織田信長のキリスト教政策史考(信長の反バテレンキリスト教警戒政策考)

 更新日/2017(平成29).6.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「織田信長のキリスト教政策、本能寺の変考」を確認しておく。「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」その他を参照する。

 2011.8.9日再編集 れんだいこ拝


【イエズス会の三好三人衆操作】
 織田信長のキリスト教政策は、後の豊臣秀吉、徳川家康のそれに比して宥和(ゆうわ)的であった。これを確認しておく。

 室町幕府13代将軍・足利義輝は、イエズス会を庇護して京都での布教を認めた。「これに対し、この頃、畿内で権勢を振っていた三好長逸・三好政康・岩成友通の三好三人衆はこれを良しとせず、三好氏の重臣として同じく権勢を振るった」とあるが詐術臭い。真相は逆で、足利義輝はイエズス会の布教を認めたものの常に警戒し続け、これが為にバテレン勢力が三好三人衆と松永久秀を炊きつけ反義輝政治にシフトさせていたと見なすべきではなかろうか。国際ユダ邪は己らの行為を悪業と知りながら為し、悪業故に他の者の仕業に転化して記述し、後世の者を誑かすという変態詐術を好む癖がある。この「イエズス会活動を廻る足利義輝、三好三人衆の対応の逆さ記述」がまさにそうである。

【バテレンの義輝暗殺操り】
 1565(永禄8)年、三好三人衆は松永久秀と共に義輝の暗殺を決行した。宣教師のフロイスらが京都から追放された。これは、義輝暗殺にバテレンが絡んでいたことが判明した故に追放されたと受け取るべきであろう。以降、三好・松永政権の時代となった。

【織田信長の初期のキリスト教政策】
 1568(永禄11).9月、足利将軍家の家督相続者以外の子であった為、慣例により仏門に入り一乗院門跡であった(一乗院は興福寺別当をつとめる門跡寺院で、延暦寺における青蓮院に該当する)「覚慶」が、織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛。三好三人衆は為すすべもなく、10.18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍就任し足利義昭と名乗った。以降、三好三人衆の巻き返しに遭い抗争に入った。このことが織田信長を利する結果となる。
 この頃の1569(永禄12)年3.13日、信長は、高槻城主・和田惟政の尽力でルイス・フロイス(日本滞在:1563~1597年没)と接見している。この時の信長と・フロイスの問答は次の通り。
 「彼(織田信長)は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。司祭(ルイス・フロイス)は、日本にこの救いの道を教えることにより、世界の創造主で人類の救い主なるデウスの御旨に添いたいという望みのほか、司祭たちにはなんの考えもなく、なんらの現世的な利益(を求めること)なくこれを行おうとするのみであり、この理由から、我らは困苦を喜んで引き受け、長い航海に伴ういとも大いなる恐るべき危険に身をゆだねるのである、と返事した」(p153)。
 「さらに、司祭は、自分が都に自由に滞在してもよいとの殿の允許状を賜りたい。それは(殿が)目下、私に示すことができる最大の恩恵のひとつであり、それにより、殿の偉大さの評判は、インドやヨーロッパのキリスト教世界のような、殿をまだ知らない諸国にも拡がることであろう、と恩寵を乞うた。これらの言葉に(接し)、彼(織田信長)は嬉しそうな顔付をした」(p155)。

 信長はフロイスの帰京を認め、キリスト教の布教を許す代わりに海外の情報を仕入れ、参謀として使っている。信長は次の内容を認(したた)めた御朱印(允許状)を与えている。
 「伴天連が都に居住するについては、彼に自由を与え、他の当国人が義務として行うべきいっさいのことを免除す。我が領する諸国においては、その欲するところに滞在することを許可し、これにつき妨害を受くることなからしむべし。もし不法に彼を苦しめる者あらば、これに対し断乎処罰すべし。永禄十二年四月八日(1569年4月27日)真の教えの道と称する礼拝堂にいるキリシタン宗門の伴天連宛」。

