征韓論の真実考



 (最新見直し2013.04.04日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 明治初年、「征韓論」騒動が発生する。ここで征韓論を採り上げるのは、歴史家の通説が征韓論争を正確に伝えておらず、為に西郷の声望を落とし込めていることに気づいたからである。この歪曲は、ネオシオニズム系御用学のみならずマルクス主義系も然りで、こういうところにも両者が通底していることが分かるという意味で、これを掣肘するため考察することにする。

 グーグル検索で出てきた「ウィキペディア征韓論」、「明治六年政変」、「西郷の遣韓論」、「征韓論と西南戦争」、「西南戦争概説」、「晴耕雨読の西郷の征韓論」等を参照した。「れんだいこの明治維新考」の明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)のうち「征韓論」騒動に関係する件を検証することにする。

 2008.2.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評369 れんだいこ 2008/02/14
 【「征韓論」考】

 西郷隆盛の「南州翁遺訓41ケ条」を学んだついでに征韓論を検証することにした。通説で云われているところの西郷征韓論、大久保時期尚早論という構図は甚だ怪しい。歪曲捏造説に近いという思いを深めた。それにしても、歴史家と云うものは何でかように詐術を弄するのだろう。今までのれんだいこなら分からなかったが、今は透けて見えて来る。

 明治維新以来の特に西南の役で西郷派が粛清されて以降の明治維新から昭和へ至る過程はいわばネオシオニズムに篭絡されており、彼らの意向に基く富国強兵に一途に勤しみ、日本帝国主義の道へひた走ったそれでしかない。その挙句大東亜戦争で召し取られるのだが、それは案外出来レースだったのかも知れない。

 もとより歴史は一筋縄では解けない。西郷派は敗れたが、西郷亡き後も根強く支持基盤を持っており、両者は地下で常に暗闘し大東亜戦争まで辿り着いている面もあり、これを文章で書き表すのは至難の業である。もっとも単純に云えば、西郷派はかの時、日本−韓国−清国の三者同盟によるアジア主義を夢想していた節がある。これを許さなかったのがネオシオニズムであり、国際金融資本の首魁ロスチャイルド帝国主義であった。彼らは世界中に紛争を引き起こすことを良しとしており、そこに商機と世界支配計画上の姦計を見出している。

 この抗争は今日も続いており、ネオシオニズム派の御用聞き政治家はアジアが互いに紛争するように排外主義的愛国主義と軍事拡張路線を鼓吹しつつ跳梁跋扈している。これに反し人民大衆は、下手に洗脳されない限りに於いては常にアジアは無論世界の平和と協調を良しとしている。当然イスラムの平和に通じる。

 政治家が普通に政治をすればこの声を聞くはずのところ、ネオシオニズム派の雇われだからしてそういう政治はしない。常に危機を煽り、実際に紛争を引き起こしてはテロリスト退治という名目のチンケなジハードに向かい、これに唱和する。連中は、戸締り防衛論からいつの間にか国際貢献防衛論、国際信義防衛論へと定向進化させ、近頃では自衛隊の常備派兵を画策しつつある。

 日本経済の景気は、連中が居座る限り決して良くならない。現在の不況は意図的に操作されている。景気浮揚の芽が出てくると水をかけ出鼻をくじく。政策を見よ。社会基盤整備に予算を使うことを執拗に妨害し、何ともいえないあるいはどうでもよいようなところに注ぎ込む。その癖ミサイル防衛網だとか戦術核兵器の共同研究だとか基地移転費だとかには途方もない予算を計上する。景気が良くなるわけがない。良くなるとしてもハゲタカファンド系辺り止まりだろう。

 もとへ。れんだいこは次のことに気づいた。この連中が、意図的に西郷のアジア主義を隠蔽している。征韓論争を意図的に捻じ曲げている。れんだいこが習ってきたマルクス主義史学もなべて同じ視点から捉えているからして通底していることが判明する。れんだいこは、この種の教本をいくら読んでも却って馬鹿になることを請合う。丁度著作権然りで、規制すればするほど我々の生活空間が狭まる。知的所有権という名の下で、版元業者規制ならまだしも、エンドユーザーの首を絞めて恍惚し合っている。この構図と良く似ている。

