犬養木堂の履歴考



 (最新見直し2011.05.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、犬養木堂の履歴を確認しておく。「ウィキペディア犬養毅(いぬかい つよし)」、「犬養毅について」、「犬養木堂記念館」、「犬養毅(1855-1932):言論の自由を貫徹した憲政の神様」その他を参照する。(以下、略)。

 2011.5.30日 れんだいこ拝


【犬養木堂の総合履歴】
 1855(安政2)年4月20日(6月4日) -1932( 昭和7)年5月15日。日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。

【犬養木堂の履歴その1、幼少期】
 1855(安政2)年4月20日(6月4日)、備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)で出生。幼名は仙次郎。名は当毅(後に自ら毅(つよし)と改める。「つよき」とも読む)。犬養家は代々大庄屋を務めた豪家だった。郡奉行を務めた犬飼源左衛門と妻嵯峨の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。犬養家の伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)。吉備津神社への崇敬の念強く、神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫である。

 1860(万延元)年、5歳の時、父から四書五経の素読を受ける。1861(文久元)年、6歳の時、庭瀬藩医森田月瀬に漢学を学ぶ。1865(慶応元)年、10歳の時、犬養松窓の三餘塾に入り経学を修める。1868(明治元)年、13歳の時、8月、父病死(享年49歳)。1869(明治2)年、14歳の時、自宅の門側に塾を開く。倉敷の明倫館に学ぶ。1872(明治5)年、17歳の時、小田県庁に勤務。この頃、西洋学に興味を覚え、英書を熱心に読み、国際法(万国公法)や議会政治、国家主権などを解説する政治思想や法律学を独学した。犬養家には毅を上京、留学させる財力が最早なかったが、母方の叔父や姉の旦那の実家、友人などから経済的援助を受けて上京することになった。1874(明治7)年、19歳の時、小田県庁を辞す。

【犬養木堂の履歴その2、青年期】
 1875(明治8)年、20歳の時、上京する。郷里の知人・山口正邦により郵便報知新聞の主筆・藤田茂吉(藤田鳴鶴)を紹介され、藤田は、東京で英語と洋学を学びたいという犬養の要望に応え、学費と寮費が安くて英語が勉強できる本郷湯島の共慣義塾を紹介した。共慣義塾の寮に入って極貧の中で英語を懸命に勉強した。この頃より郵便報知新聞に寄稿し始め、とりあえずの経済的な収入源を確保する。
 1876(明治9)年、21歳の時、慶應義塾に入学。一時、共慣義塾、二松學舍(現二松學舍大学)にも通う。

 1877(明治10)年、22歳の時、西南戦争勃発。慶應義塾在学中、郵便報知新聞(後の報知新聞)の西南戦争従軍記者として特派される。抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した史実は一説には犬養の取材によるものとも云われている。郵便報知新聞紙上の「戦地直報」は名声を博した。しかし、郵便報知新聞が西南戦争への従軍・取材と引き換えに慶應義塾の学費を支援するとの約束を破ったため、憤慨して原稿執筆の仕事を辞めた。

 1879(明治12)年、24歳の時、有志と国会開設建白書を元老院に提出する。

 1880(明治13)年、25歳の時、慶應義塾大学卒業前に中退し、栗本鋤雲に誘われて記者となる。こうしてジャーナリスト(言論人)の道を歩み始めた。8月、 財閥・三菱の経済支援を受けて「東海経済新報」を創刊する。この頃、保護主義経済を表明し、田口卯吉らの東京経済雑誌は自由主義を表明し論戦となった。

 この頃、議会政治と立憲主義の必要性を主張する参議・大隈重信と出会う。これが議会政治参加のきっかけになる。大隈は、明治の元勲・西郷隆盛や江藤新平、前原一誠、板垣退助らの一斉の下野の際に同調せず、政権中枢に残り続けた。立憲主義者として、薩長や元老独裁の藩閥政治を批判し、早期の国会開設(議会政治)や政党単位の政策論争による民主的な政党政治を求めていた。大隈は、東海経済新報の新聞記事や社説を書いていた主幹・犬養毅の言論人としての能力と熱意を認め、国会開設が成立した時に国会答弁を行う政府委員になってくれないかと要請し、犬養が応諾した。

 1881(明治14)年、26歳の時、7月、大隈の推挙により統計院権少書記官に任ぜられる。10月、伊藤博文や西郷従道など政府の元老によって大隈が政府から追放された「明治十四年の政変」による大隈の下野とともに退く。その後、文筆と雄弁をもって政治運動に入る。この頃、国会開設を求める板垣退助らの自由民権運動が実を結び薩長閥は「1890(明治23)年に国会を開設する」と発表する。

 1881(明治15)年、板垣退助の自由党が結成される。

【犬養木堂の履歴その3、ジャーナリスト時代】
 1882(明治16)年、27歳の時、4月、大隈重信が立憲改進党を結成し、犬養が呼応して入党する。大同団結運動などで活躍する。5月、東京府会議員補欠選挙に当選。11月、「東海経済新報」を廃刊する。結党間もないこの頃の立憲改進党の演説会で、万国公法(国際法)を引き合いにしながら「政略上の対立的な外交(圧力外交)」を辞めて「経済上の相互的な外交(通商貿易・対話外交)」を盛んにすべきだという平和主義路線の外交政策を論じている。国際政治や国際法の分野で博識だった犬養は、クリミア戦争後のパリ会議(1856年)などの国際平和会議(中立条約)を例に出しながら、日本も緩やかに領土拡張を目指す覇権主義から相互繁栄を目指す平和主義(経済優位の外交)に移行しなければならないと語っている。自由主義と立憲主義を持論としており、戦争をしてはいけない理由として、「徴兵で国民の自由を拘束し、秘密政治で国民の知る権利を奪うからである」と述べている。帝国主義戦争と外交が当たり前だったこの時代の発言として異色であった。

 この頃、藩閥政府を支持する御用新聞であった東京日日新聞、東洋新聞、明治日報との政党政治(議会主義)や言論の自由を巡る論争が激しくなる。薩長主体の明治政府は、「治安維持」を表面的な大義名分に掲げながら「新聞紙条例」や「集会条例」を改悪して言論の自由や集会結社の自由を弾圧、制限を強めるようになる。新聞紙条例改正により政府の検閲が強化され、集会条例改正によって集会結社の自由が大幅に制限され、政党政治思想や自由主義思想を普及させようとする言論活動が厳しく規制された。

 1883(明治16)年、28歳の時、4月、「秋田日報」主筆として秋田に赴く。11月、帰京して報知社に復す。

 1884(明治17)年、29歳の時、12月、郵便報知新聞特派員として朝鮮に赴く。この頃、政府の言論弾圧が厳しさを増し、自由党の福島事件、加波山事件、秩父事件など反政府的な激化事件が相次いで鎮圧された。立憲改進党も次第に政党としての存在感や影響力を落としていった。これにより国会開設と政党政治の発展を目指した自由民権運動が頓挫した。

 1886(明治19)年、31歳の時、1月、帰京。3月、報知社を辞し、朝野新聞社に入社。

 1887年、集会結社の自由を抑圧する「保安条例」が出されて実質的に政党政治は機能不全に陥る。言論人としての犬養は、郵便報知新聞から朝野新聞へと移り、民報という雑誌を創刊して議会政治や立憲主義を主張する言論活動を継続する。政府が民報を行停止処分すると、犬養は言論人としてのキャリアを捨てて純粋に政治家として生きることを決意する。

 1889(明治22)年、34歳の時、尾崎行雄らと朝野新聞社の幹部となる。この年、大日本帝国憲法発布される。 

 1890(明治23)年、36歳の時、2月、東京府会議員退任。

【犬養木堂の履歴その4、政界入り後の活動】
 1890(明治23)年、36歳の時、7.1日、第1回衆議院議員総選挙に岡山県から立候補して対立候補に圧倒的大差をつけて初当選する。以後42年間で18回連続当選という尾崎行雄に次ぐ記録を作る。第1回帝国議会が開催される。後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)。以降、立憲改進党を経由して進歩党、憲政本党の結成に参加する。朝野新聞社を退く。11月、朝野新聞社を退く。

 1891(明治24)年、37歳の時、1月、日刊新聞「民報」を創刊。5月、休(廃)刊。

 1894(明治27)年、39歳の時、5月、中国進歩党を組織する。この年、日清戦争。

 1896(明治29)年、41歳の時、3月、進歩党を組織。

 1898(明治31)年、43才の時、6月、憲政党を組織。第1次大隈内閣で君主制を批判する意味合いを持つ共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣に任ぜられる。同月、憲政党の分裂後、憲政本党に属した。11月、依願免官。 

