明治維新の革命論的位置づけを廻ってその2



 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).7.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 我々が獲得すべき知恵は、本来平明なものではないかと思う。よしんば事柄が難しくても簡潔明解に要点を整理しておくべきではなかろうか。ところが、本稿のテーマである「明治維新の革命論的位置付け」を廻って反対のことばかしが為されてきている。もっとも、こういう作法は明治維新論に対してばかりではないのだが。他方で、知識標榜人士が気取りながら碩学ぶりを振り撒いており、その権威で我々を誑(たぶら)かし続けている。それはおかしいだろう。賢こぶるほどの知識があるなら、もつれる糸を解かんかいとか思う。

 この現象は何を語るのだろうか。結論から云えば、医者がカルテをわざわざドイツ語で記すように、坊主がわざわざインド言葉で経文を読誦するように、わざわざ事を難しくして近寄り難くさせオマンマの種にしているだけなのではなかろうか。そう読み解くことで理解ができる。そうとならば我々の遇しようもあるだろう。案外このことに気づいていない現象があるので一言しておいた。

 とか云う感慨を覚えながら、れんだいこが本稿の課題の解明に向かう。というのは良いけれどそれがまた難しいのやふふふ。

 2002.11.24日れんだいこ



資料【明治維新の評価
古川  明治維新というのは、ある意味では無血革命のようなところもあります。まあ、戊辰戦争をやりましたけど、わりと幕府が簡単に倒壊しましたね。あれはやはり幕府側に勝海舟だとか、そういう人物もいたということでしょう。だから、明治維新というのは革命かどうかという論争があります。ブルジョア革命か、あるいは絶対主義の本質は変わらず革命ではないというのがありますけど、大体フランス革命にしてもロシア革命にしても旧支配者をギロチンにかけています。明治維新は首斬ってない。だからその点で不徹底な革命だと言われているんですけれど、そのあたりが、やはり徹底しない形で、古い形が残っていくわけです。だから、いったんつぶしたつもりだけど、その古い形の上に乗っかったのが、山県だとかそういう人たちだろうと思うんです。
(れんだいこ)  古川氏が、明治維新を「不徹底ながら革命であった論」にシフトしているのが分かる。しかし明確には述べていない。
早乙女  革命のメカニズムとちょっと違って、やっぱりクーデターでしょうね。クーデターだったから、いわゆるギロチンでもって王様の首を斬るというような形にならなかった。いままでの悪政に対する民衆の勃発ということじゃなくて、結局、クーデターだった。地方大名が中央政府を倒したということですね、これは。戦後かなり左翼的な空気が強かった頃は、明治維新をあくまでも民衆革命というふうに話を牽強付会に持っていきたい人たちがかなりいましたが、民衆は「武士(さむらい)たちのすることだ」というのに近い気持ちを持っていた。確かに長州奇兵隊は、一般の人たちが入ってできた軍隊ではありましたが、これは奇兵隊だけであって、幕府を倒そうという意識をもってよその藩の人たちが兵隊になったわけじゃないんです。ですからこれはあくまでもクーデターに近い。権力争奪に過ぎないということです。
(れんだいこ)  早乙女氏が、明治維新をは「クーデター」と見ているということが分かる。
 権力争奪によって新しい時代をつくるには、それだけの抱負というものがあった上でやってしかるべきですが、その抱負がないままに事が行われたということは、結局、主動力になったのは軽輩連中だったわけです。ですから上層部の連中の持っている教養や知性に欠けている部分が多分にあった。ただ、情熱はあったかもしれませんよ。そういう情熱と爆発的な力は確かに軽輩たちにあったわけで、それは認めざるを得ないんだけど、どういう日本をつくっていくのかというような志があった上のことじゃないんです。
(れんだいこ)  幕末討幕運動が青写真を持たなかった論は、史実に照らせば滅茶苦茶な暴論であろう。
 それが最もよくわかるのは明治2年から3年にかけての激しい朝令暮改です。いわゆる政府機構というものが、本当に猫の目のようにクルクル変わっているわけです。なんの計画もなかったということですね、知識もなかった。一つのポジションをつくっては、もう本当に朝令暮改という言葉通り、3、4日で変わるというような形でやっていますから、これでは一体どういう国家ができるのか。理想もプログラムもぜんぜんなかったということがいえるんです。手さぐりで、こうやってダメだったから、今度こうしようかというような、非常にいい加減な形で行われてきたということです。
