楠木正成、正行父子考



 (最新見直し2013.08.11日)

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 ここで、日本史上の戦国時代を確認する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


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 2019.5.23、「日本最弱の兵、手勢500、小城」で幕府軍を相手に見せた楠木正成の“逆転劇”」。
 海上知明氏の新著『戦略で読み解く日本の合戦史』では、わずかな手勢とともに小城で鎌倉幕府の大軍とわたりあった楠木正成の戦いを考察している。

 NPO法人孫子経営塾理事である海上知明氏が上梓した、近著『戦略で読み解く日本合戦史』は、日本史の一次史料にとどまらず、『孫子』やクラウゼヴィッツの『戦争論』など古今東西の戦略論を参照しつつ、日本合戦史を分析している。同書にて、少数の手勢で鎌倉幕府の大軍とわたりあった楠木正成の赤坂、千早の攻防を考察している。ここではその一節を紹介する。
 ※本稿は、海上知明著『戦略で読み解く日本合戦史』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。

 日本最弱の兵を率いて大軍と戦った楠木正成

 平安時代から戦国時代に至る期間、軍隊として最弱といえば、まず僧兵集団が挙げられる。たとえば、叡山の僧兵は、まともな戦いで勝ったためしがなかった。強訴をたくらんでは都を守る平家、河内源氏に撃退され続け、「法住寺合戦」では少数の木曽義仲軍に蹴散らされ、足利義教に苦もなくねじ伏せられ、織田信長によってあっけなく滅ぼされた。ところが、その叡山が一度だけ大勝利を収めたことがある。元弘元年(1331年)、「建武の新政」に向けて、鎌倉幕府に対する戦いの狼煙を、大塔宮護良親王が叡山で挙げたときである。「元弘の変」である。この時の指揮官は、叡山がかつて抱いたことのない名将・護良親王であった。

 叡山が山岳拠点であるという利点を護良親王はフルに活用する。守るに適した地形的な有利さに加えて、山を中心に周囲から攻め寄せる敵と戦ったから、局地戦ながらも「内線の利」につながった。しかも天皇行幸を信じ、自らが官軍であるという思いが、叡山の僧兵の志気を高め強兵へと変えていく。『孫子』「勢篇」で言うところの「勢」の利用である。『太平記』によれば、鎌倉幕府軍は五畿内の軍5000騎を正面攻撃軍として赤山禅院ふもとに、搦め手には美濃、尾張、丹波、但馬などの兵7000騎を唐崎の松付近へと差し向けた。対する叡山では一夜にして6000騎が集結する。さらに出陣段階では1万騎にもなっていた。官軍となった叡山は奮い立った。戦端は唐崎浜付近で開かれた。叡山軍300人が鎌倉軍7000騎と戦闘を開始したのである。この時、叡山側は地の利を利用して劣勢ながらも善戦する。唐崎は東は湖、西は泥田、道も狭いため大軍の利点は殺されていく。その間に後方より進む叡山軍は三手に分かれていく。今道方面に3000騎、三宮林に7000騎、そして小舟300隻が大津に向かう。一方面に重心を置き、しかも湖面を利用して背後を突こうというものである。新手の大軍の登場に動揺したうえ、背後を突かれた鎌倉軍は一気に敗退する。叡山側も深追いせず七分勝ちにて退いた。護良親王の見事な戦い方であった。そして、この戦術的勝利は弱兵でも強兵を破れることを印象付けた。ここから、「建武の新政」に向けての戦いが各地で開始される。