 1903(明治36)年、48歳の時、9月、中国・朝鮮視察に赴き、11月、帰京。

 1904年、日露戦争。

 1907(明治40)年、52歳の時、11月、頭山満と共に中国漫遊の途に就く。翌年1月に帰京。

 1910(明治43)年、55歳の時、立憲国民党を結成する。

 1911(明治44)年、56歳の時、清国で孫文等による辛亥革命が起こる。12月、文等の辛亥革命援助のため中国に渡る。翌年2月、帰国する。


 1913(大正2)年、犬養と尾崎が藩閥の第3次桂太郎内閣に不信任案を突きつけ第一次護憲運動を起す。桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)と共に「憲政の神様」と呼ばれた。大隈重信門下の三傑は犬養毅、尾崎行雄、島田三郎のことを指す。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅は憲政擁護会を結成して、議会主導の民主政治を主張する大正デモクラシーの護憲運動を牽引する。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった。立憲国民党はその後革新倶楽部となる。

 犬養は政治以外にも神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、真の盟友である右翼の巨頭、頭山満と犬養は世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。

 亡命中の孫文を荒尾の生家にかくまう。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。

 犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を率いて活躍し、立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。,

 1917(大正6)年、寺内内閣の臨時外交調査委員会に参加したため売節と批判される。この時期から国家総力戦の発想を持ち始め,普通選挙,産業の近代化,軍縮を唱え始める。


 東京朝日新聞の記者だった中野正剛は、「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」と評した。犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったと云う。明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が、「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語っている。その犬養が一旦藩閥政権である寺内内閣への内閣不信任案の共同提出を憲政会(桂に引き抜かれた元国民党議員が所属)に対して呼びかけながら、不信任案反対派の政友会と憲政会の足の引っ張り合いを皮肉って、政権を巡って右往左往する憲政会の態度を切って捨てて、そのまま衆議院解散に持ち込み、総選挙では孤立した憲政会に大打撃を与えた上で寺内正毅の要請を受けて寺内内閣の臨時外交調査会に入ったため、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。その落差は大きい。その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をしており「変節漢ぶり」が常態化した。

 1920()年9月、勲一等旭日大綬章。

 1922(大正11)年、67歳の時、11月、革新倶楽部を組織。

 1923(大正12)年、68歳の時、9月、第2次山本内閣の逓信大臣(兼文部大臣)就任。12月、内閣総辞職。関東大震災。犬養は的確かつ迅速な判断で被災後の東京の郵便・通信インフラの復旧を成し遂げ、被災した国民に対する人道的な政策支援を行っている。逓信大臣としての犬養は公益法人としてのNHK(日本放送協会)を創設している。

 1924(大正13)年、70歳の時、普通選挙の実施と政党内閣制の一般化を求める第2次憲政擁護運動を主導。貴族院議員のみで組閣された超然内閣(議会・選挙・政党と無関係に組閣する内閣)である清浦奎吾内閣を打倒しようとする政治運動へと発展したが、第一次と比べると小規模なものに止まった。6月、第1次加藤高明内閣の逓信大臣に就任する。

 1925(大正14)、70歳の時、5月、自らが率いる革新倶楽部が選挙によって議席を減らしたため逓信大臣及び衆議院議員を辞任。同倶楽部の政綱を受け入れるとした立憲政友会と合同させて政界を一時引退する。「反藩閥を政治信念としてきた犬養は、政友会の党首が長州閥の田中義一であったことから、筋を通して引退した」と評されている。同月、政友会長老に推される。

【犬養木堂の履歴その5、再度の政界活動】
 7月、地元岡山で行われた補欠選挙で支持者が勝手に犬養を候補者として擁立し再選された。余儀なく受諾する。この年、加藤高明内閣が普通選挙法を公布している。社会主義勢力の台頭や急速な藩閥政治の終焉を恐れた政府は同時に、言論の自由と集会結社の自由を大幅に制限する「治安維持法」を制定した。

 1929(昭和4)年、75歳の時、6月、中国の孫文移霊式に参列。政友会総裁の田中義一が急死する。新総裁の座を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく対立し党が分裂の危機に陥る。10月、これに対して党内の融和派が犬養を担ぎ出し、嫌がる犬養を強引に説得。立憲政友会の第6代総裁に選ばれた。ニューヨークのウォール街の株価暴落から始まった世界恐慌始まる。

 1930(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。株式市場と商品市場の暴落によるデフレが深刻化した昭和恐慌が起こり、日本経済は慢性的な不況と金融不安(銀行への取り付け騒ぎ増加)に陥り、中小企業は相次いで倒産して街中には失業者と破産者が溢れるようになり、農村では子女の人身売買が横行する悲惨な事態となった。

 この時、政権を担当したのが立憲民政党の浜口雄幸内閣。浜口は、ロンドン海軍軍縮条約調印に伴う統帥権干犯問題で国粋主義者に狙撃され総辞職を余儀なくされる。浜口の後を継いだのが若槻礼次郎内閣。


 1931(昭和6)年、76歳の時、9月、関東軍が州事変の発端となる柳条湖事件を起こす。12月.11日、第2次若槻内閣は、勃発した満州事変を巡って幣原外交と軍部が対立、安達内相による連立内閣提案を廻つても閣内不統一に陥り総辞職した。12月12日、安達内相は、同志7名を連れて民政党を脱党、国民同盟を結成した。

 若槻内閣は、文民統制(シビリアン・コントロール)によって軍部(中国北部駐屯の関東軍)を制御できず、満州国建国(傀儡政権樹立)へとつながる満州事変を悪化させた。この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。犬養は、在野の有力者・頭山満らと共に長年、孫文をはじめとする中国の革命家の日本亡命を助けるなど中華革命を支援していたので、蒋介石をはじめとする中国国民党政府の有力者と親交があった。満州事変を外交によって解決できる者は、中国国民政府から最も信頼を得ている犬養しかいない。そういう事情も加わり、元老・西園寺公望が野党・政友会総裁の犬養の外交能力に期待して昭和天皇に奉請した。

【犬養木堂の履歴その6、首相時代その1】
 1931(昭和6)年、76歳の時、12月13日、立憲政友会総裁・犬養毅が第29代内閣総理大臣となり、犬養内閣が成立した。犬養首相は衆院で171名の政友会少数党で内閣を発足させた。新聞は白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将・斎藤実盛になぞらえ「昭和の実盛」と書いた。犬養首相は外相兼任。大蔵大臣に高橋是清(貴族院)を登用した。陸軍大臣に荒木貞夫、海軍大臣に大角岑生、司法大臣に鈴木喜三郎(貴族院)、文部大臣に鳩山一郎(衆議院)、内閣書記官長に森恪(衆議院)を起用した。

 「昭和恐慌による日本経済のデフレ不況」と「中国大陸において関東軍が独走した満州事変の事後処理」という難しい内憂外患を抱えた時期であった。犬養首相は、満州事変に対して明確に反対の姿勢を示し、「満州事変の適切な事後処理と国際社会での信認の回復・日本陸軍に対する文民統制・金輸出の禁止による為替の安定化(景気対策)」という「3つの政策」を掲げて、日本を国際的孤立や経済的危機から救おうとした。

 就任直後、経済不況の打開に取り組み積極財政へと転換を図った。蔵相に起用された高橋是清は、金解禁と財政緊縮政策が今回の深刻な経済政策を招いたと指摘し、経済政策を180度転換させ、前蔵相・井上のとった金の輸出を再び禁止し(金輸出再禁止)、兌換停止を断行により金本位制を停止させた。第60議会で、金輸出問題を廻って、高橋蔵相と井上前蔵相が論争した。筋金入りの積極財政論者である高橋は赤字国債を伴う財政出動に踏み切った。の積極政策の財源は公債による赤字財政に拠った。高橋蔵相は、「経済が沈滞している時期だから、増税による経済への圧迫は避け、経済力の回復増進を第一に考えるべきである。そのために一時公債が増えても産業が復興すれば、国民の税負担能力も増え、税収の増加も期待できる。その時に公債も償還できる」と考えていた。かくて「デフレーションからインフレーションへの財政政策転換」が大胆に実施され日本経済は徐々に回復の方向に向かった。結果的に、軍事インフレ路線に転換させた。 

 その政策の内容は次のようなものであった。

軍備拡張  井上財政では予算の3割に満たなかった軍事費は、高橋財政では5割近くに膨張し、満州事変の原資とさせた。軍需物資、特に重化学工業製品の生産が増え、雇用も増えた。つまり満州での軍事的緊張を国内の景気・雇用対策に利用したということになる。
農林土木事業  農民経済を救済し、農村不安を鎮静する事を中心政策に掲げた斉藤内閣は、8月の臨時議会で時局匡救事業を提案、主として農林土木費に財政支出を増やした。7年度から10年度まで継続事業で実施されることになった。これは公共土木事業を中心とし、農家負債の整理、農村金融の拡充等を目的とした諸政策である。
輸出振興  輸出振興のため政府は外国為替の低位安定政策を採る。さらに井上前蔵相の「産業合理化」政策の効果が出てきており、日本企業は国際競争力をつけていた。このため世界中の貿易が沈滞している中、日本の輸出だけが躍進。特に綿製品の輸出増加はめざましく、インド市場を巡ってイギリスと激しい争奪合戦。日英綿戦争とまで言われる。しかしこれには諸外国からダンピングだとの批判もでる。

