日本人の性格、民族性と言っても良いが、地政学と縄文時代以来の歴史的堆積の上に成り立っていることは異論がなかろう。それと並んで重要な日本国家の性格形成期は明治時代と考えて差し支えなかろう。織田信長が破壊と殺戮を繰り返し中世社会を葬り去ったように、明治維新期にも伝統ある文化、思想、統治システムにあくなき攻撃と破壊が加えられた。維新政府は明らかに徳川の世界を抹殺し新しい自分達の国家を作りたかったのである。
明治維新期に日本と最も関係が深かったヨーロッパ国家は英国であることには誰も異論がないだろう。しかし明治維新期の日英関係の実態がいかなるものかあまり明確ではない。最近本学の教授である石原守一氏(東京経済大学教授)から明治維新に関する研究内容を聞く機会を得た。真実のみが有する迫力に正直なところ大変驚愕するとともに大いに啓発されピンピンと閃くものがあった。氏が語る内容は筆者のこれまでの研究成果と論理的によく符合するのである。氏は「所謂明治維新論」で英国は薩摩藩を利用して日本支配を企だてたのではないかと指摘している。
西欧の秩序が英国を筆頭に確立した後、西欧勢力の世界への全面侵略が始まった。その中で日本だけが手酷い扱いを受けなかったばかりか、逆に英国の手厚いとも思える保護を受けることができた。何故このような例外的措置を英国は日本に採用したのか、ここに明治維新の実像を解く鍵があり、日本国家の性格を解き明かす手掛かりがある。その理由として次の2つの仮説を提示し検証を試みる。
仮説1.日本は彼等に選ばれて西欧の一員になった。−それなら確かな本当の理由を歴史学者は見つけなければならない。−
仮説2.別の理由から西欧は日本を搾取の対象にせず、自由で民主的国家へと解き放った。−それならその理由を明らかにしなければならない。−
いくら”困った時には神風が吹く”と信じるお人好しでも、冷徹な利害が優先するゲゼルシャフト的外交世界で”日本は西欧の温かい援助の下で近代国家に脱皮することができた”と言える程の能天気さは持ち合わせていまい。
この秘密を解く鍵はあくまでも利益の概念である。どうすれば一番自分達に利益がもたらされるかであって、決して相手国(この場合は日本国)の利益になるかではない。征韓論、征台論、日清戦争、日露戦争の渦中に日本をぶち込むこと、即ちアジアの帝国主義メンバーに加えることが西欧の利益になると考えたからであろう。
筆者は決して反西欧主義者でも、左翼でも、右翼でも、軍国主義者でもない。純粋の平和愛好的愛国者である。理想主義的現実主義者でありたいと努めてきた人間である。日本と欧州が本格的に遭遇した明治維新を新たな視点から見直す決意をしたのは、歴史の通説が主張してきたこれまでの維新論はあまりにきれいな”ごっこ”の世界(電車ごっこ等非現実な遊びの世界)であり、それに飽きたらなさを感じていたからである。
明治維新によって現在の日本国家の性格が形成されたと考えて間違いがない。日本国家の人格がどのようなもので、どのような経過を辿って形成されたかを明確にしなければ、現在の経済不況や大企業の経営不振の克服もできなければ、国連、西欧やアジアとの外交方針も定まらない。そればかりか続発する少年凶悪犯罪の減少は期待できないし、勿論憲法の見直し論議の方向性も見いだすことはできない、と筆者は真剣に考えている。
「日本国家の性格」が意味する重要な点は国家の統治システムや意思決定システムの問題でなく、そのシステムの作り手である支配階級としての人間集団がどういう性格の持ち主であるかという点にある。システムが存続する限り彼等は利益を保持し続けることができる。この民主化された現代世界に支配階級は存在するのかという疑問を提示されそうだが、以下のような考えに立てばその存在を肯定することが可能である。
日本では政治の頂点にいるのが自民党があり、行政機関の指導的立場にいるのが大蔵省である。企業のまとめ役として経団連がある。彼等は組織の長を順繰りに後継指名していく訳であるが、それぞれの組織文化を最も色濃く身に纏った者が前任者の信頼を受け後継者になっていくのである。この組織文化を共有するグループが支配階級に当たる。組織文化の重要な要素が統治システム(組織支配のメカニズム)の本質、即ちいかに仲間内で組織を支配していくかを理解することにある。
権力者は利権者でもあるから、時代が変わるということは利益者の交替をも意味する。統治システムと利権とは分かち難く結ばれているので、権力者は統治システムの保持に躍起となる。統治システムの性格をよく知る者が育成され後継者に育っていく。その大部分は明文化されない秘められたものであるから、部外者にはわかりにくい。その不文律をきちんと理解し、尊重し、保全に努める人間が後継者候補に選出されるのである。後継者問題は自らの利権にかかわる重大問題であり、閨閥を組み一族化することも希ではない。
以上のことは人間の本質に関わる点であるから、国家であれ会社であれ、西洋東洋を問わずあらゆる組織に通じる原則である。だから支配階級の正確が不明の儘で許されて良いということにはならない。我々は民主主義社会に生きている。民主主義を建前に終わらせないためには主体的な判断を可能にする事実の把握が欠かせない。筆者は情報社会の意義をこの「事実の把握と普及、その結果もたらされる一般国民の知性の向上」に置いている。蛇足を恐れずに言えば、知性とは知っていれば得をするかしないかの「intelligence」ではなくて、賢い判断をするための基礎知識としての「intellectual」である。
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