西郷隆盛履歴考



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).7.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで西郷の履歴を確認しておく。と思ったが、西郷と竜馬の場合、その履歴が時代と見事に溶け込んでいるので履歴だけを抽出するよりも、刻々の動きを「幕末維新考」、「明治維新考」の中で記すことにした。その方が、より良く分かると思えるからである。

 2008.2.2日 れんだいこ拝


 「合気揚げの基礎知識」が次のように記している。興味深い言及なので採り上げておく。
 「西郷隆盛が薩摩藩の藩命により、大島に流された時、彼は『菊池源吾』と名を変えている。つまり薩摩西郷家も、また菊池一族の末裔であり、西郷隆盛は先祖の言い伝えとして伝えられた、旧姓菊池氏を苗字としたのである。また菊池家と親族関係にあった西郷氏(及び西の姓)は勿論のこと、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れをくんでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つことから、菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している」。

 「関袈裟夫2018.2.4日」。
 「獄中有感」(西郷隆盛)他 ~「生気歌」(文天祥)に和す
江戸幕末期、多くの志士達が国事に奔走する中、幽囚の身となり獄中で朝廷・藩主・国体、同志・家族を思う心情・想いを詩に詠んだ。出獄するも新たな国事奔走・尽力する中で死んでいった。負ければ賊軍西郷隆盛は、2度目の遠島流罪、幽囚の身となり沖永良部島で入獄。前稿の文天祥「生気歌」に和し、国事に奔走・尽力し倒れた壮士・人士の想いを寄せて、入獄中作「獄中有感」他2詩を起稿。
① 「獄中有感」(西郷隆盛) ②「囚中作」(高杉晋作)③「獄中作」(橋本左内)
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①「獄中有感」  (西郷隆盛)
朝蒙恩遇夕焚坑      朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙り
              夕に焚坑せらる
人生浮沈似晦明      人生の浮沈晦明(かいめい)に似たり
縦不回光葵向日      たとい光を回らさざるも葵(あおい)は日に向う
若無開運意推誠      もし運開くなきも意は誠を推す
洛陽知己皆為鬼      洛陽の知己 皆鬼となり
南嶼俘囚独竊生      南嶼の俘囚独り生を竊
(ぬす)む
生死何疑天付与      生死何ぞ疑わん天の付与なるを
願留魂魄護皇城      願くば魂魄(こんぱく)を留めて皇城を護らん
大意 
朝に厚遇を受けても、夕べにひどい仕打ちを受けることもある。人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。ヒマワリは太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。橋本佐内、佐久間象山、僧月照等京都の同志達は皆、国難に殉じている。南の島の囚人となった私ひとり生き恥をさらしている。人間の生死は天から与えられたものであること疑いない。
願うことは、精魂を込めて京朝廷を守護することだけである。
補記
「獄中有感」は、西郷隆盛が島津久光の怒りに触れ、2度目の遠島流罪の地、沖永良部島で獄中生活をしていた日の想いを
託した。
洛陽の知己とは、西郷隆盛を側近として重用し、南洲が敬愛していた島津斉彬の急死に殉じ、共に錦江湾入水自殺(南洲は蘇生、失敗)、死んだ「僧月照」(清水寺僧)等が想起される。 
西郷隆盛直筆の書
屏風に仕立てられ沖永良部島、鹿児島県和泊町の西郷南洲記念館に展示されている。