 信長はさらに公方(足利義輝)に対し、自分はすでに朱印を伴天連に授けたから、とのも制札なる允許状を彼に授与されるがよい、と物言いしている。これによる公方の制札は次の通り。
 「伴天連が、その都の住居、また彼が居住することを欲する他のいずれかの諸国、もしくは場所では、予は他の者が負うているいっさいの義務、および(兵士を)宿営(せしめる)負担から彼を免除する。しこうして彼を苦しめんとする悪人あらば、そのなしたることに対し処罰される(べし)。永禄十二年四月十五日(1569年5月1日)」。

 「これらの允許状に捺印された後、和田殿はただちにそれらを司祭の許に届け、爾後彼がこれについてどうすべきかを忠告した」(p159)とある。

 「信長は、天下布武に立ちはだかる仏教勢力との対抗上、バテレンによってもたらされた異教のイエズス会キリスト教を利用した形跡がある」とも云えようし逆に「バテレンは、日本国取りの都合上、最も相応しいとして白羽の矢を当てた織田信長を育て利用した形跡がある」とも云えよう。
 安土セミナリオ(神学校)建設が次のように記述されている。
 「オルガンチーノ師は、信長が異常な満悦をもって宮殿の建築を自慢し、身分ある武将たちが彼に迎合するために、安土の新しい市(まち)に豪華な邸宅を造りたがっていることがいかに信長の意向に添ものであるかを知っていたので、(同地で)適当な場所を入手することを切望していた。なぜなら同所には、日本中の重立った武将たちが居住しており、信長を訪問し、彼と種々の用件を談合するために各地から参集する身分ある武士や使節が後を絶たなかったので、短期間にデウスの教えを知らしめ弘布するのに、またイエズス会が日本の遠隔の地方にも知られるために絶好の地と思われたからである。なおこれ以外に、信長の居城とその政庁を構成する多数の名だたる武将の間に住まうことによって、(イエズス)会が信用と名誉を獲得し、威信を高めることになる(と思われた)」(p12)。
 「信長には、そこが伴天連たちに便利であり適した場所であると思われたので、直ちにそれを与えることに決めた。オルガンチーノ師は、聖霊の祝日〔1580年5月22日(天正8年4月9日)〕にその土地を深い喜びのうちに受理し、それが我らの宗教とキリスト教の信仰を高揚するのに最も適した道であることを疑わなかったので、司祭もすべてのキリシタンも、それをデウスの偉大な恩恵として受けたのであった。なかでもこの事業で示された(高山)ジュスト右近殿の働きぶりは特に際立っており、彼は四日の道のりにある(摂)津の国から、彼の領民を呼び、その支出を(我らが)負担することを断わって(彼らをして)仕事に従事せしめた。このように事業はきわめて熱心に開始され、キリシタンたちの目覚ましい援助により、わずかの間に信長の宮殿を除いては、安土においてもっとも美しく気品のある邸のひとつとして完成した(1581年7月)。
 織田信長の配慮で実現した安土セミナリオでは、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの「法令指針」20)(p22)に基づき、「階下に外部の人を宿泊させるために、はなはだ高価で見事に造られた茶の湯の場所を備え、きわめて便利で、清潔な良質の木材を使用した座敷が造られた」(p15)。

【キリシタン大名続々出現】
 日本政界の最高指導者のその対応の下で、大友宗麟・細川忠興・ 伊達政宗らのキリシタン大名が生まれていった。但し、信長のイエズス会キリスト教はあくまで政治的に利用するものであって、他のキリシタン大名のように教義的に取り込まれるという風がなかった。この辺りが、信長のキリスト教政策の真骨頂と云えよう。信長は、西欧列強のアジア侵略に対抗して、日本の東南アジア進出による侵略阻止の勢いさえ見せた。

【織田信長の宗教観】
 織田信長の宗教観が次のように記されている。
 「彼(織田信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教徒的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは、当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で(身分の)高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。何びとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少し憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。彼(織田信長)の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた。彼ら(仏僧ら)は彼(父)が回復するであろうと保証した。しかるに彼(父)は数日後に世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につきさらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言いそして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた」(p103)。
 「今まで彼(織田信長)は神や仏に一片の信心すら持ち合わせていないばかりか、仏僧らの苛酷な敵であり、迫害者をもって任じ、その治世中、多数の重立った寺院を破壊し、大勢の仏僧を殺戮し、なお毎日多くの酷い仕打ちを加え、彼らに接することを欲せずに迫害を続けるので、そのすべての宗派の者どもは意気消沈していた。ある意味で、デウスはその聖なる教えの道を開くために彼(織田信長)をそれと気づくことなく選び給もうたようである」(p11)。

