れんだいこの政教分離問題考



 (最新見直し2008.10.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 いわゆる日共不破流政教分離論はナンセンス極まりない。手前たちの政治運動を科学だとし、その他のものを一段下のものにみなし、その上で宗教が政治に口出すのはすべきでない、憲法違反であるとした政教分離論を説いている。この式の立論の問題は、手前たちの政治運動が非宗教であり科学であることをどうやって証明するのかにある。こう問えば立証不能なのに、我々のは科学的社会主義で政治だと云う。そんなご都合主義があってたまるかよ。

 選挙分析のたびに食傷されせられる非科学的総括が、不破自身のご都合理論の底を破いている。「党中央の云うことはその通り」式組織論、運動論が、不破式科学的社会主義論の科学性のウソを衝いている。それでも説き続ける政教分離論なんて手前味噌もいいところで論評にも価しない。

 戦後憲法が規定するところの政教分離は、戦前の国家神道の押し付けに対する反省から、国家権力の宗教の政治利用を二度と許さないという意味でのものであって、宗教が政治にくちばしを入れることを否認するものではない。なぜなら、宗教と政治はそんなに不分明なものではないから、宗教の政治運動を拒否したら政治の政治運動の拒否にも繋がるからである。なぜなら、日共式科学的社会主義運動も一種の宗教ではないか、それもかなり古色蒼然とした宗教ではないか、と云われたらその通りだからである。

 2005.10.20日、2006.8.24日再編集 れんだいこ拝


 政教分離とは、国家や地方公共団体と、宗教とを分離する思想で、憲法上の原則となっている。日本では明治以来、国家と神道が密接に結びついていた。太平洋戦争後、国と神道との結びつきが戦争突入に関係したと考えた連合国軍総司令部(GHQ)が1945年に神道指令を出し、国家と神道を分離した。その後、日本国憲法の発布で、政治と宗教の分離が確立した。「二度と国家と神道とを結び付けない事を国内外に約束するものとして盛り込まれた経緯」がある。

 信教の自由を保障した憲法20条は、宗教団体が国から特権を受けたり、政治上の権力を行使することのほか、国が宗教的活動をすることも禁止している。具体的には次のように規定している。
 憲法第20条 【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
1 
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 Freedom of religion is guaranteed to all. No religious organization shall receive any privileges from the State, nor exercise any political authority.
 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 No person shall be compelled to take part in any religious acts, celebration, rite or practice
3   国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
 The State and its organs shall refrain from religious education or any other religious activity.

 キリスト教団体その他宗教団体は、首相の靖国神社参拝に対して次のように批判している。
 意訳概要「靖国神社は、戦後の一連のGHQ措置で国家管理から離れ、東京都認可の一宗教法人として再発足した。民間神社になった以上、首相の靖国神社参拝は、憲法第20条の規定する『いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない』、『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない』の規定に反することになる。要するに靖国神社という特定の宗教団体に対する肩入れは許されず、不当なものである」。

 又、89条では、宗教団体への公金支出も禁止している。
 憲法第89条 【公の財産の支出利用の制限】
 公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
 No public money or other property shall be expended or appropriated for the use, benefit or maintenance of any religious institution or association, or for any charitable, educational or benevolent enterprises not under the control of public authority.

 愛媛県の玉ぐし料訴訟では、地方公共団体による神社への公金支出も政教分離の原則に反するとの最高裁判決が出ている。(2004.4.8日、毎日新聞「NEWSことば」参照)
 宗教団体が政治活動すること自体は、政教分離の原則に反しない。しかし、特定の宗教団体と密接な関係に有る政党の政治家が閣僚となることについて、様々な議論がある。

【創価学会ー公明党の政教分離見解考】
 公明党の「よくある質問公明党と創価学会の関係について 」は、政教分離問題に対して次のような見解を出している。
問い  公明党と創価学会の関係は?
答え  政党と支持団体の関係です。各政党を労働組合や各種団体などが支持する関係と同類です。公明党と創価学会は不定期で「連絡協議会」を開催し、協議内容はマスコミ公開されています。一部週刊誌等で「政教一致だ」とか「憲法20条に違反した関係にある」等の記事が掲載されることがありますが、全く的外れな批判であり、既に国会の論戦の場でも決着済みのことです。

