本能寺の変考 |
更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「本能寺の変考」をものしておく。 2011.8.9日再編集 れんだいこ拝 |
【本能寺の変前日の茶会考】 | |
「本能寺の変前日、信長が決行した茶会の真相、本能寺の変の真犯人を巡るひとつの視点」参照。 本能寺の変の前日に信長が主催した茶会の状況を確認しておく。天正10年3月、念願の宿敵・武田家を滅亡させた織田信長にとって残る敵は東に北条家・上杉家、そして西の大名・毛利家である。いよいよ念願の「天下布武」の達成が目前になっていた。3月15日、秀吉率いる中国方面軍が2万5千余の大軍で中国攻めを開始する。4月15日、備中入りをした秀吉軍は「境目七城」の内、冠山城・宮津山城を陥落させる。5月初め、高松城を囲み、折から梅雨で水かさの増す足守川をせき止め総長3キロにわたる膨大な築堤をして水を注ぎ込み高松城を浮城にして兵糧攻めをする。5.20-22日、時を移さず毛利三軍が総勢5万の兵を率いて高松城救援のため着陣する。5.17日、大軍の来襲に驚いた秀吉が信長に早馬を送り、信長の来援を要請する。時あたかも徳川家康が安土城を訪れ饗宴中であったが、信長は「天下統一」達成の好機到来と出陣を決め上洛を決意する。「このたびこのように敵と間近く接したのは、天の与えたよい機会であるから、自ら出兵して、中国の有力な大名どもを討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と、光秀に同道を命令している(『信長公記』)。 5.28日、明智光秀が、愛宕山で行った連歌会で、「雨が滴る五月かな」に架けて「時は今、天(あめ)が下知る(滴る)五月かな」と詠んでいる。信長を討つ「本能寺の変」を起こす決意が込められている、と解されている。 5.29日、信長は、遠征に先立って38点の大名物茶器とわずかな供廻りだけで急遽上洛して本能寺入りした。6.1日、6月4日京都本能寺を出立する旨を拝謁の公卿衆の前で公言する。ところが、6月2日早暁、明智光秀率いる1万3千の兵が本能寺を急襲して織田信長を、妙覚寺で護衛中の織田信忠隊ともども、同時に弑逆(しいぎゃく)した。 問題は6.1日にある。雨の中、信長入京祝賀の名目で公卿衆約40名が大挙して表敬訪問してきた。この公卿衆を相手に「本能寺茶会」を催したというのが通説になっているが、この時の公卿衆・大陳情団の中に山科言経(ときつね)という公卿がおり、その日の彼の日記『言経卿記』にはっきりと「進物被返了」(進物はすべて返された)とある。つまり信長は公卿衆の来訪を受け入れず、関白・近衛先久や博多の商人同席の茶会を催しているのが真相である。『言経卿記』には、「数刻御雑談、茶子・茶有之、大慶々々」とある。この時、信長は38点もの「大名物茶器」をわざわざ安土城から運んでいる。その理由は、博多の豪商茶人・島井宗室とその義弟の神谷宗湛に披露する茶会を催すためである。本能寺の変の前日の茶会の相手は公家たちではなく鳥井宗室・神谷宗湛だった。2人は博多の豪商茶人であり、島井宗室は大名物茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」の所有者として著名な茶人だった。信長はすでに「初花(はつはな)肩衝」と「新田(にった)肩衝」という大名物茶入を所持していた。この「楢柴肩衝」を入手すると天下の三大・大名物茶入がそろうことになり、信長垂涎(すいぜん)の的の茶入だった。そもそも茶入が茶道具の中でも最高位の物とされ、大方は「肩衝」、「茄子(なす)」、「文琳(ぶんりん)」、「その他」に大別できるが、なかんずく「肩衝」がその第一である。「初花肩衝」、「新田肩衝」、「楢柴肩衝」の銘のある三器をこの時点でそろって所持した者はいなかった。信長がこの「楢柴肩衝」さえ入手すれば、信長こそ天下に隠れなき最初の大茶人に成りえた。 島井宗室が5月中旬から京都に滞在しており、6月初旬には博多に向けて京を立つ旨の情報を信長に伝えたのは千宗易(利休)と思われる。