 次ページは:手勢わずか500人の楠木正成、20万の大軍に屈せず反撃、逆転
 高校の頃の倫理・社会の教師におもしろい話を聞いたことがある。かつて陸軍の将校として日本のいくつかの地方の兵隊を指揮した経験があったその教師は、どこが弱いといって、ともかく弱い兵隊は京都・大阪の兵隊で、これは当時の将校仲間共通の認識であったというのである。この日本最弱の畿内兵を率いて、板東武者の大軍と戦ったのが楠木正成である。自らが「治天の君」にならんという野望をもって、鎌倉幕府打倒の声を挙げた後醍醐天皇に呼応し、元弘2年/正慶元年(1332年)9月11日、河内の悪党・楠木正成はわずか500人の兵とともに赤坂に籠もった。『太平記』記すところの20万7500騎ともいわれる鎌倉幕府の大軍が正成の籠もる赤坂城に向かう。正成は城内に200人、背後の山に300人の弓兵を潜ませ、突撃してきた鎌倉幕府軍に、まず櫓からの一斉射撃をしてまたたく間に死者1000人を出させ、退いたところを背後の山に潜んでいた300人が二手に分かれて突撃し、同時に城門も開いて200人が打って出て矢を射かけて撃退する。さすがに慎重になった鎌倉幕府軍が塀を乗り越えて侵入を図るが、赤坂城の城壁は二重になっていたため、攻め寄せた幕府軍は外側の壁を倒されて上から石やら大木を落とされて700人、さらに煮えたぎる熱湯をかけられて数百人と損害を出していく。鎌倉幕府軍は、ここで兵糧攻めに切り替え、ようやく陥落させたものの、正成は奇策を用いて脱出していた。自害したふりを装って敵の大軍の中に身を紛らせて落ち伸び、付近に潜伏したのである。

 そして元弘2年(1332年)4月3日、正成は河内国湯浅城を奇襲した。この時に正成は敵方の兵糧が運搬されているところを襲撃し、まんまと運搬している者になりすまして城中に入り込み、城を乗っ取ってしまう。楠木軍は700騎にもなり、あっという間に和泉国・河内国の2カ国を平定する。さらに楠木正成は四天王寺へ出陣してここを占領する。鎌倉幕府は早速近畿地方の軍5000騎を派遣、対する楠木軍は2000騎である。しかも野戦であるから籠城のようにはいかないはずであった。正成は軍を三手に分け、中心部隊を住吉・天王寺付近に隠し、わずか300騎を渡部橋の南詰に出して対峙させた。囮である。あとはうまく敵が餌に食いつくかどうかであった。前面の楠軍が小勢であることを確認した鎌倉軍の大軍は嵩にかかって川を渡って進撃を開始する。対して楠木軍は退却を開始したので、勢いに乗った鎌倉軍は天王寺まで攻め寄せた。『呉子』には「河の半渡」を攻めよとあるのだから、少数の部隊が少しでも有利に戦うためには当然そうするはずである。それが逃げ出すということは裏に何かあると勘ぐるのが思慮深さになるのだが、鎌倉軍にはそれがない。攻め込んだ鎌倉軍は、あらかじめ待機していた楠木軍によって包囲されてしまう。戦国時代に薩摩の島津氏が得意とした「釣り野伏」である。天王寺の東からの一隊は敵を左手に受け、天王寺西門から別の一隊が魚鱗の陣で突撃し、もう一つの隊は住吉の待つの陰から鶴翼で包囲するように展開した。鎌倉軍は慌てて撤退、川に追い落とされることを避けるために渡部川のところで踏みとどまろうとしたが、敗軍化した兵はとどまらず一気に追い落とされてしまう。これが「天王寺合戦」である。

 さらに正成は7月に知略を使い、四天王寺に籠もった猛将・宇都宮公綱を「戦わずして人の兵を屈する」形で追い出してしまう。

 次ページは:退去する鎌倉幕府軍が狙う楠木正成と護良親王の首級
 こうして正成が鎌倉軍の目を引きつけているあいだに、護良親王は紀州国・大和国の鎌倉幕府側の武士の館を奇襲して討つということを繰り返して勢力を扶植し、約3000人の兵とともに吉野で挙兵したのである。これも籠城策である。正成がこれに呼応して元弘2年(1332年)暮れに河内国の赤坂城、金剛山の千早城で蜂起し籠城する。対する鎌倉軍は『太平記』によれば30万7500騎といわれる大軍である。この数字は、もちろん誇張であろう。しかし兵は日本全土から招集されていた。四国からは軍船300隻、長門国・周防国からは軍船200隻、甲信地方からは7000騎、北陸からは3万騎、総勢80万騎にも及ぶと書かれている。ちなみに『神明鏡』によれば48万騎、『保暦間記』によれば5万という数字が挙がっている。「元弘の変」に続いて二度目の大動員である。しかし『太平記』に山陰の兵の記録がなく、長門国・周防国の兵も陸路ではなく海上より寄せたということは、赤松円心の活躍による遮断の効果が大きいと思われる。

