壇ノ浦の闘い/水軍考




 (最新見直し2013.08.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、15代将軍・足利義輝を確認する。「壇ノ浦の闘い/水軍考」その他を参照する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


【壇ノ浦の闘い/水軍考】

 千坂 恭二フェイスブックより

 建礼門院右京大夫こと平徳子といえば平清盛の娘であり、壇ノ浦合戦において敗れた平家の、人の手を離れた無数の赤旗 が海に漂う壮絶な滅びの光景を目撃している。生き残った徳子は、京都、大原の寂光院で、子だった安徳天皇と平家一門の菩提を弔ったことで知られるが、菩提を弔う余生の現実とはどのようなものなのか。
 昨日、建礼門院右京大夫に触れたけれど、壇ノ浦の合戦で、海戦が得意の平家が、陸戦派の源家に敗れたのは何ゆえか。巷間伝えられるところでは、潮の流れの変化がいわれており、また源義経の破格の活動がいわれたりもする。それもあるだろうが、他にも、平家と源家の水軍の関係がある。平家の水軍を形成したのは、肥前松浦を本拠地とする松浦党であり、他方、源家の水軍を指揮したのは摂津渡辺を本拠地とした渡辺党だった。
実は、この渡辺党と松浦党は同族でもあった。渡辺党の棟梁である渡辺氏は、嵯峨源氏の流れを汲む源綱(渡辺綱)が祖とされ、摂津源氏、河内源氏その他に別れる源家の氏族的分派においては、摂津源氏の源頼政の配下にあったが、摂津源氏の主流の頼政の一族が、平家との宇治合戦で滅んだ後、残った渡辺党の残存部隊は、源頼朝の河内源氏の配下になり、その河内源氏が源平合戦の源家側の一族だった。その渡辺党の祖の渡辺綱(源綱)の孫の源久(松浦久)が松浦党の棟梁の松浦氏の祖になる。つまり、渡辺党が本家筋で、松浦党は分家筋ということになるだろうか。そして渡辺党は瀬戸内海の水軍氏族の棟梁的存在に、松浦党は玄界灘の水軍の棟梁的存在でもあった。
これが壇ノ浦での源平合戦における両軍の水軍部隊の関係だが、当初は、松浦党の活躍で平家側が有利に戦いを展開してゆく。これに対して、渡辺党は松浦党に平家からの寝返りの工作をしていた。つまりもはや平家には先がなく、一族一党の安泰のためには源家側につけというオルグ工作だ。松浦党はそれにより、平家を棄て、源家に与することになり、これにより平家の水軍部隊は崩壊し、平家は敗れることになる。
松浦氏はこの勲功により、鎌倉時代は、幕府の鎮西御家人となり、一族を繁茂させ、モンゴル来襲の時は、対モンゴル戦においても松浦氏の一族の氏族内分派ともいうべき佐志氏などが奮戦する。
(※)画像は、大阪市の都心の中之島のビル群の中にある渡辺橋で、渡辺党はこの界隈にあった渡辺津を本拠地としていた(津とは港のこと)。もう一つは、長崎県の松浦にある松浦党の記念碑。








(私論.私見)