本能寺の変考

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「本能寺の変考」をものしておく。

 2011.8.9日再編集 れんだいこ拝


【本能寺の変前日の茶会考】
 
本能寺の変前日、信長が決行した茶会の真相、本能寺の変の真犯人を巡るひとつの視点」参照。

 本能寺の変の前日に信長が主催した茶会の状況を確認しておく。天正10年3月、念願の宿敵・武田家を滅亡させた織田信長にとって残る敵は東に北条家・上杉家、そして西の大名・毛利家である。いよいよ念願の「天下布武」の達成が目前になっていた。3月15日、秀吉率いる中国方面軍が2万5千余の大軍で中国攻めを開始する。4月15日、備中入りをした秀吉軍は「境目七城」の内、冠山城・宮津山城を陥落させる。5月初め、高松城を囲み、折から梅雨で水かさの増す足守川をせき止め総長3キロにわたる膨大な築堤をして水を注ぎ込み高松城を浮城にして兵糧攻めをする。5.20-22日、時を移さず毛利三軍が総勢5万の兵を率いて高松城救援のため着陣する。5.17日、大軍の来襲に驚いた秀吉が信長に早馬を送り、信長の来援を要請する。時あたかも徳川家康が安土城を訪れ饗宴中であったが、信長は「天下統一」達成の好機到来と出陣を決め上洛を決意する。「このたびこのように敵と間近く接したのは、天の与えたよい機会であるから、自ら出兵して、中国の有力な大名どもを討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と、光秀に同道を命令している(『信長公記』)。

 5.28日、明智光秀が、愛宕山で行った連歌会で、「雨が滴る五月かな」に架けて「時は今、天(あめ)が下知る(滴る)五月かな」と詠んでいる。信長を討つ「本能寺の変」を起こす決意が込められている、と解されている。

 5.29日、信長は、遠征に先立って38点の大名物茶器とわずかな供廻りだけで急遽上洛して本能寺入りした。6.1日、6月4日京都本能寺を出立する旨を拝謁の公卿衆の前で公言する。ところが、6月2日早暁、明智光秀率いる1万3千の兵が本能寺を急襲して織田信長を、妙覚寺で護衛中の織田信忠隊ともども、同時に弑逆(しいぎゃく)した。

 問題は6.1日にある。雨の中、信長入京祝賀の名目で公卿衆約40名が大挙して表敬訪問してきた。この公卿衆を相手に「本能寺茶会」を催したというのが通説になっているが、この時の公卿衆・大陳情団の中に山科言経(ときつね)という公卿がおり、その日の彼の日記『言経卿記』にはっきりと「進物被返了」(進物はすべて返された)とある。つまり信長は公卿衆の来訪を受け入れず、関白・近衛先久や博多の商人同席の茶会を催しているのが真相である。『言経卿記』には、「数刻御雑談、茶子・茶有之、大慶々々」とある。この時、信長は38点もの「大名物茶器」をわざわざ安土城から運んでいる。その理由は、博多の豪商茶人・島井宗室とその義弟の神谷宗湛に披露する茶会を催すためである。本能寺の変の前日の茶会の相手は公家たちではなく鳥井宗室・神谷宗湛だった。2人は博多の豪商茶人であり、島井宗室は大名物茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の所有者として著名な茶人だった。信長はすでに「初花(はつはな)肩衝」と「新田(にった)肩衝」という大名物茶入を所持していた。この「楢柴肩衝」を入手すると天下の三大・大名物茶入がそろうことになり、信長垂涎(すいぜん)の的の茶入だった。そもそも茶入が茶道具の中でも最高位の物とされ、大方は「肩衝」、「茄子(なす)」、「文琳(ぶんりん)」、「その他」に大別できるが、なかんずく「肩衝」がその第一である。「初花肩衝」、「新田肩衝」、「楢柴肩衝」の銘のある三器をこの時点でそろって所持した者はいなかった。信長がこの「楢柴肩衝」さえ入手すれば、信長こそ天下に隠れなき最初の大茶人に成りえた。

 島井宗室が5月中旬から京都に滞在しており、6月初旬には博多に向けて京を立つ旨の情報を信長に伝えたのは千宗易(利休)と思われる。千宗易から島井宗室に連絡を入れさせ、「6月1日なれば、上様の御館に参上仕つる」との確約を得たのであろう。かくして信長は、安土城から38点もの「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、最も無防備な形で本能寺に入った。38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄2年(1593年)、堺の茶人・宗魯(そうろ)によって筆録された『仙茶集』の中に、【島井宗叱(宗室)宛て長庵の道具目録】が収録されており、その冒頭に「京ニテウセ(失せ)候道具」とあって、以下、件(くだん)の38点が記載されている。
〇作物(つくも)茄子(九十九茄子)〇珠光(じゅこう)茄子〇円座肩衝〇勢高(ぜいだか)肩衝〇万歳(ばんぜい)大海〇紹鷗(じょうおう)白天目〇犬山灰被(はいかつぎ)〇珠光茶盌〇松本茶盌〇宗無茶盌〇高麗茶盌〇数の台二つ〇堆(つい)朱(しゅ)の龍の台〇趙昌筆の菓子の絵〇古木(こぼく)の絵〇小玉澗の絵〇牧谿(もっけい)筆くはいの絵〇牧谿筆ぬれ烏の絵〇千鳥香炉〇二銘の茶杓〇珠徳作の浅茅茶杓〇相良高麗火筋(ひばし) 同鉄筋(てっぱし)〇開山五徳の蓋置〇開山火屋(ほや)香炉〇天王寺屋宗及旧蔵の炭斗(すみとり)〇貨狄(かてき)の舟花入〇蕪(かぶら)なし花入〇玉泉和尚旧蔵の筒瓶(つつへい)青磁花入〇切桶の水指〇かへり花水指〇占切水指〇柑子口の柄杓立〇天釜〇田口釜〇宮王釜〇天下一合子水翻(みずこぼし)〇立布袋(たちほてい)香合〇藍香合
 (本能寺の変後、焼け跡から「作物茄子」「勢高肩衝」の2点が拾い出されて現存している)