② 「囚中作」(高杉晋作)
君不見死為忠鬼菅相公  君見ずや死して忠鬼と為る菅相公(かんしょうこう)を
霊魂尚在天拝峰     霊魂尚在り天拝峰(てんぱいのみね)
又不見懐石投流楚屈平  又見ずや石を懐いて流れに投ず楚(そ)の屈平(くっぺい)
至今人悲泪羅江     今に至るまで人は悲しむ泪羅江(べきらのこう)
自古讒閒害忠節     古(いにしえ)より讒閒(ざんかん)忠節を害す
忠臣思君不懐躬     忠臣君を思うて躬(み)を懐(おも)わず
我亦貶謫幽囚士     我亦(われもまた)貶謫(へんたく)幽囚の士
憶起二公涙沾胸     二公を憶起して涙胸を沾(うるお)す
休恨空為讒閒死     恨むを休めよ空しく讒閒(ざんかん)の為に死するを
自有後世議論公     自ら後世議論の公なる有らん
「囚中作」は、脱藩の罪により、1864年3~6月の間、吉田松陰も入獄されたことある「野山獄」に投ぜられた際の作。格調
の高い慷慨の詩。
大意
君は知っているだろう。死んでもなお忠誠を貫いて神となった菅原道眞公、その魂が今なお天拝山にあるということを。
また知っているだろ。国を憂いて石を抱いて流れに身を沈めた楚の屈原が、今に至るまで人々がその泪羅の淵の入水自殺を悲しんでいることを。
昔から告げ口を言って人を貶めることが忠節の士を不幸にしてきたし、忠義深い者は国や主君のことは思っても、自分自身のことは思わないものである。
私もまた二人と同じように罪人として流され、囚われて閉じ込められる身の上であるので、二人のことを思い起こすと涙が胸を濡らすのである。
讒言によって空しく死んでいくことを恨まないようにして欲しい。自然の成り行きとして、後世に自分の忠誠心は、きっと公な議論となるであろう。
高杉晋作:1839年~1867年。長州藩士。幕末の尊皇攘夷運動の志士。病歿。
③ 「獄中作」(橋本左内)
二十六年如夢過  二十六年夢の如く過ぎ
顧思平昔感滋多  顧みて平昔(へいせき)を思えば感滋々多し
天祥大節嘗心折  天祥(てんしょう)の大節嘗心折(しんせつ)す
土室猶吟正気歌  土室猶お吟ず正気の歌
大意
節操守り続け獄死した、中国・南宋の英雄「天文祥」に心酔しているが、今捕らえられ獄中の身になり、文天祥が獄中で詠んだ「正気歌」を吟じ、彼の心境を偲ぶ
橋本佐内 1834~1859年越前藩士。緒方洪庵に学び藩医に、藩校「明道館」監心得に登用。開国派思想の持主。藩公春嶽側近として将軍世継ぎ政争に一橋慶喜擁立に動いた結果、小塚原で斬首に処せられた。(安政の大獄)。26歳。

 ※西郷の経歴年表
 1827(文政10)年12.7日、後の西郷隆盛は西郷吉兵衛の長男として鹿児島城下で生まれた。幼名は小吉。母は椎原権衛門の娘・マサ。西郷家は藩内で御小姓組に属していた。弟は西郷従道で有能な人物としてよく知られている。
 薩摩藩は他藩と比較して際だって武士の割合が多く26%を占めていた。薩摩は戦国の雄・島津家(初代は鎌倉時代の島津忠久)以来の武勇を誇り、郷中教育という独自の方針で藩士子弟を鍛え、切磋琢磨しあう厳しい教育の中、薩摩藩士が育っていた。幼い西郷は、大久保利通らと同じ郷中で学び、また大山巌ら後進も鍛えた。
 10歳頃、西郷は喧嘩で腕を負傷。大柄な体を活かした相撲は強かったもののケガを機に武芸で頭角を現す道を断念した。
 18歳の時、西郷は郡方書役助という役職に就く。
 この頃、薩摩では後に日本全体を揺るがす問題が起っていた。イギリス、フランスの軍艦が琉球に来航し通商を迫り始めた。日本の中でも特に海に面して拓けた国の薩摩の人々は黒船来航よりも早く「このままでは日本が植民地と化してしまう」と危機感をおぼえていた。
 このころの薩摩藩で藩を揺るがす騒動「お由羅騒動」(高崎崩れ)が起こっていた。この時の藩主・島津斉興には跡継ぎを期待される二人の息子がいた。 海外情勢に通じた世子・島津斉彬と、側室お由羅の方との間に生まれた島津久光。

