【鈴木貫太郎遺族】 |
2023.8.24日、保阪正康「「二・二六事件の遺族」の修道女が明かした「どうしても許せない」人物」。 |
二・二六事件が生んだ「遺族の怒り」
鈴木貫太郎を襲ったのは、歩兵第三連隊の安藤輝三大尉に指揮された200人余の下士官、兵士たちである。鈴木は侍従長の官邸に住んでいた。午前5時前に安藤や兵士たちが官邸を取り囲み、襲撃隊は表門と裏門から入り、護衛の三人の警官は抵抗の術もなく身体の自由を奪われている。寝室と思しき日本間に鈴木貫太郎夫妻はいた。襲撃隊は鈴木を目掛けて拳銃を発射させている。肩、臀部などを貫通する傷を負った。最初の銃撃で重傷であった。倒れた鈴木を15人ほどの兵士、下士官が囲む。さらに下士官が鈴木に銃弾を撃ち込んでいる。この辺りの光景は、彼らの証言や判決文などから想像していくと、極めて乱暴であると同時に鈴木が即死しなかったことが不思議だと思われるほどである。安藤がこの場に入ってきたのは、この時であった。鈴木夫人のたかに、安藤は自分たちの決起の理由を述べたという。夫人は黙して聞いていた。安藤は、鈴木がまだ息をしていることを確かめて、「止めをさせていただきます」と申し出ている。「もうこれ以上のことはおやめください」とたかは言い、安藤も了解した。そして引き揚げていった。結局、鈴木は止めを刺されなかったために、死を免れた。この現代史の一コマが鈴木に歴史上の役割を与えたのである。 |
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鈴木道子は現在(2023年)92歳になる。元気に日々を過ごしていて、私の各種の講座にも出席してくれている。彼女はもっか鈴木家の昭和史を執筆中でもあり、そこでは祖父がテロに出合ったことの恐怖を語っている。もとより道子は当時まだ5歳の幼児にすぎなかったが、父の一(はじめ)は農林省の官僚で、それだけに一族には不安と恐怖が広がったという。鈴木は確かに血の海の中にいた。顔は土気色になり、脈は衰弱し、出血は止まらない。鈴木の元には次々と医師団が訪れた。自宅の一室が病床に変わり、そこで体内にとどまっていた弾丸が摘出された。絶対安静の時期が2週間ほど続いて、やっと鈴木は回復した。まさに奇跡であった。5月中旬、鈴木は天皇の前に進み出て無事であることを報告している。 |
道子によるならば、祖父の貫太郎の身体が強健だったこともあり、危機を脱したことは家族だけではなく、執事や秘書官、さらには天皇側近の人々と、多くの人に喜びをもって迎えられた。「歴史の上では、今も私は祖父が亡くならなかったことは、まだ陛下にお仕えしなければならないとの神意ではなかったかと思います。現場にいた人たちは、あのような状況で亡くならなかったことに誰もが驚いたというのです」と現在も語っている。安藤輝三の出身地にある郷土資料館に、安藤と並んで鈴木のコーナーを作り、歴史の怨念を超えて、という展示を行いたいとの申し出があった時に、作家半藤一利と私は、道子から相談を受けた。もう10年ほど前になるだろうか。私たちは「鈴木さんのお考えは?」と逆に問うた。「釈然としませんね。被害と加害が混乱しているのではないですか」。その答えのなかに、二・二六事件の被害者の存在を正確に把握してほしいという強烈な思いを感じ取ることができた。 |
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