「松根大将口述書問題」について



 (最新見直し2012.3.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 「松井石根の口述書」を参照する。松井石根は1947年11月24日極東軍事裁判で自身により証言台に立った。以下はその口述である。
 「予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。これ予の甚だ遺憾とするところなり。因みに南京陥落当時、予は南京を去る40哩の蘇州に於いて病臥中にて、予の命令に拘わらず、之等非行の行われたることにつき之を知らず、又、何等の報告に接せず。17日、南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。(中略)

 予は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任せるが、其間、昭和12年12月下旬、南京に於いて只若干の不法事件ありたりとの噂を関知したるのみにて、何等斯かる事実に就き公的報告を受けたることなく、当法廷に於いて検事側の主張するが如き大規模なり虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確信す」。

 この口述をどう読みとるべきか。現代史家の秦郁彦は、「松井が責任問題がからむので、ノライクラリ逃げているようにも見え、前後が矛盾する陳述を平気で並べると受け取った人もあろう」、口述書の不自然さはひときわ目立った、と書いている。しかし、それはこれは秦流の解釈でしかない。この口述のポイントは、非行について(若干)知っていたが、不法事件は知らなかった、と述べていると読みとるべきである。非行とは軍刑法に違反する行為であり略奪・民間人への暴行などを指す。不法事件とは捕虜の虐殺である。この時松井は編組によって上海派遣軍(朝香宮)と第10軍(柳川平助)の二つをもつ方面軍司令官であり、捕虜の処分方針が司令官の職責となっていたと思えない。松井が捕虜虐殺を知っていたか否かが現在でも論争となっているが、ここで示されていることは非行についてある程度知っていたが捕虜虐殺は知らなかったことである。

 松井は処刑を前にした1948年12月9日、花山老師に南京事件について最後の述懐をなした。次のように伝えられている。

 「南京事件はお恥ずかしい限りです。…私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときはシナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長如きは「当たり前ですよ」とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になることは当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんに嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」。
 この発言は福田篤泰(外交官のち代議士;南京の大規模非行について否認、不法行為について不確認)が実際行われたと証言しており事実としてはっきりしている。またある師団長とは中島今朝吾(第16師団長;のち関東軍第4軍司令官の時、私財略奪のかどで予備役編入)である。この問題は中島の個人的性格が影響しているもの思われる。その結果として後日処罰もされているが、盗癖のある人物を軍司令官にまで昇進させた官僚組織の罪は重い。松井は終始、責任は師団司令部以上にあると認識し、兵士に責任を被せていないことに注意すべきだろう。用語として兵と軍人を分けている。松井は南京における非行と捕虜虐殺(不法行為)は明確に軍人(参謀を中心とする将校)に責任があると認識していた。兵のせいにしているのはエリート参謀将校たちである。

 松井石根(1878−1948)陸士9期陸大

 愛知県出身。日露戦争に第2軍副官として出征した。フランス畑でその後欧州各国に駐在武官・観戦武官として駐留した。短い期間清国駐在武官、ハルビン特務機関(特務機関は紛争地域における現地の武装勢力との交渉に当たる任務でスパイ機関ではない)を経験したが、なぜ熱心な大アジア主義者となったか疑問である。1931年からジュネーブの一般軍縮会議全権を務めた。1935年退役したが1937年現役復帰、上海派遣軍司令官に任命された。昭和天皇から陸軍の国際畑として信任が厚かったためだという。












(私論.私見)