 お由羅が我が子・久光を次の藩主とすべく斉彬を呪詛したという噂が広がる。タイミング悪く斉彬の子である虎寿丸が亡くなったため呪詛は事実であったのかと斉彬派が激怒する。斉彬派はお由羅を亡き者にしようとしたが事前に計画が露見し凡そ50名が処断された。

 西郷の父・吉兵衛もまた、この騒動に巻き込まれている。彼は斉彬派で、切腹を命じられた
赤山靭負の切腹に立ち会う。父が持ち帰った靭負の形見である血染めの肩衣を抱きしめ西郷は号泣している。
 この後、斉彬派は幕府を通じて工作を行い、斉興の隠居と斉彬の藩主就任を獲得する。斉彬は、祖父・重豪に似ていて西洋流の技術導入に熱心で、薩摩藩を幕末の躍進へと導いた功がある。但し、技術導入には莫大な費用が必要で、重豪の代に財政が傾く負の面があった。薩摩藩は琉球を介入した清との密貿易、「黒糖地獄」とも呼ばれたほど厳しい奄美大島からの黒糖専売による年貢取り立てといった手段を用いてやっと黒字に転換できた苦難があった。藩主が斉彬になったらまた赤字に転落するのではないかと懸念し久光を推す者がいた。斉興すらそう考えていた。
 嘉永5年(1852年)、西郷は最初の妻を娶とった。相手は西郷家よりも家格の高いとされる伊集院家の娘・伊集院須賀。間もなく西郷家では祖父・父さらには母を失う。西郷は家督を継ぎ、さらに騒々しい日々が続く。
 翌1853年、浦賀にペリー艦隊が来航する。黒船以前から海外の武力に危機感を抱いていた斉彬は、幕府から江戸要請され、西郷は江戸詰御庭方として同行、江戸に留まった。西郷が江戸で仰せつかった「御庭方」とは幕府の「御庭番」にならったもので、これが大きな転機となった。御庭方の役目は主の命を受けて諸藩の動向を探るというものだった。西郷が本格的に政治活動を開始するのはこの役目を拝領した時から。藤田東湖橋本左内らの思想的影響を受けるようになり、また西郷に接した諸藩も彼の才能に一目置くようになった。須賀と離縁。
 西郷は徐々に斉彬の右腕として存在感を増してゆく。御庭方は、身分こそ低いものの、藩主にとっては手足のようなもので距離が近い。斉彬は、西郷の血気盛んな性格こそ、この混迷を極める政局ではむしろ活躍できると考えた。西郷も主君の信頼に応えるべく張り切る。
 安政3年(1856年)、島津家から篤姫(天璋院)が将軍・徳川家定の正室として嫁ぐ。縁談は将軍家の方から強く望まれたものであり、斉彬は将軍の岳父として存在感を増した。
 安政4年(1857年)、孝明天皇の強い反対にも関わらず、江戸幕府はアメリカ公使ハリスの条件をのんで「下田条約」、さらには「日米修好通商条約」を締結した。
 発言力を強める斉彬の力は将軍継嗣問題にも及ぶ。篤姫が嫁いだ家定は、子が生まれぬまま病状が悪化し将軍継嗣問題が熾烈な争いとなる。薩摩側は徳川斉昭の子である一橋家の慶喜を推し、西郷も朝廷を通して工作を行う。が、井伊家の反発等があり交渉は難航。井伊家は、慶喜よりも将軍家に血統の近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推した。 結果、一橋派はこの争いに敗北し、将軍は徳川家茂に決まる。
 同年7月、将軍継嗣問題に負けた斉彬は赤痢で急死する。 西郷にとってこの死はあまりにショックであり、一時は殉死を考えた。斉彬の嫡子は、このとき2歳。次の薩摩藩主は、久光の子・茂久(のちの忠徳)となり、祖父の斉興が後見となる。その斉興もすぐに亡くなり、実権は、西郷にとっては久光が握った。 更にこの将軍継嗣問題は薩摩だけでなく、政局全体にも影響を及ぼす。
 大老・井伊直弼は、一橋派が密かに幕府と水戸藩にあてて勅書を下していた(戊午の密勅)ことを問題とし、容赦のない弾圧を始めた。 世に言う「安政の大獄」の始まり。吉田松陰が連座した。倒幕派弾圧と一橋派を抑え込むための政治闘争だった。
