履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)



 更新日/2019(平成31).1.19日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)」を確認する。「ウィキペディア織田信長」、「信長概略年表」、「」その他を参照する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


【履歴考4(光秀の謀反から本能寺の変まで)】

【光秀に徳川家康接待役を命じる】 
 1582(天正10)年、49歳の時、5月の初め、織田信長の招きで徳川家康が上洛することになった。その宿所を大宝院と定め明智光秀に接待役を命じた。光秀は大任を喜び、大宝院に仮の御殴を造り、壁に絵を飾り、柱に彫刻を施し、庭に珍しい草花を植えるなど準備を整え、四方の番所や道の警回に万全を期した。 しかし、その様子を知った信長は光秀を呼び出して言った。 「こんどの接待を何と心得ているのか。賛沢の限りを尽くすとは不届きだ。関東の上客に、これほどのことをすれば、京都の朝廷から勅使を迎える時には、どうするつもりだ」。 光秀は満座の中で恥をかかされ、怒りを顔に現した。すると、信長は言った。 「誤りを反省しないのか。誰か、光秀の頭を打て」 。周りの者たちは顔を見合わせるだけのサマを見て、小姓の森蘭丸(森成利)が立ち、光秀のそばに寄り、 「ご上意でござる」 と言って鉄扇で打った。光秀の鳥帽子は破れ、額に血が流れた。光秀は屈辱に耐えながら信長の前を退いたとの逸話がある。

【信長の神格化】 
 5.12日、信長は自身の誕生日に神格化宣言を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを“冒涜的な欲望”と記している。具体的には、安土城内に巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、信長を拝めと朝廷にも命じている。その上、総見寺に信長信仰の御利益や功徳を記した木札を掲げさせた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。

【徳川家康が元武田家の重臣・穴山梅雪(信君)の一行と共に安土城を訪れる】
 5.15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が元武田家の重臣・穴山梅雪(信君)の一行と共に安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。接待役を命じられていた明智光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。5.17日、家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より、「備中高松城の水攻めの最中に毛利の援軍がやって来た。援軍を送ってほしい」旨の知らせを受けた。現在戦闘中の岡山・高松城の救援に毛利の大軍が上って来るという知らせだった。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。明智光秀配下の大名として細川忠興(丹後田辺城主)、筒井順慶(大和郡山城主)、池田恒興(摂津有岡城主)、中川清秀(摂津茨木城主)、高山右近(摂津高槻城主)らを任命した。

 5.21日、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、近江(坂本)などの領地を召し上げ、代わりに未だ毛利の所領の出雲、石見を与える」というものだった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫~滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよと云う国替え御沙汰であった。この日、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した家康の一行が京都へ出発している。

【光秀の愛宕権現参詣】
 5.26日、明智光秀は、近江坂本城から丹波亀山城(亀岡市)に移った。5.28日、光秀は愛宕山の愛宕権現(愛宕神社)に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、京都から連歌師の里村紹巴らを招き西坊威徳院で百韻の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。「時は今 雨が下(した)しる 五月哉」。(“時”は明智の本家“土岐”。“雨”は天(あめ)。つまり土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」)。これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐「水上まさる、庭の松山(なつ山)」。(“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)。連歌界の第一人者である里村紹巴「花落つる、流れの末をせきとめて」。(“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい)。光秀の旧知の大善院宥源「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」。(信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ))。この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。連歌百韻が終わると、光秀はこれらの歌を神前に納める。

 これには後日談がある。常山紀談によると、光秀を討った後、秀吉が連歌師の紹巳を呼んで尋ねている。「天が下知る″時″というのは天下を奪う心の表れだ。そなたは知っておったのであろう」。紹巳は弁解した。「この発句は、天が下なる、でありました」。秀吉は追及した。 「それならば、その懐紙を見せよ」。ということで愛宕山から懐紙が取り寄せられた。そこには、 「天が下しる」とあった。紹巴は落涙しながら言った。「ご覧下さい、懐紙が削られています。″天が下しる″と書き換えられた跡がはっきりしています」。たしかに書き換えた痕があると秀吉は紹巴を許した。 さて問題の懐紙は、連歌の当日、書き付け役の江村鶴松が"天が下しる"と書き留めたが、光秀が討たれたあと、紹巴がひそかに西坊と心を合わせ、″しる″の部分を一度削って、また、その上に初めのように"しる"と書いたと云う。

