古川 |
それは、私は破壊のあとの権力の問題、いわゆる政権を担当した者の試行錯誤というのはやむを得なかったと思いますよ。明治4年に岩倉使節団が出て、それから次第に軌道に乗っていくわけですけれども、それはね、早乙女先生、最初の朝令暮改というものは、これは僕は避けられなかったと思うんです。司馬さんがこう言われるんですよ。明治維新をやったいわゆる薩長は愚かだと。青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいったと言われるんですけど、革命というのは暴発だと思うんです。そう青写真を前もって描き上げて、それで倒していくというようなものは、それはちょっとないだろうと思うんです。 |
(れんだいこ) |
古川氏の朝令暮改は止むを得なかった論は正しい観点だろうと思う。しかし、司馬の「青写真なしに革命をやった。幕府を倒した。それで大慌てで明治4年に泥縄式に外国を学びにいった」論を認めた上で革命暴発論を唱えているが論旨が一定していない。 |
早乙女 |
ただね、幕末における幕府の閣僚たちのなかに、例えば小栗上野介のような頭のいい人がいて、彼はすでに幕末において郡県制度を構想していた。こういう人たちが幕末にいたということを、明治以降の歴史教育はひっくり返そうとして、無血革命というか内部改革への道を壊してしまった。そして結局、自分たちの発想のような顔をして郡県制度がその後実行され、今日まで続いています。 |
(れんだいこ) |
これは史実だ。で、早乙女氏は何が云いたいのだろう。 |
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ですから、これは幕府の閣僚たちが考えていた構想の上に立ったものであって、それを盗んだとまではいわないけれども、朝令暮改のあの姿を見ますと、そういう構想が彼らにはなかったということです。最も形の上ではっきりしているのは、明治維新が行われた途端に大宝律令の昔に返したということです。いろんな省の名前と司とか、実に古臭い名前を持ってきた。これは彼らになんのビジョンもなかったということなんです。あれは、郡県制度を敷くためにはどうすればいいかとかということをパーッとやれる力があったわけなんです。なんでもできたわけですから。そういうものを、結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかったということです。 |
(れんだいこ) |
「結局、試行錯誤せざるを得ないだけの、頭しかなかった」というより、早乙女氏が「結局、そのようにしか理解出来ない頭しかない」ということなではないのでせうか。 |
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確かに、伊藤や井上たちは留学しましたけれども、半年くらいで帰ってきているでしょう、確か、馬関戦争でね。半年なんていうのは、あっという間にたっちゃうんでね。何もなってないです、ほとんど。彼らにそのビジョンがないということが、結局、最初の混乱を招き、そして長州自体のなかでも、前原一誠とか奥平議輔とかがいろんな人たちに対して、これじゃしようがないと思わせたわけです。彼らがそう思わざるを得ないくらい、天下を取ったけれども、施政方針としてもなんのビジョンもなかった。これじゃいけないということで、前原一誠たちが立ったわけです。こういう立派な人たちが、結局は殺されざるを得ないことになってしまう。
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(れんだいこ) |
「伊藤や井上の半年間の留学」の裏意味を嗅ぐ必要がある。前原一誠とか奥平議輔とかの不満も、ビジョンのなさに対するものであったのではなく、革命後の新国家像が食い違ってきた故に非和解的にまで発展したと読み取るべきではないでせうか。