 元弘3年(1333年)正月、阿曽治時率いる正面軍8万騎が河内道から赤坂城(上赤坂)へ、大仏高直率いる側面軍20万騎が大和道から金剛山千早城へ向かい、二階堂出羽入道率いる一手2万7000騎は紀伊道を経て護良親王立て籠もる吉野城へと向かった。側面軍ながら最大の兵力が千早城に向かったということは、鎌倉軍の重点を示している。正成は南河内一帯に多くの砦を築き、縦深陣地を構築していた。兵力的にそれだけ強大であったかどうかはわからないが、金剛山を大要塞と化したという説によれば、(最前線前哨陣地)を構成するのが大ヶ塚から持尾に至る線で、第二防衛線(前進陣地)に相当するのが下赤坂城を中心にした一帯、赤坂城(上赤坂)と観心寺を結ぶ一帯が主防御線(本防衛線)であり、詰めの城として千早城があった。赤坂城と千早城を結ぶ線は約8キロである。護良親王は愛染法塔を本営にして吉野川南岸に4つの塁を築き、丈六平から薬師堂までを第一次防御線、蔵王堂から金峰神社までが第二防衛線を形成していた。

 『楠木合戦注文』によれば、鎌倉幕府軍の軍法は優れたもので6カ条からなり、「一、合戦の陣頭において先陣争い統制を乱す者は不忠とす。一、主人が負傷しても退くな、親子、孫が命を落としても退かず戦勝せよ。一、押買、押捕などの狼ろう藉ぜきを禁ず。一、大塔宮護良親王を逮捕、誅殺した者には近江国麻庄を賜る。楠木正成を誅殺した者には丹後国船井庄を賜る」というものであった。ここでは斎藤実盛が語った関東武者の戦い方が軍法として明示され、今回の戦争目的が護良親王と楠木正成の首級を挙げることという形で明確化されていた。

 もっとも戦争を政治の延長上でとらえるとするならば、真に首級を挙げなければならないのは後醍醐天皇ということになる。実際、護良親王と楠木正成が死去した後も戦乱が続いたのは後醍醐天皇という存在があったからである。しかし、鎌倉軍の戦略と戦術としての攻城方法は単純かつ単調なものである。ひたすら直進しての突撃を繰り返したのである。要塞化された地形で後方の本城と連携しての防衛の前に、この単調な攻め方での損失はおびただしいものとなる。

 次ページは:鎌倉幕府軍を100日間にわたって釘付けにした「小さな城」
 上赤坂方面(赤坂城)での死傷者は一日で600人、千剣破城(千早城)では2月28日に死傷者1800人にも上ったとされる。激戦の末に赤坂と吉野を攻略した鎌倉軍は、『太平記』によれば100万人にまで膨れ上がった。正成が率いているのはわずか1000人であるが、知略の限りを尽くして幕府方の大軍を翻弄した。大軍を誇る鎌倉軍に対して、正成は城近くまで引き寄せたうえで、櫓から大石や大木を次から次へと落として大混乱に陥れた。千早城の水断ちを図る鎌倉軍に対して、正成はあらかじめ城内に水槽を200~300個も作らせて貯水していた。何日たっても水汲みに誰も来ないことに鎌倉軍が油断して見張りをおろそかにした頃を見計らい、正成は優秀な射手200~300人に夜襲を仕掛けさせた。警護していた名越軍は20人ほどが討ち取られて撤退。正成は奪い取った名越家の旗を城に持ち帰ってはやし立てる。城攻めのときに寄せ手が激怒すると、籠城側の罠にかかる。名越軍は激怒。大挙して城に押し寄せたが、大木転がし攻撃にあって400~500人が圧死、5000人ほどが射落とされている。千早城の城壁も二重になっていた。攻め寄せた鎌倉軍は外側の壁を倒されたため、6000人も谷底に落ちたという。先の「赤坂城の攻防」から、何も学習していないことがわかる。軍奉行・長崎高貞は「兵糧攻め」に切り替える。すると正成は、甲冑を着せた藁人形を城の麓に並べた。眼下の寄せ手は、城兵が決死の覚悟で打って出てきたと勘違いした。慌てて城に攻め登り、藁人形であることに気が付いた時にはもう手遅れ。たくさんの大石が落ちてきて300人が即死、500人が重傷を負ったとされる。

