補足、西南の役考 |
更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).4.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
士族の反乱は西南の役で総決算する。総大将西郷は何と云っても維新の元勲にして参議の筆頭、軍部の最高権威で近衛都督を兼ねた信望随一の陸軍大将であった。これに従う薩摩軍は、島津の代から伝統の武勇に至厳の訓練を重ねた精鋭であった。その西郷が止むに止まれぬ戦いへ誘われる事になった。 西南戦争の結末は、新政府をネオ・シオニズム系中央集権的近代国家へと向かわせ、徴兵制度を確立して国軍を建設せしめた。そういう意味で、西南の役は時代の転機となった。以降、ネオ・シオニズムが糸を引く帝国主義国家へと大きく踏み出していくことになる。 「西南の役年表」につき「西南戦争」その他が詳しくこれを参照する。これらを踏まえて、西郷及び西郷派の亡びの美学を確認しておく事にする。 2008.2.15日 れんだいこ拝 |
【大久保が西郷探査の密偵を送る】 |
このように、反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷はその動きに呼応することもなく、微動だにしなかった。が、政府の大久保利通らは、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きを最も気にした。そのため、大久保内務卿は、大警視・川路利良(かわじとしよし)、警視庁警部・中原尚雄、園田長照、川上親ら22名を墓参名目で鹿児島入りさせた。密偵の目的は私学校生徒らと西郷の離間を図れということであったが、今日でもこの密偵団には西郷暗殺の密名が厳命されていたと言われている。現に西郷が、この後挙兵の理由として、この密偵について政府に尋問があるということを掲げていることからしても、当時そう信じられていたことは間違いない。 |
1877(明治10)年の動き |
正月、鹿児島第一分署の一等巡査・有馬静蔵の元へ「差出人・評論新聞の田中直哉、宛名・中原尚雄警部」の怪文書が届けられた。手紙の内容は、火薬庫に火を放って騒乱を生み出し、その大騒ぎに乗じて西郷、桐野、篠原以下40余名を刺殺するというものであった。私学校党は、逆スパイを送り込み内偵を開始した。
1.4日、地租改正詔書が発布され、税率を3%から2.5%に減免する。
1.30日、政府、朝鮮と釜山港居留地借入約書の調印をする。
【西南の役前哨戦】 |
私学校党は、大久保内務卿が送り込んだ警視庁の密偵22名を逮捕し、鹿児島県警が厳しい取調べに入った。中原尚雄の供述書仮案が入手され、吟味が始まろうとしていた。 この時、鹿児島県庁に連絡の無いまま政府が派遣した三菱の汽船「赤龍丸」が錦江湾に入り、鹿児島にあった陸軍省の火薬庫から、武器・弾薬を大阪に移送し始めた。これが西南戦争勃発のきっかけとなる。私学校生徒は、大久保ら政府の卑怯なやり方に憤激し、「政府は先手を打ってきた。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは、けしからん」と批判を強めた。 1.31日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、鹿児島市草牟田(そうむた)の陸軍火薬庫を襲撃する。その騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となる。騒ぎは三日間にわたって続いた。 |
【西南の役勃発】 |
西郷はその頃、大隈半島の小根占(こねじめ)へ狩猟に出掛けていた。西郷は私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの報に接した時、一言、「もう、これまでごわしたな」(かくなる上は止むを得ず)と漏らしたと伝えられている。この西郷の言葉には、挙兵には時期尚早という考えを持っていたことが分かる。しかし、西郷としては、まだ前途ある若者らを捕まえ、政府に差し出すという非情なことは出来なかった。これもまた天命である。西郷はそう考え、「わいの体をおはんら
