「二・二六事件被害側遺族の証言」考

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).8.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「二・二六事件被害側遺族の証言」を確認しておく。

 2023.8.27日 れんだいこ拝


【鈴木貫太郎遺族】
 2023.8.24日、保阪正康「「二・二六事件の遺族」の修道女が明かした「どうしても許せない」人物」。
 二・二六事件が生んだ「遺族の怒り」
 鈴木貫太郎を襲ったのは、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉に指揮された200人余の下士官、兵士たちである。鈴木は侍従長の官邸に住んでいた。午前5時前に安藤や兵士たちが官邸を取り囲み、襲撃隊は表門と裏門から入り、護衛の三人の警官は抵抗の術もなく身体の自由を奪われている。寝室と思しき日本間に鈴木貫太郎夫妻はいた。襲撃隊は鈴木を目掛けて拳銃を発射させている。肩、臀部などを貫通する傷を負った。最初の銃撃で重傷であった。倒れた鈴木を15人ほどの兵士、下士官が囲む。さらに下士官が鈴木に銃弾を撃ち込んでいる。この辺りの光景は、彼らの証言や判決文などから想像していくと、極めて乱暴であると同時に鈴木が即死しなかったことが不思議だと思われるほどである。安藤がこの場に入ってきたのは、この時であった。鈴木夫人のたかに、安藤は自分たちの決起の理由を述べたという。夫人は黙して聞いていた。安藤は、鈴木がまだ息をしていることを確かめて、「止めをさせていただきます」と申し出ている。「もうこれ以上のことはおやめください」とたかは言い、安藤も了解した。そして引き揚げていった。結局、鈴木は止めを刺されなかったために、死を免れた。この現代史の一コマが鈴木に歴史上の役割を与えたのである。
 鈴木道子は現在(2023年)92歳になる。元気に日々を過ごしていて、私の各種の講座にも出席してくれている。彼女はもっか鈴木家の昭和史を執筆中でもあり、そこでは祖父がテロに出合ったことの恐怖を語っている。もとより道子は当時まだ5歳の幼児にすぎなかったが、父の一(はじめ)は農林省の官僚で、それだけに一族には不安と恐怖が広がったという。鈴木は確かに血の海の中にいた。顔は土気色になり、脈は衰弱し、出血は止まらない。鈴木の元には次々と医師団が訪れた。自宅の一室が病床に変わり、そこで体内にとどまっていた弾丸が摘出された。絶対安静の時期が2週間ほど続いて、やっと鈴木は回復した。まさに奇跡であった。5月中旬、鈴木は天皇の前に進み出て無事であることを報告している。
 道子によるならば、祖父の貫太郎の身体が強健だったこともあり、危機を脱したことは家族だけではなく、執事や秘書官、さらには天皇側近の人々と、多くの人に喜びをもって迎えられた。「歴史の上では、今も私は祖父が亡くならなかったことは、まだ陛下にお仕えしなければならないとの神意ではなかったかと思います。現場にいた人たちは、あのような状況で亡くならなかったことに誰もが驚いたというのです」と現在も語っている。安藤輝三の出身地にある郷土資料館に、安藤と並んで鈴木のコーナーを作り、歴史の怨念を超えて、という展示を行いたいとの申し出があった時に、作家半藤一利と私は、道子から相談を受けた。もう10年ほど前になるだろうか。私たちは「鈴木さんのお考えは?」と逆に問うた。「釈然としませんね。被害と加害が混乱しているのではないですか」。その答えのなかに、二・二六事件の被害者の存在を正確に把握してほしいという強烈な思いを感じ取ることができた。

【渡辺錠太郎遺族】
 もう一人、テロの犠牲になった陸軍の教育総監・渡辺錠太郎の襲撃場面にも触れておく。東京・杉並にある渡辺邸を襲ったのは、高橋太郎、安田優の二人の少尉に引き連れられた40人近い兵士と下士官である。彼らはトラックに乗り、軽機関銃などを積み、この邸に着いたのは午前6時ごろだったという。実際に邸内に入った襲撃班は2人の将校と6人ほどの下士官、兵士であった。表門が開かないので、裏門から入り家の中に入ると、夫人が「あなた方は何をしようというのですか。用事があるなら玄関から入りなさい」と諭している。少なくとも陸軍の主要幹部の一人だから、青年将校や兵士にとってはこんな形での面会自体が異様であり、夫人も家族も納得しがたかったのであろう。襲撃班はそういう夫人を突き飛ばした上で、襖を開けた。寝室であった。すると中から威嚇のピストルが撃たれた。布団の中の渡辺と襲撃班の間で撃ち合いがあり、やがて渡辺の抵抗は止んだ。布団の上から軍刀でとどめが刺された。こうして渡辺はテロに倒れた。