 そもそも、憲法が定める「政教分離」原則の意味は、憲法が宗教団体の政治活動を禁止しているということではありません。内閣法制局は「憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない」(大森内閣法制局長官の国会答弁趣旨=1999年7月15日)としています。

 憲法が規制対象としているのは、「国家権力」の側です。つまり、創価学会という支持団体(宗教法人)が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません。国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、国民に強制するようなことを禁じているのが「政教分離」原則です。具体的に言うと、先の戦前・戦中に実際にあった事実として軍事政権・国家(政)が、一定の「国家神道」(教)を強要したり、天皇陛下を神に祭り上げ、思想統制を図ろうとしたことなどです。この反省に立ち、信教の自由、言論の自由、結社の自由--などが定められ、「政教分離の原則」が条文に記載されたのです。
Re:れんだいこのカンテラ時評その50 れんだいこ 2005/05/24
(私論.私見) 「創価学会ー公明党の政教分離見解考」 【政教分離問題について】

 これもいつかは主張しておかねばならないことなので、№50記念で書き付けておく。

 「創価学会・公明党の政教一致ないしは分離問題」を廻って、特に日共不破のあてこすりが激しく、その指弾に同調する自称左派もんが多い気がする。れんだいこはナンセンスと思っているので以下記す。

 「政教分離」に関する公明党の見解は次の通りである。
 れんだいこ意訳概要「政党を支持する団体が、労働組合であろうが宗教団体であろうがそれは自由。憲法20条の政教分離規定は、憲法が宗教団体の政治活動を禁止しているということではない。国およびその機関が権力的に宗教に介入しまたは利用することを排除する趣旨である。宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、国民に強制するようなことを禁じているのが政教分離原則の意味である」。

 この見解は妥当であろう。法治主義の原則に則り法文解釈に随う限りこうなるし、これで良いのではなかろうか。にも拘わらず、主として日共系から異論、抗議が為されている。れんだいこにはその方がイカガワシイと思われる。

 日共系の論法からすれば、現在中国で注目されつつある法輪功が今後政治運動化するならば更に厳しく取り締まられねばならないということになろう。現に中共政府はそうしているが、そしてその中共と日共が手打ちして友誼を取り戻したということは、万一日共が政権取ったら同様の弾圧をするということであろう。れんだいことしては、双葉の芽の内から垣間見える日共の非マルクス主義的治安警察論法に警鐘しておかねばなるまい。

 「創価学会・公明党の政教一致問題」は政争の道具にされてはならない。公明党が創価学会という宗教的教義に則り政治運動を展開することは、それが現行法秩序を遵守して運動する限りに於いてはそれは公認され容認されるべきものであろう。

 その組織的運動的成長を嫌悪するのなら、それに対抗する党派が「創価学会ー公明党」に優る運動を創出すれば良いだけのことである。というかそれしか為すすべがない、そう解するのが法治主義であろう。

 現に、1970年代に於いては共産党と公明党は激しい競り合いしていたではないか。それで良いのではないのか。分が悪くなった今頃になって、「創価学会ー公明党関係は憲法の政教分離既定に抵触する怖れ有り」など改めて言いだし、当局へ取り締まり要請するなどは卑怯姑息であろう。

 「創価学会・公明党関係問題」で真に問題となるのは、己たちが法治主義によって公認されているにも拘わらず自己都合主義で法治主義の原則を踏みにじる行為を為す場合である。過去に「出版妨害事件」、「電話盗聴事件」等でその種の例を引き起こした。これは社会的に大きく糾弾され、この件では当時日共内に登竜中の不破が大いに活躍したことは記憶に残るところである。

 「三つ子の魂百まで」という倣いで観れば、「創価学会・公明党」が何時法治主義の原則を放棄してそのファッショ体質を万展開するか分からない不気味さは有る。しかし、「創価学会・公明党」は事件以来少なくとも表街道では法治主義に転換しているように見える。こうなると、法治主義社会にあっては取り締まる術は無いと心得るべきだろう。危険性を警鐘乱打するぐらいのことは良かろうが。