 苛立つ鎌倉軍は巨大はしごを作らせた。これに綱をたくさん付け、城に向けて倒し架け、つり橋のようにしたのである。寄せ手の先陣がまさに城内に突入しようとした時、千早城からたいまつが投げ込まれた。続いて油がまかれ、火矢が放たれた。架け橋は燃え始め、寄せ手は前方は火に、後方は押し出そうとする味方の大軍に阻まれ、身動きが取れなくなった。大混乱の中、橋は耐えることができなくなり、兵たちを乗せたまま落ちていく。正成の後方では吉野を脱した護良親王が、鎌倉幕府軍の後方攪乱を続けた。こうして、この小さな城の攻防は100日間も続き、大兵力を釘付けにしたため、各地での叛乱が群発し、鎌倉軍は征伐の手が回らなくなってくる。

 千早城に兵力を張り付けていることは鎌倉幕府の動員能力を決定的に低めていたのである。これに西国の軍事力が使用できない状態が赤松円心の活躍によって併発し、戦いは鎌倉幕府滅亡に向けて動いていく。

 次ページは:戦の勝敗を分けるのは兵隊の強さではない

 脆弱な少数の兵で、精強な兵を主力にした桁違いの大軍に勝つということは、常識的に考えれば不可能であったが、正成はそれをやり遂げた。なぜだろうか? 簡単に言えば、戦の勝敗を分けるのは兵隊の強さではなく、戦略と戦術の優劣だからである。そして、弱い兵を率いている司令官ほど、自軍の脆弱さを知っているから、策を練り上げるのである。絶えず訓練して精強さを保っている兵隊は、たしかに個人としては強い。しかし、戦は集団同士のぶつかり合いなのである。東国の兵が、個人の武勇に頼って戦っている限りは、恐ろしい存在ではない。東国の強兵が真に恐るべき存在となるのは、「個人の武勇」という呪縛から解き放たれ、軍事的天才によって組織化され、戦略や戦術の原則に従って行動するようになってからである。戦国の世になり、上杉謙信と武田信玄が出るに至って、東国の兵は最強の軍団となり、西国や近畿の兵は勝てなくなったのである。しかし鎌倉幕府下においては、戦略や戦術は忌み嫌われていたから、戦略と戦術に長じた指揮官さえいれば、攻め込んできた鎌倉軍は大軍であったとしても恐れるに足らないものであったのである。

 海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

 2012.9.21日、童門冬二 (作家)「楠木正成 「痛快無比の英雄」の魅力」(歴史街道2012年10月号より)。
 没後間もない時期に書かれた『太平記』や『梅松論』ですでに智略あふれる英雄として描かれ、戦国時代には、あの竹中半兵衛が「昔楠木、今竹中」と評され、江戸時代には講談などで庶民のヒーローとなり、さらに幕末の志士が敬慕した武将、楠木正成。その天才的な軍略と、節を守る侠気あふれる生き方は、時代を超えて、なぜ多くの日本人を魅了するのか。

 日本人が長きにわたり憧れを寄せた「英雄」

 楠木正成 ―― 最近でこそ、その名前を聞く機会が減っていますが、かつて、多くの日本人が憧れた英雄中の英雄でした。私が子供の頃、「好きな人物は誰か?」を世間一般に問えば、必ず「楠木正成」の名が上位に挙げられたものです。

