履歴考3(安土城普請以降)


 更新日/2019(平成31).1.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.08.11日 れんだいこ拝


【履歴考3(安土城普請以降)】

【安土城築城開始】 
 1576(天正4)年、43歳の時、 1月、信長自身の指揮の下、丹羽長秀に命じ琵琶湖湖岸の標高198mの安土山に築城を開始する。これを安土城と云う。1579(天正7)年、五層七重(階)の豪華絢爛な城として完成する。天守内部は吹き抜けとなっていたと云われている。イエズス会の宣教師は、「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

【伊勢神宮の式年遷宮寄進】
 伊勢神宮の式年遷宮が行われたのは1585(天正)年。材料となる樹木の選定、付属する調度品や神宝などの作成、建物自体の建造を凡そ10年前から準備にかかるとすれば、この頃に信長の財政的支援があったものと思われる。織田信長といえば、比叡山焼き討ちや一向宗の虐殺など神仏をあがめない不遜な人物というイメージがあるが、実際の信長は、神道に関する限り軽んじるどころか手厚く保護している。

 そんな逸話の一つが
伊勢神宮の「式年遷宮」(建て替え)である。飛鳥時代の7世紀から原則20年ごとに行われた伊勢神宮の式年遷宮だが、朝廷の力が落ちた中世になると、遷宮のための多額の費用と時間を捻出できなくなった。各地で力をつけていった戦国武将たちは「自国」の経営には夢中だが、日本国全体を統括する伊勢神宮には関心を持たなかった。信長は、これまでの戦国武将をこえる視野と戦略を持って式年遷宮に寄進している。結局、信長が式年遷宮に立ち会うことはできなかったが、信長が復興に着手し、豊臣秀吉が遷宮の節目で実行し、そして徳川家康が継続させ、現在に至る。戦国三傑が一つのプロジェクトを継続して行った稀有な例となっている。伊勢神宮の禰宜(神職)の荒木田守武(~1549年)という人が句を詠んでいる。「元日や神代のことも思はるる」。

【第三次包囲網】
 天正4年、義昭は毛利氏の庇護下に入り鞆に移った。義昭は、それ以前の紀伊にいた頃から信長包囲網の再構築を企図していた。将軍として御内書を出して各地の大名の糾合に務めている。この結果、長らく信長と対立していた本願寺、武田氏のみならず、中国の毛利氏、宇喜多氏、北陸の上杉氏などが包囲網に参加した。

 1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治と但馬の山名祐豊が天正3年年末から天正4年初頭にかけて相次いで叛旗を翻し、信長包囲網に加わった。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。4月、信長が、明智光秀、荒木村重、塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。越前には柴田勝家を送り、加賀一向一揆の鎮圧と北陸への侵攻を企図している。4月、信長は冷戦状態が続いていた石山本願寺に対して攻勢に出ることを決断し、塙直政、明智光秀らを中心とする軍勢が天王寺方面を攻略した。6年前の野田城・福島城の戦いでも織田方を脅かした鈴木孫市はこの時も本願寺方についており、鉄砲の扱いを熟知した雑賀衆の前に織田軍は苦戦を余儀なくされ、三津寺の戦いでは伏兵の襲撃に遭って畿内統治の鍵を握っていた主将の塙直政が討死し1千人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。

 5.5日、信長は石山本願寺攻めの為、若江城に入り動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3千人ほどであった。5.7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5千人に攻め入り(天王寺合戦)、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。原田直政が討死した。主将を佐久間信盛に任じ、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺軍を撃破し、これを追撃。2700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。

 その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7.13日、毛利輝元軍が石山本願寺の援軍に現れ、村上元吉指揮する毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。一方、柴田勝家は越前から加賀に侵攻した。かつて加賀一向一揆を支えていた指導者の多くが越前が鎮圧された時に死亡しており、加賀一向一揆は組織だった反撃ができないまま、織田方が優勢となった。