(れんだいこ)  朝令暮改が青写真を持たなかった故とは必ずしも云えないだろう。方針の分裂、内部闘争の影響も考えるべきだろう。
古川 それは、私は破壊のあとの権力の問題、いわゆる政権を担当した者の試行錯誤というのはやむを得なかったと思いますよ。明治4年に岩倉使節団が出て、それから次第に軌道に乗っていくわけですけれども、それはね、早乙女先生、最初の朝令暮改というものは、これは僕は避けられなかったと思うんです。司馬さんがこう言われるんですよ。明治維新をやったいわゆる薩長は愚かだと。青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいったと言われるんですけど、革命というのは暴発だと思うんです。そう青写真を前もって描き上げて、それで倒していくというようなものは、それはちょっとないだろうと思うんです。
(れんだいこ)  古川氏の朝令暮改は止むを得なかった論は正しい観点だろうと思う。しかし、司馬の「青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいった」論を認めた上で革命暴発論を唱えているが論旨が一定していない。
早乙女  ただね、幕末における幕府の閣僚たちのなかに、例えば小栗上野介のような頭のいい人がいて、彼はすでに幕末において郡県制度を構想していた。こういう人たちが幕末にいたということを、明治以降の歴史教育はひっくり返そうとして、無血革命というか内部改革への道を壊してしまった。そして結局、自分たちの発想のような顔をして郡県制度がその後実行され、今日まで続いています。
(れんだいこ)  これは史実だ。で、早乙女氏は何が云いたいのだろう。
 ですから、これは幕府の閣僚たちが考えていた構想の上に立ったものであって、それを盗んだとまではいわないけれども、朝令暮改のあの姿を見ますと、そういう構想が彼らにはなかったということです。最も形の上ではっきりしているのは、明治維新が行われた途端に大宝律令の昔に返したということです。いろんな省の名前と司とか、実に古臭い名前を持ってきた。これは彼らになんのビジョンもなかったということなんです。あれは、郡県制度を敷くためにはどうすればいいかとかということをパーッとやれる力があったわけなんです。なんでもできたわけですから。そういうものを、結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかったということです。
(れんだいこ)  「結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかった」というより、早乙女氏が「結局、そのようにしか理解出来ない頭しかない」ということなではないのでせうか。
 確かに、伊藤や井上たちは留学しましたけれども、半年くらいで帰ってきているでしょう、確か、馬関戦争でね。半年なんていうのは、あっという間にたっちゃうんでね。何もなってないです、ほとんど。彼らにそのビジョンがないということが、結局、最初の混乱を招き、そして長州自体のなかでも、前原一誠とか奥平議輔とかがいろんな人たちに対して、これじゃしようがないと思わせたわけです。彼らがそう思わざるを得ないくらい、天下を取ったけれども、施政方針としてもなんのビジョンもなかった。これじゃいけないということで、前原一誠たちが立ったわけです。こういう立派な人たちが、結局は殺されざるを得ないことになってしまう。
(れんだいこ)  「伊藤や井上の半年間の留学」の裏意味を嗅ぐ必要がある。前原一誠とか奥平議輔とかの不満も、ビジョンのなさに対するものであったのではなく、革命後の新国家像が食い違ってきた故に非和解的にまで発展したと読み取るべきではないでせうか。
 こういうところに明治維新の、クーデターの持つおそろしさがあると思うんです。自分たちが天下取った以上、前原や奥平が何を言っても、彼らの言うことは聞かない。前原は参議になっていた男ですから。スターリンがトロツキーを追い出して惨殺したのと変わらないでしょう。トロツキーは亡命してから内乱を策していたわけでもなんでもないです。それでも刺客をやってまで斧で叩き殺した。それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな。暗殺者を差し向けて殺してしまえばそのままになってしまうけども、前原たちの場合、理想を掲げて反逆しようとした、それを結局、政府に対する反抗だといって殺しちゃったわけですからね。こういうのは、実に許せないと思うんです。江藤新平の場合もそうでしょう。大久保が隣の部屋で死刑の判決を聞いてニタリとしたということを、自分で日記に書いているくらいですから。こういう連中によって明治の最初の政府がつくられたということは、どう考えても明治維新というものの評価ができなくなってくるわけですね。
