あつしら氏の政教分離問題考



 (最新見直し2008.8.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 「阿修羅雑談専用2」にあっしら氏の政教分離問題論が掲載されている。これを転載し愚考することとする。

 2008.8.22日 れんだいこ拝


 「政教分離」の意味 − 人類は進歩も退化もせず変化するのみ −
 投稿者 あっしら 日時 2003 年 9 月 11 日 21:00:54:Mo7ApAlflbQ6s

 イスラムをめぐるすみちゃんとのやり取りの続きです。
>いったい人類は進歩しているのでしょうか?
>人類は退化しているのではないかという疑問がふつふつと沸いてきます。

 ヘーゲルであれば、大いなる退化はそれに抗う進化の力を否応なく高め、その弁証法的な動きで絶対精神の外化過程を早めるという解釈にでもなるのかも知れません。

 それを哲学的論理ではなくリアリズムとして認めそれに期待しつつも、「進歩史観」を傲慢の一つの源泉と考える立場から、人類は進歩も退化もせず変化するのみと書きます。

 知識や対象的活動力(自然改変力)は歴史継承的に“進化”しても、思考力や身体的活動力は基本的に変わらないものであり、世界観(価値観)はただ変化しているだけだと思っています。

 「進歩史観」は、知識主義や物質主義を支えとし、知識の保有量や活動成果の大きさにひれ伏す価値観に誘導するものだと考えています。

>そういうことは可能性としてはあり得ますが、政教分離を必要とするが故にイスラムではなくなるということですか。

 すみちゃんの脈絡からは少しズレてしまいますが、近代人が、「近代経済システム」と同じように超歴史的な枠組みとして当然視している「政教分離」について考えてみます。

 まず、欧米近代国家や日本が「政教分離」だというのは錯誤に基づく判断です。空虚な説明でそう思い込んでいるだけで、ある価値観(世界観的原理)が政治(国家統治)の基礎になっていることは否めません。キリスト教や国家神道の代わりに、民主主義・平等主義(主権の持分及び法の適用が個人において平等)・自由主義(国家統治者から受ける諸活動に対する制限の縮小)を“原理”とする「政教一致」に改変されたということです。

 「近代主義という“宗教”」=原理を国家統治の基礎に置いているのが近代国家です。構成員による基本的な価値観の共有がないまま共同体や国家の統合はできないと言ったほうがいいかもしれません。

 近代主義は、宗教ではなく、「天賦で普遍性がある人権はなにものも侵すことができない」(神や預言者は出てきませんが、まさにセム系宗教的な表現です)と信じているから、「政教分離」という説明を受け入れられるだけです。

 近代国家で行われているのは、宗教的教えと国家統治の基礎原理を峻別し、宗教的権威者は信仰者グループに権威を示すことができても、信仰者が全国民であっても宗教的権威者がその身分を楯に国家統治を差配することは許されないというものです。端的には、キリスト教とりわけカソリックを国家統治の原理や仕組みから切り離し、信仰は、信仰は個人の判断に任せ心の在り様と非国家的行動の範囲にとどめるという考えです。

 キリスト教のコアである新約聖書は、イエス・キリストの言行録であり、共同体や国家の統治原理をなにも示していません。(主との関係性や信仰者共同体の在り方に関する言行録です) だからこそ、カソリック組織は、数多くの反対がありながらも統治原理を含む旧約聖書をその内に抱え込んだと思っています。(ユダヤ教の祭祀階級をカソリックの聖職者位階制になぞらえれば、その存在と権威の支えになります) そして、そのような宗教であるが故に、近代主義が言う「政教分離」が信仰と齟齬を来すことなく受け入れられたと思っています。

 (日本の神道や東アジアの儒教の原理も、近代国家の基礎に置ける内容ではありません。日本や東アジアは、国家として近代を標榜するのなら、歴史的に形成された統治原理を捨て去るか、近代主義との奇妙な結合を行い異様な理屈付けをするしかないことになります)

 ばらばらの存在として自由な個人の結合を本義とする近代国家とは言え、共同体性を完全に捨て去ることはできないので、国家構成員の統合基礎となる価値観や個別的な判断ではなく普遍性や永続性のある原理が必要です。

 一般的に受け入れられている意味合いでの「政教一致」と「政教分離」は、他者関係性を個人の始まりと考えるのか、個人が他者関係性を作り出すと考えるのかに結びつく問題だと思っています。

 (価値判断は抜きにして、全体主義か個人主義かという政治的価値観の問題と考えてもかまいません。全体主義は、国家を実体的存在であるかのように考えたり支配者に帰依するものではなく、生きるためや楽しみために現実的な関係性を結んでいる諸個人全体を優先するものと考えてください)

 生存維持活動や言語修得という基本的な営為を考えても、他者から独立した個人を先行的に措くことはできません。そのような個人は、観念でのみ考えられる抽象的な存在で現実性がないものです。他者関係性のなかで生きるなかで自我(個)を自覚し主張するというのが順序性です。

 イスラムは、商業共同体を出自としていることから、日本などと違って近代主義とある範囲で親和性があるので、近代主義の暴風を受けても原理の解体をしないで生き延びることができます。(だからこそ、現時点でもイスラムが揺るぎない“反近代”の楯になっていると言えます) イスラムが近代と原理的に強く対立するのは、共同体性(全体主義)と利息取得の禁止です。これらは、個々人の信仰の問題に還元できないもので、統治原理になることでのみ保証されるものです。