 この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化し、謙信は石山本願寺と和睦し信長との対立を明らかにした。本願寺に対する信長の圧力が強まる中、北陸では一向一揆と同盟を結んだ上杉謙信が越中から能登へ侵攻を開始した。11月、謙信は11月から畠山氏の籠城する能登七尾城を包囲するが、堅城であるため、強攻することができなかった。謙信を盟主として毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11.13日、正三位に叙任される。11.21日、内大臣、右近衛大将兼任に叙任され昇進している。興福寺別当の人事に介入。南都伝奏の勧修寺晴右ら蟄居させられる。木津川河口で毛利水軍に完敗。本願寺に兵糧を入れられる。この年、上杉謙信が加賀に進出を開始する。

【紀州の雑賀衆征伐】 
 1577(天正5)年、44歳の時、 2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆(紀伊)の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。3月、上杉軍が、本国の越後が後北条氏の侵攻を受けたため撤退している。7月、雑賀衆(紀伊)が反旗を翻し抗争を継続した。柴田勝家は加賀侵攻を継続していたが、七尾城が再び謙信の侵攻を受けたことから後詰の要請を受け、これを容れて能登への遠征を開始した。7月、。9月、七尾城は勝家の援軍を待たず陥落し、勝家はそのまま侵攻を続けたが、11月、手取川の戦いで上杉軍に敗北し加賀侵攻を一時的に中止している。

【松永久秀の再度最後の叛旗】
 8月、包囲の要衝である天王寺砦を守っていた大和国の松永久秀が上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(信長公記)。嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力としたとした大軍を送り込み、信貴山城を包囲した。10月、信長軍は、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが久秀はこれを拒絶、信長のもとに差し出していた22人の孫は京都六条河原で処刑された。10.10日(11.19日) 、織田軍の総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)爆死した(信貴山城の戦い)。享年68歳。

安土山城下町掟で楽市楽座を公布
 安土山城下町掟を公布。楽市楽座とする。

紀伊の雑賀攻め
 紀伊の雑賀を攻める。雑賀の鈴木孫一ら投降。

上杉謙信軍との武闘
 9月、上杉謙信が手取川の戦いで織田軍を打ち破った。柴田勝家を総大将として加賀へ出陣する。 羽柴秀吉が無断で陣払いし、柴田勝家らが加賀で上杉謙信に惨敗する。

 10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

 11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。 

播磨、丹波攻め
 羽柴秀吉に播磨を与える。羽柴秀吉が但馬の竹田城を落とし、弟秀長を入れ置く。羽柴秀吉、播磨の上月城を落とし、尼子勝久を入れ置く。

 11.16日、従二位に叙任される。11.20日、正親町天皇は信長を正二位右大臣兼右近衛大将兼任に昇進させた。信忠、従三位左近衛中将に昇任する。

 年末、丹波方面において亀山城主内藤定政が病死したことを受けて明智光秀を主将とする織田軍が丹波に侵攻し、八上城、黒井城を攻略しようとして八上城の戦い、黒井城の戦いが発生している。

年賀の会を催す】
 1578(天正6)年、45歳の時、 1月、信長は家臣を集めて年賀の会を催した。中国地方では毛利と、北陸地方では上杉と、大阪では本願寺との戦いの最中に茶会を開くのは異例のことである。呼ばれた家臣の中に、この年の10月に反旗を翻す村重も含まれている。正二位に昇叙されている。

三木合戦起こる
 3月、播磨国の東播磨八郡を領有した東播磨守護代/別所長治が毛利輝元と通じて謀反、三木城に篭もる。織田方が毛利方についた別所長治を攻撃し三木合戦が起こる。織田軍は三木城を包囲し、兵糧攻めを行った(「三木の干し殺し」)。兵庫県三木市、神戸電鉄粟生線・三木上の丸駅のすぐ南、美嚢川に臨む中世の平山城跡が三木城である。

【上杉謙信没す】
 3.13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。これにより上杉氏は北陸方面で大幅な後退を余儀なくされた。これにより信長は手取川の戦いの時のように柴田勝家に援軍を送る必要もなくなり、丹波黒井城主赤井直正もこの時期に病死したことで丹波方面でも織田方が優勢になり信長にとって有利な環境が構築されつつあった。

 武田勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切れとなった。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送り織田家の強さを全国に知らしめた。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

