遊覧するなど、堺見物を堪能している。 |
【信長一行が本能寺に到着】 |
5.29日、わずかの供廻りを従えた信長一行が本能寺に到着。本能寺は、1415(応永22)年、日隆聖人が「本応寺」を開基し、後に「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺&本能寺という寺名にした法華宗本門流の大本山である。「法華経の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない」と述べ法華経を根本義とする日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場になっている。 当時の本能寺は、現在の本能寺がある場所(京都市中京区下本能寺前町)とは異なり、現在の二条城の南西、今の本能寺からは西に1キロメートルあまりの四条坊門西洞院(京都市中京区元本能寺南町)にあり、信長によって城砦化されていた。発掘によって、旧本能寺は一町(約109m)四方の規模(「東西140メートル、南北270メートル」の広大な敷地を有していた)であったことが確かめられている。 6月1日、当時の三大茶器の2つを所有していた信長がこの日、本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室や神谷宗湛らを招いて、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうという申し合わせになっていた。京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れ大茶会が催された。信長は、信長は大量の名物茶器を持ち込み勅使、公家、堺衆らに名物の茶器や絵画などを披露した。 夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。ウソかまことか、この時、三劫無勝負の珍しい形ができていると云う。算砂らが帰った後、本能寺は信長、小姓、護衛の一部の約100人ほどが警護するばかりであった。 |
【明智光秀謀反、本能寺の変】 | ||||
同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。決行は今しかないとして血判状で誓っている。
6.2日(西暦6.21日)早朝、明智軍1万3千が羽柴秀吉の毛利征伐の支援に向けて出陣した。途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれ、光秀軍1万3千が信長が宿泊していた京都の本能寺を包囲した。前列には鉄砲隊がズラリと並び、午前6時頃、一斉射撃が始まった。イエズス会日本年報は次のように記している。
信長は、「これは謀叛か、いかなる者の企てぞ」と叫ぶと、森蘭丸が「明智が者と見え申し候」と報告すると、信長は「是非に及ばず」と述べたと伝えられている。信長側は近習小姓の100人足らずで闘い、信長は弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取り奮戦したが、腕に弾創を受けて最後は炎上する本能寺の奥の間に入り自害した。享年49歳(満48歳没)。 その後、明智軍の別働隊が二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。信忠享年26歳。イエズス会日本年報は、この時の状況を次のように記している。
こうして、6.2日午前9時、明智光秀による織田信長・織田信忠父子暗殺が終わった。こうして、光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために謀反人(反逆者)として歴史に名を残すことになった。 また津田信澄(信長の弟織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、大坂で織田信孝らに討たれた。信長の13歳下の弟・織田有楽斎(長益、ながまさ)は妙覚寺に滞在しており、信忠らが二条城に移動したときも行動を共にしているが脱出した。その後、安土へ向かい、その足で岐阜まで逃げている。織田長益はその後も生き延びて信雄~秀吉に仕えた。その後、出家し有楽斎如庵と名乗った。茶の道は千利休に学んだらしい。家康にも通じていたらしく、家康から江戸の数寄屋橋門外に屋敷を与えられ、その屋敷跡地に有楽町という名が残されたという説がある。前田玄以は、信忠の命令で信忠の嫡男の三法師を引きつれて京を脱出し岐阜城へ、そして清洲城まで逃げている。 赤鬼総見院殿贈大相国一品泰巌大居士、天徳院殿龍厳雲公大居士、天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門本能寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院阿弥陀寺。 10.9日、従一位太政大臣を贈位贈官される(大徳寺文書)。「総見院文書」の「織田信長贈太政大臣従一位宣命」は次の通り。
1917(大正6)年、11.17日、正一位を贈位。2007(平成19)年、本能寺跡の発掘調査で本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。 |
北國新聞朝刊(2002/04/09付)「~ 本能寺の変 ~京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た」。