 という訳で、郷の征韓論、否正確には特使派遣論を確認しておく。「征韓論の真実考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/saigoikunco/seikanronco.htm)へ記した。

 窺うべきは、西郷派のネオシオニズム世界席巻政策つまり植民地政策に対抗する秘策としてのアジアは闘ってはならぬ、同盟して事に当たるべし、互いを戦争させるのは欧米列強の姦計である、これに乗せられてはならぬとする今に通ずる指南であろう。ここを問わない西郷論、遺訓論、征韓論争論、西南の役論は単なる趣味のものでしかなかろう。

 思えば、戦後自民党の日韓交渉、田中角栄の日中国交回復は、アジア主義に繋がる快挙であったことになる。日韓交渉はともかくも、ネオシオニズムの米中国交回復交渉を制して執り行った日中国交回復は連中の逆鱗に触れたことは間違いなかろう。その角栄の末路は衆知の通りである。その角栄をもっとも悪し様に罵詈した者も衆知の通りである。

 しかし、ネオシオニズムの虚構の論理は虚構ゆえに破産する。なぜなら、寿命はたがだかせいぜい百年であり、人は悪事にばかり勤しんではおれぬからである。世界諸国民の協和への道筋こそ、寿命ある身の者が向かうのに楽しく生き甲斐があり永遠の生命である。続々と列なる勢いは誰にも止められやしない。これは本能だから。ネオシオニズムが世界に張り巡らした姦計が敗れる時、学問の姿も大いに面貌を変えよう。これまで悪し様に云われてきた者たちが復権し、名宰相と云われて来た者がエージェントでしかなかったというブザマさが明るみにされよう。そういう意味で、歴史に名を残す責任は案外重い。その日はそんなに遠くない。れんだいこはそう考える。

 2008.2.14日 れんだいこ拝



1873(明治6)年の動き

【維新政府の対李氏朝鮮との国交交渉】
 黒船来航以降、日本は、喧々諤々の政争を経て幕末維新から明治維新に向かう。時代変化の対応に機敏で、朝鮮に比べて逸早い近代化に向かいつつあった。日本と朝鮮のこの対応差が政争化していくことになる。

 一衣帯水の隣国である李氏(りし)朝鮮はこの頃、国王の父の興宣大院君が政を摂しており、儒教の復興と攘夷を国是にする鎖国政策をとり意気大いにあがっていた。江戸幕府が通商条約を結んだことに対して欧米列強諸国の圧迫に屈したとして批判し、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで警戒心を抱き鎖国政策を取り続けていた。親交のあった徳川幕府を武力で打倒した明治維新政府を歓迎せず、その新政府の開国化の様子に不満を募らせていた。こうした事情から日朝関係は国交断絶していた。

 1867(明治元)年、新政府は、徳川時代より行き来のあった李氏朝鮮に対して王政復古を通告し、江戸幕府下同様に国交を復活させようと企て、江戸時代を通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めた。

 しかし、朝鮮政府は、明治政府の国書の中に江戸時代の形式と異なる「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て受け取りを拒否した。朝鮮政府としては、「皇上」とか「奉勅」という言葉は歴史的に見て朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使うことが許された言葉であり、対等友好国に過ぎない日本が使用し始めたことに不遜を感じた。そういう訳で朝鮮政府は明治政府の国交復活を拒否した。これが世に云う「征韓論」の火付けとなる。

 明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けたが朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあかなかった。そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣した。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず要領を得ないまま帰国せざるを得なくなった。

 1870(明治3).4月頃、目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と建白遊説してまわった。佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは長州藩出身の木戸孝允で、木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と認めている。木戸はこのようにして征韓論に熱心になったが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、その征韓論ばかりに構っているわけにはいかなかった。廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうことになった。この頃、西郷は郷里の鹿児島におり新政府には出仕していなかった。同9月、外務権少丞の吉岡弘毅を釜山に派遣している。