 5.29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓(近習)が30人、わずか180名のみで京都・本能寺(四条西洞院)へ入る。この日、家康の一行が京都から堺へ向かっている。嫡子織田信忠は妙覚寺に滞在していた。

 5.30日、京都から堺に移動した徳川家康は、堺の浦を遊覧するなど、堺見物を堪能している。

【信長一行が本能寺に到着】
 5.29日、わずかの供廻りを従えた信長一行が本能寺に到着。本能寺は、1415(応永22)年、日隆聖人が「本応寺」を開基し、後に「門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺&本能寺という寺名にした法華宗本門流の大本山である。「法華経の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない」と述べ法華経を根本義とする日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場になっている。

 当時の本能寺は、現在の本能寺がある場所(京都市中京区下本能寺前町)とは異なり、現在の二条城の南西、今の本能寺からは西に1キロメートルあまりの四条坊門西洞院(京都市中京区元本能寺南町)にあり、信長によって城砦化されていた。発掘によって、旧本能寺は一町(約109m)四方の規模(「東西140メートル、南北270メートル」の広大な敷地を有していた)であったことが確かめられている。

 6月1日、当時の三大茶器の2つを所有していた信長がこの日、本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室や神谷宗湛らを招いて、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうという申し合わせになっていた。京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れ大茶会が催された。信長は、信長は大量の名物茶器を持ち込み勅使、公家、堺衆らに名物の茶器や絵画などを披露した。

 夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。ウソかまことか、この時、三劫無勝負の珍しい形ができていると云う。算砂らが帰った後、本能寺は信長、小姓、護衛の一部の約100人ほどが警護するばかりであった。

【明智光秀謀反、本能寺の変】
 同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。決行は今しかないとして血判状で誓っている。

 6.2日(西暦6.21日)早朝、明智軍1万3千が羽柴秀吉の毛利征伐の支援に向けて出陣した。途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれ、光秀軍1万3千が信長が宿泊していた京都の本能寺を包囲した。前列には鉄砲隊がズラリと並び、午前6時頃、一斉射撃が始まった。イエズス会日本年報は次のように記している。
 「宮殿の前で騒が起り…銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た」。

 信長は、「これは謀叛か、いかなる者の企てぞ」と叫ぶと、森蘭丸が「明智が者と見え申し候」と報告すると、信長は「是非に及ばず」と述べたと伝えられている。信長側は近習小姓の100人足らずで闘い、信長は弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取り奮戦したが、腕に弾創を受けて最後は炎上する本能寺の奥の間に入り自害した。享年49歳(満48歳没)。 

 その後、明智軍の別働隊が二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。信忠享年26歳。イエズス会日本年報は、この時の状況を次のように記している。
 「信忠は、内裏の御子の居(二條御所)に赴いた。…内裏の御子(誠仁親王)はかくの如き客を迎へて甚だ当惑され、…上の都の内裏の宮殿(上御所、禁裏)に向はれた。…信忠はよく戦ひ、弾創、矢傷を多く受け、…焼死者の中にあった」。

 こうして、6.2日午前9時、明智光秀による織田信長・織田信忠父子暗殺が終わった。こうして、光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために謀反人(反逆者)として歴史に名を残すことになった。

