補足、日露戦争考



 (最新見直し2006.1.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、日露戦争は未だ総括されていないと考えている。日清戦争の場合には、極東アジアの支配権をめぐる日清の抗争であったと割り切っても問題ないように思われるが、日露戦争の場合には、その観点からだけでは真相が見えてこないと思っている。日本は、国際ユダヤの陰謀を告発し続けるロシア帝政を叩く駒として使われ、予想を上回る戦局優位で終結させたことにより、極東アジアでの以降の支配権を握った。しかし、養豚政策で太らせられた挙句、大東亜戦争に誘い込まれ召し上げられた。そういう流れとして歴史を観、日露戦争がその端緒であったと見立てている。以上を踏まえて、以下検証していくことにする。

 2006.1.21日 れんだいこ拝


【日露開戦の前夜の政治状況】
 桂太郎首相、元勲・元老として山県有朋、伊藤博文、松形正義、井上馨。伊藤は外交的回避を主張し、恐露論者のレッテルを貼られた。桂は、日英同盟に依拠しつつ開戦派。「サーベルを吊った幇間(たいこもち)」と陰口された。

金子堅太郎のニューヨークスピーチ
 「黄禍論を吹き飛ばした金子堅太郎」(2013-04-13)を転載しておく。
 アメリカのメディアを味方につけた金子堅太郎。

 明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)の日露戦争当時は黄禍論(おうかろん/こうかろん)と呼ばれる主に日本人並びに支那人を蔑視する思想がありました。こういった国際情勢でロシアと戦うのは不利であり、これを打破する任を負ったのが金子堅太郎(かねこ けんたろう)です。金子はハーバード大学に留学した経験があり、その同窓にアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいました。金子はボストンの上流階級WASPと呼ばれるイギリス系白人プロテスタント社会で人脈を築きあげた実績がありました。そこで金子にアメリカの世論を親日に変えさせる任が下りたのです。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると伊藤博文からその任を言い渡された金子は「ロシア相手に戦うなどとても無理です。そういう役目は御免こうむりたい」といったん断っています。伊藤が「万一の場合、自分も銃をとって一兵として戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか」と言われ引き受けています。

 日本は当時も今と変わらず宣伝下手で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」では外国観戦武官や記者に対して秘密主義をとったため、「われわれは豚のように扱われた」と憤慨した観戦武官がおり、遼陽会戦で「日本軍は負けている」と思われ「日本軍は遼陽において勝ったのではない。ロシア軍の作戦に乗っかってしまっただけだ。ロシア軍は堂々と撤退した」という内容の記事が世界にばら撒かれてしまったことが書かれています。これによって日本の戦費にあてる公債の応募が激減してしまったのです。

 その一方、金子は主要なマスメディアの本社があるニューヨークを活動拠点に選びます。ここでマスコミを味方に付けようと考えたのです。あるパーティのスピーチで金子は日露戦争の目的を以下のように語ります。「日本はペリー提督によって開国の道を歩み始めて以来、アメリカにはさまざまなことを教えていただきました。その恩を忘れることなく、アメリカが教えてくれたすばらしい文化を今度は支那や韓国へ紹介するのが私たちにほんの役割だと思っています。ところが残念なことに、その使命を果たそうとしただけなのにヨーロッパ最強国と敵対することになってしまいました。日本がロシアと戦うのは領土拡大の野心があるからではなく、アメリカに教えられた文化をアジアのほかの地域にも広めたいと願っているからです」。


 
アメリカは支那大陸への門戸開放を狙っていましたから、日本に野心はない、アメリカをよいしょして同調するスピーチをしています。また金子は旅順港で戦死したロシアのマカロフ提督へ追悼の言葉を述べており、これもアメリカ人の心を揺さぶりました。翌日の新聞で金子を絶賛する記事が掲載されたといいます。金子は母校ハーバード大学でも日本の正当性を詳細なデータを用いて熱弁します。こうしてアメリカの黄禍論からおこる反日感情を抑制し、徐々にアメリカ世論は日本に同情的になっていきました。
(私論.私見)  「金子堅太郎のニューヨークスピーチ」考
 「金子堅太郎のニューヨークスピーチ」は決して歴史の本筋ではなかろうが、こういう動きがあつたと云う程度で確認しておく。

