れんだいこの明治維新論



 (2005.3.2日 最新見直し)

 (れんだいこのショートメッセージ)
ここで、れんだいこの明治維新論を記しておく。

 2005.3.2日 2012.7.27日再編集 れんだいこ拝


【明治維新論の総構図、従来の明治維新論を排すその1】
 明治維新は、我が国の稀有な且つ世界史的に見ても評価される史的財産である。まずこの観点を獲得したい。そう理解するのが明治維新観となるべきだ。にも拘わらず、専ら左派がこれを過小評価し、右派の方が積極評価してきた経過があるように見受けられる。それはj全くもってナンセンスであり、左派の能力のレベルを証左している、というのがれんだいこ史観である。明治維新論を廻っての皇国史観、その対極としてのマルクス主義史観、最近の新自由主義史観も含めて、れんだいこには従来のそれらに納得し難いものがある。そこで以下、れんだいこ史観による明治維新論を綴ることにする。

 構図上最大の食い違いは、前三者が論拠の基盤を国家主義において是非論を展開しており、れんだいこは民族主義を基盤に置こうとしていることにある。この民族主義からの考察は爾来あまり為されていないかに見受けられる。というか、民族主義と国家主義が混交されて論ぜられている風がある。れんだいこ史観によれば、民族主義の方こそここ数百年来の真の歴史ベクトルであり、国家主義はその一手法に過ぎない。数式的には、民族主義が必要条件、国家主義が十分条件ということになるだろうか。ところが、国家主義を必要十分条件的に論じ過ぎているきらいがあると思う訳である。

 もう一つの争点は、「一国主義的にして民族主義的」であった明治維新が、そのこと故に蒙る非が有り得るだろうか、という視点から明治維新の意義を称揚して見たい。マルクス主義が、来るべきプロレタリアート革命の眼目を、「世界同時革命的にして国際主義的革命」に見出したところから、俗流マルクス主義者はこの観点を物差しにして過去の個々の革命を測り、それらの限界を論(あげつら)うという手法を得手とする癖を身に付けてきた。しかしそういう後づけ的な当て嵌め解釈は有害無益にしてナンセンスなのではなかろうか、という思いが禁じえない。

 過去の革命はその時代の「檻」的制限の中で捉えられるべきであり、時々の体制変革運動がその枠組みを如何に乗り越えようとしてこれに成功し、はたまた失敗したかあるいは半達成なのか如何様に妥協したのか、これらの観点から論ぜられるべきではなかろうか。現在の物差しで過去を測るという手法はほどほどにしなければならないのに、断罪権まで与えてしまっているやに見受けられる。れんだいこは無茶苦茶やと思う。「世界同時革命的にして国際主義的な革命であるべきだ論」は過去の革命論に使われるべきものではなく、その物差しは逆に、目下の我々の運動論、組織論に対して適用されるべきであり、ここにこそ意味があるというべきではなかろうか。これは認識の弁えの問題である。この弁えがあまりにもできなさ過ぎている。

 変な話だが、急進系であろうが穏和系であろうが、戦後より数えて合法化され50有余年も立つのに、手前たちの革命戦略・戦術を「世界同時革命的にして国際主義的水準」で何ら創造し得ないのに、全くくだらない議会主義多数派革命論などというヌエのような理論を弄ぶのに、明治維新論となると途端に硬派メガネを掛け、その価値を落とし込めようとする。これを例えて云えば、幕下力士が横綱の相撲を論評している例に似ており、音痴者がプロ声楽家の技量を批評している例に似ており、アマチュアがプロの技を酷評して得意になっている例に似ていよう。何をか況や、とはこういうことを云うのだろう。

 もう一つ指摘しておかねばならい。従来の明治維新論は、明治新政府樹立までの流れと明治維新後の流れを単線的に把握して、一括して明治維新論として論じている。しかしながら、れんだいこの見るところ、明治新政府樹立までの流れを幕末維新、明治維新後の流れを明治維新として識別すべきではなかろうか。この識別がないところに、幕末維新、明治維新の流れを捉え損なっている面があるやに見受けられる。更に云えば、幕末維新、明治維新後の流れには、在地土着的な維新の流れと、黒船来航以降公然と侵食し始めた国際金融資本の日本侵略を呼び水する流れとが認められる。この辺りを複合的複眼的に評せねばなるまい。

 こういう明治維新論にならないのには理由があるように思われる。それは、白色者があるいは趣味者が赤色を擬態させて論ずるからこういうことになるのではなかろうか。あまたの理論が交叉したが、その理論的貧困には恐ろしいものがある。その貧困さを覆い隠すのが学識ぶりであろうか。そうした者達によって作られてきた過去の理論史、運動史に疑問を湧かさないとしたら、馬鹿に漬ける薬はないとはこのことを云うのだろう。れんだいこは、従来の明治維新論があまりにも滅茶苦茶な故に敢えてそう云いたい。

