荒木村重(キリシタン武将)考



 (最新見直し2013.10.22日)

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 2013.10.22日 れんだいこ拝


【荒木村重の履歴】
 ここで「荒木村重考」しておく。「ウィキペディア荒木村重」その他を参照する。
 荒木村重は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。織田信長の抜擢(ばってき)を受けて摂津一国の支配を任されながら、天正6年(1578年)には信長に反旗を翻し、その後、一族を皆殺しにされたことで知られている。
 1535(天文4)年、摂津池田家(池田勝正)の家臣にして摂津池田城主である荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。荒木家は丹波多紀郡の波多野氏の一族で先祖は藤原秀郷と云われている。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

 最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。摂津の土豪から身を起こしたことになる。

 1568(永禄11)年、9月、織田信長が足利義昭を奉じて入洛する。摂津諸大名はその位置関係から三好党の勢力下にあったが、信長の侵攻により三好党が畿内を追われ、傘下の諸大名は去就を迫られた。最も早く信長に恭順したのは伊丹親興であった。信長は伊丹親興を兵庫頭と賞し三万貫を給した。摂津において池田氏と並ぶ伊丹が降ったため多くがなびくように信長に服した。摂津を掌握した信長は、幕臣・和田伊賀守惟政を芥川城へ入れ摂津守護に任じる。同時に池田勝正と伊丹兵庫頭親興も守護に任じ、摂津三守護として治めるように命じ、この年の十二月、京都に留守部隊をいくらか残して岐阜へ戻った。1569年頃までは池田家を含む摂津諸大名は、三好三人衆と争っており、荒木村重もそれに従っていた。信長軍が引き上げたのを見て三好党が巻き返しを図る。

 1569(永禄12)年、正月、三好党が、阿波から堺を経て、将軍義昭が仮御所にしていた京都六条の本圀寺を攻撃した。この時、摂津諸大名が三好三人衆と最大級の激戦を演じた(桂川合戦)。池田、伊丹、和田、茨木などは三好三人衆と決別し、松永久秀と共に信長へ降った三好義継を押し立てて決戦に及んだ。信長記は、これに参戦した武将の中に、主君・池田勝正や伊丹親興などと並んで荒木村重の名前を記している。既に村重の力が主家をうわまりつつあったことを証している。

 1570(元亀元)年、6月、村重は主君の池田勝正を追放し、弟の池田備後守・知正を擁立する。一種のクーデターであった。これにより村重が池田家の実権を握ることになった。池田家の実権を握った村重は三好三人衆と手を結び織田家と戦う道を選択する。

 1571(元亀2)年8月、信長から摂津を任されていた和田惟政は、敵対する池田を滅ぼそうと池田領の境に砦を二つ築いて挑発する。結果は池田軍の圧勝に終わる。村重の従兄弟にあたる中川瀬兵衛清秀が和田惟政を打ち取り、茨木重朝は村重に打ち取られた。高槻城は高山右近の兵と荒木一党によって占拠された。

 1573(元亀4、天正元)年、2月、武田信玄が三方ヶ原で徳川家康を一蹴し、今が時とばかりに将軍義昭は挙兵する。将軍義昭の画策した反信長包囲網が最盛期を迎えていた。

 3月、信長が上洛する。反信長包囲網を画策する義昭を討伐するためであった。 3.29日、上洛してきた信長を近江山城の境・逢坂において出迎え謁見する。これが彼の運命を一変させることとなる。この時、村重は、池田勝正を追放し、信長の敵である三好三人衆に通じていた。謁見より18日ほど前には、信長が信任していた和田惟長を高槻城から追って高山右近を傘下に加えていた。池田・和田は共に信長が摂津支配を任せた三守護であり、信長がどう遇するのかが見ものとなっていた。信長にとって、摂津は是非とも手中に起きたいし、対石山本願寺をにらんだ場合にも、重要な戦略拠点であった。その摂津でめきめき勢力を伸ばしている村重は信長にとっても興味ある存在であったと推定できる。村重にしても摂津統一の後ろ盾として信長を選ぶのは当然の流れであった。

