履歴考2(上洛以降安土城普請まで)



 更新日/2017.3.11日

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 2013.08.11日 れんだいこ拝


【履歴考2(上洛以降安土城普請まで)】

【義昭-信長が上洛開始】 
 1568(永禄11)年、35歳の時、9.7日、信長は、沿道の美濃斎藤氏、北近江浅井氏、南近江六角氏などの支持を取り付けた上で、他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し5万の軍勢を率いて岐阜城を出発、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。近江の箕作城を攻め落とし、六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。近江を平定する。
 9.26日、信長勢が東寺(とうじ)に着陣し、休む間もなく摂津方面に進軍した。

【義昭-信長が上洛】 
 10.18日、義昭-信長が上洛し、足利義昭は父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、さらに進軍し無事京都に到着し、第15代征夷大将軍が宣下され就任する。信長は、「銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)」という厳正な取り締まりを行った。同時に当時荒れていた京の掃除などの整備も行っており、京の民衆はこれを歓迎したという。三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継、松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

 松永久秀が降り大和の支配権を与える。池田勝正、伊丹忠親が降り、和田惟政と共に摂津の三守護とする。三好義継、畠山高政が降り、河内半国づつの守護とする。細川藤孝に山城の勝龍寺城を与える。将軍義昭から副将軍、管領を勧められるが辞し、代わりに草津、大津、堺の代官職を得る。将軍義昭より足利家の家紋である桐、二引両を賜る。分国中(尾張、美濃、南近江)の関所を撤廃する。

 この時、足利義昭は元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した。しかし信長はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対されている。10.24日、信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛名している。

 10.28日、従五位下弾正少忠に叙任される。足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の守護への任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、足利義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている。

 伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていた。信長は北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。続いて北畠具教の次男・長野具藤を追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。

【フロイスが信長と初対面】 
 この年、フロイスが和田惟政の尽力により都へ戻り、都での布教の許可を請うべく信長と対面している。但し、「御目見え」程度に終わり直接言葉を交わすことはなかった。フロイスの記述によると信長は奥の部屋で音楽を聴いており、フロイスは離れた場所で食事を振舞われた。信長は和田惟政らに、「異国人をどの様に迎えて良いか判らなかった」、「世人が、予もキリシタンになる事を希望していると誤解されない為である」と親しく引見しなかった理由を語っている。この時、フロイスは非常に大きいヨーロッパの鏡、美しい孔雀の尾、黒いビロードの帽子、ベンガル産の藤杖を信長に贈ったが、信長は黒いビロードの帽子だけを受け取り残りの3品は返した。1回目は御目見え程度に終わったフロイスと信長の対面であったが、2回目以降は親しく接するようになる。 

 フロイスは、「この引見の直後、松永久秀(信長に従属していた)は、キリシタンを都に入れると国も都も滅亡するとキリシタンの追放を信長に訴えた」としている。それに対し信長は次のように答えている。
 「汝霜台、予は汝のごとき老練、かつ賢明の士が、そのように小心怯檽な魂胆を抱いていることに驚くものである。たかが一人の異国人が、この大国において、いったいいかなる悪をなし得るというのか。予はむしろ反対に、いとも遠く、かくも距たった土地から、当地にその教えを説くために一人の男がやって来たことは幾多の宗派があるこの都にとって名誉なことと思っているのだ」。

 この逸話は、信長のキリスト教受容姿勢を窺うのに意味がある。松永久秀が「キリシタンを都に入れると国も都も滅亡するとキリシタンの追放を信長に訴えた」につき大いに疑問がある。なぜなら松永久秀こそキリシタン武将の線が濃いからである。フロイスは、これを隠すために敢えて松永久秀を登場させ、そのように述べたとしている形跡が認められる。

【信長が石山本願寺に軍資金調達要請】 
 この時、信長は石山本願寺に5千貫の軍資金や京都御所再建のお金を求めた。石山本願寺は、親鸞を開祖とする一向宗(浄土真宗)の本山で、9代蓮如によって開かれた。石山本願寺の財力は、有力大名と肩を並べるほどだったと云われ、その石山本願寺の財力に目をつけお金を要求した。信長はさらに本願寺の場所を移して石山を引き渡せと要求した。この石山とは、後に豊臣秀吉が大阪城を築いた場所で、貿易、交易の拠点として優れた場所であった。本願寺側は、5千貫の軍資金には応じ、退去要求は拒否した。これが信長と本願寺の抜き差しならぬ対立へと向かうことになる。