【信長が義昭を京都追放】
 義昭と信長が次第に対立し始め、信長の影響力を排除しようと企んだ義昭は、1571(元亀2)年頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。

 1573(元亀4)年、織田信長が上洛し、義昭の京都追放を実行した。昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けることになり、これを室町幕府の滅亡とする。三好三人衆は抵抗するが敵せず相次いで敗退し、勢力が衰えた。元亀年間には友通が戦死し、他の二人も消息不明な状態となり、1575(天正3)年、織田信長が義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に任官する。義昭の流浪が始まる。

【キリシタン大名荒木村重謀反】
 1578(天正6).10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重が、有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦した。

【信長が荒木村重謀反鎮圧】
 荒木村重側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。信長は、高山右近の寝返りにイエズス会を利用した。高山右近は熱心なクリスチャンであり、イエズス会と最も親しい日本人の一人であった。「信長はイエズス会に右近説得を命じた。イエズス会は、失敗すればキリスト教徒が迫害されイエズス会も追放されるという危機感を抱き、右近を寝返りさせた。同盟軍を獲得できなかった村重の謀反は鎮圧された」とあるが、ここもまた真相は分からない。イエズス会は-右近が懸命に情勢分析した結果、形勢利あらずと見て織田方に投降したと見なすべきではなかろうか。これを手引きしたのが明智光秀であったことも臭い。光秀のイエズス会との繋がりが見えていると見なすべきだろう。 2006.3.7日 れんだいこ拝

【織田信長の反キリスト教政策への転換】
 「切支丹来朝実記」が次のように記している。
 「バテレン(破天連)方より、便毎に今年は日本人何千人か勤め、今年は何万人勤め入ると 台帳に記して南蛮に渡すとか。宣教師が貧民病者を慈しみ、なほこれ等の妻子眷属に一人前、金一銭ずつ與ふる等、弓矢を不用して日本を随さんと謀る事、しかるに信長、南蛮寺の取沙汰あやしき宗門の様子及び聞心の内には後悔しける」。

 さらに、信長は、前田徳善院玄以なる仏僧に、「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し宣教師を本国に返そうと思うがどうか」と諮問している。「もし、そのようなことをすれば忽ち一揆が起こることは間違いありません」と答えている。信長は今まで宣教師を保護してきた政策を、「我、一生の不覚なり」と漏らした。

 信長は新しいもの好きで服装も南蛮物を好み黒人を傍に侍らす程で地球儀で世界地図で唐・印度の先の国も宣教師に尋ね理解していた。しかし、宣教師がかなりの戦国大名に食い込んでいるのを知り愕然とした。旗振り役は高山右近と大村純忠で、大友義鎮、有馬晴信、小西行長、右近の影響で牧村正春、蒲生氏郷、黒田考高も信徒となった。細川忠興と前田利家にも影響を与えていた。
 ルイス フロイスは、信長を「途方もない狂気と盲目、悪魔的な思い上がり」と評している。この真意は、織田信長の天下を続けさせることに対する激しい敵意にこそあるように思われる。イエズス会宣教師達は、本国以上の国力を持つ日本に初めて遭遇し、その国の天下を手中にしつつあった若きリーダー織田信長を分析し、その政治能力に恐怖を覚えたのではなかったか。日本は益々手におえなくなる、この敵愾心がやがて本能寺の変に繋がっていったのではなかろうか。
 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「信長はキリスト教に入信してスペインとカトリック(の仮面をつけたユダヤ)の傀儡(かいらい)となることを拒否したのみでなく、彼らの本音を見破り、彼らのアジア侵攻計画に対抗して、日本自ら東南アジアに進出して、ヨーロッパ列強の侵略を阻止する勢いを見せた。在日カトリック僧侶団は信長の存在を危険とみて、信長暗殺処分の謀略を仕掛けたのではなかろうか」。
 「だが、日本民族の運はまだ尽きていなかった。信長の死がはらむ大混乱の危機を、秀吉はあっというまに収拾したのである。そして、信長の遺志である日本統一を成し遂げ、キリシタンを禁止して日本列島にできかかつていたスペインとカトリック(の仮面をつけたユダヤ)の植民地支配の芽を摘み取った。秀吉の死後は家康が後を継いだが、鎖国令によって、最終的にユダヤの日本侵略の企図を封じた。しかも彼は、中国・朝鮮との友好関係を意識的に教化して、東アジアの対ヨーロッパ防衛の体制を敷いたのではないか。この三代の英雄が日本民族を指導する立場についたことで、日本(のみならず東アジア三国も)は、辛くもユダヤの侵略を撃退しえたのではなかろう。もちろん、彼らは情報不足のために、背後のユダヤの存在を認識し得なかったとしてもである」。

