清水次郎長VS黒駒の勝蔵、宿縁のライバル考



 (最新見直し2010.04.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「清水次郎長VS黒駒の勝蔵」の宿縁のライバルぶりを確認しておく。れんだいこは、ふとしたきっかけから清水次郎長の履歴を知りたくなり追跡した。その過程で黒駒の勝蔵を知り、今では黒駒の勝蔵の方をもっと知りたくなった。どちらも幕末の二大侠客であると同時に幕末の政争に深く関わった。次郎長は佐幕派として東海道に睨みを利かせ、勝蔵は倒幕派として甲府一帯に勇名を馳せていた。清水次郎長は侠客としては珍しくも明治以降も生き延び晩節を全うしたが、黒駒の勝蔵は維新政府により用済みとばかりに切り捨てにされている。両者の侠客ぶりはまさにがっぷりと云えるもので遜色ない。にも拘わらず明暗を分けている。

 それはまだ良い。歴史の不条理として許せる。許せないのは、その後の歴史観が一様に清水次郎長を持ちあげ、「次郎長善玉、勝蔵悪玉」の下に通念を作っていることである。これが偶然ならまだしも許せる。意図的故意の歴史偽造だとしたら、そういう歴史偽造をしている歴史家の意図を見抜かねばならないだろう。

 れんだいこはこれまで数々の通説批判を手掛けている。殆ど注目されていないが、今後の史家の関門としてれんだいこ説が立ちはだかっているぐらいの仕事はしているつもりだ。手前が云うのもオカシイがそのうち評価されることになるだろう。こたび、新たな発見をしたことになる。

 ところで、そういう訳で「黒駒の勝蔵伝」もものしてみたい。ところが、まともなものがない。次郎長伝に比してお粗末な限りの数ページの記述ものしか見当たらない。そこで、このことを報告し、世に広く情報を求めたいと思う。宜しくお頼み申す。

 2010.04.29日 れんだいこ拝


【清水次郎長に関わる史上の侠客たち】
 清水次郎長の履歴に入る前に、次郎長以前に誕生し且つ次郎長と関わることになる侠客を確認しておくことにする。新門辰五郎(しんもん・たつごろう)、大前田 英五郎(おおまえだ えいごろう)、国定忠治(くにさだ ちゅうじ)、竹居安五郎、小金井小次郎、勢力富五郎の面々が居る。他にも、次郎長との関わりは分からないが、武州石原村幸次郎、水野弥三郎等々が居る。

 1792(寛政4)年、新門辰五郎が、武蔵国江戸下谷(東京都台東区)に生まれている。次郎長より28年早く生まれていることになる。 

 1793(寛政5)年、大前田 英五郎(おおまえだ えいごろう)が、上野国大前田村(現在の群馬県前橋市の宮城地区)にバクチ打ちの父・久五郎と母・きよの子として誕生。祖父は名主も務めた家だったが、父の代に賭博を好み侠客となった。兄・要吉もバクチ打ちになった。

 1806(文化3)年、佐原 喜三郎(さわら の きさぶろう)が、下総国香取郡佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の百姓、本郷武右衛門の子として生まれる。

 1807(文化4)年、相模屋政五郎が、口入屋の大和屋定右衛門の次男として、江戸に生まれる。

 1810(文化7)年頃、後の国定 忠治(くにさだ ちゅうじ)が、上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。本名は長岡忠次郎。  

 1811(文化6)年、竹居安五郎が甲斐国八代郡竹居村(山梨県笛吹市八代町)に生まれている。本名は中村安五郎、通称竹居の吃安とも云われる。

 1811(文化6)年、小金井小次郎が、多摩郡下小金井村鴨下(小金井市中町)の割元名主、関家六代目勘右衛門の次男坊として生まれている。本名は長岡忠治郎。

 1817(文化14)年、勢力富五郎が、下総国香取郡(千葉県)万歳村で生まれている。本名は柴田佐助。

 同年3.14日(西暦4.29日)、日柳 燕石(くさなぎ えんせき)が、讃岐国仲多度郡榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)で生まれている。

 他にも、武州石原村幸次郎、水野弥三郎等々。次郎長誕生以降に関わる侠客については、次郎長履歴の中で確認して行くことにする。これらの侠客のトピックスな履歴をも次郎長伝の中に組み入れて行くことにする。為に煩雑になるが、次郎長の動きを時代の中で捉える意味で欠かせないと思う。

【清水次郎長の履歴その1、清水一家を構えるまでの次郎長】
 1820(文政3).1.1日、後の清水次郎長が、駿河国有渡郡清水湊(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・雲不見三右衛門の三男として生まれ長五郎と名付けられる。

 「元旦生まれの子供は偉くなるか悪い奴になるかのどちらかが相場、親元で育てると運勢が強すぎる」と云う言い伝えがあったため、生後間もなく母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の山本次郎八の養子となった。長五郎は次郎八の家の長五郎、それがなまって次郎長と呼ばれるようになり、この呼び名が清水の次郎長へと繋がることになる。
 (この頃の社会情勢) ナイチンゲール生まれる。1823(文政6)年、オランダ商館医師シーボルト来日。1825(文政8)年、幕府による異国船打払令。
 (新門辰五郎絡み) 1824(文政7)年、次郎長4歳の時。新門辰五郎が、江戸の火消し十番「を組」を継承し頭(かしら)となる。辰五郎は、博徒ではなく浅草寺露天商の総元締めとして浅草奥山の香具師の親分として頭角を現していくことになる。「最後の町奴(まちやっこ)」と云われ、火事場での活躍、喧嘩、無法者や出獄者への面倒見のよさなどで人気が出、手下三千人と云われるようになる。

 新門辰五郎の人となりにつき、次のように記されている。

 「勝海舟先生は、新門辰五郎と友とし親みたりき。新門の親分は少年其生家より火を失し、近隣に迷惑をかけたるを慨して、終に一身を消防夫に献げ以て市井の遊侠となりぬ」。
 1826(文政9)年、次郎長6歳の時。中国の寧波(にんぽう)の貿易船「得泰号」が遠州吉田港に漂着する。船体修理のため清水港に回航され3ヶ月にわたって港内に碇泊、乗組員らが上陸する。次郎長は、巨大な異国船と異国人(中国人)を目撃し、世界の広いことをしる。
 (国定忠治絡み) この年、国定忠治が殺人事件を起こし、前橋から大胡にかけて勢力を誇る博徒の大前田英五郎親分に身を寄せる。
 1827(文政10)年、次郎長7歳の時。孫四郎先生の村塾に入る。
 1828(文政11)年、次郎長8歳の時。禅業寺の赤小屋で読み書きを学ぶが、いたずらが過ぎ退塾させられる。
 (この頃の社会情勢) シーボルト事件起きる。
 1829(文政12)年、次郎長9歳の時。粗暴な性格を直すため、由比倉沢の伯父兵吉のもとに預けられる。
 (この頃の社会情勢) フランス七月革命(1830)。ファラデーが電磁誘導現象を発見。ゲーテが「ファウスト」を発表(1831)。
 (国定忠治絡み) 1830(天保元)年、次郎長10歳の時。国定忠治が、百々村(伊勢崎市境百々)の紋次親分の死去により、その縄張りを上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒の大前田栄五郎より譲られる。これが国定一家の旗揚げとなる。
 (黒駒勝蔵絡み) 1832(天保3)年、次郎長12歳の時。黒駒勝蔵が、甲斐国八代郡上黒駒村若宮(旧東八代郡御坂町、現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主小池嘉兵衛の次男として生まれている。次郎長より12歳年下と云うことになる。
 (国定忠治絡み) 1832(天保3)年、次郎長12歳の時。国定忠治(23歳)が、今井村桐生家のつるを娶る。
 (会津の小鉄絡み) 1833(天保4)年、次郎長13歳の時。会津小鉄(本名:上坂 仙吉、こうさか せんきち)が後の大阪市南区本町2丁目、本籍は京都府愛宕郡吉田村第140号で、元水戸藩士と大阪 島之内に店を構える太物商の娘の間に私生児として生まれている。
 (国定忠治絡み) 1833(天保4)年、次郎長13歳の時。国定忠治(24歳)が、天保の飢饉、私財をなげうって窮民を救う。
 1834(天保5)年、次郎長14歳の時。粗暴な挙動改まり甲田屋に戻る。江戸に出て一旗あげようとしたが許されないため、家の金四百五十両を持ち出し、その内の百五十両を、裏庭の木の根に埋め旅に出る。ところがすぐに三島の宿で捕まり連れ戻される。百五十両も足りないことに怒った叔父の次郎八から勘当される。

 次郎長は埋めておいた金を持ち、今度は東の江戸ではなく西の浜松に向かう。時は天保飢饉、米価は連日高騰をつづけていた。そこに目をつけた次郎長は、父親の代理と名乗って米を買い付け米相場で大儲けする。大金を持ち清水に戻った次郎長は金を返し、勘当を許してもらう。
 (国定忠治絡み) この頃、国定忠治(25歳)が、大前田英五郎の縄張りを受け継ぎ百々村の親分となる。英五郎と敵対し日光例幣使街道間宿境町を拠点とする博徒・島村伊三郎と対峙し始め、伊三郎を斬り殺しその縄張りを奪う。これにより八州取締りの手配となり、子分の三ツ木(伊勢崎市境三ツ木)の文蔵等と関東取締出役の管轄外であった信州へ逃れ、信州中野の貸元に身を寄せる。この事件で、忠治は関東一円にその名を馳せる。 その後、上州へ戻って一家を形成する。
 (この頃の社会情勢) 天保の飢饉・百姓一揆が激化する。
 1835(天保6)年、次郎長15歳の時。養父次郎八が病で死亡する。次郎長は人が変わったように家業の米屋に精を出す。
 (山岡鉄舟絡み) この年、生涯の盟友となる山岡鉄五郎(鉄舟)が生まれている。
 (国定忠治絡み) この年、国定忠治(26歳)が、信州より戻り、赤城山に砦を築く。日光例幣使街道玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立を激化させ、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
 (国定忠治絡み) 1836(天保7)年、次郎長16歳の時。国定忠治(27歳)が、信州中野の博徒原七に殺害された忠治の義弟・茅場ノ兆平の仇を討つために、鉄砲や槍を持った20人もの子分を従えて、白昼堂々大戸の関所を破る。当時の太平の世では、関所破りは50年か100年に一回あるかないかの大罪であった。
 1837(天保8)年、次郎長17歳の時。養母が情夫と通じ家産を湯尽して家出する。次郎長は妻(きわ)をめとり家業の回復に勤める。この頃、相場でひと儲けして才能を表わす。
 (竹居安五郎絡み) この年、竹居安五郎が村内における暴力事件をはじめ喧嘩や博打を繰り返し博徒となる。
 (国定忠治絡み) この頃、田部井村の磯沼の浚渫工事を領主から請け負った名主の西野目宇右衛門が、工事用の小屋と偽って国定忠治と共謀し賭場小屋を作ったとして罰せられた記録が残っている。国定忠治は、賭場での儲けとはいえ、稼ぎを投げ打って灌漑用の溜池を普請したり(忠治沼という)、貧しい百姓達に金銭を施すなどしている。これにより各地で飢饉による死者が続出する中でも、百々の縄張りでの餓死者は一人もなかったと云われる。こういったことから忠治は地元の義賊的英雄となった。 忠治の手配書が各地に配られ、八州取締出役がやっきになる中、追っ手から何度となく逃げおおせたのも、生れついての勘や用心深さに加えて、民衆の絶対的人気があったからだろうと云われている。なお、後に西野目宇右衛門は病気の忠治を匿った罪で打ち首になっている。
 (この頃の社会情勢) 大塩平八郎の乱おこる。
 (国定忠治絡み) 1838(天保9)年、次郎長18歳の時。国定忠治の子分の三木文蔵が世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗する。関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え、子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家が打撃を受けた。
 1839(天保10)年、次郎長19歳の時。旅の僧が長五郎の人相を見て、「死相が出ておる・・・。あと五年の命」と宣告する。25才までの寿命と予言された次郎長は、ならば短く太く生きようと決意し、侠客の道へ身を投じ賭博(とばく)の出入りを始める。