 また津田信澄(信長の弟織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、大坂で織田信孝らに討たれた。信長の13歳下の弟・織田有楽斎(長益、ながまさ)は妙覚寺に滞在しており、信忠らが二条城に移動したときも行動を共にしているが脱出した。その後、安土へ向かい、その足で岐阜まで逃げている。織田長益はその後も生き延びて信雄~秀吉に仕えた。その後、出家し有楽斎如庵と名乗った。茶の道は千利休に学んだらしい。家康にも通じていたらしく、家康から江戸の数寄屋橋門外に屋敷を与えられ、その屋敷跡地に有楽町という名が残されたという説がある。前田玄以は、信忠の命令で信忠の嫡男の三法師を引きつれて京を脱出し岐阜城へ、そして清洲城まで逃げている。

 赤鬼総見院殿贈大相国一品泰巌大居士、天徳院殿龍厳雲公大居士、天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門本能寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院阿弥陀寺。

 10.9日、従一位太政大臣を贈位贈官される(大徳寺文書)。「総見院文書」の「織田信長贈太政大臣従一位宣命」は次の通り。
(原文)「天皇我詔旨良万止、故右大臣正二位平朝臣信長爾、詔倍止勅命乎衆聞食止宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德須、允惟朝乃重臣、中興乃良士奈利止、慮志爾不量爾天運相極氐、性命空逝奴、昨者旌旗乎輝東海志、今者晏駕乎馳西雲須、爰贈崇號氐、照冥路古止者、先王之令典、歷代之恆規多利、故是以重而太政大臣從一位爾、上給比治賜布天皇我勅命乎、遠聞食止宣 天正十年十月九日
(訓読文)「天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(たま)へと勅命(のたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る。一人(いちにん)扶翼の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おも)ほしめししに、量(はか)らざるに天運相極(きはま)りて、性(生)命空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典、歴代の恒規たり、故是(かれここ)を以(もち)て重ねて太政大臣従一位に上給(のぼせたま)ひ治め賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はるか)に聞食さへと宣る。天正10年(1582年)10月9日」

 1917(大正6)年、11.17日、正一位を贈位。2007(平成19)年、本能寺跡の発掘調査で本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。

 北國新聞朝刊(2002/04/09付)「~ 本能寺の変 ~京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た」。
 天正10年4月、日本の上空に大きな彗星が現れた。その年に書かれた「日本イエズス会年報」によると、宣教師たちは何か恐ろしいことが起きる前兆ではないか心配したという。恐れは現実となった。本能寺からわずか一町(約110メートル)東に南蛮寺があった。高山右近が設計から資材集めにまで骨を折ったキリシタンの“城”である。本能寺の変を書き残した国内資料はいくつもあるようだが、この南蛮寺にいた外国人宣教師たちの報告書が最も生々しいと言われている。キリシタン資料の多くを翻訳した松田毅一氏(1921―1997)の著書「南蛮資料の発見」に以下のように「本能寺の変」目撃録を訳している。

 要約概要「その朝、南蛮寺では早朝のミサの準備をしていた。本能寺の門前での騒ぎに気付く。単なる喧嘩ではない。明智が信長の敵となり信長を包囲したと第一報。やがて、内部には謀叛を疑う気配はなく若い武士と茶坊主と女たち以外はなく、抵抗するものはいなかったと詳細な中身が伝わる。ちょうど手と顔を洗い終えて手拭いで身体をふいている信長に矢が放たれた。信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍(ながやり)である薙刀(なぎなた)という武器を手にしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じそこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った」。

 「信長公記(しんちょうこうき)」は「信長が手にしたのは弓で、ツルが切れるまで矢を放ち続けた」と記している。信長の長男の信忠は本能寺近くに陣を張っていたが、この朝、父とともに明智軍に殺されている。
 ルイス・フロイスは、本能寺の変を「信長の大いなる慢心による」と表現している。明智光秀は備中攻めの羽柴秀吉の援軍として進軍中に、京都郊外の老坂(おいのさか)で進路を本能寺に変えた。が、西への援軍は明智光秀だけではなかった。高山右近、筒井順慶(じゅんけい)ら近畿の諸大名たちも一斉に備中へ向けて軍を進めていた。高槻城を出た右近は大阪付近にまで進んでいた。城はほとんど空っぽで、京を制した明智軍は、いったん南に向かい、高槻城に入り、京の伴天連たちをむりやり動員して右近説得にとりかかった。宣教師は、日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送っている。日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語では「謀叛に加担することなきように」とあったという。この話で右近がポルトガル語を読めた数少ない日本人だったことが分る。右近は、大阪から急ぎ高槻城へ帰り城を固めた。秀吉が「大返し」で備中から取って返す報が入ると、西宮まで出向いて合流、山崎の合戦へ態勢を整えている。前田利長は当時21歳。信長の娘・永姫を妻とする利長は、信長に誘われて安土から妻ともども京に向かっていた。琵琶湖にかかる瀬田の唐橋手前で岳父・信長の死を知った。「京のほうから走り来るものあり、何者とみると、信長公の草履取(ぞうりとり)…」などと「可観小説」には詳しい。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。