 2017.1.9日 れんだいこ拝

【日本が対露宣戦布告する】
 1904(明治37).1.13日、日本はロシアに最後通牒を発した。2.4日、再び御前会議を開いて交戦の議を定め、1.10日、対ロ宣戦が布告され、日露の国交は断絶した。

【日本の戦費調達】
 2月、戦費調達のため、日本銀行総裁・高橋是清が欧米へ派遣され、イギリスでロスチャイルド財閥から、アメリカでクーン・ロエブ財閥から支援を受け、戦費19億円のうち8億円を調達した。(「補足、日露戦争の仕掛け人考−日露戦争にヤコブ・シフ(その陰にロスチャイルド)有り」参照)

 3.1日、戦費調達に成功した日本政府は、第9回臨時総選挙を執行し、3.18日、第20回議会を召集、臨時軍事費予算5億7600万円を成立させ、挙国支援の名の下に政府提出案をことごとく可決した。11.28日、第21議会で、軍事費追加予算7億8千万円を全院一致で承認した。

【戦争の陣容】
 日本軍は、満州軍総司令部を編成して、第一、第二、第三、第四軍、及び独立第十師団がその下に属し、総司令官き大山巌陸軍元帥、参謀総長は児玉源太郎陸軍大将が就任した。


第一軍 軍司令官・男爵黒木為*陸軍大将 近衛師団、第二師団(仙台)、第十二師団(小倉)で編成、兵力4万名。 朝鮮から鴨緑江を渡河し満州に侵攻。
第二軍 同・男爵奥保*陸軍大将 遼東半島に上陸。
第三軍 同・乃木希典陸軍大将 旅順攻略を任務とする。
第四軍 同・伯爵野津道貫陸軍大将

【戦争の経過その1、緒戦の動き】
 5.1日、第一軍は、ロシア軍(約3万名)を撃破した。

 5.5日、第二軍は遼東半島に上陸開始。兵軍を2分割し、一方は東清鉄道に沿って北上。別軍(第一師団(東京)、第三師団(名古屋)、第四師団(大坂)の兵力約3万6千名)は金州半島の南山要塞を陥落させた。

 8月上旬、第一軍、第二軍、第四軍は満州の遼陽平野に迫り、「遼陽会戦」。日本軍歩兵123個大隊、騎兵35個中隊、砲兵66個中隊。対するロシア軍は歩兵181個大隊、騎兵156個中隊、砲兵67個中隊。「遼陽における勝敗の意義は、攻略的に見ても旅順要塞攻略の成否と並び日露戦争の要というべき重大事であった」。

 8.26日、日本軍は遼陽に迫り、8.30日、総攻撃開始。対峙するのは、ロシア満州軍総司令官クロパトキン陸軍大将(前ロシア陸軍大臣)。9.4日、日本軍はロシア軍を破り、続く10.14日、紗河会戦でも勝利した。この時、ロシア陸海軍の極東総司令官アレクセーエフが解任された。代わりにクロパトキン陸軍大将が10.26日、就任した。

【戦争の経過その2、旅順攻防戦】
 8.7日、日本海軍陸戦重砲隊が*子山南麓の陣地から旅順港に向けて砲撃を開始した。戦艦ポルタワは沈没、ポペーダ、セワストーポリ、ペレスウエトにも命中して、それぞれの艦隊に甚大な損傷を負わせた。

 8.19日、日本軍の砲兵隊が旅順要塞に向けて砲撃の火蓋を切った。二日間砲撃後、続いて日本軍5万の兵士が総攻撃を開始した。ロシア軍の機関銃がこれをなぎ倒し、日本軍は兵士1万5千800名の死傷者を出して惨敗した。この時のロシア兵の死傷は約1千500名。日本軍参謀の誰一人として、旅順要塞にどれだけの大砲、機関銃、兵力が配置されているのか、知る者は居なかった。

 9.19日、第二次旅順総攻撃が開始された。日本軍兵士は又も惨敗し、惨状を呈した。戦死者千92名、戦傷者2千738名。ロシア兵の戦死者は616名、戦傷者3千837名。但し、この時日本から運んだ28センチ榴弾砲12門が威力を発揮した。ロシア軍の大砲が吹っ飛び、強固なぺトン陣地の壁を貫通して内部で爆発、ロシア兵に多数の死傷者を出していた。