 この年、12月、武田信玄が駿府に侵攻する。


三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭を急襲する
 1569(永禄12)年、36歳の時、 1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆ける機動力を見せた。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

【信長が畿内制圧】
 1.10日、信長は、三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

 1.14日、信長は、義昭の下風に立つことを嫌い、義昭が呈示した副将軍や管領就任を拒絶し,独自に畿内支配を進めた。将軍権力を制約するために「殿中御掟」という9箇条の掟書を義昭に承認させた。のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。

【信長が朝廷無視の策】
 3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。
 この年、将軍足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した(甲越和与)。

【フロイスと二度目の対面】 
 この頃、信長は義昭に命じられて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この時、信長は、建設中の二条御所に掛かる橋の上でフロイスと2回目の対面をしている。前回、引見が実現しなかった事を悲しんだ和田惟政が再び信長に司祭との引見の機会を願い、信長が二条御所の建設現場へ来る様に伝えたのことである。フロイスによると、その普請に際し信長は自らカンナを手に質素な衣服を着用し、何処でも座れる様に虎革を腰に巻き、指図した。それを見習って大名・家臣らも質素な皮衣を身に付け作業に従事した。この建築作業中、寺院で鐘を撞く事を禁じ、城中に置いた一つの鐘だけを人員の召集・解散の為に撞かせた。作業に従事した人々は二万五千人から一万五千人。信長は、見物に集まった人々に建設現場の見学を許し、同時に男女を問わず履物を脱がず信長の前を通る自由を与えた。石垣の石不足から寺院等から石仏を引いて来させ石材とした。この建築作業中、一兵士が見物中の一貴婦人の顔を見ようと、婦人の被り物を少し上げた事があった時、信長はそれを目撃し、自らその場でその者の首を刎ねた逸話が遺されている。

 以下、「信長とバテレン」を参照する。足利義昭を擁し京都に入った信長は天下を我が物にした。寺院、城主、堺衆、仏僧が信長の保護を求め大金や金の延棒を渡していた。バテレンは、信長の制札を受け取らない限り布教に差し支えるとして信長の家臣でキリシタンびいきの和田惟政に依頼し、パ-ドレに内密に銀の延棒を10本用意させ信長のもとに出向いた。この時、信長は、「バテレンから制札を下付する為に金をもらうことになれば予の品位が下がり、インドや彼らの地によく聞こえるはずがないではないか」といって、受領を拒否し制札を発行した。

 この頃、京都では、天皇の勅令によってバテレン追放令が出されていたが、信長のとりなしによって彼らは京都に居住できるようになった。 フロイスの「日本史」が、この時のやり取りが次のように記している。
 「フロイスが遠くから信長に敬意を表した後、彼(信長)は司祭を呼び、橋上の板の上に腰をかけ、陽が当るから帽子を被る様にと言った。そこで彼は約二時間、ゆったりした気分で留まって司祭と語らった。彼はただちに質問した。年齢は幾つか。ポルトガルとインドから日本に来てどれ位になるか。どれだけの期間勉強をしたか。親族はポルトガルで再び汝と会いたく思っているかどうか。ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取っているか。どれ位の道のりがあるか。日本に留まって居るつもりかどうか。当国でデウスの教えが弘まらなかった時にはインドへ帰るかどうかと訊ねた。これに対し、司祭は、ただ一人の信者しかいなくても、何れかの司祭がその者の世話の為に生涯この地に残るであろうと答えた。ついで彼は、何ゆえ、都に汝らの修道会がないのかと質問した。そこでロレンソ修道士(日本人修道士)が穀物が発芽するに際しては、棘が非常に多く、たちまちそれを窒息せしめたと語った。(要するに、都の有力な檀家をキリシタンに奪われた仏教勢力が弾圧にのりだした)また、それに際し、イエズス会の家が一軒あったが、五年前に不当に奪われたと答えた。さらに彼は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。司祭は、この救いの道を教える事、デウスの御旨に添いたいという望みのほか何の考えもなく、現世的な利益なくこれを行おうとするのであり、この理由から困難を喜んで引き受け、長い航海に伴う大いなる恐るべき危険に身を委ねるのである、と返事した。群集は、信長がいとも真剣に聞き訊ね、伴天連が答弁している光景を固唾をのんで見守っていた。そこには多数の人が建築を見るために訪れており、彼等の中には近隣のおびたただしい仏僧達も見受けられた。とりわけ数名は、どの様な会話がなされているか傾聴していたが、信長は尋常ならぬ大声の持ち主であったから、声を高め、手で仏僧の方を指し、憤激して言った。『あそこにいる欺瞞者どもは、汝らの如き者ではない。彼らは民衆を欺き、己を偽り、虚言を好み、傲慢で僭越の程甚だしいものがある。予はすでに幾度も彼等を全て殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬ為、また人民に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼等を放任しているのである』と。