 天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称し、または信長軍・信長機動隊ともいう。

 尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

 上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

 抑え  担当武将
美濃・尾張・飛騨 織田信忠、斎藤利治、姉小路頼綱
対武田 滝川一益、織田信忠軍団(天正元年結成)
対本願寺 佐久間信盛軍団(天正4年結成 - 天正8年消滅)
北陸 柴田勝家軍団(天正4年昇格)
近畿 明智光秀軍団(天正8年昇格)
山陰・山陽 羽柴秀吉軍団(天正8年昇格)
関東 滝川一益軍団(天正10年結成)
四国 織田信孝、津田信澄、丹羽長秀、蜂屋頼隆軍団(天正10年結成)
東海道 徳川家康(形式的には同盟であり織田軍団の一部ではない)
伊勢・伊賀 織田信雄、織田信包
紀伊 織田信張

【その後の平定】 
 4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。信長は無官になる。

 織田信忠らに石山本願寺に攻め込ませる。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀を丹波に派遣、園部城を落とす。毛利輝元が上月城を包囲。織田信忠らを播磨に派遣。上月落城。

 6月、毛利軍を海上で破る。九鬼嘉隆に鉄船を建造させ、和泉沖で雑賀水軍を破る。

【羽柴秀吉の播磨攻め】 
 信長は羽柴秀吉(木下から改姓)に軍勢を与えて播磨に侵攻させたが、毛利輝元も寄騎していた宇喜多氏とともに自ら軍勢を率いて播磨まで進出し、同時期に三木城主別所長治が毛利方についたことにより播磨の戦況は芳しくなくなった。7月、毛利軍が尼子勝久、山中幸盛が守る上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑された(上月城の戦い)。秀吉は三木城攻めに専念するため勝久らを見捨てざるを得なかった。

【荒木村重謀反】 
 10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた摂津国の荒木村重が突如、信長に叛旗を翻し総勢一万五千余騎で伊丹の有岡城に立て籠り、足利義昭、毛利氏、本願寺と手を結んで信長に抵抗した(有岡城の戦い)。摂津の小豪族のほとんどが同調した。信長にとって高槻、茨木、伊丹、尼崎、花隈、三木、御着の諸城が敵になり、摂津から播磨へと弧状に信長の中国攻略を阻んだ。高槻城には高山右近の三千騎、茨木城には剛勇中川清秀の三千五百騎、毛利水軍との窓口にあたる花隈城には荒木元清など鉄壁のまもりとなった。これにより石山本願寺包囲網の一角に穴が開くとともに秀吉が攻めていた三木城への補給も可能となった。

 謀反を起こす前に明智光秀から思いとどまるように勧められたが断っている。光秀の長女は、村重の嫡男・荒木村次に嫁いでいたが、光秀に害が及ぶことを恐れた村重は、この時に離縁させている(光秀の長女は後に、明智秀満と再婚した)。謀反の理由は諸説あり定かではない。足利義昭、毛利家、石山本願寺側の調略説。信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説。怨恨説。信長公記、フロイス日本史などによると、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと云われている。れんだいこはバテレン教唆説を取る。安土山に築城の頃よりバテレン離れし始めた信長を始末するために、村重を煽り反逆させたと読む。

 信長は直ちに明智光秀、松井友閑、万見重元から成る詰問史を伊丹に送った。説得により翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。官兵衛はこれが原因で足が不自由になっている。

 荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には「官兵衛に合せる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治(半兵衛)に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。

 この頃、側近の与力であり東摂津に所領を持つ茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近、摂津多田山下城の塩川国満が信長方に寝返り、石山本願寺への補給路を速やかに断った。織田軍は優位に立ったが村重軍は1年間徹底抗戦続けることになる。 

 11.6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し、木津川口で毛利水軍を撃破した(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立した。

 高野山が荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せたことへの報復として、畿内の高野聖1383人を捕え殺害した。高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動だったともいわれている。

 信長が自ら摂津へ出馬。11.15日、荒木村重の寄騎、高山長房(右近)、同24日、中川清秀が信長方に復帰する。

【荒木一族惨殺】 
 1579(天正7)年、46歳の時、 畿内では荒木村重は有岡城にて、別所長治は三木城にてそれぞれ織田勢の包囲下に置かれることになり、石山本願寺も海上補給の失敗により孤立を深め、丹波の波多野氏、赤井氏なども織田勢の攻勢を受けるなど、徐々に織田軍優勢の形が作られていった。

