兵士証言、日誌資料に纏わるいかがわしさについて1

 (最新見直し2006.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 急遽思いつくままに記す。南京虐殺60ヵ年全国連絡会ホームページ」元日本軍兵士の証言を参照し、コメント付けていく。その理由は、この種の事件の解明の為の一級資料には到底成りえないことを証するためである。れんだいこには参考資料としての意義としてなら価値があるように思える。参考資料では否定派と論を交えるには不十分であろう。が、それで良しとしてきた経過があり、その例証が同サイトの「元日本軍兵士の証言」であり、早急に一級資料の発掘が望まれるという提言として以下分析するれんだいこコメントは赤枠で示すことにする。

 ところで、一級資料とは何か、参考資料とは何かについてコメントしておく。一級資料とは、まず疑いないという史実を書き記した貴重資料のことであり、当然当人が体験、経験したことを書き記しているのが望ましい。但し、仮に当人のそれであっても万全ではない。同じ事態、事象に対する捉え方、表現も又銘々によって異なるからである。こう云う場合最も正確に伝えていると思われる者の証言を更に選定仕分けしていく必要がある。一級資料とはそれほど珍しい困難なものである。次に、参考資料とは、伝聞、推測が混じっているものであるが、書き記された内容が正確と思われる貴重資料のことを云う。

 
この区別から以下の証言を見るのに、なるほど南京事件の最中に当地に居たことのある兵士の証言集ではあるが、いわばただそれだけであり、それぞれが意味のある証言では有るが、それらの証言を照合させていくと整合しないという証言となっている。むしろ南京大虐殺を少しも証言していないという変なことになっていることに気づくであろう。「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」が「元日本軍兵士の証言」として採録するからには、もっとましなものがないのだろうかと却って不安になるのがオチであろう。しかし、不思議なものでれんだいこが以下のように解析して見せてもまだピンとこない者も居るようである。この手合いには漬ける薬が無い。

 2005.5.21日現在、リンク先の南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」元日本軍兵士の証言が開かない。当方のパソコンの調子の不良のせいかも知れないが、閉鎖されているのなら問題だ。何の為に元日本軍兵士の証言を公開していたのだろう。反戦平和の願いを込めてのものだとしたら、それを閉鎖してどうするのだ。何となく気持ち悪いので意見しておく。

 2005.5.21日再編集 れんだいこ拝


【「南京大虐殺60カ年全国連絡会」とは】
 2005.5.22日現在、「南京大虐殺60カ年全国連絡会」サイトがでてこない。そこで検索かけると、「戦争の真実を語り継ぐリンク集」の中で次のように紹介されている。これを転載する。但し、ここでも「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」のサイトが開かない。こうなると閉鎖されているのだろう。
 1997年は、日本が中国を侵略した1937年の盧溝橋事件から60カ年、そして中国侵略戦争の中でも、短期間に無辜の市民や武器を放棄した中国軍捕虜に対して、集団虐殺、掠奪、放火、強姦をおこなった南京大虐殺事件60カ年の年でした。1996年以前から日本各地で南京大虐殺絵画展、南京証言集会、731証言集会、毒ガス展を開催してきた各地の実行委員会は、市民への歴史の認識を深めるための運動を展開してきましたが、南京大虐殺60カ年を期して、中国侵略と南京大虐殺の歴史的事実に対する理解をさらに広範な市民に広めていくために、1997年1月25日、「南京大虐殺60カ年全国連絡会」を結成しました。・・・同サイトより。

(私論.私見) 「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」サイト閉鎖考

 「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」サイトは何故閉鎖されているのであるか。反戦平和を願う者が、それを閉じてどうするのだ。何を考えているのだ。せめて、れんだいこが知らないだけかも知れぬが、閉鎖理由を告知してからすべきであろう。告知せず閉鎖したとしたら、それこそ問題だ。れんだいこは特に以下の文をサイトアップしている。事象を知らぬ者が検証しようがないではないか。