 れんだいこの感心するところは次のことである。「創価学会ー公明党」の党的能力の素晴らしさは、これらの事件を賢明に総括し、第一に、「やって良いことと悪いことの分別」をしたことである。第二に、未だ充分ではないとはいえ機関運営主義にシフト替えすることに成功したことである。以来、宗教は宗教(創価学会)、政治は政治(公明党)と分別し、お互いが「自由、自主、自律」的に運動することを良しとし、その上で創価学会ー公明党は適宜且つ定期に意見交換し、互いの見解を摺り合わせるという、「自由、自主、自律」に基づく支援関係を構築している。

 それに比べるや、この間に於いて日共系には何ら本質的成長が無いことに驚かされよう。仮に党内に理論部が機関として生まれたにせよ、その理論部は党中央のプロパガンダ機関にしかならない。そういうことも含め、党内の機構改革は旧態依然で何も進歩していない。理論と運動が右へ右へと誘導されつつあるが、これに異論を唱える自由がない。相変わらずの分派禁止理論と民主集中制という名ばかりの実は党中央集権制を維持したまま、大衆団体にもフラクション意識で統制化を強めたままの「王朝制」を敷き続けている。

 そういう遅れた実態にある日共系が、「創価学会ー公明党関係問題」で政教分離論を振りかざして非を咎めるのは党利党略以外の何ものでもなかろう。バカも休み休み云いたまえとはこのことだろう。日共不破がこれを云うならば、手前の組織を機関運営主義に則り、執行部責任制を明確にし得てからであろう。今は云う資格さえない。にも拘らず云々しているというのが実際のお粗末なところである。

 「創価学会ー公明党問題」の最新のテーマは、政教分離問題にあるのでは決してない。このことを別の角度から述べてみる。なぜなら、宗教だ、政治科学だと言い合っても、政治科学(科学的社会主義)を主張する側の科学性は誰によってどういう風に証明されるのだ。どこにも証明されていないし証明されようがないではないか。単に、俺達のは科学、お前達のは宗教と得手勝手な論理を弄しているに過ぎないではないか。

 れんだいこが滑稽に思うのは、例えば選挙分析での、公明党と共産党のそれは、どちらかというと公明党の方が科学的であり、共産党のほうが恣意的である。とても科学的社会主義の見地から分析したとは思えない珍妙な論法で、負けた選挙を勝ったと云う。あらゆる指標のうちの一つでも有利な材料がないとなるや、捲土重来を期すと云う。しかして、党中央の責任は、ここで責任を取るのではなく捲土重来に責任をとることこそ真の責任の取り方であるなどと云う。

 歴代の自民党の政権側がこういう論法を使ったことはない。この詭弁が通るのなら、自民党政権は一度権力を執った側が永代の執行部に有りつけよう。現に、共産党の執行部はそうやって1955年の六全協以来宮顕派が党中央を占拠している。これに異議を唱える党内反対派はいかような名目つけても弾圧されるから育たない。イエスマンしか生き残れないという仕掛けになっている。

 「創価学会・公明党問題」で真に問題とされつつあるのは、「創価学会ー公明党のシオニズム化」である。今や、世界権力と化している米英ユ同盟の配下として権力基盤を扶植し始めているその危険性にこそある。「統一原理・勝共連合」が逸早くこの軍門に下っているが、近年「創価学会・公明党」の仲間入り傾向が促進されつつある。これこそ国政上由々しき事態と云えるであろう。

 しかし、れんだいこの観るところ、この問題にも日共は立ち向かえない。なぜなら、日共こそが、少なくとも1955年の六全協以来の宮顕ー野坂系党中央こそは逸早くシオニズムの軍門に下った系譜でしかないから。野坂の胡散臭さは、ソ共のスパイ性にあるのではない。彼は、英国諜報機関、米国諜報機関、シオニズム諜報機関、当然日本の当時の特高奥の院との関係が露呈しつつある。それ故に、指弾されねばならないという位置に居る。