 当時の博徒入りの心境につき、次のように評されている。
 「江戸幕府末期に於て尚階級制度の厳存せる時、一農夫の子はたとへ多少の才能のありしも、其家業以外に男子の気を吐く天地を有せずとせば、遊侠伝中の人となりて、一生を奔放裡に送るも亦多少の快事にあらざんや。

 当年の博徒と、今日の政党者流と比して何れか其心術と行蔵との勝るべき。彼等は本より道義とを合せて之を理解し、之を行ふ者と謂ふべからず、然れども情と義とを行ふに於て一点の私なし、然諾の前に一身を鴻毛に比す、一無頼の乾児と雖も之が為に命を賭するを辞せず、友誼に処しては敢然として克く力争す。而して彼等遊侠の徒には孝心に於て実は嘆称すべき者多し。宜なるかな、今日講談師流の口舌を以て、我が下層社会の人心を化するに於て多大の功課あり、義勇奉公の精神の如きも、道学先生や、宗教家輩の勧説に由らずして、常に根強く且つ力強く、彼等の心胸に或る者の値附けられあるを観る、是皆理の学問にあらずして事の学問なり。日本の国情に於ては此種の事を訓へ事を談ずるの一大国民教育が不朽せられつつあるのは、日本文明の一特質として識者は仔細の注意を致すべきなり」。
 (相楽総三絡み) この年、相楽総三(本名小島四郎将満)が東京は赤坂に生まれた。父小島兵馬は下総の裕福な郷士。
 (この頃の社会情勢) アヘン戦争(1840)始まる。
 (小金井小次郎絡み) 1840(天保11)年、次郎長20歳の時。小金井小次郎が、玉川上水二塚明神前での大喧嘩でその名を売り出す。やがて、関東一円に3000人もの子分を誇る大勢カとなって行く。
 1841(天保12)年、次郎長22歳の時。甲田屋に4人組の強盗が入る。次郎長は、これを追って重傷を負う。
 (国定忠治絡み) この年、国定忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでる。
 (小金井小次郎絡み) 小金井無宿の小次郎、23歳の時、万吉の子分十余人で、小平上水の堀端を本拠地とする田折の与惣兵衛一家を二塚明神に急襲して何人か殺し、その足で草鞋を履いた。その後、甲州、草津と流れ歩く。
 (この頃の社会情勢) 幕府による天保の改革はじまる。
 1842(天保13)年、次郎長23歳の時。江尻にて芝居見物の後、酔って帰路につくおりに闇討ちに会い瀕死の重傷を負う。これを機に生涯禁酒を誓う。 

 その後、インチキ博打のもつれから巴川湖畔で小富、佐平を斬り、巴川に投げこむ。人を殺めたと思った次郎長は家業であった甲田屋を姉夫婦に譲り、妻と離別して無宿者となり、清水を離れる。

 三河の寺津(西尾市)に行き、今天狗の寺津治助のもとにわらじを脱いで身を寄せ、喧嘩に明け暮れ、ゴロ長のあだ名を付けられる。さらに三河の地にて吉良の武一親分について剣術を学ぶ。朝は稽古の虫の如く剣術を学び、夜は賭博を事とす毎日をおくった。
 (国定忠治絡み) この年、国定忠治(33歳)は会津から帰還し、主馬を殺害する。この際、忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている。

 忠治一家が、世良田(太田市世良田町。徳川氏先祖の地として手厚い保護を受けていた聖地)で内々の賭場を開帳していたところを関東取締役の手入れを受け、多くの子分衆を失うものの忠治はかろうじてこの捕り物から逃れた。その賭場に子分の板割の浅太郎とその叔父の勘助がいなかったことから、二人を密告者と疑い、首実検として浅太郎に三室の勘助の殺害を命じた。8月、忠治の命で、道案内(目明し)の三室の勘助・太良吉親子を殺害する。

 勘助殺しにより、中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れる。道中、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。

 忠治が、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵という親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰された龍蔵は激怒、追いかけて命を取ろうと忠治の前に立ちはだかったが、相手が堂山と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた堂山は、忠治の度胸の良さと男振りを褒め称えたという逸話が伝えられている。
 (この頃の社会情勢) 南京条約・アヘン戦争の終結。
 1843(天保14)年、次郎長24歳の時。清水に戻って甲田屋の主人となる。次郎長の賭場出入りは続き、或る時、イカサマをしたしないの口論となり、人を二人斬り清水を出奔する。これが本格的な後戻りのない無宿渡世の門くぐりとなった。その後、喧嘩か博打に明け暮れながらも刀の腕と度胸は鍛え抜かれる。
 (勢力富五郎絡み) 1844(天保15)年、次郎長25歳の時。幼時より力自慢で相撲が強く、千賀浦部屋に入門していた勢力富五郎が、故郷の下総国香取郡(千葉県)万歳村の故郷に舞い戻って博奕打ちとなり、下総笹川河岸を縄張りに売り出した笹川繁蔵の一の子分となった。その後、飯岡助五郎との出入りの際に繁蔵を助けて奮戦する。
 1845(弘化2)年、次郎長26歳の時。遠州川崎で争いごとから負傷。傷を直して清水に帰る。 

 甲州津向(紬)の文吉と駿州和田島の太左衛門が庵原川で対決しているところを次郎長が持ち前の向こうっ気の強と度胸で見事に仲裁した。これをきっかけに名が売れ、侠名人の仲間入りを果たした。以降、刃物も切れれば頭もきれる。筋も通せば義理も固い。そんな次郎長に惚れて、熊五郎が最初の子分になる。熊五郎は、次郎長の旅の案内役を買って出て、次郎長とともに渡世人の修業を積み始める。
 (新門辰五郎絡み) この年、新門辰五郎が、江戸火消しの他の組と乱闘になり、死傷者を出した責任を取り入牢している。
 (国定忠治絡み) 1846(弘化3)年、次郎長27歳の時。国定忠治が上州に帰還する。この頃より中風を煩う。
 (小金井小次郎絡み) 小金井小次郎が、房州で捕まり石川島の人足寄場に入れられた。 火消しの頭新門辰五郎と同囚になる。二人は意気投合して兄弟分になった。

 この年の正月、本郷から出火して烈風にあおられた火は下町まで燃え広がり、石川島の寄場さえ類焼の危機に瀬する大火事になった。このとき火消しの新門辰五郎が本領を発揮、囚人の解き放ちを牢役人へ進言し、小次郎と二人で油倉の目留めをして危うく類焼を免れた。二人の活躍は諸役人を驚かせ、特赦として自由の身となった。

 小次郎はその後、服役中に遠島になった府中の万吉親分の跡目を継いで、三多摩一円から相模にまで縄張りを広げ、三千人の子分を持つほどの実力者になった。その頃、新門辰五郎と義兄弟だった清水の次郎長が、喧嘩出入りで相手を斬り殺して旅に出たとき、小次郎は頼まれて次郎長が留守中の縄張りを守るため腹心の子分を送り込んでいる。

【清水次郎長の履歴その2、東海一の大親分になるまでの次郎長】
 1847(弘化4)年、次郎長28歳の時。親友の江尻の大熊の妹「おてふ(お蝶)をめとり、清水仲町妙慶寺門前に所帯を持つ。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。
 子分10人余の喰詰め者が逗留し始める。当然ながらこの時代の次郎長一家の家計は苦しかった。やがて次郎長は、「28人の子分衆」を従える東海きっての大親分となっていった。この時代の次郎長の事跡については明治の初期に養子であった天田五郎の「東海遊侠伝」に詳しい。

 28名とは大政、小政、増川仙右エ門、大瀬の半五郎、法印の大五郎、追分の三五郎、桶屋の吉五郎、大野の鶴吉、問屋場の大熊、お相撲の常、三保の松五郎、伊達の五郎、小松村の七五郎、関東の丑五郎、田中の敬次郎、辻の勝五郎、四日市の敬太郎、舞阪の富五郎、寺津の勘三郎、國定の金五郎、吉良の勘藏、伊勢の鳥羽熊、清水の岡吉、興津の盛之助、小川の勝五郎、由比の松五郎、吉良の仁吉、そして森の石松を云う。この「28人の子分衆」の他にン千人もの乾分が終結した。これを清水一家と云う。

 小政の本名は山本政五郎。5尺(1m50㎝)ちょっとの身体に3尺(90cm)の長脇差を腰にし、眼にもとまらぬ居合の名人で「清水一家の狂犬」と呼ばれた。父親を殺した町役人に仕返しをしようと思い、道場に通って居合いの達人となっていた。抜群の喧嘩度胸と刀の腕で、清水一家の鉄砲玉の役目を果たし、年は若いが大政についで次郎長一家を取り仕切っていくリーダーの役割を担った。それとは別に、気の荒い性格の中に純情な分部などもあり小政を慕う者が多かった。石松の ライバルで二人はよく喧嘩するが、石松が都鳥一家に騙し討ちにあったと知ると、真っ先に復讐を誓う。 一見クールだが熱い魂の持ち主でもあった。

  大政の本名は政五郎。小政と同じ政五郎の名を持つが、歳も身体も大きいことから大政と命名された。大政は、元々は渡世人となった次郎長が頼っていった吉良の武一親分の客分。剣の達人で、腕試しに挑んだ次郎長をさんざん打ちのめすが、見どころのある男だと次郎長を武一に推挙する。次郎長が一家を構えた時、武一が祝儀として大政を次郎長に贈った。以来、別に一家を構える親分にして次郎長の一の子分となった。いわば、清水一家直系の大政組の組長で、親分の声がかかれば子分を引き連れ全員集合という立場であった。次郎長の軍師として一家を指揮するだけでなく、年長者として、家族のことなど私的な面でも色々と悩みを抱える次郎長の良き相談相手となった。明治になって、次郎長は様々な事業を興すが、それら開拓事業等の陣頭指揮に立ったのが大政であった。

 森の石松は、 浮浪児だったときに次郎長に助けられて以来、勝手に次郎長の一の子分と称していた。次郎長が一家を構えたのを知ると、すぐに駆けつけ一家の仲間入りをする。喧嘩はめっぽう強いが、昼間でも酒を呑む大酒呑みであった。智略に欠け馬鹿と云われていたが周囲から慕われ、次郎長を純粋無垢に慕うた愛すべき武闘派であった。次郎長の代わりに金比羅宮にお参りをした帰途、都鳥一家にだまされて、お蝶の香典を奪われる。親分に会わせる顔がないと一人で都鳥一家を相手に大立ち回りを演じ、壮絶な最期を遂げる。
 (勢力富五郎絡み) この年、勢力富五郎が、繁蔵が暗殺された仇打ちに,残された子分と共に助五郎を狙うが果たせず。
 (この頃の社会情勢) フランス2月革命。マルクス、エンゲルス(ドイツ)の「共産党宣言」(1848)
 (国定忠治絡み) 1848(嘉永元)年、次郎長27歳の時。国定忠治は、跡目を子分の境川安五郎に譲る。
 (勢力富五郎絡み) 1849(嘉永2)年、次郎長30歳の時。勢力富五郎が関東取締出役の大掛かりな追っ手に囲まれ,潜伏先の金比羅山(千葉県東庄町)で自殺した。これ以降、里人は金比羅山を勢力山と呼ぶようになった。一連の事件は講談,浪曲の「天保水滸伝」となって後世に喧伝されることになった。
 1850(嘉永3)年、次郎長31歳の時。保下田久六を助勢し一の宮久左衛門と争った。
 (国定忠治絡み) この年の8.24日(西暦9.29日)、上州に滞在し盗区において匿われていた国定忠治が、田部井村名主家の庄屋、西野目宇右衛門邸の納屋で妾のお町の看病を受けているところ(脳溢血で足が不自由だった)を、中山誠一郎の指揮する関東取締役出役の捕手によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は詮議のため江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢させられる。

 博奕、殺人、殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により、時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって、かって自ら破った上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、当地で磔の刑に処せられる(享年41歳)。幾度となく槍を突き立てられたが絶命せず、弱音を吐くことなく豪気のまま命尽きたと云われている。