 そして結びに、差し出し日「6月1日」、差出人の楠木長庵(くすのきちょうあん)の在判で、「三日月、松島、岸の絵、万里江山、虚堂痴愚(きどうちぐ)の墨蹟、大道具に依って安土に残置候。重ねて拝見仰付らるべく候」とある。そして「三日月、松島の葉茶壷、虚堂痴愚(中国南宋・臨済宗の高僧)の墨蹟などは大道具なので今回は安土に残してきたが、またの機会に見せるであろう」と約束してもいる。しかしこの「本能寺茶会」こそが、信長を京都に誘き寄せる最良のわなだった。
(私論.私見)
 「本能寺茶会こそが信長を京都に誘き寄せる巧妙に仕組まれたわなだった」説は秀逸ではなかろうか。

【本能寺の変】
 1582(天正10).6.21日(旧暦6.2日)、信長は、逆臣となった明智光秀の指揮する「本能寺の変」に遭遇し最後を遂げた(享年49歳)。嫡男の織田信忠は父信長を救出しようとするが果たせず、二条城(御所)で自刃(享年26歳)している。

 光秀の謀反の動機には諸説あり、歴史上の大事件でありながら謎が多い。疑惑は、単独犯説から共同犯説まであり、共同犯の相手としても、羽柴秀吉、徳川家康、正親町天皇、足利義昭、千利休、安国寺恵瓊のいずれかを黒幕として想定する諸説がある。その動機にも諸説ある。1・仕打ち怨恨説、2・失脚予感危機感説、3・天下取りの野望説、4・信長の皇位簒奪阻止のための朝廷守護説、5・イエズス会による日本の政権のすげ替え説(立花京子)などがある。いずれも決定力に欠けており、定説は定まらない。本題から外れるが、光秀はその後「天海僧正」として徳川幕府のブレーンとなったという説もある。

 以下、れんだいこが推理する。「千利休黒幕説」を参照する。出典は、中津文彦氏の「闇の本能寺」とのことである。それによると、概略次のようになる。

 「本能寺の変と呼ばれる信長暗殺事件の最大の謎は、何故信長が5月29日に上洛したのか、ということにある。信長は本来は、この日に上洛する予定ではなかった。あと数日で、西国出陣の軍勢が整う手筈になっており、信長はこれを率いて安土城を発つ事になっていた。それにもかかわらず、わずかな共廻りを引き連れただけで上洛した。その為に光秀につけ込まれ、命を落とすハメになった。

 信長の率いる軍勢は、おおむね6月5~6日頃には出陣できる見通しだった。光秀の方は5月17日に近江の坂本城に戻って、さらに丹波の亀山城に帰還している。直ちに1万3千の軍勢が整えられた。一方の安土では、5月21日に嫡男の信忠が2千の手勢を率いて京都の妙覚寺へ入った。信長上洛に先だって警護体制を整えておこうというものだった。 

 信長が何故、軍勢が整う前に京都へ入ったのか。信長は、到着した翌日、6月1日に宿舎の本能寺で茶会を開いている。と言うのも信長は茶道具のコレクターでもあったからである。ここには公家衆、堺の豪商達を招いて催した。安土から持ってきた38種類の名物茶器を披露し、茶会の後は酒宴となった。

 ここで注目する人物が一人、混じっていた。博多の豪商鳥居宗室(とりいそうしつ)という男だった。ご存じの通り信長は天下の三名器「初花」、「新田」、「楢柴」が有名で、信長は「初花」、「新田」の二つをすでに持っていて、最後の「楢柴」は鳥居宗室が持っていたからである。信長は交渉して、この「楢柴」を譲って貰うつもりだった。それと言うのも、鳥居宗室は6月2日には、京都を発つ予定だったからである。それで信長は予定を繰り上げて京都に来た。今まで信長と鳥居宗室は面識がなく、信長は是非会って「楢柴」の交渉をしたいと思っていた。