 ここでフロイスは仏教勢力との宗論(公開討論)を信長に願い出る。なにとぞ恩寵を持って、比叡山の大学や紫の禅宗寺院の最も著名で最も高位の学者達、また宗教に造詣の深い坂東から来ている学僧を招集し、一党に偏しない裁判官を立てて宗論させて下さる様にと願い出た。その宗論に負けた時は、都から追放されても結構で、反対に仏僧が敗北した場合、デウスの教えを聞き、それを受け容れる義務を負う様にして欲しいと訴えた。これがなされない限り、司祭建ちは、彼らの宗教を攻撃し彼等に反対するので、常に異国人として憎悪や陰謀によって迫害され、彼等の根拠とするところや論証の力なり明確さを判然と立証できませぬ、と述べた。これに対し彼(信長)は微笑し、家臣の方に向きを転じ、大国からは大いなる才能や強固な精神が生じずにはおかぬものだ、と言った。また司祭に向かっては、『はたして日本の学者達が宗論に同意するかは判らない。だが他日、一度その様になるかも知れぬ』と述べた。さらにフロイスは都の滞在許可を信長に願い、それがフロイスに対する最大の恩恵の一つである事、それにより、信長の名声はインドやヨーロッパ、キリスト教諸国に広がるであろうと訴えた。終わりに彼(信長)は、司祭との交際が気に入った事を認め、爾後、貴僧と語る為に呼びにやるであろうと言った。そして和田殿に向かい、『(貴殿は)伴天連に同行し、予がこの宮殿と城の中で、天下の君の為に造営した全ての建物をゆっくり全て見物させよ。また、公方様(将軍足利義昭)が彼を引見し、予と同様に彼と交わる為に、彼の許へ連れて行くように』と述べた」。

 4月頃、 フロイスは、信長の対応に感謝する為、再び岐阜城へ信長に会いに行っている。その際、信長は、自分の飲んだ同じ茶碗でフロイスに二度お茶を飲ませ、干し柿を詰めた箱を与えている。その4日後、 織田信長立会いの下で「ルイス・フロイス神父と日乗の宗義論争」が行われている。これについては「フロイスと日乗の宗義論争考」に記す。 

 8.20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10.3日に和睦し、次男・織田信雄を北畠具教の養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。 信雄を大河内城、信包を上野城、滝川一益を安濃津城主とする。後に北畠具教は1576(天正4年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は伊勢攻略を終える。伊勢の関所を撤廃する。

【信長が室町幕府を再興させる】 
 義昭は、竣工と同時に将軍御座所として築かれた二条御所(新御所)に移る。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府が再興された。

 新将軍として幕府を再興した義昭は、まず織田信長の武功に対し幕閣と協議した末、「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために和泉守護に任じた。この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政、三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として槙島昭光)となる。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。その後、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。


 8.20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10.3日に和睦し、次男・織田信雄を北畠具教の養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。 信雄を大河内城、信包を上野城、滝川一益を安濃津城主とする。後に北畠具教は1576(天正4年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は伊勢攻略を終える。伊勢の関所を撤廃する。

