履歴考1(上洛まで)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).7.16日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「履歴考1(上洛まで)」を確認する。「ウィキペディア織田信長」、「信長概略年表」、「織田信長であるか」その他を参照する。 ※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


【織田家の家柄】
 織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。天下統一を目前にして重臣明智光秀に反旗を許すと、その夢のごとき人生を本能寺で終える。
 元々織田家は尾張の守護である斯波家に仕える家柄で、元々は越前丹生(にゅう)郡織田荘(福井県越前町)の座ヶ岳社、織田剣(つるぎ)神社の神官だった。織田氏は出雲系の忌部一族の末裔であり、この地に移住してきたのは阿波国系の阿波忌部一族であり、座ヶ岳山頂にスサノオノミコトをお祀りしたことが剱神社元宮(現 奥宮)の由来とされる。後に麓でお祀りされるようになり、これが織田剱神社の起源となる。この一族が越前忌部一族となり、織田剱神社の宮司を務めてきた。常昌の代の時、地名の織田を名乗ったことが織田信長一族の発祥となる。そのルーツとなったのが座ヶ岳社とされる。
(私論.私見)
 要するに相当に能力の高い且つ美形の一族であると云うことになる。この見立てが織田信長論の骨格となるべきだろう。
 織田信長が生まれた頃の尾張は、織田伊勢守家と織田大和守家の二つの織田家によって支配されていた。斯波家は、越前や尾張、遠江の守護をまかされており、家臣であった織田常正に尾張の守護代を任せていた。そこへ織田常竹にも守護又代として働かせることにした。これが尾張を支配する二つの織田家の始まりで、応仁の乱の頃になると斯波家も分裂した為、織田家も分裂し対立していくことになる。織田信長は、織田大和守家に仕える家臣の家に生まれる。二つに分裂した織田家のさらにその家臣の家柄となる。信長の父の信秀が戦国下剋上の中で才覚を発揮する。尾張の守護大名である斯波氏の力が衰えを見せると、信秀は商業都市である津島、熱田を支配し、経済力をつけ支配権を尾張中西部に伸ばした。その家督を継ぐのが信長となる。

 信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。 

【信長誕生前の織田信秀の時代】
 1533(天文2)年、5.8日、権大納言/山科言継(ことつぐ)が歌鞠伝授と云う名目で尾張に下向し、織田信秀の案内で居城/勝幡(しょばた)城へ入る。

【信長誕生】
 1534(天文3)年、5.12(28?)日、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名にして尾張守護代家に仕える織田信秀。清須三奉行の一人で、元々の身分はそう高い方ではない。母は信秀の正室の土田御前(どたごぜん・土田政久の娘)。その嫡男として、那古野城(現在の名古屋市中区)で生誕(勝幡城(しょばたじょう・愛西市)説もある)。織田信秀は尾張守護代の庶流。兄弟姉妹は信長、信勝、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利。お犬の方(佐治信方室→細川昭元室)、お市の方(浅井長政継室→柴田勝家室)。

 幼名は吉法師。通称は信長。三郎、上総守、上総介、右大将、右府。渾名:第六天魔王、大うつけ。他従五位下・弾正少忠、正四位下・弾正大弼、従三位・参議、権大納言、右近衛大将、正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位、贈従一位・太政大臣、贈正一位。
 正室:濃姫側室:生駒吉乃、お鍋の方、原田直子、養観院、養勝院、ふもし方(杓子方)、ひしお方、重箱ノ方、おたこ方、お駒方。信忠、信雄、信孝。