 この心理を千利休が巧みに利用した。利休の手引きによって、軍勢が整わないうちに本能寺に誘い出されたという推理も成り立つ。利休は信長の信頼も厚く、茶の湯の師匠的存在として信長近くにあった。では、利休の動機は何であったのか。その背後には堺の商人衆がいた。堺の商人衆は、この先、信長を野放しにしておくと、いつ難題を押しつけられるかという不安と殺戮を平気で行う行動に恐怖感を覚えていた。
(私論.私見)
 「本能寺の変」の「千利休黒幕説」は以上のように述べるにとどまっているが、末尾の推測に値打ちがある。但し物足りない。れんだいこは、千利休の背後に堺の商人衆、堺の商人衆の背後にはイエズス会宣教師、イエズス会宣教師の背後には世界植民地化構想をめぐらす西欧諸国の帝政国家、その背後にはそれを教唆するユダヤ政商がいたのではないか、近世から現代へ至る歴史の流れはこの筋こそ本星ではないか、と見立てる。

 これを、明智光秀の側から見るとこうなる。光秀は、堺の豪商・千利休の進言により、5.24日、光秀は、亀山城出陣前に、愛宕権現で連歌の会を催している。光秀が「時は今 天が下知る 五月哉」と発句し、里村紹巴(じょうは)、西坊行祐らと連歌を詠んでいる。「天が下知る」につき「天が下なる」の表記もあるが、「常山紀談」、豊臣秀吉の御伽集の大村由己の「惟任謀反記」は「天が下知る」と記しており、これが正記録と思われる。

 紹巴は堺の商人、千利休とも親しい関係にある。6.2日、「朝敵は本能寺にあり」指令で、1万5千名の明智軍が本能寺を包囲し、手勢僅か160名の 信長は「是非に及ばず」の言葉を残して自刃した。これが経緯ではなかろうか。付言しておけば、れんだいこは、後になって豊臣秀吉による千利休の切腹申し渡しの背景に、この時の利休の謀挙が槍玉に挙げられ、利休がこれに申し開きできなかった事情があったと推理している。 

 2011.8.9日再編集 れんだいこ拝


【本能寺の変後の光秀の動向】
 信長を討ち取った光秀は、6.3~4日、諸将の誘降に費やした後、6.5日、安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。6.13日、「天王山の戦い」となった山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)の竹藪の中で落武者狩りの土民に討たれたと云われている。期待していた細川忠興、筒井順慶らの支持を得られなかったことが戦力不足を招き、間接的にではあるが敗因を招いたと云える。京都で政務を執ったのが10日から12日の3日間であったため、三日天下と呼ばれた。

 「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」がフロイス「日本史」の「五畿内編Ⅲ」の次の一文を記している。
 「明智光秀が津の国で惨敗した知らせを聞くと武将は、安土に放火することなく急遽坂本城に退却する。雑兵は主人を失なうと捨て置かれたと怒って暴徒と化し掠奪に狂奔した。しかしデゥスは信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず付近にいた信長の子御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、何らの理由もなく邸と城を焼き払うように命ずることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したのでその大部分は焼失してしまった」、「“秀吉の軍勢は津、美濃、尾張の国に向い明智に加担した者は一人残らず生命を奪われた。諸説が一致しているところでは、かのわずかの日々に既に一万人以上が殺されたらしい」。
(私論.私見)
 この記述は婉曲ながら明け透けな「デゥスの安土城灰塵命令」を示唆していよう。

 とりあえず以上を書き付けておく。その後、八切止夫氏の別章【信長殺し、光秀ではない】、別章【織田信長殺人事件】、別章【信長殺しは秀吉か】で補足した。

 2006.3.7日 2013.7.9日書き直し れんだいこ拝


【フロイス記】
 フロイスは、本能寺の変後の京都の情景を次のように記している。「武将と囲碁」(榊山潤)の79Pを参照する。
 「多数であった明智の兵は、街街の家を探し、信長の家臣、貴族及び殿たちを発見し、その首を斬ってこれを差し出した。首は明智の前に山を為し、死体は市街に遺棄された。都の住民は事の顛末がいかになるかを心配し、明智が家に隠れている者を殺そうとして、都に火を放つであろうと考えた」。
 「安土では略奪と、屋内に侵入して家財を奪い、また路上で追い剥ぎを為すことの外は行われなかった。この事は同所のみならず、堺の市より美濃、尾張の国まで、6、7日の間、市街及び道路においても行われ、人はそこここで殺され、この如き乱暴をするため、地獄から解放されたようであった」。
 「彼(光秀)はほとんど単身で、世人の云うところによれば、少し負傷していたが、坂本には到着せず、どこか知れぬところに隠れていた。翌日は首を斬る熱が甚だしく、信長の殺された場所に最初に持参したのが千以上であった。これはことごとく同所に持参するよう命ぜられた故であって、信長を祀るためそこへ並べた。暑熱の最も甚だしい時に当り、非常に臭く、信長の傲慢に相当したものであった。臭気は甚だしく、風がその方向から吹いた時は、聖堂の窓を開いておかれぬほどであった。又、首を斬って携えて来る速度が早く、前日の戦いには臨んでいなかった一人の殿が村々を巡り、三十三人いた一村で三十の首を斬り、これを持参した由、一キリシタンが語った。その後二日を経て、バ-ドレ・オルガンチノと予と、信長の殺された場所を通過したところ、数人で三十以上の首級を携えて来たが、縄で下げて、あたかも羊、又は犬の頭を運ぶようにし、少しの悲しみの様子も示さなかった」(村上直次郎訳)。