 このようなイスラムが「政教分離」により個人の価値観や行動に封じ込められてしまえば、その時点で、イスラムはイスラムでなくなります。

 仏教やグノーシスそして新約聖書的キリスト教であれば、個人の在り様に還元できないわけではありませんが、イスラムが示す原理は、特別な志向性を持つ人や心の在り様を対象にしたものではなく、地に足をつけて生き抜くために他者関係的現実活動を行う共同体成員に向けたものです。 (仏教やグノーシスの覚醒者も、イスラムが対象とするような地に足をつけて生き抜くために他者関係的現実活動を行う人々を支えにしてはじめて存続できるものです)

 イスラム世界に「政教分離」を押しつけようとする動きは、どんなにイスラムを尊重すると叫ぼうが、イスラムを消滅させるものです。

>イスラム教徒はこのような凄惨な同士討ちの過程を経ずにすむのでしょうか?
>その条件は何かあるのでしょうか?

 米国政権を主導者としてイスラム世界の「近代化」を意図している勢力は、凄惨な同士討ちを利用したいと思っているはずです。もっとも可能性があるのは、国家支配層とイスラム信仰者の凄惨な戦いです。それほど余裕があるタイムスケジュールに従っているとは思えないので、「近代化」に反対したり阻害する勢力を先制攻撃するよう煽るでしょう。(サウジアラビアにおけるイスラム主義者掃討作戦はその現われだと思っています)

 この場合、国家支配層に雇われる部隊とイスラム主義者は同士討ちになります。(国家支配層は「あいつらはテロリストなんだ」と説明するでしょうが...)

 イスラム世界の国家支配層にイスラムを期待するのは無理なようですから、凄惨な同士討ちをできるだけ減らそうと思うなら、米英軍を中東同時「近代化」の橋頭堡になっているイラクからできるだけ早く撃退させるとともに、イスラムの衣だけ羽織った反イスラムの政治支配層を多数派形成で政治的に包囲するしかないと思っています。

 それには、軍事力や資金力を供出する近代国家の国民が米英主導のイスラム世界「近代化」策動に反対することが大きな側面支援になります。

 私にできることは、9・11の構図を再度検証し「反テロの戦い」を見直すよう呼びかけたり、成功した近代国家における「近代」の行き詰まりが不可避であることを「近代」が内在する価値観や論理から説明することくらいですが...
 【補足】ユダヤ教の「政教分離」について
 投稿者 あっしら 日時 2003 年 9 月 12 日 00:24:03:Mo7ApAlflbQ6s
 (回答先: 「政教分離」の意味 − 人類は進歩も退化もせず変化するのみ − 投稿者 あっしら 日時 2003 年 9 月 11 日 21:00:54)

 ユダヤ教についても触れるつもりだったのに忘れてしまいました。イスラムにもっとも近い宗教はユダヤ教だと思っています。(実際にも強い影響を受けています)

 イスラムがユダヤ教に強く対立する原理は祭祀階級の存在とイスラエルの選民性ですが、現在のユダヤ教は、国家の滅亡とともに共同体統治原理の一つである祭祀階級が無効化し、イスラムとの違いは選民性に絞られています。

 モーセ五書=律法の内容が実行されていないだけではなくタルムードも法的実効性を持っていないので、原理的に「政教一致」を要請するユダヤ教とは異質のものになり、他者(異なる世界観や価値観を持つ者)との差異性を維持し、歴史的観念を共有する人たちが共同体性を確保する精神的糧に変わったと考えています。

 選民性が、神が約束した支配領域への執着の支えになったり、利息取得の禁止が同胞に限定されることになった要因かなと思っています。このようなことから、「政教分離」などの近代主義がユダヤ教徒にとって相対的に好ましいものとは推測できます。
(私論.私見)

 あっしら氏はここで、いわゆる近代的進歩史観も叉、それ以前の様々な史観と同様の価値観に過ぎないと指摘している。政教分離についても、「錯誤に基づく判断」でしかないとしている。実際には、「構成員による基本的な価値観の共有がないまま共同体や国家の統合はできない」と考えるべきであり、「ある価値観(世界観的原理)が政治(国家統治)の基礎になっている」のであり、キリスト教や国家神道が然りであり、近代的進歩史観に基く政教分離論は、キリスト教や国家神道的価値観の代わりに、民主主義・平等主義・自由主義と云う「セム系的な近代主義という宗教的価値観」に置き換え導入しただけに過ぎないとしている。

 その上で、政教分離論の核心を次のように述べている。

 「近代国家で行われているのは、宗教的教えと国家統治の基礎原理を峻別し、宗教的権威者は信仰者グループに権威を示すことができても、信仰者が全国民であっても宗教的権威者がその身分を楯に国家統治を差配することは許されないというものです。端的には、キリスト教とりわけカソリックを国家統治の原理や仕組みから切り離し、信仰は、信仰は個人の判断に任せ心の在り様と非国家的行動の範囲にとどめるという考えです」。

 その上で、イスラム式政教一致制にそれなりの合理性を見出そうとしている。次のように述べている。

 「イスラム世界に「政教分離」を押しつけようとする動きは、どんなにイスラムを尊重すると叫ぼうが、イスラムを消滅させるものです」。

 れんだいこ的には、まだまだるっこいが、あっしら氏の指摘には首肯できる。

 2008.8.22日 れんだいこ拝













(私論.私見)