 楠木正成は鎌倉時代の末期から、後醍醐天皇による建武の新政が行なわれた数年間、これ以上ないほどの輝きを放った人物です。鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇にいち早く呼応し、自らの地盤である南河内の赤坂城や千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に立て籠もります。そして攻め寄せた幕府方の大軍に、山城の上から岩や丸太を落としたり、熱湯をかけたりと、それまでの戦いの常識を覆す智略の限りを尽くして、わずかな兵で数万以上の敵を翻弄。城を見事に守り抜いて倒幕への気運を一気に高め、時代のヒーローの座へと駆け上りました。

 倒幕が成って建武の新政が行なわれると、その混乱ぶりに多くの武士が愛想を尽かし、実力者である足利尊氏になびいていきますが、楠木正成は掌を返すことはせず、あくまで「節」を守ります。そして叛旗を翻して京に攻め上った足利尊氏率いる大軍を、一度は追い落とすことに成功するのです。しかし、時の勢いはなお、足利尊氏の側にありました。九州に落ち延びた尊氏は、勢力を盛り返して再び上洛軍を起こします。

 楠木正成は足利尊氏を京都から追い払った直後、後醍醐天皇に尊氏と手を結んで政権を安定させるよう進言し、さらに尊氏が九州から上洛してくると、守るに難く攻めるに易い京を退去し、洛中(京都市街)に足利軍を引き入れたうえで包囲殲滅するよう献策します。しかし、勝ちに驕る因循姑息な公家たちに、いずれも退けられてしまいました。正成は朝廷の命令に従って足利尊氏を討つために湊川(現在の兵庫県神戸市)に出陣。圧倒的な敵勢を一手に引き受けて天皇方の主力部隊を無事京都へ落ち延びさせ、自らは見事な最期を遂げるのです。

 湊川の戦いに臨む際のエピソードとして有名なのが「桜井の別れ」です。死を覚悟した正成は、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で息子・正行(まさつら)に2000騎を引き連れて故郷に帰るよう命じます。「自分も一緒に」とすがる正行に、「もし私が死ぬことがあっても、楠木一族が1人でも生き残っていたら、帝の絆に思いを致し、しっかりとお仕えして戦い抜け」という言葉を残し、自らは700騎を率いて湊川に向かうのでした。

 この訣別の場面は、明治時代に「青葉茂れる桜井の」という歌詞で始まる唱歌にもなっています。メロディの艮さもあって、私も小学校時代によく口ずさみました。

 寡兵で大軍を打ち破る痛快さや、自らの理想と節を守る生き様の美しさ、そして桜井の別れの哀切さまで、楠木正成の人生を彩る様々なシーンごとに、それぞれの見せ場とテーマがあります。私も子供の頃から、正成の物語を読んだり聴いたりするたびに「ときめき」を覚えたものです。

 もしかすると今の若い人の中には、かつて楠木正成が英雄視されたのは、戦前の軍国教育の影響だと勘違いされている方もいるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。私が楠木正成に「ときめき」を覚えた際、軍国主義がどうのなど、まったく考えたこともありませんでした。

 そもそも、楠木正成は、没後すぐの14世紀に成立した太平記の中で、すでに智略あふれる英雄として描かれています。さらに驚くべきことに、正成と敵対した足利氏寄りの視点で書かれた歴史物語『梅松諭』(同じく14世紀の書です)にすら、英雄として極めて同情的に描かれているのです。正成が、同時代の人たちからいかに高く評価されたかがわかります。

 太平記はその後も広く読まれ、正成の「天才軍略家」ぶりは広く語り継がれていきました。たとえば、戦国時代に羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛を評するのに、「昔楠木、今竹中」などという言葉も残されています。さらに江戸時代に入ると、水戸光圀が「忠臣の鑑」として楠木正成を大いに顕彰しました。光圀は、元禄5年(1692)に、湊川の正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てています。また、江戸時代から盛んになった庶民の娯楽「講釈(講談)」でも、楠木正成は大人気のヒーローになりました。 「今夕より正成出づ」。そんな張り紙が出されると、講釈場に、どっとお客がつめかけたといいます。