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こういうところに明治維新の、クーデターの持つおそろしさがあると思うんです。自分たちが天下取った以上、前原や奥平が何を言っても、彼らの言うことは聞かない。前原は参議になっていた男ですから。スターリンがトロツキーを追い出して惨殺したのと変わらないでしょう。トロツキーは亡命してから内乱を策していたわけでもなんでもないです。それでも刺客をやってまで斧で叩き殺した。それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな。暗殺者を差し向けて殺してしまえばそのままになってしまうけども、前原たちの場合、理想を掲げて反逆しようとした、それを結局、政府に対する反抗だといって殺しちゃったわけですからね。こういうのは、実に許せないと思うんです。江藤新平の場合もそうでしょう。大久保が隣の部屋で死刑の判決を聞いてニタリとしたということを、自分で日記に書いているくらいですから。こういう連中によって明治の最初の政府がつくられたということは、どう考えても明治維新というものの評価ができなくなってくるわけですね。 |
(れんだいこ) |
トロツキーが刺客によって殺されたのよりも、前原たちの反政府運動に対する圧殺の方が、「それとほとんど、いえ、むしろそれより悪いと思うな」なんて比較に何の意味があるのでせう。ようやく見えてきたことは、早乙女氏が明治維新の相続者達を好評価してない故に、そこから遡って明治維新そのものの価値をも落とし込めるという論理のようだということかな。 |
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一方で、プラスの評価というのはこういうことが考えられます。世の中というものは、地球というものは、常に何かの天災が起こります。例えば洪水がある。洪水というのはいろんなものを流して、下流のほうの家などを倒したりするけども、土地は肥沃にします。これは原始的な意味での効果なんですよ。これがなかったら、確かに下流のほうに肥沃な土地ができない。これと同じような意味では、確かに幕府が倒れたということは、近代化のそれだけの効果はあったと思います。東京だって爆撃されたから新しい都市が出来上がった。ですから、これは歴史的な見方の視点いかんにも拠ってくるんです。歴史を書く場合、歴史を調べるなら、その時、悲劇的な目にあった人たちはどうしてくれるんだということですね。 |
(れんだいこ) |
只今の議論の最中に、こういう一般論を持ち出して還元するのは意味を為さない。 |
古川 |
私は、維新のプラスについては、ちょっと早乙女先生と違うんですね。少なくとも、私はクーデターというよりも、限りなくやはり革命に近いものだというふうに思うんです。山県だとか伊藤だとか、彼らがやった私的な部分については、ずいぶん彼ら自身も批判も浴びているわけですけども、彼らがやったこと自体は、やっぱり認めてやらなければいけないと思うんです。 |
(れんだいこ) |
山県だとか伊藤だとかを持ち出すのではなく、いわば西郷派の討幕運動を問えば、是認方向の論が正解ではないでせうか。山県だとか伊藤を持ち出しての明治維新論は臭いものになって当たり前でせう。 |
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彼らが下層の出身で、幕府という権力に、少なくとも一時期命をかけてやったことは動かない事実だと思うんです。やはり、日本のそれまで、例えば源頼朝が幕府を建てて、700年間続いた武家政権のなかで培われた封建制という絶対主義専制政治を倒した。封建というものがあそこでいちおう倒れるわけです。しかし不徹底なところがあって、いわばアンシャレジームというふうなものが残ったわけですが、やっぱりあそこで急激な大きな変革があったことは確かで、日本という国家が、近代国家としての出発を見送ったわけですね。 |
(れんだいこ) |
そうです。そう読み取るべきでせう。 |
早乙女 |
なぜそこに革命が起こる必然性があるのかといったら、革命が起こるだけの、彼らをして野獣性を最大に発揮させるだけの悪いことが、為政者のほうにあったということがフランス革命でもロシア革命でも真実の姿なんです。結局、ロマノフ王朝があれだけ長く続いたために、それこそ腐り切った王政が続いていた。
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(れんだいこ) |
早乙女氏の「野獣性革命論」見識の程度が知れて参ります。それと、ロマノフ王朝を「腐り切った王政が続いていた」と看做す論拠が開陳されぬままに言い切っているのは如何なものだろうか。 |