(れんだいこ)  トロツキーが刺客によって殺されたのよりも、前原たちの反政府運動に対する圧殺の方が、「それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな」なんて比較に何の意味があるのでせう。ようやく見えてきたことは、早乙女氏が明治維新の相続者達を好評価してない故に、そこから遡って明治維新そのものの価値をも落とし込めるという論理のようだということかな。
 一方で、プラスの評価というのはこういうことが考えられます。世の中というものは、地球というものは、常に何かの天災が起こります。例えば洪水がある。洪水というのはいろんなものを流して、下流のほうの家などを倒したりするけども、土地は肥沃にします。これは原始的な意味での効果なんですよ。これがなかったら、確かに下流のほうに肥沃な土地ができない。これと同じような意味では、確かに幕府が倒れたということは、近代化のそれだけの効果はあったと思います。東京だって爆撃されたから新しい都市が出来上がった。ですから、これは歴史的な見方の視点いかんにも拠ってくるんです。歴史を書く場合、歴史を調べるなら、その時、悲劇的な目にあった人たちはどうしてくれるんだということですね。
(れんだいこ) 只今の議論の最中に、こういう一般論を持ち出して還元するのは意味を為さない。
古川  私は、維新のプラスについては、ちょっと早乙女先生と違うんですね。少なくとも、私はクーデターというよりも、限りなくやはり革命に近いものだというふうに思うんです。山県だとか伊藤だとか、彼らがやった私的な部分については、ずいぶん彼ら自身も批判も浴びているわけですけども、彼らがやったこと自体は、やっぱり認めてやらなければいけないと思うんです。
(れんだいこ)  山県だとか伊藤だとかを持ち出すのではなく、いわば西郷派の討幕運動を問えば、是認方向の論が正解ではないでせうか。山県だとか伊藤を持ち出しての明治維新論は臭いものになって当たり前でせう。
 彼らが下層の出身で、幕府という権力に、少なくとも一時期命をかけてやったことは動かない事実だと思うんです。やはり、日本のそれまで、例えば源頼朝が幕府を建てて、700年間続いた武家政権のなかで培われた封建制という絶対主義専制政治を倒した。封建というものがあそこでいちおう倒れるわけです。しかし不徹底なところがあって、いわばアンシャレジームというふうなものが残ったわけですが、やっぱりあそこで急激な大きな変革があったことは確かで、日本という国家が、近代国家としての出発を見送ったわけですね。
(れんだいこ)  そうです。そう読み取るべきでせう。
早乙女  なぜそこに革命が起こる必然性があるのかといったら、革命が起こるだけの、彼らをして野獣性を最大に発揮させるだけの悪いことが、為政者のほうにあったということがフランス革命でもロシア革命でも真実の姿なんです。結局、ロマノフ王朝があれだけ長く続いたために、それこそ腐り切った王政が続いていた。
(れんだいこ)  早乙女氏の「野獣性革命論」見識の程度が知れて参ります。それと、ロマノフ王朝を「腐り切った王政が続いていた」と看做す論拠が開陳されぬままに言い切っているのは如何なものだろうか。
 ところが、日本の徳川幕府政治はどうかというと、そういうことがなかった。江戸時代を近頃、たくさんいろんな学者が見直しています、新しく。いかに江戸時代というのが、明治政府や戦後の左翼連中によって言われたようないい加減なものじゃなかったということを。けっこう楽しんで生活していた、意外に豊かだったんじゃないかということは、いま大勢の人が言っています。江戸の繁栄ぶりを見たって、世界一の都市だったわけでしょう。参勤交代で集まった季節は、本当に大変な人数なわけで、100万都市だとかなんとか言われたくらい、それはオーバーにしても、少なくとも50万や100万の都市になっていた。都市化して、なおかつその人たちが江戸の文化というものを醸成してきましたよね。文化ができるということは、心の豊かさ、生活の豊かさがなかったら、発展しませんから。食うに追われていたら文化は発展しません。その江戸の文化というものが今日われわれが甘受している着物とか生活の身の回りのものなわけです。たいていのものが江戸時代に完成したわけです。奈良朝から最初は発したかもしれないけれども、それだけの文化を醸成するだけの世の中が260年続いたというのは、ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか。