 この高橋財政で特に問題なのは、禁じ手である日本の中央銀行・日銀による公債引き受けを始めた事である。7年度から「歳入補填公債」(赤字国債)を発行し、それを高橋蔵相が深井英五・日本銀行総裁と組んで、新規公債を日銀引き受けにより発行する新方式を提案、実行した。これで政府は資金が必要な場合、公債を発行し日銀に引き受けさせることで、簡単に資金を調達できる。つまり事実上、政府が自由に日銀券を発行出来ることになった。しかも、同時に日銀券の保証準備発行限度を大幅に増やしている。これは通貨制度において、金本位制度を放棄し、現在と同じ管理通貨制度に中途半端に移行していることを意味する。沈滞した経済界に通貨を供給し、刺激を与えるための資金が、公債を発行することで容易に得られることになったということである。

 この公債政策のためには、日銀の発券能力の拡大が必要となる。このため関連法を改正、日銀券の保証準備発行限度(「金」の裏付けの無い発券限度、裏付けがある発行は正貨準備発行と言う)を1億2000万円から10億円に拡張、制限外発行税を5%から3%に引き下げた。さらに、景気回復対策と国債償還を円滑に進めるため、低金利政策も必要となり、実施している。 これらの政策のため一般会計歳出は、・昭和6年度 14億8000万、・昭和7年度 19億5000万、・昭和8年度 22億5000万と次第に膨張していく。

  元来、中央銀行の役目とは、政府による自由な通貨発行を許していては、通貨価値が安定せず、経済不安を招くため、通貨の番人として政府から独立して金融政策行う役割のはずである。管理通貨制度の場合、この役目はより重要になってくる。金本位制度にある「金」という通貨価値の裏付けが無くなる、代わりに、中央銀行では景気・経済対策のため、柔軟に通貨量を決める事が可能となる。ただし、通貨量・金融政策の管理をよほどしっかりやらないと、簡単に通貨はその価値を喪失する。紙幣が文字通り単なる紙切れになる可能性がある。日本はこの管理通貨制度に、なし崩し的に、中途半端に移行した。

 公債を日銀が引き受けるという高橋政策は、日銀からこの通貨管理能力を、政府が奪った上で、政府の公債発行の歯止めを取り払ったことになる。もし政府が公債=通貨の発行を過剰にした場合、簡単に悪性インフレーションを引き起こし、しいては日銀券が通貨としての信用を失うことになる。つまりは日本の金融制度が破綻する。

 この財政政策は、近代金融制度・市場経済原理を理解している高橋蔵相の管理下で、高橋蔵相の読み通りに経済が回復すれば何とかなるが、一端その管理を離れると暴走を始める危険性がある。管理通貨制度が管理不能の事態に陥る危険性を含んでいた。

 とはいえ、取りあえずは日本は世界で一番早く世界恐慌から脱出することに成功し、ここから昭和12年度までの日本の実質GNP成長率は7%に達する好況の時代を迎えることになった。この時期が、戦前の日本を代表する時代と言われる。(「あの戦争の原因」)

 もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし不幸なことに、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居た。森も若い頃は三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともあったが、政界入りしてから右傾化し、軍内部の大陸権益拡張派や右翼との親交を深めていた。森は犬養の推進する対中融和路線には不満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森が萱野からの電報を握りつぶした。こうして交渉が挫折した。

 犬養は、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱き、陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。犬養はその考えを娘婿の外相・芳沢謙吉と森に喋ったため、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。何故森を書記官長に据えたかと聞かれたとき、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。

 1932(昭和7)年、77歳の時、正月の朝日新聞社説は、関東軍の暴走を諌めるどころか「我が東洋民族が共存共栄のため、宿載(しゅくさい)の禍を転じて、永遠の福をもたらさんとする意図に発するもの」と論じ、自存自衛の正しき軍事行動論で提灯記事を掲載している。これが当時の進歩的文化人の思潮であった。

 1月4日、国際連盟は、英国のリットン伯を団長とする米仏独伊各国委員計5名の調査団を編成。1.29日国際連盟派遣の現地調査段(リットン委員会)が東京に到着し、数日の滞在後上海から南京、満州へと向かった。リットン調査団は、3、4月は中国を、4、5、6月は満州を調査。

 1.8日、朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件が発生した。これを「李奉昌事件」あるいは「桜田門不敬事件」又は「李奉昌不敬事件」と云う。犬養首相は辞表を提出するも慰留された。(9.30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932.10.10日、市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている(→桜田門事件)。  

 1.18日、満洲情勢は一層緊迫の度を増し、上海で日蓮宗僧侶殺害される。上海江湾路にある妙法寺の僧侶2名が、上海の市街をうちわ太鼓を叩きながら托鉢に歩いていた。それは排日に興奮している中国人に対する挑発のような役割を持ち、憤激した三友実業公司の労組員が取り囲み、1名を撲殺し1名が重傷を負った。翌1.19日、日本側の自衛団体・上海青年同士会の十数名が三友実業公司に殴り込みをかけ、日華双方に多数の死傷者を出した。翌20日には日本人倶楽部で、上海居留民大会が開かれ、陸軍の即時派兵を要請することが決議された。大会の散会後、居留民はデモに移り領事館に押しかけ出兵要求を突きつけ、武器の引き渡しを迫り、70挺ばかりの拳銃を受け取った。次に海軍陸戦隊本部へ向かい、即時行動開始を要求し、共々戦うとの気勢を挙げている。日本人居留民を保護するため陸戦隊が応戦せざるを得なくなった。

 1.21日、上海危機の報に軍艦大井その他4隻の駆逐艦が呉軍港を出港し、1.23日の夕方上海に入港。直ちに特別陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたった。中国側に対して上海市内に武装警官8千、警備軍2個師団を配備し、境界線に土嚢、鉄条網などの防御工事を進め始めた。上海の形成悪化は日増しに増していった。

 1.21日、犬養首相は国民世論の満州事変に対する賛否を明確に問うために解散・総選挙を断行し衆院を解散させた。選挙期間中、議会制民主主義の正常な機能を担保するのは「言論・思想・表現の自由」と「集会結社の自由」であるとして、言論の自由に基づく政党政治と民主主義(議会政治)の力を信じ続けた。「政治の本質は暴力(テロ)や恐喝(威圧)であるべきではない」ことを訴え、「民主主義政治は、言論の自由と議会政治(政党内閣)を通して初めて実現できる」ことを主張し続けた。

 1.28日、北西川路の衝突。上海事変勃発。「果然、事件は事件を生み、中国側を一層興奮させたばかりでなく、日本側居留民も激昂した」(川合貞吉「ある革命家の回想」141P)とある。

 2.1日、現地より出兵要請。2.2日、閣議で出兵決定。2.5日、ハルピン占領。2.7日、下元旅団上海に上陸。2.7日、日本政府は第12師団の前原混成旅団を派遣。2.13日、には第9師団が増援された。2.20日、第9師団攻撃開始。中国軍も兵力を増強し、双方の死力戦が繰り広げられた。2.29日、上海派遣軍司令官・白川大将は、幕僚と共に新たに増援された第11師団、第14師団の後を追って揚子江に到着、戦闘は全面的に拡大した。3.1日、上海派遣軍が上海上陸。

 2.9日、前蔵相にして民政党の領袖・井上準之介が右翼血盟団・小沼正のテロにより暗殺される。2.20日予定の第18次総選挙の選挙戦の最中であった。3.5日、三井財閥総帥、三井合名理事長・団琢磨氏が右翼血盟団・菱沼五郎のテロにより暗殺。犯人は農村青年や東京帝大を含む各大学の学生からなるグループに属する菱沼五郎の犯行だった。(「血盟団事件」)。「血盟団事件」とは、国家改造運動グループの一つであった血盟団(日蓮僧・井上日召とその門下生)が、政財界及び特権階級の要人に対する「一人一殺」を標榜して行ったテロ活動によって引き起こされた事件の事を云う。井上日召はもと、大陸で活動する軍事探偵であったが、帰国後、大陸で学んだ野孤禅を更に深め、田中光顕の周旋で水戸大洗の立正護国堂の住職となり、加持祈祷のかたわら朴訥な農村青年を集めて国家改造について語り合い、題目を唱えて修行した。その思いが嵩じて、「一人一殺」テロ活動を目指すようになった。当初、日召は、西田貢などのグループとともに行動するつもりであったが、西田が荒木新陸相に期待して自重的になると西田を見捨てて、門下の青年とともに孤立してテロに走った。襲撃リストには西園寺公望、牧野伸顕らも入っていた。井上日召は、井上、団の射殺の後、頭山満のもとへ脱出したが、ついに進退窮まって自首した。このテロの動きは護国堂に出入りしていた海軍将校たちに引き継がれ、五・一五事件へと進展してゆく。