 井伊直弼による弾圧の手は、将軍継嗣問題における朝廷工作の過程で西郷と親しくしていた京都清水寺成就院の僧・月照にも迫った。そこで京都の近衛家から保護を依頼され、薩摩まで連れてゆくことにした。しかし、薩摩藩では月照の取扱を持て余していた。 斉彬が生きていた頃ならいざ知らず、幕府に睨まれている人物を匿っていても百害あって一利なし。 そこで西郷に「日向送り」を命じる。離れの地で匿っておけということではなかった。 「藩境まで来たところで斬り捨てよ」という実質的には死刑。西郷はこの決定に背くことはできない。しかし、ここで旧知の月照を殺しては保護を依頼されておきながらそれを破ることにもなる。何よりも月照という男を殺すなどできはしない。彼に残された道は……。せめて一人で死なせはしない――。 かくして西郷は日向へ向かう途中、月照と共に鹿児島湾へ身を投げる。月照と西郷、水死。藩にはそう届けられた。しかし、月照は水死し、西郷は一命を取り留めていた。
 藩命に背き、死んだことになった西郷は菊池源吾と名を変え、奄美大島の龍郷(たつごう)に潜伏する。その間、懇意の橋本左内や、将軍継嗣問題に関わった薩摩藩士らが処罰されたことを知っている。藩からの僅かな扶持米で生きながらえた。薩摩藩一の俊英政治家であった西郷からすれば、鬱屈の日々となった。声をあげながら木刀を振り回し、大木相手に相撲を取っていた西郷は近所の人から「大和のフリムン(狂人)」と呼ばれ気味悪がられていた。さらにはストレスから過食気味となった。この頃から急激に体格も大きくなってゆく。それまでは背が高くほっそりとしていたのが、上野公園の銅像のようなガッチリ型になった。
 雨期に到着した西郷は悪天候に閉口し、風習の異なる現地の人々を「けとう」と呼び、なかなかなじめなかった。しばらくすると暮らしに馴染み住民に学問を教えるようになった。周囲が「島妻」(アンゴ)を持たせようと考え始める。現代で言うところの「現地妻」であり、薩摩に連れ帰ることはできないが、生まれた子は薩摩で教育を受けることができる。島妻には扶持米もあるため、なりたがる者、娘を志願させる家もあった。 かくして愛加那(あいかな)という名の島妻を娶り、二子を生ませた。奄美の暮らしに慣れ始めた頃、故郷の薩摩藩と日本の政局は絶えず大きく動いていた。いよいよ西郷の存在が必要不可欠だと判断した藩は、文久元年(1861年)11月、彼を奄美から呼び戻す。
 このころ藩の実権を握っていたのは、お由羅の子・久光。久光は幕府に公武合体を迫つた。安政7年(1860年)、西郷が奄美にいた頃、井伊直弼が「桜田門外の変」で凶刃に斃れ、幕府の権威は揺らいでいる最中。この状況ならば政治力を発揮できるはずだと久光は考え、出府上京準備の一環として西郷を呼び出した。しかし、西郷にとっての久光は、実質的に権力を握っているとはいえ藩主ではなく藩主の父に過ぎない無位無冠。斉彬とは格が違っていた。西郷は久光の政論は素人の域を出ないものと見做し、「御前(久光)は地ゴロ(田舎者)で事情に暗いから無理でしょう」。久光は西郷に激怒した。
 上京を諦めきれない久光は予定より遅れながら京都に入り、これを見た攘夷志士たちは「今こそ挙兵の好機!」と沸き立つ。彼らは京都・大坂に集結。周囲はにわかに騒然となった。西郷はこのとき下関待機組。が、こうした情勢を見て急ぎ上京を試みた。一方、この命令違反に激怒した久光は西郷の捕縛命令を出し薩摩へ送り返す。ちなみに京都の寺田屋に終結した攘夷派らが説得側と乱闘になった「寺田屋事件」もこの時勃発している。薩摩へ送り返された西郷は再び流刑となり徳之島から沖永良部島に流された。
 文久2年(1862年)、西郷らを処罰した久光は、政局での発言力を順調に増していた。そんな折、衝撃的な事件が発生する。 薩摩藩の行列が武蔵国生麦村を通過中、乗馬したイギリス人4人が横切り、英国人の非礼に激怒した薩摩藩士がこの一行を殺傷する生麦事件を起こした。
 文久3年(1863年)、犯人の処刑および賠償金支払いを求めたイギリス艦隊が薩摩に襲来し、薩英戦争が勃発した。この戦いで双方は手痛い損害を出し、薩摩側も攘夷の無謀さを痛感させられた。和平交渉がまとまると、イギリス側も態度を軟化させ、薩摩側に接近すめ。薩摩藩も態度をあらため、こののち薩摩藩遣英使節団として五代友厚らを派遣。攘夷とは異なる新たなる道を模索することになる。