 11.26日、第三次旅順要塞総攻撃が早朝より開始された。だが、その突撃方法はワンパターンの無理押しで、敵機関銃の猛射の前にパタパタと無念の屍を累積していった。午後になっても乃木司令部にもたらされる情報は不利を伝えるものばかりで、各師団の突撃はことごとく失敗した。第三軍の参謀本部の参謀連中の無能さが露呈した。

 「確かに彼らは陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、ヨーロッパで最新の軍事学をマスターしているが、戦場のことは何一つ知らなかった。『我々の仕事は作戦を考えることであって、いちいち現場を見ているヒマは無い』というもっともらしい理由をこしらえて動かないのだ。しかし、それでも乃木将軍は、彼らエリート参謀たちの進言に従わざるをえない。軍隊の組織においては、作戦の立案は幕僚が行うことになっていて、司令官はそれを裁可するしかないのである。司令官自身が作戦そのものに口を挟むことは慎まねばならない」(渡部昇一上智大教授「かくて昭和史は甦る」)。旅順要塞正面に対する総攻撃を継続すべきかどうか、乃木軍司令官は決断を迫られた。

 児玉源太郎満州軍総参謀長(大将)は、「これは駄目だ。日本軍は滅亡する」と判断し、旅順攻撃の総指揮を自ら執ることを決意した。大山満州軍総司令官は、愛用のチョッキを与え切に自愛を望んだ。児玉大将は、第三軍司令部に駆けつけ、同じ長州藩の明治維新以来の苦難を共にしてきた仲の乃木司令官を睨み付け、単刀直入に「一時、軍司令官の職権を代行させてもらいたい」と申し入れた。乃木は一呼吸置いて、これを承諾した。

 軍の統率という点から云えば、爬行であり、乃木司令官不信任ということになり、乃木は自決する恐れがあった。児玉は阿吽の呼吸で穏便に為したことになる。児玉は、203高地を一目見るなり、「これは肉弾戦で闘っても仕方が無い。28センチ榴弾砲を引っ張ってきて叩き潰す以外に方法が無い」と決断した。

 本来海岸の防御用に使用する巨大砲であった榴弾砲を短時間に運搬させよという児玉の発案に対して、無能参謀連中はこぞって非常識だとして反対したが、『うるさい!文句いわずにやれ』。かくして28センチ巨大砲を203高地にぶっ放した為、さしもの要塞が陥落することになった。

 203高地を占領した結果、旅順港内のロシア第一艦隊は格好の狙い撃ち標的となり、戦艦ペレスウェト、パルラダ、レトウィザン、バヤーン、ポベーダが餌食にされた。実に児玉大将の功績大なるものがあった。

 1905(明治38).1.1日、ロシア軍使が白旗を掲げて日本軍軍地を訪問、翌二日の正午、水師営において日露両軍の開城規約の談判が執り行われた。第一条は、旅順要塞内及び水上にあるロシアの陸海軍軍人・義勇兵、官吏は全て捕虜とする。第7条、ロシア軍の勇敢な防御戦をたたえて、ロシア陸海軍の将校及び官吏は剣の着用、生活に必要な私有物の携帯を許す。(敗軍の将に帯剣を許すことは、それまでの世界史上例が無かった)。陸軍参謀総長山県元帥は、乃木三軍司令官に対して、明治天皇の御内意として、ステッテル中将が祖国のために尽くした功績をたたえ、武人としての名誉を尊重するように言葉伝えした。これを善く守った乃木に対して、ステッテルは、「乃木大将は鬼のような人物だと思っていたが、面会して驚いた。このような謙譲の厚い人に敗れることは決して恥じでは無い」と乃木をたたえ、愛馬を贈呈までしている。

 第3回総攻撃に参加した日本第三軍の戦闘総員は6万4千名、損害は戦死者5千52名、戦傷者1万1千884名、計1万7千名と甚大な損害であった。ロシア軍の戦闘総員は約3万2千名、死傷者4千名と推定される。勝った日本軍のほうが3倍の損害を出したことになる。