 最近、メリニチェンコ(伊集院俊隆訳)氏の「レーニンと日本」を読んだがまことに好著であった。れんだいこの明治維新史観を補強してくれるかのようにレーニンの好評価見解が披瀝されている。これを思えば、レーニン尊崇者は眼を洗わねばならない。それとも、己のご都合主義でレーニンを論(あげつら)うだけのことなのか。思えば、司馬遼史観も又日本の偏狭左派が陥っている隘路を早くより指摘して、明治維新の偉業を称揚せんとしていたのではあるまいか。司馬遼史観とれんだいこ史観は重ならない面も多いが、司馬氏が訴えたかったことの真意が分かる気がする。

 2002.11.24日、2012.7.27日 れんだいこ拝

【明治維新論の総構図、従来の明治維新論を排すその2】
 れんだいこに云わせれば、明治維新を評する基準がことほど左様にサマになっていない。我々はその貧困を確認すべきであろうに、歴史家が胸を反り返しすぎている。なお、れんだいこの観点は更にヴィヴィッドである。以下、それを伝える。

 明治維新とは、正確には幕末回天運動と捉えるべきである。そういう意味で幕末維新と称するのが妥当だ。この幕末維新が世界史上に輝く成功裡に完結した暴力革命であったことについては前述した。ここではそれ以外に纏わる未考察点を指摘したい。

 幕末維新は、日本史上最高の綺羅星の如くに次から次へと輩出した能力者達によって遂行された。何ゆえこの時期に能力者群像が輩出したのか、幕藩体制の功の面つまり当時の士族のみならず百姓町民までこのような能力を何ゆえ獲得し得ていたのか、を摘出する観点でこれを問うことも必要な課題である。残念ながら、れんだいこは、この視点から論ぜられたものを知らない。

 そういう能力者達の主たる社会的階層が下級武士であったことは周知されている。下級武士と上級武士との抗争、藩のイニシアチブを廻る政争、幕府との関わり方、西欧との関わり方を廻る論争、あるいは脱藩武士の出現、それを補佐する当時の町民層、豪農層との関わり、これらを解明することが従来の幕末維新論でどれほど為されているのだろうか。

 以上の視点では、幕末維新の奥行きにまで至らない。もう一つ、農・工・商民側からの幕末維新が「立て合う」ようにして進行していた流れを描き出さねばならない。百姓一揆、打ちこわし、ええじゃないか、抜け駆け参り、民間宗教の勃興等々の「下からの革命」のうねりを踏まえ、これら群集のエネルギーがどのように発展し、明治維新後どのように終息させられていったのか、これを問わねばならない。ここのところがあまりにも未考察な気がしてならない。これは何を意味するのか。

 もう一つ。幕末維新が明治維新となり大正、昭和の御世へ続く過程でますます権威となり最後にはファナチックなまでに瀰漫していった水戸学の思想を、その果たした役割まで含めて、その功罪を俎上に乗せねばならない。奇妙なことに、日本左派運動圏の歴史家が一様にこれを黙殺している。そんなことは有り得てよい事だろうか。れんだいこには大いなる不満がある。

 察するに、西洋事大主義的癖を以って導入されたマルクス主義故に、日本在地の思想を消化咀嚼せぬまま飛びついたその宿アが自己撞着させ、水戸学の学問的検討を怠らせてきたのではないのか。天皇制批判は、その真の批判を為しきるには水戸学との対決以外には有り得なかった。水戸学にはその後の時代の心となる論理が溶け込んでいた故にその後の支配的イデオロギーにまで進捗していったのではないのか。

 それらの解明を為さず、水戸学思想を蔑視したままに政治主義的に天皇制打倒を標榜してもそれは一種の永遠の政治的プロパガンダに陥る可能性が強い。その意味で、天皇制批判は今に至るまで為されておらず、現に為されようとしているのは闇雲な折衷でしかないのもむべなるかなという気がする。

 こういう粗雑さが従来の幕末維新論の特徴となっている。それは何も天皇制の問題だけではない。民族主義と国際主義の問題にも通底している。幕末に創始された民間宗教の認識にも同様の態度が見られる。書き切れなかったが、もう一つの幕末維新のイデオロギーであった陽明学に対する態度にも見られる。全ては無視なのだ。しかし、自分の能力が追いつかないという理由で「厳にあったものをなかったことにする」のは学問的態度とは無縁過ぎよう。

 2003.8.27日 れんだいこ拝

【明治維新とは】
 「明治維新とは」には次のように記されている。
 「日本の歴史上、特に近代史に於いて明治維新は最も感心の高い分野です。明治維新は、近代日本の出発点となった大改革であり、日本は明治維新によって『近代化』の第一歩を踏み出したといえます。この近代化とは、西洋の知識、制度、技術などの導入を通じて西洋化し、欧米列強に肩をならべる国家を築きあげることが主眼とされました。

