没後間もない時期に書かれた『太平記』や『梅松論』ですでに智略あふれる英雄として描かれ、戦国時代には、あの竹中半兵衛が「昔楠木、今竹中」と評され、江戸時代には講談などで庶民のヒーローとなり、さらに幕末の志士が敬慕した武将、楠木正成。その天才的な軍略と、節を守る侠気あふれる生き方は、時代を超えて、なぜ多くの日本人を魅了するのか。
日本人が長きにわたり憧れを寄せた「英雄」
楠木正成 ―― 最近でこそ、その名前を聞く機会が減っていますが、かつて、多くの日本人が憧れた英雄中の英雄でした。私が子供の頃、「好きな人物は誰か?」を世間一般に問えば、必ず「楠木正成」の名が上位に挙げられたものです。
楠木正成は鎌倉時代の末期から、後醍醐天皇による建武の新政が行なわれた数年間、これ以上ないほどの輝きを放った人物です。鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇にいち早く呼応し、自らの地盤である南河内の赤坂城や千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に立て籠もります。そして攻め寄せた幕府方の大軍に、山城の上から岩や丸太を落としたり、熱湯をかけたりと、それまでの戦いの常識を覆す智略の限りを尽くして、わずかな兵で数万以上の敵を翻弄。城を見事に守り抜いて倒幕への気運を一気に高め、時代のヒーローの座へと駆け上りました。
倒幕が成って建武の新政が行なわれると、その混乱ぶりに多くの武士が愛想を尽かし、実力者である足利尊氏になびいていきますが、楠木正成は掌を返すことはせず、あくまで「節」を守ります。そして叛旗を翻して京に攻め上った足利尊氏率いる大軍を、一度は追い落とすことに成功するのです。しかし、時の勢いはなお、足利尊氏の側にありました。九州に落ち延びた尊氏は、勢力を盛り返して再び上洛軍を起こします。
楠木正成は足利尊氏を京都から追い払った直後、後醍醐天皇に尊氏と手を結んで政権を安定させるよう進言し、さらに尊氏が九州から上洛してくると、守るに難く攻めるに易い京を退去し、洛中(京都市街)に足利軍を引き入れたうえで包囲殲滅するよう献策します。しかし、勝ちに驕る因循姑息な公家たちに、いずれも退けられてしまいました。正成は朝廷の命令に従って足利尊氏を討つために湊川(現在の兵庫県神戸市)に出陣。圧倒的な敵勢を一手に引き受けて天皇方の主力部隊を無事京都へ落ち延びさせ、自らは見事な最期を遂げるのです。
湊川の戦いに臨む際のエピソードとして有名なのが「桜井の別れ」です。死を覚悟した正成は、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で息子・正行(まさつら)に2000騎を引き連れて故郷に帰るよう命じます。「自分も一緒に」とすがる正行に、「もし私が死ぬことがあっても、楠木一族が1人でも生き残っていたら、帝の絆に思いを致し、しっかりとお仕えして戦い抜け」という言葉を残し、自らは700騎を率いて湊川に向かうのでした。
この訣別の場面は、明治時代に「青葉茂れる桜井の」という歌詞で始まる唱歌にもなっています。メロディの艮さもあって、私も小学校時代によく口ずさみました。
寡兵で大軍を打ち破る痛快さや、自らの理想と節を守る生き様の美しさ、そして桜井の別れの哀切さまで、楠木正成の人生を彩る様々なシーンごとに、それぞれの見せ場とテーマがあります。私も子供の頃から、正成の物語を読んだり聴いたりするたびに「ときめき」を覚えたものです。
もしかすると今の若い人の中には、かつて楠木正成が英雄視されたのは、戦前の軍国教育の影響だと勘違いされている方もいるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。私が楠木正成に「ときめき」を覚えた際、軍国主義がどうのなど、まったく考えたこともありませんでした。
そもそも、楠木正成は、没後すぐの14世紀に成立した太平記の中で、すでに智略あふれる英雄として描かれています。さらに驚くべきことに、正成と敵対した足利氏寄りの視点で書かれた歴史物語『梅松諭』(同じく14世紀の書です)にすら、英雄として極めて同情的に描かれているのです。正成が、同時代の人たちからいかに高く評価されたかがわかります。