に預け申そう」と周囲の者に言い、薩摩の若者達に全てを委ねた。そしてここに、西郷軍が挙兵することになる。 1877(明治10).2.17日、「今般政府に尋問の筋これあり」、西郷隆盛はこのような挙兵の理由を掲げ、兵を出発させた。大将が元陸軍大将の西郷隆盛、副将が陸軍少将の桐野利明、陸軍少将の篠原国幹、私学校兵1万3千、 協力諸藩兵1万7千という布陣だった。 2.14日、西郷軍前衛隊が鹿児島を出発。2.15日、西郷隆盛らの本隊(1・2番隊)が鹿児島を出発。「政府に尋問の廉これあり」として進撃を開始した。2.16日、西郷軍3・4番隊が出発。2.18日、 西郷軍5番隊と砲兵隊が出発、となる。西郷軍は約1万3千。 |
【大久保と木戸の対応】 |
木戸はそのさなかに病死。大久保は、囲碁を打っている最中に西郷の決起の報告を聞いたが、顔色一つ変えずに打ち続け、終わってから「西郷が起った」と静かに言ったという。「困ったことになりました」と、困惑した胸中を知人に向かって漏らしたともいう。 |
【西郷軍が熊本城包囲、政府軍の対応】 |
西南戦争において、西郷軍は最も拙劣な熊本城包囲策を取る。2.18日、西郷軍は、熊本鎮台、熊本市民に立ち退き令を発する。2.19日、征討の詔が発せられ、政府は、有栖川宮熾仁親王を征討総督として3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を九州へ派兵。2.19日、熊本鎮台のある熊本城で火災があり、天守閣などが炎上、城下も延焼。2.19日、日向飫肥士族小倉処平ら西郷軍に加わるために出発。2.20日、政府軍第1・第2旅団が神戸港を博多へ向け出港。2.21日、軍議で全軍が熊本城を強襲することを決定。同日、熊本県士族池辺吉十郎らが西郷軍に呼応して挙兵。2.22日、西郷軍が熊本城を包囲。夜半小倉第14連隊と西郷軍の一部が衝突。政府軍第1・2旅団博多に到着。2.23日、東京・大坂・名古屋3鎮台に令して第2後備軍を召集。西郷軍は一部が北上、小倉第14連隊は敗北して後退する。2.23日、愛媛県士族武田豊城ら、徒党陰謀の理由で逮捕される。 西郷軍は結局、熊本城を陥落させることが出来ず、田原坂(たばるざか)決戦に向かう。 |
【戦闘開始】 |
2.25日、政府軍第1・8・14連隊が高瀬に進出。政府軍第3旅団博多に到着。2.26日、政府軍、福岡に本営を置く。2.27日、高瀬での戦闘で西郷軍高瀬から後退する。2.28日、阿蘇地方で大規模な一揆が発生する。2月、政府が、三菱汽船に軍事輸送船8隻購入の資金を貸与。3.1日、政府軍別働第1旅団が博多に到着。 3.3日、政府軍が田原坂方面の西郷軍へ攻撃を開始。3.8日、勅使・柳原前光、艦船9隻で鹿児島に到着し、島津忠義・島津珍彦と会見し自重を求める。3.10日、柳原前光と島津久光が会合する。一方鹿児島県令大山綱良は逮捕される。3.11日、政府軍第2旅団、田原坂総攻撃を行うも、失敗に終わる。3.13、政府軍に警視庁抜刀隊が編成され前線に投入される。3.17日、大山綱良の官位を剥奪し、東京への護送を決定。3.19日、政府別働軍、八代に上陸。3.20日、政府軍が田原坂を制圧。西郷軍は熊本まで後退。 |
【西郷軍退却】 |
3.21日、岩村通俊を鹿児島県令に任命。3.28日、福岡県士族越智彦四郎ら福岡城を襲撃するも城兵に敗北。3.31日、増田宗太郎ら大分県で挙兵し、中津支庁などを襲撃。3月、福地桜痴、西南戦争に従軍。4.1日、増田ら蜂起軍、大分県庁を襲撃するも失敗に終わる。4.1日、政府別働軍、宇土へ進出。 4.4日、政府、壮兵1万人を募集。4.4日、八代で政府軍と西郷軍が衝突。4.7、政府軍新設別働第4旅団が宇土に上陸。4.10日、政府別働軍、総攻撃を12日と定める。 4.13日、西郷軍、熊本から退却を始める。別働第2旅団山川部隊が熊本城下に到達する。4.14日、黒田清隆の率いる政府軍第1・第2旅団が、熊本城に入る。4.15日、西郷軍の全軍が退却を始める。 |
【西郷軍転戦】 |
4.23日、太政大臣三条実美、島津久光の休戦案を却下する旨、島津珍彦らに伝え帰郷させる。4.27日、 川村純義らの率いる政府軍が海路鹿児島に入る。4.28日、西郷隆盛ら西郷軍幹部が人吉に到着。 4月、西郷軍、戦費調達のため、西郷札を発行。5.1日、佐野常民と大給恒、博愛社を設立し、西南戦争の負傷者を敵味方の区別なく治療。5.20日、豊後竹田で西郷軍と政府軍とが交戦。 5.21日、桐野利秋、宮崎支庁長に支援を要請。5.22日、政府、第十五銀行に西南戦争戦費を借り入れる。5.26日、木戸孝允死去。5.29日 西郷軍、豊後竹田から敗走。5.29日、政府、第2号召募を行い、召募巡査を以て新選旅団を編成。 5.29日、西郷隆盛、人吉を去り日向へ向かう。5.31日、西郷隆盛、宮崎に入る。6.1日、山口県士族町田梅之進、挙兵計画が発覚して県官巡査と戦い破れる。6.1日、政府軍、人吉への攻撃を開始、人吉城下は戦火で多く焼失する。6.4日、政府、本年の補充兵、免役壮丁を徴募することを令する。同日、政府軍、人吉を占領。 |