【犬養木堂の履歴その7、首相時代その2】
 2.20日、総選挙が行われ、政友会303名、民政党146名、その他17名となった。政友会は議席を大きく伸ばし圧勝した。議会始まって以来の多数を獲得、わが世の春を迎えた。待っていたのは、軍部の反乱であった。

 3.1日、日本陸軍(関東軍)が、中国東北部に「満州国」建国を画策し、東北行政委員長・張景恵が満州国の独立を宣言した。3.9日、清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)であった愛新覚羅溥儀(宣統帝)が執政に就任した。犬養首相は、儀政権を傀儡政権と見なして満州国承認に反発し、「ワシントン条約に抵触する」として陸軍の要望に応じなかった。 

 満州国では、「王道楽土」の建設、「五族協和」(日本人・満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人)の実現を掲げ、国造りが進められた。これを理想と見るか、実質と見るかという問題がある。後年、陸軍の指導者が「八紘一宇」を喧伝することになったが、この思想の実体的根拠として満州国が利用されることになった。

 満州国建国は欧米列強をはじめとする国際社会から厳しい批判を浴び、国際連盟からヴィクター・リットン卿を団長とするリットン調査団が満州を訪れ、リットン報告書を作成する。(1933.2.24日、リットン報告書を踏まえた勧告案が提出され、「満州国における日本の権益は不当である」と主張する勧告案が国際連盟特別総会において賛成多数で可決された。3月、これを不服とした松岡洋右外相は国際連盟を脱退することを宣言し、その後、日本は英米を中軸とする国際社会からの孤立の度合いを深め、帝国主義的な侵略戦争へと傾斜して行くことになる)

 この頃、これには日本からきた、岸信介などの官僚グループが積極的に取り組んでいる。彼らは満州組と呼ばれ、官僚指導による統制政策を実施した。以後、満州国は日本の統制政策の巨大実験場となってゆく。彼ら満州組もまた新官僚と呼ばれる。 

 3.3日、上海派遣軍に停戦命令。 

 3月、犬養首相が内相を兼任した。

 4.15日、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が日本に対する宣戦布告。

 5.5日、日華上海停戦協定成立。

【犬養木堂の履歴その8、5.15事件】
 5月15日午後5時過ぎの夕刻、5・15事件が勃発。大日本帝国海軍将校と陸軍士官候補生からなる急進派の青年将校9名(三上卓・海軍中尉(海兵54期)、黒岩勇・予備少尉, 後藤映範・士官候補生らの海軍士官、陸軍士官学校本科生徒ら)が首相官邸に乱入し、犬養首相拳銃で撃たれ、同日夜半死去した(享年78歳)。これを5.15事件と云う。犬養は銃撃を受けた後も「今の若造を連れて来い。俺が話をしてやるから」という強気の発言を残し、死ぬその瞬間まで「人間を変える言論の力」と「暴力に対する理性の優位」を信じ続けた。正二位・旭日桐花大綬章を追贈される。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。

 この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい) 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。

 この日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた。体にはなんの異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言っている。夕方5時半ごろ、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生からなる三上隊が、ピストルをふりかざして乱入してきた。犬養は少しも慌てず、将校たちを応接室に案内した。犬養は、「まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか」と繰り返し、これからの日本の在り方などを語り始めようとしていた。そこへ裏から突入した黒岩隊が登場し、「撃つぞ」、「問答いらぬ。撃て撃て」という叫びが聞こえ、ピストルの音が響いた。黒岩が犬養腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃した。三上卓は裁判で次のように証言している。

 「食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した」。

 女中たちが駆けつけると、犬養は鼻の穴から血を流しながらも意識ははっきりしており、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と強い口調で語ったと云う最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。このときしゃべったとされる「話せば分かる」という文句は非常に有名。10時ごろ大量の吐血をしたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気だった。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分に絶命した(享年77歳)。「昭和の実盛」の壮烈な死だった。

 事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。これには米英の日本に対する態度を硬化させる狙いが陸軍にあったと云われている。


 事件後、森恪が手引きしたのではないかとの噂が絶えなかった。総理官邸に駆けつけた森の態度がおかしかったという古島一雄の証言もある。青年将校たちが、犬養の在宅をどうして知ったのかは事件後の取調べでもはっきりしなかったため、森の手引き説が消えなかったのである。森が犬養批判を強め、その行動を監視して軍に通報していたという事実もある。ただし、もとより状況証拠としても不十分なものばかりで、若い頃から犬養と親しかった森がそこまでやるはずはないという見方もある。

 5月19日、犬養の葬儀が総理官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には息子の健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す。」との弔電に驚く参列者も多かった。宮中席次の序列に則り、大蔵大臣・高橋是清が内閣総理大臣臨時代理を務めた。5月26日、犬養内閣退陣。

 墓所は港区の青山霊園と岡山にある。

【5.15事件の檄文考】
 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。

 「日本国民に檄す。日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事! 何処に皇国日本の姿ありや。政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と、悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と! 日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ。武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外の何物もない。国民よ! 天皇の御名に於いて君側の奸を葬る屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を鷹懲(ようちょう)せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ。 而して、陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を活用し、朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ! この建設を念願しつつ先ず破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ! 」。

 本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。

 5.15事件は犬養首相の暗殺として有名だが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁と共に牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している。だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している。

【5.15事件犯の公判と判決】
 国民は5.15事件を義挙と捉え、減刑嘆願書は150万通に達した。五・一五事件の犯人たちの海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議に、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。

 7.24日、公判開始。午前9時、被告入廷。被告席に二列横隊に着席。続いて塚崎弁護人を筆頭に清瀬、林、福田、稲本の五弁護人、朝田大尉、浅水中尉特別弁護人が着席。傍聴席は満員の盛況。暫くして高須大佐並びに判士大和田少佐、藤尾、木坂両大尉、補充判士・大野大尉、高法務官、係り検察官、山本法務官入廷。法官の前には一万枚に上る調書が積まれている。ついで特別傍聴人が入廷。海軍側では堀田政務次官外その他内務、文部両省思想関係者、民間側では法学博士松波仁一郎氏、代議士浜田国松氏等の顔が見える。午前9時25分、高須裁判長が「これより公判を開始致します」と厳かに宣す。裁判長は、左端の古賀を招き身許調べを行う。古賀が答える。裁判長は「次」と呼んで中村を招き、同様公訴状記載順に従って各被告の氏名年齢を問う。最後に塚野(大尉)に対する氏名身許調べが行われた。終って高須裁判長は、「これより公訴状の陳述を願います」と検察官席に顔を向けた。山本検察官は法官席の最左端につと立上って、次の如き公訴状を冷厳に朗読した。

 反乱罪被告として、休職海軍中尉・古賀清志、中村義雄、三上卓、予備役海軍少尉・黒岩勇、休職海軍中尉・山岸宏、少尉・村山格之。反乱予備罪で、待命海軍少尉・伊東亀城、大庭春雄、待命海軍中尉・林正義、大尉・塚野道雄。犯罪事実を次のように述べている。(「5.15事件公判」参照)
 被告等はいずれも直接又は間接に故海軍少佐・藤井斎より思想上の感化指導を受けたるものなるところ、右斎は海軍兵学校在学時代より、日本を盟主としてアジア民族の大同団結を計り、白色民族の横暴を懲し、以て道義を世界に布かんとするのいわゆる大アジア主義思想を抱懐し、被告・古賀清志、同村山格之等を指導して共に同志拡大に努め居りしが、昭和5年、軍縮会議問題に附随して統帥権干犯問題起り、世論沸騰するや、之を以て政党財閥及君側重臣の結託によりかかる非違を敢てしたるものとなし、大に之を憤ると共に、現代日本に於ては政党政治家、財閥及特権階級等いずれも腐敗、堕落して国家観念なく、日本をして政治、外交、経済、軍備、思想等各種の方面に行詰りを生じ、国家滅亡の虞あるに至らしめたりとし、之が革新の要ある旨を説きて被告・伊東亀城、同大庭春雄等を指導し、同年7月頃、茨城県新治郡土浦町料亭山水閣に村山格之、伊東亀城、大庭春雄外十数名を、同年12月28日、福岡県糟谷郡香椎村香椎温泉に被告三上卓、古賀清志、村山格之外十数名を糾合し、国家革新を目的とする一団を形成して直接行動による非合法運動に従事することとなれり。これの前後に於て被告山岸宏は伊東亀城の勧誘を受け同年12月より、被告・林正義は三上卓の勧誘を受け、昭和6年2、3月頃より、被告・中村義雄は古賀清志の勧誘を受け同年11月より、被告・黒岩勇は三上卓の勧誘を受け昭和7年1月より上記藤井斎を中心とする一団に加入し、爾来いずれも右運動に従事し来りたるところ、藤井斎は上海事変に出征して同年2月5日、戦死するに至りたるも、被告等は依然としてその運動を継続し、被告・塚野道雄も亦林正義の勤誘を受け同年3月より之に加入したり。当時、霞ケ浦海軍航空隊に勤務し運動の中心地たる帝都に遠からざりし関係上、古賀清志、中村義雄の両名は勢ひ主として其の衝に当ることとなりしより、前記素志貫徹の為先づ集団的直接行動により帝都の治安を素して一時恐怖状態を出現し、以て戒厳令の布告せらるに至るべき情勢に立至らしめ、戒厳令下に国家革新の実を挙げんことを企図し、かねて被告等とその目的を同じくして革新運動に従事し居りたる茨城県東茨城郡常磐村三千三十九番地愛郷塾長・橘孝三郎、同塾教師・後藤圀彦、同・林正三、同県那珂郡前渡村大字前浜九百九十九番地・川崎長光、明治大学学生・奥田秀夫、元陸軍士官候補生・池松武志及び陸軍士官候補生・後藤映範外十名と提携するに至れり。