 2006.9.26日 れんだいこ拝


【海軍第3艦隊、第11戦隊兵士の口演証言】
 1997年12月13日、めもりある南京1937inおおさかにて(司会:松岡環)、「海軍第3艦隊、第11戦隊兵士の口演証言」が為されている。れんだいこがこれを解析する。
司会者  南京に実際にいらっしゃった時の話をお聞かせ下さい。
元兵士  私が南京にいったのは1937年10月18日頃から12月25日頃間で、上海を起点として、南京攻略のための長江の遡航部隊にいました。それは第3艦隊第11戦隊第24駆逐隊のある船の一員として乗り込んでいたわけであります。
司会者  12月13日に南京にお入りになったと聞いておりますが…
元兵士  朝から南京は今日陥ちるという情報がありましたけれども私どもは南京のすぐ近くの浦口だったかな、そのあたりで待機していながら南京の陸上の砲台との艦砲射撃の交戦で、その頃の日本の海軍の艦砲射撃はものすごく正確で威力があったですからあまり時間がかからなくて砲台は沈黙しました。

 その後、砲撃戦とか戦闘状態は終わっていたのですが、上流から中国人らしい死体を整然と積んだ筏が三個か五個流れて来ました。死体の積み方があまりにも整然としていたので怪しいと言う事で、中になにか変造物があって何かが隠されて、流されているという予測のもとに全員が小銃で、目標は目前ですから腰だめで撃って撃って撃ちまくったような状態がしばらく続きました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「上流から中国人らしい死体を整然と積んだ筏が三個か五個流れて来ました」とある死体は、これを事実として認めても日本軍の仕業だろうか疑問がある。中国軍の仕業とすると内戦の死者ということになるのだろうか。とすれば、内戦時の死者がかなりあったということになるのであろうか。史実は、「南京城にたいする攻撃は、12月10日から開始され、13日には日本軍の手中におちた。国民政府は漢口に逃げのびていた。そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺をはじめた」とあり、この時点で死体の片づけが始まるには早過ぎる。元兵士は、「12月13日に南京にお入りになったと聞いておりますが…」とあるから、12.13日の目撃証言であることになるが、いきなりかような虐殺証言が出ていること自体日程的に早すぎる気がするが、私の解釈に間違いがあるのだろうか。


司会者  腰だめというのは?
元兵士  特別に目で照準するのではなくおおよその目標が目前にあるのだから、手で支えながら腰に付けたまま発射するのを腰だめといいます。
司会者  先ほど死体が整然ととおっしゃいましたが、どのくらいの高さで?
元兵士  それはね、やはり1メートル半か2メートルくらいの高さであったと思います。あまりにも整然と積まれているということが腑に落ちない。何故そんなに絵に描いたようにがっちりといわゆる幾何学的に積み上げられたかということで、その中になにか隠されているという予測をもって射撃したのです。
司会者   南京市内には、城内にはお入りになりましたか?
元兵士  ちょうど南京が陥落したと同時に中山埠頭の沖合、沖合といっても川幅が1キロメートルかそこらの真ん中あたりですから、そこへ停泊して、17日南京の入場式があるということで各船からいわゆる陸戦隊を送り出して私どもは中山埠頭にランチで上陸したわけですが、それから先は徒歩で中山北路を歩きながら江門の厳重に積み上げられた土嚢のほんの一部からくぐりぬけて中に入ったわけです。
司会者  土嚢を積み上げてるということはそれは戦闘に際して日本軍の侵入を防ぐというためのものですか?
元兵士  とてつもない大きな城門の開口部があるのですが、ほとんどそれは土嚢が積み上げられていて中にはいることはできないけれども、わずかに人間が通れる隙間が片方、城外から見て右側の方に出入りができる程度の開口部が残されていました。そこから入って入場式の閲兵がある場所にさらに何百メートルかわからないでそこへいって待機した。その間にあたり近所の小公園、ちょっとした広場、あるいはテニスコートだったかもしれませんが、そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました。その人々は中国兵かあるいは市民の方かだれかさっぱりわかりませんが、裸で殺されている人、あるいは数珠つなぎの人、縄でつながれて数人ずつつなぎ合わせたものを射殺、あるいは銃剣で刺したあとが物々しく残っておりました。また積み上げられた中には裸で死んでいる。裸の死体はどうしてできたのかと思うんですが、たくさんありました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 12.17日に南京入場した時点で、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」とあるが、それほど早く死体の処理に当たっていたのであろうか。それと、この証言に拠れば市民の目に触れるような公開であちこちに死体が晒されていたということになる。「山のように積む」理由も良く分からない。統治上得策と思えないこういうやり方をするであろうか。なお、この時点の死体は中国兵に限られているのだろうか、市民虐殺もこの時既に行われており、かように放置されていたということなのだろうか。 あちこちに公開されていたのなら、「国際委員会」メンバーの日記に記されているのだろうか。