 ところで、宮顕はどうだ。れんだいこの観るところ、日本の当時の特高奥の院との関係は無論のこと、戦後の釈放時のイカガワシイ経緯から判明することはシオニズム系諜報機関に取り込まれている可能性が強い。不破もこれまたイカガワシイ。

 つまり、こうなるとあらゆる意味で、宮顕ー野坂ー不破系日共党中央は「創価学会ー公明党」にしてやられているのに過ぎないのであって、そういう意味で用済みにされつつあるということになる。それが歯痒くて単に嫉妬的感情でいちゃもんつけているだけのことに過ぎないということになる。実際にはもっと複雑なドロドロした面があるのであろうが、能力的にヤラレテイルのは確かなことのように思える。

 これは下部党員レベルまでそうかというと、そうとも云えない。その分、日本左派運動には潜在的可能性能力は有るとみなせ、救いといえば救いだろう。

 以上から云える事は、我々は、日共レベルの低次元論争に付き合う必要はない。あくまで、「創価学会ー公明党派」に伍する競って負けない否彼らを取るに足らない勢力として退け得る党派とその運動の創出と力強い歩みを目指すべきである。これを世に、正々堂々と云う。この正面から受けてたつ気概の欠けた連中による逃げ逃げ鉄砲撃つ醜悪な弁論士の指導する運動では今後もやられ続けるだろう。

 以上、思いつくまま記しておく。

 2005.5.24日 れんだいこ拝

【日本国首相・村山がユダヤ教帽子をかぶって博物館訪問するのは政教分離に違反していないのか】
 西岡昌紀が、「阿修羅ホロコースト版2」の2005.10.20日付投稿「村山首相のヤド・ヴァシェム博物館訪問」で次のように述べている。これを転載しておく。
 1995年9月、村山首相がイスラエルを訪問した際、村山首相は、ヤド・ヴァシェム博物館を訪問しました。この時の光景を私は、テレビで見たのですが、その時、村山首相は、ユダヤ教徒がかぶるキッパと言う帽子を頭に載せて居ました。

 小泉首相が、靖国神社に行く事が「政教分離」に反すると言ふなら、村山首相がヤド・ヴァシェム博物館でユダヤ教の帽子をかぶった事は、それ以上に、「政教分離」の原則に反しては居ないでしょうか?

【日本国首相・小泉がユダヤ教帽子をかぶってユダや教聖地を訪問するのは政教分離に違反していないのか】
News photo
Re:れんだいこのカンテラ時評189 れんだいこ 2006/07/23
 【秘密結社員としての悲願達成を首相職で行なった小泉一座の嬌態お笑い外交について】

 小泉がここのところ矢継ぎ早に嬌態外交を演じた。「G8サンクトペテルブルク・サミット」に先だつ数週間前に奇妙な動きを見せている。一つは、プレスリー邸での嬌態であり、二つ目は、エルサレムでの宗教行為であり、三つ目はサミットでの嬌態である。関連させての論評が為されていないように思われるので、れんだいこがコメントしておく。

 2006.6月下旬、小泉は訪米しブッシュを表敬した。日本のジャーナリズムは肝腎なことを伝えない又は賞味期限後の後出しでしか伝えないが、この時もそうで、守屋武昌・防衛事務次官同行という異例の事態をそれとして報じていない。小泉は何故、日米首脳会談への防衛事務次官同行を必要としたのか。前例が有るのか無いのか。

 小泉政権になって、自衛隊の米英ユ同盟配下軍としての活用、その為の尋常でない予算支出を招いているが、その褒賞として防衛次官を同行したと評するのは余りにも陳腐であろう。自衛隊の活用を廻る更なる共同謀議が為されたものと推定されよう。これが小泉の奇妙な動きその1である。

 第2に、6.30日、小泉はブッシュ大統領夫妻と共に、テネシー州メンフィスにあるロック歌手エルビス・プレスリー邸(グレースランド)を訪問した。れんだいこ推理に拠ると、プレスリー邸訪問は、この後のイスラエル訪問時の「嘆きの壁参り」の煙幕として活用された節が有る。つまり、プレスリーファンの「聖地」訪問をユダヤ教の聖地「嘆きの壁」訪問の前座としてたもので、「嘆きの壁」訪問のリアクション対策であったと考えられる。つまり、用意周到に練られたシナリオであった可能性が強い。