【信長と足利義昭の確執】 
 1570(元亀元)年、37歳の時、1月、信長が義昭に殿中掟5箇条を追加し承認させた。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。これ以降、織田信長が実権をにぎり、足利義昭の将軍位は名ばかりで、政治から完全にしめだされた。「織田信長からの5か条」とは、1・足利義昭が出す文書には織田信長のそえ書きをつけること。2・足利義昭が今までに出した命令は取り消すこと。3・幕府に忠義のあった者にあたえる恩賞で適当な土地がないときには、織田信長の領地から分け与えること。4・天下の政治は織田信長にまかせた以上、足利義昭がいちいち口をはさまないこと。5・朝廷に対する儀式は、足利義昭が手抜かりなく行うこと、と云うものであった。

【信長と足利義昭の確執】
 1月、長島一向一揆が蜂起する。

 3.14日、正四位下弾正大弼を叙任される。


【信長に対する第一次包囲網】
 この頃、信長に対する第一次包囲網が敷かれている。第一次包囲網は、織田氏対浅井氏&朝倉氏&三好氏の対立となる。

【朝倉攻めの失敗】
 4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍した。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略し、手筒山城(てづつやま)を攻め落とし、金ヶ崎を降伏させ(金ヶ崎の戦い)、いよいよ朝倉の本拠地を攻めようかという時、浅井氏離反の報告を受ける。浅井長政にとっては、織田信長との縁戚関係よりも朝倉義景との主従関係のほうが強かった。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、参戦していたと徳川家康軍と協力し池田勝正、明智光秀、木下秀吉らが殿を務め防戦する中、信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着した。その後、森可成を近江の宇佐山城に、柴田勝家を近江の長光寺城に、佐久間信盛を近江の永原城にそれぞれ留め置き、六角・浅井に備える。柴田勝家、佐久間信盛の両将、近江の落窪で六角義賢を破る。

 4.23日、義昭は、信長が朝倉氏討伐に出陣した後、元亀に改元している。

【六角義賢・義治父子を撃破】 
 6月、信長は野洲河原の戦いで、甲賀から北上し湖南に進出した六角義賢・義治父子を破る。

【姉川の戦い】 
 6月末、信長は浅井-朝倉連合を討つべく徳川軍と共に近江国姉川河原で対峙する。浅井軍5千(8千)、朝倉軍8千(1万)、対する織田軍は2万(2万3千)、徳川軍5千(6千)。この兵が姉川を挟んで織田VS浅井、徳川VS朝倉で睨み合う形となった。織田・徳川連合軍は浅井方の横山城を陥落させつつ激突した。織田軍は13段の構えをとっていたが11段まで崩され、あわやの時に徳川軍1千が援軍に来て形勢逆転させた。激戦は9時間続き、姉川は血で赤く染まった。これを「姉川の戦い」と云う。織田軍が近江南部の支配権を確立し、木下秀吉を近江の横山城に留め置き、浅井長政に備えた。

 8月、浅井・朝倉軍に勝利を収めた信長に対して、三好三人衆が摂津の野田城、福島城で挙兵し、反織田の旗幟を鮮明にした。信長が出陣した。、野田城、福島城の対岸にあるのが石山本願寺で、法主・顕如が「本願寺の危機である!」として三好、根来、雑賀と合し挙兵する。両軍は野田、福島で対峙する(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井、朝倉、延暦寺などの連合軍3万が近江国坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治が討ち死にした。

 9.23日未明、信長は浅井・朝倉軍が京都へ侵入することを恐れ、本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還した。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。石山本願寺と織田信長との戦いは10年に渡り続くことになる。

 10.1日、阿波・讃岐の軍勢2万を率いた篠原長房が摂津に着陣し、石山本願寺の援軍となった。11.21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。さらに朝廷と足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12.13日、将軍義昭の勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。窮地を脱した。但し、篠原長房、三好三人衆は包囲網瓦解後も義昭や信長と対立を続けた。

