別章【伊達政宗(キリシタン武将)考】




 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).2.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、伊達政宗(キリシタン武将)を確認する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


関連サイト 人生学院 実践学院 言語学院
れんだいこ評論集 れんだいこの書評集 世界史学院

 目次
れんだいこの伊達政宗(キリシタン武将)論
履歴考1()
履歴考2()
履歴考3()
履歴考4()
履歴考5()
伊達政宗の名言録
隠密集団「黒脛巾組」考
インターネットサイト
参考文献
情報ストック





(私論.私見)

1613年10月28日(慶長18年9月15日)、仙台藩主・伊達政宗は家臣の
支倉常長を現在のメキシコ経由でスペイン及びローマへ派遣しまし
た。目的は、メキシコとの直接通商交渉など。スペイン人の通訳を含
む180人余りが帆船に乗り込み、太平洋を横断して南アメリカ大陸へ、
そしてその後大西洋を渡り、ヨーロッパへと向かいました。この一行は
「慶長遣欧使節」と呼ばれ、その30年ほど前に出発した「天正遣欧使節
」と並び日本史上画期的な事績として、教科書にも必ず載っているほど。
支倉はローマにしばらく滞在し、市民権まで得て、出帆から7年後の
1620年に帰国しました。そのとき持ち帰った当時のローマ法王・パウ
ロ5世の肖像画やキリスト教の祭具などは、「江戸時代初期の日欧
交渉の実態を物語る」貴重な資料として、2001年に国宝に指定され
ています。2520泊2521日の旅
現代ならば太平洋廻りでも飛行機で1日あればローマまで行けます
が、支倉一行はなんと2年間もかけてローマに向かいました。出発し
たのは1613年10月。そこから太平洋を横断し、南米・アカプルコまで
まず3ヶ月かかりました。そして、メキシコに滞在した後、1614年3月2
4日に同地を出発し、スペイン・セビリアまで6ヶ月。そこから陸路でス
ペインを縦断し、バルセロナからは海路でイタリアへ。ローマに到着し
たのはスペイン発からさらに1年後、仙台出発から丸2年後の1615年
10月のことでした。この道程、実は長い間「バルセロナを出帆した支
倉一行は、その後イタリアへ直行した」と思われていました。ところが
20世紀に入って、パリのフランス国立図書館で思わぬ資料が見つか
ります。それはフランスの小さな港町、サン・トロペ(Saint-Tropez)を
治めていたサン・トロペ侯爵とその夫人の手記と手紙でした。バルセ
ロナを出航した使節団は地中海で嵐に遭い、この地に急遽寄港した
のだそうで、これが日本人が初めてフランスの土を踏んだ瞬間でした
(この手記の発見まで、フランスを初めて訪れた日本人は、1862年の
江戸幕府による遣欧使節団長・竹内保徳だと考えられていました。
記録を250年以上も更新する日仏交流の歴史上重大な発見でした)。

フランスの小さな港町サン・トロペには、往路では立ち寄っているが復路では寄港していない