(れんだいこ)  江戸時代の内実をそう見るのは見識である。そういう江戸論が必要な時期に入っているのは確かだ。但し、「ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか」と云い出したら如何なものだろうか。論理的には、そういう江戸時代を突き動かして行った時代のベクトルを捜し出すべきでせう。
ですから僕がいっているのは内部改革命なんです。黒船が来たことによって外国に対する目が開かれ、いままでの鎖国のままじゃいけないとなった。そして、攘夷ということが非常にカッコいいもんだから、勤皇の志士たちはみんな攘夷を口にしだした。ところが攘夷なんていうものは外国人をやっつけろということで、これは非常に偏狭な気持ちでしょう。
(れんだいこ)  「攘夷=非常に偏狭な気持ち運動」と見なす早乙女氏の歴史家としての能力が疑われる。攘夷には十分に根拠があつたとてして、その論拠を見出すのが思想家の努めでせう。
 徳川家康が鎖国したのは17世紀においては必然だった。ところが18世紀、19世紀と時代が進むと、もはや世界というのは拓けてきた。大航海時代からきたところの世界的な趨勢ですよね。そうなるとやはり開港せざるを得なくなり、開港に踏み切っていく。ところが次は、天皇はそういうふうには言ってないぞと、開港を叫ぶヤツをやっつけろというのがいわゆる長州やその他の過激派のやり方だったわけです。それで殺人、暗殺、テロをはじめたわけでしょう。だから高杉晋作だって、イギリス公使館に火をつけた。それが天下を取っちゃったら、ケロッと口ぬぐって、これからは文明開化だと、この欺瞞性ですよね。高杉が生きていたら、何と弁解したでしょうか。この欺瞞性というものは、絶対に、いかなる理由をつけても嘘なんです。天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげたんです。
(れんだいこ)  「天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげる」ことは通例で、この事自体が悪いと云い始めたらきりがない。問題は、「自分に都合のいい理論」の内実の検証にこそあるだろう。
 じゃ、江戸時代のままだったらどうかというと、江戸時代のままということは、ですからあり得ないわけでしょう。さっきいいましたように、もうすでに小栗上野介が郡県制度を考えていて、フランスなんかと密接になってた。江戸時代に培った江戸人の生活、それが結局は、そのまま内部改革、無血革命によって、公武合体という形になれたと思うんです。公武合体という形は、最初のいうなれば幕府の改革なんです。公武合体によって大勢の知恵をということは、確かにブルジョア革命の形かもしれません。公武には庶民が入ってない、だからブルジョア革命だということになるかもしれませんけども、結局、世界の必然によって、その形がずっと、19世紀から20世紀にかけて行われるということはあり得ないことなんですね。外国に門戸を開かれれば、いやでも外国の制度を見ることによって、いい点を吸収するというのは当然のことですから、無理なくそこに開かれていく。ですから、イギリスなどを手本にするというような形で最初はみんな勉強したわけです。留学生が行ったりして。
(れんだいこ)  何が云いたいのでせうね。
 ですから、いわゆるゆるやかな革命、改革ですね。ゆるやかな改革があれば、そこに流血の惨事というのは起こらない。そうしてまた、禍根を残さないということです、いちばん大事なことは。禍根を残すような改革はダメなんです。結局、それに対する復讐心だって出てきますし。いちばん大事なことは、そこにあるんじゃないかと思います。つまり、ゆるやかな改革によって政治なり社会の仕組みなりが、次第に世界の各国のいい例を取り入れることによって変わっていく、これは一人や二人が反対したって止まるものじゃないでしょう。それをしないで急激に明治維新をやったものだから、これまであった江戸の文化とか日本人の持っている良さというものが、どんどん失われていったんです。
(れんだいこ)  そうか、早乙女氏は「流血の惨事が起こらないゆるやかな話し合い革命」を夢見ているんだな。「明治維新は急激にクーデター的に為されたから駄目」という観点なんだね。
 例えば会津だけに限って見ましても、秋月胤永とか山本覚馬とか優秀な人がたくさんいました。秋月胤永なんか日新館の先生をやったり昌平校の先生をやったりしたんですが、結局、最後は、熊本五高の先生をやっていて、後からラフカディオ・ハーンが同僚で入ってくるんです。ハーンにしてみたら、実に素晴らしい人だ、この世の中に神様というものが人間の形をしているとすれば秋月先生だと、そこまで言わしめるほどの存在だったわけです。こういう有為な人材というのがたくさんいた。