 それはともかく、小泉は、大統領専用機エアフォースワンでメンフィス入りした。大統領専用機エアフォースワンに同乗するのは異例の好待遇であるという。小泉はブッシュに何故にかくも好待遇されるのか。ポチ的忠勤ぶりのみで説明し得ることであろうか。れんだいこは、この二人が特殊な宗教的政治的結社仲間なのではなかろうかと推理している。そう思わせる節が多々有る。

 それはともかく、小泉のプレスリー邸での嬌態を確認しておかねばならない。プレスリーの元妻プリシラと娘リサ・マリー・プレスリーが出迎えたの対し、記者達とカメラの前で、リサ・マリーさんの肩に手を回しながら“強く抱き締めたい”とプレスリーの歌の一節を語り掛けた。愛嬌と云えば云えぬことは無いが、不謹慎には違いない。その後、貸し切りとなった邸内で約1時間半、プレスリーのステージ衣装や愛車、音楽賞受賞曲の金のレコードなどをじっくりと見て回った。

 米国人記者団のリクエストに応え「ラブミーテンダー」などの歌を即興で披露し、エルビスの大きな金縁サングラスを掴むと即座にそれを装着し、プレスリーを真似てサングラス姿でギターを弾く格好をし、“Love Me Tender,”“Can't Help Falling in Love With You,”“Fools Rush In,”“I Want You, I Need You, I Love You,”と歌い、あげくの果てに“Glory, Glory, Hallelujah”と歌った。「ここに来るのが夢だった。夢かなった」との言葉を残した。「Glory, Glory, Hallelujah」と「ここに来るのが夢だった。夢かなった」との言葉が意味深である。

 れんだいこは、これを奇妙な動きその2と見る。小泉のプレスリー邸での嬌態は、この後のイスラエル訪問時の「嘆きの壁参り」の衝撃を消す効果を持たせるために意図的に為されたものであり、何をしでかすか分からない、何をやっても不思議ではない小泉を演出したのではないのか。

 7.12日、小泉は、ロシアのサンクトペテルブルク・サミットに先立ちイスラエルへ立ち寄った。この後、パレスチナ、ヨルダンにも立ち寄っている。しかし、特段の外交的成果があった訳ではないことからすれば、オルメルト・イスラエル首相、アッバース・パレスチナ大統領、アブドラ・ヨルダン国王陛下との会談は刺身のツマのようなもので、本命はズバリ「嘆きの壁」訪問にあったのではなかろうか。小泉の「嘆きの壁」訪問は、小泉がプレスリー邸で述べた「ここに来るのが夢だった。夢かなった」との言葉と共鳴している。そう、「嘆きの壁」訪問こそ小泉の悲願であり、これを達成したのではなかろうか。

 日本のジャーナリズムは今に至るまで、深い意味を持つ小泉の「嘆きの壁訪問」を報道していない。ホロコースト記念館を訪問したことは伝えたが、「嘆きの壁訪問」は伝えていない。れんだいこは、外電で知らされた次第である。「阿修羅」がこれを明らかにしたが、全く日本のマスコミは役に立たない。

 ところで、小泉のホロコースト記念館でのいでたちが異様であった。毎日新聞がその時の小泉を写真で報じている。それによると、小泉は頭上にユダヤ教徒が頭に載せる小さなお皿のような帽子であるキッパを乗せ、「永遠の炎」のそばでたたずんでいる。これは、見る者が見れば分かる歴史的ユダヤの秘密結社の行事である。もう一つの写真が外電で伝えられている。前後は分からないが、小泉は、ユダヤ帽をかぶって「嘆きの壁」にたたずみ、ユダヤ教徒がする仕草で祈念している。れんだいこは、これを奇妙な動きその3と見る。

 これを、「一国の宰相にあるまじき夢遊病的な行為」と断ずるのは誰でも出来ることである。問題は、小泉が敢えてこの愚行を挙行した裏意味は何か、それを探ることに有る。「嘆きの壁」は、イスラエルの建国の原点にもなっている復讐の誓いを為す聖地である。小泉が、その「嘆きの壁」で演じた宗教行為の政治的意味は重い。このグループの一員であることを意味している。