 この間、ドイツのウィルヘルム皇帝は、ロシア軍が日本軍に苦戦しているのを見て、「ドイツにとって非常に幸運である」と大いに喜んだと伝えられている。ドイツから見て、北方の巨人の力が弱くなるのは好都合であったということであろう。この当時、ロシアとフランスが同盟を結んでおり、間接的にフランスの力も弱くなることを意味していた。

【戦争の経過その3、ロシア・パルチック艦隊の動き】
 アメリカのルーズベルト大統領は、旅順要塞陥落直後、フランス大統領を通じてロシア皇帝に日本との講和を勧告している。ところが、ロシア皇帝は、「バルチック艦隊の極東派遣及び奉天に集結した数十万の勝利を確信している」と述べ、拒絶している。ルーズベルト大統領の読みは、「ロシア・バルチック艦隊と日本艦隊の戦闘での日本艦隊の勝利の確率は20%であり、日本の敗北は日本国の滅亡の悲運に遭遇することになるだろう」であった。

 明治37.10.15日、リバウ軍港からロシア・パルチック艦隊(正式名称は、太平洋第二艦隊、総員1万2千785名)が出航。旗艦スワロフ、戦艦ボロジノ、オスラビヤ、アリヨール、ナワリンら戦艦8隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻、その他7隻という世界史上最大規模の遠征艦隊となった。司令長官はロジェストウエンスキー海軍少将(極東へ向けて航海中に中将に昇格)。

 このパルチック艦隊の1万8千海里の航海に、イギリスが日英同盟の誼で様々な障害を設け、日本を支援している。同艦隊の最初の寄港地スペインのヴィゴ港で5日間立ち往生させた。結果的にこの5日間の遅れが日本軍に幸いした。というのも、この時乃木第三軍が旅順要塞を落としきれず困惑していたからである。イギリスは国際法の許す限りの方法でパルチック艦隊の航海を妨げるよう画策し、この間の時間つなぎで日本軍が旅順要塞陥落に成功することが出来た。
 「#明治以降日本を育ててきたロスチヤイルド」は次のように記している。

 「近代史において英国はサタン・エリートのセンターであった。ロスチャイルドの力の下にあった大英帝国は世界の皇帝を引き下ろすことを決定した。ロスチャイルドはロシアのロマノフ王朝の皇帝(ツアー)に照準を定め、来るべき日露戦争でロシアに決定的な傷を負わせる機会を見いだしていた。英国情報部は日本にロシア軍や艦船の配置の優秀な情報を提供した。

 一九○四年二月八日、日本はロシア太平洋艦隊を攻撃して世界を驚かせた。日本はその二日後に宣戦布告を行った。日本艦隊は英国の情報を使って、さほどの困難もなくポート・アーサー小艦隊とウラジオストック小艦隊を全滅させてしまった。このニつの小艦隊が太平洋艦隊を形成していた。ロシアはバルチック艦隊を太平洋に派遣したが日本はこれも粉砕してしまった。

 日本はアジアに陸軍を派遣し激しい戦闘の末、ロシア陸軍を十分かつ完全に打ち負かしてしまった。日本はロシアとカイザルの政府を軍事的勝利で屈服させたけれど、彼らの戦争継続能力が限界に来ており、和平を獲得しなければならないことを知っていた。日本政府は秘密理に、セオドア・ルーズベルトに和平の場を整えてくれるように要請した。一九○五年にはルーズベルトは日本を好んでいたと言われている」。我々は日露戦争の裏側についていくつかの報告は間いているが、当時(も今も)イギリスを支配していたロスチャイルド家が、日本を将棋の駒のようにあやつり、イギリス惰報部の高度のインテリジェンスの成果を与える事によってロシア艦隊を撃滅したとする、このようなあからさまな報告にはあまり接していない。しかし、もちろんそれだけの能力が日本にあると言う事を彼らは知っていたのである」。

【戦争の経過その4、ロシア国内で「血の日曜日事件」起る】
 1905(明治38).1.22日(1.9日)、「血の日曜日事件」。旅順要塞陥落後一週間ほどして発生した事件である。この日、ぺテルブルグの14万人の労働者とその家族が、それぞれの教会の白旗、聖像、皇帝の写真を掲げて賛美歌を歌いながら宮廷広場に向かった。ある工場で3人の労働者がクビを切られ、それに対する陳情で皇帝に請願に行く行列であった。極寒に耐えながら、ガボン神父(ロシア政府のスパイであったという説がある)を先頭に大行列が進んだ。その様は厳粛な宗教儀式のようであった。