 「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」参照。
 「フロイスの日本史によると、(明智軍は)安土城を襲い、天守から財宝、茶器、豪華な品々を根こそぎ奪い、守備の武将を残したが、五畿内編Ⅲにこう書いている。『明智光秀が津の国で惨敗した知らせを聞くと武将は、安土に放火することなく急遽坂本城に退却する。雑兵は主人を失なうと、捨て置かれたと怒って暴徒と化し掠奪に狂奔した。しかしデウスは信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、付近にいた信長の子/御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何らの理由もなく邸と城を焼き払うように命ずることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したのでその大部分は焼失してしまった』、『秀吉の軍勢は津、美濃、尾張の国に向い、明智に加担した者は一人残らず生命を奪われた。諸説が一致しているところでは、かのわずかの日々に既に一万人以上が殺されたらしい』。

 ほとんどの大名は本丸が住居だが、天守閣を住居にしたのは信長のみだった。安土桃山城の本丸御殿は天皇が住む清涼殿と同じ平面を持っていた。天皇を迎える為に造られたと云うが、標高180mの安土山の麓から頂に築城された平城であった。北側に琵琶湖が眺望できた。かって、1580(天正8)年、安土城で多数の家臣を同席させ、宣教師のオルガンチーノとその弟子ロレンソ(盲目の日本人の琵琶師)と3時間にわたり宗教論議をした。その後、二人を別室に招き、以前、宣教師が献上した地球儀を前にヨーロッパから日本に至る道程を示させ、『この如き旅は大いなる勇気と強気心あるものにあらざれば実行すること能わず』。その後に『汝らがこの如く多数の危険と海洋を超えるは、或は盗賊にして何かを得んと欲するか、或は説かんとする所重要なるに因るか』。

 信長は記録に残るだけでも、1569(永禄12)年、フロイスとの最初の会見以来、他の宣教師を含めて14年間に31回以上会見した。彼はキリスト教の教義や科学知識に興味を持ち、彼等と議論を好んだ。しかし帰依することはなかった。オルガンチーノは、『ご尤もである。何故なら我らは盗賊にして、日本人の魂を心の悪魔の手より奪いて、その造り主の手に渡さんが為に来れるなり』とのみ答え平伏した。

 スペインは大西洋を横断し西回りにアジアに至ろうとコロンブスの船団を派遣し米大陸を発見、騎馬隊を送り込み中南米を席巻した。一方、ポルトガルは、当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る地域はオスマン=トルコが支配して、インドや東南アジアの交易独占していたので、アフリカ大陸を迂回しアジアに至る交易ルートを開拓しようと腐心した。その特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5世の勅書により認められていた。勅書は、【征服した土地の所有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、修道院、教会等の宗教施設を建てることができ、非キリスト教徒を永久に奴隷状態に置くことができる】と認(したた)めており、植民地支配を教皇の権威により正当化していた。東回りのポルトガルと西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球を二分割して両国の支配を許す勅許を与えた。しかしその解決上の問題で地球の反対の地域で両国勢力圏が重なりあう部分ができたが、そこに日本があった。