 而して被告等は予てより直接行動の準備に専念し、之に使用すべき武器入手に腐心していずれも手榴弾、拳銃等の蒐集に努め

 (一) 村山格之は、一、昭和7年1月21日、実父従弟佐賀県小城郡北多久村大字多久原三百三十四番地・予備役陸軍歩兵大尉・長尾秀雄より南部式拳銃一挺を入手し、更に同人の紹介により同月24日、海軍少尉・沢田?をして秀雄知人第五師団勤務陸軍歩兵少佐・門司昇一より同拳銃用弾丸約40発を入手せしめ、同年2月中旬、沢田?は右拳銃及弾丸を下宿呉市下山手町二十八番地・岩佐六郎をして古賀清志に送付せしめ、二、駆逐艦薄に乗組み同月23日、上海に出征し、同年4月16日、上海碇泊中の軍艦出雲に於て海軍大尉田崎元武より「ブローニング」拳銃一挺、同弾丸50発を入手し、当時通信艇として上海、佐世保間を往復し居りたる駆逐艦楡乗組大庭春雄をして佐世保に持帰らしめ、次で同月21日、自ら之を古賀清志に手交し、

 (二) 伊東亀城は、上海出征中戦線に於て負傷の際戦闘用として携帯し居りたる手榴弾一個をそのまま所持して後述せられる佐世保海軍病院に入院せしが同年2月12日、同所に於て之を林正義に手交し、正義は同年3月22日、之を黒岩勇に郵送し、

 (三) 三上卓は、上海出征中同年2月中旬、特別陸戦隊用の手榴弾20個を入手して之を村山格之に手交し、格之は駆逐艦楡乗組大庭春雄に手交し、春雄は同月27日頃、之を運搬して佐世保海兵団勤務林正義に手交し、正義は之を同団勤務塚野道雄に手交してその私室に隠匿せしめ、更に同年4月9日、正義は佐世保市熊野町五番地塚野道雄宅に運搬し、同所に於て林正義、大庭春雄、黒岩勇及塚野道雄の四名にて道雄所有の手提鞄に納め、勇は一旦之を佐賀県小城郡東多久村大字別府四千四百二十一番地の実家に持ち帰り、曩に林正義より郵送を受けたる一個と合せ手榴弾21個を同月21日、鉄道便を以て東京市内に輸送し、次で友人東京府下王子町下十条千五首五十番地田代平方に隠匿し、

 (四) 古賀清志、中村義雄の両名は、同年2月下旬より3月下旬に至る問に於て同府荏原郡大崎二百三十一番地財団法人東亜経済調査局理事長、神武会頭、法学博士大川周明、同府豊多摩郡澁谷町常磐松十二番地天行会長頭山秀三、同会理事本間憲一郎に上記企図の大要を  告げて其の賛同を得。よって清志は、一、同年4月3日、周明方に於て同人より拳銃5挺、同弾丸125発及び運動資金として1500円を、二、同月29日、同所に於て周明より運動資金として2000円を受領し、三、同年5月13日、同所に於て黒岩勇をして周明より運動資金として2500円を受領せしめ、四、同年4月17日、秀三方に於て本間憲一郎より拳銃三挺同弾丸若干を、五、同月22日、茨城県新治郡真鍋千三百二十三番地本間憲一郎方に於て同人より拳銃一挺、同弾丸若干を、六、同月30日頃、同郡土浦町大和町三千二十八番地染谷忠助を介し同所に於て憲一郎より拳銃一挺、同弾丸若干を受領し、

 (五)古賀清志及び中村義雄は、拳銃、手榴弾の不足を補ふ為め短刀を入手せんと欲し、池松武志及奥田秀夫に対し資金を給して之が購入方を命じ、同年4月24日、旭松武志より四口を同年5月3日、奥田秀夫より3口を、翌4月、池松武志より2口を、同月14日、奥田秀夫より3口を受取り

 (六)三上卓は、右同様の目的を以て同日短刀2口を購入したり。

 以上の外

 (一)三上卓は、上海出征中同年2月下旬、特別陸戦隊用陸 式拳銃一挺、同弾丸15発入り5箱及び8発入り弾倉2個入手して之を村山格之に手交し、格之は駆逐艦楡乗組大庭春雄に手交せしが、同人は予て卓の指示に基き上海北四川路長春路百八十七号・松下洋行こと松下兼一を介し同年5月9日、同洋行に於て「モーゼル」拳銃1挺、同弾丸120発、保弾鈑4個及びメリオ拳銃1挺、同弾丸[3発を購入して上記陸式拳銃其の他と共に決行の際之を使用せんとする目的を以て同艦私室に隠匿し置きたるも、その意を果さず。

 (二)塚野道雄及び林正義は、同年5月3日当時、道雄方に同居中の佐世保市万津町川原石油店店員予備役陸軍歩兵少尉岩重徳雄に対し資金を給し、長崎その他に於て銃入手に奔走せしめたるも、遂にその目的を達せざりしものなり。

 一方、古賀清志は、中村義雄と相謀り前示企図につき、その実行計画を樹立せんと欲し、同年3月下旬より之が起案に着手し、数次洗練の結果、同年5月13日、一案を得、同月15日に至る迄の間に於て伊東亀城、大庭春雄、林正義及び塚野道雄を除く外全部の同意の下に之を決定せり。即ち古賀清志、中村義雄、三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山格之、奥田秀夫、池松武志及び陸軍士官候補生・後藤映範外十名を四組に分ち、上記の武器を使用して同月15日午後5時30分を期し、第一段に於て第一組は首相官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は政友会本部、第四組は三菱銀行を襲撃し、第二段に於て第四組を除く他の三組は相合して警視庁の襲撃を敢行し別に橘孝三郎の一派を別働隊となし、同日午後7時頃、日没時を期して東京市内及其の附近に電力を供給する変電所数ケ所を襲撃せしむることとし之に依り政党の領袖にして内閣の首班たる者を屠り、君側の奸と目する者を除き、更に政党財閥打倒の意を闡明にすると共に、警視庁に於て動員せらるべき武装警官隊と決戦して警察力を破壊し、以て支配階級擁護の任にありとなす警視庁を膺懲し、その無力を民衆に知らしめて之が奮起を促し、変電所を破壊して帝都を暗黒化し軍力を以てするに非ずんば克く秩序を維持する能はざるの事態を惹起せしめ、延いて戒厳令の施行に至らしめんことを期し、加ふるに従来被告等と国家革新道動に従事したる東京府下代々幡町代々木山谷百四十四番地元陸軍騎兵少尉・西田税を目して被告等の計画実行を妨害するものとなし、この機会に川崎長光をして之を暗殺せしむることとしたり。

 而して古賀清志は予め前記武器中、一、手榴弾6個を変電所襲撃用武器とし、黒岩勇の手を経て林正三は之を後藤圀彦に手交し、一、短刀6口を変電所襲撃の際携帯すべき武器とし、西田税暗殺用武器として川崎長光に交付すべき拳銃1挺、同弾丸8発及び短刀1口と共に之を後藤圀彦に手交し、一、残余の武器は黒岩勇、中村義雄と共に東京市芝区栄町十三番地東京水交杜に運搬し、うち手榴弾2個、短刀1口を三菱銀行襲撃用武器とし中村義雄の手を経て奥田秀夫に交付し、その他は同水交社に於て各組別に之を分配したり。

