光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたものと思われる。
明智光秀(キリシタン武将)考その2 |
更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).6.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明智光秀(キリシタン武将)考その2」を確認する。 2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【愛宕山問答】 |
5.26日、軍備を整えた光秀は坂本城を出陣し丹波亀山城に入城する。5.27日、愛宕山に登り、そのまま参篭する。この日、光秀は何度も神籤を引いたとされている。5.28日、光秀は愛宕神社に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、西坊威徳院で百韻の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。「時は今 雨が下(した)しる 五月哉」。(“時”は明智の本家“土岐”。“雨”は天(あめ)。つまり土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」)。これに出席者の歌が続く。僧侶最高位の西ノ坊行祐「水上まさる、庭の松山(なつ山)」。(“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)。連歌界の第一人者である里村紹巴「花落つる、流れの末をせきとめて」。(“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい)。光秀の旧知の大善院宥源「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」。(信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ))。 この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。光秀はこれらの歌を神前に納める。 これには後日談がある。常山紀談によると、光秀を討った後、秀吉が連歌師の紹巳を呼んで尋ねている。「天が下知る″時″というのは天下を奪う心の表れだ。そなたは知っておったのであろう」。紹巳は弁解した。「この発句は、天が下なる、でありました」。秀吉は追及した。 「それならば、その懐紙を見せよ」。ということで愛宕山から懐紙が取り寄せられた。そこには、 「天が下しる」とあった。紹巴は落涙しながら言った。「ご覧下さい、懐紙が削られています。″天が下しる″と書き換えられた跡がはっきりしています」。たしかに書き換えた痕があると秀吉は紹巴を許した。 さて問題の懐紙は、連歌の当日、書き付け役の江村鶴松が"天が下しる"と書き留めたが、光秀が討たれたあと、紹巴がひそかに西坊と心を合わせ、″しる″の部分を一度削って、また、その上に初めのように"しる"と書いたのであった。 |
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愛宕山問答も相当に臭い。 |
【愛宕山(あたごやま)信仰考】 |
「信長公記」によると、光秀は本能寺の変の直前に京都の愛宕山(あたごやま)に登り、その山上の神社にある「太郎坊」の前で二度三度くじを引いたと云う。光秀が愛宕山に登った理由を、光秀のとある文書から、愛宕山の信仰と光秀の関係を探ってみる。京都嵐山の渡月橋から眺めると北に大きな山がそびえ立っているのが見える。この山が愛宕山。標高は924メートルで京都市でもトップクラスの高さを誇る。かつては山城国(現在の京都府南部地域)と丹波国(現在の京都府中部を中心に、兵庫県氷上郡周辺・大阪府北部の一部を含む地域)の国境(くにざかい)の山だった。愛宕山の頂上には全国の愛宕神社の総本宮・愛宕神社がある。愛宕神社は、その祭神の一柱に加具土命(カグツチノミコト)があることから、京都の人たちから「火伏せ(ひぶせ)の神様」として親しまれている。そのため京都では、飲食店はもちろん一般家庭の台所、ときには会社の給湯室などにも「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれたこの神社の御札を見つけることができる。神社がある愛宕山の山頂へのアクセスは徒歩のみ。ふもとの登山口から神社までの所要時間は片道約2時間程度。 1571(元亀2)年9月、織田信長による比叡山焼き討ちが起こった。この事件にまつわる有名な文書のひとつに、焼き討ち直前に光秀が比叡山の麓にある雄琴城の城主・和田秀純にあてた書状に「仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候」と、なてぎり(なで斬り皆殺し)との文句が記されている。光秀の苛烈な武人の一面が垣間見える内容の書状である。この書状には追伸があり、「返返愛宕権現へ、今度之忠節、我等対し候てハ無比之次第候」とある。現代語に訳すと、「今回、私達の味方になられたことはありがたく、我々のみならず、愛宕権現に対しても忠節の極み」ということになる(早島大祐著「明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか」より)。光秀はここで「愛宕権現」について言及している。その「愛宕権現」とは一体何なのか。「権現」は、ただの神ではない、「仏や菩薩が、神という仮の姿で現れた状態」を意味している。日本の元々の在地神道(古神道)があったところへ、飛鳥時代になって仏教という新しい信仰が入ってきた。神道と仏教は互いに影響を与え合いながら発展していき、その結果、仏教の守護神として神が崇められることや、神社で僧侶がお経をあげることなども起こるようになった。このような、仏教と神道が混ざった信仰の形を「神仏習合」と呼ぶ。この神仏習合の考え方が広まった結果、仏と神は同一視されるようになっていった。そして生まれたのが、「神は仏や菩薩が人々の前に姿を現す姿」という考え方で、これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)説という。これより生まれたのが「権現」という考えだった。愛宕権現の本来の姿は「勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)」という地蔵菩薩である。この勝軍地蔵は『蓮華三昧経』という経典に出てくる、悪行煩悩の賊軍を斬る剣を持つというお地蔵さんである。