 小泉はこたびのイスラエル訪問で、「永遠の炎前たたずみ」、「嘆きの壁詣で」という二種の宗教行為を演じた。1・日本の首相職の者が、2・ユダヤ教徒としてのいでたちで、3・ユダヤ教の入信ないしは信仰決意儀式を敢行した。これは、靖国神社参拝問題を吹っ飛ばすもっと大きな衝撃的政治的事件ではなかろうか。こう感知することのできない日本世論は政治的に死んでいる。

 小泉のこたびの行為は、憲法上の政教分離に明らかに抵触している。日本の祖宗である神道仏教のうちの特定宗派の儀式に参加したのでも責められるのに、ユダヤ教儀式なら何故許されるのか。ここが論ぜられなければならない。これまで小泉は、首相万能権能論を説くエピゴーネンの支援により一事万事を超法規的に御してきた。その成れの果てとして遂にここまで辿り着いたことになる。我々の手温い対応が遂にここまで調子づかせたことになる。

 しかし、お蔭でというべきか、小泉が、尋常でない秘密結社の一員であることを誰憚ることなく自ら明らかにしたことになる。何故、あからさまにしたのかは分からない。敢えて推理すれば、こたびの小泉の行為は日本ホロコースト化宣言であり、小泉はこれをイスラエルに誓約してきたとみなせるだろう。小泉一派の証文がどれだけ有効なのかは別問題であるが、かような首相を5年有余据え置いた我々の責任も問われるだろう。

 こうなると、小泉とはそも何者ぞ、小泉を支援する政治経済文化グループとはそも何者ぞということを検討せねばならないだろう。彼らはただの経済利殖人ではない。明らかに現代ネオ・シオニズムのエージェント工作員であり、日本人の姿かたちはしていても身も心もユダヤに預けている手合いであり、それにより立身出世が約束され我が世の春を謳歌しているグループである。北朝鮮問題には論客が現れ、かまびすしく議論するが、こういう本筋の問題には誰も近寄らないのは滑稽なことである。

 小泉の最後の奇行は、ロシア・サンクトペテルブルクでの第32回主要国首脳会議(サミット)に於けるそれである。サミットは、7.16日よりピョートル宮殿で開催されたが、7.15日の非公式夕食会でロシア民謡が流れると急に舞台に上がり、踊り始めたと云う。日本のメディアはその様子を伝えないので詳細が分からないが、ブッシュも一緒に踊ったようである。

 つまり、この二人は、北朝鮮テポドン問題、イスラエルのガザ侵攻という政治情勢に見舞われている最中にノー天気ぶりを晒したことになる。ブッシュはその後たしなめられたらしく、小泉に注意する役目を引き受けさせられた。 「小泉首相はいつも場を支配する。小泉首相、ちょっとお静かに」と述べると、その場が爆笑に包まれたと云う。

 この逸話は、日本の首相の株が上がったと評すべきだろうか。れんだいこは、世界に恥ずかしい日本国首相の低脳レベルが世界の舞台に輸出され、顰蹙を買うと共に許容されたと受け取る。こういう嬌態が罷り通る時代なのだろう。奇妙な動きその4と見る。 

 2006.7.23日 れんだいこ拝
 (参考サイト)「小泉はイスラエルに何しに行ったのか?主要マスコミはなぜこれを報道しないのか?

 「イラクの子どもを救う会Weblog」の2006.7.28日付け「嘆きの壁で嘆く首相を、嘆く」を転載しておく。
 ベイルートは美しい街だった。目前には地中海。背後には雪を抱いたレバノン山脈。中東では珍しくキリスト教徒が多い国なので、レストランで堂々とビールやワインが飲めるのがうれしかった。アンマンからの深夜便でベイルート国際空港に降り立つとき、しばし、漆黒の海とネオンのコントラストに、見とれてしまったほどだ。その国際空港がイスラエルに爆破され、ベイルートは戦火に包まれてしまった。ヒズボラのイスラエル兵士拉致問題に端を発した、この「一方的な空爆」は、イスラエルがかねてからレバノンを狙っていた、シナリオ通りの行動だと思う。