 6月、丹波攻略を進めていた明智光秀が八上城を攻めの際、守将の波多野兄弟の助命を約束し、その保証に光秀の母親を人質として八上城に入れることで開城に成功し。信長は、安土城に送られた波多野兄弟を、明智光秀の懇願を無視して磔処刑にした。これを知った八上城兵は、人質の明智光秀の母親を殺して、ことごとく討死にした(「柏崎物語」)。8月、赤井氏の居城黒井城が落ちた。

 9月、荒木村重が妻子を置き去りにして有岡城を逃亡し、嫡男・村次の籠もる尼崎城へ移った。籠城戦の最中に大将だけが逃げることになった。こういうケースはない。有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。

 10月、別所長治は抗戦を続けていたが、備前の有力国衆であった宇喜多直家が毛利氏の下を離れて織田方についた。これにより織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転した。

 11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王を猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている。

 11.19日、滝川一益は抵抗のすさまじさに舌を巻き、「尼崎城と華熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら村重の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔した。上蝋塚を守る中山新八郎らが裏切り、信長の軍勢が城になだれ込み、城内に火が放たれ、さながら地獄絵となった。結局、有岡城は1年ほどで降伏した。

 信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。最後に残っていた家臣たちも信長との約束を破って逃げ出したため、荒木の一族郎党たちは信長によって処刑された。

 12.13日、荒木村重の一族郎党の女房衆122人が尼崎近くの七松において磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人、男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。この時の様子は信長公記に次のように記されている。
 「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」、「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」。

  12.16日、村重の妻だしを含む京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を次のように記している。
 「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」(立入左京亮宗継入道隆佐記)と記している。「だしの辞世句」は、「きゆる身は おしむべきにも無き物を 母のおもひぞさわりとはなる」、「 残しおく そのみどり子の心こそ おもいやられて悲しかりけり」。

 その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。

【徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じ切腹させる】
 この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じ切腹させた。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通であった。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている。

【第一次天正伊賀の乱】
 また伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した(第一次天正伊賀の乱)。この年、秀吉の軍師・竹中重治が病没している。

【播磨の別所一族が自害して三木城が落城】
 1580(天正8)年、47歳の時、1月、羽柴秀吉の兵糧攻めにより、別所長治ら別所一族が切腹し、三木城が落城した。 伝天守台の上に、「今はただ恨みもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の碑がある。

【石山合戦が終結】
 3.5日、正親町天皇の勅命により本願寺法主顕如が信長と和睦する。石山本願寺も信長に降伏した。この石山本願寺の陥落を持って第二次信長包囲網がほぼ瓦解した。

 3.20日、無辺逸話が遺されている(「エピソードから見る信長の実像 無辺の事」参照)。無辺と云う諸国行脚の僧が石場寺栄螺坊の在所に現れ次々に奇跡を起した。「大切な秘法を授かった」し、噂の秘法を授かろうとする男女が昼夜門前に立ち暮らす程の騒ぎとなった。信長は、無辺の噂を耳にし、「その仁体を見たい」と仰せ、安土城の御厩へ呼び出した。信長は先ず「生国は何処ぞ?」と尋ねた。無辺は「無辺(何処でもない)」と答えた。信長が「唐人(中国)か天竺人(インド)か?」と尋ねると、無辺は唯「修行僧」とだけ言った。信長は、「人間の生国は、三国(唐・天竺・日本を指し世界の意味)以外にはない筈である。何処の生まれでもないとは不審である」、「さては、化け物か!然らば、炙って見るか」と言い「火の仕度をしろ」と家臣に命じた。その一言に恐怖した無辺は「出羽の羽黒の者」と、生国を言った。信長は、「貴様は、生まれもなく、住む所もなく、弘法だと言い」、「人からの進物を一切受け取らないことから一見無欲に見えるが、その宿へ何度も世話になっているさまは、無欲とは言えぬではないか!」、「とは申せ、汝は奇特な技を持っていると聞き及んでいる。その技を見せてみよ」と迫った。しかし無辺は、その奇特な力(超能力)を見せることができなかった。すると信長は「惣別、奇特不思議なる力を持つ人は、形から目色、人となりも優れた二人と居ない様な者であろう」、「おぬしの卑しさたるや、山賤(山仕事を生業とする身分の低い人)にも劣る」、「その卑しい身なりで女子供を騙し、無駄に金を使わせるとは曲事なり!」、「この上は、無辺に恥をかかせよ」と命じて、僧侶らしからぬ長かった髪を所々ハサミで切り落し裸にしたうえで縄を懸け、町で晒した後、追放した。後々良く調べさせたところ、無辺は「丑時(夜中の秘法)を伝授する」と言っては子宝に恵まれない女や病気の女に対し臍くらべと言う秘儀(宗教関係者が女性信者に良くやる卑猥な秘儀)を行っていたことが分かり信長は激怒し、「先々の為だ」と分国中の国主達に命じて追っ手をかけさせた。やがて捕らえられた無辺を召し寄せ自ら糾明し誅(処刑)した。その後、無辺を泊めていた宿坊栄螺坊に対して信長は、「何故、城周りにあの様な徒者(いたずら者)を置いていたのだ」と問うと、「石場寺御堂の雨漏りを直したき故、無辺が集めてくる勧進(修復の為の寄付)欲しさに置いておりました」と答えた。それを聞き、信長は銀三十枚を与えた云々。