【日本イエズス会年報の本能寺の変記述】
 「北國新聞朝刊(2002/04/09付)本能寺の変 ~京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た」を転載しておく。
 天正10年4月、日本の上空に大きな彗星が現れた。その年に書かれた日本イエズス会年報によると、宣教師たちは何か恐ろしいことが起きる前兆ではないか心配したという。恐れは現実となった。本能寺からわずか一町(約110メートル)東に、南蛮寺があった。高山右近が設計から資材集めにまで骨を折ったキリシタンの“城”である。本能寺の変を書き残した国内資料はいくつもあるようだが、この南蛮寺にいた外国人宣教師たちの報告書が最も生々しいと言われている。キリシタン資料の多くを翻訳した松田毅一氏(1921―1997)の著書「南蛮資料の発見」に以下のように「本能寺の変」目撃録を訳している。

 要約概要「その朝、南蛮寺では早朝のミサの準備をしていた。本能寺の門前での騒ぎに気付く。単なる喧嘩ではない。明智が信長の敵となり信長を包囲したと第一報。やがて、内部には謀叛を疑う気配はなく若い武士と茶坊主と女たち以外はなく、抵抗するものはいなかったと詳細な中身が伝わる。手と顔を洗い終えて手拭いで身体をふいている信長に矢が放たれた。信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍(ながやり)である薙刀(なぎなた)という武器を手にしてしばらく戦ったが腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り戸を閉じそこで切腹した」。

 「信長公記(しんちょうこうき)」は「信長が手にしたのは弓で、ツルが切れるまで矢を放ち続けた」と記している。信長の長男の信忠は本能寺近くに陣を張っていたが、この朝、父とともに明智軍に殺されている。ルイス・フロイスは、本能寺の変を「信長の大いなる慢心による」と表現している。明智光秀は備中攻めの羽柴秀吉の援軍として進軍中に、京都郊外の老坂(おいのさか)で進路を本能寺に変えた。が、西への援軍は明智光秀だけではなかった。高山右近、筒井順慶(じゅんけい)ら近畿の諸大名たちも一斉に備中へ向けて軍を進めていた。高槻城を出た右近は大阪付近にまで進んでいた。城はほとんど空っぽで、京を制した明智軍は、いったん南に向かい、高槻城に入り、京の伴天連たちをむりやり動員して右近説得にとりかかった。宣教師は、日本語とポルトガル語の2通の手紙を右近に送っている。日本語では光秀に言われたとおり「味方につくよう」と書き、ポルトガル語では「謀叛に加担することなきように」とあったという。この話で右近がポルトガル語を読めた数少ない日本人だったことが分る。右近は、大阪から急ぎ高槻城へ帰り城を固めた。秀吉が「大返し」で備中から取って返す報が入ると、西宮まで出向いて合流、山崎の合戦へ態勢を整えている。前田利長は当時21歳。信長の娘・永姫を妻とする利長は、信長に誘われて安土から妻ともども京に向かっていた。琵琶湖にかかる瀬田の唐橋手前で岳父・信長の死を知った。「京のほうから走り来るものあり、何者とみると、信長公の草履取(ぞうりとり)…」などと「可観小説」には詳しい。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。

【「信長と十字架」(立花京子,集英社新書)】
 夏井睦(まこと)氏の 「読書コーナー」の「信長と十字架」を転載しておく。
 歴史的事実と広く受けいれられていて,実はそれが嘘らしい,という事がある。

 例えば,戦国時代と言えば必ず登場する武田の騎馬軍団がそうである。なぜかと言うと,当時の馬は体高130cmそこそこで,いまでいうポニーである。だから大人を背に乗せてパカパカ走るのはかなり辛いし,ましてや鎧甲(フル装備すると30kg以上)を着込んだ武士を乗せると100メートルも行かないうちにへばってしまう。大人を乗せて走れる馬が日本に登場するのは江戸時代の後期(だったかな?)にアラブ種が輸入されてかららしい。同様に,「江戸時代は士農工商の厳然たる身分制度の階級社会で・・・」と言うのも大嘘。実は江戸時代の身分の壁はかなりゆるかったらしい。それなのに,なぜ「士農工商の階級が・・・」というのが定説になったかと言うと,明治政府がそう教えたから。

 つまり明治政府としては,「江戸時代は不合理な身分社会で皆が苦しめられていた。だから我々が立ちあがり,身分による差別のない平等な社会を作ったのだ。我々は民衆を開放したのだ」でなければいけないわけで(でないと,江戸幕府を倒した大義名分がないでしょう?),そのためには,江戸時代は封建社会で遅れていて野蛮であってくれないと困ってしまう。だから,明治政府は歴史の教科書に「士農工商」という言葉を登場させたわけだ。こういう話は実は歴史のどこにも転がっている。