【信長誕生後の信秀&信長履歴】
 1535(天文4)年、2歳の時、那古野城主となる。

 まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
 1540(天文9)年、7歳の時、6月、織田信秀が三河に攻め入り安祥城を攻略する。
 1542(天文11)年、9歳の時、斎藤道三が主君・土岐頼芸を破り尾張に追放する。信秀が三河小豆坂にて今川義元に敗北する。
 1543(天文12)年、10歳の時、信長公記によれば幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。身分にこだわらず民と同じように町の若者とも戯れていた。この年、ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来する。
 1543(天文12)年、信秀が、熱田神宮や伊勢神宮に内裏修理料として4千貫もの大金を献上している。
 1546(天文15)年、13歳の時、父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)にて元服し、那古野城主となり織田三郎信長と名乗る。この年、足利義輝が13代将軍になる。
 1547(天文16)年、14歳の時、平手政秀の後見で三河吉良大浜に初陣する。この年、松平竹千代(家康)が人質として尾張へ来る。信秀が美濃へ侵攻し斎藤道三に敗北する。
 1548(天文17)年、15歳の時、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立する。この年12月、上杉謙信が家督を継ぐ。
 1549(天文18)年、16歳の時、2.24日、斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。上総介を自称する。信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。同年、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。熱田八ケ村中に制札を下し藤原信長と署名している(信長文書の初見)。この年、ザビエルがキリスト教の布教を始める。安祥城の織田信広が今川に生け捕られ松平竹千代と人質交換となる。

【斎藤道三の娘・濃姫と結婚】
 1549(天文18)年、16歳の時、2.24日、斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。上総介を自称する。同年、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。熱田八ケ村中に制札を下し藤原信長と署名している(信長文書の初見)。この年、ザビエルがキリスト教の布教を始める。安祥城の織田信広が今川に生け捕られ松平竹千代と人質交換となる。

【斎藤道三の娘・濃姫と結婚】
 1550(天文19)年、17歳の時、斎藤道三が正徳寺で信長と会見し、うつけ者と呼ばれていた信長の器量を値踏みする。
 2019.2.6日、「信長のコトバ『であるか』」。

 敵の首を刈るのが手柄の時代の感覚でも、斎藤道三は危険人物だった。渾名は美濃の蝮。主人を追放して大名になったからだ。蝮の子は親の腹を食い破って生まれると信じられていた。その道三が、富田の正徳寺に信長を誘ったのは、父信秀の死の翌年春のことだ。正徳寺は美濃と尾張の国境近くの一向宗の寺。富田は寺内町で、世俗の権力の及ばない中立地帯だ。トランプと金正恩の首脳会談が、双方の安全を保証するシンガポールで行われたのと同じ話だ。

 道三の娘はその数年前に信長に嫁いでいた。典型的な政略結婚だが、ともかくふたりは舅と女婿の関係にある。会見の申し入れは一応筋が通っている。ただし、それは一般人の話だ。将棋の王将と王将が隣り合うことがないように、戦国大名同士が直接顔を合わせることなどまずなかった。暗殺を含め、何が起きても不思議はないのだ。それを百も承知で、さらりと誘いをかけるのが道三の空恐ろしいところだ。魂胆があった。断れば、信長は臆病者だという評判が立つ。「たわけ」で臆病者なら、信長から離反する者はさらに増えるだろう。

 普通に考えれば、それでも信長は断るはずだ。道三に会っても、得るものは何もない。美濃の蝮がどんな顔をしているかわかるくらいのものだ。ところが、信長はあっさりとこの誘いを受ける。そこで道三は会見に罠を仕かける。肩衣や袴で華麗に正装させた古老数百名を、会見場の寺の縁先に座らせたのだ。信長は昨年の父親の葬儀にさえ、破廉恥な浴衣姿で現れ、位牌に抹香を投げつけて帰ったという。舅である道三との会見の場にも、無法者のような風体で現れるに違いない。そんな信長を正装した何百人もの配下に嘲笑させ、恥を掻かせようという目論見だった。あるいは、信長の人物を見極めようとしたのかもしれない。人前で恥を掻かされるような場面で、人は往々にして人間性を露わにするものだからだ。