【織田信長無神論考】
 Dyson 尚子「織田信長は本当に「無神論者」だったのか?比叡山を焼き討ち本願寺と戦った男の真実」。
 服装や髪は乱れたまま。全くもって礼儀正しくない。さらにその上、悲しみで途方に暮れる親族の集まりの中。つかつかと、仏前まで歩き。なんと、抹香を鷲掴みにしたかと思うと、そのままぶちまけたのである。これは、織田信長を語る上で、必ずといっていいほど取り上げられるエピソードの1つ。言葉を失うほどの「規格外」とでもいえばいいのだろうか。このエピソードをもとに、「無礼者」や「うつけ」といった若き日の信長像が定着する。だが、最初に下った最低最悪評価は、いつの間にか姿を変える。信長が勢力を拡大するにつれて、「無礼者」が「天下を狙うほどの器量」へと実を結ぶことに。この始めと終わりのギャップが大きいほど、人は畏怖の念を抱く。そして、いつしか。周りの者は、静かに納得するのである。ああ。信長の如く、天下人になりうる一握りの人間は、結局、自分たちと違うのだと。到底、凡人の我々には理解できなくても仕方ない。こうして、「織田信長」という人物像は、偏ったまま人々の記憶に残るのだ。さて、冒頭に挙げたエピソードである「抹香ぶちまけ事件」。さらに信長が行った「比叡山の焼き討ち」や「本願寺勢力との長期にわたる戦い」。これら全てを繋げて導き出されるのが、織田信長に対する「無神論者」というレッテル。しかし、このエピソード。じつは、全く違う見方ができることをご存知だろうか。そこで、今回の企画は「どうか。無神論者と呼ばないで」というモノ。これまでの織田信長の所業を紐解きながら、「無神論者」という評価を打ち破っていこう。

 信長の「無神論者」説はあのフロイスが言い出した?