そのため、その姿は甲冑や武器を身に着けて馬にまたがったとても勇ましい様子をしていて、ご利益もずばり「戦勝」。なお、出典とされる『蓮華三昧経』は実は日本で作られた偽経であるから、勝軍地蔵菩薩は日本独自のお地蔵さんと云える。よって、ほかの国にはこのような剣を手に悪行煩悩の賊軍を斬る勇ましいお地蔵さんはいない。勝軍地蔵菩薩に対する信仰は、武士が活躍する中世に入る鎌倉時代の初期頃には生まれていたようでて、時代が下って武士の力がますます大きくなっていくにつれて、より盛んになっていった。愛宕山にはこの勝軍地蔵菩薩も祀られていた。このことから、勝軍地蔵菩薩が神として姿を現した存在として「愛宕権現」が生まれ、武士の信仰を集めていた。 光秀以外に愛宕権現を信仰していたと思われる有名武将を2人確認しておく。一人は、2009年の大河ドラマ『天地人』の主人公である直江兼続(なおえかねつぐ)。兼続は兜の前立に「愛」という文字を使っていたが、この「愛」は「愛宕権現」にちなんだものではないかといわれている。「愛染明王」にちなんでいるという説もある。もうひとりは、伊達政宗の側近として有名な片倉景綱(かたくらかげつな)。景綱の兜には、「愛宕山大権現守護所」と書かれた愛宕山の木の札がつけられていた。このように、多くの武将から崇敬されていた愛宕山の愛宕権現こと勝軍地蔵菩薩。光秀がわざわざ山に登ってまで参拝したのも納得できる。 愛宕山にはもうひとつ、必勝を祈願するにふさわしい理由がある。そのキーワードは光秀がくじを引いた「太郎坊の前」。この「太郎坊」とは何者なのか? 実はこの太郎坊は、愛宕山の信仰の起源に深く関わっている。愛宕山の信仰は古く、大宝年間(701~704年)に修験僧の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)と修験僧・泰澄(たいちょう)が愛宕山に登り、朝廷の許しを得て、山頂に神廟を建立したことに始まる。このとき、愛宕山にやってきた役行者と泰澄の前に姿を現したのが、「太郎坊」という名の天狗。愛宕山の太郎坊天狗は非常に霊力が高い天狗とされている。日本には特に霊力が高い天狗が8人いると言われているが、愛宕太郎坊天狗はなんとその筆頭。円行者と泰澄の前に姿を現したときは、9億4万あまりもの眷属(けんぞく、配下)を引き連れていたと伝わっている(『山城名勝志』より)。太郎坊天狗はやがて愛宕山信仰の中に取り入れられていった。すでに平安時代には天狗信仰は広まっていたようで、平安時代末期に悪左府(あくさふ)という異名をとった藤原頼長の日記にも、愛宕山の天狗とそのたたりに関する記述が残っている。平安末期の安元3(1177)年に京都で起こった大火事は、太郎坊の名をとって「太郎焼亡(たろうしょうぼう)」とも呼ばれた。こういった経緯から、愛宕神社の奥の院には太郎坊天狗が祀られていた。光秀がくじを引いた「太郎坊の前」というのは「愛宕神社の奥の院、大天狗・愛宕山太郎坊の前」と考えられる。 第六天魔王(仏教の修行を妨げる魔王)を名乗ったと伝わる織田信長。そんな主君に謀反をしかけるのであれば、並大抵の覚悟では立ち上がることはできない。本能寺の変が起きたときは、そんな主君の守りが手薄になり謀反を成功させることができそうな千載一遇の大好機。彼は愛宕山に登り、日本一の大天狗に「必勝」を祈願した後、決行し、天正10(1582)年6月2日本能寺で信長を討ち取る。その後、11日後の6月13日に中国大返しを成功させた豊臣秀吉に大山崎で敗れ、居城である坂本城への敗走中に落ち武者狩りの農民の手にかかって死ぬ。光秀が必勝を祈願した勝軍地蔵菩薩像は、明治の廃仏毀釈運動により愛宕神社から持ち出され、京都市西京区の金蔵寺(こんぞうじ)に移された。しかしその姿は、愛宕山太郎坊天狗ともども愛宕神社の御朱印・御朱印帳に今でも描かれ、参拝者にこの山の歴史を伝えている。 (鶴原早恵子「明智光秀「本能寺の変」前の行動を分析!謎の菩薩と日本一の大天狗に必勝祈願をしていた?」参照) |
2023.6.27日、「「本能寺の変」の証拠隠滅か⁉ 明智光秀と親交のあった人物が半年分の日記を書き変えた理由とは」。
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【本能寺の変勃発】 |
5.29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、わずか180名しかいなかった。 6月1日、信長一行は本能寺に到着。信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日、本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうという申し合わせになっていた。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺は信長、小姓、護衛の一部の約100人ほどが警護するばかりであった。 同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。決行は今しかないとして血判状で誓っている。 6.2日(西暦6.21日)早朝、明智軍1万3千が羽柴秀吉の毛利征伐の支援に向けて出陣した。途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して光秀軍1万3千が包囲した。前列には鉄砲隊がズラリと並び、6時頃、一斉射撃が始まった。近習小姓の100人足らずでしかなかった信長側は寄せ手の素性を「明智が者」と知った。信長の「是非に及ばず」の言葉が遺されている。信長は弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取り奮戦したが、最後は炎上する本能寺の奥の間に入り自害した。信長の死体は発見できなかった。その後、明智軍の別働隊が二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。また津田信澄(信長の弟織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、大坂で織田信孝らに討たれた。信長の弟・織田有楽斎は脱出した。こうして、光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために謀反人(反逆者)として歴史に名を残すことになった。 |
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本能寺の変も相当に臭い。 |
【徳川家康が窮地を脱す】 |
堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。翌日、秀吉は信長秀の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。 |