千宗易から島井宗室に連絡を入れさせ、「6月1日なれば、上様の御館に参上仕つる」との確約を得たのであろう。かくして信長は、安土城から38点もの「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、最も無防備な形で本能寺に入った。38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄2年(1593年)、堺の茶人・宗魯(そうろ)によって筆録された『仙茶集』の中に、【島井宗叱(宗室)宛て長庵の道具目録】が収録されており、その冒頭に「京ニテウセ(失せ)候道具」とあって、以下、件(くだん)の38点が記載されている。
そして結びに、差し出し日「6月1日」、差出人の楠木長庵(くすのきちょうあん)の在判で、「三日月、松島、岸の絵、万里江山、虚堂痴愚(きどうちぐ)の墨蹟、大道具に依って安土に残置候。重ねて拝見仰付らるべく候」とある。そして「三日月、松島の葉茶壷、虚堂痴愚(中国南宋・臨済宗の高僧)の墨蹟などは大道具なので今回は安土に残してきたが、またの機会に見せるであろう」と約束してもいる。しかしこの「本能寺茶会」こそが、信長を京都に誘き寄せる最良のわなだった。 |
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「本能寺茶会こそが信長を京都に誘き寄せる巧妙に仕組まれたわなだった」説は秀逸ではなかろうか。 |
【本能寺の変】 | |||
1582(天正10).6.21日(旧暦6.2日)、信長は、逆臣となった明智光秀の指揮する「本能寺の変」に遭遇し最後を遂げた(享年49歳)。嫡男の織田信忠は父信長を救出しようとするが果たせず、二条城(御所)で自刃(享年26歳)している。 光秀の謀反の動機には諸説あり、歴史上の大事件でありながら謎が多い。疑惑は、単独犯説から共同犯説まであり、共同犯の相手としても、羽柴秀吉、徳川家康、正親町天皇、足利義昭、千利休、安国寺恵瓊のいずれかを黒幕として想定する諸説がある。その動機にも諸説ある。1・仕打ち怨恨説、2・失脚予感危機感説、3・天下取りの野望説、4・信長の皇位簒奪阻止のための朝廷守護説、5・イエズス会による日本の政権のすげ替え説(立花京子)などがある。いずれも決定力に欠けており、定説は定まらない。本題から外れるが、光秀はその後「天海僧正」として徳川幕府のブレーンとなったという説もある。 以下、れんだいこが推理する。「千利休黒幕説」を参照する。出典は、中津文彦氏の「闇の本能寺」とのことである。それによると、概略次のようになる。
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【本能寺の変後の光秀の動向】 | |||
信長を討ち取った光秀は、6.3~4日、諸将の誘降に費やした後、6.5日、安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。6.13日、「天王山の戦い」となった山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)の竹藪の中で落武者狩りの土民に討たれたと云われている。期待していた細川忠興、筒井順慶らの支持を得られなかったことが戦力不足を招き、間接的にではあるが敗因を招いたと云える。京都で政務を執ったのが10日から12日の3日間であったため、三日天下と呼ばれた。 「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」がフロイス「日本史」の「五畿内編Ⅲ」の次の一文を記している。
とりあえず以上を書き付けておく。その後、八切止夫氏の別章【信長殺し、光秀ではない】、別章【織田信長殺人事件】、別章【信長殺しは秀吉か】で補足した。 |
【フロイス記】 | |||
フロイスは、本能寺の変後の京都の情景を次のように記している。「武将と囲碁」(榊山潤)の79Pを参照する。
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【日本イエズス会年報の本能寺の変記述】 | |