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ところが、日本の徳川幕府政治はどうかというと、そういうことがなかった。江戸時代を近頃、たくさんいろんな学者が見直しています、新しく。いかに江戸時代というのが、明治政府や戦後の左翼連中によって言われたようないい加減なものじゃなかったということを。けっこう楽しんで生活していた、意外に豊かだったんじゃないかということは、いま大勢の人が言っています。江戸の繁栄ぶりを見たって、世界一の都市だったわけでしょう。参勤交代で集まった季節は、本当に大変な人数なわけで、100万都市だとかなんとか言われたくらい、それはオーバーにしても、少なくとも50万や100万の都市になっていた。都市化して、なおかつその人たちが江戸の文化というものを醸成してきましたよね。文化ができるということは、心の豊かさ、生活の豊かさがなかったら、発展しませんから。食うに追われていたら文化は発展しません。その江戸の文化というものが今日われわれが甘受している着物とか生活の身の回りのものなわけです。たいていのものが江戸時代に完成したわけです。奈良朝から最初は発したかもしれないけれども、それだけの文化を醸成するだけの世の中が260年続いたというのは、ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか。 |
(れんだいこ) |
江戸時代の内実をそう見るのは見識である。そういう江戸論が必要な時期に入っているのは確かだ。但し、「ここには革命の必然性というのが、非常に少なかったんじゃないか」と云い出したら如何なものだろうか。論理的には、そういう江戸時代を突き動かして行った時代のベクトルを捜し出すべきでせう。 |
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ですから僕がいっているのは内部改革命なんです。黒船が来たことによって外国に対する目が開かれ、いままでの鎖国のままじゃいけないとなった。そして、攘夷ということが非常にカッコいいもんだから、勤皇の志士たちはみんな攘夷を口にしだした。ところが攘夷なんていうものは外国人をやっつけろということで、これは非常に偏狭な気持ちでしょう。 |
(れんだいこ) |
「攘夷=非常に偏狭な気持ち運動」と見なす早乙女氏の歴史家としての能力が疑われる。攘夷には十分に根拠があつたとてして、その論拠を見出すのが思想家の努めでせう。 |
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徳川家康が鎖国したのは17世紀においては必然だった。ところが18世紀、19世紀と時代が進むと、もはや世界というのは拓けてきた。大航海時代からきたところの世界的な趨勢ですよね。そうなるとやはり開港せざるを得なくなり、開港に踏み切っていく。ところが次は、天皇はそういうふうには言ってないぞと、開港を叫ぶヤツをやっつけろというのがいわゆる長州やその他の過激派のやり方だったわけです。それで殺人、暗殺、テロをはじめたわけでしょう。だから高杉晋作だって、イギリス公使館に火をつけた。それが天下を取っちゃったら、ケロッと口ぬぐって、これからは文明開化だと、この欺瞞性ですよね。高杉が生きていたら、何と弁解したでしょうか。この欺瞞性というものは、絶対に、いかなる理由をつけても嘘なんです。天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげたんです。 |
(れんだいこ) |
「天下を取った自分に都合のいい理論を、それからつくりあげる」ことは通例で、この事自体が悪いと云い始めたらきりがない。問題は、「自分に都合のいい理論」の内実の検証にこそあるだろう。
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じゃ、江戸時代のままだったらどうかというと、江戸時代のままということは、ですからあり得ないわけでしょう。さっきいいましたように、もうすでに小栗上野介が郡県制度を考えていて、フランスなんかと密接になってた。江戸時代に培った江戸人の生活、それが結局は、そのまま内部改革、無血革命によって、公武合体という形になれたと思うんです。公武合体という形は、最初のいうなれば幕府の改革なんです。公武合体によって大勢の知恵をということは、確かにブルジョア革命の形かもしれません。公武には庶民が入ってない、だからブルジョア革命だということになるかもしれませんけども、結局、世界の必然によって、その形がずっと、19世紀から20世紀にかけて行われるということはあり得ないことなんですね。外国に門戸を開かれれば、いやでも外国の制度を見ることによって、いい点を吸収するというのは当然のことですから、無理なくそこに開かれていく。ですから、イギリスなどを手本にするというような形で最初はみんな勉強したわけです。留学生が行ったりして。 |