司会者  17日の入場式が終わったあとも城内にとどまられたのですか?
元兵士  17日の入場式が終わった時点で船にもどりました。
司会者  艦に戻られてからどうされましたか?
元兵士  17日のうちに鑑(艦?)に戻って、その翌日あたりから毎日毎日トラックで捕虜とも中国人ともつかない人々を運んで来ては、中山埠頭から川のなかへ追い落とす。それを機関銃でもって射殺するということが朝から晩まで繰り返し繰り返し、トラックで積んで来る度にそういうことがおこっていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「トラックで捕虜とも中国人ともつかない人々を運んで来ては、中山埠頭から川のなかへ追い落とす。それを機関銃でもって射殺する」とは、かなり乱暴な虐殺の仕方であるが、どうやって川の中へ追い落としたのだろうか。あまりにも馬鹿げているように思えるが、私の理解がおかしいのだろうか。


司会者  肉眼で見えたのですか? 
元兵士  そうです。肉眼でも数百メートルしかないのでよく見えるが、私たちは見張りについていたので見張り用の望遠鏡で手に取るようにそれは見えました。
司会者  その御覧になった様子をくわしく話していただけますか?
元兵士   そうですね。なんといいますかね。運んで来た人を川に追い落としてそれを銃撃する。機関銃を撃ちまくるのだけれどもやはり川に潜って逃げようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がって来る、又それを撃たれるという状態が続いて行くし、撃たれた人はその場で沈むかあるいは川の流れにのって下流に向かって流されていくというような状態が続いていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「運んで来た人を川に追い落としてそれを銃撃する」、「川に潜って逃げようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がって来る、又それを撃たれるという状態が続いて行く」とは、リアル過ぎて却って信用置けない。当時の日本軍がかような稚拙な虐殺を果たしてしたのだろうか。


司会者  さきほど中国の市民の方か兵隊の方かわからないとおっしゃったけれど服装とか色とかわかりますか?
元兵士  それは白い服だったり黒っぽい服だったり、服装でもって前に兵隊であったかどうかは見分けられないようでした。
司会者

 トラックに積まれて来たおよその人数は?ずっと見てられたとおっしゃっていましたが。

元兵士  人数はまああの頃のトラックですから、トラックに積んだ状態を数えたわけではないですが二十人とか三十人とかあったと思います。一番疑問に思うのは、なぜトラックに運ばれて殺される所まで来たのかということ。私が思うにはなんらかの作業を命じられたか、何らかの使役に使う人々をどこかに連れて行くということしか想像できないのですが。そうでなければ途中でトラックから逃げるなり、あるいはそこまで来て殺されなくてももっと他にも殺される場所はあったと思いますけどね。何らかのそういった状態でだまされて連れてこられたとしか思えません。

 またそういったことが毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると何かうごめくように叫ぶようにわいわいと炎が揺れて、やはりよく見れば人間が焼き殺されているという状態も見ました。これはまた翌日火事場の焼け跡のように焼けぼっくりのように人間らしい人々が黒こげになって倒れているのが望遠鏡ではよく見えました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 概要「トラックに収容された人数が二十人とか三十人」とは少なすぎる気がする。「そういったことが毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると何かうごめくように叫ぶようにわいわいと炎が揺れて、やはりよく見れば人間が焼き殺されているという状態も見ました」、これは既に小説的発言である。夜になって生きたままらしい中国人が焼殺されているということになるが、話が出来すぎていやしないか。


司会者  それは人間の形をした焼きこげたあれですか?はっきりと見えましたか?
元兵士   そうですね。人間の形としか思えない。そんなとこに他のものがあろうはずはないのですが。それにまた揚子江という川は毎日毎日水か減ってきます。減水期なので、前に殺された人々が水が減ってくると共に岸辺に人間の形が泥をかぶってあらわれてくるという、そのようなことがありました。
司会者  それは岸辺にいっぱいあるのですか?
元兵士  岸辺に折り重なってそういう状態がある。水が減ってくるとそういう状態があらわれてきた。それをまた片付けている中国の人々も目撃できました。
司会者  片付けていると言いますと、死体を押し流すのですか?それとも引き上げるのですか?
元兵士  なんか穴を掘って引っ張って行くかな…首に縄をつけられたかどこにつけられたかよく分かりませんが、くぽみを作ってそこに引きずり込んで行く。そういうことが見えました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 後で出てくるが、元兵士は12.25日までしか南京にいない。12.17日以降の出来事とも語っている。中国人は、それほど手早く、揚子江に沈められた遺体の埋葬作業に着手し得たのだろうか、疑問を禁じえない。


