れんだいこの政教分離問題考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
いわゆる日共不破流政教分離論はナンセンス極まりない。手前たちの政治運動を科学だとし、その他のものを一段下のものにみなし、その上で宗教が政治に口出すのはすべきでない、憲法違反であるとした政教分離論を説いている。この式の立論の問題は、手前たちの政治運動が非宗教であり科学であることをどうやって証明するのかにある。こう問えば立証不能なのに、我々のは科学的社会主義で政治だと云う。そんなご都合主義があってたまるかよ。 選挙分析のたびに食傷されせられる非科学的総括が、不破自身のご都合理論の底を破いている。「党中央の云うことはその通り」式組織論、運動論が、不破式科学的社会主義論の科学性のウソを衝いている。それでも説き続ける政教分離論なんて手前味噌もいいところで論評にも価しない。 戦後憲法が規定するところの政教分離は、戦前の国家神道の押し付けに対する反省から、国家権力の宗教の政治利用を二度と許さないという意味でのものであって、宗教が政治にくちばしを入れることを否認するものではない。なぜなら、宗教と政治はそんなに不分明なものではないから、宗教の政治運動を拒否したら政治の政治運動の拒否にも繋がるからである。なぜなら、日共式科学的社会主義運動も一種の宗教ではないか、それもかなり古色蒼然とした宗教ではないか、と云われたらその通りだからである。 2005.10.20日、2006.8.24日再編集 れんだいこ拝 |
政教分離とは、国家や地方公共団体と、宗教とを分離する思想で、憲法上の原則となっている。日本では明治以来、国家と神道が密接に結びついていた。太平洋戦争後、国と神道との結びつきが戦争突入に関係したと考えた連合国軍総司令部(GHQ)が1945年に神道指令を出し、国家と神道を分離した。その後、日本国憲法の発布で、政治と宗教の分離が確立した。「二度と国家と神道とを結び付けない事を国内外に約束するものとして盛り込まれた経緯」がある。 信教の自由を保障した憲法20条は、宗教団体が国から特権を受けたり、政治上の権力を行使することのほか、国が宗教的活動をすることも禁止している。具体的には次のように規定している。
キリスト教団体その他宗教団体は、首相の靖国神社参拝に対して次のように批判している。
又、89条では、宗教団体への公金支出も禁止している。
愛媛県の玉ぐし料訴訟では、地方公共団体による神社への公金支出も政教分離の原則に反するとの最高裁判決が出ている。(2004.4.8日、毎日新聞「NEWSことば」参照) |
||||||||||||||||||
宗教団体が政治活動すること自体は、政教分離の原則に反しない。しかし、特定の宗教団体と密接な関係に有る政党の政治家が閣僚となることについて、様々な議論がある。 |
【創価学会ー公明党の政教分離見解考】 | |||||||
公明党の「よくある質問公明党と創価学会の関係について 」は、政教分離問題に対して次のような見解を出している。
|
|||||||
|
【日本国首相・村山がユダヤ教帽子をかぶって博物館訪問するのは政教分離に違反していないのか】 | |
西岡昌紀が、「阿修羅ホロコースト版2」の2005.10.20日付投稿「村山首相のヤド・ヴァシェム博物館訪問」で次のように述べている。これを転載しておく。
|
【日本国首相・小泉がユダヤ教帽子をかぶってユダや教聖地を訪問するのは政教分離に違反していないのか】 | ||||||||||||||
2007.3.16日、「正体見たり小泉、そのユダヤ原理主義教徒ぶり考」を書き直した。この問題に関する日共の不思議なノーコメントぶりを確認したかったからである。同じ小泉の靖国神社参拝には夥しく言及していたにも関わらずである。この現象は何なんだろう。今、日共は、安部政権に対し微に入り細に入り昔のことまで持ち出して手加減無く攻撃している。この現象は何なのだろう。そういうことを確認したかった。 2007.3.16日 れんだいこ拝 |
Re:政教分離考 | れんだいこ | 2008/10/02 |