 日本に最初に到着したのは、1549(天文18)年、F・ザビエルである。彼は日本を強力なキリスト教国家にして葡萄牙(ポルトガル)の支配下に置こうとした。一方、西班牙(スペイン)は1565年、フイリッピンのルソンを実力支配し中国、日本に触手を伸ばす。是が非でも早くポルトガルは日本を意の儘にする為、九州大名の大村純忠、大友宗麟、有馬晴信を手なずけた。切支丹来朝実記に信長は心境を語る。『バテレン方より、便毎に今年は日本人何千人か勤め、今年は何万人勤め入ると台帳に記して南蛮に渡すとか。宣教師が貧民病者を慈しみ、なおこれ等の妻子眷属に一人前、金一銭ずつ與ふる等、弓矢を不用して日本を随さんと謀り事、しかるに信長、南蛮寺の取沙汰あやしき宗門の様子を聞き、心の内には後悔しける』。さらに、実記に、信長は、前田徳善院玄以なる仏僧に、『自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し、宣教師を本国に返そうと思うがどうか』と諮問している。『もし、そのようなことをすれば忽ち一揆が起こることは間違いありません』と答えている。信長は今迄、宣教師を保護してきた政策を、『我、一生の不覚なり』と漏らした。ポルトガル商人が日本に齎したものは白糸や絹織物であった。贅沢品だが殆ど中国産品でポルトガル原産品ではなく、その役割は日中間の中継貿易だった。16世紀から17世紀にかけて日本では銀の産出量は世界の30%を占めていて新大陸の銀と共に重きをなしていた。極東の辺鄙な地を狙ったのもそこである。既にアジアでは明国とイスラムの二大商業圏があり葡、西、蘭、英、仏が食指を動かしたが、教皇の勅許を持つポルトガルが布教を先兵にやって来て大名に食い込んだ訳である。英はインド植民地と仏との対立に神経を殺がれていた。信長は新しいもの好きで服装も南蛮物を好み、黒人を傍に侍らす程で地球儀で世界地図で唐、印度の先の国も宣教師に尋ね理解してた。しかし、思ったより宣教師がかなりの戦国大名に食い込んでいるのを知り、愕然とした。

 旗振り役は高山右近と大村純忠で、大友義鎮、有馬晴信、小西行長、右近の影響で牧村正春、蒲生氏郷、黒田考高も信徒となった。細川忠興と前田利家も列なっていた。秀吉はどうか。秀吉は結局、信徒にはならなかった。彼のことをフロイスはこう書く。『ロレンソ修道士は古参だが、五畿内のすべての諸候に知られており自由闊達に語らった。羽柴秀吉と過日、長時間談話に耽った。その対談中、冗談半分、ロレンソ修道士に対して、“もし、バテレンらが予に多くの女を侍らすことを許可するなら、予はキリシタンになるだろう”。修道士はからかい半分に、“殿下、私が許して進ぜましょう。キリシタンにおなり遊ばすが良い。何故なら殿だけがキリシタンの教えを守らず地獄に行かれることになりましても、殿が信徒になられることにより、大勢の人がキリシタンなり救われるからでございます”と言った。秀吉は大声を発して笑い満足げであった』(豊臣秀吉篇Ⅰ)註※1。

 信長の死の犯人がイエズス教会黒幕説もある。信長はそれ程対策に苦慮していた。信長の死後の1587(天正15)年、秀吉はイエズス教会の宣教師コエリュと問答してる。日本人を奴隷としてポルトガル人が国外に連れ出している事実を詰問した。それに対し、その事実をコエリュは認め、『ポルトガルが買うのは日本人が売るからである』と答えている。フロイスの日本史は私の持つのは10冊であるが、奴隷を本国に齎す事や、中国人を買い北米その他に売りつけることは公然の秘密であり、逃亡した奴隷達が外地で日本人町、倭冦になり暴れまわる事、中国人が華僑に保護されていることを知ってたが、一言も具合悪いからか触れてない。彼らの恥部だったのかも知れぬ。この奴隷の海外での悲惨さに対して、家康が、ポルトガルを駆逐した後鎖国中であったが、本国帰還する手立てを模索している。この点は、後で機会をみて書きたい。