ヒズボラのロケットがイスラエルに命中し、イスラエル兵も何人か死んでいる、と報道されているが、大雑把に言うと、イスラエル人1人死ぬのに対し、レバノン人は10人、それも民間人が多く含まれていて、圧倒的な火力の差による、「一方的な空爆」であることは明らかだ。そして現在アメリカは拒否権を発動し、イスラエルを擁護している。アラブ人たちは、連日このニュースをどんな気持ちで見ているのだろうか・・・。

 たまたまなのか、小泉首相は、イスラエルとアラブの関係が極度に緊張している時期に、イスラエルを訪問し、エルサレムの嘆きの壁で、キッパ帽をかぶりユダヤ式に「嘆いてみせた」という。なんというアホな首相か!イスラエルが空爆でアラブの民間人を殺しているときに、嘆きの壁で嘆いてみせるとは・・・。エルサレムの嘆きの壁は、世界中からの観光客でごった返しているが、じつは壁の前で嘆くユダヤ教徒はごくわずかである。人々はその嘆いているユダヤ教徒を遠巻きにして見物、壁を前に記念撮影し、「あーエルサレムに来たのね」と満足して帰っていくところなのだ。

 ユダヤ教徒でもない首相が、ユダヤの黒装束で、ユダヤ式に嘆いてみせる・・・。お前は高校の修学旅行気分か!と、突っ込みたくなる。いっそのこと国会に嘆きの壁を作って、「こんな首相を選んでしまった日本人の責任」をみんなで嘆いてみたらどうだろう。アラブ人たちは日本のことが好きだった。しかしこの首相の行動を見て、幻滅した人はおそらく数知れず。靖国参拝もしかり。不必要なことをあえてやらかして、相手を刺激、激怒させる。「9月の任期切れまでじっとしておれ」と、叫びたくなるが、次は安部になりそうだ。安部は小泉と同等、あるいはそれ以上に「世界を知らない」ようだ。この国は世界の笑いものになろうとしているのだろうか・・・。

 2007.3.16日、「正体見たり小泉、そのユダヤ原理主義教徒ぶり考」を書き直した。この問題に関する日共の不思議なノーコメントぶりを確認したかったからである。同じ小泉の靖国神社参拝には夥しく言及していたにも関わらずである。この現象は何なんだろう。今、日共は、安部政権に対し微に入り細に入り昔のことまで持ち出して手加減無く攻撃している。この現象は何なのだろう。そういうことを確認したかった。

 2007.3.16日 れんだいこ拝

Re:政教分離考 れんだいこ 2008/10/02
 まおさんちわぁ。ホームページご苦労様です。みき考のリンクに入れさせてもらおうと思います。それはともかく、政教分離について一言しておきます。まおさん的捉え方もあるとは思います。宗教団体はその宗教性を保持するために妄りに政治に関与すべきでないとする意見だとして、それはそれで一理有ります。しかし、それはあくまで教団及び信者がが自由自主自律的に決めることです。

 実際に問題になっているのは、宗教は内面的なもので政治にくちばし入れるのがオカシイから始まり、主として科学的社会主義屋からする宗教如きが政治に容喙するのはケシカラン、憲法にも書いてあるではないかという論調の是非です。こうなると、宗教団体は法的につまり強制的に政治に関与できなくなります。

 これっていかがなものでしょうか。れんだいこは、憲法が禁じているのは1・国家による特定宗教の保護、2・国家の特定宗教利用、3・特定宗派の国家機関の宗派的利用と受け止めております。つまり、宗教活動の政治活動が禁じられている訳ではない、そう考えております。

 もし、宗教活動の政治活動が禁じられれば、何が、どこまでが政治でどこからが宗教活動なのかと云う吟味と定義が必要になります。実際にはこれはできないのです。ですから、思想であれ宗教であれ政治であれ言論であれ基本的に自由として認められるべきなのです。これを前提に、但し戦前的天皇制押し付け、利用ないしはその類いが禁じられていると考えております。