 この年、ポルトガル船が長崎で交易を開始する。


【信長に対する第二次包囲網】 
 1571(元亀2)年、38歳の時、信長の専横に不満を持った義昭は、信長の影響力を殺ごうとして本願寺の顕如、越前国の朝倉義景、浅井長政、六角義賢、甲斐国の武田信玄、越後国の上杉輝虎(謙信)、中国の毛利輝元、有力大名に信長討伐令を出して信長包囲網を画策していた。これにはかねてから信長と対立していた延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっていた。

 2月、信長は、浅井長政の重臣・磯野員昌を降伏させて佐和山城を落とし、近江南部の支配を確固たるものにした。5月、本願寺顕如の檄を受けて伊勢長島の一向一揆が勃発した。信長軍が討伐のため出兵、氏家直元が討ち死に、柴田勝家が負傷する。佐和山城が明け渡され丹羽長秀が入城する。8月、小谷城に浅井氏を攻める。8月、摂津三守護の一人であった池田勝正が三好三人衆に通じた家臣の荒木村重と一族の池田知正に追放される。更に村重と知正は、足利義昭方の茨木重朝、摂津三守護の伊丹親興、同じく和田惟政を攻め、重朝と惟政を討ち取ってしまう。勢いに乗った池田勢は茨木城、郡山城を攻め落とし、和田惟長の籠る高槻城を攻囲する。これに松永久秀・久通父子と篠原長房が攻囲軍に加わり、フロイスの「日本史」によると、高槻城の城下町を2日2晩かけて焼き尽した。これに対し信長は、明智光秀を派遣し停戦させた(白井河原の戦い)。9月、金森城を陥落させる。

【比叡山焼き討ち】
 9月、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺に対し、「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩である」と述べ焼き討ち。皆殺し指令した。この時、光秀が中心実行部隊として武功を上げた。最澄による開山から約800年、叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され犬までが殺されたという。この焼き討ちは4日間続いた。諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は天魔の変化である」と糾弾した。これを「比叡山焼き討ち」と云う。戦後、明智光秀に近江志賀一郡と坂本城を与える。

 これにつき、天台座主記に「光秀縷々諌を上りて云う」とあり、光秀が信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密だったとされてきた(諌止説)が為されている。しかし、比叡山焼き打ち10日前の9.2日付けの雄琴の土豪の「和田秀純あて光秀書状」で、叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実な中心的な実行者だったことが判明している。

 一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、年末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。


 11月、大和の筒井順慶が明智光秀と佐久間信盛の斡旋により信長に臣従した。


 この年、毛利元就没す。


【フロイス一行が岐阜の織田信長の元を二度目の訪問】
 1572(元亀3)年、39歳の時、1月、フロイスが岐阜の織田信長の元を二度目の訪問をしている。この時、訪れたのはフロイスの他にフランシスコ・カブラル(日本イエズス会の新日本布教長)、ロレンソ(日本人宣教師・通訳も兼ねる)、コスメ・デ・トルレス(日本イエズス会の元日本布教長)であった。暫く宗教談義をしている。信長が聞く。「バテレンは魚や肉を食べるか」。ロレンソが答えて曰く「神から与えられたものなら肉であろうが食べる」。

 3月、本願寺と和睦した信長は北近江へ出陣し、長政の居城小谷城に対して付け城を築いて包囲する。長政が北近江に釘付けとなったことで、美濃と京都を結ぶ連絡線は安泰となり、近江の戦況は信長有利となる。

 5月、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こし、畠山昭高の河内高屋城を攻めた。信長は援軍を送る。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。浅井の小谷城を攻め、羽柴秀吉を虎御前山砦に留め置く。戦況は次第に織田軍有利に展開した。7月、松永・三好軍が引き上げると、信長は北近江に再び出陣して虎御前山砦を築き、朝倉軍による来援を阻止できるようにして小谷城の攻囲を強める。信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。8月、朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継、富田長繁、毛屋猪介、戸田与次郞らが信長に寝返った。松永久秀が信貴山城に籠る。
 
 10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。同月、長政軍の宮部継潤が横山城の守将木下秀吉の調略で信長に寝返るなど、近江はやや小康状態となる。

 11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。当主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、病死する。遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。

【「三方ヶ原の戦い」】
 12月、徳川軍が徳川領の一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3千人の援軍を送った。12.22日、「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀は討死した。武田信玄が三河に侵入し信長は窮地に陥った。