 かくて昭和7年5月15日、第一組に属する三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山格之は各自制服を着用し、武器及び「日本国民に檄す」と題する檄文を数百枚を携帯して陸軍士官候補生・後藤映範、同八木春雄、同石関栄、同篠原市之助、同野村三郎と共に同日午後5時頃、靖国神社境内に集合して三上卓、黒岩勇、後藤映範、八木春雄及石関栄の5名を表門組とし、山岸宏、村山格之、篠原市之助、及野村三郎の4名を裏門組として二隊に分れ、各隊自動車一台を使用し東京市麹町区永田町二丁目一番地内閣総理大臣官舎に向い、途中各自車内に於て武器を分配し、三上卓は拳銃1挺、手榴弾1個及短刀1口、黒岩勇は拳銃1挺、短刀1口、後藤映範は拳銃1挺、八木春雄及び石関栄は各手榴弾1個を、山岸宏は手榴弾1個、短刀1口、村山格之は拳銃1挺、篠原市之助及び野村三郎は各拳銃1挺、手榴弾1個を携帯し、表門組は同5時27分頃、同官舎表門より自動車を正面玄関前迄乗入れしめ、一同下車して直に同玄関より屋内に闖入し、かねて偵察したるところにより首相は平常同官舎日本館に起居するを知り、その通路を探索したるも見当らず、一同玄関広間に於て巡査部長村田嘉幸に出会いしより、三上卓、黒岩勇は同人を脅迫して首相の許に案内せしめんとしたるも果さず。更に後藤映範は恰も同所に来りたる私服巡査に対し同様案内せしめんとしたるに之に応ぜずして玄関外に遁るるを見て、その背後より拳銃一弾を発射したるも命中せざりき。その後、三上卓は漸く日本館に通ずる廊下を見出し、同廊下板戸を蹴破りて一同を内部に導き日本館洋式客間に於て巡査・田中五郎に対し首相の所在を糺したるところ、その態度反抗的なりしより之を憤り同人に対して拳銃1弾を放ち、その右胸部より膵臓を損傷して左側腹部に通ずる貫通銃創を負はしめ、因て同人をして同月26日、同市赤坂区伝馬町一丁日二十番地前田外科病院に於て死亡するに至らしめたり。

 山岸宏等の裏門組は同官舎裏門附近に於て一同下車し、同門より邸内に進み日本館玄関より屋内に闖入して表門組と合したるが、篠原市之助は同玄関車寄の前方に於て附近に居合せる制服巡査を威嚇する目的を以て銃口を斜上方に向け、拳銃1弾を発射して之を遁走せしめ、その後同玄関内に止まり外部見張の任に当りしが須叟(※臾)にして三上卓は遂に日本館食堂に於て首相犬養毅を発見したるより、大声を揚げて一同に其の旨を知らしめ 首相と共に十五畳敷の客間に至り同室に於て一同首相を取囲み二三問答の際、突然山岸宏は「問答無用射てッ」と叫び、黒岩勇は之に応じて首相の左前方より同人に向け第一弾を放ち、左下顎骨角の直上より頭蓋腔内に入る盲管銃創を負はしめ、三上卓も亦第二弾を放ち首相の右??部耳殻前方より右眼外眥の上方に貫通する銃創を負はしめ、困て同人をして同月16日午前2時35分、同官舎内に於て出血に依り惹起せられたる脳圧に困る心臓及呼吸麻痺の為死亡するに至らしめたり。弾丸の命中したるを見るや山岸宏の引揚の声にて一同相続て日本館玄関より外庭に出でしが、巡査平山八十松が木太刀を揮って被告等に立向はんとしたるより、篠原市之助は拳銃を擬して「射つぞ」と脅迫し、黒岩勇は同人に向け一弾を放ちて右大腿貫通銃創を負はしめたるのみならず、村山格之も亦後方より同人に向け一弾を放ち左前脚貫通銃創を負はしめて一同首相官舎裏門を立出て、赤坂区溜地町に於て二台の自動車に分乗し、三上卓、山岸宏、後藤映範、石関栄、篠原市之助の一隊は午後5時50分頃、警視庁に到りたるも、その予期に反し庁外平穏にして襲撃の要なきを認め、之を中止して其の儘同市麹町区丸ノ内一丁目十番地東京憲兵隊に自首し、黒岩勇、村山格之、八木春雄、野村三郎の一隊は警視庁襲撃の目的を以て同5時50分過ぎ、同庁に到り、表玄関車寄に停車せしめて一同内部に闖入し、同庁2階一室の硝子房を蹴破る等の暴行を為し、再び自動車に同乗して上記憲兵隊正門に到り内部を窺ひたるも、同志未だ自首したる形勢見えざりしを以て予定外襲撃場所協議の際偶々警視庁より自動車にて同人等を追跡し来りたる同庁警部補新堀虎吉を発見したるより、黒岩勇は之に対し拳銃を擬し同警部補の遁れんとする後方より一弾を発射したるも命中せざりき。右協議により同市日本橋区本両替町三番地日本銀行襲撃を決定して同銀行に到り村山格之、野村三郎の両名下車し野村三郎は同銀行玄関に向ひ手榴弾一個を投擲して玄関前庭に於て炸烈(※裂)せしめ、敷石、石段等を損傷して一同憲兵隊に自首したり。

 第二組に属する古賀清志は制服を着用し武器及前記檄文数百枚を携帯して池松武志、陸軍士官候補生坂元兼一、同管勤、同西川武敏と共に同四時三十分頃同市芝区高輪泉岳寺境内に集合し、同寺門前茶店力亭事山口弥太郎方二階に於て古賀清志より行動要領を説明し、実行に際しては特に警視庁に重点を置き、内大臣官邸に於ては門外より邸内に手榴弾を投じて以て同邸を脅し、必ずしも内大臣牧野伸顕を殺害するの要なく直に警視庁に急行すべき旨を語りて武器を分配し、古賀清志及池松武志は各拳銃一挺、手榴弾一個、西川武敏は拳銃一挺、坂元兼一及管勤は各手榴弾一個、短刀一口を携帯して同亭を立出で、一同自動申に同乗して同五時二十七分頃同区三田台町一丁目五番地内大臣官舎正門に到り、同門前に自動車を停めて古賀晴志、池松武志の両名下車し清志は同門前より門内に向って手榴弾一個を投擲し、玄関前庭に於て之を炸烈せしめ板塀等を損傷し、池松武志も亦清志に続いて手榴弾一個を門内に向って投擲したるも不発に終り、次で清志は拳銃を擬して同邸に立番勤務中の巡査橋井亀一を射撃し、同人の左峰鳥嘴啄突起部に貫通銃創を負はしめ、再び自動車に乗じて沿道に檄文を撒布しつつ同五時四十分頃第三組に稍遅れて警視庁に到着したる処、其の予期に反して決戦を試むべき警官の集合あらざりしも、同庁表玄関に向い左側車道に於ける同玄関附近の地点に停車して清志を除く外全員下車し、上記計画に従ひ同所附近に於て坂元兼一及菅勤は同庁建物に向ひ手榴弾各一個を投擲せしが不発に終り、西川武敏及池松武志は自動車内なる古賀清志と共に孰れも表玄関に向って拳銃を発射し困て同玄関車寄に居合はせたる警視庁書記長坂弘一に対し、下顎部貫通銃創及右膝膕部盲管銃創を負はしめたるのみならず、読売新聞記者高橋巍に対し右下腿貫通銃創を負はしめ、斯くして一同自動車に乗じ同六時頃東京憲兵隊に自首したり

 第三組に属する中村義雄は制服を着用し、武器及前記檄文数百枚を携帯して陸軍士官候補生中島忠秋、同金清豊、同吉原政巳と共に同四時三十分新橋駅に集合し、同駅前に於て自動車に同乗したるも未だ決行時刻に達せざりしより時間を調節する為市内諸所を巡り、各自車内に於て武器を分配し中村義雄は拳銃一挺、手榴弾一個、金清豊は手榴弾一個、短刀一口、吉原政巳は拳銃一挺、中島忠秋は拳銃一挺、手榴弾一個を携帯した外、忠秋は其の所有に係る短刀一口を所持し、同五時三〇分頃同市麹町区内山下町一丁目一番地立憲政友会本部前に到り、義雄は下車して同本部東入口より構内に立入り、同玄関に向って手榴弾一個を投擲したるも、不発なりしより之を拾ひて再び投擲したるに之亦不発に終りしを以て、忠秋は直に下車し同玄関に向ひ手榴弾一個を投擲して之を炸裂せしめ正面露天演壇附近を損傷し、同五時四十分頃警視庁に赴きたる処、予期に反して決戦を試むべき警官の集合あらざりしも同庁表玄関前車道に停車し、義雄を除く外全員下車し上記計画に従い金清豊は菅勤の投じたる前示地点附近より建物に向って手榴弾一個を投擲せしが、誤って路傍の電柱に中り炸裂 子、電線等を損壊して一同再び自動車に乗じ、沿道に檄文を撒布しつつ同五時五十分頃東京憲兵隊に自首したり

 第四組奥田秀夫は中村義雄より配布を受けたる手榴弾二個を携へ、同市麹町区丸ノ内二丁目五番地の一、三菱銀行附近に赴き状況偵察の後同区有楽町一丁目二番地美松百貨店屋上に於て同五時三〇分頃警視庁方面に爆音の起るを聞き、其の後丸ノ内警察署員の出動するを見て愈軍部同志の決行したるを察知し、同七時三〇分頃再び同銀行に至り、其の西側道路上より同銀行構内に向ひ手榴弾一個を投擲したるも同銀行と三菱道場との中間路上に落下炸裂し、同銀行並に同道場の外壁等を損傷して逃走し、残余の手榴弾一個は友人中橋照夫の下宿なる東京府下杉並町高円寺五百十一番地堤次男方に隠匿したり
別働隊たる橘孝三郎の一派は前示計画に従ひ

