細川玉(ガラシャ)(キリシタン大名妻)考


 更新日/2018(平成30).12.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、細川玉(ガラシャ)を確認する。

 2013.10.22日 れんだいこ拝


【細川玉(ガラシャ)の履歴】
 ここで「千利休考」しておく。「ウィキペディア細川ガラシャ」その他を参照する。
  細川珠(玉)ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)。永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日)。戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:前野景定室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い。
 1563(永禄6)年、越前国にて明智光秀と妻・煕子の間の三女として出生する。(四女説もある。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる) 

 母親の煕子(じゃ香)はキリシタン。

 1578(天正6)年、15歳の時、父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、1579(天正7)年に長女、1580(同8)年に長男(細川忠隆、後の長岡休無)を生んでいる。

 1580年、父・藤孝が丹後半国を拝領し、忠興と共に丹後・宮津城へ転居する。

 1582(天正10)年、19歳の時、6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)、山崎の戦いで自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。 忠興は離縁し、1584(天正12)年まで彼女を冬は雪深い丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この時、19歳で懐妊中の身であった。翌年、第3子の興秋を出産するが赤ん坊は病弱で高熱や発作を繰り返し、孤独の玉をいっそう苦しめた。

 この時、キリシタンであった細川家の親戚筋にあたる清原マリア(公家・清原枝賢の娘)が侍女となりキリスト教を伝道され、玉はマリアの語る西洋の宗教に耳を傾けるようになった云々と記述されている。しかし、れんだいこ推理によれば、明智光秀が隠れキリシタン大名である。それを思えば、この時期にキリスト教に芽生えたと云うのはオカシイ。もっと早くからのキリシタンであったと窺うべきだろう。

 1584(天正12)年、3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷(大阪市中央区玉造2丁目)に戻した。この年に興秋が生まれている。忠興は茶道の師匠千利休を通じてキリシタン大名高山右近と親しくなり、玉にキリスト教を吹聴している。珠は忠興が小牧・長久手の戦いに参加する折、教会を初訪問する云々。「教会初訪問」がそうだとすれば隠れキリシタンの立場を公然化させたと読むべきだろう。

 「完訳フロイス日本史3』第62章」は次のように記している。


 「忠興は家臣2名に珠を昼も夜も見張らせた。珠は近親者以外からの伝言は受け取れず、近親者からのものであっても2人の検閲を受ける必要があった。また、家を訪問してきた者と外出した女性を全て記録して書面で提出させ、外出した女性については誰が許可したのか、どこへ行ったのかまで記録させた。珠も含めた屋敷内の女性は各自が許可された部屋にしか行くことができず、領域を接していない人間と会話することはできなかった」。

 1586(天正14)年、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。

 1587(天正15)年、2.11日(3.19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、玉は彼岸を利用し、身分を隠して侍女数人と共に教会に行った。その時、教会では復活祭の説教を行っていた。珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を望んだが、教会側は、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので洗礼を見合わせた。細川邸の者が珠が教会へ向かった事に気づき駕籠で珠を連れ帰った。教会はこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。珠は、侍女たちを通じて教会とやりとりし、教会から送られた書物を読むことで信仰に励んだ。玉はポルトガル語やラテン語まで学び、「イミタチオ・クリスティ」という難解な宗教書まで読破している。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。キリシタンであることを公然化させた後の足跡と窺うべきだろう。

 6月、九州を平定した秀吉は突如、禁教・棄教令を出し、宣教師の追放を命じた。珠は宣教師たちが追放される前に大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)の洗礼名を授けられている。、「これほどキリスト教に理解と教養をもつ女性は、見たことがない」と感嘆し、洗礼を許したと云われている。玉造屋敷の17人の侍女も次々に入信する。

 大坂屋敷へ戻った忠興が玉の洗礼を知り激怒している。秀吉の命令にそむけば細川家は破滅する恐怖に駆られ、玉の首筋に短刀を突きつけて改宗を迫ったが頷(うなず)かなかった。手引きした清原マリアの黒髪を切り落とし、病弱な興秋まで入信させたとして乳母の鼻を削る乱暴までするがガラシャは棄教を拒み通した。時に玉は24歳。忠興は5人の側室を持ち始め、夫婦の仲は冷えていった。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」、「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説得されている。

 この頃、ガラシャは神父セルペデスにあてた手紙にこうしたためている。

 「如何(いか)なる迫害が越中(えっちゅう)殿(忠興)より はたまた関白殿(秀吉)より来(きた)り候とも 天主の愛の為(ため)に苦難の出来得(できう)ること 喜び居(お)る次第に御座(ござ)候」。

 次のような逸話もある。秀吉は十数人の側室を持ちながら、出陣中の大名の妻女たちを大坂城へ呼び、手をつけていた。不安を覚えた忠興は玉に、「なびくなよ わが姫里の 女郎花(おみなえし) 男山より風は吹くとも」との和歌を贈っている。間もなく秀吉は、玉に登城を命じた。秀吉の前で平伏(ひれふ)した玉は、わざと懐から短刀を落とし、失礼しましたと秀吉を見つめる。秀吉はプイと横を向き2度と声を掛けなかった。

 1595年、屋敷内に小聖堂を造る。

 1600(慶長5)年、7.16日(8.24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。

 この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶した。翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)にガラシャの介錯を命じ、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。ここは注意を要する。「屋敷に爆薬を仕掛け」とある。これは本能寺の変と同じである。ということは、ガラシャは何らかの都合で信長と同じく葬られた可能性がある。

 彼女が詠んだ辞世の句は、「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」。 

 ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。これを「手厚く葬った」と解する必要はない。ガラシャの死が政治利用される為の演出と見なしても差し支えなかろう。国際ユダ屋のやることを日本的常識、感性で測ってはならないと思う。


 忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。なお細川屋敷にはガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡している。


れんだいの細川玉(ガラシャ)考】








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