 久光不在となった京都では、政局も新たな変動の時を迎えていた。穏健派を抑え込んだ長州藩が、過激な攘夷を唱えるようになった。彼ら長州藩尊攘激派は京都に志士を送り込み、公家を抱き込むと朝廷を操るようになった。そして暗殺と天誅が横行。京都守護職・会津藩と、その配下の新選組が治安維持のために武力で抑え込むという血の嵐が吹き荒れていた。不在の薩摩に代わり、攘夷派公家を買収して台頭した長州藩の影響力が増し、下関砲台からアメリカ船を砲撃する等して攘夷へのやる気をアピールする。久光、徳川慶喜らの有力諸侯が続々と上洛し土佐藩も朝廷工作を画策した。
 同時に、荒れた治安を回復させるため、京都守護職として松平容保率いる会津藩士が上洛する。容保は政治的な謀略を駆使するタイプではなかった。その誠実さが孝明天皇に気に入られ寵愛を受けるようになり、諸藩の嫉妬や反発を集める。
 長州藩の台頭で政治力に翳りが生じ、焦り始めた久光は会津藩と手を組み、邪魔な長州藩を排除しようとする。文久3年(1863年)8月18日。 孝明天皇の許可を得て御所の警備についた会津・薩摩藩の兵士たちは、長州藩と懇意の公家・三条実美らの参内を差し止める。そしてその後の朝議では、長州藩の京都からの退去が決定された。やっとの思いで長州を追い払い、久光としては発言力回復を期待した。しかし、この計画が脆くも崩れる。一橋家慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の三名が主導する「一会桑政権」が、政局を握ることになった。長州藩を追い払ったと思ったら、今度は彼らに政治力を制限されてしまう。 慶喜らの政治力に敗北した久光は何としても失地回復をしたいところ。そうなると頼りになるのが西郷。
 元治元年(1864年)、沖永良部島の西郷のもとに赦免が届いた。 再び上洛を決意した西郷。久光との対面を周囲は固唾を呑んで見守る。が、西郷はかつての西郷ではなく、尊大な態度をすっかり改めていた。調整役として、小松清廉小松帯刀)が二人の間に入ったのも改善の要因だった。
 一方、追放以来、長州藩尊攘激派は捲土重来を期していた。薩摩藩と会津藩から京都を追われたと怒り心頭の彼らは「薩賊会奸」と履物に書き付け、憤怒をこめて踏みつけて歩いたとされている。そしてついに長州藩士らが復権を狙い京都御所に進撃した。
 元治元年(1864年)、「禁門の変」が起こる。当初は静観していた薩摩藩が援軍に駆けつけると長州藩は敗走する。西郷もこの戦いに参加している。
 「禁門の変」のあと、長州に対しては、征討の勅命が下された。参謀に命じられた西郷は「いざ長州を叩き潰すべし!」と意気込んでいたが、そこで幕臣の勝海舟と出会う。 西郷は勝から思想的に大きな影響を受けた。「もう幕府には、政権を担う力なんざねぇ。ここで長州を叩き潰してもいいことは何一つねえんだ。そんなことやるよか、諸侯が力を合わせて外国に立ち向かうべきだろ」 。そう言われた西郷は考えを180度改める。すっかり勝に惚れ込んだ。
 長州征討はいくつかの条件のもとに和睦となった。その中身は「三家老・四参謀の切腹」と「藩主と世子直筆謝罪状の提出」、さらには「山口城の破却」と、八月十八日の政変で追われた三条実美ら「五卿の引き渡し」でした。 処分が寛大過ぎないか? そんな疑問の声があがる中、征長軍は解散した。
 混乱に追い込まれた長州藩では、その後、奇兵隊で知られる高杉晋作らが穏健な「俗論派」を倒し、主導権を握る。 過激な彼らが主流となれば再び火を噴きかねない。
 こうした動きを見た幕府は、再び長州征討を企画。一度は矛を収めた薩摩藩は、幕府の決定に不服を覚えた。この頃、西郷とは旧知の仲でもある土佐藩士の坂本龍馬らが薩摩と長州の提携に乗り出す。「薩長同盟」が結ばれ、後に統幕路線へ舵が切られた。
※なお西郷は、禁門の変1864年と薩長同盟1866年の間の1865年に3人目となる妻・岩山糸西郷糸子)と結婚している。