 と言うわけで本書である。これはもう,一歩間違うと「トンデモ本」の仲間入りである。何しろ,織田信長が全国平定を考えたのも,本能寺の変も,その後の羽柴秀吉の登場も,すべてイエズス会,スペイン・ポルトガルが仕組んだものだ,と説いているのだ。ところが,その説明がもう見事と言うしかない。信長を中心とする歴史上の人物達の,これまで謎とされてきた出来事や不可解とされてきた行動を,全て説明してしまうのだ。それも圧倒的な説得力で・・・。これまでも,この時代をテーマにした歴史書は幾つも読んできたが,これほど論理的に整合性をもってあらゆる出来事を関連付け,説明してしまう様は爽快ですらある。


 著者の手法はただ一つ,あらゆる文献(信長と直接関係ないものも含め)を目を皿に様にして読む事だ。そして,いつどこで誰が誰に会ったか,会ってどんな話をしたのかを時系列で丹念に積み重ね,信長とイエズス会の関係を明らかにしていく。このあたりは最良の推理小説に匹敵する面白さである。何しろ著者によると,信長自身が自分とイエズス会との関係を示す資料を廃棄していたふしがある。そして,その後の秀吉・家康も実像を隠そうとしていたらしい。だから,信長がなぜそのように行動したのかを探ろうとして,信長が残した文書をいくら調べても謎だけが残るわけだ。しかし,イエズス会の宣教師達の残した日記は残っているし,信長と親交のあった人の手紙には痕跡が残っている。筆者はその痕跡を丹念に読み取り,時間的前後関係を明らかにし,その上で,実際に何が起こったのかを推論したわけだ。


 当時,スペイン,ポルトガルは大植民地主義のもと,次々に「新たに発見した土地」を自分のものとし,巨額の富を得ていた。その手段としてイエズス会の布教活動を利用し,その活動を経済的に支えていた。実際,中南米ではそのようにしてイエズス会が尖兵になり,植民地を次々開拓していった。要するに「南欧グローバリゼーション」である。両国にとって最も欲しかったのは中国である。しかし,当時の明をいきなり植民地化するのは難事業である。そのため,日本にキリスト教国家を誕生させ,その日本に朝鮮,そして中国を占領してもらい,その後で用済みになった日本を切り捨て・・・というシナリオを書いていたようだ。そのための第一歩が日本の統一であり,白羽の矢を立てたのが信長だった。


 一方,信長にとっても大きなメリットがある。宣教師達を介して,いくらでも銃でも大砲でも入手できるし,金銭的援助も得られるからだ。実際,日本で金山の本格的採掘が始まったのは秀吉の時代であるはずなのに,信長は膨大な黄金を持っていて,臣下に褒美として取らせていたという。このような軍事的・金銭的メリットは他のキリシタン大名も得ていた。信長がイエズス会に多大な便宜を図っていた事は事実であるが,その理由はこれで納得がいく。実際,この時代のイエズス会宣教師は武器を売りさばく「死の商人」であり,その「死の商人」を利用したのが信長だった。

 「軍隊は歩く胃袋である」と言われるように,軍隊は何も生みださず,ただ消費するだけである。現在のアメリカのイラク戦争・占領を見てもわかる通り,巨額の戦費を注ぎ込んでもそれで十分と言う事はないのである。それが戦争であり軍隊である。これは戦国時代にも共通している。戦国時代を勝ち抜くためには「歩く胃袋」に食わせ,武器・弾薬を惜しみなく使わなければいけない。この消耗戦に勝ち抜くため,信長はイエズス会に,イエズス会のために天下統一することを約束したのであり,だからこそ,他を圧倒する武力と戦費が得られたのである。その他の大名にとって現金収入は年貢だけであり,その収入だけでは長年の戦闘を維持することは不可能だったのだ。


 ところが途中から信長は暴走し,イエズス会にとって困った存在となる。信長にとってイエズス会とは金と武器を出してくれる便利な存在であり,キリスト教の教えはどうでもいい事だったらしい。その結果,イエズス会は邪魔者でしかない信長暗殺を画策し,明智光秀に信長討伐を命じるように朝廷に裏で働きかける。光秀が信長を裏切った原因として,これまでは信長に恥をかかされた私怨が原因と説明されてきたが,やはりそれだけでは動機としてあまりに弱い。しかしこの説明のように,「信長亡き後はお前を日本国の国王にしよう」と耳打ちされたのであれば,十分納得できると思う。


 だが,イエズス会の陰謀はさらにその上を行っていた。秀吉による光秀殺害も仕組んでいたからだ。秀吉は当時,中国地方に出兵していたが,信長討たれるの知らせを聞き,数日で大群を戻し光秀を討ったとされる。いわゆる「秀吉 中国大返し」である。しかし,当時は通信手段はなく,なぜ秀吉がこれほど速く情報を入手できたのかは謎とされていた。しかし,事前に「信長暗殺」が知らされていたのなら,これは謎でもなんでもない。そういえば,秀吉と毛利の和睦のタイミングもあまりに良すぎる。