 4月、兵糧不足におちいった本願寺軍は織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、城の者すべてを助けてやる代わりに石山を引き渡せという織田信長の要求に答え、顕如は石山本願寺を開城し大坂から退去した。これにより10年の長きにわたった「石山合戦」が終結した。本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂した。

 8月、信長は、戦後処理が一段落すると家臣団の“リストラ”を断行した。能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、牢人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。対象となったのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人。

 信長は、譜代の老臣にして重鎮中の重鎮である佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して「19ヶ条の折檻状」を自筆にて書き、楠木長安、松井夕閑、中野一安の三人を使者としてその書を持たせ、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。信盛の死後、信忠付きでの信栄の帰参を許した。本願寺攻めを担当した佐久間父子に突きつけた通告文「19ヶ条の折檻状」は次のように記されている。

 「石山本願寺攻略を命じたのに何もせずに手をこまねいているばかり。確かに本願寺は強敵だが、攻めることも調略もせず、無駄に時間を浪費した。私は家督を継いで30年になるが、貴殿の功名を一度も聞いたことがない。ケチで欲が深く、有能な家臣を召抱えないからこうなるのだ。武力が不足していれば、調略するなり、応援を頼むなり、何か方法があろう。それにひきかえ、丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関らず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家もまた右に同じ。どこかの強敵を倒してこれまでの汚名を返上するか、討死すべし。いっそのこと父子共ども髪を剃って高野山に移り住み赦しが出るのを待て」。
 (「織田信長公 百五十六」、「佐久間右衛門かたへ御折檻の条」を参照する)
 一、父子五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。(佐久間信盛・信栄親子は天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。世間の不審は当然で、自分にも思い当たることがあり、どう叱ればよいのか言葉が浮かばない)。

 一、この心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀、調略の道にも立ち入らず、たゞ居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行く行くは、信長威光を以て、退くべく候条。さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。(何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず、調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、幾年かもすれば相手も気が緩み、そのうち信長の威光によって引き下がるであろうという見通しだったと思われる。遠慮なく言うが、武者道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め、一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであろうに、ここを機と見て決戦する思慮がなく、優柔不断に過ごしてきたことが明らかである)

 一、丹波国、日向守(明智光秀)働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ケ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。(丹波の国を与えられている日向守・明智光秀の働きを見よ。天下に面目をほどこしている。次に、羽柴秀吉の働きも天晴れである。池田恒興は少禄の身であるが、摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に面目を施した。これを以て奮起しひとかどの働きをすべきであろう)。

 一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。 (柴田勝家を見よ。明智、秀吉、池田の働きを見聞きし、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春、加賀へ侵攻し平定した)

 一、武篇道ふがいなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ケ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事(くせごと)の事。(武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るべきのに、五年間一度もそういうことをしたことがない。慢心であり大きな間違いである)