 行列が冬宮(皇居)に到着したとき、歩兵隊1万5千名が整列して待ち受けていた。数千騎のコサック兵がサーベルを振り回して、大行列の中へ突入した。ロシア軍歩兵隊も、算を乱して逃げ惑う群集に一斉射撃を繰り返した。冬宮前は鮮血に汚れた大惨状となった。コサック兵と歩兵隊による大衆殺戮は市内のいたるところに発生した。ロシア民衆の死者は200名、負傷者は2千名に上った。これがロシア史に名高い「血の日曜日事件」である。

 この時、ニコライ皇帝は離宮でのんびり過ごしており、「血の日曜日事件」について日記に「各所で軍隊が発砲し、多くのロシア国民に死傷者が出た。おお、なんと悲しく、嫌なことか!」と記している。

 「血の日曜日事件」がその後のロシア革命の序曲となった。「かくして『革命序曲』の血塗られた演奏は、フォルテシモ(最強音)で開始したのである」(河上文久「日本近代史」)。この事件の底流には、赤化運動と別に見落とされがちであるがロシア・ナショナリズムの動きがあったように思われる。つまり、この当時のロシア・ナショナリズムは、満州各地でのロシア軍の敗戦に対し、そのだらしなさをロシア皇帝政府の無能ぶりへ向けることになった。彼らは憤懣のはけ口を「革命を起こす以外にロシアを救う道は無い!」として批判の矛先を政府へ向けた気配がある。旅順要塞陥落の報道を聞いたレーニンは、次のように書いている。「旅順の降伏は、ツァーリズム(皇帝至上主義)降伏の序幕である。戦争の終結はまだ遠い先のことであるが、戦争を引き伸ばす一歩一歩は、みなロシア人民の間に動揺と怒りを限りなく拡大させ、専制政治に対する人民の戦争、自由の為のプロレタリアート戦争の瞬間を近づかせつつある」。

【戦争の経過その4、奉天会戦、日本海海戦】
 大山満州軍総司令官が、乃木第三軍に北進を命じ、明治38年1.15日、開始した。

 1.23日、黒溝台会戦が行われ、日本軍の戦死者1848名、戦傷者7241名。ロシア軍は死傷者1万1732名。漸く日本軍有利の局面に入った。

 2.20日、大山総司令官は、各軍司令官を総司令部招き、目前の奉天会戦に全力を挙げて闘う。天下分け目の関が原であり、必勝を期さねばならない等々訓示し士気を高めた。この時の兵力は、日本軍歩兵240個大隊、騎兵57個中隊、砲兵大砲992門、戦闘総員25万名。対するロシア軍は歩兵379個大隊、騎兵151個中隊、大砲1219門。

 3.1日、大山総司令官が全軍に奉天進攻を命令。乃木第三軍は、ロシア軍主力の西北方面に迂回して、ロシア軍の退路を断つ任務が与えられた。
 クロパトキン満州軍総司令官は形勢利あらずと判断して総退却を指令。ロシア軍と乃木第三軍の戦闘が発生。第一軍、第四軍の加勢により、ロシア軍は3.10日さんを乱して退却した。

 日本軍の死傷者7万名。ロシア軍の死傷者6万名、他に失踪兵が3万名。日本軍は、捕虜2万2千名の他大砲、砲弾など莫大な戦利品を捕獲した。

 3.16日、クロパトキン満州軍総司令官は奉天における敗戦の責任をとって辞任した。代わって、第一軍司令官リネウィッチ大将が後任に就いた。クロパトキンは第一軍司令官に就任した(稀有な例)。

 司馬遼太郎は、「クロパトキンは、いつも受け身、受け身に回って、まるで日本側が雇ってきた将軍のようだった。奉天会戦はまさにクロパトキンがクロパトキン自身に敗北したのである」と評している。日本の新聞は毎日のように、「連戦連勝」を書き続け、日本国民は奉天会戦の勝利に酔いしれた。