 要するに,「主殺し」の悪人である光秀をトップに据えるのでなく,「主の敵を討った忠義者」をトップに据えなければ,その後の統治がうまくいくわけがない,と黒幕は考えたのだ。要するに明智光秀はイエズス会にとって,単なる捨て駒だった。であれば,かつて信長のブレーンとして活躍し,イエズス会とも密着していた武将達が,信長の死後,秀吉に何事もなかったかのように従属したのも納得できる話だ。彼らは信長の使えていたのでなく,金と武器を調達してくれるイエズス会の言いなりになっていただけのことなのだ。


 この説が正しいかどうかはこれからの問題だが,全ての事件,関係者全ての行動を整合的に説明できると言う点で,この本の唱える説の魅力に抗するのは難しいだろう。(2004/04/12)

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(私論.私見)
 この説は面白い。但し、秀吉主犯説はいただけない。あくまでも明智光秀を駒として使ったイエズス会主犯説に留めるべきであろう。信長の後継として明智光秀を立てていた国際ユダ邪シナリオを崩したのが豊臣秀吉と見るべきだろう。前半の「イエズス会を先兵とする南欧勢力が信長を援助して天下を取らせようとしてきたが、信長の態度が変わったので抹殺することにした、という仮説」は面白い。これが案外と裏史実なのではなかろうか。 

 2011.8.9日 れんだいこ拝

【本能寺の変の通説批判】
 2020.12.30日、井上慶雪「本能寺は『織田信長の定宿』は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか」を参照する。「本稿では、巷間いわれている本能寺の変は間違いだらけであることをお伝えしたい」として次のように補足している。
 「歴史は時代とともにその見方、解釈も変わってくるものである。それなのに旧態依然とした歴史事象を、伝承どおりの固定観念で捉えていとも簡単に鵜呑みにしている人が多い。『聖徳太子・非実在説』などはその好例といえよう。また、『誰かによる書き換え』を厳しく監査することも重要である。歴史では、しばしば『誰かによる書き換え』が横行する。そして、やがてそれが通史として正当化し、安易に居直ることがある。本能寺の変も430年以上、驚くほどの誤謬と、安易な伝承にだまされてきた歴史事象だけに、実証史学の厳しいメスを入れて再構築していかねばならないのである」。

 これは良いとして、私から見て本稿も又あらぬ方向へ誘導している。
 「私は明智光秀の研究家として、著作を通して『世の中に出回っている本能寺の変に関する情報は間違いだらけである』、『本能寺の変の犯人は羽柴秀吉であって明智光秀は冤罪である』という2点を、声を大にして申し上げてきた。拙著『本能寺の変 信長の誤算』は、これら主張に関する集大成といえる」。

 構えは良いのだが、推定方向が決してバテレン疑惑に向かわないところに苦笑させられる。但し、資料的に貰えるところがあるので取り込んでおく。
 信長上洛時の「本能寺泊」について

 通説は、「本能寺泊」を「常宿」としているが、信長の約49回の上洛中、「本能寺泊」は、上洛当初の元亀元年〈1570〉7月、8月、天正9年2月20日、天正10年5月29日の4回でしかない。それまでは「妙覚寺泊」が約20回、「二条御新造(二条御所)泊」が14回、「相国寺泊」が6回、「知恩院泊」等々である。最後となる「本能寺泊」は、信長上洛の護衛に駆けつけた嫡男信忠がすでに妙覚寺に詰めていたので、昨年宿泊した「本能寺泊」になったという。
 「無防備な本能寺泊」について

 「信長の謀殺を狙ったある組織が少数での信長の上洛を謀り、6月2日早暁、無防備な本能寺を襲った」は正しい。これに対し、加来耕三氏は次のように述べている。
 「本能寺は普通の寺ではなく、改造された城郭で、1千の兵が攻めても落ちないようにできている。偶然、1万を超える兵が攻めたから落ちた。無防備で、僅かな兵力で攻められるということはまったくありえない」。

 「日蓮宗の研究」に詳しい藤井学氏は次のように記している。
「(本能寺は)北は六角、南は四条坊門、東は西塔院、西は油小路によって区切られ、周囲をぐるっと廻ると、四町(約440メートル)の長さがあった寺地だった」(「本能寺と信長」思文閣出版)。
 信長は「是非に及ばず」と言っていない

 信長が光秀の謀叛を知ったとき、うめきの声のように「是非に及ばず」(仕方がない)と言ったとされてきた。これは、太田牛一の「信長公記」の記述、「これは謀叛か!」(信長)。「はい、明智が者が」(森乱丸)。「そうか、是非に及ばず」(信長)に拠っている。が真相は不明で、「是非に及ばず」は太田牛一の創作と思われる。下敷きは、本能寺の変からさかのぼること12年前の元亀元年(1570)、信長は朝倉義景攻めのとき、義弟・浅井長政の裏切りに遭って挟み撃ちの状況下に置かれ、窮鼠の境地に追い込まれたときに「是非に及ばず」という言葉を発している。太田牛一は、「信長公記巻三」で次のように記している。
 「信長公は越前の敦賀に軍兵を繰り出された。(略)ついに木目峠を超えて若狭の国にどっと攻め入る手はずであったが、江北の浅井備前守が背いたとの知らせが、つぎつぎと信長公のもとに伝えられた。(略)寝返り説は虚説であろうと思われたのであるが、方々から事実であるとの知らせが伝えられて来るのであった。ここに至っては『是非に及ばず』と撤退を決意された」(榊原潤訳)。