 しかし、信長は舅を手玉に取る。会見場までは、腰に荒縄を巻き、肩を外した浴衣姿(『老人雑話』によると浴衣の背中には極彩色の男根まで描かれていたという)でやってきたが、寺に着くとすぐに髪を結い、堂々とした長袴と羽織の正装で会見に臨む。嘲笑するはずの当てが外れ、面目を失った道三が渋々姿を現しても、信長は縁先の柱を背にして座ったままだ。双方の家臣団は、固唾を呑んでその様子を見守っていた。本来なら若輩の信長が、先に挨拶をするべきだろう。けれど、信長は素知らぬ顔をしている。見かねたひとりの家来が「こちらが山城殿(道三のこと)です」と紹介するにおよんで、ようやくひと言発する。「であるか」※。それからふたりは尋常に挨拶をし、酒を酌み交わすのだが、道三は終始苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたという――。

 これが戦いくさなら、「であるか」は最後のとどめのようなものだろう。道三の罠を、信長は鮮やかに撥ね返した。それはその場の誰もが理解していた。だからこそ、舅であり年長者である道三が、二十歳の若僧の無礼な態度をとがめ立てできなかった。勝負はついたのだ。そう考えれば、血が流されることはなかったけれど、正徳寺での会見もふたりにとってはひとつの戦だった。


【信長が家督を継ぐ】
 1551(天文20)年、18歳の時、父・信秀が没したため、家督を継ぐ。父・信秀の葬儀の焼香の際、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけた逸話を遺している。「信長公記」(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われる。
 この年、ザビエルが日本を去る。

 2019.2.3日、「信長見聞録 天下人の実像 ~第一章 織田信秀~」。
 織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

 信長のコトバ:「今度はもっと熱心にその仏像に自分自身の命乞いをしてみろ」

 青年期の信長が世間から「大たわけ」呼ばわりされたのは有名な話だ。放埒な身なりと酷い行儀ゆえとされているが、もっと大きな背景がある。父の織田信秀が四十二歳の若さで歿っした時、信長は十九歳だった。この時代の基準では立派な大人だ。まして信長は吉法師と呼ばれた幼少時代から城と専属の家臣団を与えられ、次世代の主として育てられた。文句のつけようのない新当主だ。船出は順風満帆のはずだった。しかし、現実は真逆だった。

 信秀の時代、尾張の国は上と下のふたつに分割され、それぞれに織田伊勢守と織田大和守という支配者がいた。信秀は大和守配下の有力な三奉行のひとりに過ぎない。石高十四万石。一石の米で大人ひとりが一年暮らせたから、十四万人程度の人口を養える計算だ。現代なら、中堅の市の市長というところだ。

商港を支配し資金力には余裕があったらしいが、その〝一市長〞が尾張全土に影響力を及ぼせたのには理由がある。北西を斎藤道三の美濃、東を駿河と遠江を領する大国今川家に挟まれた小国の寄せ集めのごとき尾張は、軍事力をまとめ上げ、東西の大国に対抗できる本物の実力者を必要としていたのだ。尾張の弱小領主の盟主となり、八面六臂の活躍でその役目を務めたのが、戦上手で人望の厚い信秀だった。その信秀が、四十二歳の働き盛りで突然逝ったのだ。信長が正統な後継者でも、簡単に認められる話ではなかった。信秀の同盟者だった尾張国内の小領主はもとより、一族や家来にとってもそれは同じことだ。なにしろこの時代、戦に敗れるとは首を切られ、耳や鼻を削がれることだった。後方の妻子も、幸運にも死や強姦を免れたとしても、人質にされ遠国へ売られる運命が待っていた。信長に自分たちの命を託せるか否か。彼らは命がけで、この若者の行動に注目した。信秀が極めて優れた武将であったがゆえに、息子の信長への評価は厳しくならざるを得なかった。
 
 この若僧に、はたしてあの老練な武将の代わりが務まるか?「それは無理だ」というのが、人々の見方であり、だから兄弟までもが反旗を翻したのだ。信長の船出は、猛烈な逆風に晒された。つまりこれが、信長が「大たわけ」と馬鹿にされた話の本当の意味だ。後世の書物では、たわけは信長の偽装ということになっている。敵を油断させるため、馬鹿者のふりをしたという。面白い話だが、牽強付会だろう。信長は偽装などしていない。彼は常識に背を向け、自分の思うままに行動した。その行為が人々の理解を超えただけのことだ。