 国定忠治は喧嘩にめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。国定忠治の次の一節の台詞(せりふ)が知られている。
 「赤城の山も今宵限り。生まれ故郷の国定の村や縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分のてめえ達とも、別れ別れになる首途(門出、かどで)だァ」。
 1851(嘉永4)年、次郎長32歳の時。竹居安五郎が、諸般の罪科により伊豆国の新島に流罪となる。
 (竹居安五郎絡み) 1853(嘉永6)年、次郎長34歳の時。6.6日、竹居安五郎が、伊豆国を管轄する韮山代官所が黒船来航への対応で忙殺されている中、流人7人とともに島の名主を殺し、漁船を盗み、島抜けを実行し世間を驚かす。ペリー提督率いる黒船が伊豆近海にあらわれた直後であり、韮山代官江川英龍も島抜けを見逃すしかなかった。

 この顛末が「博徒の幕末維新 」に次のように記されている。
 もともと「島抜け」を発起したのは丑五郎、貞蔵、角蔵の三人 の無宿人であった。三人はいずれも二十歳代の若者で、流人生 活の悲惨さに反発して「島抜けだ!」と勢いに駆られて夜毎に 額を寄せて密談を繰り返してはみるものの、「島抜け」を成功 させる度胸も知恵も経験も不足していた。そこで三人は思い切 って竹居安五郎に相談を持ちかけることにした。

 安五郎は、年齢四十二歳、色白で鼻筋が通り背が高く、背中には七寸ばかり の鑓傷があった。小博打や縄張り争いのいざこざに巻き込まれ た無宿人たちとは違って、甲州では名の知れた博徒の親分であ った安五郎は、流人仲間の間でも何かと重きを置かれていた。

 三人が「島抜け」を発起したのが嘉永五年四月十五日。安五郎 への相談が十月十八日。島抜け決行が嘉永六年六月八日。一年 以上にわたる周到な準備がそこにあった。他に三人の仲間を引 き入れて総勢七人でいよいよ島抜けを決行することとなった。

 丑五郎、貞蔵、角蔵の三人は、決行にあたって大胆にも「六月 今晩」と題した書付を島役人宛てに残している。そこには、島 抜けに至った経緯とともに流人に対してひどい扱いをした名主 二名を討ち果たすので、その死骸の後片付けを頼むこと、また 必要とあらば手当たり次第に百姓を連れて行くことなどが記さ れていた。

 さて決行当日の深夜、七人は二手に分かれて名主吉兵衛宅を表 裏の両方から襲った。名主前田吉兵衛家では当主吉兵衛は七十 五歳の老齢の上、目も耳も機能しない状態で病臥、そして息子 で名主職を継ぐべき吉六五十三歳も中風を患い寝たきりであって、唯一孫の弥吉二十四歳だけが頼みであったが、女子供を逃 がすのに精一杯であった。七人が前田家に目をつけたのは、前田家が病人ばかりであること、島で非常時に備えて役人から下 げ渡されている鉄砲があること、などを事前に調べ上げたうえのことであった。「鉄砲を渡せ!」との強迫に老衰の名主は御法度を盾に頑強に抵抗するが、ついにムロ鯵割き用の小出刃を棒に括りつけた手製の鑓でわき腹を一突き、さらに左の二の腕を骨まで切り裂けられて吉兵衛は命を落とす。安五郎らは孫の弥吉を縛り上げ右腕から尻にかけて骨まで達するほど切り下げたが、弥吉も鉄砲の隠し場所を吐かなかった。しかし七人は家捜しの上、ついに鉄砲二挺を見つける。その後前田家を出て、 次にこれも予てより目をつけていた島民の家を襲い、そこに偶 々居合わせた一人を殺害、ベテランの水夫であった二人を連れ出し、脅かして島で最速の船を出させた。

  おりからの南風に船は帆をはらませて順調に滑り出す。七人の流人は、意気揚々と船を一路伊豆網代方面へと向かわせのだった。 網代は韮山代官所の直轄地ともいえるところで、なぜ安五郎が そういったお上のお膝元ともいえるところに船を着けさせたのか? また他の無宿人はやがて次々に捕まりますが、安五郎だけは逃げ延びられたばかりでなく、遠島前と同様に相変わらず博徒の大親分としてなぜ復帰できたのか(最後は殺されますが)?その謎が「博徒の明治維新」では当時の社会状況を踏まえて解明 されていきます。 面白か本ですたい。
 先の「博徒の幕末維新」ですが、竹居安五郎がなぜ代官所の追 及をかわし、逃げ延びることができたかというと・・・・・。 当時の韮山代官は江川英龍。彼は洋式軍制を採用することなどを主張する幕府内の改革派でしたが、長らく冷や飯を喰わされ ていました。 ところがペリーの来航以来、江戸警備の必要性が高まって、つ いに大砲鋳造のための反射炉の建設と砲台を設置する台場の建設が決定されて、彼はその実質的な責任者となりました。

 コトは緊急を要します。自らの手足となって動ける人材を確保する ために、江川英龍はかねてより幕府に洋式砲術家の高嶋四郎太夫を手代にすること、中浜万次郎を自らの手付けに抱えいれることを申し出ていましたが、それが認められたのが、まさに安五郎らの島抜け当日のことでした。そして韮山代官支配を支える有能な手代らはすべて台場・反射炉建設にかりだされること となったのです。 実は安五郎らが島抜けに成功し下田の海岸に舟を着けたとき、 人質となっていた二人の漁師は偶々近くを航行する代官所の船 を見つけて海に飛び込み、助けを求めます。救助された彼らは 安五郎らの島抜けを役人に訴えますが、彼らは形ばかりの探索 をしただけで捜索を打ち切ってしまいます。

 代官所には島抜け の重罪以上に切羽つまった案件が山積していたのです。 台場建設は全部で十一箇所にもなり、その建設費用も巨額で幕 府財政を揺るがす大工事となりました。現場を取り仕切る江川 英龍にとっては、大量の土砂や材木等の資材の手当ても必要になりますが、何よりも頭を痛めたのはそれらの土木工事を完遂 させる労働力の確保。五千人規模の土工、石工、人足を集めて組織的に就役させるには、それなりの力をもった人物でなければ統制がとれなかったのです。

 そこで江川英龍が目をつけた人物が、百姓身分でありながら絹を扱い、さらに廻船業なども手広く営む甲州郡境村永役名主天 野海蔵でした。海蔵は若い頃には遊侠の群れに投じてこともあ って、同じ名主の子であった竹居村の安五郎とは相知る仲でも ありました。しかしこの海蔵をしても人足の動員と差配までは なかなか手が回りませんでした。これを海蔵は旧知の博徒間宮 久八に依頼します。 博徒久八は韮山代官から中追放された身の上です。本来なら伊豆に立ち入ることさえ許されないはず。また久八は大の役人嫌 いときている。ところが海蔵が韮山代官側とどう渡りをつけた のか、久八は海蔵の要請を結局は受け入れて台場つくりに一肌 脱ぐことになります。 博徒久八は竹居安五郎の弟分。島抜け成功の翌日、竹居安五郎 は久八を訪ねていきます。

 竹居安五郎はその後、伊豆間宮村(函南町)の博徒大場久八の助力を得て甲斐へ逃げ帰った(久八と安五郎はともに郡内の人斬り甚兵衛の一家で渡世の修行を積んだ暖簾兄弟であったとされる)。その後は故郷竹居村を拠点とした博徒となる。
 (この頃の社会情勢) ペリー、軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。黒船騒動起こる。翌年の安政元年、駿河地方大地震。クリミア戦争始まる。
 (小金井小次郎絡み) 1855(安政2)年、次郎長36歳の時。多摩の大親分として十年ちかく過ごした小次郎、38歳の時、禁止されていた勧進相撲を興行し、派手な宣伝で人集めをしていた。風邪をひいて寝込んでいたところを八州廻りと呼ばれる幕府の特攻警察、関東取締出役に急襲されて捕まり、それまで重ねてきた賭博罪で、翌年源吾船に乗せられて三宅島へ島流しにされた。
 (黒駒の勝蔵絡み) 1856(安政3)年、次郎長37歳の時。後の黒駒の勝蔵が、隣村の甲州の有力な侠客となっていた竹居安五郎(吃安の兄)の子分となる。
 (小金井小次郎絡み) 1857(安政4)年、次郎長38歳の時。小金井小次郎が、八王子の相撲興業にからんだ咎を問われて三宅島に流刑となる。このま時、見送り船が48艘も居並ぶ大物ぶりを示した。

 小金井小次郎は、流刑先でも持ち前の「男だて」ぶりを発揮して、飲料水が乏しい為に難儀する島民の為に子分にした流人をたちを動員して、穴を掘り、海岸から運んだ石を積んで貯水槽を造った。池をつくったり、泉から水を引いたりと大活躍。目地留めの漆喰は江戸の新門辰五郎や博徒仲間に依頼して、廻船で送ってもらったという。この貯水槽は、三宅島には深さ2m、直径7、8mの大きな貯水池であり、いわゆる「小金井井戸」と云われ今日まで遺されている。昭和40年頃、村の簡易水道が完備するまで、島の人々を潤した。私財を投じて行う義挙に島民たちの尊崇の念が深まったのは当然であろう。
 1855(安政2)年、次郎長36歳の時。次郎長一家旗上げ。千石船を仕立てて江戸に救援に行く。
 (黒駒の勝蔵絡み) この年、黒駒の勝蔵が武居の吃安の乾分として売り出す。
 (この頃の社会情勢) 10.2日、安政大地震。
 1856(安政3)年、次郎長37歳の時。石松が乾分になる。兄弟分八尾ケ嶽宗七の助勢に行き、3人で15人の捕り方を叩きのめす。
(この頃の社会情勢)ハリスが下田に来航。
 1858(安政5)年、次郎長39歳の時。甲州の祐天と女房お蝶の兄の江尻大熊の間に争いが起こり、次郎長と大熊は、祐天の親分である甲府の隠居を斬る。祐天一家は、十手取縄を預る二足の草鞋を履いていたことにより、次郎長はお上に楯突いた人物として指名手配される身になった。

 この為、役人に追われた次郎長はお蝶・子分達を連れ、瀬戸の岡一一家へ逃亡。名古屋の巾下の深見長兵衛のもとに身を寄せ逗留する。12月の晦日、初代お蝶が病に倒れ、死去する。
 (この頃の社会情勢) 日米修好通商条約。安政の大獄開始。インド、セポイの反乱(1857)ムガール帝国の滅亡(1858)
 1859(安政6)年、次郎長40歳の時。次郎長が親身になって世話をした履歴を持つ八尾ケ獄宗七(保下田の久六)の密告により捕吏が長兵衛宅に踏み込む。次郎長は逃げきるも、長兵衛が捕えられ牢死する。次郎長は大政や石松など子分を連れ、逃れて寺津へ行く。捕吏の探索きびしく、やがて甲州、越後、加賀、越前さらに四国と長い逃避行に向かう。

 6月、大政・石松等を連れ金毘羅参拝に向かう。金比羅詣では、実父の金比羅信仰を継いだものと云われている。参拝後、清水一家は、知多半島亀崎村に潜伏中の保下田の久六が居た代官所に乗り込み、久六を斬り長兵衛の怨を晴らす。
 (この頃の社会情勢) 函館、横浜、兵庫、長崎、新潟の五港が開港。安政の大獄で吉田松陰、橋本左内ら刑死。ダーウィン(英国)種の起源を発表。
 1860(万延元)年、次郎長41歳の時。久六制裁の願果たしに、森の石松を次郎長の名代として四国の金比羅神社に礼参りに行かせる。
 この時の講談「石松三十石船道中」のあらすじは次の通り。

 次郎長は、仇討ちで使用した刀を、仇討ち前にお参りした讃岐の金比羅様に奉納しようとして、「旅の四百里(期間にして三か月)の間は酒を呑んではならない」との条件を示して森の石松に役を云いつけた。何よりも酒が大好きな石松はこの話をきっぱりと断った。その時、大政が颯爽と現れ、石松をなだめて行く気にさせる。