【立志社の片岡健吉らが国会開設建白書を提出】 |
6.9日、立志社の片岡健吉ら、京都の天皇行在所に国会開設建白書を提出。6.12日、政府、立志社の建白書を却下する。 |
【西郷軍苦戦】 |
6.22日、国産最初の軍艦清輝が竣工する。7.24日、政府軍、都城を占領。7.28日、政府軍、清武を占領。7.29日 西郷隆盛、宮崎を去り北上する。8.2日、西郷隆盛ら、都農を去り延岡へ向かう。8.5日、開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促した。 8.8日 林有造、武器購入を計画して逮捕される。8.11日、西郷隆盛、延岡を密かに離れる。8.13日、政府軍、延岡を包囲。8.14日、政府軍延岡を総攻撃。8.15日 薩軍は攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して和田越の戦闘が行われる。 8.16日、西郷は「我軍の窮迫此処に至る。この際諸隊にして降らんとする者は降り、死せんとする者は死し」と布告、自らは陸軍大将の制服をはじめ重要書類を焼却、負傷した長男菊次郎には従者を付けて降伏するように指示した。このいわば「解散令」によって、熊本隊の600人を筆頭に九州各地から馳せ参じた諸隊は相次いで官軍に降伏、一部は西郷に決別を告げて自刃した。 8.17日、薩軍主力は3隊に分かれ、可愛岳越えをして政府軍の囲みから脱出し、官軍本営に突入した。第1旅団(野津鎮雄少将)、第2旅団(三好重臣少将)合同の出張本営は不意を衝かれて大混乱に陥り、その付近にあった食糧、弾薬多数は薩軍の手中に落ちた。8.21日、西郷軍が三田井に至り、そこから鹿児島へ向けて南下を始める。8.23日、別働第1旅団を延岡から熊本へ向けて出発させる。8.27日、第2旅団を延岡から細島を経て海路軍艦6隻で鹿児島へ向けて出発させる。8.28日、西郷軍、小林に至る。8.28日、第2旅団鹿児島に到着。新撰旅団と合流して鹿児島市内の防衛にはいる。8.29日、西郷軍、横川に至る。8.30日、溝辺で政府軍と西郷軍が交戦する。8.31日、西郷軍、蒲生に入る。 西郷軍は、大分、宮崎など各地で政府軍と対決するが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と火力を誇る政府軍に次第に追い詰められていく。西郷は日向・宮崎の長井村において、軍を解散させ、西郷ら薩摩軍幹部らは一路鹿児島に引き返す。 |
【西郷軍敗北、西郷自刃】 |
9.1日、西郷軍兵約370名が急襲して鹿児島城山に入る。鹿児島に戻った西郷軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げた。9.4日、西郷軍の一部が政府軍の駐屯する市内の米倉を襲撃する。9.5日、山県有朋、宮崎に入る。9.6日、山県有朋、都城に入る。官軍主力が鹿児島に集結、薩軍を城山を十重二十重に包囲した。薩軍は総計500名と役夫が200名であった。官軍は包囲網の中で各旅団から選抜の1500名が攻撃するという方法を採った。西郷とは縁戚にあたる攻城砲隊司令官・大山巌少将は全砲兵を挙げてこの突撃を支援することになった。攻撃開始は9.24日とされた。 9.8日、山県有朋、鹿児島に入る。9.22日、河野主一郎と山野田一輔、西郷隆盛の助命を求めるため、政府軍の陣地へ赴き収監される。9.23日、河野・山野田と川村純義、山県有朋が面会する。 同日、 西郷は諸将を集め決別の宴を開いた。 9.24日 払暁とともに号砲が鳴り響き、政府軍の総攻撃が始まる。西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部らは、本営の洞窟前に整列し、「前へ進んで死のう」と決意を固め、前線の土塁に 向けて歩き始めた。小倉荘九郎自刃、桂四郎はじめ多くの諸将が銃弾に倒れた。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交うなか、西郷らは城山を降りて行った。西郷に付き従った 人々 は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れた。そして、とうとう西郷にも流れ弾が当たり、西郷は肩と右太ももを貫かれた。 西郷は自分の傍らにいた別府晋介に、「晋どん、もうここいらでよか・・・」と言う。別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ~」と大きく叫んで、西郷の首を落とす。西郷隆盛、49歳の生涯の幕切れであった。 西郷の死を見届けた桐野、村田、別府、池上、辺見らの諸将も後を追い、枕を並べて討ち死にした。こうして九州の山野に戦うこと7ヶ月、明治10.9.24、薩摩軍は城山において全滅し、西南戦争は終結した。9.30日、前鹿児島県令大山綱良が処刑される。 |