 山本覚馬だって伏見の戦いで牢屋に入れられますけども、その時に盲目になったわけです。盲目になって両眼が見えなくなって、それでもそれまで培った知識というものは大変なものがあったわけです。ですから薩摩屋敷に閉じ込められていたけれども、そこで弟子に向かって、これからの世の中のあり方というものを書かせて、それを『管見』と謙遜した言葉で称して、西郷隆盛にやった。西郷隆盛は非常に驚きました。西郷隆盛にしてみれば、これからどんな世の中をつくろうかと思っていたところですから、非常に驚いて、あわてて牢屋から出す。そして自分の師匠にするということで、結局、彼は京都府議長に選ばれる。そういうふうに才能というものがあったわけですよ。
(れんだいこ)  この例で、結局何が云いたいのでせう。
 こういう人たちが会津だけでもいたわけです。ほかの藩だって、どれだけ上層部にそういう人たちがいたかわからない。少なくとも300藩だとしても、その300藩の上層部にそういう素晴らしい人たちがいた。結局、その人たちの知識と教養と知性というものを、全部叩きつぶすような形でもって暴力革命が行われたということです。それが明治の悲劇だというわけです。その人たちの知恵を吸収して、それこそ大勢の知恵を吸収して新しい日本をつくって、緩やかな改革を行っていけば、日本という国は、軍国主義に走ることもなかったんじゃないかと思います。軍国主義に走ったということは、日本がこれから、地球が存在している限り負わなければならない負い目だと思います。
(れんだいこ)  なるほど。幕末志士達は幕府の有能人士と相和して協力しながら改革運動を目指すべきだった。ろくな青写真も持たずに暴発させたから、後々悲劇を生んだ、という論のようですな。
古川  早乙女先生のご意見とちょっと違っていることだけはいっておかなければいけないと思うんですが、ゆるやかな改革ということは確かに理想としてはわかります。だけど、あの幕藩体制のなかで、例えば士農工商という身分制、それからいろんな封建社会の非人間的な不条理を取り除いて、民主主義を実現するまでは、それは段階を踏めばおそらく40、50年はかかるだろうと。だから、急ぎ過ぎたといえばそれまでだけども、やっぱり幕府は倒れなければいけないものがあったと思うんです。幕府を倒す側に、なんらそういう理由はないといわれると、ちょっと僕は違うと思います。
(れんだいこ)  革命論的には古川氏のこの観点こそ正論でせう。
 徳川幕府のいちばんいけなかったことは、鎖国ですよ。鎖国の理由はあったでしょう。だけど、各大名に自由な経済活動を禁止した。西日本のほうでは、大陸に近いから、それまでは貿易なんかもやっていた。それを一切禁止しますね。そうして、参勤交代というふうなもので各大名は財政を破綻させ、みんな経済改革やろうにもできない。みんなピーピーしてて、衰弱していった。日本の大名のほとんどは、もう財政困難に苦しんでいる。それは、日本という国家が苦しんでいると同じことなんです。幕府としては、大名がピーピーして困っていれば安泰なんですが、そういうことをあえてやる政権だったわけで、僕はやはり、徳川幕府は亡国の政権だったと思うんです。