 一例を挙げる。信秀の死の直後、信長は父の病気の平癒を祈祷した僧侶を寺に閉じ込め、こう言って鉄砲を撃ちかけたという話がある。「おまえたちは父の健康について嘘を言ったから、今度はもっと熱心にその仏像に自分自身の命乞いをしてみろ」※。祈祷で命が救えるなら、鉄砲の弾も当たらないだろうという理屈だ。結局、数名の僧侶が落命した。筋は通っている。それを無茶というなら、病気平癒の祈祷はペテンということだ。この話は宣教師のルイス・フロイスだけが書き残した。日本側の記録には残っていない。当時の日本人には、信長の怒りが理解できなかったのだろう。


【清洲城の小守護代坂井大膳らと戦う】
 その後、信長は「守護の斯波氏を守る」との大義名分で、尾張の中心だった清須城を事実上占拠。しばらくの間は身内との権力争いに忙殺される。この頃の織田家は尾張一国をまとめることもできないでいた。
 1552(天文21)年、19歳の時、8.16日、清洲城の小守護代坂井大膳らと戦う。

 1553(天文22)、20歳の時、閏1月、信長の教育係であった平手政秀が自害する。これは諌死(かんし・死でもってたしなめる)であったとも息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の臨済宗派の沢彦宗恩(たくげんそうおん)を和尚として政秀寺(せいしゅうじ)を建立し政秀の霊を弔った。

 4.17日、鳴海城の山口教継・教吉父子が今川義元へ寝返る。

 4月、道三と聖徳寺にて会見する。この年、謙信と信玄が「川中島の戦い」をする。

 1554(天文23)年、21歳の時、1.20日、今川義元が尾張の村木に砦を築き、織田方の緒川城・水野信元を攻める。7.12日、尾張守護の斯波義統が守護代・織田信友に殺される。当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。11月、信長が上総介(上総守)を名乗る。本拠を清洲城に移転。村木砦の戦いで今川勢を破っている。

 1555(弘治元)年、22歳の時、守護殺害を理由に叔父織田信光と謀り、守護代織田信友を攻め滅ぼし清洲城を奪取して城主となる。この年、第2回川中島の戦い。竹千代が元服し松平元康と名乗る。

 1555(弘治元)年、閏10月、元出雲国の豪族にして、ある日内裏を修理せよという夢のお告げによって出家し、やがて近衛前久経由で朝廷から上人(しょうにん)号を授与されていた日乗が、内裏の修理に着手した。

【妻・帰蝶(濃姫)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれる】
 1556(弘治2)年、23歳の時、4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも間合わず、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し道三敗死の知らせにより退却した。

【重臣間が信長派と弟・信勝(信行)派で内紛】
 8.22日、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。8.24日、道三の死去を好機と見た信勝派は挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、8.26日、生母・土田御前の仲介により信勝、勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し赦免されている。

【弟勘十郎信勝(信行)殺害】
 1557(弘治3)年、24歳の時、11.2日、弟勘十郎信勝(信行)が再び謀反を企てる。この時、かつて信勝派であり、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した(弟・信勝(信行)を暗殺)。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。信行は前にも兄・織田信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかったが、二度目の裏切りでは殺害も致し方なし処置となった。

 さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。この年、毛利元就が周防長門の両国を平定する。

【尾張上四郡の守護代岩倉城主織田信賢を破る(浮野の合戦)】
 1558(永禄元)年、25歳の時、7.12日、尾張上四郡の守護代岩倉城主織田信賢を破る(浮野の合戦)。

 2019.4.2日、 石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像  ~第四章 長槍隊~」。
 織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