 この人気と尊崇の念は幕末に至っても衰えず、吉田松陰をはじめ多くの志士たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に詣でました。明治9年(1876)、正成の忠誠心に感銘を受けた駐日イギリス大使ハリー・パークスが、桜井の地に建立された記念碑に英文の碑文を寄せていることからも、当時の圧倒的な人気が窺えます。楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在だったのです。

  地域自治を実現し「リトル・ユートピア」を築く

 そんな楠木正成ですが、実はその前半生は謎に包まれています。ただ当時、正成が河内国にしっかりと根を生やしていたことは間違いありません。彼が、自分の根拠地である赤坂城や千早城で戦った手法は、いまでいうゲリラ戦法のようなもので、土地の人間たちの熱烈で根強い支援なしに続けられるはずがないからです。正成の屋敷跡は、千早赤阪村水分と推定されており、現在もその近傍には楠木家の氏神とされる建水分(たけみくまり)神社があります。水分とは文字通り「水の配分」を意味し、おそらく正成は、地域の有力者として潅漑用水の配水権を司っていたのでしょう。

 さらに正成は、京大坂と高野山を結ぶ高野街道を中心とする幹線道路の陸運や、堺港から各地を結ぶ水運などの利権も押さえていたと考えられます。また、千早城が築かれた金剛山地は、辰砂(水銀の原料)などの産地でもあり、その採掘によって大きな利を得ていたともいわれます。

 金剛山は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所でもあります。正成が物流や鉱山など様々な権益を司った背景には、そのような宗教勢力との結びつきもあったことでしょう。つまり楠木正成は、河内を地盤として民の生活を支えつつ、広いネットワークを束ねる存在だったのです。現代的にいえば「河内を拠点にした地域自治の実現者」ということになるでしょう。

 私は、楠木正成は太っ腹で頼りがいがあり、公明正大な善政を行なって、河内の民衆から大いに慕われる存在だったのだと思います。言うなれば彼は、河内の地に、自らの腕っ節一つで「リトル・ユートピア」を築き上げていたのではないでしょうか。

 自らの夢を貫く「熱い志」

 一方、当時は京都の朝廷と鎌倉の北条政権とで権力が分立しており、さらに各地に荘園などが乱立して、土地を巡る権利支配の関係は錯綜を極めていました。正成のような立場の者からすれば、これでは中間搾取が多く、たまったものではありません。

 また鎌倉幕府末期には、執権を務める北条氏を中心とした専制政治が強まり(得宗専制)、それまでの荘園や交通物流の利権が、幕府によって奪われ、脅かされていきます。さらに幕府の微税権限も拡大されました。これらは自らの土地に「リトル・ユートピア」を建設した正成にとって、到底許せることではなかったでしょう。

 そんな折、幕府政治のあり方に危機感を抱いた後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げます。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例なり(私が新しく行なったことが、未来の先例となる)」と高らかに述べるような天皇でしたから、旧来の格式秩序などにとらわれず、広く社会の実力者層に倒幕への協力を訴えかけました。

 もっとも後醍醐天皇は自らの武力を持っていないので、そうするしか方法がなかったともいえます。しかし、このような「民と直接結びつき、自らの手で政治を行なう」という後醍醐天皇の願いは、地域に根ざして生きてきた正成からすれば、中間搾取ばかりにやっきとなる幕府のような夾雑物を排除することを意味しました。

 さらに後醍醐天皇が旧来の格式や秩序を超えて協力を呼びかけたことで、ある種の「自由な実力主義社会」への気運が巻き起こります。戦国期や明治維新期の自由闊達さにも通じるこの気連は、正成のような実力者の目には、極めて魅力的に映ったはずです。自分が作り上げたような「リトル・ユートピア」を全国に広げよう ―― あるいはそんな理想を正成は胸に抱いたのかもしれません。

 このような想いがあったからこそ、楠木正成は後醍醐天皇の倒幕挙兵に、自らの夢を託したのではないでしょうか。圧倒的に強大な権力に立ち向かうリスクを冒し、身銭を切ってまであれだけの見事な戦いを展開した裏には、そのような「熱い志」があったとしか考えられないのです。

