2020.5.31日、内田宗治(旅行ジャーナリスト、地形散歩ライター)「府中に徳川家康が豊臣秀吉のために建てた「御殿」があった 府中本町駅すぐそば、跡地にはいったい何が?」参照。
戦国時代の覇者は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人。近年の発掘で、多摩川の見晴らしがいい府中市内の高台に、家康が秀吉のためにつくった御殿があり、その御殿を秀吉が訪れた形跡が認められる。「国司館と家康御殿史跡広場」。広場の一郭に国司館が10分の1復元模型が置かれている。2010(平成22)年、この地で掘立柱(ほったてばしら)建物跡や塀跡、鍛冶炉跡など数々の遺構と共に江戸時代前期の三つ葉葵(あおい)紋の鬼瓦が出土した。三つ葉葵は徳川家の家紋である。この出土は遺構と徳川家との関係を決定付けた。同地は古くから「御殿地」と呼ばれ家康が建てた御殿があったと伝説のように語られていた。 なぜ家康が秀吉のために御殿をつくったのか、当時の状況を振り返ってみる。1585(天正13)年7月、秀吉は関白に就任する。家康に対し秀吉サイドによる懐柔、臣従要求などが行われるが、家康は当初受け入れなかった。翌年10月、家康は大坂城で諸侯を前にして豊臣家への忠誠を誓う。1590(天正18)年1月、秀吉は家康に北条氏を討つために小田原城への出陣を命じる。その後、秀吉の大軍勢が小田原城を包囲し、同年7月、北条氏を滅亡させた。その後の秀吉は京都に戻らず、そのまま東北地方に向かっている。いわゆる「奥州仕置(支配)」である。発掘された御殿は、秀吉の道中の疲れを癒やすために、その旅程にあわせて家康が建設したという説が有力になった。 秀吉は奥州仕置の際、往路は江戸を経由したが、復路の行程は定かではない。家康はタカ狩りを好み、その際、府中御殿を少なくとも2度利用したなどの記録は残されている。上記の発掘の際、同時に8世紀初頭前後に造営された古代国司(諸国の政務をつかさどった地方官)の館の遺構も姿を現した。 古代武蔵国の行政府である「国府」が置かれた地が府中(現・府中市)である。武蔵国は、今日の東京都と埼玉県および神奈川県川崎市と横浜市の大部分を占める広大なものであった。各地の国の行政は、都から派遣された国司があたりました。発掘されたのは、その国司の執務室兼居宅と考えられている。 府中御殿がつくられたのは1590年であることは間違いないとされている。この年の7月、家康は秀吉により関東に移封(いほう。大名などを他の領地へ移すこと)されて江戸に入った時期である。まだ江戸城の普請もろくにとりかかっていず、江戸を起点とした五街道も整備されていなかった。そうした時に府中の地に御殿が造営されている。古代に国司があった場所として認識されていたためと思われる。同地は南向きの崖の上に位置し、その下には多摩川の低地が広がっている。西は大國魂神社(同市宮町)の森である。崖下は当時清らかな湧き水が豊富にあったはずである。家康やその家臣がすかさず目をつけて御殿を建てたということになる。近くの大國魂神社境内には、府中の歴史を紹介する「ふるさと府中歴史館」がある。