 1872(明治5).1月、対馬旧藩主を外務大丞に任命する。 同8.15日、実情調査の為、池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣する。8.27日、北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣する。

 同9月、外務大丞の花房義質を派遣した。朝鮮は、花房が軍艦春日に乗ってきたことから、日本を西欧勢同様に衛正斥邪の対象として食糧の供給を停止した。大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げた。朝鮮は頑としてこれに応じることがなかった。

【「征韓論騒動」の発生】
 1873(明治6)年、朝鮮は排日の風をますます強めた。佐田らが征韓論を唱え始め、政府の中心人物になおも説いてまわった。征韓論は次第に熱を持ってきた。同5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、官憲の先導により当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされた。

 同6月、森山が帰国する。森山は、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告した。報告を受けた外務省は、この頃再度新政府に出仕していた西郷を含めた太政官閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請した。

 外務少輔上野景範が内閣に議案として提出した。この当時、留守政府の首脳は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らであった。6.12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなった。

 外務少輔(しょうゆう)の上野景範は、「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」と説明した。この上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開いた。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議した。つまり、「居留民保護」を名目に軍隊を派遣し、交渉するべしとした。

【「西郷の特使派遣論」】
 この間、陸軍大将であり参議である西郷隆盛は閣議で沈黙を保っていた。板垣の好戦的発言に同調の気分が高まり始めたのを見て初めて口を開いた。板垣提案に次のように述べている。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そのため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」。

 西郷はかく板垣の朝鮮即時出兵策に反対した。西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言う。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振り次のように発言した。
「いいえ兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」。

 つまり、西郷は出兵よりも話し合うのが筋であると主張した。 それは、西郷が「日・朝・清」の三国連合により欧米列強の力に対抗せんとしていたことによる。これを仮に「西郷のアジア同盟論」と命名することにする。

 西郷のアジア同盟論に板垣以下他の参議らも賛成した。が一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信だけが異議を唱え、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い」と主張した。西郷は次のように批判した。
「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定できないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い」

 こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることはできなかった。その後、西郷は朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張する。西郷は自らが釜山(プサン)に赴き、アジア同盟論をぶち上げ、この間のこじれた朝鮮問題を解決しようとした。後藤象二郎、江藤新平、板垣退助、副島種臣、桐野利秋らがこれに賛成した。

 しかし、他のメンバーは西郷の申し出に驚愕した。西郷は政府の首班であり重鎮である。その西郷の身に危険が及べば国家の一大事となると思ったか、他の参議らは西郷の主張に難色を示した。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したが閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となった。その後の数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。8.16日、太政大臣三条実美が西郷派遣に同意する。

 8.17日、明治政府は、閣議で西郷隆盛を全権大使使節として派遣することを閣議決定する。しかし、翌日、この案を上奏された明治天皇は、「外遊組帰国まで現状維持を専一として、新規の国家に関わる重要案件は決定しないという取り決めに従い岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するように」と述べ、西郷派遣案を却下した。
(私論.私見) いわゆる西郷の征韓論とは。通説の間違いについて
 この一連経過から伺うのに、西郷は元々「征韓論」を主張していない。むしろ逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かる。西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命される。西郷はその準備を始めた。

 通説は、「1873(明治6)年、大久保、木戸らが遣欧使節に出た留守に征韓論が起こり、朝鮮出兵が閣議決定される」としているが、大いに問題ありであろう。

【岩倉全権団が帰国】
 歴史は摩訶不思議で、丁度この後、洋行していた木戸孝允と大久保利通が帰国する。9.17日、李氏朝鮮との対応を巡って閣議が喧々諤々の最中に岩倉洋行団が帰国した。岩倉全権団の帰国は、それまで留守を預かってきた西郷内閣との確執を生んだ。遣外使節団の条約改正は不成功に終わったが、彼らは、外遊によって得た欧米諸国の国情を基に、その後の国政に関する指導権を奪おうとし始めた。

