石田光成考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日

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 2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日 れんだいこ拝


【石田光成の履歴考】
 ここで「石田光成」の履歴を確認しておく。2019.6.22、上永哲矢「石田三成の“義”に共感者続出 現代ならば総務人事の担当者〈dot.〉」、上永哲矢「部下にも慕われた? “悪人”のイメージを覆す石田三成の素顔とは」、現代に伝わる石田三成の宝刀、米国から戻った秀吉からの鎧兜」その他を参照する。
 豊臣の天下を守るために徳川家康と対決。しかし関ヶ原で敗れ、非業の死を遂げた石田三成。「逆臣」、「悪人」のイメージでとらえられることもあるが、実は「義」を重んじ、家臣・領民にも慕われていたという。関ヶ原で敗れた「凡将」として語られて来たが近年再評価されつつある。

 豊臣の天下を守るために徳川家康と対決。しかし関ヶ原で敗れ、非業の死を遂げた石田三成。

 三成の居城は佐和山城(滋賀県)。石田三成の故郷・滋賀県では「武将と~いえば三成~♪」、「配下にするなら三成~♪」というご当地CMが制作されて話題となった。この人気の要因について、歴史作家の江宮隆之氏は、「ひとえに“義”、すなわち正義を貫き、豊臣家に殉じた生きざまが、共感されているからでしょう」と語る。では、三成の「義」とは、どのようなものだったのだろうか。「三成には『三つの義』がありました。第一に主君である豊臣秀吉への義に集約される『忠義』、第二に領民や家臣への『仁義』、第三に国家に対する『大義』です」(江宮氏)。生きるか死ぬか。裏切りや謀略が日常的に起きた戦国時代。その当時の主従関係に確固たる絆はなかった。戦場で手柄を立て、「利」を得ることが生き残るすべであった。「利」とは充分な恩賞や褒美であり、それこそが御家安泰の糧。それが得られなければ簡単に寝返ってしまうのが道理でもあった。「藤堂高虎のように、生涯に七度とも八度ともいわれるほどに主君を替えた武将もいました。しかし、それは決して不義不忠でも、そしられることでもなく、当然のこととして、むしろ讃えられたのです」(江宮氏)。時代劇の「忠義」とか「○○恩顧の大名」などの言葉の感覚を持っていたのはごく一部の人だけ。「武士道」というのは、戦国の世が終わって、徳川氏が天下を統一した江戸時代になってから、武士たちに課せられ浸透した概念である。「だからこそ石田三成の豊臣政権(秀吉と秀頼)への忠義心は、戦国時代には珍しい概念として映ったはず。私たち現代人には、それがいっそう清々しく感じられるのでしょう」(江宮氏)。そんな三成の「義」は、どのようにして育まれたのだろうか。彼の生涯をおさらいしながら探ってみたい。

 ■文武両道の父から、薫陶を授けられた

 1560年(永禄三年)、後の石田三成が近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の郷士であり、村長だった石田正継(藤左衛門)の三男として生まれた。幼名「佐吉」。二人の兄のうち長兄は早くに亡くなり、家を継いだのは次兄・正澄だった。石田家は京極氏に代々仕官していた土豪(地方豪族)であったが、主家の滅亡後は村でひっそりと暮らしていた。「三成の父、正継は武道に通じ、自分の屋敷にも弓矢を稽古するための的場を作っていたそうです。さらには立花(生け花の様式の一つ)・和歌・古典にも造詣が深く文武両道でした。三成はそんな父の薫陶を受けてか、学問を好み、落ち着きのある少年に育ちました」(江宮氏)。正継は三成を近在の大原村にある観音寺という寺に入れた。僧にするつもりではなく、一流の教育を受けさせるためである。当時、武家の子弟が一時的に寺へ入り、エリート僧から学問を教わることはそう珍しいことではなかった。幼き日の上杉謙信や織田信長、徳川家康も寺院で学問に励んでいる。三成は幼少期から中国の儒教の経典である四書五経(「大学」「中庸」「論語」「孟子」・「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」)に通じ、才覚に磨きをかけた。 