 12.13日、勅命により浅井氏・朝倉氏・六角氏と和睦。


 12月末、松永久秀が信長に降伏する。


【武田軍が上京挙兵】
 1573(元亀4)年、40歳の時、正月、武田軍の勝利を受けて義昭が、それまでの信長との表面的な友好関係を脱し自ら二条城に篭って挙兵した。信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭はこれを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ち(上京焼打ち)し焦土と化さしめた。ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。松永久秀が岐阜へ上り謝罪。信長から謀反を許される。

 2月、武田軍が遠江国から三河国に侵攻し野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、3月末、信長が岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や摂津の荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4.5日、義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。

【武田信玄急死】
 4.12日、信長包囲網の有力な一角である武田信玄が西上作戦中に病死し(死因については諸説ある)、武田軍が撤退を開始し甲斐国へ帰国した。武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直した。5月、阿波において、三好家の主力であった篠原長房が主君・三好長治、十河存保に攻められ自害する(上桜城の戦い)。以降、三好三人衆は四国からの支援を失い孤立することになる。

【室町幕府滅亡】
 7.3日、義昭が信長との講和を破棄。義昭は烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り再度挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣真木島昭光の居城でもあった。更に高屋城では畠山昭高が追放され、三好三人衆と結んだ遊佐信教が実権を握った。烏丸中御門第の留守居は3日で降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7.18日、織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされわずか17日で降伏した(槇島城の戦い)。信長は、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置き人質とした。  

 
7.26日、信長は義昭を破り(槇島城の戦い)追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する。義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま信長の護衛の下、まだ三好義継が健在だった若江城に移送された後、和泉堺、紀伊興国寺へと転々とする。各地を経て最終的に1576(天正4)年に毛利氏の庇護下に入って当時、毛利領だった備後鞆へと移る。鞆へ移るが、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出したが、次第に相手にされず、1580(天正8)年頃には 号令を発することもほとんどなくなり諦めている。旧幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭と共に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた。

 7.28日、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。 


【朝倉義景自刃】
 8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。浅井の将、阿閉貞征が信長に帰順する。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、一乗谷の朝倉を攻め、8.24日、朝倉義景は自刃した。前波長俊を越前守護代に置いた。

【浅井久政・長政父子自害】
 続いて小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、9.1日、浅井久政・長政父子は自害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。旧浅井領は秀吉が統治することになった。

伊勢長島攻略戦
 9.24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10.25日、矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る。

三好氏滅亡
 11月、河内半国守護の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。11.16日、三好義継が、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りに遭い自害する(若江城の戦い)。三好氏はここに滅亡した。

足利義昭の画策
 11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。

 12.26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し信長に降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。

杉谷善住坊惨殺
 去る1570(元亀元).5.6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、この年に捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の鋸で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科している(鋸挽き)。善住坊は7日目に死んだという。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に、徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている。

 正親町天皇に譲位を勧めるが断られる。若狭を丹羽長秀に与える(年月不詳)。


朝倉義景、浅井久政・長政親子の頭蓋骨で飲み回す
 1574(天正2)年、41歳の時、正月の宴で朝倉義景、浅井久政・長政親子の頭蓋骨を「はくだみ」(薄だみ)にし肴とす。「はくだみ」とは、頭蓋骨に漆を塗り金粉をまぶすことをいう。

【越前一向一揆勃発】
 1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した(岩村城の戦い)。

 1月、松永久秀が岐阜に来て信長に謁見する。この頃、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが目立った動きはない。

 3.18日、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した。3.28日、勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。

 4月、再び本願寺が挙兵する。越前守護代の桂田(前波)長俊が一向門徒に殺さる。武田勝頼に美濃の明智城を落とされ、小里城に池田恒興を置く。従五位下に昇任。昇殿を許される(諸説あり)。東大寺収蔵の香木の蘭奢待を賜る。原田直政を山城守護とす。六角義賢が近江石部城を退散。佐久間信盛に石部城を管理さす。武田勝頼が徳川領の遠江・高天神城を落とす。

