履歴考1(上洛まで) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「履歴考1(上洛まで)」を確認する。「ウィキペディア織田信長」、「信長概略年表」、「織田信長であるか」その他を参照する。 ※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【織田家の家柄】 |
織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。天下統一を目前にして重臣明智光秀に反旗を許すと、その夢のごとき人生を本能寺で終える。 |
元々織田家は尾張の守護である斯波家に仕える家柄で、元々は越前丹生(にゅう)郡織田荘(福井県越前町)の座ヶ岳社、織田剣(つるぎ)神社の神官だった。織田氏は出雲系の忌部一族の末裔であり、この地に移住してきたのは阿波国系の阿波忌部一族であり、座ヶ岳山頂にスサノオノミコトをお祀りしたことが剱神社元宮(現 奥宮)の由来とされる。後に麓でお祀りされるようになり、これが織田剱神社の起源となる。この一族が越前忌部一族となり、織田剱神社の宮司を務めてきた。常昌の代の時、地名の織田を名乗ったことが織田信長一族の発祥となる。そのルーツとなったのが座ヶ岳社とされる。 |
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要するに相当に能力の高い且つ美形の一族であると云うことになる。この見立てが織田信長論の骨格となるべきだろう。 |
織田信長が生まれた頃の尾張は、織田伊勢守家と織田大和守家の二つの織田家によって支配されていた。斯波家は、越前や尾張、遠江の守護をまかされており、家臣であった織田常正に尾張の守護代を任せていた。そこへ織田常竹にも守護又代として働かせることにした。これが尾張を支配する二つの織田家の始まりで、応仁の乱の頃になると斯波家も分裂した為、織田家も分裂し対立していくことになる。織田信長は、織田大和守家に仕える家臣の家に生まれる。二つに分裂した織田家のさらにその家臣の家柄となる。信長の父の信秀が戦国下剋上の中で才覚を発揮する。尾張の守護大名である斯波氏の力が衰えを見せると、信秀は商業都市である津島、熱田を支配し、経済力をつけ支配権を尾張中西部に伸ばした。その家督を継ぐのが信長となる。 信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。 |
【信長誕生前の織田信秀の時代】 |
1533(天文2)年、5.8日、権大納言/山科言継(ことつぐ)が歌鞠伝授と云う名目で尾張に下向し、織田信秀の案内で居城/勝幡(しょばた)城へ入る。 |
【信長誕生】 |
1534(天文3)年、5.12(28?)日、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名にして尾張守護代家に仕える織田信秀。清須三奉行の一人で、元々の身分はそう高い方ではない。母は信秀の正室の土田御前(どたごぜん・土田政久の娘)。その嫡男として、那古野城(現在の名古屋市中区)で生誕(勝幡城(しょばたじょう・愛西市)説もある)。織田信秀は尾張守護代の庶流。兄弟姉妹は信長、信勝、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利。お犬の方(佐治信方室→細川昭元室)、お市の方(浅井長政継室→柴田勝家室)。 幼名は吉法師。通称は信長。三郎、上総守、上総介、右大将、右府。渾名:第六天魔王、大うつけ。他従五位下・弾正少忠、正四位下・弾正大弼、従三位・参議、権大納言、右近衛大将、正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位、贈従一位・太政大臣、贈正一位。 正室:濃姫側室:生駒吉乃、お鍋の方、原田直子、養観院、養勝院、ふもし方(杓子方)、ひしお方、重箱ノ方、おたこ方、お駒方。信忠、信雄、信孝。 |
【信長誕生後の信秀&信長履歴】 |
1535(天文4)年、2歳の時、那古野城主となる。 まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。 |
1540(天文9)年、7歳の時、6月、織田信秀が三河に攻め入り安祥城を攻略する。 |
1542(天文11)年、9歳の時、斎藤道三が主君・土岐頼芸を破り尾張に追放する。信秀が三河小豆坂にて今川義元に敗北する。 |
1543(天文12)年、10歳の時、信長公記によれば幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。身分にこだわらず民と同じように町の若者とも戯れていた。この年、ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来する。 |
1543(天文12)年、信秀が、熱田神宮や伊勢神宮に内裏修理料として4千貫もの大金を献上している。 |
1546(天文15)年、13歳の時、父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)にて元服し、那古野城主となり織田三郎信長と名乗る。この年、足利義輝が13代将軍になる。 |
1547(天文16)年、14歳の時、平手政秀の後見で三河吉良大浜に初陣する。この年、松平竹千代(家康)が人質として尾張へ来る。信秀が美濃へ侵攻し斎藤道三に敗北する。 |
1548(天文17)年、15歳の時、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立する。この年12月、上杉謙信が家督を継ぐ。 |
1549(天文18)年、16歳の時、2.24日、斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。上総介を自称する。信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。同年、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。熱田八ケ村中に制札を下し藤原信長と署名している(信長文書の初見)。この年、ザビエルがキリスト教の布教を始める。安祥城の織田信広が今川に生け捕られ松平竹千代と人質交換となる。 |
【斎藤道三の娘・濃姫と結婚】 |
1549(天文18)年、16歳の時、2.24日、斎藤道三の娘・濃姫と結婚する。上総介を自称する。同年、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。熱田八ケ村中に制札を下し藤原信長と署名している(信長文書の初見)。この年、ザビエルがキリスト教の布教を始める。安祥城の織田信広が今川に生け捕られ松平竹千代と人質交換となる。 |