太平記はその後も広く読まれ、正成の「天才軍略家」ぶりは広く語り継がれていきました。たとえば、戦国時代に羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛を評するのに、「昔楠木、今竹中」などという言葉も残されています。さらに江戸時代に入ると、水戸光圀が「忠臣の鑑」として楠木正成を大いに顕彰しました。光圀は、元禄5年(1692)に、湊川の正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てています。また、江戸時代から盛んになった庶民の娯楽「講釈(講談)」でも、楠木正成は大人気のヒーローになりました。 「今夕より正成出づ」。そんな張り紙が出されると、講釈場に、どっとお客がつめかけたといいます。
この人気と尊崇の念は幕末に至っても衰えず、吉田松陰をはじめ多くの志士たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に詣でました。明治9年(1876)、正成の忠誠心に感銘を受けた駐日イギリス大使ハリー・パークスが、桜井の地に建立された記念碑に英文の碑文を寄せていることからも、当時の圧倒的な人気が窺えます。楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在だったのです。
地域自治を実現し「リトル・ユートピア」を築く
そんな楠木正成ですが、実はその前半生は謎に包まれています。ただ当時、正成が河内国にしっかりと根を生やしていたことは間違いありません。彼が、自分の根拠地である赤坂城や千早城で戦った手法は、いまでいうゲリラ戦法のようなもので、土地の人間たちの熱烈で根強い支援なしに続けられるはずがないからです。正成の屋敷跡は、千早赤阪村水分と推定されており、現在もその近傍には楠木家の氏神とされる建水分(たけみくまり)神社があります。水分とは文字通り「水の配分」を意味し、おそらく正成は、地域の有力者として潅漑用水の配水権を司っていたのでしょう。
さらに正成は、京大坂と高野山を結ぶ高野街道を中心とする幹線道路の陸運や、堺港から各地を結ぶ水運などの利権も押さえていたと考えられます。また、千早城が築かれた金剛山地は、辰砂(水銀の原料)などの産地でもあり、その採掘によって大きな利を得ていたともいわれます。
金剛山は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所でもあります。正成が物流や鉱山など様々な権益を司った背景には、そのような宗教勢力との結びつきもあったことでしょう。つまり楠木正成は、河内を地盤として民の生活を支えつつ、広いネットワークを束ねる存在だったのです。現代的にいえば「河内を拠点にした地域自治の実現者」ということになるでしょう。
私は、楠木正成は太っ腹で頼りがいがあり、公明正大な善政を行なって、河内の民衆から大いに慕われる存在だったのだと思います。言うなれば彼は、河内の地に、自らの腕っ節一つで「リトル・ユートピア」を築き上げていたのではないでしょうか。
自らの夢を貫く「熱い志」
一方、当時は京都の朝廷と鎌倉の北条政権とで権力が分立しており、さらに各地に荘園などが乱立して、土地を巡る権利支配の関係は錯綜を極めていました。正成のような立場の者からすれば、これでは中間搾取が多く、たまったものではありません。
また鎌倉幕府末期には、執権を務める北条氏を中心とした専制政治が強まり(得宗専制)、それまでの荘園や交通物流の利権が、幕府によって奪われ、脅かされていきます。さらに幕府の微税権限も拡大されました。これらは自らの土地に「リトル・ユートピア」を建設した正成にとって、到底許せることではなかったでしょう。
そんな折、幕府政治のあり方に危機感を抱いた後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げます。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例なり(私が新しく行なったことが、未来の先例となる)」と高らかに述べるような天皇でしたから、旧来の格式秩序などにとらわれず、広く社会の実力者層に倒幕への協力を訴えかけました。