「北國新聞朝刊(2002/04/09付)~ 本能寺の変 ~京の手前で利長、危機一髪 南蛮寺の宣教師は見た」を転載しておく。
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【「信長と十字架」(立花京子,集英社新書)】 | |||
夏井睦(まこと)氏の 「読書コーナー」の「信長と十字架」を転載しておく。
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【本能寺の変の通説批判】 | ||
2020.12.30日、井上慶雪「本能寺は『織田信長の定宿』は大きな誤解である 本能寺の変にはなぜこんなにも誤謬が多いのか」を参照する。「本稿では、巷間いわれている本能寺の変は間違いだらけであることをお伝えしたい」として次のように補足している。
これは良いとして、私から見て本稿も又あらぬ方向へ誘導している。
構えは良いのだが、推定方向が決してバテレン疑惑に向かわないところに苦笑させられる。但し、資料的に貰えるところがあるので取り込んでおく。 |
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信長上洛時の「本能寺泊」について 通説は、「本能寺泊」を「常宿」としているが、信長の約49回の上洛中、「本能寺泊」は、上洛当初の元亀元年〈1570〉7月、8月、天正9年2月20日、天正10年5月29日の4回でしかない。それまでは「妙覚寺泊」が約20回、「二条御新造(二条御所)泊」が14回、「相国寺泊」が6回、「知恩院泊」等々である。最後となる「本能寺泊」は、信長上洛の護衛に駆けつけた嫡男信忠がすでに妙覚寺に詰めていたので、昨年宿泊した「本能寺泊」になったという。 |
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「無防備な本能寺泊」について 「信長の謀殺を狙ったある組織が少数での信長の上洛を謀り、6月2日早暁、無防備な本能寺を襲った」は正しい。これに対し、加来耕三氏は次のように述べている。
「日蓮宗の研究」に詳しい藤井学氏は次のように記している。
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信長は「是非に及ばず」と言っていない 信長が光秀の謀叛を知ったとき、うめきの声のように「是非に及ばず」(仕方がない)と言ったとされてきた。これは、太田牛一の「信長公記」の記述、「これは謀叛か!」(信長)。「はい、明智が者が」(森乱丸)。「そうか、是非に及ばず」(信長)に拠っている。が真相は不明で、「是非に及ばず」は太田牛一の創作と思われる。下敷きは、本能寺の変からさかのぼること12年前の元亀元年(1570)、信長は朝倉義景攻めのとき、義弟・浅井長政の裏切りに遭って挟み撃ちの状況下に置かれ、窮鼠の境地に追い込まれたときに「是非に及ばず」という言葉を発している。太田牛一は、「信長公記巻三」で次のように記している。
太田牛一は、このときの記述に倣って、「本能寺」の極限で信長に「是非に及ばず」を言わしめたと推定できる。「是非に及ばず」は信長の常套句もしくは口癖であったにすぎない、のではなかろうかということになる。 |
れんだいこのカンテラ時評№1185 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月11日 |
戦国期の研究を通じての陰謀論考 戦国武将家伝書考をしながらふと気づいたことを記しておく。その最たる例は「本能寺の変」であるが、明智光秀軍の叛旗をどう読み取るかで諸説が入り乱れている。れんだいこは、これを当時の歴史状況に照らしてバテレン陰謀説を採る。これは自然に見えてくる見立てである。バテレン陰謀説を採らない諸説に愚昧を感じ無駄な推理遊びとぞ思う。 ここで興味深いことを確認する。陰謀説は一般に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞く。