【板垣の日和見主義的対応】 |
西郷の死により「征韓論」も消滅した。西南戦争勃発に、板垣の土佐立志社のメンバーも動揺する。西郷軍に同調して決起しようとする武闘派も出てきた。これに対し、板垣も当初は賛成したが、結局、最後の最後で腰がくだけ、中止を説いた。理由としては、国会開設について全国的な盛り上がりを見せている運動をより重視したことにあった。西南の役後、長州閥の伊藤博文や井上薫らは勢力均衡のため、板垣の政府復帰を打診する。板垣は、土佐立志社のメンバーの反対を無視して参議として復帰する。自由民権運動の盛り上がりは、この板垣の政府復帰でかき消されることとなった。 |
【西南の役に対する裏読み史観】 | |||
西南戦争の裏読みとして、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
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太田龍氏の「時事寸評」に興味深い観点が記されている。2004(平成16).5.9日付けの「外国スパイ網に浸透されて居た旧日本陸海軍」(樋口恒晴論文)で、次のように寸評している。
太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
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「明治維新に忍び寄るロスチャイルド(イルミナティ中枢)の影」説に対するれんだいこ見解はここでは保留するとして、西郷派の「西南の役」に対する史的意義に対する「もう一つの側面」を観ようとするこの態度には共感する。れんだいこは、西郷派こそ明治維新の永続革命派であり、それが潰えていった過程の検証をせねばならない、と考えている。 2004.5.12日 れんだいこ拝 |
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俗流マルクス主義は、「西南戦争を不平氏族の最後の反乱であり、特権を奪われた従来の士族の最後の反革命の企て」と捉えることで犯罪的な役割を果たしている。これは、単なるネオ・シオニスト史観の請け売りであり、こうした史観は学べば学ぶほど有害で却ってバカになる。まさに俗流マルクス主義の馬脚を表わしていると見立てるべきであろう。俗流マルクス主義が如何に危険な真の左派運動に対する敵対理論であるかに早く気づくべきだ。 西南戦争にいたる相次ぐ士族の反乱を実証的に検証すれば、幕末維新に命を賭した連中による「裏切られつつある革命」に対する抗議以外の何物でもなかろう。かく捉えるべきであろう。では、どう歪められたのか。れんだいこは、伊藤ー井上ラインによりネオ・シオニスト意向反映政治へと歪められた、と見る。それは、アジアの盟主化政策であり、日本帝国主義化の道であった。他方、不平氏族達は、アジアの植民地化からの解放を射程に入れていたのではなかろうか。この対立が、大東亜戦争にも反映しており、戦後の再建にも関与しており、今も続いていると観る。 2006.10.3日 れんだいこ拝 |
【西郷暗殺計画裁判】 |
西南の役後、参加者は国事犯として裁判にかけられた。これは日本初の戦争裁判となった。裁判所長は、河野敏鎌(こうのとがま)、検事長は大検事・岸良兼養(きしらかねやす)。この裁判で、「西郷暗殺計画」も審査され、中原たちも供述させられた。しかし、戦争前の鹿児島警察での供述書の供述を否定して概要「鹿児島警察での供述は拷問によるもので、西郷暗殺計画なるものはそもそも存在しない」と居直った。21名の警視庁関係者の鹿児島帰郷についても、「誰の命令によるものでなく、国許の不穏を憂いて、自主的に願い出て許されたもの」と主張した。これに対し、裁判長は、全員に無罪を言い渡した。(小林久三「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」参照) |
(私論.私見)