「松根大将口述書問題」について |
(れんだいこのショートメッセージ) |
「松井石根の口述書」を参照する。松井石根は1947年11月24日極東軍事裁判で自身により証言台に立った。以下はその口述である。
この口述をどう読みとるべきか。現代史家の秦郁彦は、「松井が責任問題がからむので、ノライクラリ逃げているようにも見え、前後が矛盾する陳述を平気で並べると受け取った人もあろう」、口述書の不自然さはひときわ目立った、と書いている。しかし、それはこれは秦流の解釈でしかない。この口述のポイントは、非行について(若干)知っていたが、不法事件は知らなかった、と述べていると読みとるべきである。非行とは軍刑法に違反する行為であり略奪・民間人への暴行などを指す。不法事件とは捕虜の虐殺である。この時松井は編組によって上海派遣軍(朝香宮)と第10軍(柳川平助)の二つをもつ方面軍司令官であり、捕虜の処分方針が司令官の職責となっていたと思えない。松井が捕虜虐殺を知っていたか否かが現在でも論争となっているが、ここで示されていることは非行についてある程度知っていたが捕虜虐殺は知らなかったことである。 松井は処刑を前にした1948年12月9日、花山老師に南京事件について最後の述懐をなした。次のように伝えられている。
松井石根(1878−1948)陸士9期陸大 愛知県出身。日露戦争に第2軍副官として出征した。フランス畑でその後欧州各国に駐在武官・観戦武官として駐留した。短い期間清国駐在武官、ハルビン特務機関(特務機関は紛争地域における現地の武装勢力との交渉に当たる任務でスパイ機関ではない)を経験したが、なぜ熱心な大アジア主義者となったか疑問である。1931年からジュネーブの一般軍縮会議全権を務めた。1935年退役したが1937年現役復帰、上海派遣軍司令官に任命された。昭和天皇から陸軍の国際畑として信任が厚かったためだという。 |