しかしながら、「本能寺の変」の推理で分かるように、陰謀説のほうが素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、陰謀説批判は、手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、陰謀説に対して手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけていることになる。これは悪質論法の一つである。この論法は案外あちこちで多用されている。 未だ陰謀説は学説と成り得ていない。しかしながら、このことは、陰謀説が学説になるに足らないのではなく、学説の方が陰謀説を排除する特殊な政治主義に牽引誘導されている為ではなかろうか。近現代史は、れんだいこ式陰謀説が捉えるところの国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派の権力により支配されている。最近になってこれを簡略に「国際ユダ邪」と命名している。これに照らせば、「国際ユダ邪」の許容しない研究は学説にさせないとされているだけのことではなかろうか。政治経済文化精神のみならず学問といえども「勝者の官軍論理」に導かれている。勝者側は勝者側に不都合な学問は許容しない。これが陰謀論批判の社会学的根拠ではなかろうか。 戦国史の研究をしながら、こういうことに気づいた次第である。ここでは「本能寺の変」を挙げたが、13代足利将軍・義輝刺殺事件も臭い。千利休切腹事件も臭い。あれは石田光成を長とする特捜調査団により「本能寺の変」の黒子としての動かぬ証拠を突きつけられて切腹に追い込まれたと考えれば疑問が解ける。かの時代の枢要な事件においてバテレン派の黒幕性を見て取ることができる。仮に、だとするなら、同じ目線で現代史を捉え返す必要があるのではなかろうか。という具合に関係してきて、それ故にそういう本当のことを言うのが一番いけないこととして、それだけは言うな、ほかのことなら何でも許すという囲いの中で知の遊びをしているのではなかろうか。 所詮、学問といっても、この程度のものではなかろうか。よって、許され囲われた知恵遊びの空間の中で難しそうに賢こげに言う者がいたら眉唾してきた、れんだいこのカンは当たりだったと改めて思う次第である。こういうこともいつか言っておきたかった。 |
【本能寺の変の黒幕推理考】 |
本能寺の変の黒幕推理は、邪馬台国の所在地論争、坂本龍馬暗殺下手人詮議に並ぶ「三大日本史の謎」とも云われている。主役は明智光秀だとして、その動機について、怨恨説、野望説がある。怨恨説の理由として、信長のせいで母を殺されたこと、家康饗応役を務めた際、魚が腐っているとしてその役を罷免されたこと。続いて、家臣の移籍問題に起因する信長からの暴行。さらに、戦での「骨を折った甲斐があった」との発言に対する叱責。石見への国替え命令が挙げられている。但し、殴打と人事への不満を除けば、他はすべて江戸時代の創作と判明している。他に、長宗我部元親が原因とする説もある。信長が元親との「四国切り取り自由」の約束を撤回したことで両者の関係が悪化。そこで仲介役を務めていた光秀は面目を失い、謀反へと繋がるとする説だ。 黒幕については、朝廷黒幕説(光秀勤王家説)、足利義昭将軍黒幕説(光秀幕臣説)、秀吉黒幕説、四国動乱説、光秀高齢説、家康謀殺計画からの発展説等がある。以上は通説である。奇妙なことにバテレン黒幕説だけが巧妙に隠蔽されている。バテレン黒幕説だけは封じて後は何でもありの詮索が続いている。 |
信長の遺体が未発見な事に関連して、密かに本能寺から持ち去られ、首は遠く駿河の西山本門寺に葬られたとする伝承がある。西山本門寺と京都の阿弥陀寺は同じ宗派であり、阿弥陀寺の高僧は信長と交流があったことから、本能寺が襲撃されたと知るやただちに人を走らせ、信長の遺体を引取り、とりあえず阿弥陀寺へ運び、万が一に備えるため首だけは参道伝いに駿河の西山本門寺へ運んで丁重に葬ったという。 |
【頼山陽の「本能寺」考】 | ||||||||||||||||