 5.27日、日本海海戦始まる。

 5.29日、東京日々新聞(毎日新聞の前身)が「対馬沖の大海戦、世界空前の大捷(たいしょう、大勝)、敵艦隊全滅」の見出しで号外発行。東日の号外には、「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳」の見出し。非戦を主張した平民新聞を除く各紙は、開戦と同時に積極的な戦時報道に乗り出した。この間、歌人与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が雑誌明星に掲載されている。

【戦争終結】
 1905.6.9日、米国大統領セオドア・ルーズベルトは日露両国に斡旋の労をとり、日本は小村外相、駐米大使・高平小五郎を全権委員とし、ロシア側は前蔵相ウイッテ、駐米大使ローゼンを全権として交渉に当たった。

 7月、米国大統領セオドア・ルーズベルト政権の陸軍長官(国務長官)W・H・タフト(後の第27代大統領)が日本を訪れ、桂首相と会見、秘密協定を結ぶ。その内容は、「日本は、アメリカのフィリピン植民地化を承認。アメリカは日本の朝鮮植民地化を承認する」というものであり、覚書を作成した。同覚書は、大統領の承認を得た。セオドア・ルーズベルト大統領は、演説のなかで次のように述べている。

 「日本による野蛮国・朝鮮の解放は、人類にとって幸福になるばかりか、それは、White burdenならぬYellow burdenを担う日本の明らかな運命・Minifist Destinyではないのか。ましてこれに対する一撃すら与えることもできない無能で野蛮な民族、集まれば争い分裂することを事にしている朝鮮人、仮に統一国家が形成できたにせよ、朝鮮がアジアにおいて、何の脅威にもならない、と判断した」(「セオドア・ルーズベルト大統領が「野蛮な民族、集まれば争い分裂」と批判、朝鮮民族は「正しい歴史認識」を (板垣 英憲)」)。

 8月、第二次日英同盟締結。

 8.10日、米国大統領ルーズベルトの斡旋により、第一回講和会議がポーツマスで開かれた。日本側は、小村外相、駐米大使・高平小五郎を全権委員とし、ロシア側は前蔵相ウイッテ、駐米大使ローゼン。この交渉経緯は「明治維新の史的過程考(2―2)(伊藤が射殺されるまで)」の該当項目で考察する。
 次のようなネット記事を確認したので転載しておく。
 156 名前: richardkoshimizu 投稿日: 2005/07/02(土) 11:05:15 [ fgzKxYu2 ]

 日露戦争:帝国陸軍の旅順での勝利に興奮して、「我々は勝った!」と全身で喜びを表し金子堅太郎に握手を求めた米国大統領、セオドア・ルーズベルト。その後、ルーズベルトが日露の仲介をして、講和条約が締結できた。もはや、戦争継続能力のなかった日本は、講和成立で正直助かった。世界最強の陸軍国ロシアが、本気を出せば.......

 で、ルーズベルトはなぜ、日本の勝利をそんなに喜んだのか?しかも、なぜ「我々の勝利」と形容したのか?歴史学者はだれもこれを明確に説明しない。だから、私が説明しよう。

 ルーズベルトはユダヤ人であり、ユダヤ社会の代表として選出されたユダヤ傀儡大統領である。よって、ユダヤ人を迫害してきた帝政ロシアは、ルーズベルトたちにとって「仇敵」である。その仇敵を、クーン・ローブなどのユダヤ資本が日本国債を引き受けることで、日本の軍事力を使って打倒できた。「ユダヤの勝利」である。だから、「我々=ユダヤの勝利」なのである。

 ニコライ二世の打倒は、ロスチャイルドの悲願であった。ロシア国内のユダヤ人の迫害を止める交換条件として、ロスチャイルドはシベリア鉄道敷設の資金を出した。ロスチャイルドの申し出をあり難く受け入れたニコライ二世は、シベリア鉄道を作らせたうえでユダヤ人迫害を止めることなど「冗談じゃない」と無視した。ロスチャイルドは怒りに震えた。ツァーリを倒すためなら.....扇動家ユダヤ人・レーニンが破壊活動のために送り込まれた。そして、ロスチャイルドと利害の一致する明石大佐が日本からやってきた。まあ、そういうこっちゃ。歴史なんてものは。副島さんにはわからんだろうな。







(私論.私見)