 この時、信長から差し出された太刀に刺さったまんじゅうを平気な様子で食べたという逸話が遺されている。「荒木村重錦絵図」が「荒木村重が餅を食らう」シーンを描いている。「太平記英雄伝」によると、織田信長に拝謁した時に、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3-5個を突き刺し、「食してみろ」と村重の目の前に突き出した。周りにいたものは青ざめたが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べた。信長は大きな声を上げて笑い、摂津を村重に任せたという逸話となっている。村重はこの時22歳。「太平記英雄伝」がどこまで史実を伝えているかは別として、「信長のメガネに適った村重伝」となっている。当時、多方面作戦をしていた信長にとって摂津方面の平定は重要な問題であった。村重の謁見成功は両者の思惑が合致したことを意味している。村重は信長に気に入られ三好家から織田家に移ることを許された。

 7月、天正と改元される。将軍・足利義昭は自分を奉じてくれた信長とそりが合わず、この時期すでに両者の関係は修復不可能なまでに悪くなっていた。

 1574(天正2)年、池田氏の内紛に乗じて池田城を攻め取る。11.5日、摂津国国人である和田惟政の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。堅城化し有岡城と改めた。三守護を亡ぼし摂津の太守たる地位まで上り詰めた村重は、信長の後ろ盾によって能勢、三田、多田、有馬、大和田などの小豪族たちも寄騎につけた。石山本願寺の寺領をのぞく摂津一国、凡そ35万石が村重の所領となった。岳父・池田勝正を追放してからわずか4年の立身出世であった。

 同年、信長が足利義昭を攻めた時、信長勢に参加し、足利義昭を宇治槇島城に攻め、信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。更に摂津の豪族を次々と平定し、また信長に従い、石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)などにも参加し、武功をあげた。紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。この頃の村重は伊丹、花隅、尼崎など35万石を有する織田家でも有数の存在になっていた。村重は池田氏を追放し、ついで伊丹氏を滅ぼし,伊丹を本拠として摂津の有力大名となり、摂津守に叙任された。

 1576(天正4)年、織田信長が近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始する。信長はこの頃からバテレン勢力を警戒し始め、バテレン離れの傾向を見せている。

 1577(天正5)年、久秀が、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して本願寺攻めから離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確にした。10月、織田軍が信貴山城を包囲し、織田軍の総攻撃が始まると爆死した。享年68歳。1578(天正6)、荒木村重が突如、信長に反旗を翻し有岡城(伊丹城)に立てこもる。村重旗下の高山右近が苦悩の末、織田方に寝返る。徹底抗戦一年後、村重がほぼ単身逃亡し一族が皆殺しにされている。

 1578(天正6)年、信長は家臣を集めて年賀の会を催した。中国地方では毛利と、北陸地方では上杉と、大阪では本願寺との戦いの最中に茶会を開くのは異例のことである。呼ばれた家臣の中に村重も含まれている。

 10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。なお、謀反を起こす前に明智光秀から思いとどまるように勧められたが断っている。光秀の長女は、村重の嫡男・荒木村次に嫁いでいたが、光秀に害が及ぶことを恐れた村重は、この時に離縁させている(光秀の長女は後に、明智秀満と再婚した)。謀反の理由は諸説あり定かではない。足利義昭、毛利家、石山本願寺側の調略説。信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説。怨恨説。信長公記、フロイス日本史などによると、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと云われている。れんだいこはバテレン教唆説を取る。安土山に築城の頃よりバテレン離れし始めた信長を始末するために、村重を煽り反逆させたと読む。

 信長は直ちに明智光秀、松井友閑、万見重元から成る詰問史を伊丹に送った。説得により翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。官兵衛はこれが原因で足が不自由になっている。