【本能寺の変その後】 |
光秀は信長・信忠父子の残党追捕を行なった。さらに信長本国の近江に進出して勢多城主の山岡景隆を誘降しようとしたが、景隆は拒絶して逆に瀬田橋と居城を焼いて甲賀に退転した。光秀は6.4日までに近江をほぼ平定した。 6.5日、光秀が京都・近江を制圧し、信長の居城であった安土城に入った。7日まで留まっている。信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受けている。光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者となった。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。 6.6日、光秀は上杉に援軍を依頼。6.7日、安土で勅使の吉田兼和(兼見)と面会している。朝廷から祝儀を受ける。6.8日、安土を発って京都に帰還した。本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。(豊内記)。 |
【光秀が共闘を求める書状を全国へ送る】 |
光秀は京都を押さえると、光秀は権力地盤を固める為、直ちに諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。光秀と関係の深い長宗我部元親、斎藤利堯、姉小路頼綱、一色義定、武田元明、京極氏等が呼応する形で勢力を拡大している。(他に北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等)。誠仁親王は、変の後の7日に勅使として吉田兼見を派遣し京都の治安維持をまかせている。光秀はこの後、9日に上洛し昇殿して朝廷に銀5百枚や、五山や大徳寺に銀各百枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。 |
【光秀の誘いを断った二人の戦国大名考】 | ||
6.3日、親戚であり与力でもある藤孝の助力は欠かせず助力を求めている。6.9日、「明智光秀公家譜覚書」によれば、縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対して次のように記した書状を送っている。
しかし、細川父子は応ぜず、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示した。藤孝は再三に渡る光秀の要請を拒否して、息子の忠興に家督を譲り隠居髻を払い剃髪、以後、幽斎を名乗る。さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶・義絶した。光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた。
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細川藤孝は1534年に京都で生まれ、前半生は足利将軍家に仕えた。1546年に足利義輝の偏諱を受け藤孝と名乗る。義輝が暗殺された後は、弟である覚慶(15代足利将軍・足利義昭)の将軍擁立に奔走した。明智光秀と出会った時期は明確ではないが、藤孝は義昭の擁立活動の際に越前国の朝倉義景を頼った。当時の越前には美濃国を追われ浪人生活をしていた光秀がいたとされ、二人はこの時期に対面していると考えられる。藤孝は光秀と共に幕臣として義昭を支えた。尾張国の織田信長が義昭を伴い上洛すると、二人は義昭と信長の間を繋ぐ橋渡し役として機能した。義昭と信長の関係が悪化し対立関係が浮き彫りになると、光秀と共に信長の家臣として行動。各地の戦では光秀の与力(大名に加勢として附属した組下大名)として尽力した。1578年には、光秀の三女である「玉(後の細川ガラシャ)」と藤孝の嫡男「細川忠興(ただおき)」が結婚。藤孝と光秀は親戚となった。 | ||
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細川父子、高間右近が靡かなかった背後事情が興味深い。 | ||
順慶は早々に協力を拒んだ藤孝とは違い、当初は光秀に協力する姿勢を見せ、6.5日には近江まで兵を出している。しかし、その後は積極的な支援行動は取らず静観の構えを見せ、9日に居城である郡山城に籠城した。順慶の煮え切らない態度に光秀は軍を率いて何度も圧力をかけたが順慶は応答しなかったという。光秀は10日の時点で順慶の助力を諦めて軍を撤収した。6.10日、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えなかった。 | ||
1549年、大和国(現在の奈良県)に生まれる。当時の大和国は守護不在の混沌とした国であったが、筒井家は一定の勢力を保持していた。1559年。筒井家は大和国に侵攻した松永久秀と対立。順慶は65年に居城である筒井城を追われる屈辱を味わっている。順慶の前半生は松永久秀との争いの日々だったといえる。66年には筒井城の奪還に成功した順慶だったが、再び奪い返されるなど一進一退の攻防が続いた。二人の対立の際中、京都では足利義昭を奉じて上洛に成功した織田信長が台頭。1571年には順慶と松永久秀は互いに信長に臣従することとなる。順慶と明智光秀の関係性がはっきりと確認できるのはこの時期であり、信長に順慶を引き合わせ、松永久秀との和睦を仲介したが光秀であった。1576年には信長から大和国を任され、光秀の与力となった。順慶の養子である定次の妻・秀子は光秀の娘であり、二人は縁戚関係にあった。 |
【天王山の闘い】 |
6.11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。