 一、大貫明幹は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる金槌、電線鋏各一挺を、高根沢与一は圀彦より配布せられたる短刀一口を携帯し、同七時十三分頃相共に同府北豊島郡尾久町下尾久二百番地鬼怒川水力電気株式会社東京変電所に到り、明幹は与一をして右鋏を用ひ同所西側貯水池附定の外柵鉄線を切断せしめたる上、電動喞室に侵入し、配電盤施設の冷却送水用電動喞筒第二号用三極開閉器を絶縁して右喞筒の運転を停止し、金槌を以て同第一号用三極開閉器を破壊し、更に与一をして屋外の主要なる変圧設備に向ひ、右手榴弾を投擲せしめんとしたるも同人は明幹が破壊用具を投棄して跳走を開始したるを見て俄かに恐怖心を生じ、右手榴弾を其の場に投棄て逃走し

  横須賀喜久雄は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個短刀一口及自ら購入したる手斧、電線鋏各一挺を携へ同七時過埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町三ツ和字畑田二千七百五十番地東京電燈株式会社鳩ヶ谷変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し手斧を以て配電盤施設の三極開閉器及電動送水喞筒三台に附着せる水圧計各三個を損壊し、加ふるに古鋏を以て配電盤上起動用開閉器に通ずる配線八本を切断したるのみならず、右手榴弾を露天建造物に向ひ投擲して之を炸裂せしめ、困て主要変圧器中性点接地抵抗器基礎の一部を爆破して逃走し

 一、塙五百枝は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、 短刀一口及自ら購入したる金槌一挺を携へ、同七時十五分頃上記尾久町上尾久二千番地東京電燈株式会社田端変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し、配電盤施設の電動送水喞筒に通ずる三極開閉器二個を絶縁して右喞筒の運転を停止せしめ、加ふるに金槌を以て配電盤上電流計四個を破壊し、更に同室内電動機を爆破する目的を以て右手榴弾を投擲せんとしたる際、当直員に発見せられ其の意を果さずして逃走し

 一、温水秀則は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる手斧一挺を携へて同七時十分頃同府豊多摩郡淀橋町角筈五百八十六番地東京電燈株式会社淀橋変電所に到り、飲用水用喞筒電動機小屋に侵入し手斧を以て電動機配線一本を切断したるのみならず、右手榴弾を冷却塔に向い投擲して之を炸裂せしめ、因て同塔東北側板囲の左上角を爆破して逃走し

 一、矢吹正吾は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個、短刀一口及自ら購入したる金槌一挺を携へ、同七時十五分頃同府南葛飾郡小松川町字下平井二百六十五番地東京電燈株式会社亀戸変電所に到り、電動喞筒室内に侵入し配電盤施設の漉水及送水電動喞筒用三極開閉器四個を絶縁して同喞筒の運転を停止せしめたるのみならず、同室屋上に向ひ右手榴弾を投擲したるも不発に終りし儘逃走し

 一、小室力也は後藤圀彦より配布せられたる手榴弾一個及短刀一口を携へ、同六時五十分頃同府豊多摩郡戸塚町清水川百八十番地東京電燈株式会社目白変電所に到りたるも、襲撃に先ち恐怖心を生じて之を断念したり前記の如く別働隊の行動は単に変電所内設備の一部を破壊したるに止まり、東京全市は勿論其の一部をも暗黒ならしむるの効果を奏せざりしものなり

 而して川崎長光は拳銃一挺、同弾丸八発及短刀一口を林正三の手を経て後藤圀彦より受取り、同日午後七時頃西田税方に到り同家二階六畳の客間に於て同人に面会し、之が殺害の機を窺ひ、同七時三十分頃税に向って拳銃六発を発射し、困て右手掌貫通銃創、右前膊貫銃通創、右上膵盲管銃創、右前胸より右側胸部に亘る貫通銃創、及下腹部盲管銃創を負はしめて逃走したり

 被告中伊東亀城は当時入院中に係り、大庭春雄、林正義及塚野道雄は準備不充分の故を以て古賀清志、黒岩勇に対し決行の延期を求めたるも容れられず、為に孰れも右実行に参加せざりしものなり(陸軍側公訴状は略す)

 この間被告一同起立、傍聴席酷も咳一つなく検察官の峻烈なる語調に耳を傾けること小一時間、次いで塚崎弁護人立って発言を求めて被告並びに弁護人を代表して裁判公開の大原則を主張し、十時二十分高須裁判長の指図によっていよいよ高法務官の事実審理に入る。


 判決は次の通り。実行者の首相官邸襲撃隊が三上卓(海軍中尉で「妙高」乗組、反乱罪で有罪の禁錮15年、出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与)、山岸宏( 海軍中尉)、村山格之( 海軍少尉)、黒岩勇( 予備役海軍少尉、反乱罪で有罪の禁錮13年)、野村三郎(陸軍士官学校本科生)、後藤映範( 陸軍士官学校本科生)、篠原市之助(陸軍士官学校本科生)、石関栄(陸軍士官学校本科生)、八木春男( 陸軍士官学校本科生)。内大臣官邸襲撃隊は、古賀清志(海軍中尉、反乱罪で有罪の禁錮15年)、坂元兼一(陸軍士官学校本科生)、菅勤(陸軍士官学校本科生)、西川武敏 ( 陸軍士官学校本科生)、池松武志(元陸軍士官学校本科生)。立憲政友会本部襲撃隊は中村義雄(海軍中尉)、中島忠秋(陸軍士官学校本科生)、金清豊(陸軍士官学校本科生)、吉原政巳(陸軍士官学校本科生)。

 民間人は、橘孝三郎(「愛郷塾」主宰、刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人未遂)で有罪の無期懲役)、大川周明(反乱罪で有罪の禁錮5年)、本間憲一郎、頭山秀三(玄洋社社員、頭山満の三男)。裁判関係者は、高須四郎( 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士長・海軍大佐)、西村琢磨( 陸軍第一師団軍法会議判士長・陸軍砲兵中佐)、神垣秀六( 東京地方裁判所裁判長・判事)、弁護人は清瀬一郎、林逸郎 、花井忠。

【5.15事件考】
 犬養の死は大きな後遺症を遺し、昭和史の分水嶺となった。現職総理を殺したテロリストに死刑も適用しなかったことが、さらに大掛かりな二・二六事件の遠因となったとも云われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長は「殉教者扱いされるから死刑を出すのは良くないと思った」と語っている。他方、大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝や西田税が死刑となったことと共通する。

 この事件後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がった。新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。昭和天皇は、続く二・二六事件に衝撃を受け、自身の政治発言が軍部を刺激することを自覚してしまったといわれる。中国戦線において、参謀本部に事変不拡大の意志を持つ石原莞爾がいるにもかかわらず、彼を後押しをすることが出来なかった。かくして日本は陸軍統制派による軍閥政治への道を歩み出していくことになる。 

Re::れんだいこのカンテラ時評932 れんだいこ 2011/06/02
 【「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」考】

昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説レコード」が残されており、これを筆録しておく。
 (http://www.youtube.com/watch?v=gR4nVdEF1DE)
 我々が、このたびの選挙に臨んで、自分の主張を述べ、これに対するところの反対の党派の主張と、この間に全国民において公平なる審判を下されることを求めなければならない。我々の主張を大別して、ごく簡単にこれをひっくるめて云えば、応急の問題と根本の問題との二つに分かれる。応急の問題が何であるかと云えば、他に対しては満州の事変を如何に解決するのか。こういうことが一つ。それからまた内にあっては、現在の不景気を如何にしてこれを不景気を回復するのか、活気を与えるのか、これが応急の問題であります。

 それから根本の問題としては、他においては隣国、シナに対して、全体の国際関係を如何に改善するのか。この根本が定まらなければ、僅かに満州の問題が治まったと云って、隣国の関係が治まるものではない。それ故に、この根本をどうするかということについては我々は多年の研究と抱負を持っておる訳で、これを行いたい。

 それから内に向かっては、現代の不景気をどう挽回するかという応急問題だけでは仕方がない。根本から云えば、産業政策の元になる**いかにして日本の産業を振興し得るか。また如何にして日本の産業を統制し、もう少しこれを合理的に発達させることができるか。これが根本の問題である。

 それから一人それのみではない。長い維新60年間の間に殆ど不規律不統制に発達した全てのもの、全てのものといえば何であるかと云えば政治組織、これを改めなければならない。執務の取り方、もう少し簡易にできる。全てこのひっくるめて云えば、行政、財政の根本的立て直しを行わなければならぬ。これが政府の側である。政府の側ばかりではない。民間全体の全てのものに向かって、大革新、大覚醒を行わなければならぬと云う時期が当然来ている。

