山口富永氏の2.26事件論

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2011.6.4日 れんだいこ拝


【山口富永】
 大正13年、長野県大町市に生まれる。国民新聞社社賓。戦後教壇に復帰せず、思想問題と取り組む。主著に『昭和史の証言―真崎甚三郎人その思想』、『”そうもう”のうた・人脈を追う昭和史のなかに』、『二・二六事件の偽史を撃つ』他。
 山口富永「二・二六事件の偽史を撃つ」(国民新聞社、1990年08月)
 山口富永「告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派」(国民新聞社、2010/11/25)  

 日本はなぜ勝ち目のない戦争に誘導され、引きずり込まれ、一億玉砕寸前にまで追い込まれていったのか。戦前から戦後に亘って政府、官僚、軍部内の中枢深く潜入しているコミンテルンの左翼陰謀を白日の下に暴き、遂にその真相に到る注目の書。
 山口富永氏は著書でこう書いている。
 「(私は)昭和史を対象として物を書いてきている多くの著述家、殊に二・ニ六事件を取り扱ってきている人々の多くが戦時中、体制派にあって物を言っていた朝日新聞の軍事記者・高宮太平の流れをくんだ松本清張、その流れの下にあった高橋正衛、以下半藤一利、秦郁彦というような人々とその見解を異にすることを明確にする」。
 これら物書きの二・ニ六史観は統制派寄りで、真崎大将を二・ニ六事件の黒幕で青年将校への裏切り者と描いてそれを主流としているという。山口氏は、それは事実とは全く違うと反論し、「大体、社会主義陣営の人は統制派好みで皇道派嫌いという傾向である」と言い切っている。
 二・ニ六事件当日、真崎大将と陸相官邸に向かう車に同乗していた金子桂憲兵は、「車が高橋是清大蔵大臣私邸前を通過する時、兵士によって踏み荒らされた雪中の足跡をみた真崎大将は『これは赤の仕業だ』と言った」、とある。赤とは統制派を指している。金子憲兵は、「真崎大将が青年将校に激励された」と定説になっている「お前たちの気持ちはヨオック分かっている」ということについて、「真崎大将はそんなことを言ったのではない。『何という馬鹿なことをやったのだ』と叱りつけた」と証言している。この事実を大谷敬二郎隊長に報告しているが全部削除されたという。ほとんどの物書きによって真崎が事件に関与したとされた。しかし、真崎は事件後の裁判で無罪である。
 元々事件への関与などないのですから当然の結果であった。にもかかわらず”真崎を処刑せい”と言っていたのが寺内寿一(当時陸軍大臣)。真崎の拘束は統制派の支那事変への邪魔をされないがためのものだったのが本当のところではないか。では真崎甚三郎はどのような人物であったのか。
 次の文章にこそ真崎甚三郎という人物、教育者・真崎の真髄がうかがえる。田崎末松著『評伝真崎甚三郎』から引用する。
 岡田芳政少尉は大正13年5月、士官学校を御賜で卒業した親任少尉である。原隊である歩兵第八連隊(大阪)で初年兵教育を命ぜられてハリ切っていた。初年兵を受け入れた中隊では、まず新兵の一人一人を呼んで入隊についての宣誓書に記名捺印させていたのであるが、唯一人、どうしてもそれを承諾しない新兵がいた。その説得に延々三時間を費やしていたのである。連隊本部ではこの宣誓書の捺印が全部終了したことを師団司令部に報告することによって恒例の初年兵入隊の行事は一切完了することになっている。ところが岡田少尉の所属する第十中隊からは午前中にくるはずの完了報告が午後二時になっても到達しないので、まだかまだかの矢の催促。岡田少尉は焦慮しながらも、士官学校で鍛えられた精神でもってすれば、これくらいなことは必ず説得できるという信念を持って辛抱強く説き続ける。だが、この新兵はアナーキスト系の要注意人物で、はじめから計画的であった。だから二人の会話は平行線をたどりながら延々三時間にも及んでいるのである。その時である。荒々しくドアをおしあけて一人の古参中尉が飛び込んできた。「まだ押さんのか」と言いながら、くだんの兵隊の胸ぐらをつかんだと見るや、やにわに腰投げでもって床にたたきつけた。途端「ハイ。わかりました」と起き上った兵隊は簡単に捺印した。一瞬の出来事である。唖然としたのは岡田少尉である。誠心誠意、皇軍の使命から説くこと三時間、それでもなお説得することが出来なかった一人の新兵の心が、一瞬の暴力によって、いとも簡単に屈服せしめられたというこの眼前の事実。幼年学校から士官学校と七年間にわたって体得した軍人精神、自他共に微動だにしない堅確なものと信ぜられていたこの信念に対する懐疑と挫折感とが電流のように彼の胸元をつらぬいた。期待が大きかっただけに失望もまた大きい。
 こうしてしばらくの間、将校として味わった失意の初体験をかみしめていたとき、あることが天啓のようにひらめいた。
 「諸子は将校として一人だちの勤務をするときには、さまざまな困難に遭遇することであろう。そしてそれは、この士官学校において習得した軍事知識や体験だけでは解決し得ない多くの要素を含んでいることであろう。そのためには、諸子はさらにより広く深く学ばなければならない。・・・一層の努力を要望する。もし、考えあぐねるような悩みや困難にぶつかった場合には、いつでも本官を訪ねるがよい・・・」。