 信長のコトバ:「兎角、槍はみじかく候ては悪しく候わん」

 父の信秀亡き後、信長は苦境に立たされる。若い信長は、父から受け継いだ家臣たちの信頼を得られなかったのだ。敵方への寝返り、一族内の裏切りや謀反が相次ぎ、尾張国内は紛争絶えない内乱状態に陥る。そうなれば戦国の世の常として他国からの侵略は必至で、後の桶狭間の戦いにつながるわけだけれど、なぜ信長はそれほどまでに家臣の信頼を得られなかったのか。

 宣教師のルイス・フロイスが、答えになりそうな事実を書き残している。「彼(信長)は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで」。フロイスが描いたのは天下を手中にした後の信長だが、少年時代から彼は人の言うことを聞かなかった。無法者のような格好で町に現れ、立ちながら柿や瓜や餅を喰らい、人の肩にぶら下がって歩いていたので、人は彼を大うつけと呼んだ、と『信長公記』にはある。それも、彼が大人の意見に耳を貸さなかったことの証左だろう。教育係の平手政秀あたりから、日々小言を食らっていたはずなのだ。けれど、行儀の悪さ程度のことが、信秀恩顧の荒武者たちがことごとくその後継者に背を向けた理由になるとは思えない。彼らにとってより深刻だったのは、例えば槍や鉄砲の問題だったはずだ。信長は早い時期から他の戦国大名に先駆けて、大量の鉄砲を有していた。斎藤道三との会見の場にも、堂々とした鉄砲隊を引き連れて現れている。槍隊には三間半という異様な長槍を装備させていた。三間半は約6.4mである。そういう特異な軍勢の雛形を信長は、遅くとも19歳の頃には完成させていたのだ。それを見た道三の家臣が「やはり信長はうつけですな」と、わらったという話が残っている。鉄砲も長槍も、見かけ倒しで実戦では役に立たないと言いたかったのだろう。それが当時の武将たちの一般的な反応だったはずだ。なぜなら、いまだかつてそんな軍隊は存在したことがないから。信長の家臣たちも内心は同じ気持ちだったはずだ。武器の編成を大きく変えることは、今までの合戦の仕方を大きく変えることだ。経験豊富な武将ほど、拒絶反応を示したことは想像に難くない。それは彼らの戦場での経験を、全否定することに等しいから。信長を諫めた家臣もいたことだろう。けれど、信長は聞く耳を持たなかった。それは、彼が自分の経験したことだけを信じる種類の人間だったからだ。他人には珍奇に見えても、その行動はすべて彼なりの実証に基づいていた。長槍を用いるようになったのも、少年時代に引き連れていた悪ガキ同士に、竹槍の叩き合いをさせた経験からだった。

 「兎角、槍はみじかく候ては悪しく候わん」※

 そう言って、三間半もの桁外れの長槍を装備させた。槍の長さを変えただけでなく、信長はそうやって彼自身の長槍隊を育て、彼なりの戦い方を工夫していた。鉄砲の用法についても工夫を重ねたはずだ。大人たちの言葉には一切耳を貸さずに!その行動のすべてが、経験豊富な武人たる家臣たちには理解不能だった。IT黎明期のスタートアップに対する、既存の経済界の反応みたいなものだ。離反者が相次いだのも無理はない。この時期の信長直属の軍勢は800人程度と言われる。自己のみを信じ、その僅かな手勢で悪戦苦闘を繰り返しながら、尾張全域の支配を目指す。それが信長の二十代の姿だった。

 2019.5.6日、石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像  ~第五章 武田信玄~」。
 信長のコトバ:「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かたりをこすよの」

 信長がいくつもの血生臭い闘争の末に、尾張全域をなんとかその支配下に置いたのは25歳の頃。血生臭いのは、それが血縁や仲間の血だったからだ。 当時の日本は、実質的には無政府状態だ。足利将軍は京都でかろうじて命脈を保ち、その権威は地方にも届いてはいた。尾張にも守護職斯波氏の家系が残り、一応の尊崇を受けてはいたが、権威のみの存在で、現実的な権力は持たなかった。この時代の権力とは、すなわち兵力だ。行政権も司法権も立法権も、すべて具体的な軍事力を背景に行使された。尾張国内の十数の城には城主がいて、それぞれに権力を行使していた。 

