本能寺の変前の明智光秀の動き考

 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).1.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「本能寺の変前の明智光秀の動き考」をものしておく。

 2011.8.9日再編集 れんだいこ拝


【本能寺の変前の明智光秀の動き考】
 本能寺前夜に血判状 新史料が明かす明智光秀謀反の決意」参照。
 本能寺の変について、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者が事件の87年後に著した「乙夜之書物」(いつやのかきもの)が公開された。著者は、加賀藩士で兵学者だった関屋政春(せきや・まさはる、1615~85)。同書は、古老らから聞き取った戦国時代のエピソードなどを書き残した自筆の聞き書きで、計3巻から成る。上巻と中巻が江戸時代前期の寛文9(1669)年に、下巻は寛文11(1671)年に成立したと考えられている。光秀に関する記述は上巻に見られる。現在、3巻とも金沢市の市立玉川図書館近世史料館が所蔵する。上巻の奥書(書き入れ)に「他人に見せることを禁じる」とあることからすれば、「第三者に読まれることを意識しておらず記述の作為は少ないだろう。本文の記述も情報源が具体的に記され、戦国時代の貴重な情報が含まれている可能性がある」との推理が成り立つ。

 本能寺襲撃に参加した光秀の家臣から聞いた情報として光秀軍の詳しい動きが記録されている。光秀の重臣だった斎藤利三(としみつ)の三男、利宗(としむね)が語ったとされる本能寺の変の挙兵の経緯についてが貴重。「信長公記(しんちょうこうき)」は光秀は前日の6月1日、亀山城(現在の京都府亀岡市)で、明智左馬助(さまのすけ)、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利三の重臣4人に謀反の意思を打ち明けたと記す。一方、江戸時代初めに書かれた豊臣秀吉の軍功を中心とした「川角太閤記(かわすみたいこうき)」は、この4人に加え、家臣の溝尾勝兵衛が謀議に加わったと記す。だが、光秀旧臣の山崎長徳と林亀之助が「(光秀が)5人と相談したとは聞いていない」と語ったとも書かれ実情はよくわかっていない。

 「乙夜之書物」は、斎藤利宗が、加賀藩士とされる、おいの井上清左衛門に語った内容として次のように書いている。光秀は、中国地方で毛利勢と戦う羽柴秀吉への援軍という名目で、自軍の兵を亀山城へ集めた。利三は1日昼ごろ、兵を引き連れて亀山城に到着する。待ちかねていた光秀は、城の入り口で利三を出迎え、一緒に城内の奥にあったとみられる数寄屋に入った。このとき、利三は上座に座った光秀から謀反の決意を初めて告げられる。利三が「先鋒(せんぽう)は私が引き受ける」と伝えると、光秀は喜び、勝手口に控えていた左馬助を呼んで、「みな同じ気持ちである」と述べ、左馬助は「めでたいことと存じます」と応じた。光秀が「暑いので何かないか」と言うと、冷やした道明寺(飲み物か?)が皆に供された。すずり箱と熊野牛玉の宝印が押された料紙が出され、そこにいた武将たちは自らの血を使い、誓詞血判状を書いた。その後、光秀は軍勢を率いて、日暮れ前に亀山城を出発した。富山市郷土博物館主査学芸員の萩原大輔さんは「後の記録とは言え、利宗は機密情報を知りえた重臣の利三の息子で、本能寺の変だけでなく、山崎の戦い(光秀が羽柴秀吉に京都府の山崎で敗れた戦い)でも最前線で活躍した武将。その証言には耳を傾ける価値がある」と話す。







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