【斎藤道三の娘・濃姫と結婚】 | |
1550(天文19)年、17歳の時、斎藤道三が正徳寺で信長と会見し、うつけ者と呼ばれていた信長の器量を値踏みする。 | |
2019.2.6日、「信長のコトバ『であるか』」。
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【信長が家督を継ぐ】 |
1551(天文20)年、18歳の時、父・信秀が没したため、家督を継ぐ。父・信秀の葬儀の焼香の際、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけた逸話を遺している。「信長公記」(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われる。 |
この年、ザビエルが日本を去る。 |
2019.2.3日、「信長見聞録 天下人の実像 ~第一章 織田信秀~」。
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【清洲城の小守護代坂井大膳らと戦う】 |
その後、信長は「守護の斯波氏を守る」との大義名分で、尾張の中心だった清須城を事実上占拠。しばらくの間は身内との権力争いに忙殺される。この頃の織田家は尾張一国をまとめることもできないでいた。 |
1552(天文21)年、19歳の時、8.16日、清洲城の小守護代坂井大膳らと戦う。 |
1553(天文22)、20歳の時、閏1月、信長の教育係であった平手政秀が自害する。これは諌死(かんし・死でもってたしなめる)であったとも息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の臨済宗派の沢彦宗恩(たくげんそうおん)を和尚として政秀寺(せいしゅうじ)を建立し政秀の霊を弔った。 4.17日、鳴海城の山口教継・教吉父子が今川義元へ寝返る。 4月、道三と聖徳寺にて会見する。この年、謙信と信玄が「川中島の戦い」をする。 |
1554(天文23)年、21歳の時、1.20日、今川義元が尾張の村木に砦を築き、織田方の緒川城・水野信元を攻める。7.12日、尾張守護の斯波義統が守護代・織田信友に殺される。当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。11月、信長が上総介(上総守)を名乗る。本拠を清洲城に移転。村木砦の戦いで今川勢を破っている。 |
1555(弘治元)年、22歳の時、守護殺害を理由に叔父織田信光と謀り、守護代織田信友を攻め滅ぼし清洲城を奪取して城主となる。この年、第2回川中島の戦い。竹千代が元服し松平元康と名乗る。 |
1555(弘治元)年、閏10月、元出雲国の豪族にして、ある日内裏を修理せよという夢のお告げによって出家し、やがて近衛前久経由で朝廷から上人(しょうにん)号を授与されていた日乗が、内裏の修理に着手した。 |
【妻・帰蝶(濃姫)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれる】 |
1556(弘治2)年、23歳の時、4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも間合わず、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し道三敗死の知らせにより退却した。 |
【重臣間が信長派と弟・信勝(信行)派で内紛】 |
8.22日、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。8.24日、道三の死去を好機と見た信勝派は挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、8.26日、生母・土田御前の仲介により信勝、勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し赦免されている。 |
【弟勘十郎信勝(信行)殺害】 |
1557(弘治3)年、24歳の時、11.2日、弟勘十郎信勝(信行)が再び謀反を企てる。この時、かつて信勝派であり、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した(弟・信勝(信行)を暗殺)。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。信行は前にも兄・織田信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかったが、二度目の裏切りでは殺害も致し方なし処置となった。 さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。この年、毛利元就が周防長門の両国を平定する。 |
【尾張上四郡の守護代岩倉城主織田信賢を破る(浮野の合戦)】 |
1558(永禄元)年、25歳の時、7.12日、尾張上四郡の守護代岩倉城主織田信賢を破る(浮野の合戦)。 |
2019.4.2日、 石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像 ~第四章 長槍隊~」。
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2019.5.6日、石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像 ~第五章 武田信玄~」。
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【信長初上洛】 |
1559(永禄2)年、26歳の時、2.2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。その後、奈良、堺も見物している。岩倉城の織田信賢を追放する。 |
【桶狭間の戦い】 |
1560(永禄3)年、27歳の時、5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は2万人とも4万人とも号する大軍であった。これに対する織田軍の総兵力は5千人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。5.19日、信長は、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま湯漬けを食べ、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4千人の軍勢を整えて出撃した。桶狭間に宿営する今川軍の陣中に強襲をかけ、毛利新助が今川義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は総崩れし本国駿河国に退却した。この桶狭間の戦いで、「尾張に織田信長あり」と織田信長を世間に名を知らしめる戦いとなった。 桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。徳川家康(この頃、松平元康より改名)が今川氏の支配から独立し岡崎城へ入る。 |