【長島一向一揆鎮圧】 
 7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1千人余が討ち取られるなど劣勢となる。9.29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった伊勢長島の一向門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。戦後、滝川一益に北伊勢五郡を与える。荒木村重に摂津を与える。荒木村重が有岡城に入城する。

街道整備】 
 この年より大規模な街道整備を行っている。単に広く平らでまっすぐな道というだけでなく、一定間隔で飲食店が存在し、また工事範囲は織田家の領国全てと同盟者の徳川家康の領国にまで及ぶという画期的なものだった(征服した諸国にも順次敷設された)。これにより、自軍の行軍速度が速くなる、街道における治安が向上し人の往来が容易となり商業が活性化するなどといった効果をあげた。民衆には大好評だったらしい。反面、敵の行軍速度も速くなるという短所があったので、他国ではごくごく限定的にしか為されなかった(武田家の棒道など)。領国の枡として京枡を採用した。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。

【石山本願寺と一時的な和睦】
 1575(天正3)年、42歳の時、3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

 信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5千人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平貞昌勢500名の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。落城は時間の問題かと思われたが、城兵のひとりが密かに家康の元に走り援軍を求め、家康から援軍の了承を得た城兵は、援軍の到来を知らせるため城に戻ろうとしたところ、途中で武田の兵に捕まる。降伏宣明の役目を帯びて連れて行かれた城兵が「あと3日もすれば援軍が来る!それまで、皆、城を死守せよ」と大声を張り上げ息絶える。これに、城にいた兵たちも奮起し、援軍の到着まで見事持ちこたえた。その間、家康が織田信長に援軍を要請し、5.12日、信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5.17日、三河国の野田で徳川軍8千人と合流する。

長篠の戦い
 5.18日、織田・徳川連合軍3万8千人が三河国設楽原(現愛知県新城市長篠)に陣を敷いた。5.21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長-家康軍3万8千対武田軍1万5千。信長は設楽原決戦においては馬防柵を3重に築いた。当時の鉄砲は、火薬を詰めて、発射し、掃除して、また火薬を詰めてと連続で銃を撃つことが難しかったが、織田信長は1組目が発射したら次の組の者が前に出て発射。そのあと今度は3組目が出てまた発射。始めに発射した1組目は、2組目、3組目が発射している間に火薬を詰め、発射の準備に取り掛かるという三段撃ち戦法の鉄砲隊を組織し、騎馬隊対策として馬防柵を作り上げた後ろに待機させた。作戦通り、武田の騎馬隊は正面突破してきたところ、馬防柵に捕まり、鉄砲隊の連射に、当時最強と呼ばれたさすがの武田騎馬隊も次々に倒れた。8時間に及ぶ戦いで武田軍の死者は1万人にのぼった。武田軍の山県昌景、馬場信春など名将のことごとくが討ち死にし壊滅的な被害を与えた。勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退した。上杉謙信と和睦し、上杉の抑え部隊1万を率いる海津城代・春日虎綱(高坂昌信)と合流し帰国したという。

 長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、元々の約定に基づき家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで栄えることとなる。

 長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。

【越前一向一揆鎮圧】
 長篠における勝利、越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河を完全に掌握し、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城、高天神城を攻略していく。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。

 6.27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(「「絹衣相論」考参照)。

 6月、信長公記による。美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。

 7.3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。

 この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

 8月、長篠の戦いが終わった直後、信長は、本願寺門徒の内部分裂を好機と見て越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め1万2250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。かく越前一向一揆は十日間で鎮圧された。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。原田直政を大和守護(山城兼務)とし、筒井順慶を寄騎とさす。越前を柴田勝家、前田利家、佐々成政、不破光治らへ与える。三好康長降伏。

【信長が参議・権大納言、右近衛大将叙任】 
 11.4日、信長は参議・権大納言に任じられる。11.7日、さらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)を兼任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。これで朝廷より「天下人」であることが事実上公認された。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。

信長は織田政権の政治・全軍を総括 
 11月、嫡子信忠が岩村城を落とし、秋山信友らを捕らえ殺す。11.28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を濃姫の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。信長は織田政権の政治・全軍を総括した。信長は佐久間信盛邸へ移る。

 この年、長宗我部元親が土佐を統一する。





(私論.私見)