 そして楠木正成は、その自らの夢を貫き、最後まで理想を掲げ、天皇を裏切りませんでした。それは正成自身に、「人生意気に感じる」ところがあったからでしょう。イデオロギーや理屈などとは、まったく別次元の話だったはずです。

 さらに正成に従う配下たちも最後の最後まで正成と行動を共にし、常に大敵に向かって怯みませんでした。湊川の戦いでは数十倍以上の足利軍を相手に、700騎が73騎に減るまで16度にも及ぶ壮烈な突撃を繰り返したといわれます。

 「この人のためなら死んでもいい。やってやろうじゃないか」

 正成も、そしてそれを取り巻く男たちも、そのような心意気を胸に滾らせていたように思われてなりません。一途さと情熱とパワーが凝縮された、強烈な「侠気」を感じさせるのです。

 「湧くがごとき智謀」をなぜ発揮できたか

 楠木正成の魅力は、そのような「熱さ」ばかりではありません。変幻自在の軍略の数々や、後醍醐天皇への的確な献策からは、彼の「先見性と合理性」が見て取れます。

 物流を差配しているがゆえに情報通だったこともあるでしょうし、古来、渡来人たちが多く入植した河内の土地柄もあって、外からの知識に柔軟なところもあるのでしょう。当時の知識階級である寺社勢力と親しく交流していたことも大きかったはずです。彼が「天才軍略家」の名をほしいままにする背景には、日常生活の中で、源 義経の戦例や、僧兵たちの戦い方から、蒙古や朝鮮の戦法まで、広く知りうる立場にいたことがあるかもしれません。

 さらに正成は、自らの利益ではなく、理想のために行動する「無私」の姿勢を貫いたからこそ、「とらわれない心」でありのままの状況を正しく見極めることができたのではないでしょうか。そしてそれゆえに、自らの想定が覆されても挫けることなく、その時その時の最善の道を追求し続ける「湧くがごとき智謀」を発揮できたのだと思われます。

 このような情報収集力、分析力と、それに基づく確かな戦略構想力が、楠木正成の痛快さを一層際立たせるのです。

 私は楠木正成に、太陽に向かって花を咲かせるひまわりのような、とことん「陽」の人物という印象を抱いています。ただ怖いだけだったり、表面的に繕ってばかりいるような人間に対して、誰が「この人のためなら」などという思いを抱くでしょうか。明るくて圧倒的な先見性があり、侠気があって皆を引きつけてやまない ―― 正成は、そうした魅力をまとう人物だったはずです。

 楠木正成は、まさに庶民の中から生まれ、庶民が愛し、語り継いできたヒーローでした。それこそ長屋の八つぁん熊さんのような人々が、正成の智略の痛快さに快哉を叫び、一途で気高い心に涙を流し、時には権力への不満を正成に仮託してきたのです。そうした存在であり続けた正成の生き様には、「人間として大切にすべき誠実さ」が色濃く刻み込まれているともいえます。

 とかく混迷を極め、先の見えない今の時代だからこそ、私たちは再び「楠木正成」を見直すべきではないでしょうか。

 歴史街道2012年10月号<今月号の読みどころ>

 「誠に賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべきとて、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。敵方がそこまで絶賛した天才的な智将がいました。後醍醐天皇と心を合わせて鎌倉幕府を倒すべく立ち上がり、千早城に押し寄せる大軍を奇策によって翻弄、また市街戦でも変幻自在の戦法で敵を打ち破ります。しかし、男が戦うのは断じて「利」を求めてではなく、己の「夢」のため、そして人として守るべき「節」のためでした。不世出の武将として、同時代はもとより後世に至るも多くの日本人を魅了してやまない、楠木正成。その鮮やかな軍略と、熱い侠気(おとこぎ)から、私たちが今、思い出すべきものを探ります。第二特集は今年10月、70年ぶりに壮麗な丸の内駅舎が復活する「東京駅物語」です。
 作家/童門冬二(どうもん・ふゆじ)

 1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。





(私論.私見)