 織田信長が「無神論者」であるとは、一体、誰が言い出したのか。いや、その前に。織田信長といえば、忘れてはならないのが熱田神宮(愛知県)の「信長塀」。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねられて作られた築地塀(ついじべい)のことである。京都三十三間堂の太閤塀などと共に、「日本三大土塀」のうちの1つとして数えられている。そもそも、どうして織田信長が熱田神宮に築地塀を奉納したのかというと。永禄3(1560)年5月の「桶狭間の戦い」で、信長が大金星を上げたからだ。当時は無名だった信長が、上洛まで視野に入れていたあの今川義元を破る。誰もが予想しなかった快挙に周囲は驚いた。ここに、戦国時代の流れを変えた「番狂わせ」が実現したのである。じつは、この戦いの直前。信長は熱田神宮(愛知県)で戦勝祈願を行っている。そして、願い通りの大勝利のお礼に、熱田神宮へ奉納したという経緯だ。戦勝祈願に、お礼まで。なんだか、とっても意外。これでは、フツーの信心深い戦国武将ではないか。勝手ながら、信長という男は「神仏など頼らず実力があれば勝つのだ。ワハハハ」と仁王立ちしているイメージだったのに。それだけではない。小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』、また『改正三河後風土記』には、予想外の記述も。ただ、信長の家臣の太田牛一(おおたぎゅういち)が記した『信長公記』にはないため、創作の可能性もあると注意しておこう。なにやら、熱田神宮での戦勝祈願の折に、社壇にて不思議なコトが起こったというのである。鎧(よろい)の草摺り(くさずり)の揺れる音がしたのだとか。そんな奇怪なエピソードが記されている。しかし、ここでも、信長は意外な言葉を吐く。「信長は、この時も『戦勝祈願の折、武具の音を聞くとは吉兆である。これはまさに熱田大明神の御加護のあるしるしに違いない』と言ったという」(小和田哲男著『戦国軍師の合戦術』より一部抜粋)。これまた、織田信長のイメージとあまりそぐわない。一瞬、縁起担ぎかとも思ったのだが。信長は、あまり縁起云々にはこだわらないタイプ。戦国武将の間では、一般的にタブーとされている「北向きに甲冑を置く」こと。しかし、信長は、うっかり北向きに置いてしまった家臣を叱りとばしもせず。あくまで冷静に、現実的な対応を見せている。だから、純粋に「熱田大明神の御加護」を願っていたともいえるのだ。そういう意味では、信長は一般的な信心を持ち合わせていたのだろう。加えて、仏教に対しても、わずかながらの信仰が垣間見える。安土城(滋賀県)の築城の際には、菩提寺である臨済宗妙心寺派の「總見寺(そうけんじ)」を移築。それだけではない。軍旗も「南無妙法蓮華経」と書かれたものを使用。繋ぎ合わせれば、禅宗や法華宗への信仰もチラッとだが、うかがい知ることができるのだ。だとすれば……。と、最初の質問に戻るワケである。一体、誰が織田信長を「無神論者」と言い出したのか。それが、非常に気になるところ。

 さて、この「無神論者」の発信源はというと。ポルトガルから布教のために来日していた、イエズス会宣教師の「ルイス・フロイス」である。彼は、多くの戦国武将について記録し、当時の日本の習俗なども含めて、一連の布教史をまとめあげた。当然、織田信長についての記述もある。その著書『日本史』の中で、以下のような内容が記されている。「彼(信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの崇拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜(せんぼく、占い)や迷信的慣習の軽蔑者であった」、「霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(ルイス・フロイス著『日本史』より一部抜粋)。確かに、神仏への崇拝の軽蔑者との記述は「無神論者」を疑わせる。実際に、来世の賞罰はないと考えているのであれば。「救われる」コトを肯定する幾つかの宗教と矛盾することにもなるだろう。ただ、この一言を持って、「神をも恐れぬ織田信長」という人物像ができたワケではない。後世にまで、そのイメージが根強く残るには、それ相応の所業が必要となるのである。

 もはや「本願寺」も「比叡山延暦寺」も「宗教勢力」ではない?

 決して、見たモノ全てが事実ではない。玉虫色のように、違う角度から見れば、異なる色に見えることも。例えば、織田信長はキリスト教に寛容だが。一方で、「比叡山延暦寺(滋賀県)の焼き討ち」や長年にわたって続いた「石山本願寺(大阪府)との戦い」では、仏教勢を相手に厳しい対応を取っていると思われることも。確かに、見方によっては、なんだか仏教を弾圧したようにも思えなくもない。ただ、実際のところはというと。彼らを、仏教勢と見るからややこしいのである。「宗教団体」ではなく、一大名と同じ。単なる一大勢力の1つに過ぎなかったとみれば、また話は違ってくる。まず、「本願寺勢」から。浄土真宗本願寺派の第八世「蓮如(れんにょ)」の頃、信者は爆発的に増え、「石山本願寺」を創建。場所は、現在の大坂城のあるところだ。既に82歳だった蓮如は引退をしており、当時の法主である「証如(しょうにょ)」の長男が、「顕如(けんにょ)」であった。当時、織田信長と敵対していたのが越前(福井県)の朝倉氏、そして裏切った義兄の近江(滋賀県)の浅井氏。「本願寺勢」のトップであった顕如は、この浅井氏との同盟を確認している。時代の情勢をみて、時に、武田信玄と手を結ぶこともあった。一方、「比叡山側」はというと。もともと、平安時代より、比叡山延暦寺は多くの僧兵を抱えていた。彼らは、いざとなれば山を下り、日吉大社の御輿を担いで朝廷に強訴した強者。時の権力者たちも、仏罰に恐れをなして、その訴えを聞き入れていたという。そして、こちらも同様。比叡山側も、先ほどの朝倉氏、浅井氏に加担していたというのである。浅井・朝倉の兵が逃げ込めば当然匿った。いうなれば、信長の敵対勢力と手を結び、反抗したのである。また、焼き討ちするにあたっても、抜き打ちで行ったワケではない。『信長公記』によれば、元亀元(1570)年に、事前の通告を比叡山に対して出している。信長側に味方する、もしくはそれができなくても、一方に加担せず、中立を保ってほしいと。これができない場合は、焼き払うと明言していたのだ。こうなると、彼らは、たまたま「宗教団体」という側面が強かっただけ。じつは、同盟を結ぶ戦国大名と何ら変わらない。一大勢力だと見ることができるのだ。

