アジアでの民族独立運動との絡みについて |
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
黄文雄氏の「捏造された日本史」には次のように書かれている。
小室直樹氏の「日本の敗因」では次のように述べられている。
この両者の云うように大東亜戦争の歴史的(文明的と云うべきかも)功績として「植民地各国の民族解放闘争に生命力を与えた」ことは、史実として見直されるべきではなかろうか。戦後日本左派・サヨに共通する観点として意識的にここを見ようとしない癖があるように思われる。その遠因として、「南京大虐殺事件」以来、日本軍鬼による虐殺自虐観に冒されており、日本軍の出没するところどこにでもアナーキーな蛮行があったと認識しているように思われる。れんだいこは、それは悪しき政治主義的プロパガンダであり、一時の不戦思想を醸成するに都合よくても実践的には役立たない観点として排斥したい。あくまで史実をどう読み取るべきかが肝要であり、その現場から教訓が生み出されるべきではなかろうか。 ここは大事な観点であるが゛、右派系論調がこれを認め、サヨ・左派系がノーコメントという変調のまま今日まで至っている。以下見ておくことにする。(れんだいこコメント)は追って付ける。 |
仏印(現・ベトナム) |
昭和19・3月に日本軍が進駐し、フランス軍を武装解除。前アンナン皇帝であるバオダイ帝を擁して独立宣言。 |
ビルマ(現・ミャンマー) |
独立運動家バー・モアを中心にして1942年に行政府を成立させ、43.8月にラングーンで独立式典を執り行った。 アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。(ビルマ独立義勇軍 ) |
フィリピン |
1943.10月に、ホセ・ラウレルを大統領としてフィリピン共和国を樹立。 フィリピンは結構対日感情悪い方なんですが、それでも「日本の戦争責任」なんてアホなことは一言も言っていない。 |
インドネシア | |
残留日本兵の約1千名が、日本人遊撃部隊を結成し対オランダ独立戦争に参戦する。 アラムシャ第三副首相は次のように述べている。
|
タイ |
ククリット・プラモード元首相は「日本は独立の母である」と感謝した。「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母胎をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」云々。 |
インド |
1943.12月に、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド臨時政府を設立。 ●杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨 8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思いを想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54年間、異境で眠り続けているからだ。 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ドイツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。 ●インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、インド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもいい。 第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせることだった。英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからである。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利だった。 1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたくみつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、インド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。 ●インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄 モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。 戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族は戦う権利がある」という主張を貫いた。 この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でインド放棄を決断した。1946年1月のことである。 ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。 チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記(萬晩報主宰 「伴 武澄」著書より抜粋) 1957.5月岸信介首相がインドを訪ねた時のネール首相の歓迎挨拶の時の一節。「私の若いときに日露戦争というのがあった。その頃、東洋人は西洋人に敵わないというのが普遍的な考え方だった。況や大国と小さな島国が戦うなら、負けるのが当たり前だ。ところが勝っちゃった。これが私の一生を決定した。東洋人の私は、それまでイギリスにはかなわんと思っていたが、独立させようと一生を捧げることになったんだ云々」(2003.1.4日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より。若干文意を踏まえて改訂している)。 |
マレーシア |
マラッカに国立の独立宣言記念館に展示してある「Japanese
Occupation in Malaysia 1941-1945」という文書がある。そこにマレーシアという国の日本に対する基本姿勢に表現しがたい熱いものを感じた。観光でマラッカを訪れた人は多いと思うが、この文書を目にした人はまだ少ないと思う。 ●列強のほとんどが足跡を残したマラッカ マラッカはマレーシアの独立運動の発祥地である。ポルトガル、オランダ、中国、イギリス、そして日本。この町にはアジアを支配した国々のほとんどの足跡がある。明の時代にやってきた中国人は土着化し、イギリス人は2度やってきた。イギリスはナポレオン戦争でオランダが占領されたどさくさ時から、オランダ領マラッカを事実上支配した。戦後の1825 年、英蘭による条約で東南アジアを2国で分割統治する約束をした。ジャワにあった英領の植民地と引き替えにマラヤ半島の要衝を手中に収めた。ボルネオ島のど真ん中に国境が引かれたのもその時である。 イギリスはペナンの開発に着手し、シンガポールという新たな半島の拠点もあり、以降、貿易拠点としてのマラッカはあまり意味があったとはいえない。だが、その後のスズ鉱山経営という観点からみれば、クアラルンプールへの出入り口を抑えた経済効果は小さくなかった。 ●4年後に戻ったイギリスが感じた違うマラヤ マラヤ人にとってイギリスによる百数十年の支配が植民地のすべてだった。そこへ1941年疾風のごとく「北からの黄色い支配者」がやってきて、4年後には再びイギリスが戻ってきた。マラヤ人にとっての第二次世界大戦はマレー半島を舞台にした日英の衝突だった。どちらもがマレー半島の支配者だった。違うのは日本が統治した時間が圧倒的に短かったため、破壊のみで建設する時間がなかったことだ。日本軍政が終了した後、イギリスもまた軍政を敷いた。合点がいかないのは、人様の領土を踏みにじった歴史はどちらも誉められたものではないはずなのに、戦後は日本が悪でイギリスが善となった。 一つだけ言えるのは、日本がマレー半島を手にするのに血が流れ、イギリスがそれを取り戻すのに血を流す必要がなかったことだ。太平洋で日本がアメリカに敗れたため、棚からぼた餅で元の領土が戻ってきたのだ。イギリスにとっての不幸は、マラヤ人が4年前の従順なマラヤ人でなくなっていたことだった。チャーチル首相がヤルタ会談で「インドはイギリスのものである」と断言したように、シンガポールを含めたマレー半島の海峡植民地は再びイギリスに富をもたらす土地となるはずであった。だが「invinsible=絶対不敗」だったイギリスが日本に敗れる様を見た後のマラヤ人はもはや元と同じような目でイギリス人を仰ぎ見ることはなかった。 筆者は、以前から「国家機能」のひとつに「歴史編纂」という大事業があると考えてきた。これまでアジアのほとんどの国は西洋の歴史観ををそのまま導入して自らの歴史編纂を怠ってきたのではないかという問題意識を持ってきた。どうやら戦後50年以上を経て、マレーシアで新しい歴史観が芽生えているようだ。マラッカにある国立独立宣言記念館の文書を翻訳して以下に掲載する。 ●マレーシアにおける日本占領 1941-1945 1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウェールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大きな痛手を与えました。 1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まりました。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けましたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものでした。マラヤ人はイギリスは無敵の存在と考えてましたが、そうではないことが分かったのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできます。 (略)日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実ですが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれました。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなりました。日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められましたのです 1946年2月22日、クアラルンプールのビクトリア協会(?)での降伏の儀式で、板垣将軍はマラヤの司令官となったマサヴィー中将に刀を捧げ、ほかの幹部たちも続きました。 日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かですが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な政治変化をもたらしました。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でないことを植え付けました。日本は負けましたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのです。(国立マラッカ独立宣言記念館) ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は次のように述べている。 この国に来られた日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。 |