(れんだいこ) |
何が云いたいのでせうね。 |
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ですから、いわゆるゆるやかな革命、改革ですね。ゆるやかな改革があれば、そこに流血の惨事というのは起こらない。そうしてまた、禍根を残さないということです、いちばん大事なことは。禍根を残すような改革はダメなんです。結局、それに対する復讐心だって出てきますし。いちばん大事なことは、そこにあるんじゃないかと思います。つまり、ゆるやかな改革によって政治なり社会の仕組みなりが、次第に世界の各国のいい例を取り入れることによって変わっていく、これは一人や二人が反対したって止まるものじゃないでしょう。それをしないで急激に明治維新をやったものだから、これまであった江戸の文化とか日本人の持っている良さというものが、どんどん失われていったんです。 |
(れんだいこ) |
そうか、早乙女氏は「流血の惨事が起こらないゆるやかな話し合い革命」を夢見ているんだな。「明治維新は急激にクーデター的に為されたから駄目」という観点なんだね。
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例えば会津だけに限って見ましても、秋月胤永とか山本覚馬とか優秀な人がたくさんいました。秋月胤永なんか日新館の先生をやったり昌平校の先生をやったりしたんですが、結局、最後は、熊本五高の先生をやっていて、後からラフカディオ・ハーンが同僚で入ってくるんです。ハーンにしてみたら、実に素晴らしい人だ、この世の中に神様というものが人間の形をしているとすれば秋月先生だと、そこまで言わしめるほどの存在だったわけです。こういう有為な人材というのがたくさんいた。
山本覚馬だって伏見の戦いで牢屋に入れられますけども、その時に盲目になったわけです。盲目になって両眼が見えなくなって、それでもそれまで培った知識というものは大変なものがあったわけです。ですから薩摩屋敷に閉じ込められていたけれども、そこで弟子に向かって、これからの世の中のあり方というものを書かせて、それを『管見』と謙遜した言葉で称して、西郷隆盛にやった。西郷隆盛は非常に驚きました。西郷隆盛にしてみれば、これからどんな世の中をつくろうかと思っていたところですから、非常に驚いて、あわてて牢屋から出す。そして自分の師匠にするということで、結局、彼は京都府議長に選ばれる。そういうふうに才能というものがあったわけですよ。
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(れんだいこ) |
この例で、結局何が云いたいのでせう。 |
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こういう人たちが会津だけでもいたわけです。ほかの藩だって、どれだけ上層部にそういう人たちがいたかわからない。少なくとも300藩だとしても、その300藩の上層部にそういう素晴らしい人たちがいた。結局、その人たちの知識と教養と知性というものを、全部叩きつぶすような形でもって暴力革命が行われたということです。それが明治の悲劇だというわけです。その人たちの知恵を吸収して、それこそ大勢の知恵を吸収して新しい日本をつくって、緩やかな改革を行っていけば、日本という国は、軍国主義に走ることもなかったんじゃないかと思います。軍国主義に走ったということは、日本がこれから、地球が存在している限り負わなければならない負い目だと思います。 |
(れんだいこ) |
なるほど。幕末志士達は幕府の有能人士と相和して協力しながら改革運動を目指すべきだった。ろくな青写真も持たずに暴発させたから、後々悲劇を生んだ、という論のようですな。 |
古川 |