 そもそも、端的にいえば。当時の「僧侶」と現代の「僧侶」とでは、極端にイメージが違う。無抵抗な大人しい僧侶に対して、寺を焼いたり、戦ったりするなんて。織田信長は極悪非道だと憤る。これは、現代の僧侶を前提にして考えるから起きる誤解である。当時の「石山本願寺」や「比叡山延暦寺」の僧侶は、現代のような「ザ・僧侶」ではない。慈悲深く、武力にも耐えて読経で立ち向かう。そういうタイプもいたかもしれないが。戦う彼らは、武力も厭わず。武士顔負けの強靭な肉体を持つソルジャーだったのだ。加えて、「本願寺勢」の主力となって一向一揆を起こす門徒らは、恐れを知らなかった。戦国大名同士なら、優勢がつく頃に退陣することもしばしば。大将が討ち取られでもすれば、確実に敗走する。しかし、念仏を唱えながらひたすら前進する門徒らは、鉄砲も恐れない。味方が倒れても、それを超えて迫る勢いである。いうなれば、戦いの常識が通用しない相手でもあった。こう考えると、織田信長が神仏を恐れずに戦ったとみられても仕方ない。それほど、なりふり構わず戦わなければならない相手だったのである。こうして、結果的に。信長と「宗教勢力」との戦いは、「無神論者」という見方を後押しすることに。他の言動も相まって、その強烈なイメージが覆らず、蓄積されていったのだろう。

 最後に。事実は1つ。しかし、その焦点の当て方違いで、事実は幾重にも形を変える。信長が安土城の築城の際に、石段に石仏を使用したのもそう。人々は通る際に、本来なら崇めるはずの石仏を踏む。ただ、違う角度から見れば、当時は「転用石(てんよういし)」として、墓石や石仏、灯篭なども石垣などに用いられた。これが、特段、珍しかったワケではない。信長が石仏を使用したのは、単純に石不足を解決するためか。いや、一方で、神仏を封じ込めることで、その力により城の守護を祈願していたとも考えられる。罰当たりなのか、それとも信心深いのか。見る側の解釈で、180度も結論が変わるのだ。冒頭でご紹介した「抹香投げつけ事件」もそう。もちろん、死者への冒涜と見ることもできる。いや、亡くなった父に対し、悲しみがあのような形となって表れたのかも。案外、悔しさや怒りの種類といった感情だったかもしれない。あるいは、「魂呼び(たまよび)」という見方もできる。「魂呼び」とは、臨終あるいは死の直後に、枕もとなどで死者の名を呼ぶ習俗のコト。霊魂を呼び戻して、死者を蘇らせるのである。三途の川を渡りそうな死者を戻すのだから、何より大声で叫ばなければならない。地域によっては、屋根や木、丘に上がって叫ぶ。海や井戸に向かって叫ぶ場合も。枡(ます)の底を叩いて大きな音を出すこともある。だったら。焼香を投げつけるのだって、別バージョンでありそうではないか。果たして、織田信長は「無神論者」だったのか。ひょっとすると、解釈次第で。また違う答えが出てくるのかもしれない。
 Dyson 尚子

 日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。
参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月




(私論.私見)