 太田牛一は、このときの記述に倣って、「本能寺」の極限で信長に「是非に及ばず」を言わしめたと推定できる。「是非に及ばず」は信長の常套句もしくは口癖であったにすぎない、のではなかろうかということになる。

 れんだいこのカンテラ時評№1185  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年11月11日
 戦国期の研究を通じての陰謀論考

 戦国武将家伝書考をしながらふと気づいたことを記しておく。その最たる例は「本能寺の変」であるが、明智光秀軍の叛旗をどう読み取るかで諸説が入り乱れている。れんだいこは、これを当時の歴史状況に照らしてバテレン陰謀説を採る。これは自然に見えてくる見立てである。バテレン陰謀説を採らない諸説に愚昧を感じ無駄な推理遊びとぞ思う。

 ここで興味深いことを確認する。陰謀説は一般に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞く。しかしながら、「本能寺の変」の推理で分かるように、陰謀説のほうが素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、陰謀説批判は、手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、陰謀説に対して手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけていることになる。これは悪質論法の一つである。この論法は案外あちこちで多用されている。

 未だ陰謀説は学説と成り得ていない。しかしながら、このことは、陰謀説が学説になるに足らないのではなく、学説の方が陰謀説を排除する特殊な政治主義に牽引誘導されている為ではなかろうか。近現代史は、れんだいこ式陰謀説が捉えるところの国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派の権力により支配されている。最近になってこれを簡略に「国際ユダ邪」と命名している。これに照らせば、「国際ユダ邪」の許容しない研究は学説にさせないとされているだけのことではなかろうか。政治経済文化精神のみならず学問といえども「勝者の官軍論理」に導かれている。勝者側は勝者側に不都合な学問は許容しない。これが陰謀論批判の社会学的根拠ではなかろうか。

 戦国史の研究をしながら、こういうことに気づいた次第である。ここでは「本能寺の変」を挙げたが、13代足利将軍・義輝刺殺事件も臭い。千利休切腹事件も臭い。あれは石田光成を長とする特捜調査団により「本能寺の変」の黒子としての動かぬ証拠を突きつけられて切腹に追い込まれたと考えれば疑問が解ける。かの時代の枢要な事件においてバテレン派の黒幕性を見て取ることができる。仮に、だとするなら、同じ目線で現代史を捉え返す必要があるのではなかろうか。という具合に関係してきて、それ故にそういう本当のことを言うのが一番いけないこととして、それだけは言うな、ほかのことなら何でも許すという囲いの中で知の遊びをしているのではなかろうか。

 所詮、学問といっても、この程度のものではなかろうか。よって、許され囲われた知恵遊びの空間の中で難しそうに賢こげに言う者がいたら眉唾してきた、れんだいこのカンは当たりだったと改めて思う次第である。こういうこともいつか言っておきたかった。

【本能寺の変の黒幕推理考】
 本能寺の変の黒幕推理は、邪馬台国の所在地論争、坂本龍馬暗殺下手人詮議に並ぶ「三大日本史の謎」とも云われている。主役は明智光秀だとして、その動機について、怨恨説、野望説がある。怨恨説の理由として、信長のせいで母を殺されたこと、家康饗応役を務めた際、魚が腐っているとしてその役を罷免されたこと。続いて、家臣の移籍問題に起因する信長からの暴行。さらに、戦での「骨を折った甲斐があった」との発言に対する叱責。石見への国替え命令が挙げられている。但し、殴打と人事への不満を除けば、他はすべて江戸時代の創作と判明している。他に、長宗我部元親が原因とする説もある。信長が元親との「四国切り取り自由」の約束を撤回したことで両者の関係が悪化。そこで仲介役を務めていた光秀は面目を失い、謀反へと繋がるとする説だ。

 黒幕については、朝廷黒幕説(光秀勤王家説)、
足利義昭将軍黒幕説(光秀幕臣説)、秀吉黒幕説、四国動乱説、光秀高齢説、家康謀殺計画からの発展説等がある。以上は通説である。奇妙なことにバテレン黒幕説だけが巧妙に隠蔽されている。バテレン黒幕説だけは封じて後は何でもありの詮索が続いている。
 信長の遺体が未発見な事に関連して、密かに本能寺から持ち去られ、首は遠く駿河の西山本門寺に葬られたとする伝承がある。西山本門寺と京都の阿弥陀寺は同じ宗派であり、阿弥陀寺の高僧は信長と交流があったことから、本能寺が襲撃されたと知るやただちに人を走らせ、信長の遺体を引取り、とりあえず阿弥陀寺へ運び、万が一に備えるため首だけは参道伝いに駿河の西山本門寺へ運んで丁重に葬ったという。