 卒業の際に餞けとして語られた士官学校本科長・真崎少将の言葉である。彼は矢も楯もたまらず、三日間の休暇を得て東京四谷信濃町にある真崎少将宅を訪れた。やがて帰宅した真崎は、軍服も脱がず彼の前に腰をおろすや、例の吶々(とつとつ)とした調子で諄々として諭すように説いた。
 「貴官の当面の悩みである宣誓書についてであるが、そもそも兵役に服するということは、日本においては国民の権利であり義務でもある。この当然な権利であり義務である入隊に際して宣誓書をとるなどということは理にあわない話である。これは市井の浮浪者や博徒どもを徴募した鎮台当時の遺物である。実質的には何ら意味も価値もないのである。入隊のため営門に入るときがすなわちその権利と義務の完全な履行ということになる。自分が陸軍省軍事課員であったころ、この無用の慣習を廃止すべく、いくたびか上司に建言したが、その都度、老将軍たちの反対にあって今日にいたっている。このことはなにも意に介するほどのことではない。だが、重要なことは、部下を心服せしめる指揮掌握の根源として統率の本義ということである」。
 ここで真崎は膝を正してあらためて語り始めた。
 「教育というものは被教育者の美点を発見してやることである。教育者は、被教育者の地位に身を置かなければ教育は出来ない。教官が怒ってしまうようでは兵隊の教育が出来るだろうか。・・・日本の軍隊教育は、ドイツの直訳移入ではいけないのだ。ドイツの操典によると、初年兵の第一期の検問期間は、徹底的に兵隊の欠点を指摘せよということになっている。しかしだ。国民性の異なるドイツのやり方をしては教育の効果はあがらぬ。ドイツの国民は合理性、理論的の国民であるが、日本の国民性は感情的であるから、徹底的に欠点を指摘してはならない。むしろ美点を指摘すべきである。かりに、教育には有形の教育と無形の教育があるとして、剣術とか武術とかいうような有形の教育において欠点を指摘するのはよいとしても、無形の教育、心の面まで立ち入って欠点のみを指摘したならば決して効果はあがらぬ。・・・兵営で朝夕点呼を行うのは人員を掌握するがためではない。そんなことは既に掌握されておらねばならぬことであって、点呼のときには、兵員の健康状態、精神状態等を知ることに注意をすべきものだ。逃亡兵の出る心配のあるような軍は皇軍ではない。初年兵の中には教官をだまして教練をサボるようなものもあるだろうが、知らぬふりをしてサボらせておくがよい。人間というものは、三回と人をだませるものではない。・・・」。
 真崎の話は、さらに彼独自の国体観から発する、軍隊内務における命令服従と責任についての見解を、文字通り夜を徹して語り続けた。外はいつしか白んだ。牛乳配達や新聞配達の通る音がしはじめた。「お客様はお疲れでございましょう」。朝食を運んできた信千代夫人の声によって中断されるまで、彼の話はとどまることはなかった。一新品少尉に対する将軍のこの真剣なる態度。岡田少尉はすっかり感動して心服してしまった。これが教育者真崎の一面である。一人岡田に対するだけではない。昭和二年八月、第八師団長として弘前に栄転するまでの四カ年を将校生徒の教育のために心血をそそいだのである。・・・・・
 真崎が陸軍大学校に入校して在学中に日露戦争が起きました。そのため歩兵第四十六連隊中隊長として出征しました。真崎は戦功により尉官としては最高の功四級金鵄勲章を授けられました。しかし、真崎はこの戦功のことについては家人に何一つ語りませんでした。ただ、戦争を体験した結果「戦争はするべきものではない」としみじみ語っていたという。とくに瞬間の間に斃れていく部下や同僚の死を前にして、生命のはかなさを嘆じ、そこから「人間というものはいつでもはっきりした死生観をもつべきだ」と悟ったという。その真崎大将が二・ニ六事件で収監されて間もなくのことであります。真崎大将の信千代夫人ら家族がそれぞれの手紙や歌を送ってきました。その中に小学校の二年か三年であった五女の喜久代の一首がありました。「君のため国のためにと つくす人を うたがい見れば後悔をする」 純真な幼児のこの歌の中にこそ、君国奉公の精神を刻み込んできた真崎大将の真の姿を見る思いであります。

 太宰治の二・二六事件論「苦悩の年鑑」。
 関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。狂人の発作に近かった。組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。馬鹿とも何とも言いようがない。このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている。





(私論.私見)