(れんだいこ)  鎖国論は置いといて、徳川幕府は幕府なりに体制建て直しに懸命に努力したが、既に制度疲労していた。新しい時代は新しい皮袋を用意せねばならなかった。旧体制と新皮袋運動は非和解的方法以外有り得なかった、という観点で宜しいのではないでせうか。
 それから安政の大獄なんかを見ても、幕府の内部抗争を原因にずいぶん有為な人を殺していますね。ああいう白色テロなど、幕府も終わりぐらいになると、とにかく根っこが腐敗していた。誰かがその腐蝕した屋台骨を押し倒さなければいけなかったんです。そういう状況を考えると、やっぱりクーデターではダメだと思うんです。幕藩体制というものをまず消さなければけない。それをやった。やったけども、その後をどうしたかというと、ここに問題があるんじゃないかというふうに思うんです。
(れんだいこ)  そうですよね。早乙女さんは明治維新が旧体制の有能な士を封殺したことを批判するが、旧体制が有為な人士を殺していたことには触れておりません。古川氏は的確にそのことを主張されてる。
早乙女  ただね、幕藩体制の改革はもうすでに戊辰戦争の以前に壊れていたと思うんです。というのは、例えば薩摩という77万石の大国が密貿易をやっていた。これに対して、その密貿易を止めるなんていう力は幕府にはなかったわけですよ。そして、薩摩の藩主を、幕政に参与させなければならない状況にまでなっていたわけです。大国の毛利もそうですね。結局は、幕藩体制のなかでの大国が、いろんな政治に口出しをするという形をすでに許していたわけです。ということは、もう改革は始まっていたということなんです。
(れんだいこ)  ここも話をずらしているわな。
古川  だから、徳川慶喜なんかはその改革をやろうとしたわけでしょう。いわゆる雄藩連合、これは島津斉彬なんかも参加して、外様もふくめ、雄藩の連合国家のようなものをつくって、それで議会制でやろうとしたわけですよ。だからおっしゃるように、そこまで、まだ改革の一つの大きな胎動はあったと思います。ところが慶喜がいろいろ細かい改革はやろうとするんですが、ほとんど内部からの抵抗で、できない状態なんです。そういう改革に誰がストップかけるかといえば老中、幕閣なんです。幕府のなかの官僚が、改革を阻止したわけです。だから、おっしゃるような改革はとっても難しいことだろうと思います。いまのちょうど外務省の改革をめぐって官僚の抵抗が浮かび出ている。自分たちの保身を含めて、組織を守ろうとする、あれに似たような状況があったんじゃないかと思うんです。慶喜なんか、政策顧問といった腹臣3人が暗殺されている。
(れんだいこ)  古川氏の観点は概ね正しいと思う。それにしても早乙女氏のそれは無茶苦茶な漸進的革命理論ですね、恐れ入りました。両者共に国際ネオシオニズム論が媒介されていないので物足りない。