【頼山陽の「本能寺」考】
 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人「頼山陽」が詠じた「日本楽府」から梅雨時節に因み「本能寺」は次の通り。(「フェイスブック関 袈裟夫」より)
本能寺溝幾尺
本能寺 溝幾尺(いくせき)ぞ
吾就大事在今夕 吾大事を就(な)すは今夕に在り
藁粽在手藁併食
こう粽手に在りこう併せて食う
四簷梅雨天如墨 四簷(しへん)の梅雨天墨の如し
老坂西去備中道
老阪西に去れば備中の道
揚鞭東指天猶林 鞭を揚げて東を指せば天猶早し
吾敵正在本能寺
吾が敵は正に本能寺に在り
敵在備中汝能備 敵の備中に在るは汝能く備えよ
大意・補記
 織田信長を深く憎くんでいた明智光秀は、信長から備中高松城で毛利軍と戦っている羽柴秀吉の援軍・出陣を命じられ、その準備のため丹波亀山に帰るとて愛宕山権現に参拝。「連句会」を催した際、俳人・紹巴(しょうは)に信長宿泊する本能寺の要害・溝の深さを尋ねた。「時は今、天(あめ)が下知る五月かな」と詠み、「大事を就すは今夕」と天下を取る意を隠せず、心中逆心を抱いていたので心落ち着かず粽を皮ごと食った。時あたかも梅雨の季節、天は墨のように黒く、光秀の心中暗澹としているのに似る。亀山で一万三千の兵を整え、いよいよ天正10年6月2日夜明け、備中に向かうふりをして出陣した。老阪に至り、ここから右折すれば備中街道、左折して東進すれば京都への道である。光秀は鞭を揚げて東を指し、「吾が敵は本能寺にある信長である」と、全軍に初めて逆心を明らかにし、本能寺に突入し信長を襲った。信長は宿所に火をかけさせ、燃え上がる炎の中で自刃した。"しかし光秀よ、本能寺の信長は少数の供回りを連れているだけで敵とするに当らない。手ごわいのは備中にある秀吉である。これに対する用意がないと、天下が取れる訳がないぞ"と山陽叱咤!(注・「敵在備中」の敵を「秀吉」、「汝能備」の汝を光秀説とした)
 「頼山陽」について

 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人。頼山陽著作の二つの歴史書「日本外史」と「日本政記」が、幕末から明治にかけての志士たちの心を捉えた。発行部数30万とも40万とも言われ海外でも翻訳される程のベストセラーだった。これらは歴史に名を借りて政治を論じたもので、見識の高さ、筆力で多くの青年たちを感銘せしめ、維新前後の指導者を鼓舞せしめた。その著作の間に一気呵成に脱稿した「日本楽府」共々、多くの「漢詩」も歴史を詠じながらの史論、政論でもあったことから、時代を動かす梃子となった。頼山陽には「時の勢いが歴史の流れを変えていく、歴史は必然的に動いていく」という「歴史観」がある。この史観が尊王討幕の意気に燃える青年たちを煽り立て、幕末の英傑、明治維新の精神的・理論的指導者となった。吉田松陰は、山陽の孫弟子である。山陽の「言霊」の根底には①孔子的思いやり「恕」、②孟子的勇気、浩然気、③荘子的調和「中庸」がある。

  「日本外史」は、源氏・平家の台頭から徳川の天下統一に至る武門の興亡記した「武家の歴史書」(全22巻)。人物伝記体。20年近くの労作。
  「日本政記」は、「天皇家の歴史書」 (全1巻)。編年体。死直前の抱負を記す。日本の古代から、安土桃山時代までの国史の中に題材を求め、当時の日本国数に因んで全66曲「歌謡風」に詠じたもの。「本能寺」、「蒙古来」、「繰糸」(静御前)、「裂封冊」等、吟唱される漢詩はこの中に多い。
  「山陽詩」日本楽府他、山陽詩鈔(八巻-662篇)、山陽遺稿(七巻530篇)。日本歴史を詩を以て編んだ。優れた着想、抑揚自由な詩は飽きない。

 山陽出自・来歴は次の通り。

 1781年~1832年。享年53歳。父は広島藩儒家の頼春水。厳格な人だった。母は大阪の有名学者の娘で文人の静子。溺愛した。幼年より躁鬱病患う。江戸昌平黌退学、広島藩脱藩、菅茶山塾脱走。座敷牢幽閉(3年間)中に「日本外史」草稿開始。早熟の才を見せている。12歳の時の作「立志」は「男児不学即已」(人間学ばずば終わる)。14歳の時の作「述懐」は「十有三春秋 逝者已如水 天地始終無 人生生死有」。恋愛経緯は次の通り。廃嫡・離縁中の34才の山陽は大垣の旅途上「江馬細香」という美人(大垣藩主治医の娘、書画詩文に秀)に初めて会い、ひと目惚れし結婚申込む。ところが性癖上細香父に断られ失恋。(「舟發大垣赴桑名」。しかしお互い「相思相愛の漢詩・師弟交情」は以降も続き、江馬細香は山陽慕い、独身通した。余技は書「米芾」(北宋)書風、画(山水南画)、篆刻、琵琶。





(私論.私見)