 1574年(天正二年)、三成十五歳の時、近江長浜城主・豊臣秀吉に小姓として仕えるようになる。秀吉は当時、織田信長の一家臣であり、このときに初めて「城持ち大名」となり、長浜城を与えられ、三成のいる近江へ赴任してきた。この観音寺(諸説あり)に立ち寄った秀吉に対し、寺小姓をしていた三成が茶を出したエピソード「三献茶」は広く知られている。一杯目は飲みやすく、ぬるめに淹れた茶を多めに出し、二杯目は少し熱くして出し、三杯目はさらに熱めの濃い茶を出したと伝わる(『武将感状記』など)。

 三成の機転や明晰な頭脳に目をつけた秀吉は即座に三成を近習として臣下に加えた。この時に秀吉は、故郷の尾張などから三成とほぼ同年齢の若者を召し抱えていた。後の福島正則・加藤清正・加藤嘉明である。彼らは、学問や体系的な武芸を学んだわけでもなく、秀吉の家臣としての出発時点から、三成とは異なった道を歩むことになる。「彼らは『武功派』と呼ばれるように主に戦場での槍働きで、武功を立てていきます。もちろん、それも秀吉への忠誠・忠義の示し方ではありました。三成も武将として数々の合戦に参加しましたが、次第に兵站(戦闘部隊のための軍需品・食糧・馬の供給)など裏方を担当することが多くなっていきました。そして秀吉の天下が定まる頃には、主に内政面で秀吉政権を支えたのです。現在でいえば福島や加藤が現場での肉体労働や営業マンとして体を張ったのに対し、三成は総務・人事・経理といった頭脳労働の専門家だったのです」(江宮氏)。

 同じ忠誠・忠義でも、加藤・福島らと三成のそれは、手段という点から差異があったといえよう。もちろん秀吉には両者とも必要な忠義であったが、武功派には三成の忠義は「おべっか」「へつらい」と映る。秀吉の家臣としての出発点における、いわば「ボタンの掛け違え」のような両者の違和感は徐々に膨張し、秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」で破綻を迎える。「それが秀吉の死後にいよいよ表ざたになり、とうとう関ヶ原の戦いで敵味方に分かれて戦う羽目になってしまったのです。武功派の加藤・福島を味方につけた徳川家康と、三成を支持する諸大名たちとの戦いですが、いわば盤石だった豊臣政権の内部分裂に他なりませんでした」(江宮氏)。合戦の経過はここでは省くが、ご存じのとおり、東西両軍による天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」(1600年)は東軍・徳川家康が勝利し、西軍・三成は完敗した。3年後、家康は江戸に幕府を開き、日本に長き太平の世をもたらした。
 江戸時代になり、徳川家は「神君家康」に対して三成を「悪人」、「逆臣」として扱った。「三成は器の小さい野心家」という人物像が形成されていった。「ただ、書状などから三成の足跡はしっかり残っていましたから、徳川家にも三成を正当に評価した人物もいました。水戸黄門として知られる水戸藩主・徳川光圀(家康の孫)です。光圀は『三成は決して悪人ではなく、忠義の人である』と称えているのです。三成はわずか十九万石あまりという不利な立場で、二百五十一万石の家康に立ち向かいました。豊臣政権を守ろうと命がけで戦った、その忠義を評してのことでしょう」(江宮氏)。三成の忠義心は、幼少期に叩き込まれた儒教の経典「四書五経」を通じて培われたものと思われる。その儒教には「五常の徳」(五徳)という最高徳目がある。五徳とは「仁・義・礼・智・信」という概念のことで、これを実践することこそが、三成の「義」であった。特にその筆頭である「仁」は領民や家臣に対し、「仁義」として発揮されていた。

 1590年(天正十八年、諸説あり)、三成が十九万四千石の佐和山城主になる。三成は、この時に領内に「掟書」を示して自らの統治基準を明らかにした。「役人が農民を徴用できるのは農閑期のみ」、「農地を耕作する権利は検地帳に記された農民にある」、「農民が困窮した場合には、訴状を提訴できる」など透明性と公平性に富む内容であった。その仁義は家臣団をまとめあげた信条にも表れている。「主君から与えられた恩賞(褒美・禄)を残すのは不忠者である。すべて使い果たさなければならない。それも優れた家臣を養うために使うのが最良である。自分の暮らしなどに贅沢すべきではない」というものだ。「三成は自分の財産のすべてを注ぎ込んででも秀吉への忠勤に励もうという心得を示しました。その姿勢が多くの人を引きつけ、忠実な家臣団を率いるに至ったのです」(江宮氏)。

