鍵屋の辻の決闘


 (最新見直し2009.12.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2007.10.30日 れんだいこ拝


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【鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)】
 鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日1634年12月26日)に渡辺数馬荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ち赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。また、曾我兄弟の仇討ちに代わって浄瑠璃坂の仇討ちを加えて江戸三大仇討ちとすることもある。
 「主君のBLに横恋慕して殺害!鍵屋の辻の決闘がなぜ日本三大仇討ち?」、「ウィキペディア(Wikipedia)鍵屋の辻の決闘」その他参照。
 1630(寛永7)年7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害した。これより、日本三大仇討ちの一つ「鍵屋の辻の決闘」が始まる。時の将軍は三代・徳川家光。 将軍になって十年ほど経ち、周りは徳川家康・徳川秀忠から引き継いだ老練な家臣たちが固め、幕府を盤石なものにするべく外様大名への目も厳しかった頃である。まだまだ戦国の気風は残っていた。

 当時、お殿様と小姓との男色・衆道関係が、 織田信長と森蘭丸を代表例として残されていた。時の岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)と渡辺源太夫という小姓の関係も然りであった。 ここで岡山藩士の河合又五郎が登場する。その又五郎が源太夫に横恋慕し、主君のお気に入りである源太夫を口説いた。しかし源太夫は又五郎になびかなかった。その時の物の言い方がマズかったのか、又五郎は「可愛さ余って憎さ百倍」と言わんばかりに源太夫を殺した。
又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍(まさよし)に匿(かく)まわれた。激怒した忠雄は、幕府へ又五郎の引き渡しを要求した。正珍は、「頼られて匿ったからには信義がある」としてか、旗本仲間と結集してこれを拒否した。こうして外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展した。この時代、「知恵伊豆」こと松平信綱や土井利勝がいたが解決せず、二年がたった。

 1632(寛永9)年、当時まだ30歳だった忠雄が、天然痘にかかり呆気なく亡くなってしまった。 彼は今際の際に「又五郎を討て」と遺言する。この頃になると、幕府もこの一件にケリを付ける方法を見出し、武士のならいである「喧嘩両成敗」になるよう、又五郎の江戸追放&正珍と協力した旗本たちの謹慎を決め、事件の幕引きを図った。池田家は子の光仲が家督を継ぎ、因幡国鳥取へ国替えとなる。

 源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。数馬は国替えに従わず脱藩した。剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、1634(寛永11)年11月、又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。数でいえば又五郎側が有利だった。

 1634(寛永11)年11月7日早朝、待ち伏せていた数馬たちが鍵屋の辻を通行する又五郎一行に襲いかかった。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛の主戦力がが討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。

 逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。予め数馬がとどめを刺すことになっていたので、ここから数馬vs又五郎という一騎打ちが始まる。しかし、数馬も又五郎も揃って剣の腕が未熟だったため、五時間も斬り合って、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に又右衛門が斬ったのは二人である。

 決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し、決闘が始まると周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれる。支援の理由はこの事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られる。

 かくして本懐を遂げた数馬たちは世間から賞賛された。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。数馬と又右衛門、孫右衛門は、鍵屋の辻周辺を領地としていた伊賀上野の藤堂家に四年間預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局、3人は池田家が領地替えされた先である鳥取藩に引き取られることになった。 しかし、後日談がある。数馬たち三人は寛永15年(1638年)8月13日、鳥取に到着したが、その約半月後に助太刀してくれた師範・又右衛門の死が公表されている。寛永二十年(1643年)死去説もあるが、又右衛門は慶長四年(1599年)生まれなので、自然死にしてはちょっと早い。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。
 逸話

 又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した河合側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。又右衛門は腰に一撃を受けたともいわれ、さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたが、刀身が折れてしまった(この刀は伊賀守金道とも和泉守金道ともいわれる。どちらも慶長以降に作刀された新刀である)。

 事件後に藤堂家に預けられている際、藤堂家の家臣で刀術の新陰流を修め、戸波流を興した戸波又兵衛親清は「大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは、不心得である」と批評したという。これを聞いた又右衛門は不覚を悟り、寛永12年(1635年)10月24日、数馬を伴って戸波に入門した。入門の時に書いた誓詞が現存している。






(私論.私見)