 石松は、無事に讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納める。役目を果たした安堵で酒を呑み始める。その帰り道のこと、無事次郎長の代参を終えた石松は丸亀から船に乗り、大阪は堂島川の河口の八軒屋(現在の天満橋あたり)に上陸する。ここから三十石船に乗り、淀川、宇治川を経て京都伏見の中書島までの船旅となった。舟の中で、客同士がヤクザものの世間話を始めた。話が「東海道で一番強いのは誰か」という話にはずんだ。この話の輪に江戸は神田の出身と云う江戸っ子が割り込んできた。一言目には「神田の生まれよ」と何度も云うこの江戸っ子は、「清水港うど町に住む山本長五郎、通称清水次郎長!これが街道一の親分よぉ」と啖呵を切った。

 これを聞いた石松は喜び云う。「もっとこっちへ寄んねえ、呑みねえ、呑みねえ。江戸っ子だってねえ」。江戸っ子「神田の生まれよ」。石松「そうだってね。次郎長にゃいい子分がいるかい」。江戸っ子「いるかいどころの話じゃないよ。千人近く子分がいる。その中でも代貸元をつとめて他人に親分兄貴と言われるような人が二十八人。これをとなえて清水の二十八人衆。この二十八人衆のなかに次郎長ぐらい偉いのが、まだ五、六人いるからねえ」。石松「呑みねえ、呑みねえ」。江戸っ子「神田の生まれよ」。石松「で、五、六人とは一体誰でぇ」。

 江戸っ子「清水一家で一番強いのは、尾張の侍の出身で、槍組の小頭で、武士を嫌ってやくざになった身体のでっかい大政だな」。石松「あいつは山本流の槍を使うからな」。江戸っ子「二番目に強いのは、浜松の魚屋の倅、蜆を売って親孝行をしていた十三のときに親父に死なれ、自棄になってやくざになった小政だな」。石松「あいつは居合い抜きをやるからな」。江戸っ子「三番目は千住の草加の在の村役人の倅、大瀬半五郎だね」。石松「あいつは人間が利口だからな」。江戸っ子「四番目は遠州秋葉、三尺坊の火祭りで親父の仇を討った増川仙右衛門だな」。石松「俺は五番だな」。「五番は法印大五郎」、「六番は追分三五郎」、「七番は尾張の大野の鶴吉」、「八番は尾張の桶屋の吉五郎」、「九番は三保の松五郎」、「十番は、追山の問屋場の大熊」、「十一番は苫(鳥羽)熊」、「十二番は豚松」、「十三番は伊達の五郎」、「十四番は石屋の重吉」、「十五番はお相撲綱」、「十六番は滑栗(なめくじ)初(八)五郎」。

、十六番目になっても石松の名前が出てこない。焦れた石松が、「お前ェ、あんまり詳しくねえな。次郎長の子分で肝心なのを一人忘れてやしませんかってんだ。この船が伏見に着くまででいいから、胸に手ェあてて良~く考えてくれ。ねえオイ」。石松が半泣き調で頼み込む。石松「もっと強いのがあるでしょが。特別強いのがあるんだよ。お前さんね、何事も心配しねぇで気を落ち着けて考えてくれ。もう一人いるんだよぉ」。江戸っ子「別に心配なんかしてやいねぇや。どう考えたって誰に言わせたって清水一家で一番で強いと言やぁ、大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」。石松「うん?」。江戸っ子「大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」、「うわぁ~客人すまねェ、イの一番に言わなきゃならねぇ清水一家で一番強いのを一人忘れていたよ」。石松「へ~。で、誰だいその一番強ぇってぇのは」。江戸っ子「こりゃあ強い。大政だって小政だってかなわねえ!清水一家で離れて強い!遠州森の生まれだぁ!」。

 石松「へえ。そこのところをもう少し聞かせてくれや、誰が一番強いってぇ?」。江戸っ子「こりゃあ強ぇ。遠州森の福田屋という宿屋の倅だ!」。石松「なるほどぉ」。江戸っ子「森の石松ってんだい。これが一番強いやい!」。石松「呑みねぇ、呑みねぇ、寿司食いねぇ、もっとこっちへ寄んねぇ。江戸っ子だってねぇ」。江戸っ子「神田の生まれだい」。石松「そうだってなぁ。そんなに何かい、その石松は強いかい?」。江戸っ子「強いかいなんてもんじゃないよ。神武この方、バクチ打ちの数ある中で強いと言ったら石松っつぁんが日本一でしょうなぁ!」。石松「へぇっ、そいつぁ凄い」。江戸っ子「強いったって、あんな強いのいないよ」、「だけど、あいつは人間が馬鹿だからね!」。

 石松を称える歌は次の通り。
「♪お茶の香りの東海道 清水一家の名物男♪ ♪遠州森の石松は シラフの時は良いけれど♪ ♪お酒飲んだら乱暴者よ 喧嘩早いが玉にキズ♪ ♪馬鹿は死なな~きゃ~ なおらな~いぃぃ♪」。
 石松は、大阪から伏見に向う三十石船の中で、石松はあと五年たったら街道一の親分になるという男の噂を聞く。人物を計ろうとして一寸寄ってみることを思い立った石松は、草津追分の三十六歳の若い親分、見請山の鎌太郎のもとを訪れる。その見事な啖呵から清水の次郎長の子分石松だと見破られ、鎌太郎からお蝶葬儀の際に届けられなかった香典25両を託された。
 帰路、遠州笠井の寺島の常吉を訪れる。この時の講談が「石松の最期」で、あらすじは次の通り。

 金に詰った通称「都鳥三兄弟」の都田の長兄・吉兵衛から4日間だけ貸してくれくれと頼まれた石松は一旦は断るが、空涙を流されたため騙されてしまう。約束の4日の期限を過ぎても返済しない都鳥に激怒した石松は、都鳥の子分たちが自分の女房や娘を遊女に売っても返すというのでさらに待つ。ここで石松は兄弟分の小松村の七五郎に会う。都鳥との一部始終を話すと、七五郎は石松の人の良さにあきれ、「都鳥」が返すわけがない、とさんざん意見をする。七五郎は自分の家へ石松を連れて行く。

 石松は金を返すという「都鳥」の吉兵衛の言葉を真に受け閻魔堂に向かう。ここで、都鳥一家(都田の吉兵衛・梅吉兄弟一家)に草鞋をぬいだ保下田の久六の子分たちに闇討ちに遭い、閻魔堂で斬り合うはめになる。「石松さん助太刀するぜ」と加勢した三兄弟が背後から騙し討ちし、「野郎!卑怯者」と叫んだ石松は重傷を負いながら七五郎の家まで逃れる。

 七五郎と女房おたみは、追手から石松を体を張ってかばう。一旦難を逃れた石松は再度通りかかった閻魔堂で、自分を罵った都鳥の連中の言葉にかっとなって飛び出していき遂に斬殺されてしまう。七五郎は清水次郎長の元へ行き、石松が「都鳥」に殺されたこと、石松を救えなかったことを詫びる。知らせを聞いた次郎長は憤然と怒り、仕返しを誓う。
 (この頃の社会情勢) 勝海舟を艦長とする咸臨丸がアメリカに向け出帆。3.3日、大老井伊直弼、水戸浪士により桜田門外で殺害される。
 1861(文久1)年、次郎長42歳の時。次郎長一家が、梅蔭寺住職宏田和尚のふるまったフグに当たり、角太郎、喜三郎が死亡する。石松の敵討ちを誓っていた次郎長は、これを逆に利用して一家全員がふぐにあたると噂をたて都田兄弟の耳に届けさせ、おびき寄せる。報復を恐れていた「都鳥」は先制の逆襲を企て博徒9名を引き連れ清水に押し寄せる。吉兵衛らの清水入りを知った次郎長は大政、小政、相撲常、清吉らと共に酒亭駕篭屋に居た「都鳥」を奇襲し石松の仇を晴らす。この時、七五郎も二十八人衆に加わっている。これにより、清水一家は三河を勢力圏に収めた。
 (竹居安五郎絡み) この年、指名手配されていた竹居安五郎が捕縛される。捕り方は、内通する二束草鞋の博徒・国分三蔵(高萩万次郎)一味を使って捉える作戦に出た。この三蔵グル−プが安五郎を騙まし捉えた。
 (黒駒の勝蔵絡み) 竹居安五郎の逮捕を手引きした下手人は犬上郡次郎であった。犬上は元館林藩士で、その行状から謹慎、入牢となり、牢を破り甲州へ逃亡し、竹居安五郎の用心棒を務めていた。その犬上が安五郎を欺き、その身柄を石和代官所に引き渡した。黒駒の勝蔵がこの裏切りを知り、万福寺地内に隠れていた犬上郡次郎を惨殺した。
 (この頃の社会情勢) 皇女和宮、御降嫁のため京都を発つ。幕府、関八州の浮浪者を鎮圧、蝦夷地に送る。イタリア王国の成立。アメリカ南北戦争始まる。
 (竹居安五郎―黒駒の勝蔵絡み) 1862(文久2)年、次郎長43歳の時。竹居安五郎が牢死する(享年52歳)。甲州黒駒の勝蔵が安五郎の跡目を継ぎ、持ち前の「義理人情に厚く、気っぷのよさが」で手下を黒駒一家としてまとめる。やがて、甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせて行くことになる。黒駒の勝蔵は、竹居安五郎逮捕を手引きした三蔵の仕返しに向かう。ところが、三蔵と清水次郎長は盟友であった。ここに安五郎の意思を継いだ勝蔵と、三蔵の盟友としての次郎長の二大勢力が闘う構図ができ上がった。
(私論.私見)

 広沢虎造の「清水次郎長伝」に限界を認めるとするなら、次郎長を善玉、黒駒の勝蔵を悪玉として描いたことだろうか。事実は、当世並ぶ者なき資質良性の二大侠客だったのではなかろうか。歴史の摩訶不思議な立て合いであろう。れんだいこは、いつの日か、この観点からの「清水次郎長伝、黒駒の勝蔵伝」をものしたいと思う。
 1862(文久2)年、次郎長43歳の時。次郎長凶状旅に。吉良の仁吉と盃を交わす。
 (この頃の社会情勢) 和宮降嫁。寺田屋騒動。
 1863(文久3)年、次郎長44歳の時。黒駒の勝蔵一家が捕吏に追われるところとなり東海道へ向かう。遠州に逃れ、興津(清水市興津)の盛之助に押しかける。中泉番所は、「興津(清水市興津)の盛之助に乱暴を働くなど悪事の限りを尽くし」として勝蔵を捕らえるべく、大和田の友蔵に依頼する。次郎長は、これに加勢した勝蔵を甲州に追いやる。これは、次郎長が、「毒には毒をもって制」しようとした幕府の策略に乗せられていたということではあるまいか。以降、勝蔵一家と次郎長一家の宿縁の抗争が始まる。
 (この頃の社会情勢) 1月、坂下門外の変。4月、寺田屋騒動、8月、生麦事件など、清川八郎暗殺、薩英戦争、天誅組の乱などが起きる。尊王攘夷運動高まる。
 1864(元治元)年、次郎長45歳の時。次郎長が「清水二十八衆」を組織する。この頃、黒駒の勝蔵は倒幕派に肩入れし、次郎長は佐幕側の立場を明確にさせつつあった。こうして、博徒の二大勢力が因縁の抗争に向かうことになる。世に山賊黒駒対海賊次郎長の争い」と比喩されている。黒駒方の雲風亀吉との二次にわたる三河の抗争は「平井村の役」と呼ばれ、博徒抗争史上かってない殺戮戦となった。(「平井村の役」を詳細に知ろうとするが、サイトに出てこない)
 (黒駒の勝蔵絡み) この年、黒駒の勝蔵が、博徒や浪士を集めて甲府城攻略を図っている。「尊皇攘夷、倒幕の動きに呼応した草莽の博徒」の動きをしていることになる。黒駒青年団が組織されており、「王政復古までは一人も妻帯しない」と女絶ちまでして結集していたと云う。
 (相楽総三絡み) この年、4月、相楽総三(25歳)が、筑波山での水戸藩撲夷激派天狗党を主体とした佐幕派討伐の挙兵に加わる。が、蜂起が水戸藩の藩内抗争になってきたのを見て、思想も相容れず山を下った。
 (この頃の社会情勢) 6.5日、長州藩士ら尊攘志士20名と新撰組の激突のいわゆる「池田屋事件」発生。7.24日、第一次長州征伐始まる。
 (新門辰五郎絡み) 1865(元治2)年、次郎長46歳の時。新門辰五郎が、娘の芳が将軍徳川慶喜の妾になっている縁で、禁裏御守衛総督に任じられた将軍警備で子分300人を連れて京都に行き二条城の警備などを行う。京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。
 1866(慶応2)年、次郎長47歳の時。桑名の穴太徳に縄張りを奪われた伊勢の神戸の長吉は吉良の仁吉に救援を求めていたが、これに清水次郎長一家が加勢する。

