「黒人侍/弥助」考 |
(最新見直し2013.08.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「黒人侍/弥助考」をものしておく 2013.08.11日 れんだいこ拝 |
【黒人侍/弥助考】 |
戦国の世、天下統一に挑んだ織田信長が信頼を置いた数少ない側近のなかに、アフリカ出身の黒人武士・弥助がいる。はじめは物珍しさから興味を持った信長だが、実際に面会すると、その知的な人柄と武術に向いた体格に惹かれ、城内に居所を与え武士に登用した。非業の最期を遂げた本能寺では、ある重要な最後の任務を弥助に託した。 ◆ひと目見ようと、京は大騒ぎ 弥助の出自についての詳細な記録がないがアフリカ南部・現在のモザンビークまたは北東部のコートジボワール出身とする説が有力。少年時代におそらくは奴隷としてアラブ周辺およびインドに移された。インドでは少年兵として使役し、後にイエズス会の宣教師に師事している。1579年、宣教団の護衛役として日本に渡る。二十代半ばにしてその身長は182センチほど、肌の色は墨のようだったとの記録が残っている。京都に到着すると、その姿をひと目見ようと人だかりができ、圧死してしまう人が出るほどの騒ぎとなったという。織田信長の耳に入り呼び寄せることになった。万事に実証的な信長は弥助の肌が墨で着色したものだと考え、こすり落とそうとしたという。しかし本来の肌の色だとわかると侮蔑することなく宴会を開いて彼を歓迎している。数日のうちに信長は宣教団から弥助の身をもらい受けるよう交渉し、まずは道具持ちの座に就かせた。今風で云えばボディーガードとして侍らせたことになる。この時までに入国から3年が経ち、弥助は日本語を少し話せるようになっている。信長は弥助から聞くアフリカとインドの土産話を楽しみ、二人のあいだに急速に絆が育まれていった。信長は武士の身分(士分)を与え、弥助を外国人としては初の侍に登用した。さらに、わずか数ヶ月のうちに安土桃山城内で居所と使用人を与え、腰刀の帯刀を許している。食事をともにする限られた家臣たちの仲間入りも果たしている。ボディーガード役を期待された弥助は、実際に一度、信長とともに出陣している。1581年、宿敵・武田信玄の配下にあった伊賀に対し、信長は4万から6万人ほどの軍勢を率い襲撃を仕掛けた。織田軍はこの戦で勝利を収め、その帰路、富士の南側の裾野を行く弥助の姿が現地の人々に目撃されている。 弥助が自ら戦地へ出向いたのは、伊賀での戦の一度きりだ。瞬く間に信頼を育んだ信長との関係は予期せぬ幕切れを迎えることになる。1582年6月、毛利軍と戦っていた豊臣秀吉から応援の要請を受けた信長は、明智光秀に出陣を命じる。信長は自らも30人ほどの家臣を引き連れ、本能寺に宿を取った。ところが6.21日の早朝、光秀が謀反を起こし本能寺を急襲する。歴史に名高い本能寺の変だ。 このとき一説では、最期を悟った信長は、行動をともにしていた弥助に対し、最大限の信頼を込めた指令を与える。自らが切腹した後、首が決して敵軍に渡ることのないよう、息子のもとに届けてほしいと命じている。信長が自害し、側近の森蘭丸が介錯すると、その首は弥助に託された。信長の最後の威信を背負った弥助だが、光秀の包囲網を突破することはならず、敵の手に落ちてしまう。ただし光秀が情けをかけたためか、命を取られることはなかった。信長に初めて呼び立てられてから本能寺の変までわずか115ヶ月という短さであり、さぞ目まぐるしい日々だったことだろう。本能寺の変以降、弥助についての記録は少なく、その後の経緯は明らかではない。一説によると日本のイエズス会のもとに送り返され、国内で余生を過ごしたとも言われている。 遠い異国の地・日本で初めての外国人武士となった弥助を世界のメディアが取り上げている。 英BBC(1月20日)は、「信長が弥助に士分を与えた当時、日本人ではない武士は存在しなかった」と述べ、弥助の待遇がいかに慣例破りのものであったかを強調している。信長が「弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろう」と見る意見も紹介しており、彼の知的なセンスに信長が心酔していたことをうかがわせる。当時の京都にはほかにも外国人はいたが、布教活動に熱心な宣教師たちが多かった。警護役として連れてこられただけの弥助は純粋な話し相手となり、そのため信長にいたく気に入られたのだろう。彼の活躍は書籍化されており、その一つに『African Samurai: The True Story of a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』がある。政治や宗教などさまざまな側面を絡めてドラマチックに綴るこの書籍は、米アマゾンで星4.4を獲得するなど好評だ。米CNN(2019年8月11日)は、著者であり日本史を研究しているロックリー・トーマス氏の解説として、「人々は彼の姿を一目見たい、そばに行きたいと躍起になった」と述べている。黒い木像で表現されることの多い大黒天になぞらえ、弥助と出会ったばかりの信長は、彼のことを神の化身だとすら考えていたという。意外性に満ちたストーリーの数々が、弥助人気を呼んでいるようだ。 はるか遠いアフリカから渡来し、信長の最も信頼する家来の一人となった弥助。その知名度は、日本国内でさえ、コアな歴史ファンに知られている程度に留まる。しかし近年、この世界初の外国人武士のストーリーがにわかに脚光を浴びており、映像化されるようになってきた。 現在、ハリウッドで実写映画の企画が進められており、すでにチャドウィック・ボーズマンが弥助役に決定している。ボーズマンは、マーベル世界の一角を成し黒人ヒーローが活躍するアクション作品『ブラックパンサー』で主演を務める人気俳優だ。主演決定を報じるハリウッド・レポーター誌は、1580年代に日本の戦国武将・織田信長に仕えたアフリカ出身の侍についてのストーリーであり、武士の身分を獲得したアフリカ人として唯一よく知られている人物だと伝えている。主演のボーズマンは、単なるアクション作品ではなく、文化や人々の交流を描いた映画になると述べており、出演にあたり高い意欲を見せている。 弥助の存在はこれまでにも、国内作品を含め、いくつかの映像作品の題材となってきた。今後相次いで映画化・アニメ化となれば、信長を支えた知られざる武士の知名度は飛躍的に高まりそうだ。 |
(私論.私見)