信長と光秀の確執考



 (最新見直し2013.08.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「信長と光秀の確執」を確認する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


 ここで、「信長と光秀の確執」を確認する。れんだいこ史観によれば、これを観点抜きにしても意味がない。「信長と光秀の確執」を、それ以前の「信長と光秀の蜜月」ぶりとの対比で為さねばならない。そしてその両者が何故に確執に向かったのかを問わねばならない。これを解くには「或る観点」が必要になる。「或る観点」とは、「バテレンとの絡み」である。信長は、天下布武の過程で天下取りを実現するところまではイエズス会の後押しを受けて来た。ところが安土城築城の頃から次第にバテレン離れし始めた。この傾向はその後益々強まった。ところが、光秀は相変わらずバテレン一途であった。信長と光秀の乖離、確執はその時より始まった。と見立てるのが、れんだいこ史観である。以下、これを検証、論証してみることにする。

 本能寺の変に向かった光秀謀反の理由については諸説ある。遺恨説が主流で、これも色々な理由が挙げられている。(桑田忠親氏らのそれが著名である)。波多野兄弟処刑による人質の母処刑怨恨説、徳川家康接待役時の叱責怨恨説、長曾我部問題説等がある。他に黒幕説があり、これも色々な黒幕が取りざたされている。足利将軍義昭説、豊臣秀吉説、徳川家康説、正親町天皇説、朝廷説等がある。(立花京子氏らのそれが著名である。他に野望説がある。(高柳光壽氏らのそれが著名である)

 しかしながら、問うべきはバテレンとの絡みではなかろうか。現に本能寺の変のみならず信長政権史の興亡を克明に記していることからも明らかなように日本王権史と無関係とは考えにくい。とすれば、バテレンの日本王権史への容喙ぶりを検証するのがまず一番に為されるべきところ、ここの方面の研究が疎かにされている。奇妙なことではなかろうか。






(私論.私見)