 その経緯は次の通り。
 3月末、次郎長の縄張りでいざこざがあり、次郎長の子分、大政らが百姓の家を焼いてしまう事件が発生した。世間の手前、大政らは清水にいられなくなり、仁吉の下で厄介になっていた。 そんな頃、縁あって兄弟の杯を交わした神戸長吉(かんべのながきち)が仁吉を尋ねて来た。仁吉は長吉との久しぶりの再開を喜び、長吉は仁吉を尋ねて来た訳を話した。長吉は黒田屋勇蔵の子分で、当時伊勢きっての大親分になっていた穴太徳(あのうとく)とは、もともと心を許しあった兄弟分の関係であった。ところが、親分の黒田屋勇蔵が仏心をおこして出家した後、角井角之助の陰謀にはまって4年間入牢している間、勢力拡大を目論む穴太徳に縄張りを奪われてしまった。

 仁吉は、わざわざ自分を頼ってきてくれた長吉の思いに応えるため次郎長一家に救援を求めた。次郎長一家は、大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦する大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ、吉良仁吉を大将に22名が加佐登神社で戦勝祈願をして荒神山に向かった。他方、安濃徳の助っ人に黒駒の勝三がついた。

 4.8日、笠砥神社の祭礼の賭場に安濃徳ら黒駒勝蔵の一味130名余が集まった。これに荒神山で血闘を挑んだ。鉄砲や鎖帷子などまでが持ちだされる大抗争となった。穴太徳の弟分の頭領・角井門之助は、長身だった仁吉、大政に狙いを定め、「まず、大男を撃て」と部下に命じた。二人とも奮闘したが、仁吉は穴太徳側の猟師の銃弾を受け、身動きの取れないところを角井門之助に斬られた為、血しぶきをあげて倒れた。

 これを見た大政は仁吉を助けに行き、倒れた仁吉を助けようと大政が走り寄る途中、石につまずいて転倒、それを見た敵将門之助が、刀をふりかざして襲いかかる。 門之助は浪人あがりの剣客だった。大政は身を起こす暇もない。門之助の太刀が振り下ろされる正に間一髪のところで、横になったまま手にする槍を突き上げた。槍先が当たって門之助が両足をあげて引っくりかえる。起き上がった大政が2度めの突きを入れると、槍先は門之助の股間から背中に突き抜け、串刺しとなってしまった。こうして、大政が敵方大将の角井門之助を討ち取った。

 穴太徳側は頭領を倒されたことにより狼狽して逃走を余儀なくされた。穴太徳側の戦死者は5名、仁吉側の戦死者は2名。法印大五郎が討死。仁吉は、石薬師に引き上げたところで息を引き取った。これを「荒神山の血闘」と云う。
 (黒駒の勝蔵絡み) この年、黒駒の勝蔵は、「荒神山の血闘」に客分参加した後、黒駒一家を解散、池田勝馬と名を改め、草莽隊のひとつであった相楽総三の率いる赤報隊に身を投じている。岐阜の侠客大親分・水野弥三郎が関係していると云われる。水野は赤報隊の中枢として活躍し、地方を鎮撫する途中、「年貢半減令」を官軍赤報隊として告示して渡り歩いている。「勝蔵は勤皇侠客であり西郷隆盛を大先生と呼んで何度も会っており」とある。
 (相楽総三絡み) この年、相楽総三が京都に上り、勤皇派の人々と交流するうちに、「華夷弁論」(かいべんろん)(尊王攘夷を論ずるという意味)を著わして同志達を励ました。それが長州藩主毛利敬親(もうりたかちか)に認められ、相楽はその頃長州と同盟を結んだ薩摩藩と親しくなる。
 (この頃の社会情勢) 6.7日、「第二次長州征討」開始される。 坂本竜馬による薩長同盟。孝明天皇没す。

【清水次郎長の履歴その3、幕末維新期の次郎長】
 1867(慶応3)年、次郎長48歳の時。5月、「荒神山の血闘」で仁吉と法印大五郎を失った次郎長は憤慨し、「仁吉の弔い合戦」と称して、手勢480名余を引連れて、長槍170本、鉄砲40丁、米90俵を船に積み、千石船2隻で伊勢に渡り穴太徳とその後ろ盾の丹波屋伝兵衛に再び挑んだ。武器調達は国定一家3代目田中敬次郎による。安濃徳らはひたすら陳謝し和議を受け入れた。

 この一件以来「清水次郎長」の貫禄は増し、その名が全国に知られることとなる。こうして、次郎長は、二十余年に及ぶ甲州黒駒の勝蔵との血みどろの争い、伊勢への遠征での「荒神山の血煙」で、東海道を名古屋までおさえた清水一家が伊勢路を制圧し、東海一の大親分になった。
 (小金井小次郎絡み) この年、兄弟分からの手紙で幕府転覆の危機を知った小金井小次郎が、流刑11年目のこの頃、すぐさま官軍討伐を決意。島民2500名を擁しての「強行島破り作戦」をぶちあげた。この知らせに大慌てした幕府の方は、この計画を潰す為の苦肉の策として、首謀者小金井小次郎の「赦免」措置に出た。

 これにつき、次のように記されている。
 「頗る感慨深きを覚へぬ。王政維新と為り、官軍は江戸に殺投せんとす、時に小次郎は三宅島に流罪中にありしが、新門の援助を受けて島民の為に井を掘り、業を興し幾多の善行美事を為したりき。小次郎の徳に服せる二千五百の島民は、彼の指揮に従ひて江戸に入り、官軍と一戦を希望したり。幸に江川太郎左衛門の尽力にて、順逆を誤らず、特赦に会ひて江戸に来るや、新門の配下は多く上野戦争に加はりその難に死す、小次郎の心中果たして如何ぞや」。
 (相楽総三絡み) この年10月、相楽総三は、江戸芝三田の薩摩藩上屋敷を借り、江戸市内撹乱の為の「薩邸浪士隊」を組織し首領となった。総裁が相楽、副総裁が落合源一郎、大監察が権田直助・長谷川鉄之進・斎藤鎌助。落合は国学をおさめて水戸天狗党に関与した攘夷論者、権田らも平田篤胤系の国学派であった。「薩邸浪士隊」は江戸市内で先頭に立って放火や強盗などをし、幕府に追われると薩摩藩邸に逃れるという事を繰り返していた。当時江戸での薩摩の力は大きく、藩邸に幕府が手を出すことはできなかった。江戸市内に於ける旧幕府軍に対する挑発的行為としての工作活動が戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけになった。

 この頃、土佐藩でこの計画に加った後の板垣退助と会い交流を深める。板垣退助が幕吏に追われたときは、総三は板垣をここに匿(かくま)った。板垣も総三が追われたときは土佐の藩邸に匿っている。のちに総三が諏訪で打ち首になったとき、板垣は甲州方面へ新撰組の始末に出向いていたのだが、「もし、わしがいれば相楽をあんなふうにさせなくとも済んだのに」と悔しがったと伝えられている。

 12.23日、江戸城二の丸の火 事や関東取締出役の渋谷和四郎、木村喜蔵の屋敷の襲撃など薩邸から 出た浪士の仕業とわかる事件が相次ぎ、幕府は、浪士隊対策を急ぎ、25日未明、勝が抑えようとするのを小栗が決断して、幕府は薩邸の焼き討ちを行った。邸内にいた相楽初め、浪士 約二百人は脱走をはかり、京都に再集結することになる。
 (この頃の社会情勢) 10.14日、討幕の密勅が薩長に下った奇しくも同じこの日、慶喜が大政奉還を願い出て、翌日勅許された。これにより、15代続いた徳川政権による江戸幕府が幕を閉じることとなった。11.15日、京都瓦町の醤油屋近江屋新助方の2階で、坂本龍馬(33歳)と中岡慎太郎(30歳)が共に暗殺された。12.9日、倒幕朝廷軍が「王政復古の大号令」を発布する。ドイツ、マルクス「資本論」(1867)
 1868(慶応4、明治元)年、次郎長49歳の時。この年初から世は幕末動乱期となった。1.3日、「鳥羽・伏見の戦い」が始まり、「戊辰戦争」の火蓋が切って落とされる。幕府軍が敗走し、官軍優位の戦局の流れとなる。

 1.21日、有栖川宮熾仁大総督の率いる東征官軍が京都を出発し、東海道をどんどん東進し始める。この先鋒と称して、相楽総三らが率いる東山道先鋒隊(赤報隊又は嚮導隊、官軍先鋒隊とも称す)が美濃国、信濃国を朝廷側に導こうとした進軍して行った。この時、太政官坊城大納言からは、戦争に苦しむ万民のために、幕府領の租税は半分に減らすという勅定書を下されていた。東海道を裏支配していた次郎長が、この渦にむ巻き込まれる。

 3月、駿府町奉行が廃止され、伏谷如水が東征大総督府から駿府町差配役に任命された。4月、駿府治安に当たることになった伏谷如水は次郎長を街道警固役を任命し、これを引き受けることになった次郎長は、この役を7月まで務めることになる。 

 これにつき、伏谷家には、如水と次郎長の親交を伝える次のようなエピソードが代々語り継がれている。伏谷如水と次郎長は同じ文政生まれで如水が2歳年長。「東海遊侠伝」は二人の出会いを次のように活写している。

 1868(明治元)年、鳥羽伏見の戦いの後、有栖川宮を大総督とする当征官軍が京都を出発、3.5日、駿府に着いた。家康のお膝元を自負する駿府の町には不穏な空気がみなぎっていた。江戸幕府直轄の駿府町奉行に代わって、3.22日、浜松藩家老の伏谷如水が、総督府により駿府町差配役に任命された。閏4.26日、伏谷如水はさらに駿遠三裁判所判事の兼任も命ぜられ、この地方の司法、行政を一手に統括することになった。

 或る日、清水港の次郎長のところに出頭命令が来た。駿府町差配役、判事の伏谷如水からであった。次郎長は、女房のお蝶にこう云った。「おれは罪の多い身だ。出頭すれば二度とおまえっちの顔を見ることはできめえ。逃げようと思やぁ訳ねえことだが、今度のことは、お上がおれを捕えようというのじゃない。特別のことでお召しになるようだから、逃げかくれするのは、やっぱよくねえ。行かなきゃなるめえ」。次郎長が腹をくくって出頭すると、小役人が案内して、別室の伏谷如水に引き合わせた。伏谷如水が言った。「今戦乱で何かと事の多い時代だ。武士だ、官員だと詐称して悪事を働く者が後を断たない。一方、取締る側も、旧幕臣との間で意見の食い違いから上司に抗するなど、憂慮すべきことが多い。そこで、その方を登用して沿道の探索に当たってもらうことにした。これまでの処世態度を改めて、御奉公につとめてもらいたい」。

 次郎長は固辞した。「とんでもねえことです。私らのように身分いやしい無頼の徒が、お上の御用なんてつとまるわけはありません。どうか勘弁して、ほかの人を選んでおくんなさい」。次郎長の返事を予期していたように、伏谷は部下を呼んだ。官員の制服を着た部下の男が、書類を手にさげて部屋に入って来た。下座の方に坐っていた次郎長はその男を見て驚いた。その男は清水の港町を近頃よく歩いている足袋の行商人でよく見かけた顔であった。次郎長の家にも、一度買ってやったら度たび現われ、時には酒を出してやったこともある。伏谷如水は小池にささげ持つ書類を朗読するように言いつけた。次郎長は頭を下げてこれを聞いた。次郎長の行状が細大もらさず記されていた。「包みかくしなどできることではございません。お上の御明察には恐れ入った次第ですが、ただ間違っていることが二件ほどございます」。次郎長は誤認の箇所を詳細に申し立てた。