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ルイス・フロイスは、本能寺の変を「信長の大いなる慢心による」と表現している。明智光秀は備中攻めの羽柴秀吉の援軍として進軍中に、京都郊外の老坂(おいのさか)で進路を本能寺に変えた。が、西への援軍は明智光秀だけではなかった。高山右近、筒井順慶(じゅんけい)ら近畿の諸大名たちも一斉に備中へ向けて軍を進めていた。高槻城を出た右近は大阪付近にまで進んでいた。城はほとんど空っぽで、京を制した明智軍は、いったん南に向かい、高槻城に入り、京の伴天連たちをむりやり動員して右近説得にとりかかった。宣教師は、日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送っている。日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語では「謀叛に加担することなきように」とあったという。この話で右近がポルトガル語を読めた数少ない日本人だったことが分る。右近は、大阪から急ぎ高槻城へ帰り城を固めた。秀吉が「大返し」で備中から取って返す報が入ると、西宮まで出向いて合流、山崎の合戦へ態勢を整えている。前田利長は当時21歳。信長の娘・永姫を妻とする利長は、信長に誘われて安土から妻ともども京に向かっていた。琵琶湖にかかる瀬田の唐橋手前で岳父・信長の死を知った。「京のほうから走り来るものあり、何者とみると、信長公の草履取(ぞうりとり)…」などと「可観小説」には詳しい。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。 |
「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」参照。
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【信長の遺体】 | ||
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。イエズス会日本年報は次のように記している。
信長の遺体が火薬により爆散させられたことを裏証言していることになる。但し、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来弥助がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、消息不明となったと云う(これもオカシな話しである)。 儒学者の小瀬甫庵が書いた信長記には次のように書かれている。
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伊豆の近くの冨士郡芝川町の日蓮宗西山本門寺の信長の首が埋葬されていると云う。寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守宗安が、本因坊算砂(日海上人)の指示により、この寺に運んで供養したと云う。変の前夜に当日、信長の御前で、算砂と鹿塩利賢が囲碁対局し、算砂は翌朝まで本能寺に留まっていたところ戦乱に巻き込まれ、信長の死を知り、旧知の原志摩守宗安に西山本門寺まで首を運ぶよう命じたと云う。(安部龍太郎「信長はなぜ葬られたのか」44p参照) | ||
織田信長の遺体はなぜ本能寺の焼け跡から見つからなかったのか。考えうるのは、誰かが本能寺の外に運んだか、もしくは遺体が完全に灰燼に帰したかである。本能寺から信長の遺体が運ばれたという話も存在する。世に信長の墓とよばれるものは数多く存在している。但し確実なものはない。秀吉が信長の公式的な墓所とした大徳寺の総見院でさえ、木像を焼いた灰を遺灰の代わりとしていたくらいである。そんな状況のなか、信長の遺体を埋葬したという寺伝をもつ寺院が二つ存在する。
一つは、京都にある浄土宗の阿弥陀寺である。本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、信長の遺骸を運び込み、埋葬したという。実際、境内には「織田信長信忠討死衆墓所」がある。文字通り、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われている。当時、僧侶は俗世とは無縁の存在とみなされていたから、清玉上人が本能寺に入ることは認められたろう。ただし、実際に信長の遺体が埋葬されているのかどうかは、わからない。いくら世俗と無縁だからといっても、信長の遺体を運び出すことは、光秀に認められるはずもないからである。それに、もし遺体が確かに埋葬されていれば、豊臣秀吉がわざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要もなかったろう。信長ゆかりの人物の墓所にもなっていることからすると、本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集め、信長・信忠父子をはじめとする「討死衆」として供養したものかもしれない。 もう一つの寺院は、京都から遠く離れた駿河国(静岡県)にある日蓮宗の西山本門寺である。この西山本門寺の第18世日順上人の父が原宗安という武士で、この原宗安が関係しているのだとされる。本能寺の変の前夜、実は本能寺において日蓮宗の僧侶である日海上人が鹿塩利賢と囲碁の対局を行っていた。ちなみに、日海上人は、のちに本因坊算砂とよばれる囲碁の名手であり、原宗安は、この日海上人に従っていたものかもしれない。本能寺の変で信長が自害したのち、原宗安は日海上人に託され、信長の首を密かに本能寺から持ち出し、本門寺に埋葬したのだという。その場所には柊が植えられたとされ、その柊は静岡県の天然記念物に指定されるほど歴史を感じさせる。ただ、駿河国は徳川家康の領国である。京都から駿河国に行くまでには、信長の本国である尾張国(愛知県)を通るわけで、信長の嫡男信忠は自害していても、信長の一族や家臣に渡すこともできたろう。あえて遠くの駿河国まで運んだ理由が定かではない。
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【妻子考】 |
妻は正室が濃姫(斎藤道三の娘)。側室は、生駒吉乃(生駒家宗の娘、織田信忠と信雄と徳姫の母)、興雲院(お鍋の方、織田信吉と信高と於振の母)、原田直子(織田信政の母)、坂氏(織田信孝の母)、養観院(羽柴秀勝の母)、土方氏(織田信貞の母)、慈德院(織田信忠の乳母・三の丸の母)、あここの方(三条西氏)。 |