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人「頼山陽」が詠じた「日本楽府」から梅雨時節に因み「本能寺」は次の通り。(「フェイスブック関 袈裟夫」より)
大意・補記
織田信長を深く憎くんでいた明智光秀は、信長から備中高松城で毛利軍と戦っている羽柴秀吉の援軍・出陣を命じられ、その準備のため丹波亀山に帰るとて愛宕山権現に参拝。「連句会」を催した際、俳人・紹巴(しょうは)に信長宿泊する本能寺の要害・溝の深さを尋ねた。「時は今、天(あめ)が下知る五月かな」と詠み、「大事を就すは今夕」と天下を取る意を隠せず、心中逆心を抱いていたので心落ち着かず粽を皮ごと食った。時あたかも梅雨の季節、天は墨のように黒く、光秀の心中暗澹としているのに似る。亀山で一万三千の兵を整え、いよいよ天正10年6月2日夜明け、備中に向かうふりをして出陣した。老阪に至り、ここから右折すれば備中街道、左折して東進すれば京都への道である。光秀は鞭を揚げて東を指し、「吾が敵は本能寺にある信長である」と、全軍に初めて逆心を明らかにし、本能寺に突入し信長を襲った。信長は宿所に火をかけさせ、燃え上がる炎の中で自刃した。"しかし光秀よ、本能寺の信長は少数の供回りを連れているだけで敵とするに当らない。手ごわいのは備中にある秀吉である。これに対する用意がないと、天下が取れる訳がないぞ"と山陽叱咤!(注・「敵在備中」の敵を「秀吉」、「汝能備」の汝を光秀説とした)
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「頼山陽」について 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人。頼山陽著作の二つの歴史書「日本外史」と「日本政記」が、幕末から明治にかけての志士たちの心を捉えた。発行部数30万とも40万とも言われ海外でも翻訳される程のベストセラーだった。これらは歴史に名を借りて政治を論じたもので、見識の高さ、筆力で多くの青年たちを感銘せしめ、維新前後の指導者を鼓舞せしめた。その著作の間に一気呵成に脱稿した「日本楽府」共々、多くの「漢詩」も歴史を詠じながらの史論、政論でもあったことから、時代を動かす梃子となった。頼山陽には「時の勢いが歴史の流れを変えていく、歴史は必然的に動いていく」という「歴史観」がある。この史観が尊王討幕の意気に燃える青年たちを煽り立て、幕末の英傑、明治維新の精神的・理論的指導者となった。吉田松陰は、山陽の孫弟子である。山陽の「言霊」の根底には①孔子的思いやり「恕」、②孟子的勇気、浩然気、③荘子的調和「中庸」がある。 「日本外史」は、源氏・平家の台頭から徳川の天下統一に至る武門の興亡記した「武家の歴史書」(全22巻)。人物伝記体。20年近くの労作。
「日本政記」は、「天皇家の歴史書」 (全1巻)。編年体。死直前の抱負を記す。日本の古代から、安土桃山時代までの国史の中に題材を求め、当時の日本国数に因んで全66曲「歌謡風」に詠じたもの。「本能寺」、「蒙古来」、「繰糸」(静御前)、「裂封冊」等、吟唱される漢詩はこの中に多い。
「山陽詩」日本楽府他、山陽詩鈔(八巻-662篇)、山陽遺稿(七巻530篇)。日本歴史を詩を以て編んだ。優れた着想、抑揚自由な詩は飽きない。
山陽出自・来歴は次の通り。
1781年~1832年。享年53歳。父は広島藩儒家の頼春水。厳格な人だった。母は大阪の有名学者の娘で文人の静子。溺愛した。幼年より躁鬱病患う。江戸昌平黌退学、広島藩脱藩、菅茶山塾脱走。座敷牢幽閉(3年間)中に「日本外史」草稿開始。早熟の才を見せている。12歳の時の作「立志」は「男児不学即已」(人間学ばずば終わる)。14歳の時の作「述懐」は「十有三春秋 逝者已如水 天地始終無 人生生死有」。恋愛経緯は次の通り。廃嫡・離縁中の34才の山陽は大垣の旅途上「江馬細香」という美人(大垣藩主治医の娘、書画詩文に秀)に初めて会い、ひと目惚れし結婚申込む。ところが性癖上細香父に断られ失恋。(「舟發大垣赴桑名」。しかしお互い「相思相愛の漢詩・師弟交情」は以降も続き、江馬細香は山陽慕い、独身通した。余技は書「米芾」(北宋)書風、画(山水南画)、篆刻、琵琶。 |
(私論.私見)