 「西郷南洲遺訓」は次のように記している。
 「予はかってある人と議論せし折、西洋は野蛮じゃと云いしに、否、文明ぞと争う。否野蛮じゃと畳みかけしに、何と、それ程申すにゃと。そこで文明ならば未開の国々に対して慈愛を本とし、懇々説諭して開明を導くべきに、左に非ず、未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍なことを致し、己れを利するは野蛮じゃと申せば、相手はやっと納得せしたり」。

 西郷は上述の目線を有していた。清水*八郎「破約の世界史」は次のように記している。
 「白人たちが鉄砲と十字架を担いで世界中を侵略し、荒らし廻っている野蛮な行為を知っていた。日本もウカウカすると彼らの餌食になる危険を直感していたのである」。

 西欧崇拝一辺倒の欧化主義者として帰国した、西郷の目線を持たない岩倉洋行団との対立は必至であろう。

 9.28日夜、岩倉が大久保を訪ねて参議就任を懇請した。大久保は即答を避けた。10.10日、三条と岩倉に参議就 任承諾を伝えた。大久保は新参議として、征韓派の先鋒である外務卿の副島種臣も加えるように岩倉に頼んだ。征韓派にも閣議 で十分発言させ、堂々と戦おう、との覚悟だった。

【「明治6年の政変」、征韓論を廻り政府が分裂する】
 10.14−15日、「西郷の朝鮮派遣」を廻って閣議が開かれ、席上、岩倉具視と大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、大木喬任、黒田清隆らが強硬に反対意見を述べ始めた。概要次のような論拠であった。
 「西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。世界の情勢を考えれば、何よりもまず内治 を整えて国力の充実をはかり、然る後に外征に及ぶのが順 序であります。これは三歳の童子にも明らかな道理であり ます。新政府の基礎はまだ固まらず、地租改正や徴兵令を めぐる一揆が頻発している。財政も貿易も赤字で、戦争となれ ば国内産業は衰え、艦船や武器弾薬の輸入は増えて、国家財政 は破綻する。英国には5百万両もの外債があるが、これが返済 できなくなると、インドの二の舞になって独立を失いかねない」。
(私論.私見) 大久保の論拠について
 通説は、大久保の論拠に対して、「日本は朝鮮問題に関わるよりも内政の充実が先決である」として「内治優先論」を唱えたとしてこれを評価している。しかし、以上の経緯を見れば明らかにオカシイ。大久保は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを前提として論を展開しているが、この時の西郷の真意は平和的使節として派遣されることを所望しており、アジア同盟主義を唱えて「江戸城無血開城」の先例以来の大交渉の任に当たろうとしていたのが史実であろう。西郷の遣韓が実現して、大院君と二人で腹を割って話していたら日韓中連合による欧米諸国への対抗が実現していた可能性は否定できまい。

 大久保派は、この後時日を置かず1974.2月、台湾への派兵を決め、4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し、5.22日、西郷以下3千名の日本軍が台湾に上陸し、6.3日までに原住民地区をほぼ制圧している。1876(明治9).2.26日、朝修好条規(江華条約)を締結しているが、その手法は、アメリカのペリー提督が日本に開国を迫ったやり方そのものを踏襲し、朝鮮政府に対し高圧的な交渉を展開している。

 これらを思えば、通説は余りにも後の政権に都合の良いように事大主義的粉飾により歴史偽造していることになる。

 2008.2.14日 れんだいこ拝

 西郷は、大久保の曲解を許さず咎めた。こうして、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられることになった。大久保は、西郷の意見が取り入れるならば辞任するとまで言い出し、国論は揉(も)めに揉めた。岩倉が三条の脇腹をついて休息を宣言させた。午後の閣議もついに結論なしに終わった。