 伏谷如水は、率直な次郎長をほめ、登用する旨を正式に申渡した。これにより次郎長の積年の罪科はすべて免除され、平民としては破格の帯刀を許されるという栄誉もあわせて、命を受けて次郎長は退出した。(「次郎長翁を知る会」参照)

 この頃、黒駒勝蔵が池田数馬と変名し、官軍先鋒となって駿府に来る。見抜いた長五郎が勝蔵の江尻通過を拒む。
 (会津の小鉄絡み) この頃、会津の小鉄が、鳥羽伏見の戦いに子分500人を動員し軍夫として参加する。闘い敗れて大坂へ敗走する。京都に戻って放置されていた会津藩の戦死者の遺骸を集めて会津藩墓地の黒谷に埋葬し葬る。この後、遺品を携え官軍のいる会津若松に潜入して目的を達する。その後、毎日子分を三人ずつやって掃除をさせ、自らも月に一、二度は訪れ菩提を弔ったと伝えられている。
 (水野弥三郎絡み) この年、1.8日、赤報隊が、薩摩藩の西郷隆盛の命を受け、近江国松尾山の金剛輪寺に於いて、「赤心報国隊」(略して「赤報隊」)を結成する。隊長は相楽総三で、軍裁として他に鈴木三樹三郎、油川練三郎、山科能登之助が立った。公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立する。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられた。一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた。

 赤報隊は新政府の許可を得て、「御一新」、「年貢半減」を宣伝しながら近江路を出発し、美濃路へ、中山道へと入っていく。相楽は地元岐阜の博徒・水野弥三郎に要請し、加納宿に高札を掲げて周知徹底をはからせた。信州へ進み、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。東山道美濃国加納宿に入った赤報隊・1番隊長相楽総三は年貢半減令を公布した。相楽は地元岐阜の博徒・水野弥三郎に要請、加納縮に高札を掲げて周知徹底をはからせた。
 (この頃の社会情勢) 官軍の東征が始まり、やがて江戸では幕府軍と激しい戦闘が行われることが予想された。この局面で、幕末の三舟と云われた勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟が内戦が外国勢力に御せられる危機感を抱き、策を練る。これを確認しておく。

 3.9日、幕府陸軍総裁の勝海舟は、腹心の剣禅一如の人として知られる山岡鉄舟に密書を持たせて、駿府まで来ていた官軍の総帥・西郷隆盛の下へ派遣する。

 山岡鉄舟(1836-1888)は幕末の剣豪の一人で、勝と肝胆相照らす仲の人であった。剣を北辰一刀流の千葉周作に、槍を忍心流の山岡静山に学び、山岡静山の急逝後、その妹英子と結婚し、山岡家の養子となる。1863(文久3)年、清河八郎が結成した将軍警護を目的とした浪士隊(のちの新撰組)に幹部として参加するが、その分裂後江戸に戻る。後の明治13年、禅の悟りによって新たな境地を得て無刀流を開眼する。明治18年、小野派一刀流・第九代目の小野業雄から一刀流の道統と伝説の瓶割刀、朱引太刀、卍の印を継承し、ここに一刀正伝無刀流を開き、後の剣道界にも多大な影響を与えた人である。

 鉄舟は、街道の治安を事実上一手に管理していた次郎長に護衛役を依頼する。途中、官軍に誰何されるが「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府に通る!」と叫び虚をついて突破する。3.13―14日、鉄舟とそれを支援した次郎長の努力が実り、駿府の松崎屋で実現する。鉄舟は、「江戸城を官軍に無抵抗で明け渡す代わりに、徳川家に寛大な 処置を為すよう」交渉に入った。

 山岡は勝の手紙を携えていた。手紙の内容は、嘆願書と言うよりも、どちらかというと、脅しに近いような内容が書かれていた。知略者勝らしいやり方であった。手紙の要約は次のように認められていた。
 「現在、主人(慶喜)は恭順しているけれども、いつその主人の意を分からない不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない状況にある。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。もし、正しい処置(徳川慶喜に対する)を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸であるが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むだろう」。

 西郷は総督宮らと相談し、1・江戸城明け渡し、2・城中の者らの向島移転、3・兵器の明け渡し、4・軍艦の明け渡し、5・慶喜の備前預けの五箇条の約束を守れば、寛典のご処置があるだろうと条件を示した。鉄舟は、4までは承知したが、5だけは君臣の情として絶対に受けることはできないと拒んだ。鉄舟は言った。「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてください。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。切にお考え下さい」。一命を賭した談判の末、遂に「分かりもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもす」との言質をとった。鉄舟はその言葉に感動し、泣いて 西郷に感謝した。これが、勝・西郷会談の下地をつくった。

 西郷と鉄舟は酒を酌み交わして別れた。これを見送った西郷は、鉄舟の後姿を見て次のように賛嘆したと伝えられている。

 「金もいらぬ、名もいらぬ、命もいらぬ男だ。始末に困るが始末に困る男でなければ天下の大事ははかれない。こういう人間ではなくては国の大事は取り持てぬ。鉄舟一人を持っただけでも流石に徳川家は偉いものだ」。
 東征大総督府は、江戸総攻撃を3.15日と決定し、続々と新政府軍は江戸に入ってきた。3.11日、西郷も江戸の池上本門寺に入り、3.13日、江戸高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりに再会する。しかし、この日、西郷と勝の間に、江戸開城に関する重要な交渉事は何もなかった。ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れた。

 この時、勝は、江戸の火消し三千名の元締め新門辰五郎に西郷との会談決裂による江戸城総攻撃の際の手筈を打ち合わせていた。次のように証言されている。
 「吉原では金兵衛、新門の辰(五郎)、この辺では権二、赤坂の薬罐の八、今加藤、清水の次郎長、行徳の辺まで手を廻した。松葉屋惣吉、草刈正五郎と八百松の主人などはそれぞれ五百人率いている」。

 勝海舟は江戸城の無血開城に向けて準備を進める一方、いざ交渉が決裂すれば、ケツをまくる一策として、東海道にまで火を放つ覚悟でヤクザ者に手を回していた。勝の用意周到な根回しが窺えよう。

 3.14日、西郷と勝海舟の直談判が行われた。勝は西郷が鉄舟に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷のもとを訪れた。勝は、概略次のように提案した。1・徳川慶喜は隠退し、水戸で謹慎する。2・江戸城の明け渡しについて、徳川一門の田安家に預けられたい。3・軍艦、鉄砲の類は残らず取りまとめ、他の武器も引き渡す。但し、相応の員数を残すにつき承諾されたし。4・城内居住の家臣は城外へ引き移り、慎む。5・慶喜の暴挙を助けた者たちに対し、格別の憐憫をもって寛典に処され、一命に関わることのないようにお願いする。

 勝は、欧米列強が両軍の死闘による疲弊を画策しており、日本が植民地化される危機にあることを説いた。幕府軍の力を誇示しつつ官軍に対して和睦の必要を説いた。西郷は、勝の提案を受け入れ、「色々難しいこともあるだろうが、自分が引き受ける」と答え、細部は別として大筋で合意した。西郷は、会談の結果を参謀会議へ持ち帰り、官軍大将の有栖川宮たる仁親王に報告、了承を経て翌日に控えた総攻撃の中止を命じた。西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八(むらたしんぱち)、中村半次郎(なかむらはんじろう、後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えた。この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになった。こうして、西郷・勝の英傑会談により江戸城の無血開城が決められた。 

 勝は、著書「氷川清話」の中で、3.14日の会談のことを次のように述懐している。
 「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします』。西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」。

 西郷について同書の中で次のように評している。
 「俺は、今までに天下に恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州(隆盛)だ。(中略)西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろ俺のほうが優るほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、また密かに思ったよ」。

 4.4日、西郷は、勅使ら数十人と共に入城した。田安慶頼(よしのり)が徳川家を代表して迎え、4.11日の正式明け渡しと定め、引継ぎの儀式を執り行った。

 4.11日、江戸城が無血開城された。慶喜は、高橋泥舟の遊撃隊、山岡鉄舟の精鋭隊などに守られ水戸に出発、江戸城には薩摩、長州など7藩の兵が入城し、引渡しが執り行われた。こうして、世界的に見ても稀に見る「平和的な政権交代」による無血革命が執り行われた。当時、幕府側にも相当の軍事力が温存されていたにも関わらず、この政変劇は極めて珍しい。
 (新門辰五郎絡み) 新門辰五郎が徳川家の駿府(静岡県)移住に付き従い、最後まで佐幕派の義理を守っている。
 7月 次郎長が、浜松藩に帰る伏谷如水を子分らと送る。 旧幕臣たちが江戸城から駿府城に向かって海路で清水港に入港し、移住し始める。次郎長一家は、炊出しなどで救護する。
 (この頃の社会情勢) 8月、徳川慶喜が駿府城に入り、駿府宝台院に謹慎する。勝海舟、山岡鉄舟が駿府藩幹事役に就任する。 江戸は東京となる。駿府藩公議人杉浦梅澪が、三保神社神宮殺人事件を中央政府に報告のため上京。
 8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸が暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊した。管轄の任にあった駿府藩は、自らの懐(ふところ)の中に爆弾をかかえ込むことになり困惑した。こうして、幕府軍と新政府海軍の対峙が続いた。この頃、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中であった。駿府藩は、幕府軍を説得し箱館行きを中止、降伏させねばならない立場にあったが、為すすべのないまま1ヵ月を空費させた。

 9.18日、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7名を斬殺した。副艦長の春山弁蔵は長崎海軍伝習所の第1期生、草創期のわが国造船界にとって、かけがえのない人材であった。砲撃の間に、乗組んでいた者の大半は海に飛び込み、近くの三保貝島などに泳ぎ着いた。「復古記」には上陸した者80人を駿府藩に命じ「禁固セシム」とある。咸臨丸は拿捕され、翌朝、品川まで曳航された。

 多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮き、次第に腐乱し始めていた。官軍は放置し、漁民たちには漁の邪魔にもなっていたが、「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ており、官軍の睨みを恐れて誰も手を出せずにいた。 そのことを聞いた次郎長は「不仁の為(ため)に仁を為(な)さずんば」と啖呵(たんか)を切り、ただちに子分たちを組織、小船を出して港に浮かぶ遺体の回収作業をおこない、向島に埋葬、石碑まで建てた(壮士の墓)。この時、「人の世に賊となり敵となる悪む所、唯その生前の事のみ。もしそれ一たび死せば復た罪するに足らんや」と述べたと伝えられている。

 このことで次郎長は出頭を命じられ、糺問官に「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」と詰め寄られる。が、次郎長、微動だにせず「死ねば皆仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と啖呵を切って突っぱねた。結果的に次郎長にはお咎めなしになったが、その裏には山岡鉄舟のフォローがあったとも云われている。この事件で、次郎長の株はますます上がった。
 ここで、勝海舟―山岡鉄舟―清水次郎長の三者譚を確認しておく。山岡鉄舟と清水次郎長の親交ぶりに関心をもった勝海舟が次郎長との会見を望み、或る時、山岡鉄舟の手はずで勝海舟と清水の次郎長が相対した。勝海舟が江戸っ子弁で次郎長にこう尋ねた。「よお、次郎長さんよう。東海道一って言われる、あんたほどの親分なら、あんたのために死ねる子分はいってぇどれくらいいるんでえ」。次郎長がこう答えている。「そんなもんいやしませんや。でも子分のために死ねる親分なら、ここに一人いますぜ」。鉄舟が、この言葉にいたく感銘したとの逸話が伝えられている。
 12月、三保神社神宮太田健太郎が徳川浪士により暗殺される。市中取締役の次郎長はその遺族を救護し、治安に当たる。
 (黒駒の勝蔵絡み) この頃、黒駒の勝蔵は、赤報隊の一員として京都から東海道を東下した。このことを逸早く察知した次郎長が、「勝蔵が街道をまかり通すこと許さず」として捕えることを申し出るも、伏谷如水(官軍総督府判事)になだめられ悶着とならなかったと伝えられている。