 一、やす田の儀、先書注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判状。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣はす事、手前の迷惑これを遁るべしと、事を左右に寄せ、彼是、存分申すやの事。(信盛の与力・保田知宗の書状では、本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろうとあり、信盛親子も連判している。そうであるのに、今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分に責任のかかることを避け、立場をかわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないのか)。

 一、信長家中にては、進退各別に候か。三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内に与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力、少分の者どもに候へども、七ケ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度(おちど)を取るべからざるの事。 (信盛は信長の家中に於いては特別な待遇を受けている。三河、尾張、近江、大和、河内、和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもの七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようとも、それほど落ち度を取る訳がなかろう)。

 一、小河かり屋跡職申し付け候ところ、先々より人数もこれあるべしと、思ひ候ところ、其の廉(かど)もなく、剰へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。 (水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく相変わらずの家臣しかいない。結局、新たに一人も抱えておらず、全て己の蔵に取り込み、金銀を貯めこんでいる。言語道断である)

 一、山崎申し付け候に、信長詞をもかけ候者ども、程なく追失せ候儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱ひ紛れなき事。(山崎の地も同様で、信長の声かかりの者までいつの間にか追放してしまう有様である。これも先の刈谷の例とと同じである)。

 一、先々より自分に拘へ置き候者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付け、新季に侍をも拘ふるにおいては、是れ程越度はあるまじく候に、しはきたくはへばかりを本にするによって、今度、一天下の面目失ひ候儀、唐土、高麗、南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。(譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているならまだしもそれもない。ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまっている。これは唐・高麗・南蛮の国まで知れ渡っていることである)

 一、先年、朝倉破軍に刻(きざみ)、見合せ、曲事(くせごと)と申すところ、迷惑と存ぜず、結句、身ふいちやふ(吹聴?)を申し、剰へ、座敷を立ち破る事、時にあたって、信長面目を失ふ。その口程もなく、永々此の面にこれあり、比興(ひきょう)の働き、前代未聞の事。 (先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いと叱ったのに恥と思わず、結局、自身の正当性を吹聴し、あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。その口程もなくここに在陣し続けて今にあるが、その働きは卑怯であり前代未聞である)。

 一、甚九郎覚悟(佐久間正勝)の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。(甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない)。

 一、大まはしに、つもり候へば、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘へず、其の上、油断の様に取沙汰候へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によって、かくの如き事。 (大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、いい加減な働きばかりしており、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる)

 一、与力を専らとし、余人の取次にも構ひ候時は、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。(与力を専ら使役し、他への取り次ぎをする分には問題ないが、身の保全ばかり考え、忠臣の如く振る舞い、何かうまい話しはないかと絶えず探り、綿の中に針を隠し立て、用心深く身の保全ばかりに気づかいしている)

 一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。(信長の代になり30年間奉公しているが、信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない)

 一、一世のうち、勝利を失はざるの処、先年、遠江(三方原の合戦)へ人数遣はし候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者討死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人をも殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にもありげなる面をみけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事。 (生涯の内、ここ一番で活躍せねばならぬ時に、先年の三方が原へ援軍を使わした時を見よ。勝ち負けは時の倣いであるので仕方ないにせよ、家康の援軍として送られているのに、遅れをとった上に、兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしている。これを見ればその思慮なきこと紛れもない)

 一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。(こうなれば、どこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない)

 一、父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事。 (親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し、長い年月を詫びて後に赦しを乞うのが当然であろう)。 

 右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。抑も天下を申しつくる信長に口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、爰を以て、当末二ケ条を致すべし。請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。(以上。ここ数年、何の甲斐ある働きをせず、言い訳ばかりしている者に申し付ける。言い訳は無用である。討ち死にするか隠遁するかのどちらかを選べ。云うことを聞かなければ容赦しないことを言い渡しておく)

 注目すべきは光秀が単純に褒められているだけではなく、その順位が、織田家中の筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興&勝家と続いていることである。信長の光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。