 「そういう意味では、明治維新は確かに変革ではあるけれども、歴史を前進させるための革命ではなかった。それは革命であると同時に復古であって、太政官制のような古めかしい、前代的形態のエリート権力でもって近代化を図っていくことになりました」。
「石堂清倫 /米田綱路(聞き手・本紙編集)」
 
 「★阿修羅♪ > エボラ・ゲノム15」のあのに氏の020 年 8 月 13 日付投稿「戦争は、なぜ起きるのか?69 戦争と秘密結社の起源3  日本のイルミナティ」。
 戦争は、なぜ起きるのか?69 戦争と秘密結社の起源3  日本のイルミナティ

 1、日本のほんとうの敗戦であった明治維新

 前回示したようにわれわれの歴史のなかでの、かれらイルミナティ、ユダヤ秘密結社が起こした日本への攻撃、かれらの「革命」とよばれるわれわれへの戦争について考えよう。

 この明治維新と名づけられてきた日本革命は、英国の清教徒革命やロシアのロシア革命、フランスのフランス革命とほとんど同じように、イルミナティ、ユダヤ秘密結社が江戸幕府にたいして起こした戦争であった。

 だが、これほど戦争後の処理が成功した例は、ほかにないであろう。ほとんどの日本人は、これを戦争であったと、まったく考えず、薩長の藩が、封建体制である江戸幕府を倒し、自由と民主体制の明治の日本帝国をつくりあげた事件であると、さまざまな手段で、堅固に信じ込まされてきた。

 このマインドコントロールは、いまだに続けられている。明治維新について書く多くの本、小説、テレビドラマなどあらゆる情報手段で、繰り返し、繰り返し、インプットされ洗脳がつづけられている。明治維新の後の処理が、150年後のいまだにつづけらており、当時の事実への撹乱工作が、いまだにあるようにみえるのだ。鬼塚英昭氏のユーチューブ動画に、イルミナティ歴史学者との会話の話がある。こういった洗脳活動が、日本のイルミナティ、ユダヤ秘密結社という目に見えない組織があるようであり、明治以来確固として存在を続けている証拠だとわたしは考えてきた。

 もちろん、多くの情報は消滅をはかられ、撹乱情報でいっぱいにされ、知り過ぎた男は暗殺されてきた。とんまなテロリストたち伊藤博文、坂本龍馬、西郷隆盛などの勤皇の志士は、その後さまざまな口実で殺されたが、基本的には知り過ぎたことが理由ではなかったか。ここにも秘密結社の影すら、ほとんど見えない。また、このテロリストたちは、殺されたたあとドラマなどで美化され、賞賛されたが、それは秘密結社の影すらをも、完全に隠すためであったのだろう。

 これは、日本のほんとうの敗戦であったのにもかかわらず、イルミナティ、ユダヤ秘密結社の日本への攻撃であったとする視点を、いまだに100%の人は持たない。われわれは、ほんとうの歴史をまったく持たないのである。以後、明治、大正、昭和、平成、令和と続くほんとうの歴史は、存在しない。つゆほども存在しないという事実すら、夢にも考えられない事態になっている。

 そして、多くの人には、敗戦というと1945年であり、相手は米国であると思わされている。この原爆投下、空襲という民間人の大虐殺、東京裁判と続く茶番は、ほとんどの人は事実としてのみ刷り込まれているのである。こう書いても、ほとんどのひとには、わたしが何を書いてわからなだろう。日本はアメリカから兵器をうごかす原油輸入が保証されたからこそ、戦争ができたのであり、ドイツもおなじようにイギリスから原油輸入が保証されたからこそ、イギリスとの戦争ができたのであると、たしか鬼塚英昭の本にある。キャロル・キグリーの本には、アメリカが戦争中に、対戦相手国ドイツへの援助を行った証拠文書がのっており、兵器製造のボールベアリングをドイツに優先輸出したため、アメリカはしばらく兵器製造ができなかったのであるとある。わたしが、日本に原爆を投下するため、第2次世界大戦が始められたと書く理由である。