 その後、赤報隊は解散され、勝馬(勝蔵)は徴兵七番隊に編入される。隊はその後第一勇軍隊と名前をかえ、小隊長を任命された。戊辰戦争時は官軍側について、四条隆謌に従い駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍している。

 次のような評がある。

 「当時の日本は幕末の激動の渦中にあり、幕府は博徒を取り締まりつつ、治安維持のために利用してもいた。また尊王攘夷運動の激化とテロの横行は、博徒の兵力に目を付けた討幕派と佐幕派の双方からの博徒の召募を活性化させた。幕府に追われた勝蔵は討幕派として活動することになるが、結局政府に使い捨てにされ抹殺された」。
 (小金井小次郎絡み) この年、小金井小次郎が大赦で、故郷の小金井村へ錦を飾った。甲州街道で飯盛り茶屋を営む。小次郎は以後、地元の顔役として諸方面に尽力することになる。東は新宿、南は祭礼で賑わう川崎大師まで縄張りを拡げ、,子分1200人余と云われた。

【清水次郎長の履歴その4、明治維新後の次郎長】
 1869(明治2)年、次郎長50歳の時。2月、次郎長が三河に行って留守の間、二代目お蝶が徳川浪士と思われる男(久能山の衛士の木暮半次郎)に白昼斬殺される。子分の田中啓次郎にがこれを追い、犯人を久能寺前妙音寺にて討取る。

 これには次のような事情があった。先の咸臨丸事件で、幕府軍の兵士の一部は三保神社に逃げ込んだところ、神主が追い出した。それを恨んだ旧幕臣が三保神社を焼き打ちをかけて神主を襲おうとしていた。この時、次郎長は身を挺して守った。それを恨んだ駿府の旧幕臣が或る日、次郎長を殺してしまえと次郎長の家に斬り込みに行き、二代目お蝶が殺されてしまった云々。

 この当時、駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために立ち働いている。

 山岡鉄舟が、咸臨丸事件の次郎長の話に感銘し「壮士之墓」の墓碑銘を揮亳(きもう)する。

 幕臣杉方了二(後の初代統計局長官)が次郎長と会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住土族の授産の道を探る。

 12月、廻船問屋松本屋の奥座敷で、徳川慶喜の身辺の護衛役を影で務めた江戸町火消を組頭領の新門辰五郎が次郎長と会い、徳川慶喜護衛役を依頼する。次郎長は辰五郎の意思を引き継ぎ影ながら晩年まで慶喜の護衛を果たす。徳川は、その労に対し、葵の五つつの紋が入った熨斗目(かみしもの下につける礼服)を次郎長におくっている。

 この頃、三州西尾の藩士の篠原東五勝俊の娘をめとる。これが三代目お蝶となる。この年、次郎長は新門辰五郎(しんもんたつごろう)と共に芝居小屋玉川座を設ける。

 次郎長はこの頃から「世のため人のため」をテーマに生きるようになった。博打稼業から足を洗った次郎長は、現在の富士市大渕の開墾、清水港の整備、横浜との定期航路線の就航、茶の販路の拡大、私塾による英語教育の後援、船宿「末廣(すえひろ)」の開業等々に活躍するようになる。この働きぶりが、「清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達」と詠われている。
 (黒駒の勝蔵絡み) 黒駒の勝蔵が、明治天皇の東京遷都による移転に、京都より供奉する大役を果たし「尊皇の侠客」ぶりを発揮している。
 (相良総三絡み) 2.10日、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして布告の撤回を図った。二番隊、三番隊は呼び戻しに応じたが、相楽の率いる一番隊は引き返 さず東山道へ侵入し、美濃から伊那谷へ入り、信州下諏訪を根拠 地とした。さらに、北信州佐久地方の農民が次々に加わり、年貢半減 だけではなく農民救済を唱える回天運動的な展開を示し始めた。これに対して、官軍側は、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松軍とともに偽官軍の烙印を押した。

 3.3日、岩倉具定配下の新政府軍によって、下諏訪宿に残された嚮導隊(赤報隊の後身)の者達は松本・諏訪高島藩兵に預けられ、薩摩藩兵の命令によって大木四郎(秋田)、小松三郎(土佐)、竹貫三郎(秋田)、渋谷総司(下総)、西村謹吾(伊勢)、高山建彦(上野)、金田源一郎(遠江)が宿場外れの田んぼで打ち首となり、最期に相良総三が処刑された(享年30歳)。

 妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、赤坂三分坂で総三の後を追って喉を刺し貫いて自殺した。後に総三の首級は地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られた。青山霊園立山墓地に眠る。3.6日、北信分遣隊の桜井常五郎、小林六郎、中山仲の3名は追分宿の刑場(中山道と北国街道の分岐)で斬首さらし首された。下諏訪の一角に「魁(さきがけ)塚」というものがあり、相楽総三の血染めの髪の毛を埋めている。毎年4.3日、相楽祭が催されている。

 赤報隊に加わっていた公家は処刑から外された。岐阜の侠客大親分・水野弥三郎が偽官軍事件に連座し自決する。こうして赤報隊は、新政府によって使い捨てにされた。なお、二番隊は新政府に従い、京都へ戻り、のちの徴兵七番隊に編入され、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。こうして、勤王の志を賞するとの甘言に騙されて謀殺された。
 (この頃の社会情勢) 版籍奉還。駿府藩を靜岡藩と改める。(翌年、廃藩置県)
 (黒駒の勝蔵絡み) 1870(明治3)年、次郎長51歳の時。8月、黒駒の勝蔵は御暇を貰い、黒川金山開発を目論見している。この時、帰隊の日限を守れなかったことが咎められる。
 (この頃の社会情勢)
 (黒駒の勝蔵絡み) 1871(明治4)年、次郎長52歳の時。この年の冬、黒駒の勝蔵は、博徒時代の悪事が露見したという理由で伊豆蓮台寺で温泉治療の帰途捕縛され(「明治3年の徴兵制度で解隊ときまったが、勝馬(勝蔵)は甲州の黒川金山に金堀に入山したまま、休暇願いの手続きを怠ったため『脱獄の疑いあり』として手配され、捕らえられ」とも記されている)、明治政府の手により後の山梨県甲府市に送致された。脱退したことと、国分三蔵との闘いで相手の子分三人を殺害したことを問われ、11.26日、甲府は酒折近くの山崎処刑場で斬首された。遺体は若宮の小池家の墓地に葬られた。

 かって勝蔵が所属した赤報隊同様、使い捨てにされた。宿縁のライバルの清水次郎長と黒駒勝蔵は明治維新を境に明暗を分けたことになる。山岡鉄舟を持った次郎長と持たなかった勝蔵の差であったとも云えよう。
 (この頃の社会情勢) 廃藩置県。
 1872(明治5)年、次郎長53歳の時。
 (この頃の社会情勢) 幕臣村上正局、遠州相良に油田発見。新橋横浜間に鉄道開通。福沢諭吉の「学問のすすめ」。ドイツ帝国の成立(1871)
 1874(明治7)年、次郎長55歳の時。時の静岡県知事(県令大迫貞清)のすすめもあって、二千円の助成金で、向島の囚徒を使役し、富士裾野(大渕)の開墾をはじめる。次郎長自らも鍬をふるい、昔の子分衆たちも次郎長を慕って集まり、一緒に原野を耕した云々。養子となった天田五郎が采配を振るい、76町歩を開墾することに成功する。水も出ない荒地の厳しい開墾であったが、 開墾された富士市大渕の地は、次郎町と名づけられ今も残っている。佐田清が県令大迫貞清への報告に「皇国の為にと開け駿河なる 富士の荒野のあらぬかぎりは」という歌も詠んでいる。

 半田港から清水港に進出した中埜、盛田合弁による酒の量販店「中泉現金店」開業に力を貸す。

 山岡鉄舟の義弟の石坂周造が相良油田を事業化し、次郎長が協力する。
 (大前田英五郎絡み) この年、2.26日、大前田英五郎が、大胡町向屋敷で逝去した(享年82歳)。墓は前橋市大前田と同市大胡町雷電山の2ヶ所にある。墓碑には「あらうれし行きさきしれぬ死出の旅」と刻まれている。生前は、大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」とも呼ばれて恐れられた。
 1875(明治8)年、次郎長56歳の時。次郎長は新しい時代の幕開けをいち早く察知し、港の整備が必要と、回船問屋の経営者たちを説いて回わる。こうして向島に波止場の建設を始める。清水港は巴川の河口港から外海港に変身する。
 (新門辰五郎絡み) 9.19日、新門辰五郎が浅草馬道で84歳の人生を閉じる。墓所は盛雲寺。辞世の句は、「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」。
 (この頃の社会情勢) 徳川慶喜の家臣白井音次郎、向島の土地二万坪を静岡県から六十円にて払下げを受ける。横浜港からの茶輸出盛んになる。三菱商会、上海、横浜間に初の外国航路開設。
 1876(明治9)年、次郎長57歳の時。蒸汽船の靜岡丸を清水港と横浜港に定期航路を就航させ、靜岡茶を横浜に運ぶ。次郎長は頻繁に横浜に行き、神風樓に宿泊、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける。こうして、静岡のお茶は清水港からアメリカに輸出、やがて清水港は日本一のお茶の輸出港となる。

 この頃「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い、近隣の青年を集め英語塾を開設する。次郎長英語塾で学んだ三保村川口源吉は、ある日、横浜から貨物船に乗ってハワイへ密航。船のなかで英語を役立てのちに源吉青年は、ハワイで大成功をおさめている。
 (この頃の社会情勢) ベル、電話を発明。エジソン、蓄音機を発明。
 1877(明治10)年、次郎長59歳の時。
 (この頃の社会情勢) 政府に尋問の筋これあり」なる挙兵の理由を掲げ、60年ぶりといわれる大雪の中、西郷軍の前衛隊(本隊1・2番隊)が鹿児島を出発した。以後順次大隊が鹿児島を出発した。これにより「西南の役」始まる。
 1878(明治11)年、次郎長59歳の時。波止場の建造に乗り出し、港橋が完成する。アメリカ前大統領グラント将軍が来港し、次郎長は地元の漁師達を集め投網を披露する。

 11月、 山岡鉄舟が、戊辰戦争磐城口の戦いで行方不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引き合わせる。天田五郎は、磐城(福島県いわき市)藩勘定奉行の子息だった。次郎長は助力を惜しまなかった。彼は全国にまたがる街道筋の親分に手紙を出し、情報を求めた。天田五郎は7年間、次郎長のもとに逗留した。次郎長の人間性にひかれ影響を受けた五郎は、次郎長本人や乾分たちから聞き出した武勇伝をまとめの伝記本を創ることになる。これが次郎長一代記「東海遊侠伝」で、明治17年、東京・神田の与論社から出版されることになる。
 (この頃の社会情勢) ベルリン会議。大久保利通刺殺される。
 1879(明治12)年、次郎長60歳の時。清水港に大型波止場完成。船宿「末広」経営。元米大統領グラント式典に出席。有渡山、三保新田開発。
 (この頃の社会情勢) 東京府会開会。憲法制定論議高まる。
 1880(明治13)年、次郎長61歳の時。横浜の輸出商、静岡の茶商、清水港の廻船問屋の三者の共同出資により静隆社設立する。静岡丸、三保丸が帆航する。次郎長は会社設立に尽力し、茶の港清水の基礎を築く。
 (小金井小次郎絡み) この頃のことと思われるが、小金井小次郎が、西南の役の碑を建立するに当たり余興の大相撲を三日間催し、当時人気力士の大関境川と朝日嶽らを呼んで無料で人々にこれを観させている。これにより小次郎親分の株が一気に上がったと云われている。調布や府中の治安も小次郎のにらみがきていて平穏だったとも云われている。
 (この頃の社会情勢) 集会条例。自由民権運動の激化。エジソン、炭素電球を発明(1879)
 1881(明治14)年、次郎長62歳の時。2.15日、大政こと山本政五郎が死去する(享年50歳)。次郎長の菩提寺となる梅蔭寺に葬られた。戒名は「大然宜政上座」。葬儀には高萩の万次郎、紬の文吉など次郎長と親交のあった親分たちが列席している。東京浅草の写真師、江崎礼二の門下に入り、旅の写真師となって諸国遍歴していた天田五郎も駆けつけた。