 久光は、西郷らの目指す倒幕路線に警戒感を持っていた。武力行使を辞さない西郷と、強硬路線に反発する久光。ここでも二人は対決する。
 長州と手を結んだ薩摩は、旧敵イギリスと急接近した。イギリスは薩摩藩の留学生を受け入れ、薩摩側も入港したイギリス艦を歓待した。 実力行使で手痛い失敗を受けた薩摩藩は政策を転換し彼らの援助を受けていた。一方の幕府はフランス寄り。欧州での英仏対立の構造が、日本を舞台にしても展開されていた。裏で長州と同盟を結んでいる薩摩は幕府の長州征討に対し一向に重い腰を上げなかった。
 そうこうするうちに将軍の徳川家茂、一会桑政権の後ろ盾であった孝明天皇が立て続けに亡くなる。
 家茂のあとに将軍となった慶喜の政治手腕は鋭く、薩摩が提案した長州処分の「寛典案」を取り下げる等、薩摩の面目を潰すこともしばしばあった。西郷は 「ならば倒幕だ! 慶喜を将軍職から引きずり下ろし、朝廷で開かれる諸侯会議での政治を目指す!」決断を下す。 グレート・リセット路線へ舵を切り、政治主導権を握った。タイミングのよいことに久光が病のため京都から薩摩へ帰国した。ブレーキ役が不在となったことで薩摩藩は武力による倒幕を目指して突き進む。
 土佐藩は、こうした薩摩の強硬路線に歯止めをかけようとしてソフトランディング路線での政権交替を目指していた。後藤象二郎が、大政奉還、王政復古、議会政治を条件とした政権交代案を提唱。薩摩藩と土佐藩の間に薩土盟約が締結される。武力征圧をしたい薩摩と、穏当な方法で政権交代を目指す土佐では方向性が違ったが同衾した。
 慶応3年(1867年)10月、武力討伐を目指す薩摩藩と長州藩が倒幕の密勅を取り付けた。一方で土佐藩は大政奉還を求める建白書を提出する。傑物と言われ、かつて島津斉彬も将軍に就けようとした徳川慶喜は土佐藩のソフトランディング案に乗り、大政奉還を認め将軍の辞表を出す。慶喜は、将軍の座を明け渡すことで延命を図った。 慶喜の決断を支持する「あっさりと将軍の座を捨てるなんてたいしたもんだ。悔い改めて返上したからにはもう罪はない。新政権にも是非迎えるべきだ」の声も生まれた。国内からも、また日本に滞在する外国勢力からも「慶喜に厳しい処分を下してはならない」という声があがっていた。それは武力討伐を目指す西郷にとっては受け入れられなかった。西郷は、長州に倒幕への決意を語る。 薩摩藩内にも武力行使反対派がいた。 久光が反対派の筆頭だった。家臣に過ぎない西郷、大久保らが反対意見を押し通すのは無理筋ではあったが強行した。
 12月、薩摩・長州ら倒幕勢力は調停工作を行い「倒幕の密勅」を出させた。 さらには王政復古のクーデターを起こし、慶喜政治参画の野望を挫いて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の帰国を決定する。
  王政復古によって制定された三職(総裁・議定・参与)が集った三職会議、いわゆる「小御所会議」にて、土佐の山内容堂は慶喜の招致を求めるが、薩摩側は断固として反対。慶喜に辞官納地を要求する。会議は紛糾し、ついには山内容堂の主張が通り、慶喜が議定に就任して領地も返上しないことが決まりかけた。
 西郷は、薩摩でも藩内一致で倒幕を目指してはいなかったが武力の道を選んだ。西郷の密命を帯びた井牟田尚平・益満休之助ら薩摩藩浪士隊が、将軍不在で治安が悪化していた江戸および関東一円で暴れ回った。強盗、放火、殺人、暴行。要人暗殺ではなく、警備の手薄な一般市民というソフトターゲットを狙った無差別殺傷。浪士隊の勢いは留まることを知らず、ついには天璋院がいる江戸城二の丸までも含めて江戸城は三度も放火されるに至る。江戸の人々は彼らを「薩摩御用盗」と呼び、その悪行に震え上がった。警護担当の庄内藩・新徴組は当然ながら激怒。薩摩藩邸で下手人の引き渡しを求めるうちに、藩邸は焼き討ちされる(薩摩藩邸の焼討事件)。この知らせが大坂にいる幕府軍に届くと風向きが変わった。 幕府に藩邸を焼き討ちされた薩摩藩は怒り、武力行使もやむを得ないと考えを変更、西郷の望んでいた武力衝突の避けられない事態となる。