 とうぜんながら、明治維新という戦争の全体像は隠され、浮かび上がるのは、日本人の群れだけである。本体部分はまったく見えず、長崎のグラバーやアーネスト佐藤くらいの名前しか見えない。明治維新を考えることによって、いかに秘密結社が見えない存在であるかといういうことが、反面的、逆説的に理解できるかもしれない。

 ここには、露国のプーチンのような愛国者は、日本には存在しなかった。えせ愛国者、すなわち売国者の長い列が連綿と150年間も続くのだ。あらゆる政治家は、基本的には売国者としてしか、日本では存在できないのは、明治維新が、日本のほんとうの敗戦であったからである。150年間繰り人形しか、政治家として存在できなかったことは、繰り人形をやめた田中角栄ほか多くの首相の末路が証明する。イルミナティ、ユダヤ秘密結社の息のかかった人間だけが、日本の政治、経済、軍事、医療などを動かすことがゆるされてきたのである。

 ここに日本の政体は、天皇制国家であると誤解されてきた長い歴史がある。天皇が、最高権力者であるという錯覚が、第2次世界大戦の天皇の戦争責任という問題をひきおこしたとわたしは考えてきた。だがまぼろし、錯覚、妄想であろう。おそらく、明治以来天皇が、最高権力者であるという事態は、ほとんどなかっただろう。明治以来の、日本でのイルミナティ、ユダヤ秘密結社の存在は、100%完全にかくされてきていると、わたしは考えてきた。

 これは、イギリス、アメリカにおけるイルミナティ、ユダヤ秘密結社の浸透、融合と、ほとんどおなじであろう。日本人は天皇制をイギリスの君主制とおなじように考えるが、まさにイギリスへのイルミナティの浸透、融合と同じ現象が、いま日本でおきているのであろう。さらに、ある意味、ドイツにおけるユダヤ秘密結社の誕生を探求することこそが、いま現在日本で起きている事象を、推測、理解する助けになるのであろうか、ともわたしは考えている。

 かってのハザール王国でのイルミナティ、ユダヤ秘密結社の活動を、意図的らしい歴史隠滅によってほとんど知ることができないならば、ドイツ、ゲットーから西欧で始まったイルミナティ、ユダヤ秘密結社の活動を、イギリス、アメリカ、日本へとつないで考察することが、見えないかれら秘密結社を浮かび上がらせる手段となるだろう。

 2、日本の最高権力者は、日本のイルミナティである。だが、それは天皇ではなかったし、いまもそうであろう。

 日本の政治、経済、軍事を動かすほんとうの構造は、日本での秘密結社を見なければ、存在すら予想できないのである。秘密結社であるから、存在はまったく見えない。かれらの存在は、おもてにはたとえば財団の理事長などの大富豪としてあらわれる。あるいは、なんの義務も持たない大学教授であろう。たとえば、有名なのは人材派遣会社パソナと仁風林を駆使する竹中平蔵であろう。

 あるいは、秘密結社の末端は、マスメディアを動かす人材、あるいはネット界での工作員としてあらわれるだろう。ここで、注意すべきは、すべての政治家や官僚は、おそらくは繰り人形であるという視点だ。ほんとうの秘密結社員は、繰り人形の政治家や官僚を動かすが、おもてにはいっさい出ないか、気がつかれない。ただ、政治家や官僚の友人としてあらわれるだけだろう。

 こう書くと、政治家や官僚の情勢に詳しいひとには、かれらの隠れた友人などのしっぽが見えてくるかもしれない。だが、けっしてトカゲの本体である中核部分には近づけないだろう。秘密結社だからである。この秘密結社は、さまざまな小ピラミッドのうえにそびえる1つの大ピラミッドであり、その頂点に、日本の最高権力者がいるのであろう。ここは、米国などの秘密結社へと続く。CISISなどであろうか。

 この秘密結社は、工作活動資金を海外タックスヘイブンに持つだろう。数年前に話題になったパナマ文書であきらかになった電通と創価の厖大な資産である。電通は、たんなる広告会社ではなく、創価もたんなる宗教団体ではない。

(私論.私見)






(私論.私見)