 村重は総勢一万五千余騎で有岡城に篭城した。摂津の小豪族のほとんどが同調した。信長にとって高槻、茨木、伊丹、尼崎、花隈、三木、御着の諸城が敵になり、摂津から播磨へと弧状に信長の中国攻略を阻んだ。高槻城には高山右近の三千騎、茨木城には剛勇中川清秀の三千五百騎、毛利水軍との窓口にあたる花隈城には荒木元清など鉄壁のまもりとなった。村重軍は1年間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返り、アテにしていた村上水軍が信長の鉄甲船フルボッコに破れため戦況が圧倒的に不利となった。

 1579(天正7)年、9.2日、村重はわずかな配下とともに有岡城を脱出して嫡男・村次の籠もる尼崎城へ移った。籠城戦の最中に大将だけが逃げることになった。こういうケースはない。11.19日、滝川一益は抵抗のすさまじさに舌を巻き、「尼崎城と華熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら村重の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔した。上蝋塚を守る中山新八郎らが裏切り、信長の軍勢が城になだれ込み、城内に火が放たれ、さながら地獄絵となった。結局、有岡城は1年ほどで降伏した。

 信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。最後に残っていた家臣たちも信長との約束を破って逃げ出したため、荒木の一族郎党たちは信長によって処刑された。12.13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この時の様子は信長公記に次のように記されている。

 「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」。

 12.16日、村重の妻だしを含む京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を、「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」(立入左京亮宗継入道隆佐記)と記している。「だしの辞世句」は、「きゆる身は おしむべきにも無き物を 母のおもひぞさわりとはなる」、「 残しおく そのみどり子の心こそ おもいやられて悲しかりけり」。

 その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。1581(天正9)年、8.17日、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。村重本人は花隈城に移り(花隈城の戦い)、尼崎から船で毛利氏の下に逃げた。彼の息子である荒木村次や岩佐又兵衛(後述)も生き延びている。村重は、家族も家臣も捨て自らは命を永らえたことで卑怯(ひきょう)な武将と見なされている。なぜ反旗を翻したのか、なぜ一人だけ生きのびたのか、など謎は多い。


 その後、毛利氏の庇護(ひご)のもとで、余生を送った。村重という名を捨て、剃髪して僧形になり、道端の糞・「道糞」と自嘲して名乗っていた(僧にはならなかった)。道薫と号し、利休七哲の一人であったことから秀吉の茶会にも招かれている。

 1582(天正10)年、6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人・「道薫」として復帰し、千利休らと親交をもった。秀吉が村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。銘器「荒木高麗」を所有していた(現在は徳川美術館所蔵)。村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が小田原征伐に出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫となった。

 1586(天正14)年、5.4日(5.20日)、堺で死去。享年52歳。時代に翻弄された流転の人生であった。戒名は秋英宗薫居士。墓は堺の南宋寺(大阪府堺市堺区)にあると伝えられるが実在しない。伊丹の荒村寺(兵庫県伊丹市)に位牌があり、「心英道薫禅定門」とある。

 正室:だし。子息は村次、村基、岩佐又兵衛ほか。

 信長に近い存在だった宣教師のルイスフロイスも「フロイス日本史」の中で村重のことを「言動にいくぶん短気で頑固なところがあるが,普段はきわめて穏和で陽気」と書いている。

 茶人としての荒木村重

 子孫

 家臣


【れんだいこの荒木村重考その1】
 荒木村重も又松永久秀同様にキリシタン大名、武将だったと推理できるが、この方面からの論がない。しかし、荒木村重の履歴を見ればバテレンと気脈を通じていたことが分かる。何よりも1578(天正6)年の信長叛旗の必然性が、バテレン指令と見なさない限り見えてこない。 1579(天正7)年の村重の家族も家臣も捨てての単騎脱出が理解できない。明智光秀との繋がりの線、高山右近との繋がりの線の必然性が見えてこない。晩年、「千利休らと親交をもった」とあるが千利休もバテレンと通じていたと見なすと明智光秀との線の必然性が見えてくる。豊臣秀吉が動かぬ証拠を突きつけ、切腹を命じた事情が透けて見えてくる。

 2013.10.22日 れんだいこ拝

【れんだいこの荒木村重考その2】
 
 2013.10.22日 れんだいこ拝













(私論.私見)