司会者  死体の作業をしている人達は何人くらいだったのでしょう?
元兵士  何人くらいでしょうかねえ。そんなもの七、八人くらいでやっていたと思いますけど。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 何と、死体の引き上げから埋葬を僅か「七、八人くらいでやっていた」と「思う」と云う。常識的には相当の人数を要するように思えるがどうなんだろう。


司会者  それを御覧になったのは?
元兵士  だいたい17日の後ですね。それ以前入城までに目撃されなかったと記憶しています。私の見た南京大虐殺とは17日から後のことです。
司会者  それで連日日本兵が銃殺するのを目撃されたのですか?何日ぐらい続いたのですか?
元兵士   私が25日ごろまでそこにおったのだからね。その間は続いていたと思います。27日ごろを最後に佐世保に帰ったことになります。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 概要「連日、日本兵が銃殺されるのを目撃」という重要な決定的な証言が為されているが、何日ぐらい続いたのですか?の問いに、「25日ごろまでそこにおったのだからね。その間は続いていたと思います」となる。末尾が「思います」では一級資料にならない。最も大事な証言箇所なのだから、極力正確精緻に答える必要があるのではないのか。


司会者  そしたら見張りについていらっしゃるのが毎日でしたか? 
元兵士  それはだいたい一日に二時間くらいです。翌日また時間がかわった形で毎日そのように見張りについていました。見張りというのは、機関兵とか他の兵士は上がって来ない。水兵とかいわゆる兵科に属する兵隊が見張りに立つわけです。だから必ず一日に一回、時には二回はまわってくるわけですね。
司会者  その間見張りについているときにずっと虐殺を目撃されたわけですか?
元兵士   そうですね。だいたいそれは毎日続いていました。まあ最初のトラックがついてどんどんと次々と送られてくるわけではないですが、だいたい一日中そのように時間をおいてはそういう銃撃のような殺人行為、大虐殺は続いていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで、艦の上からの「見張り」の際の目撃証言であるということが明かされている。概要「だいたいそれは毎日続いていました。銃撃のような殺人行為、大虐殺は続いていました」もどうりで頼りない。これでは一級資料になり得ない。


司会者  他の同僚が見張りについている間も中国の捕虜、民衆・市民の虐殺があったとお聞きなりましたか?
元兵士   そうです。見張りに立つのが私どもだからよその科の兵隊も「どらどらおれにも見せろ」と見に来るわけです。そう簡単にだれでも見れるという状況でないので、好奇心が手伝って見に来たと思います。
司会者  当時そのような光景をごらんになって、又ご自分でも銃を握られて中国の民衆又兵士、中国人に対してどのような気持ちを持っていらっしゃいましたか? 
元兵士  当時はね、私どもは、日本人はほとんどですが、天皇のために死ぬということ、天皇に命を捧げることを最高の道徳として生きて来たわけです。そのような教育をこどもの頃からされて、私も18,9歳若い頃すでに軍国少年となってしまったわけですね。だから徴兵検査まで待とうと待つまいと男と生まれれば必ず兵隊に行くとということになっていましたから、ならば自分で選べる間に行きたいと、そういうことで海軍を志願したわけです。
司会者

 そうして60年目の今、南京大虐殺の日にあたります今日証言していただいたその思いですね、お考えを教えて下さい。

元兵士  60年ぶりにこうしてここにチャンスをいただけて大変感謝しているのですが。これまでにこういうチャンスに私はなかなか巡り合わなかったということです。常にね、このような事件があったこと、このようなことについては日本人として深く反省しているわけです。しかし今日、南京大虐殺はなかった。あるいは従軍慰安婦はなかったと言う人々はどういう人かということです。つまり日本国憲法をなしくずしに解釈を変えて、今日までに大きな軍隊を作り上げて、再軍備はすでに出来上がったということです。

 しかも、それがアメリカの目下の同盟者としてアメリカにくみする戦争の用意が着々と進んでいると言う事。新しい安保条約・新ガイドラインの下にアメリカが起こす戦争には自動的に日本が引っ張り込まれると言う事。こういう状態があれば、またしても南京大虐殺に似たようなことがおこるのではと考えられます。歴史の真実を明らかにして、これをちゃんと自分で確認できる状態の中でなければ、新しい反省の下に平和な世界、我々の家庭自身も築きあげることは出来ない。そういう意味から本日ここに証言に立たせていただきました。
司会者  どうもありがとうございました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 元兵士は、いつでも証言できただろうに「これまでにこういうチャンスに私はなかなか巡り合わなかったということです」と云うが、 1997年12月13日の、めもりある南京1937inおおさかにて初めて為されねばならないほど、それほどこの証言を為す事に困難があっただろうか。