 註※1。羽柴秀吉は大阪城に夥しい婦女子をかかえていた。彼女達の約50名は織田信長とその息子なる貴公子がかって有していた人達でいずれも武将や貴人の娘であり、大いに寵愛され尊敬されていたが、これらの婦人達は秀吉夫人おね、北の政所の優位をみとめていた。秀吉の側室は十六人と言われ浅井長政の娘の淀殿。京極高吉の娘の松の丸殿。蒲生賢秀の娘の三条殿。前田利家の娘の加賀殿。織田信長の娘の三の丸殿。織田信包の娘の姫路殿他であり、好色な殿下をフロイスは軽蔑嫌悪し書いている。信長は側室名に敢えて、台所用具の名を付けていたというが、省略する。

【信長の遺体】
 光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。イエズス会日本年報は次のように記している。
 「諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」。

 信長の遺体が火薬により爆散させられたことを裏証言していることになる。但し、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来弥助がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、消息不明となったと云う(これもオカシな話しである)。
 

 儒学者の小瀬甫庵が書いた信長記には次のように書かれている。
 「(本能寺を占拠した光秀が信長の)「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり」」。
 伊豆の近くの冨士郡芝川町の日蓮宗西山本門寺の信長の首が埋葬されていると云う。寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守宗安が、本因坊算砂(日海上人)の指示により、この寺に運んで供養したと云う。変の前夜に当日、信長の御前で、算砂と鹿塩利賢が囲碁対局し、算砂は翌朝まで本能寺に留まっていたところ戦乱に巻き込まれ、信長の死を知り、旧知の原志摩守宗安に西山本門寺まで首を運ぶよう命じたと云う。(安部龍太郎「信長はなぜ葬られたのか」44p参照)
 織田信長の遺体はなぜ本能寺の焼け跡から見つからなかったのか。考えうるのは、誰かが本能寺の外に運んだか、もしくは遺体が完全に灰燼に帰したかである。本能寺から信長の遺体が運ばれたという話も存在する。世に信長の墓とよばれるものは数多く存在している。但し確実なものはない。秀吉が信長の公式的な墓所とした大徳寺の総見院でさえ、木像を焼いた灰を遺灰の代わりとしていたくらいである。そんな状況のなか、信長の遺体を埋葬したという寺伝をもつ寺院が二つ存在する。

 一つは、京都にある浄土宗の阿弥陀寺である。本能寺の変の直後、信長とかねてから親交のあった阿弥陀寺の清玉上人が、信長の遺骸を運び込み、埋葬したという。実際、境内には「織田信長信忠討死衆墓所」がある。文字通り、信長だけでなく、子の信忠や家臣の森蘭丸など、一連の戦いで討ち死にした人々が弔われている。当時、僧侶は俗世とは無縁の存在とみなされていたから、清玉上人が本能寺に入ることは認められたろう。ただし、実際に信長の遺体が埋葬されているのかどうかは、わからない。いくら世俗と無縁だからといっても、信長の遺体を運び出すことは、光秀に認められるはずもないからである。それに、もし遺体が確かに埋葬されていれば、豊臣秀吉がわざわざ信長の木像を焼いて遺灰代わりにする必要もなかったろう。信長ゆかりの人物の墓所にもなっていることからすると、本能寺や妙覚寺で見つかった遺骨を集め、信長・信忠父子をはじめとする「討死衆」として供養したものかもしれない。


【妻子考】
 妻は正室が濃姫(斎藤道三の娘)。側室は、生駒吉乃(生駒家宗の娘、織田信忠と信雄と徳姫の母)、興雲院(お鍋の方、織田信吉と信高と於振の母)、原田直子(織田信政の母)、坂氏(織田信孝の母)、養観院(羽柴秀勝の母)、土方氏(織田信貞の母)、慈德院(織田信忠の乳母・三の丸の母)、あここの方(三条西氏)。






(私論.私見)