まおさんちわぁ。ホームページご苦労様です。みき考のリンクに入れさせてもらおうと思います。それはともかく、政教分離について一言しておきます。まおさん的捉え方もあるとは思います。宗教団体はその宗教性を保持するために妄りに政治に関与すべきでないとする意見だとして、それはそれで一理有ります。しかし、それはあくまで教団及び信者がが自由自主自律的に決めることです。 実際に問題になっているのは、宗教は内面的なもので政治にくちばし入れるのがオカシイから始まり、主として科学的社会主義屋からする宗教如きが政治に容喙するのはケシカラン、憲法にも書いてあるではないかという論調の是非です。こうなると、宗教団体は法的につまり強制的に政治に関与できなくなります。 これっていかがなものでしょうか。れんだいこは、憲法が禁じているのは1・国家による特定宗教の保護、2・国家の特定宗教利用、3・特定宗派の国家機関の宗派的利用と受け止めております。つまり、宗教活動の政治活動が禁じられている訳ではない、そう考えております。 もし、宗教活動の政治活動が禁じられれば、何が、どこまでが政治でどこからが宗教活動なのかと云う吟味と定義が必要になります。実際にはこれはできないのです。ですから、思想であれ宗教であれ政治であれ言論であれ基本的に自由として認められるべきなのです。これを前提に、但し戦前的天皇制押し付け、利用ないしはその類いが禁じられていると考えております。 宗教が内面化に向かうのも良し、政治化するのも良し、両方志向するのも良しと考えております。宗教団体が政治運動できるのは反戦平和運動の類い程度とするのがオカシイ、ケシカランと考えております。中山みき教義の場合、内面重視且つ世の立替え、世直し志向です。天理教団は内面志向気味ですが、教祖の本来の教えとは違うと思っております。教祖は、泥海創世譚に基く互い立て合い、助け合いの世の中作りに向かったのであり、そのこと自体が咎められるべきではないと考えています。 問題は、下手な教義理解に基く拙い政治関与に有ります。そうなるぐらいなら政治に関わらない方がむしろ賢明と考えます。しかし、去勢されるべきではないと考えます。他方で、教祖の説く1・谷底せり上げ、金持ち後回し思想、2・資本主義的財物否定思想、3・陽気世界創出思想は魅力的で、もっとその意義が称揚されなければならないと考えております。 ;れんだいこの政教分離考 2008.10.2日 れんだいこ拝 |
Re:政教分離考 | れんだいこ | 2008/10/02 |
政教分離について愚考していたら、丁度折り良く2008.10.2日、民主党の輿石東参院議員会長が午前の参院本会議の代表質問で、政教分離問題で創価学会と公明党の関係を質したようである。れんだいこが、これにコメントしておく。 曰く、「税法上優遇されている宗教法人が選挙対策の中心拠点となって、政党以上の選挙を行っていると言われている」と述べ、憲法が定める政教分離について、麻生首相の見解をただした。今年の6月、公明党の矢野絢也・元委員長が、民主党など野党有志の会合で「非課税で運営されている宗教団体(創価学会)の施設が選挙活動の拠点になる。私の時代は対価を支払ったことはない」と述べており、民主党は政教分離の観点から問題視したようである。麻生首相は「政教分離は宗教法人の政治的活動を排除する趣旨でない」と述べ、従来の政府答弁を踏襲した。 これについて、どう考えるべきだろうか。れんだいこは、民主党の識見不足と見る。そういうことで公明党を責めるのは共産党に任せておけば良い。不破式こんがらがり実は何を云おうとしているのか分からない抜け道多々有り論法を聞かせてくれよう。政教分離を持ち出して政争利用でやると大怪我をするのは民主党の方であろう。これご託宣しておく。 矢野元委員長のように「非課税で運営されている宗教団体(創価学会)の施設が選挙活動の拠点になる。私の時代は対価を支払ったことはない」的な観点から批判するのは形式主義ではなかろうか。もしこれが咎められるなら、今後一切の宗教団体は政治活動、選挙運動してはならなくなるだろう。「非課税で運営されている施設」と「政党交付金を受けて居る政党」の繫がり故にイケナイとされるなら、共産党だけができるということにもなろう。 れんだいこは、公明党を批判するのに、そういう回り道は性に合わない。70年代頃、反戦平和の党として売り出し、現在生活与党として打ち出している公明党の現下の在り方が公約詐欺では無いかと問えば良いだけの話である。ブッシュ派に国富をせしめ取られ、更に絞られようとしている現下の局面で、自民党と合唱して日米運命共同体を更に深めようとしている公明党に対して、何が生活与党だエエ加減二セイと怒鳴り散らせば良いだけの事である。思い付きのバラマキ支援金策で歓心を買おうとしているが、厳しい財政状況の折柄小手先術はエエ加減二セイと一喝すれば良いだけの話である。 こう責めずに、公明党を政教分離論でいたぶろうとする民主党よ、愚かなるは汝なりではなかろうか。そういう要らん事を云う暇があったら、自民党の金城湯池になっている各宗教団体に働きかけ、民主党を売り込めばよいだけの話である。業界団体然り、町内会然りである。やらねばならぬことは一杯あるではないか。それができぬ者があれもダメこれもダメつうふうに首を絞めて恍惚しようとしているように見える。政治はもっと堂々とダイナミックにやらにゃぁ。創価会館にジェラシーするのなら、手前らも箱物作れば良いではないか。堂々と乗り込み、朝まで討論して逆釈伏すれば良かろうが。 2008.10.2日 れんだいこ拝 |