早乙女先生のご意見とちょっと違っていることだけはいっておかなければいけないと思うんですが、ゆるやかな改革ということは確かに理想としてはわかります。だけど、あの幕藩体制のなかで、例えば士農工商という身分制、それからいろんな封建社会の非人間的な不条理を取り除いて、民主主義を実現するまでは、それは段階を踏めばおそらく40、50年はかかるだろうと。だから、急ぎ過ぎたといえばそれまでだけども、やっぱり幕府は倒れなければいけないものがあったと思うんです。幕府を倒す側に、なんらそういう理由はないといわれると、ちょっと僕は違うと思います。 |
(れんだいこ) |
革命論的には古川氏のこの観点こそ正論でせう。 |
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徳川幕府のいちばんいけなかったことは、鎖国ですよ。鎖国の理由はあったでしょう。だけど、各大名に自由な経済活動を禁止した。西日本のほうでは、大陸に近いから、それまでは貿易なんかもやっていた。それを一切禁止しますね。そうして、参勤交代というふうなもので各大名は財政を破綻させ、みんな経済改革やろうにもできない。みんなピーピーしてて、衰弱していった。日本の大名のほとんどは、もう財政困難に苦しんでいる。それは、日本という国家が苦しんでいると同じことなんです。幕府としては、大名がピーピーして困っていれば安泰なんですが、そういうことをあえてやる政権だったわけで、僕はやはり、徳川幕府は亡国の政権だったと思うんです。 |
(れんだいこ) |
鎖国論は置いといて、徳川幕府は幕府なりに体制建て直しに懸命に努力したが、既に制度疲労していた。新しい時代は新しい皮袋を用意せねばならなかった。旧体制と新皮袋運動は非和解的方法以外有り得なかった、という観点で宜しいのではないでせうか。 |
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それから安政の大獄なんかを見ても、幕府の内部抗争を原因にずいぶん有為な人を殺していますね。ああいう白色テロなど、幕府も終わりぐらいになると、とにかく根っこが腐敗していた。誰かがその腐蝕した屋台骨を押し倒さなければいけなかったんです。そういう状況を考えると、やっぱりクーデターではダメだと思うんです。幕藩体制というものをまず消さなければけない。それをやった。やったけども、その後をどうしたかというと、ここに問題があるんじゃないかというふうに思うんです。 |
(れんだいこ) |
そうですよね。早乙女さんは明治維新が旧体制の有能な士を封殺したことを批判するが、旧体制が有為な人士を殺していたことには触れておりません。古川氏は的確にそのことを主張されてる。 |
早乙女 |
ただね、幕藩体制の改革はもうすでに戊辰戦争の以前に壊れていたと思うんです。というのは、例えば薩摩という77万石の大国が密貿易をやっていた。これに対して、その密貿易を止めるなんていう力は幕府にはなかったわけですよ。そして、薩摩の藩主を、幕政に参与させなければならない状況にまでなっていたわけです。大国の毛利もそうですね。結局は、幕藩体制のなかでの大国が、いろんな政治に口出しをするという形をすでに許していたわけです。ということは、もう改革は始まっていたということなんです。 |
(れんだいこ) |
ここも話をずらしているわな。 |
古川 |
だから、徳川慶喜なんかはその改革をやろうとしたわけでしょう。いわゆる雄藩連合、これは島津斉彬なんかも参加して、外様もふくめ、雄藩の連合国家のようなものをつくって、それで議会制でやろうとしたわけですよ。だからおっしゃるように、そこまで、まだ改革の一つの大きな胎動はあったと思います。ところが慶喜がいろいろ細かい改革はやろうとするんですが、ほとんど内部からの抵抗で、できない状態なんです。そういう改革に誰がストップかけるかといえば老中、幕閣なんです。幕府のなかの官僚が、改革を阻止したわけです。だから、おっしゃるような改革はとっても難しいことだろうと思います。いまのちょうど外務省の改革をめぐって官僚の抵抗が浮かび出ている。自分たちの保身を含めて、組織を守ろうとする、あれに似たような状況があったんじゃないかと思うんです。慶喜なんか、政策顧問といった腹臣3人が暗殺されている。 |
(れんだいこ) |
古川氏の観点は概ね正しいと思う。それにしても早乙女氏のそれは無茶苦茶な漸進的革命理論ですね、恐れ入りました。両者共に国際ネオシオニズム論が媒介されていないので物足りない。 |