 8.17日、古参家老の林秀貞を昔の謀反の罪で追放した。これは、24年前の信長家督相続に対する罪を問うたものだが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。この時、準譜代の安藤守就とその子定治(武田家への内通嫌疑)親子は、甲斐の武田勝頼と内通したということで追放された。安藤守就は。元々美濃の斎藤氏に重臣として仕えで、稲葉一鉄・氏家卜全と並び美濃三人衆と称されていた。この美濃三人衆が信長に投降したことが信長の美濃攻略の成功を導いた。女婿に竹中半兵衛重治がおり、稲葉城乗っ取りの事件にも荷担している。尾張の国人・丹羽氏勝が同時追放されている。 罪状は、25年前に織田信次(信長の叔父)が織田秀孝(信長の弟)を殺害した一件に組していたこと、甲斐武田に内通したというものであった。

 この年、播磨国、但馬国をも攻略した。柴田勝家が加賀一向一揆を鎮圧している。 

スペインがポルトガルを併合
 1580(天正8)年、スペインがポルトガルを併合した。信長は、スペインとの外交関係構築の必要に迫られ、イエズス会東アジア巡察師のアレッシャンドロ・ヴァりニャーノとの交渉に入った。

 1581(天正9)年、48歳の時、鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。

【巡察師バリニャ-ノが本能寺で信長に謁見】
 2月、巡察師バリニャ-ノがフロイス、オルガンチ-ノを従え、本能寺で信長に謁見している。この時、バリニャ-ノは一人の黒人を連れてきており京都中が大騒ぎとなった。信長は、墨を塗っているのではないかと疑い入念に洗わせている。信長は、この黒人を気に入り、召し抱える。本能寺での会見で、信長はバリニャ-ノの背が高いことに驚き、ヨ-ロッパからの航路などについて世界地図を下に長時間語り合っている。その後の内裏近くの馬場での馬揃いの際にもバリニャ-ノを招待し、彼が贈ったビロ-ドの椅子に腰掛けバテレン一行を喜ばせている。信長の南蛮宣教師に対する寵愛、保護は特異なものであり、記録から判明するだけでも実に31回に及んでいる。一番多く会ったのはフロイスとオルガンチ-ノの17回以上である。判明している宣教師との会談内容は、地水火風の性質、日月星辰の事、世界の寒地、暖地、諸国の風俗等があるが軍事、兵器、戦法などについても問答していると推定される。この後、信長と徳川連合軍が長篠の合戦で武田軍を破るが、その際に用いた「三段構えの鉄砲討ち戦法」はスペインの軍人エルコルドバが既に用いており、バテレンを通じて信長に伝わったのではないかと推測できる。

 信長とイエズス会巡察師バリニャ-ノとの交渉は2月から7月まで続いた。但し、合意には至らなかった。これの記録資料は発見されていない。
(私論.私見)
 推測するのに、スペインが明国征服の為に兵を出すよう求め、信長が首肯しなかった経緯が秘められているように思われる。安部龍太郎「信長はなぜ葬られたのか」の「明国出兵の本当の目的」p140が次のように記している。
 「スペインの使者として信長に対面したバリニャ-ノは、明国征服のための軍勢を出すように要求した。ところが信長はこれを拒否し、イエズス会と断交し、キリスト教を禁じた。このために信長政権は急速に揺らぎ始めた」。

信長は、ビロードのマント、西洋帽子で京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えデモ
 2.28日、信長は絶頂期にあった。京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。信長は、ビロードのマント、西洋帽子を着用していた。晩年には戦場に赴く時にも南蛮胴を身に付けていた。これを「京都御馬揃え」と云う。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。この時、正親町天皇、太閤・近衛前久ら公家も招待している。正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。

 3.7日、天皇は信長を左大臣に推任。3.9日、この意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3.24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。

 4.1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。

 5月、越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3.23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