 翌15日、西郷は言うべき 事は言い尽くしたとして出席を断った。会議では、参議の江藤新平が、大使派遣をとりや めても兵隊がおさまらず、結局出兵になるのだから、大使を出 した方が懸命だと論じた。閣議は紛糾し、採決の結果同数になった。この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が「やむなく西郷の見込み通りに委す」と述べ即時派遣に賛成した。結局、西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定された。反対派の参議大久保、木戸、大隈、大木喬任は三条に辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝えた。

【「明治6年の政変」、三条太政官急変死、岩倉が後継し宮中工作】
 後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみとなった。三条実美と岩倉具視が天皇に上奏することになった。ところが、10.17日、太政大臣の三条実美が倒れ人事不省に陥った(急死したともあり、毒殺の可能性が疑われている)。

 太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、大久保、大隈、伊藤、黒田らは宮中工作を開始、宮内卿徳大寺実則の助力を得て事前に明治天皇に延期論を上奏、明治天皇の意思を拘束した。岩倉のもとに、西郷、 板垣、副島、江藤の四参議が、桐野利秋や別府晋介など血相を 変えた軍人を連れて押しかけた。四人の参議は、大使派遣の閣議決定を奏上して、勅許を得るように迫ったが、岩倉はて承知しなかった。「もう良い。わしはこれで御免こうむる」 と西郷は出ていった。岩倉は見送ろうともしない。完全な決裂となった。

 10.23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、天皇の裁可が下り遣韓中止が決定された。西郷派遣は無期延期の幻となった。岩倉派の策略で閣議決定である西郷の朝鮮派遣が一大ドンデン返しで潰された。

【「明治6年の政変」、西郷派が一斉下野する】
 「西郷を朝鮮使節として派遣する派」が一斉に下野する。10.24日、参議・西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞任した。西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった。翌10.25日、江藤新平(佐賀藩士)、副島種臣、後藤象二郎(土佐藩士)、板垣退助(土佐藩士)の4参議が、桐野利秋、篠原国幹、林有造、淵辺群平、別府晋介、河野主一郎、辺見十郎太ら西郷派の軍人・官僚600余名余が辞職した。その後も村田新八・池上四郎ら同調者が相次いだ。

 この時、前原一誠は、「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」という内容の書簡を太政大臣三条実美に送り、明治政府の前途を憂えている。その後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山県有朋と井上馨が公職に復帰を果たすことになる。

 その西郷の下へ不平士族、民権論者が合従連衡し始め不穏な醸成を生んでいくことになる。(通説は、「征韓論派の下野」と看做している) こうして、岩倉大政大臣、大久保利通、大熊重信などを参議とする内閣が成立した。これを「明治6年の政変」と云う。

 この結果、西郷と大久保の仲は決定的に分裂した。大久保は、内務卿を兼ねて政府の中枢、中心的存在となった。殖産興業をすすめるとともに、自由民権運動、士族叛乱、百姓一揆等のうち続く混乱の中で専制的な支配を一層強めた。韓国政府と友好関係を結び、和平を唱えた西郷らは、事実とは全く別の強硬な征韓論者に仕立て上げられて、歴史に汚名を残すことになる。
(私論.私見) 「西郷の征韓論」について
 以上の検証から云えることは、世間に流布されている「西郷の征韓論」話が史実と違うことである。「明治六年の政変」は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であったとみなされているが、史実に反することになる。西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していない。当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしている。

 内政を優先させるのが先決であると主張したとされている大久保がその後に為したことは、明治7年の台湾武力征伐であり、翌8年には朝鮮との江華島交戦である。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせてもいる。

 通説に従うとその後の事件と整合しなくなる。つまり、「外征派の西郷対内治派の大久保」という構図はまやかしであることになる。西郷を征韓論の首魁と決め付ける歴史観は早急に訂正される必要があろう。実際には、アジア友邦主義による大同団結を図ろうとする西郷派と、アジアに紛争を持ち込み日本の盟主化を図ろうとするネオシオニスト派の走狗との対立が抜き差しならないところまでせっぱ詰まったというのが史実であろう。

 2005.7.21日、2008.2.14日再編集 れんだいこ拝












(私論.私見)