 天皇を頂点とする中央集権的統一国家体制の成立、自由民権運動、立憲制、議会主義など、日本資本主義の出発点が明治維新によって見い出されます。明治維新において、日本の歴史上はじめて人民衆が政治生活に積極的に参加して政治的社会的変革を成し遂げました。また、日本人の単一不可分の国家的統一を成立させ、能率的な中央集権の統治機構をつくり上げ、欧米列強の半植民地的地位からの民族解放を勝ちとる第一歩を踏み出すなど、それまでの日本の歴史上のいかなる変革にも勝る重大な進歩的意義があります。

 他のアジア諸国のほとんどが、いづれも欧米列強の植民地ないし半植民地と化したのに対し、日本だけがそれを免れて民族の独立、近代国家の形成を達成した特異な背景があります。これは、当時の時代性と国の立地条件、日本固有の民族性などさまざまな要因がからみあって成立した歴史として今でも国内外で研究が深められています」。
(私論.私見)
 れんだいこが思うに、上記の解説は、マルクス主義という度の強いメガネで論ぜられた明治維新論よりはよほど正確に捉えているのではないか。「明治維新において、日本の歴史上はじめて人民衆が政治生活に積極的に参加して政治的社会的変革を成し遂げました」というところが粗っぽいけど、民族主義的観点からの要点整理は良くできていると思われる。願うらくは、国家主義的観点との分離が今ひとつというところだろうか。

【明治維新の東アジア史における位置付けの必要性】
 明治維新を成功裏に導いた日本は一躍「東アジアの雄」として台頭していくことになった。この流れが大東亜戦争の敗北まで続き、敗戦で一度は崩壊したものの、その後の奇跡の経済復興により再び「東アジアの雄」たる日本が復活しすることになる。目下は、バブル崩壊以来の長期低迷と無策により、この明治維新以来の百年の構図が崩壊しつつある。いわゆる歴史的転換点に立ち至っているということになる。

 かく俯瞰し、明治維新の偉業と「東アジアの雄」化政策の功罪を、東アジア史のパワーポリティックスの中で捉えること、これをれんだいこの明治維新論の核心としようと思う。まことに日本と中国と朝鮮(朝鮮の場合は、更に南北対立が加わる)の三国関係は、一方のプラスは一方のマイナスとなる「ゼロサム・ゲーム」関係に入っている訳であり、この世界史的観点抜きには無意味であろう。

 この百年の構図に見られるのは、民族主義のパワーであり、国際主義的理念は空々しい。れんだいこ史観の要諦は、だから民族主義を唱えようとするのではなく、その必然を理解し、如何に国際主義を盛って行くのかその内在的な方向を指針化させることにある。

 だがしかし、史上に現われた国際主義は到底このような観点を持たなかったし、民族主義も又日帝盟主化的国際主義しか持ち合わせなかったので、その双方から学ぶところは少ない。解析する教材としてのみ在る。れんだいこが格別踏まえようとすることは、「双葉の芽」の中にあって潰されたもののうちから継承しえるものを見出し、今日的水準で焼き直ししてみたいと思われる史実の再発掘である。如何せん時間と能力に限りがあるので進まないと思うが、観点として据えておきたいと思う。

 2002.11.27日れんだいこ拝

【明治維新を見る際の重要な観点について】
 要するに何がいいたいかというと次の諸点である。
第一点  明治維新は日本史が誇る世界史上稀なる成功革命だったということ。その特質は次のことにある。
@ 革命性
A 抗植民地性
B 排海外列強性
第二点  その明治維新が豊饒に持っていた人民主義的側面が如何に捻じ曲げられて行ったかの解析を要するということ。この面の検証は極めて大事であるが、個別の記録が資料化されていることはあっても、通史として検討された例を知らない。本来、歴史家とはこういう面に切り込むのが仕事だろうに。
第三点  にも関わらず帝国主義時代という枠組みにおける相対的観点において、その後の歩みに世界史的植民地時代払拭の正のベクトルが働いており、これはそれとして評価せねばならないこと。
第四点  だがしかしにも関わらず大東亜共栄圏思想は挫折せしめられるべき日本盟主主義運動でしかなかったということ。
第五点  そうした日本主義が辿り着いた先に軍部の突出社会が有り、それは敗戦を迎えない限り解体し得なかったほど強固な秩序として形成されており、敗戦は日本人民大衆の解放の鐘音であったこと。

 これらを視野において複合的に解析していくのが、本来の明治維新論となるべきではなかろうか。

 この観点に照らすとき、既成の右派的なものも左派的なものもご都合主義的な一面化が激しすぎて役に立たない。これは学者レベルでも云えるし党派レベルでも右同じである。今日までこの傾向のまま徒に駄弁が繰り返されている。敢えてれんだいこ史観で論を再構築せねばならない所以がここにあると自負している。いずれの日か、この観点より論を打ったてて行きたい。

 2003.1.24日 れんだいこ拝















(私論.私見)