由井正雪の乱 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.10.30日 れんだいこ拝 |
【「慶安の変」(けいあんのへん)、「由比正雪の乱」】 |
1651(慶安4)年、4月から7月にかけて起こった幕政批判反乱事件で「慶安の変」(けいあんのへん)、「由比正雪の乱」とも云う。事件は未然に鎮圧されており、情報も乏しく、その真相は検証されていない。歌舞伎や芝居などでよく題材にされている。 事件の四天王は、由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義。その履歴を確認しておく。 |
由井正雪の履歴は次の通り。 |
駿府(現在の静岡県静岡市)の清水区由比(駿府宮ケ崎町との説もある)の紺屋の子として生まれる。幼名久米之助。幼い頃より才気煥発で書を好む。17歳の時、江戸に出て、楠木正成の子孫の楠木正虎の子と自称する軍学者・楠木正辰(楠木不伝)の弟子になる。楠木正辰は元上杉家に仕える侍にして流浪後、菊水の旗、正成相伝の短刀及び楠氏の系図を所持して江戸・牛込で細々と楠流兵法を教えていた。「陽翁伝楠流」とは別の南木流兵法学であった。楠流兵法の特徴は、「兵法の修学は心性を悟り、諸民を親愛するを上とし、計謀によりて学ぶを中とし、戦術をむさぼり習うを下とする。故に、徳義・才智・勇能が万人に秀でた将軍であれば、神通の謀により戦術も奇妙を尽くすことができる」とするところにあった。楠流兵法とは、まず「正心修身、治国平天下の大義」を本とし、次いで賊徒を討伐するための「智謀・戦術の妙道」を教えるものであり、「清く直く明けき心」を根本としつつ剛毅と真鋭を説く闘戦経の教えそのものと云える(「楠木正成と闘戦経 後編」参照)。但し、この当時の江戸では、軍学といえば甲州流の小幡勘兵衛、その一派である北條流の北條氏長の二人が最高権威者であった。 幼い頃より才気煥発で智略に富んだ正雪は、子弟の礼はもちろんのこと、衣食の資に至るまで厚く正辰を孝養しながら、南木流兵法学を熱心に学んで皆伝となる。やがてその娘と結婚し婿養子となる。不伝の死後、菊水の旗や楠氏の系図などを譲り受けて家を継ぐ。楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆい・かきべのすけ・たちばな・の・しょうせつ)と名乗る。神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開き、自らの軍学を「楠流軍学」として講義を始める。楠木正成は当時、武士の忠義の鑑として見直され、人気が出ていたので、楠流軍学も相当の人気を得た。道場は中々の評判で、一時は3千人もの門下生を抱えたとされる。多くの大名家臣や旗本たちが講義を受けにやってきたという。軍学者としての名声を高め、各地の大名家(御三家の一つである紀伊藩主・徳川頼宣、備前岡山の名主・池田光政等)はもとより将軍家からも仕官の誘いが来ていたが仕官には応じなかった。幕府への仕官を断ったことが共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。 |
丸橋忠弥の履歴は次の通り。 |
出羽(秋田・山形)の生まれ。河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべ もりずみ)と設定されている。宝蔵院流の槍の達人で、江戸御茶ノ水に道場を開いていた。これも又、牢人たちの間にその名声が広まっていた。由井正雪と出会い、片腕として正雪の幕府転覆計画に加担することになる。 |
金井半兵衛の履歴は次の通り。 |
由井正雪の門弟のなかで丸橋忠弥に次ぐ立場であった。半兵衛の父は長州藩毛利家の家臣で、半兵衛も少年の頃は小姓をつとめていたらしい。ただし、一説には刀剣商の出とも言われており出自は定かではない。毛利家に出入りしていた丸橋忠弥により推挙されて正雪の門弟となる。 |
熊谷 直義(くまがい なおよし/ただよし)の履歴は次の通り。 |
陸奥国熊谷氏当主。 |
この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、福島、加藤、蒲生ら多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。武家諸法度違反で改易とされた代表例は、豊臣秀吉の子飼いの大名福島正則である。福島正則は秀吉の死後の関ケ原の合戦で、家康側の中心の武将として活躍し、その褒賞として広島城49万石の城主とされた。しかし元和5年(1619)その居城を、幕府に無断で修復をしたとして改易とされた。 天草では島原の乱があり、徳川政権に少なからず動揺を与えていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して批判的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。正雪はそうした浪人の支持を集めた。 1651(慶安4)年4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子の徳川家綱が4代目将軍を継ぐこととなった。将軍補佐役は秀忠の4男で叔父の保科正之。正之は、吉良義央さんの義兄上杉綱勝(義央さんの奥さんのお兄さん)さんの先妻の父に当る。 正雪は、幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する。計画では、1・正雪が久能山の金蔵を急襲して金銀を強奪し、久能山に立て籠もる。2・丸橋忠弥が小石川にある煙硝蔵に放火し、江戸の市街地に火災を起こす。3・その混乱で対策のためにあわてて江戸城に登城する老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。その混乱に乗じて、事前に準備をした葵の紋の提灯を掲げて紀州藩主を詐称をして江戸城に入り込んで占拠する。4・同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、という作戦であった。 しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により計画が事前に露見する。7.22日、正雪が江戸を出発。7.23日、丸橋忠弥が江戸で捕縛される。7.25日、正雪が駿府に到着し、駿府梅屋町の町年寄・梅屋太郎右衛門方に宿泊する。7.26日早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ自決を余儀なくされた(享年47歳)。辞世の句は「秋はただ 馴れし世にさへ 物憂きに 長き門出の 心とどむなり」。安倍川の河原に同志の首と共に晒し首になるが、縁者の女性が密かに盗み去って静岡市葵区沓谷の菩提樹院に埋葬し首塚となった。7.30日、正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害。8.10日、丸橋忠弥が磔刑となり事件が粛清された。辞世の句は「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」。墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺。熊谷直義は、幕府転覆計画・慶安の変の発覚直後、湯村温泉の地に潜んで天寿を終えている。正福寺には熊谷直義の墓があり薙刀・茶釜が所蔵されている。 駿府で自決した正雪の遺品から紀州藩主徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。後に、この書状は偽造であったとされ頼宣も表立った処罰は受けなかった。幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索した。大目付の中根正盛は与力20余騎を派遣し、配下の廻国者で組織している隠密機関を活用し、特に紀州の動きを詳細に調べさせた。密告者の多くは、老中松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。 慶安の変を機会に、信綱と正盛は、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主徳川頼宣を、幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力の崩壊、一掃の功績をあげる。江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を契機に、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世になっていった。 |
馬場紀衣「百姓の美人姉妹が武士を討った!宮城県に伝わる、幼き少女たちの勇ましい仇討ち」。
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