明智五宿老考



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).8.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、明智光秀が信頼をおいた5人の家臣「明智五宿老」を確認する。

 2013.10.22日 れんだいこ拝


【明智 秀満(あけち ひでみつ)】
 生年月日は定かでない。左馬助(さまのすけ)の通称で知られる。出自には謎が多く、一説には光秀の叔父である明智光安の子であり、光秀とは従兄弟であったとされる。また、三宅姓を名乗っていた記録も残っており、明智家の家臣であった三宅氏の一族である可能性も残っている。

1553年。美濃国斉藤家の内紛によって、美濃を追われた光秀と共に越前へ渡ったとされる。光秀の家臣として仕え、1578年には光秀の娘と結婚している。

1579年。光秀が丹波国(現在の京都・兵庫・大阪を跨ぐ地域)を平定すると、福知山城を預けられた。本能寺の変直前まで在城したという。


2. 明智 光忠(あけち みつただ)

明智光秀の叔父である明智光久の子であり、光秀のいとこにあたる。1540年生まれと考えられており、光秀より年下であったとされる。生前の資料が乏しい人物で、実像はあまりわかっていない。時期は定かでないが、妻は光秀の次女であったという。

1579年。光秀の丹波国平定によって波多野氏から奪った八上城(やかみじょう)の城代となる。

(私論.私見)
 

3. 斎藤 利三(さいとう としみつ)

1534年。美濃斉藤氏の一族の元に生まれる。斎藤道三の息子である義龍に仕えたが、その後は光秀の家臣となった。光秀からの信頼が厚かったようで、筆頭家老として頭角を表した。兄弟に土佐国(現在の高知県)の大名「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」の正室がいた関係で、明智家の外交に功績を成した。

光秀の丹波国平定に伴い「黒井城(くろいじょう)」城主となる。継室との間に生まれた娘には、後の江戸幕府3代将軍「徳川家光」の乳母であり、江戸城大奥の礎を築いた「春日局(かすがのつぼね)」がいる。

【中編】へ続く

(私論.私見)

4. 藤田 行政(ふじた ゆきまさ)

通称は「伝五(でんご)」。光秀の父親の代から明智家に仕えていたとされる。織田信長と足利義昭対立後、光秀によって落とされた山城国の山本氏が守っていた静原山城に入城した。

大和国(現在の奈良県)の戦国大名である「筒井順慶(つついじゅんけい)」と、光秀の取次役として活動したともいわれるが定かではない。


5. 溝尾 茂朝(みぞお しげとも)

前半生は不明な点が多い人物である。1573年以降は、「三沢秀次(みさわひでつぐ)」の名で、光秀の与力として越前国の代官(領地の支配を代行する地位)を努め、越前支配の実権を掌握したという。

1574年。越前で一向一揆が勃発したことにより京都へ落ち延びる。その後は、光秀の丹波侵攻に従軍。1580年。光秀が京都に築いた周山城(しゅうざんじょう)の曲輪に居を構えたという。




























(私論.私見)