 宗教が内面化に向かうのも良し、政治化するのも良し、両方志向するのも良しと考えております。宗教団体が政治運動できるのは反戦平和運動の類い程度とするのがオカシイ、ケシカランと考えております。中山みき教義の場合、内面重視且つ世の立替え、世直し志向です。天理教団は内面志向気味ですが、教祖の本来の教えとは違うと思っております。教祖は、泥海創世譚に基く互い立て合い、助け合いの世の中作りに向かったのであり、そのこと自体が咎められるべきではないと考えています。

 問題は、下手な教義理解に基く拙い政治関与に有ります。そうなるぐらいなら政治に関わらない方がむしろ賢明と考えます。しかし、去勢されるべきではないと考えます。他方で、教祖の説く1・谷底せり上げ、金持ち後回し思想、2・資本主義的財物否定思想、3・陽気世界創出思想は魅力的で、もっとその意義が称揚されなければならないと考えております。

 ;れんだいこの政教分離考

 2008.10.2日 れんだいこ拝

Re:政教分離考 れんだいこ 2008/10/02
 政教分離について愚考していたら、丁度折り良く2008.10.2日、民主党の輿石東参院議員会長が午前の参院本会議の代表質問で、政教分離問題で創価学会と公明党の関係を質したようである。れんだいこが、これにコメントしておく。

 曰く、「税法上優遇されている宗教法人が選挙対策の中心拠点となって、政党以上の選挙を行っていると言われている」と述べ、憲法が定める政教分離について、麻生首相の見解をただした。今年の6月、公明党の矢野絢也・元委員長が、民主党など野党有志の会合で「非課税で運営されている宗教団体(創価学会)の施設が選挙活動の拠点になる。私の時代は対価を支払ったことはない」と述べており、民主党は政教分離の観点から問題視したようである。麻生首相は「政教分離は宗教法人の政治的活動を排除する趣旨でない」と述べ、従来の政府答弁を踏襲した。

 これについて、どう考えるべきだろうか。れんだいこは、民主党の識見不足と見る。そういうことで公明党を責めるのは共産党に任せておけば良い。不破式こんがらがり実は何を云おうとしているのか分からない抜け道多々有り論法を聞かせてくれよう。政教分離を持ち出して政争利用でやると大怪我をするのは民主党の方であろう。これご託宣しておく。

 矢野元委員長のように「非課税で運営されている宗教団体(創価学会)の施設が選挙活動の拠点になる。私の時代は対価を支払ったことはない」的な観点から批判するのは形式主義ではなかろうか。もしこれが咎められるなら、今後一切の宗教団体は政治活動、選挙運動してはならなくなるだろう。「非課税で運営されている施設」と「政党交付金を受けて居る政党」の繫がり故にイケナイとされるなら、共産党だけができるということにもなろう。

 れんだいこは、公明党を批判するのに、そういう回り道は性に合わない。70年代頃、反戦平和の党として売り出し、現在生活与党として打ち出している公明党の現下の在り方が公約詐欺では無いかと問えば良いだけの話である。ブッシュ派に国富をせしめ取られ、更に絞られようとしている現下の局面で、自民党と合唱して日米運命共同体を更に深めようとしている公明党に対して、何が生活与党だエエ加減二セイと怒鳴り散らせば良いだけの事である。思い付きのバラマキ支援金策で歓心を買おうとしているが、厳しい財政状況の折柄小手先術はエエ加減二セイと一喝すれば良いだけの話である。

 こう責めずに、公明党を政教分離論でいたぶろうとする民主党よ、愚かなるは汝なりではなかろうか。そういう要らん事を云う暇があったら、自民党の金城湯池になっている各宗教団体に働きかけ、民主党を売り込めばよいだけの話である。業界団体然り、町内会然りである。やらねばならぬことは一杯あるではないか。それができぬ者があれもダメこれもダメつうふうに首を絞めて恍惚しようとしているように見える。政治はもっと堂々とダイナミックにやらにゃぁ。創価会館にジェラシーするのなら、手前らも箱物作れば良いではないか。堂々と乗り込み、朝まで討論して逆釈伏すれば良かろうが。

 2008.10.2日 れんだいこ拝












(私論.私見)