 三成が秀吉に仕えた時、家臣はゼロだった。それが、関ヶ原合戦の時点では五千人以上の大軍団になり、いずれも一騎当千の強者が揃っていた。この中には、改易(取り潰し)になった旧大名家の家臣も少なくなかった。そこにも三成の「仁義」がよく表れている。そのうちの「若江八人衆」は、もとは豊臣秀次の家臣団であった。秀次は秀吉の甥だが、秀吉の命令で自刃に追い込まれた悲劇の武将であった。三成は秀次の死後、「若江八人衆」が路頭に迷うことがないよう、そのうち六名を自分の配下に組み入れたのだ。

 また会津百二十万石・蒲生秀行(氏郷の嫡子)が家中騒動の果てに禄を削られ、宇都宮十八万石に転封されたため、多くの浪人が出た。そのときに三成が抱えた浪人衆が「蒲生十八人衆」である。蒲生郷舎・蒲生将監・蒲生真令・蒲生大膳(真令の養子)・小川土佐・土肥六郎兵衛などの名前が残っている。彼らは三成の「仁義」に恩を感じ、それに報いるため懸命に働いた。もちろん「関ヶ原」でも奮戦の挙句、討ち死にした。

 三成の「仁義」に最後まで付き合ったのが、家老とも軍師ともいわれる島左近である。「三成に過ぎたるもの」の一つとされたほどの男で、三成に不足している武略を補って仕えたという。左近は最初に筒井順慶、さらに豊臣秀長・秀保などに仕え、秀保の死後に三成の家臣になった。当時、左近は多くの大名家から高禄で誘われていたが、それらを蹴って三成の誘いを受け、たった一万五千石で仕えた変わり者だった。「信」と「義」に生きる三成が、戦国の世には珍しい「誠意の人」として左近の目には映ったのだろうか。

 戦場での華々しい活躍と武功で生きた武将らとは対照的に、三成はいわば常に「陰の存在」だった。時には秀吉の代わりに穢れ役となり、汚名を被ることも多々あったが、それをいっさい厭わなかった。「それは三成の理想であり『大義』のためでした。秀吉を誰よりも大事に思い、秀吉こそが戦乱を鎮めてこの世に平和をもたらす人である、そう信じた三成の脳裏には、理想とすべき国家の姿があったでしょう。島左近は『三成の義』が、人の踏み行うべき大切な道義『大義』であると理解した唯一の家臣だったと私は考えています」(江宮氏)。

 「関ヶ原」で散った三成の盟友といわれる大谷吉継も、島左近と同じ思いであったのかもしれない。三成は敗走後、古橋という村まで逃げ、そこは自分の領地だったこともあり、彼を慕う村人に匿われたという。しかし、東軍の捜索の手が伸びると、三成は自分の身柄を差しだすように言い、潔く名乗り出て捕虜となった。

 三成の「大義」は、その旗印「大一・大万・大吉」に如実に示されている。これは「一人は万人のために、万人は一人のために。それによって世の中に大きな幸いと幸福をもたらすことができる」という意味が込められた旗印という。三成にとっては「大義」の旗であり、これを掲げることで戦国時代の終焉、その後に訪れる平和の時代を標榜したに違いない。

 「三成は捕縛後、京都・六条河原で斬首されました。斬られる直前まで命を惜しんだそうです。なぜなら、人間は最後の最後まで、本当に死ぬ直前まで、何が起きるか分からないと彼は考えていたためです。『大義』を胸に抱き続け、その可能性がある限り生き続けたかったのでしょう。合戦に敗れはしましたが、豊臣への忠義に生きたことへの悔悟はなかったはずです。三成には、たとえ敗れても家康の政権下で生きるという選択肢は、初めからなかったでしょう」(江宮氏)。