 鈴木と渡辺の襲撃時の様相をあえて比較的細かく記述したのは、「昭和のテロが遺族にいかなる怒りを生むか」ということを確認するためである。二・二六事件そのものが国の行く末を大きく変えていった理由に、暴力への恐怖と怒りがあり、それを最も具体的に裏付けるのは、遺族の怒りの感情の側に国民が立たなかったことがあるからだ。私は鈴木貫太郎の孫娘に当たる鈴木道子、そして渡辺錠太郎の娘である渡辺和子の二人には、「時代を超える遺族の怒り」を詳しく聞いている。それを紹介しておかなければならない。それは、昭和のテロの傷跡が現在にまでつながっていると考えられるからだ」。
 「渡辺和子がどうしても許せない人物」
 これは渡辺錠太郎の娘の渡辺和子においても同様であった。平成26(2014)年1月のことである。私は岡山市のノートルダム清心学園の理事長室を訪ねた。インタビューのためである。当時、渡辺は87歳になっていて、そのころ刊行した『置かれた場所で咲きなさい』というエッセーがベストセラーになっていた。私のインタビューは、二・二六事件について、遺族としての感情やその気持ちを正確に確かめたいという思いからであった。午後1時から始めたインタビューは、夕方5時ごろまで続いた。カトリックの信者として、さらには修道女としてのその人生の背後には信仰に生きる直線的な生きざまがあった。襲撃してきた青年将校や下士官、兵士と父・錠太郎が銃撃戦を行った時、和子はその部屋でテーブルの陰に隠れて身を縮めていたのである。当時9歳であった。襲撃隊が錠太郎を殺害して寝室を出ていった時に、和子はテーブルの陰から飛び出した。血染めの父親の遺体を見た時に、悲しさよりも恐怖で体が震えるのをおさえることができなかったというのだ。その光景が人生を支配するようになった。私からのインタビューは、この事件について語る最後の機会としようと考えていたのかもしれない。決して饒舌とは言えないが、それでも意外なことを数多く語ってくれた。それはテロの被害者の肉親の心からの叫びでもあった。私はその一言に落涙しそうになった。歴史のなかでははるか昔のことになるのだが、テロの犠牲者の肉親にとってその傷跡は常に「現在進行形」なのであった。和子とのやりとりを通じて、テロの犠牲者の肉親にはどういう傷が残るのかということを私は書きとどめておきたいのである。

 箇条書きにしておくほうがわかりやすく、かつ的確な指摘になると思う。
1 父がテロの犠牲になったことは、私の人生を変えることになった。
2 信仰は私の救いであり、私の支えであり、私の生きる鍵である。
3 テロの加害者を憎しみをもって見るのではなく、許すという心境で見た。
4 二・二六事件は複雑な構図があるにせよ正確に理解したい。
5 加害者の側にも許せる者と許せない者がいると考えている。

 この5点が私には強く印象づけられた。和子の口ぶりは温厚であり、他者や社会に注ぐ視線は柔らかく、そして優しく映る。淡々と話す口調は信仰の思いに溢れている。しかし、ひとたび二・二六事件のテロのある断面に触れると口調は厳しくなるのである。
 私は渡辺和子と次のようなやりとりを行った。紹介しておきたい。
保阪  テロの加害者をお許しにならないというのではなく、信仰をもとに許すというお気持ちがあるということですね。むろん全ての人を、ということではないでしょうけれど。
渡辺  そうですね。しかしどれほど信仰を高めたにしろ、許せるものと許せないものがいるということになります。
保阪  お父上を襲った青年将校や下士官、兵士などは、まだ許せるというふうに考えてもいいということになりますか。

 私の問いに、渡辺はゆっくりと頷き、二・二六事件についての構図を語りはじめた。それは青年将校や下士官、兵士を巧みに使い、父親を殺害した陸軍の上層部の存在に注目するということでもあった。具体的には真崎甚三郎を指していた。こういう人物が青年将校を巧みに使い、このような大事件を画策したことになると断言した。それは明確な答えであった。そういう人物は許すことはできない、ともう一度メリハリのある口調で断言した。この答えに、私の疑問は一気に氷解した。二・二六事件の本質はこの証言者の言に凝縮されていたのだ。二・二六事件後の陸軍は真崎を追い払う形で、梅津美治郎、東條英機、寺内寿一らの新しい派閥が君臨を始めたのだ。このグループが陸軍内部の実権を握り、暴力の延長として軍事を政治の上位に置いて、テロの続編のような国づくりを進めたのである。それは昭和5年から11年2月までのテロルによって生み出された、暴力の季節の最終局面でもあった。





(私論.私見)