2019.6.3日、石川拓冶「信長見聞録 天下人の実像 ~今川義元編~」。
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【斎藤義龍が急死】 |
1561(永禄4)年、28歳の時、斎藤義龍が急死する。斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。斎藤義龍の急死により嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し森部・十四条の戦いに勝利する(森部の戦い)。墨俣砦を奪取。稲葉山城を攻撃するが敗退する。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。この年、第3回川中島の戦い。 |
【清洲同盟】 |
1562(永禄5)年、29歳の時、信長が三河の松平元康(徳川家康)と清洲城で会見し同盟を結ぶ。織田家と松平家は敵対関係にあり幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったための同盟となった。この織徳間同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。犬山城の織田信清が斎藤氏と結ぶ。 |
【本拠を要害の小牧山城に移転し美濃攻略の根拠地とする】 |
1563(永禄6)年、30歳の時、本拠を要害の小牧山城(愛知県小牧市)に移転し美濃攻略の根拠地とする。このころ美濃は、息子の斎藤義龍が義父の斎藤道三に軍事クーデターを起こして当主になっていた。信長は、道三時代は友好だった関係も、義龍が反織田に切り替わっていて、織田方の犬山城など尾張北方を侵食。清須から小牧山城への移転は、これに対応する攻守の政策決断でもあった。この年、松平元康が家康と改名する。 |
織田信長は、家督を継いでから天下に名前を鳴り響かせるまで頻繁に本拠地を変えている。これは他の大名にはさほど例のない珍しい事例である。例えば、武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに春日山城(新潟県)から動いたことはない。その点、戦略に応じて本拠地を変えるのが信長だった。 |
【浅井長政と同盟】 |
1564(永禄7)年、31歳の時、北近江国の浅井長政と同盟を結び斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。斎藤家臣の竹中重治が稲葉山城を占拠。数日後斉藤龍興へ返却する。丹羽長秀の活躍により犬山城の織田信清を倒し尾張を統一する。この年、第4回川中島の戦い。 |
【滝川一益の援軍依頼により伊勢方面に進出】 |
1565(永禄8)年、32歳の時、信長が滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏と戦う。 |
【永禄の変】 |
5.19日、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する。久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せた。しかし、義景は三好氏追討の動きを見せなかった。 この頃、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中美濃の諸城(宇留摩城、猿啄城、加治田城)を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけている。養女を武田信玄の子・勝頼へ嫁がす。 |
【美濃河野島で斉藤龍興と戦い大敗】 |
1566(永禄9)年、33歳の時、7月、尾張守を自称する。8月、美濃河野島で斉藤龍興と戦い大敗する。この年、松平家康が徳川と改姓する。 |
【斎藤龍興を伊勢長島に敗走させる(稲葉山城の戦い)】 |
1567(永禄10)年、34歳の時、信長は、「稲葉山城の戦い」で稲葉山城を陥落させ、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。この時、井ノ口を岐阜と改称している。 |
【北伊勢攻略】 |
1567(永禄10)年、滝川一益に北伊勢を攻略させ、楠城などを奪取する。 |
【お市の方を浅井長政に嫁がせる】 |
1567(永禄10)年、織田・浅井の同盟成立で、お市の方を浅井長政に嫁がせる。 |
【義昭が接近図る】 |
1567(永禄10)年、7月、義昭が美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。 |
【稲葉山城攻略】 |
1567(永禄10)年、8月、稲葉山城を攻略。8.15日、稲葉山城を岐阜城に改め、小牧から移城本拠とする。 |
【天下布武】 |
11月、信長が僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印の印章を使用し始める。これにより本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11.9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみだった。娘徳姫を徳川家康の嫡子・信康へ嫁がせる。 美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結ぶ。11月、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世した。この為、年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。 |
【北伊勢平定】 |
1568(永禄11)年、35歳の時、2月、北伊勢平定、三男信孝を神戸具盛の養嗣子とする。美濃の加納に楽市楽座を認める。この頃から弾正忠を称す。 |
【明智光秀が信長の家臣となる】 |
朝倉家の重臣であった明智光秀が織田信長の家臣となり、その仲介により足利義昭と織田信長をひき会わせる。7月、義昭が美濃に入り三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長の食客となる。その後、尾張へ移る。 |