 天下人となった家康が開いた江戸幕府。その武家政権においては、やはり「忠義」が重んじられた。たとえば脱藩は主君への裏切りと見なされ、切腹させられた。後世、三成のような「忠義」の人は誰よりも尊重される人材であったことだろう。しかし、三成の「義」は豊臣家だけに向けられた。それは、家康の「野心」とは相反するものだった。「三成の目には、家康という人物は『五常の徳』を持ち得ない野心の持ち主としか映りませんでした。秀吉とともに生きた三成にとって『関ヶ原』は『義』の披露の場であり、死ぬことに何も躊躇いはなかったはずです」(江宮氏)。主君への「忠義」、領民と家臣への「仁義」、国家への「大義」という「三つの義」を体現した三成。その思いは人々の胸に響き、後世へと語り継がれ、名を遺すこととなったのである。
 石田三成子孫/石田秀雄いしだ・ひでお
 1950年生まれ。石田三成の15代目子孫。慶応義塾大卒業後、三陽商会に入社し定年まで勤める。滋賀県長浜市で営まれる石田三成を供養する法要と、岐阜県関ヶ原町での合戦戦没者のための法要には毎年参加する(撮影/門間新弥)

 豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から400年──。徳川側に敗北した豊臣側の末裔たちに、先祖から伝わる話を聞くと、今もさまざまなものが現代に残っているという。集まってもらったのは、豊臣秀吉の子孫・木下崇俊(きのした・たかとし)、石田三成の子孫・石田秀雄(いしだ・ひでお)、大谷吉継(よしつぐ)の子孫・大谷裕通(おおたに・ひろみち)の三人だ。

*  *  *
 大谷:うちにも遺品はないですけど、「大関ケ原展」では、吉継が持っていた短刀「包丁藤四郎」が展示されていました。現在は尾張徳川家の徳川美術館の所蔵ですが、いつ徳川家に渡ったのかはハッキリしません。学芸員の方に、まさか関ケ原の戦いで割腹した短刀を取っていったわけじゃないよね、って聞いたら、それはないです、って(笑)。たぶん、吉継が伏見の屋敷で酒宴を張って秀吉や家康などを招いたときだろうという話になりました。そのときに手土産で家康に渡したのでしょう。家康は駿河で亡くなるじゃないですか。その形見分けで尾張徳川家の初代・徳川義直に渡って、今、徳川美術館にあるという話です。吉継を評価していた家康は、ずうっと肌身離さず持っていてくれたんだなっていう感じがしますね。

 石田:三成の刀も残っています。関ケ原の直前に、三成と敵対関係にあった加藤清正や福島正則ら7人の武将が三成を襲撃しました。諸説ありますが、このとき三成が逃げ込んだ先は家康の屋敷だったともいわれています。その日、たまたま家康の次男・結城秀康が屋敷にいた。秀康は秀吉の養子になっていましたから、秀吉のもとで三成とは面識があって仲が良かった。翌朝、家康の指示で秀康が三成を居城の佐和山城まで送っていくんですね。別れるときに、お礼として三成は自分の刀を秀康に与えました。これが後世、「石田正宗」と言われる名刀で、重要文化財です。秀康の子孫である津山松平家に伝わり、今は東京国立博物館にあります。これも「大関ケ原展」に出品されていたのですが、あまりに大人気で驚きました。今、刀がブームになっているみたいですね。大谷:木下さんのところは大名家だから、先祖伝来の品々が残っているんじゃないですか?

 木下:豊臣姓を天皇からいただいたときに、秀吉からもらった「豊臣」のハンコはありますが、他にたいした物は残っていません。というのも、17代の祖父が借金の保証人のハンコをたくさん押してしまって、大正時代のある日、一斉取り付けにあったからです。10振り以上あった日本刀や、その他の価値のあるものは、全部持って行かれてしまった。初代の延俊(のぶとし、秀吉の義理の甥)が朝鮮出兵のときに秀吉からいただいた鎧兜もあったのだと叔母から聞いていましたが、これについては後日談があるんです。延俊の鎧兜は海外に流出して、最後はアメリカで大分県の方が買い戻したらしい。昭和40年ごろ、私のところに買ってくれないかという話が来ました。

 大谷:世界を巡り巡って戻ってきたんですね。買い戻したのですか?

 木下:それが、いくらかと思ったら1200万円と言うんです。そのころの私の月給が5万円ですよ(笑)。まったく無理。文化庁の知り合いに話をしたら、調べて本物に間違いないということになり、買い上げてくれました。今は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館にあります。

 (構成 横山 健[カスタム出版部])
週刊朝日 2015年9月4日号より抜粋


















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