 一時期はその大半が、信長に敵対していた。しかもその城主の多くが、縁者や父信秀の有力な家臣だった人々だ。叔父や従兄弟、少年時代の遊び仲間、味方だったはずの家来衆、さらに兄弟さえも敵として、信長は戦わなければならなかった。理由はひとつ。信長の兵力不足だ。信秀という重石が外れれば、信長は尾張に割拠する弱小勢力のひとつでしかなかった。

 僅かに有利だったのは、隣国美濃の斎藤道三が信長の庇護者となったこと。信長が城の全軍を率いて出陣しなければならなくなった時は、と言っても800人ほどの軍勢だが、空になった城を守備する援軍を送ってくれたりもした。けれどその道三も息子の義龍に討たれ、信長は美濃とも敵対関係となる。八方塞がりの状態で、信長はわずかの手勢を率い、親類縁者と泥沼の戦を続けたのだ。後年の信長を知る我々は、それを天下人の人生の前哨戦と見てしまいがちだ。けれど、信長の生が最も充溢していたのはこの時期だったはずだ。

 信長が尾張一円を支配下に置いた頃、旅の僧侶が武田信玄と面談した。僧侶の寺が信長の居城のある清洲にほど近いことを知ると、信玄は目の色を変えて信長の人物像を訊ねる。信長が毎朝馬に乗り、鉄砲や弓の稽古をし、常に兵法を学んでいること。頻繁に鷹狩りに出かけること、その鷹狩りの方法が独特であること……。信玄に問われるままに僧侶は語る。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」。幸若舞のこの一番だけを、信長は謡いながら舞う。また小唄を愛謡すると僧侶が話すと、信玄は信長の真似を懇願する。

 「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かたりをこすよの」※

 信長の人となりを、声の調子から少しでも推し量ろうとしたのだろう。残念ながら我々はそれを聞けないが、信長の心境はわかる気がする。彼も死を恐れたのだ。恐れたからこそ、死を正面に見据え、目的の完遂に集中しようとしたのだ。

 この時期の信長は前線で戦った。自らの手で敵の首を落とし、川の対岸に味方を退却させるため、最も危険な最後尾の部隊を指揮したりもした。少数の軍勢で勝ち抜くことができたのは、将たる信長が自らの命を危険に晒し続けた結果でもあったのだ。何よりもそれが劣勢の味方の士気を鼓舞する唯一の方法だったから。彼の工夫した新戦法もさることながら、この信長の徹底した行動こそが、弱いという定評のあった尾張兵を強靱で集中力の高い軍隊に変えた。激しく戦った敵のなかにも、例えば柴田勝家のように、やがて信長に心服する人々が現れる。こうして信長は着々と軍事力を拡大する。とは言え、今川義元が尾張に侵攻した時、信長が動員できたのは2000人の兵力に過ぎなかったのだが。

 ※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)51ページより引用
 訳:死はひとのさだめ、生きたあかしに何をしよう。きっと人はそのことを語るだろう


【信長初上洛】
 1559(永禄2)年、26歳の時、2.2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。その後、奈良、堺も見物している。岩倉城の織田信賢を追放する。

【桶狭間の戦い】
 1560(永禄3)年、27歳の時、5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は2万人とも4万人とも号する大軍であった。これに対する織田軍の総兵力は5千人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。5.19日、信長は、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま湯漬けを食べ、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4千人の軍勢を整えて出撃した。桶狭間に宿営する今川軍の陣中に強襲をかけ、毛利新助が今川義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は総崩れし本国駿河国に退却した。この桶狭間の戦いで、「尾張に織田信長あり」と織田信長を世間に名を知らしめる戦いとなった。

 桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。徳川家康(この頃、松平元康より改名)が今川氏の支配から独立し岡崎城へ入る。

