レーニンの日本及び日本人論、明治維新論



 (最新見直し2012.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、レーニンの明治維新論を確認する。凡庸な俗流マルクス主義者は、これを聞いて恥じるべきであろう。


【メリニチェンコ(伊集院俊隆訳)氏の「レーニンと日本」の衝撃】
 メリニチェンコ(伊集院俊隆訳)氏の「レーニンと日本」は、興味深い「レーニンの日本人論、明治維新観」を以下のように紹介している。

  レーニンは「帝国主義論ノート」を書き付けていたがその中で、日本人論一般ないし明治維新以来の日本の歩みに非常に強い関心を見せていることが明らかにされている。「帝国主義論ノート」においてだけでも、十回も日本に言及しているとのことである。その他日本のジャーナリストとの会見記も残されており、それらから総合するとレーニンは、幕末志士活動がうねりとなって明治維新へと辿り着いた過程を絶賛し、次のように述べている。
 概要「20世紀初頭において、日本を『文化的で自由な国』、『進歩的で先進的なアジア」の国日本』と呼び、国民に対しても『文化的で、進んだ自由な国家、偉大で進歩的な素晴らしい国民である』と評価し、この国の覚醒に何と!!『人類の未来さえも』見ていた」。

 これがレーニンの「日本人論一般ないし明治維新観」であった。

 レーニンの明治新政府評は次のようなものであった。レーニンは、日露戦争に敗北した祖国ロシアの不甲斐なさとこれに勝利した日本新政府の動きを冷静に分析し、日本の明治維新以降の歩みを「民族的、民主主義運動の時代の息吹」として捉え、次のように評している。
 概要「日本は、東洋の他の国々よりも著しく早く、ロシア、ドイツ、イタリアとほとんど同時に、イギリス、ドイツよりも少し遅れて資本主義的発展の道に足を踏み入れ、工業国に変わり始めた」、「1863年の日本はロシアと比較してみても憐れなほどみじめなものであったが、その後の発展により、1871年後から第一次世界大戦頃に至っては、日本はロシアより10倍早く強国になった。『1863年の日本は、ロシアと比較すると無いに等しかったが、1905年には、ロシアを殴りつけた』」。

 レーニンは、日本資本主義と民族国家体制の急速な成長に着目し、次のように評している。
 「この国家はブルジョア的であり、それだから国家自体が、他の諸民族を抑圧し、植民地を奴隷化し始めた」、概要「日本では、ロシアにおけると同様、軍事力の独占あるいは中国、その他異民族の略奪にとって格段好都合な独占が、現代的な最新の金融資本の独占を一部補完し、一部取って代わっている」。「ヨーロッパと日本から、中国が遅れれば遅れるほど一層中国は、分裂と民族崩壊の恐れがあった」。

 レーニンは、その後の日本帝国主義の発展に触れて、次のように分析している。
 概要「日本は植民地、あるいは半植民地の運命を免れたばかりでなく、西欧の最善の経験を利用しながら、首尾よく世界分割戦争に加わった現代独占資本主義の国家に変貌し、その若い強力な、東洋唯一の国となった」。
 「日本は、はしご段としてヨーロッパを利用し、その階段に沿って、極東の頂上までよじ登った」。「何よりも急速に、諸植民地の中と、太平洋のかなたの国々の中で、資本主義が成長している。それらの間に、新しい帝国主義強国(日本)が出現している」。

 かく、日本の急速な成長に眼を見張っている。レーニンのこの分析が如何に的確無比であったかは、史実としてのその後の日本帝国主義の発展による強国化が進み、遂に日米決戦に至る必然性によって裏付けられる。レーニンは、歴史の動態分析によるマルキストとしての能力により下手な預言者以上の予測を立て、見事に的中させていることが分かる。

 レーニンは、最後の諸労作の一つの中で「干渉と戦争危険」問題を分析し、次のような見通しを立てている。
 「我々は、これらの帝国主義列強との近づきつつある衝突から我々を救うことができるか?以前西方及び東方の反革命家の陣営の中の、東方及び西方の搾取者の陣営の中の日本とアメリカとの間の諸矛盾の結果、ロシア革命を支持する為に西ヨーロッパ反革命が中絶した時に、東西の帝国主義列強は一度我々に猶予期間を与えだが、前進しつつある西方の帝国主義列強と、前進しつつある東方の帝国主義列強との間の内部矛盾と衝突とが、もう一度、猶予期間を我々に与えるという希望があるだろうか?」。

 メリニ二チェンコの「レーニンと日本」の中で、次のような秘話が明らかにされている。

 1920.6月日本の二人のジャーナリスト中平亮と布施勝治が、当時ロシア共和国人民委員会議長であったレーニンのインタビューに漕ぎ着けている。その時珍しい会見となった。「正直言って、誰が誰をインタビューしているのか、彼が私に対してなのか、それとも私が彼に対してなのか」(布施)、「日本人の記者との会談は極めて特殊なものだった。二人が腰をかける間もなく同志レーニンは自分の安楽イスを布施氏の方に近づけ、質問を浴びせかけた」(外務人民委員東洋局長・A・ヴォズネセンスキー談)とあるように、異例なほどにレーニンの方から矢継ぎ早に質問を浴びせ、日本及び日本人に対しての特別の敬意と深い関心を抱いていた、ことが明らかにされている。

 その時、レーニンは、興味深い次のような日本についての関心を持っていることを明らかにしている。日本の教育慣習に触れ、 「日本ではいつ普通義務教育が施行されたのですか。それは何歳までですか。日本には文盲は存在しますか?」と尋ね、日本には文盲が殆どいないことを知ると、「何と幸せな国だ!」と叫んだ。

 次に、「かって何かの本で読んだのだが、日本では親は子供をぶたないというのは本当か」と尋ねている。概要「例外も僅かに有るがその通りです。我々にとって子供は宝です」と答えると、深く肯きながら「それならば、あなた方は幸せな国民というだけでなく、偉大な国民でも有りますね。教育の場で、処罰を適用する、というこの旧弊・過去の野蛮な遺物からは、最も文明的であると云われているような欧州諸国ですら脱け切っていないのでから。スイスでも学校で子供を打つ習慣をまだ完全には撤廃できていないのです」。

 この後「本当に日本では子供に平手打ちですら、しないのですか」との遣り取りをした後、「素晴らしい国民です!これぞ本当の文化というものです!」、「幼児への体罰に反対する闘争はソビエト政権の方針の一つである」と満足感を表した、とある。

 レーニンは日露関係を重視し、その友好の為に脳髄を絞った。日露関係における具体的な諸局面をどう評価しどう対処したか、別途考究したい。












(私論.私見)