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見で新政府軍と幕府軍が激突! 数の上では幕府軍が勝るため、敗北することもありえると西郷は覚悟を固めていた。 しかし装備面で差がつき、勝利した新政府軍は「錦の御旗」を掲げて進軍。 慶喜は江戸を目指し上方から撤退。朝敵の汚名を避けるため自ら謹慎し恭順の意を示す。静寛院宮(和宮)や天璋院も慶喜の助命を嘆願した。そこに現れたのが勝海舟。勝に面会を求められた西郷は、これを受け入れた。勝は慶喜助命のための会談に全力で臨む一方、決裂した場合に備え戦争の準備も整えていた。が、その心配は杞憂に終わり「江戸城無血開城」となった。
 歴史において燦然と輝く偉業のように思えるこの決断は新政府から不満も出ていた。まず西郷は、幕臣が軍艦や兵器を持って逃げ出すことを看過してしまう。 新政府からすれば、西郷が勝相手に譲歩したように思えた。西郷は、この無血開城を機に、徳川宗家の寛大な処分を望むようになる。あれほど強硬路線を目指していたはずが突然の180度転換。西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり激しい抵抗を示していた。9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟する。が、西郷の意を受けた黒田清隆は寛大な処分を下した。減封は16万石から4万石の12万石。改易された会津藩とは対照的。西郷はすっかり変貌していた。庄内藩士はこのことから西郷の徳を慕い、明治22年(1889年)には西郷の言動をまとめた『西郷南洲遺勲』を出版するほど。しかし、この西郷の変貌は新政府にとっては受け入れがたいものだった。戦いを終えた西郷を待っていたのは、新政府首脳部からの冷たい目線。久光や彼の強引さに苦々しい思いを抱いていた薩摩藩士からの敵意でした。
 望み通り幕府を倒し、戊辰戦争を起こし、勝利した西郷は、もはや斉彬の遺志は果たしたとして鹿児島に戻ると温泉で療養する。新政府についていけない部分があったことによる。西郷は隠居するつもりだったが許されなかった。当時の薩摩藩は戊辰戦争から凱旋した兵たちが発言権を増しており、久光は苦々しい思いで彼らの台頭を見ていた。彼の不満を抑えるためにも西郷が必要だった。西郷は、藩主・忠義や周囲の懇願を受け入れ薩摩藩参政、明治3年(1870年)には鹿児島藩大参事に就任した。それまでの圧倒的な彼の人望や政治力は発揮され、藩内の政治不安を抑えた。
 ただし、久光の鬱憤はとどまることを知らず、その矛先は西郷に向かう。久光の意向と関係なく推し進められた新政府の方針について不満が鬱積していた。新政府は、当初、攘夷を訴えておりながら、維新が成功したとなるや180度方向転換して西洋流を取り入れた。このままでは日本流が廃れて西洋に染まってしまう。そんな危機を覚えたのは久光一人ではない。
 久光の不満は何ら解消されないまま、新政府は「版籍奉還廃藩置県」へと邁進。旧藩主の座は消えてなくなり、元藩士の大山綱良が権大参事(のちに県令)となる。久光は激怒。怒りのあまり大規模な花火を打ち上げたと伝わるほど。自らが県令の座に就くべく運動を開始するのですが、結局これも叶わずじまい。一方の西郷は明治4年(1871年)、近衛都督・参議兼陸軍元帥に就き、軍部の頂点に立つ。
 江戸幕府から政権を奪った新政府は、朝鮮半島に目を向けるようになった。当時の李氏朝鮮は、対馬藩を経由して貿易を行う間柄。新政府ではこれを廃止し、新たに日本政府と交易するように求めた。このとき日本が持参した文書に、朝鮮にとっては宗主国である清しか用いないはずの「皇」や「勅」という言葉が含まれており朝鮮は反発した。しかし、この文字への反発は表向きのこと。鎖国体制だった同国は、かつての日本のように開国に対する激しい抵抗感があった。強硬な朝鮮の態度に対し、日本政府は徐々に不満を募らせる。