 2019.6.3日、石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像 ~今川義元編~」。
 織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。

 信長のコトバ:「すは、かかれかかれ」

 将棋の目的は敵の王将を詰むことだけれど、プロ棋士の試合で実際に王将が取られることはない。その何手も前に、勝敗が明らかになるからだ。敗北を認めた側が「参りました」と頭を下げ戦いは終わる。戦国時代の合戦も、これと似ている。大名が戦場で討ち取られた例は皆無に近い。戦いくさの趨勢が決した時点で、主君は幾重にも守られ退却する。万一殺されることでもあれば、現代の戦争で国家元首が戦死するにも匹敵する大事件だ。その珍事が出来したのが、桶狭間だった。

 永禄三年五月十九日、新暦では六月十二日。猛火に炙られるような暑い日だった、と古い記録にある。正午過ぎに突如黒雲が湧き、桶狭間山に兵を休めていた今川義元の本陣は、雹混じりの猛烈な驟雨に叩かれる。楠の大木が倒れ、視界が閉ざされるほどの雨風だった。信長の軍勢が襲いかかったのは、その突然の暴風雨が去った直後だ。信長公記はこう記す。「空晴るるを御覧じ、信長槍をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれかかれと、仰せられ、黒煙立てて懸かる」。

 空が晴れるのを見て、信長は槍を取り、大声で「かかれ、かかれ」と命じ、黒煙を立てて襲いかる。今川方は信長の接近に気づいていなかったらしい。先陣は瞬時に崩れ、槍に鉄砲、旗指物、さらには塗ぬ り輿ご まで捨てて潰走する。塗輿は貴人の乗る漆塗りの輿だ。陣中で輿に乗るような人物は義元しかいない。信長はそこが義元の本陣であると悟り、総攻撃を命じる。

 「旗本は是なり。是へ懸かれ」

 旗本は主君直属の家臣だ。戦場では、身を盾にして主君を守る近衛兵の役割を果たす。その旗本300騎が義元を中心に円陣を組んで退却していたが、尾張兵の波状攻撃で次々に斃されていく。義元の守りが50騎ばかりに減ると、信長は馬から下りて「若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらったる若ものども、乱れかかって、しのぎをけずり、鍔を割って、火花をちらし」という白兵戦に突入する。若武者とは信長の身辺を守る小姓たちだろう。その屈強の若武者と先を争って信長自ら敵を槍で突き倒す。そこからは合戦というより喧嘩に近い。槍さえもまだるっこしいと苛立った若武者たちは、刀を抜いて、敵と組んず解れつの殺し合いになる。ちなみに実際の戦場で刀が使われることはあまりなかった。刀は他の武器を失った最終局面で身を守るか、あるいは敵の首を切り落とすためのもの。刀と刀を直接打ち合わせるような戦いでは、勝った側も傷を負うのが常なのだ。周囲は血の臭いが充満したはずだ。信長側も負傷者、死人が数知れずという惨状を経て、義元はついに捕捉される。輿に乗り公家のような化粧を好んだ義元は柔弱だったという説もあるが、彼は殺到する若武者相手に刀を抜き、膝を断ち割ってひとり倒している。最後は毛利新介に首を落とされるのだが、今際の際にその新介の指を噛み切ったという言い伝えさえ残っている。

 駿遠三の三国を支配する大大名が戦場で首を落とされるという珍事とともに、尾張の二千足らずの軍勢が今川の四万五千の大軍を撃破したという噂は戦国の世を震撼させ、尾張の小勢力に過ぎなかった織田信長の武名が全国に轟くことになる。けれど信長はこの日を最後に二度と、こういう戦をしなかった。「死のふは一定」という例の小唄もやめた。義元の首を落とせたのが単なる僥倖に過ぎないことを、他の誰よりも彼自身がよく知っていたからだ。