6.12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に着いた黒田孝高に占領されていた。天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。 6.13日(西暦7.2日)、本能寺の変から11日後のこの日、本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍が現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる天王山の麓山崎で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田勝入4000、中川清秀2500、織田信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆ら8000の2万7千、但し4万の説もあり)。これに対し明智軍1万7千(1万6千から1万8千の説もあり)。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。圧倒的な兵力差にもかかわらず明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。 羽柴軍の黒田孝高部隊、神子田正治部隊が反撃を加える。この反撃で右翼が崩れた明智軍に対して、羽柴軍の右翼に位置する池田恒興部隊、加藤光泰部隊が泥湿地帯をもろともせず猛烈に前進し、明智軍の左翼に位置する斎藤利三部隊に襲い掛かる。利三は、勇猛果敢に戦ったものの、羽柴軍の堀秀政部隊、中川部隊、中村一氏部隊等、有力部隊が次々と前進して来る中、支え切れず、遂に戦死する。 戦闘開始から3時間後の午後7時、圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。秀吉は後に「山崎のこと、ひとつにかかって秀吉一個の覚悟にあり」と語っている。 同日深夜、光秀主従十三騎が坂本を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹薮で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる。深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる。6.14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋の桔梗(ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。 安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形を敷く。 6.15日、坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」。左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」。左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃した。光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。※光秀の天下は12日間となった。これを三日天下と云う。 |
光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたものと思われる。
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光秀の辞世とされる偈や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」(順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』、「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」。 |
【本能寺の変真因考】 | |
光秀謀反の理由が様々に推理されている。主な説は、理想相違説、野望説、恐怖心説、怨恨説、四国説、連歌師里村紹巴との共同謀議説、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説、豊臣秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説とある。他にも細川藤孝や織田信忠黒幕説、本願寺黒幕説、明智家臣団の国人衆黒幕説もある。不思議なことに最も詮索されるべきイエズス会黒幕説はこの後の説にとどまっている。
ルイス・フロイスは、「日本史」の中で「信長が光秀を足蹴にしたというウワサがあった」と記している。しかし、この説は却って臭いと窺うべきだろう。イエズス会黒幕説こそ詮索されねばならない。この時点で、信長はイエズス会の陰謀から決別しようとしており、独自の天下取り政策を打ち上げつつあった。この為、イエズス会が黒幕となりキリシタン大名、武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子「信長と十字架」)こそ図星であろう。「この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない」と評されているが、そういう評こそ陰謀派の末裔に列なる側の陰謀的評であろう。 完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)は次のように記している。
ルイス・フロイスは本能寺の変のあと、摂津に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている。これは客観評論の域を超えている。こういう評こそが、イエズス会の黒幕性を示していよう。 |
【光秀隠れキリシタン説考】 | ||||
「フロイス日本史」は次のように記している。
鈴木眞哉・藤本正行は、共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている。 |
【れんだいこの明智光秀考その1】 |
明智光秀は他のキリシタン大名の様に洗礼を受けた訳ではない。それ故に見落とされがちであるが、光秀のキリシタン性は疑いない。
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの明智光秀考その2】 |
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【光秀の妻子考】 |
妻室。妻は妻木範煕の女の妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。前室に山岸光信の娘がいたとする説もある。
子女については俗説が非常に多い。明智軍記では三男四女がいたとする。長女は明智光春の妻。次女は明智光忠の妻。三女は明智玉(細川ガラシャ)で細川忠興の妻。四女は津田信澄(織田信長の甥)の妻。長男は光慶、次男は十二郎、三男は乙寿丸。鈴木叢書所収の「明智系図」では側室の子も含めて六男七女があったとする。婿他に荒木村次等がいる。宣教師のルイス・フロイスは光秀の子息・子女のことを非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだったと伝えている。 |
【「光秀=天海説」考】 |
(私論.私見)