 長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

信長のバテレン歓待
 信長のバテレン歓待は以後も続く。安土に戻った信長を追ってバリニャ-ノ一行も後を追う。信長は安土城をくまなく内部を見せ歓迎した。この時の対談内容は伝わっていない。その後、バリニャ-ノは、安土を拠点にセミナリオ(神学校)設立するなど様々な布教活動を行う。4ヶ月後、信長に暇乞いの挨拶に行った際、信長は、城内に提灯を提げて飾り立て、盂蘭盆(うらぼん)会に招待した。この”お盆祭り”が巡察師とのお別れパ-ティを兼ねる催しとなった。信長は更に、バリニャ-ノが辞去するに当たり特別の贈り物をする。それは日本屈指の図工に命じて描かせた天下の逸品とされた屏風「安土城之図」であった。正親町天皇が所望してもそ知らぬふりをした絶品であったと云う。この屏風は、天正使節が欧州を訪問した際にバチカンへ運ばれたが現在は残っていない。 この贈り物をする際に、信長は、使者を通じて次のように述べている。
 「はなはだ遠隔の地から、予に会うために来訪され、長らく当市に滞在し、予が下付した住院の土地を大切にする意向を示された事を感謝して、記念と親愛の印としてなにかを贈り、帰国の際に携えようと、所蔵品をあれこれ考えてみたが、立派なものはすべて南蛮国からきたものであるから、満足なものが見あたあらぬ。ただ、バテレン神学校を絵に描かせる希望もあろうかと思い、予の屏風を送り届ける。もしそれを見て満足ならばとどめ置かれるがよく、不満足なら返されたい」。

安土城下のお祭り
  7.15日、お盆の際、安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませている。信長公記に「言語道断面白き有様」と記述されている。相撲大会の逸話などからも祭り好きであったと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。

荒木村重のその後
  高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。信長公記によれば、信長は使者十数人を差し向けたが高野山が使者を全て殺害した。一方、高野春秋では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。8.17日、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

 村重本人は花隈城に移り(花隈城の戦い)、尼崎から船で毛利氏の下に逃げた。彼の息子である荒木村次や岩佐又兵衛(後述)も生き延びている。
村重は、家族も家臣も捨て自らは命を永らえたことで卑怯な武将と見なされている。なぜ反旗を翻したのか、なぜ一人だけ生きのびたのかなど謎は多い。

【伊賀国平定】
 1581(天正9)年、48歳の時、同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

【佐久間信盛病死、直後、子の信栄赦免】
 1582(天正10)年、49歳の時、1.16日、追放された佐久間信盛が紀伊熊野で病死する。直後、子の信栄は赦免され織田信忠付の家臣として帰参を許された。定栄は本能寺の変後、茶人として秀吉に仕え、秀吉没後は家康に召抱えられて生き延びる。

【武田家滅亡】
 2.1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2.3日、信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。

 3月、織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏した。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していった。

 3.8日、信長が甲州征伐に出陣したこの日、信忠は武田領国の本拠である甲府を占領する。

 3.11日、甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。勝頼をいよいよ追い詰めた時、光秀が感じ入って「長年、我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」、「その方、どこで骨を折ったのか」と言って激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け諸将の前で恥をかかせたと云う逸話が遺されている(「川角太閤記」)。

 戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜和尚は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。※国師は天皇の師。天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威を全く意に関していないことになる。信長が国司を焼き殺したのは比叡山に続いて2度目。

 戦後、駿河国を徳川家康に、上野国及び信濃二郡を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃四郡を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。

 4.10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で全て殺したという。また侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も殺されたという。ただし桑実寺の長老に関する記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。この逸話の典拠は信長公記。そこには信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが「殺した」とは書かれていない。当時「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。

 4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月、信長に伝えられた(征夷大将軍・太政大臣・関白の三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。フロイスは「予(信長)がいる処では、汝等(イエズス会宣教師ら)は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が(天)皇であり、内裏である」と述べた記述している。

 信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。信長と長宗我部元親の関係は1580年までは良好で「四国切り取り次第」としていた。光秀が取り次いでおり、光秀の重臣の斎藤利三は長宗我部元親の妹を妻とする縁者であった。ところが、1581年、信長は、阿波(現徳島県)半国と土佐国のみの了承とし、1582.5.7日には讃岐(現香川県)を織田信孝、阿波(現徳島県)は三好康長、伊予、土佐は未定としている。こうして信長が認可する長宗我部領を次々と縮小している。この間、反長宗我部派の三好(みよし)康長が巻き返しを計り、羽柴秀吉を通じて阿波の領有を承認されている。こうして「長宗我部問題」が政局に浮上しつつあった。

 また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。







(私論.私見)