 ※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)56ページより引用

 石川拓冶(Takuji Ishikawa

 文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」。


【斎藤義龍が急死】
 1561(永禄4)年、28歳の時、斎藤義龍が急死する。斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。斎藤義龍の急死により嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し森部・十四条の戦いに勝利する(森部の戦い)。墨俣砦を奪取。稲葉山城を攻撃するが敗退する。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。この年、第3回川中島の戦い。

【清洲同盟】
 1562(永禄5)年、29歳の時、信長が三河の松平元康(徳川家康)と清洲城で会見し同盟を結ぶ。織田家と松平家は敵対関係にあり幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったための同盟となった。この織徳間同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。犬山城の織田信清が斎藤氏と結ぶ。

【本拠を要害の小牧山城に移転し美濃攻略の根拠地とする】
 1563(永禄6)年、30歳の時、本拠を要害の小牧山城(愛知県小牧市)に移転し美濃攻略の根拠地とする。このころ美濃は、息子の斎藤義龍が義父の斎藤道三に軍事クーデターを起こして当主になっていた。信長は、道三時代は友好だった関係も、義龍が反織田に切り替わっていて、織田方の犬山城など尾張北方を侵食。清須から小牧山城への移転は、これに対応する攻守の政策決断でもあった。この年、松平元康が家康と改名する。
 織田信長は、家督を継いでから天下に名前を鳴り響かせるまで頻繁に本拠地を変えている。これは他の大名にはさほど例のない珍しい事例である。例えば、武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに春日山城(新潟県)から動いたことはない。その点、戦略に応じて本拠地を変えるのが信長だった。

【浅井長政と同盟】
 1564(永禄7)年、31歳の時、北近江国の浅井長政と同盟を結び斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。斎藤家臣の竹中重治が稲葉山城を占拠。数日後斉藤龍興へ返却する。丹羽長秀の活躍により犬山城の織田信清を倒し尾張を統一する。この年、第4回川中島の戦い。

【滝川一益の援軍依頼により伊勢方面に進出】
 1565(永禄8)年、32歳の時、信長が滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏と戦う。

【永禄の変】 
 5.19日、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する。久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せた。しかし、義景は三好氏追討の動きを見せなかった。 

 この頃、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中美濃の諸城(宇留摩城、猿啄城、加治田城)を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけている。養女を武田信玄の子・勝頼へ嫁がす。

【美濃河野島で斉藤龍興と戦い大敗】 
 1566(永禄9)年、33歳の時、7月、尾張守を自称する。8月、美濃河野島で斉藤龍興と戦い大敗する。この年、松平家康が徳川と改姓する。

【斎藤龍興を伊勢長島に敗走させる(稲葉山城の戦い)】
 1567(永禄10)年、34歳の時、信長は、「稲葉山城の戦い」で稲葉山城を陥落させ、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。この時、井ノ口を岐阜と改称している。

【北伊勢攻略】
 1567(永禄10)年、滝川一益に北伊勢を攻略させ、楠城などを奪取する。

【お市の方を浅井長政に嫁がせる】
 1567(永禄10)年、織田・浅井の同盟成立で、お市の方を浅井長政に嫁がせる。

【義昭が接近図る】
 1567(永禄10)年、7月、義昭が美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

【稲葉山城攻略】
 1567(永禄10)年、8月、稲葉山城を攻略。8.15日、稲葉山城を岐阜城に改め、小牧から移城本拠とする。

【天下布武】
 11月、信長が僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印の印章を使用し始める。これにより本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11.9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみだった。娘徳姫を徳川家康の嫡子・信康へ嫁がせる。

 美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結ぶ。11月、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世した。この為、年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

【北伊勢平定】
 1568(永禄11)年、35歳の時、2月、北伊勢平定、三男信孝を神戸具盛の養嗣子とする。美濃の加納に楽市楽座を認める。この頃から弾正忠を称す。

【明智光秀が信長の家臣となる】
 朝倉家の重臣であった明智光秀が織田信長の家臣となり、その仲介により足利義昭と織田信長をひき会わせる。7月、義昭が美濃に入り三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長の食客となる。その後、尾張へ移る。







(私論.私見)