 それをこれまでの如くに姑息にただ移されてはいつまでたってもこの形勢は治らんのであります。それ故に、我々は、今後の解散と云うことは決して好まない。解散の一番必要な**というのは全てのものを安定させる。政府も無論これに於いて基礎を安定させる、一人政府ではない、エェ内にあっては全ての事業に着手するものが、このままこの政府の方針の通りに行くんであれば、又元へ帰って前内閣のようになるんであるかと気がかりの間は思い切って着手ができない。それ故に、ぜひともここで安定させるということが必要。一人それのみではない。エェ隣国の関係を根本的に定めようと云えば、従来のごとき方針ではとても相手になる訳のものではない。それ故に現代の内閣がいつまで続くんであるか、この方針なら自分も考えようがあるということは確かにこの隣国も考えておるのであるから、どうしてもこれに向かっての基礎を定めることが必要である。

 如何なる仕事においても、決して半年や一年で完成するものではない。どんなに少なく急速力でやっても、4年間もしくは5年間かからなければ一つの政治が完成すると云うことはできない。いわんや60年間続いて、楕力に楕力で重なっていたと云うこの***新たな仕事を始めるというのは少なくとも4、5年はどうしてもかかる。それ故に、我々は全国民に訴え、この日本の体制、全てのものの衰えておると云うこの老朽した日本に活気を与える為には、諸君は大奮発をして我々に援助をせられることを求める。

 これは極めて明瞭であります。現内閣が行っていた通りにしたならば日本の産業はどうなる、日本の外交はどうなる。これを考えて、我々が現在主張するところのものに解消したならば、いずれが是であり、いずれが非であるかということは最も分明にこれは判断できられるものであるから。私は謹んで全国民に向かって、この公平なる審判を下されるということを私は求めるんであります。諸君は国の為に非常な大努力をせられんことを希望いたします。
 (以上)

 この「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」がどう大事なのか、それは一つには政治に対する真面目さが溢れていることが見てとれるからである。当時の日本は現在の日本よりもなお一層困難な政治課題を抱えていた。一つは外の満州事変であり、もう一つは内の国内不景気であった。両者が相呼応して混迷の度を増しつつあった。

 犬養首相は、待ったなしの局面で迫り来る大国難に身命を賭し、外の平和、内の景気振興に向けて見識高く懸命に対処せんとしていた。このことが分かるのが上述の「昭和7年総選挙に際しての犬養首相演説」である。御年77歳の高齢の身であった。「5.15事件」のほぼ半年前の肉声である。

 2011.6.2日、内閣不信任決議を一蹴して安堵した菅首相への煎じ薬として与えておこう。気に入った文句を見出して政権延命に活用するのも良かろうが、政治に対する真摯な思いを嗅ぎ取って貰った方がなお良い。政治事象を論理的に分析し判断しているサマを感じ取っていただければ十分である。

 2011.6.2日 れんだいこ拝

【犬養木堂の孫文論】
 「日本リーダーパワー史(124)」の「辛亥革命百年(26)犬養木堂の『孫文の思い出』」を転載しておく。
 辛亥革命百年(26)犬養木堂の『孫文の思い出』

<辛亥革命の策源地は東京で、支那の革命家という革命家は全部東京に集まった。そして孫文を首領にして今の国民党の前身の「中国革命同盟会」をつくった>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト) <「木堂雑誌」第七巻第五号1930年 昭和5年8月より>
 
 ▲孫文との初対面
 
 孫文と始めて会ったのは明治三十二年(1899)だったかな。宮崎滔天がひょっこり連れて来て引き合わしたのじゃ。宮崎といえば面白い男で、外務省に頼まれて支那に革命の秘密結社を調査しに出かけおったが、ミイラ取りがミイラになって、帰りがけに横浜で孫文と会い、意気投合してそのまま東京に引ッ張って来た。そして外務省に出頭して「報告書の代わりに見本を一匹連れて帰った」とやったので、役人連中すっかり毒気を抜かれたそうじゃ。そのころ、わしはひどく貧乏しとった。正月に、到来物の塩ざけ一びきで五十人の客をしたりなんかしていた時分じゃったよ。しかし故国を追われて身を寄せてきたからには、黙って見てもおれんので、頭山満、平山周、古島一雄なんかと相談していろいろ金を工面したあげく、早稲田に小さな家を持たして、そこに住まわせておいた。
 
 ▲「中山」の由来
 
 支那人の名義では都合が悪かろうというので、表札には「中山樵」とだしておいた。この仮名の中山が、いつのまにか孫文の号になってしまって、今では孫中山の方が支那人のあいだで通りがいいようじゃ。その時分は政府でも政党でも外国の亡命志士なんかてんで相手にしなかった。政府では却って、対外関係を恐れて弾圧主義を取っていた。わしはそのころ憲政本党に関係していたが、この党にしても、また旧自由党系のものにしても、支那の革命派を世話するような奴なんかまるでいなかった。中でも大隈なぞはひどく浪人嫌いで、てんで寄せつけなかったものじゃ。
 
 ▲貴様は物好き
 
 で、頭山などは、わしの顔を見るたびに「政党で浪人の面倒を見るのは貴様だけだ。貴様はよほど物好きじゃの」などと言いおった。そのとき孫文は三十四、五の若盛りじやった。顔立ちは引き締まって、べん髪は組まずにハイカラに分けて、日本人然たる様子をしとった。ふだんは、しんみりした物静かな男じゃが、満州朝廷の腐敗などを説きだすと、とても議論が立って、気鋒の鋭い人物じゃったよ。だんだんつきあっているうちに、わしもこいつは大物じゃと見てとった。「あれなら相当のことが出来るじゃろう」と頭山なんかとも話し合ったことじゃ。
 
 ▲珍しい潔癖
 
 支那人に似合わず潔癖な男で、ふろに入るのが何より好きじやった。それで、わしの家に来ても、まずふろを立ててくれといって、ゆるゆると長湯を使って喜んどった。酒はさっぱりやらなかったが、飯はどんなまずい菜ででも盛んに食った。あるとき家内がボラの切り身を焼いてだしたことがある。すると、孫文、日を丸くして「今日は御馳走ですね」とお世辞をいった。これには家内も苦笑していたよ。日本語は簡単な言葉を少し知っていただけで、話はできなかった。その後も日本には三、四回やって来たが日本語はとうとう物にならなかった。それでも聞くだけは大抵わかるようになっていたようじゃ。英語はさすがに達者で、読み書きも話すことも不自由はしなかったようで、暇さえあると横文字の新聞、雑誌などを読んでいた。わしとは、いつも筆談じゃった。
 
 ▲医者らしい感じ
 
 香港の医学校を出て、二十七、八までマカオで医者をやっていたので医術一通りの心得は持っていた。そのためか医者らしい感じがどこかに残っていたようじゃ。早稲田の家はしばらくで畳んで横浜の山下町に引っ越していった。そこらには支那人も沢山いたので同志を集めるのに便宜が有ったからじやろう。横浜では寄老会だとか三合会だとかいう支那独特の秘密結社の連中がうんと周囲に集まっていた。そいつらは一種の物騒な政治結社じゃな。何しろその時分に革命などという荒仕事をやるには、こんな連中しか寄りついて来なかったものじゃよ、これらの沢山の身内に孫文は実によく尽くしておった。金がはいると右から左にくれてやって、自分はポロ洋服を着て平気でいた。淡白で清廉で、立派な志士の風骨を帯びていた。
 
 ▲とうとう成功
 
 人間がきれいな男じゃから、いうことも、やることも真っ直ぐじやった。で、わしなども心安だてに「君のように釈迦や孔子の説法めいたことばかり説いておっては、とても大きな徒党の首領にはなれんぞ」などと冷やかしたりしたもんじゃが、別に弁解がましいこともいわずにニコニコ笑っとった。清朝倒滅の革命騒動をやらかして失敗しては日本に亡命して来おった。そして何度もやったあげく、とうとう第一革命に成功したのじゃ。革命の策源地は東京で日露戦争直後の如きは、支那の革命家という革命家は全部東京に集まった。そして孫文を首領にして今の国民党の前身の「中国革命同盟会」というものを造った。これが出来てから革命党の勢力が始めて増大したのじゃ。最後に会ったのは、第二革命に失敗して衰世凱にやっつけられた時で大正三年の秋じゃった。このとき今の宋慶齢と東京で結婚式を挙げた。「もう五十になった」といいおった。
 
 ▲日独同盟論
 
 その頃欧州戦争が始まって日本も連合軍に参加して青島攻撃をやったが、孫文はしきりにこれに反対して「日本はドイツと連合すべきだった。日本が大陸政策を遂行するにはドイツと結んで英米の勢力を支那から駆逐すべきであったのに…・・・」といって残念がっていた。支那に帰ってからも、このことは何度も手紙でいいよこしおった。一個の見識じゃな……。

 (昭和5年(1930)7月21日東京朝日新聞)













(私論.私見)