 もはや武力行使もやむなしか?の論調が高まる中、西郷が手を上げる。「使節として朝鮮に渡り、平和的に交渉をしたい」。西郷にはネゴシエーターとしての才覚がある。長州征討の際にも敵の懐に飛び込み解決に導いた。しかし、大久保利通岩倉具視らが反対し、結局、大久保らの意見が通り朝鮮への使節派遣はとりやめとなる。「諸外国を実際の自らの目で見て、日本はまだまだ近代国家としては脆弱過ぎると考え、内政強化の道こそが正しいとして反対した」と解説されているがウソっぽい。
 西郷はこの決定を不服とし、下野して郷里に戻った。このとき同じく下野した板垣退助らは政府批判を強め、明治7年(1874年)に民選議員の建白を行い、後の自由民権運動につながる。
 江藤新平佐賀の乱を起こす。明治新政府は早くも大波にぶつかった。大久保ら盟友が新政府で確固たる地位についている中、西郷は国元で久光との確執に苦しみ、且つ新政府の権力者たちが蓄財に励み私腹を肥やしている生態にも苦しめられていた。新政府のやり方に不満を抱いていたのは西郷だけではなかった。郷里に戻った西郷のもとには不満分子が集まり始める。武士としてのアイデンティティ危機を感じていた士族たちは各地に大勢いた。各地で不平士族の蜂起が起こっていた。
 明治9年(1876年)、西郷同様に下野した元長州藩士・前原一誠が萩の乱を起こした。
 政府を離れた西郷は、地元で私学校を開設していた。 そこへ、不満をつのらせた士族が集まり始める。武器弾薬庫が鹿児島にあり当時海軍で使用する弾薬を製造していた。「不満分子がこうした武器弾薬を手にしたらどうなるか?」。政府は武器弾薬の回収を行うとともに、その状況を探らせた。任に当たったのは薩摩藩出身の大警視・川路利良。かつては西郷の側近として鳴らした腕利き(とその配下の者たち)。彼ら密偵の目には、日々不満を募らせ鬱憤を語り合う西郷は、捲土重来を期しているように思えた。この密偵が思わぬ事態を起こす。西郷の私学校の者が川路の部下・中原尚雄を捕縛。中原が、西郷暗殺計画を吐いた。彼は悟る。「おいの体はさしあげもそ(俺の体は差し上げよう)」。こうなったら暴発は止まらない。薩摩での士族挙兵を知った新政府は西郷を朝敵と認定し、討伐令を下した。
 明治10年(1877年)、2月15日。 総勢13,000を超える西郷反乱軍が熊本に向けて進軍を開始(熊本城の戦い)。 西南戦争の始まり。1877年3月20日、激戦の末、田原坂の防衛戦を突破した新政府軍は、熊本城へ。鹿児島に入れなくなった西郷軍は、一転、宮崎を目指すものの、ここでも新政府軍に阻まれる。さらには和田越で迎え撃とうとするも、西郷軍は敗北。不平士族も次から次へと合流。西郷挙兵の報は東京にも届き、新政府への不満を抱く庶民たちは西郷が勝つように祈る。判官贔屓という言葉があるように、カリスマ西郷への憐憫の情というか期待は湧き上がるばかり。西郷軍は新政府軍を過小評価していた。明治政府の軍隊は全国から集められた兵士。徴兵制によってまかなわれており、そんなものたちなど薩摩武士たちの前では鎧袖一触(がいしゅういっしょく)とたかをくくっていた。しかし、新政府軍は甘くはなかった。このころ普及し始めた電信で敵の動きを探り、戦況を把握。陸軍や警視庁に所属する旧会津藩士らは今こそ戊辰の恨みを晴らすときと誓い鹿児島に向かった。徴兵制とはいえ単なる寄せ集めではなかった。支えきれなくなった西郷軍は撤退を余儀なくされた。
 僅か六百名ほどで城山を目指した。辿りついたときには残り三百名あまり。

 9月24日早朝、新政府軍の総攻撃を受た西郷らは、潜伏していた洞窟を出る。そしてそこから出て五百メートルほど進んだところで、腹と股に銃弾を浴びる。鹿児島城下は戦火につつまれた。「晋どん、もうよかろ」。同行していた別府晋介にそう告げると、西郷は
切腹した。享年51(満49才)。

 勝海舟が彼を評したように「度量が大きく、人に好かれ、人徳に溢れた人物」として人々に愛されている。





(私論.私見)