 天田五郎が再び清水港にきて次郎長の養子となり、山本五郎として入籍する。富士の裾野の開墾続く。

 萩原乙彦による「日本民権次郎長説話」の出版が企画されたが、表紙のみにて中止。幻の出版となる。
 (この頃の社会情勢) パスツール、狂犬病予防法を発見。
 (小金井小次郎絡み) 1881(明治14)年、次郎長62歳の時。8.5日、小金井小次郎が逝去した(享年63歳)。墓には山岡鉄舟の筆による追悼碑が建つ。鉄舟は数多くの人の碑銘を書いたといわれるが、小次郎との関係は新門辰五郎との縁による。墓所の北方の本町にある尼寺三光院の地は、小金井の地を気に入った鉄舟が、小次郎の口利きで入手した場所である。

 死の間際の様子が次のように伝えられている。浅田飴の創始者で幕府の奥医師の法眼浅田宗伯が診に来て、寿命はあと二、三日と診断した。その二日後、子分衆がつめかけていると、小次郎親分は着物を着替えると言い出し、仕立て下ろしの着物を着た。「身内の者は揃っているか」と言うと、襖を開け皆の顔を見渡し、「おらあもういくからな。お前らも体を大切に立派な男になれ。永えこと世話になった。お礼を言うぜ」と言ってその場へ座り大往生を遂げたと伝えられている。
 (会津の小鉄絡み) 1883(明治16)年、次郎長64歳の時。会津の小鉄が、賭博により逮捕、裁判で禁錮10ケ月の刑を宣告され入獄。翌年、出獄する。この時、7千500名の人たちが祝いに駆けつけたと云われている。
 1884(明治17)年、次郎長65歳の時。2月、政府による突然の「博徒の一斉刈込み」により、靜岡井之宮監獄に収監される。懲役7年、罰金400円の刑を受ける。次郎長収監は自由民権運動犯の湊省太郎をかくまったとの説もある。伏谷如水によって帳消しにされた罪であるが、不服は一切口にすること無く刑に服したとという。

 次郎長の罪を何とか軽減しようと周囲は躍起になる。高齢の服役となる次郎長に、山岡鉄舟もあれこれ裏から手をまわす傍ら、次郎長の改心資料として、天田五郎が書き温めていた「東海遊侠伝」の出版を急がせることになる。

 天田五郎著による「東海遊侠伝・一名次郎長物語」が東京神田の与論社から出版される。この本の巻末には、1ページの広告がのせられていた。広告には行方不明の父平太夫、母なみ、妹のぶの名があげられ、もし3人の居所をお知らせくだされば「金百円進呈」と懸賞金をつけている。これが次郎長伝記の元祖となる。講談師の三代目神田伯山が、松廼家太琉から「清水の次郎長」のネタを買って講談を完成する。広沢虎造が浪曲で当てて次郎長を民衆のヒーローにのしあげることになる。
 (この頃の社会情勢) 1月、自由民権運の過激派湊省太郎、資金づくりのため強盗事件を起こす。加波山事件。秩父事件。
 1885(明治18)年、次郎長66歳の時。11月、台風で、次郎長のいた監獄が倒壊して大怪我を負う。周囲の努力の甲斐もあり、次郎長は特赦放免となる。時の県令が薩摩出身の奈良原繁にかわり幕臣出身の関口隆吉が初の静岡県知事として就任したことも次郎長の出所の大きな要因とも云われている。
 (会津の小鉄絡み) 3.19日、会津の小鉄が下京区白河の病院で歿す(享年42歳)。21日に本葬、大阪北区消防頭取の小林佐兵衛をはじめ1万3000余人の会葬者が集まる。墓は洛東の金戒光明寺。
 (この頃の社会情勢) 内閣制度の実施。 旧幕臣関口隆吉、靜岡県知事(初代)に就任。坪内逍遥「小説神髄」、尾崎紅葉ら活躍。
 1886(明治19)年、次郎長67歳の時。晴れて出所を果たした次郎長は、それまでの巴川の住居を引き払い、開拓した新港の向島波止場の白井音次郎(徳川慶喜家臣)の所有地(清水受新田422の3)に、船宿「末廣」を開業する。これに、山岡鉄舟が引出物の扇子千八本に揮亳をしている。「やくそくのせんすせんはち本」と書かれた鉄舟の筆跡が遺されている。

 船宿の経営は3代目おちょうが切り盛りし、次郎長は「波止場のおじいちゃん」と呼ばれて近所の子供たちを集めて相撲を取らせるのを楽しみとした。船宿末廣は、清水港を訪れる人達の迎賓館(ゲストルーム)となった。当時、横浜と清水を結ぶ海上1日半の航路には、静隆社の静岡丸や第二福沢丸などの蒸気船が就航しており、船客たちはこの船宿を江尻や静岡などへの中継点としていた。

 蒸気船の多くの船客の出入りに混じり海軍士官候補生たちが練習艦に乗って清水港に入ると、次郎長の武勇談を聞くため末廣を訪れ、「末廣」は、海軍の宿として利用され大いに繁盛した。若い海兵たちと話をすることを次郎長は楽しみにして、話に熱がはいると赤くなった上半身をさらけ出し身ぶり手ぶりで自身の武勇伝や戦う時の極意などを語り、良き「港の親爺」だったと小笠原長生は回想している。小笠原の著書「大豪次郎長」は、若い時の武勇談を熱っぽく語る次郎長を活写している。

 広瀬武夫が次郎長を尊敬し、士官学校の同級生で後に中将になった小笠原長生に紹介し、小笠原は後に次郎長伝「大豪清水次郎長」を著している。広瀬はロシア大使館の武官の時、旅順港閉鎖の際に行方不明になった杉野兵士曹長を捜し歩き、ボートで脱出するときに爆撃を受けて戦死する。これにより少佐から中佐、日露戦争の軍神にして日本最初の軍神となっている。最後の将軍・徳川慶喜公も度々訪れている。好々爺として子どもたちと遊ぶ日々を送る。 
 1887(明治20)年、次郎長68歳の時。4.17日、興津清見寺において咸臨丸殉難者記念碑の除幕式が行われる。碑文は 榎本武揚が「食人之食者死人之事」と書く。夜、「末廣」にて関係者の慰労会がおこなわれる。
 (この頃の社会情勢) 自転車や娘義太夫が大流行。 徳川慶喜自転車を購入し、静岡から清水へ遠乗り。安保条例。二葉亭四迷「浮雲」。
 1888(明治21).7.19日、次郎長69歳の時。山岡鉄舟が逝去する。この日の逸話は次の通り。鉄舟は、「腹痛や 苦しき中に明け烏(からす)」とうたいながら朝湯につかり、上がると白装束に着替え、左手に数珠、右手に団扇をもってドッカと座った。やがて、勝海舟が見舞いにくると、しばらく世間話しをしていたが、そのうちに鉄舟は「只今、涅槃に入る」と云った。海舟が「左様か、ではお心安く御成仏を」と云って辞去すると、そのままいつの間にか息を引き取っていた。座は崩れず、形は正しく、それを見た門弟たちは「活仏(いきぼとけ)だ、活仏だ」と騒いだと伝えられている。次郎長は旅姿で東京谷中の全生庵の葬儀に参列している。
 1889(明治22)年、次郎長70歳の時。静岡中学生が新村出の相原安次郎とともに次郎長を訪ねる。
 (この頃の社会情勢) 東海道線開通。関口隆吉、鉄道事故のため死去。帝国憲法の発布。パリ万博、エッフェル塔の建設。
 1890(明治23)年、次郎長71歳の時。海軍少佐の小笠原長生が軍艦天城に乗り組み来港、「末廣」を訪ねる。
 (この頃の社会情勢) 第一回帝国議会。教育勅語の発布。
 1892(明治25)年、次郎長73歳の時。明治になってから静岡人は、駿府生まれで江戸初期にシャムに渡り活躍しついに六昆王(リゴール国王)に任じられたとされる郷土の生んだ英雄・山田長政顕彰の記念碑もしくは銅像を建立しようとしていた。

 山田長政は、1590(天正18)年頃、駿府馬場町の紺屋、津ノ国屋に生まれたという。1607(慶長12)年、家康が大御所として駿府城に在城し駿府が日本の政治、経済の中心となり活気にあふれた頃に少年時代を過ごした。長じて、時の貿易奨励策で海外へ進出する商人たちに刺激され、1610(慶長15)年、駿府の商人、滝佐左ヱ門、太田次郎右ヱ門らの船にのり、シャム(タイ)に渡った。そのころシャムのアユタヤの日本人町には7千人の邦人が住んでいた。長政は、この日本人町の頭領となり、シャムのソンタム王に仕え象にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い、次第に重きをなしついに六昆王(リゴール国王)に任ぜられた。その後、ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれ、1630(寛永7)年、隣国との争いのとき足に受けた傷に毒を塗られて死亡したと云われる。

 山田長政顕彰碑建立はなかなか実現に至らなかった。次郎長がこれを聞き、山田長政の銅像建立を引き受ける。当目の岩吉を連れて上京し、時の外務大臣・榎本武揚に会い、山田長政の銅像建立の趣旨を説明し援助を仰いだ。榎本は即座に了承して、多数の扇に揮毫し金一封を寄贈した。

 次郎長は、山田長政顕彰碑建立のため、静岡の旧城内本丸跡地で義捐大相撲の興行を行おうとして、東京相撲の高砂、雷の両取締と掛け合う。交渉は成立して、1892年(明治25年)7月25日に大相撲の興行することになった。 「山田長政銅像建立義捐大相撲」と銘打って行われた興行は盛況だったが、東京から大相撲の一行を呼んだための旅費、宿泊料などの経費が意外にかさみ、この興行だけでは銅像を建てる資金には足りなかった。次郎長は、この大相撲の興行収入を基金として、榎本の寄付金、扇の売上げ、一般からの寄付金等で山田長政の銅像を建立しようとしたが、翌年に死んでしまい、次郎長時代には日の目を見なかった。
 1893(明治26)年、次郎長74歳の時。6.12日、次郎長、風邪がもとで三代目・お蝶さんに看取られながら死去する。次郎長が亡くなる前の病床に、慶喜が自分の主治医を差し向けたとの証言もある。

 梅陰寺にて葬儀。参列者は3000人を超えた。法名は碩量軒雄山義海居士。次郎長の墓石に「侠客次郎長之墓」と揮毫したのは榎本武揚である。

 辞世の歌として、「六でなき四五とも今はあきはてて 先だつさいに逢ふぞ嬉(うれ)しき」を遺している。「六」と「四五」は、さいころの目であり、「六でなき」は碌でなき、「四五と」は仕事の意味を持たせてある。「さい」は、さいころの賽(さい)と妻(さい)をかけている。

 次郎長は大政小政たちと一緒に梅蔭寺に眠ってる。境内には、次郎長愛用の品々を展示する記念館もある。市内には「次郎長通り商店街」があって、年に一度の「次郎長祭り」に、次郎長一家28人衆がこの商店街を練り歩く。但し、2003(平成15).4.1日、清水市は静岡市と合併し、新静岡市に吸収された。こうして清水市としての由緒ある名称が消えている。
 (この頃の社会情勢) エジソン、映画を発明。翌年(1894)「日清戦争」起こる。

 元県議会議長の村本喜代作は駿州政財界の御意見番である一方、山雨楼主人などの名で表裏の歴史を判りやすく筆にした。子母澤寛も取材の折に地方史を村本より教授されたとされる。昭和55年(1980年)、静岡の日赤病院に入院中の村本は作家の藤田五郎と面談した際に「安東文吉(駿河の大親分)は弟の辰五郎と浪人小泉が参謀にいなかったら大親分になれなかっただろう。次郎長は山岡鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろう」という言葉を残している。












(私論.私見)