もっとも後醍醐天皇は自らの武力を持っていないので、そうするしか方法がなかったともいえます。しかし、このような「民と直接結びつき、自らの手で政治を行なう」という後醍醐天皇の願いは、地域に根ざして生きてきた正成からすれば、中間搾取ばかりにやっきとなる幕府のような夾雑物を排除することを意味しました。
さらに後醍醐天皇が旧来の格式や秩序を超えて協力を呼びかけたことで、ある種の「自由な実力主義社会」への気運が巻き起こります。戦国期や明治維新期の自由闊達さにも通じるこの気連は、正成のような実力者の目には、極めて魅力的に映ったはずです。自分が作り上げたような「リトル・ユートピア」を全国に広げよう ―― あるいはそんな理想を正成は胸に抱いたのかもしれません。
このような想いがあったからこそ、楠木正成は後醍醐天皇の倒幕挙兵に、自らの夢を託したのではないでしょうか。圧倒的に強大な権力に立ち向かうリスクを冒し、身銭を切ってまであれだけの見事な戦いを展開した裏には、そのような「熱い志」があったとしか考えられないのです。
そして楠木正成は、その自らの夢を貫き、最後まで理想を掲げ、天皇を裏切りませんでした。それは正成自身に、「人生意気に感じる」ところがあったからでしょう。イデオロギーや理屈などとは、まったく別次元の話だったはずです。
さらに正成に従う配下たちも最後の最後まで正成と行動を共にし、常に大敵に向かって怯みませんでした。湊川の戦いでは数十倍以上の足利軍を相手に、700騎が73騎に減るまで16度にも及ぶ壮烈な突撃を繰り返したといわれます。
「この人のためなら死んでもいい。やってやろうじゃないか」
正成も、そしてそれを取り巻く男たちも、そのような心意気を胸に滾らせていたように思われてなりません。一途さと情熱とパワーが凝縮された、強烈な「侠気」を感じさせるのです。
「湧くがごとき智謀」をなぜ発揮できたか
楠木正成の魅力は、そのような「熱さ」ばかりではありません。変幻自在の軍略の数々や、後醍醐天皇への的確な献策からは、彼の「先見性と合理性」が見て取れます。
物流を差配しているがゆえに情報通だったこともあるでしょうし、古来、渡来人たちが多く入植した河内の土地柄もあって、外からの知識に柔軟なところもあるのでしょう。当時の知識階級である寺社勢力と親しく交流していたことも大きかったはずです。彼が「天才軍略家」の名をほしいままにする背景には、日常生活の中で、源 義経の戦例や、僧兵たちの戦い方から、蒙古や朝鮮の戦法まで、広く知りうる立場にいたことがあるかもしれません。
さらに正成は、自らの利益ではなく、理想のために行動する「無私」の姿勢を貫いたからこそ、「とらわれない心」でありのままの状況を正しく見極めることができたのではないでしょうか。そしてそれゆえに、自らの想定が覆されても挫けることなく、その時その時の最善の道を追求し続ける「湧くがごとき智謀」を発揮できたのだと思われます。
このような情報収集力、分析力と、それに基づく確かな戦略構想力が、楠木正成の痛快さを一層際立たせるのです。
私は楠木正成に、太陽に向かって花を咲かせるひまわりのような、とことん「陽」の人物という印象を抱いています。ただ怖いだけだったり、表面的に繕ってばかりいるような人間に対して、誰が「この人のためなら」などという思いを抱くでしょうか。明るくて圧倒的な先見性があり、侠気があって皆を引きつけてやまない ―― 正成は、そうした魅力をまとう人物だったはずです。
楠木正成は、まさに庶民の中から生まれ、庶民が愛し、語り継いできたヒーローでした。それこそ長屋の八つぁん熊さんのような人々が、正成の智略の痛快さに快哉を叫び、一途で気高い心に涙を流し、時には権力への不満を正成に仮託してきたのです。そうした存在であり続けた正成の生き様には、「人間として大切にすべき誠実さ」が色濃く刻み込まれているともいえます。
とかく混迷を極め、先の見えない今の時代だからこそ、私たちは再び「楠木正成」を見直すべきではないでしょうか。
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