 よく聞いてみると、「アメリカの目下の同盟者としてアメリカにくみする戦争の用意が着々と進んでいる」という観点を披瀝している。これは、共産党独特のそれである。これでは、不戦の誓いと謝罪による歴史的責任を果たさんことを強調せんが為に政治的発言を為していると見られても仕方なかろう。「お里が知れる」とはこのことだろう。


【第16師団38聯隊6中隊(82歳)兵士の口演証言】

 1997年10月10日~12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、第16師団38聯隊6中隊(82歳)兵士の口演証言」が為されている。れんだいこがこれを解析する。  

 歩兵第38聯隊(1~18のうちの)第6中隊に所属していました。私は昭和10年から12年まで軍隊にいて、そのまま引き続き現役延期で行きました。現役延期は昭和12年8月23日で、その時に現役そのまま延長しました。それで9月7日に大阪港を出発して、9月13日に塘沽上陸になっている。でもこれは記録の間違いで、大阪港出発ではなくて9月7日は大阪の堂島のビルに泊まっていてました。9月13日塘沽上陸は間違いありません。それから北支の戦闘ですね、これが石家荘までずーっと続くんですが、その細かい各地の戦闘はありますけど、おいといて、それから石家荘が終わって、大連港を11月10日に出発して、許保鎮で降りたんやと思います。

 それから「りゅうほちん」の戦闘に参加、「福山けん」の戦闘に参加、常熟といろいろあって、その次、ひまや港、大鎮港……(記録を見ながら語る)……まあ、兵隊やからどこ通ってるのか、土地の名前もわからなかった。昼も夜もない、雨も風もない、そんなふうなむちゃくちゃな戦争やったんやなあ。それで、憶えているのは、それまでに無錫へ行っているのは憶えている。おそらく12月上旬ですな。それから南京城入城です。これは12月14日。

 南京に入ったのは、この記録では12月15日になっているが、旗が立ててあったのを憶えているから12月14日。南京の東北の城門やったと思うけど、大大砲でぼんぼん撃って、そして、私らが足場をつくってかけ登った。城門の横を撃ったのは見ててわかった。日本軍が入った折りは、一人ぐらいしっか居てなかった。城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をBとして先の元兵士をAとするならば、証言が大きく齟齬していることになる。A元兵士は、12.17日に南京入場した時点で、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」と証言しているが、B兵士は12.14日付ではあるが、「城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった」と云う。この両証言をどちらとも真実とすると、12.14日以降から12.17日までの間に「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」とあるような事態が現出したことになるが、戦闘は日本軍の完全勝利で既に終わっているのであり、日本軍は勝利後に左様な大量虐殺を本当に為したのであろうか。

 城門の名前は(あの折りは憶えていたのだが今は、)憶えていないが、とにかく紫金山の山裾で、門に入るときは民家はなかった。南京に入ってすぐ西を向いてか、南か、どの方向に行ったのかちょっと記憶にない。この町中を歩く折りに、中国兵は五十や百名ではない、ものすごい数でした。おそらく千名位の人間が倒れていた。折り重なる程でもないけど、死体を右、左とよけながら歩いた。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 B兵士は、今度は一転して、場所を定かでないと特定せぬままおびただしい死者が倒れていたと証言しているが、問題が無い訳ではない。先のA元兵士は、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」と云っているのに、B証言は「おそらく千名位の人間が倒れていた。折り重なる程でもないけど」と云う。これは明らかに内容が違うが、その双方の場合があったと、ないしは見た場所が違うとして済ませられることであろうか。どちらかの証言が相違しており、あるいは双方とも不正な証言であると考える余地があるのではなかろうか。

 道路の広さは、おそらく10~15メートルくらいの広い道でした。二百から三百メートルの距離。これは奈良の聯隊の人は皆知っていると思います。当時は22歳の末頃、現在は82歳やからそれくらいの歳から90歳くらいの人は一緒に行っていると思います。兵隊同士では、血が出ていなかったから、毒ガスちゃうかと話していた。誰もいなかったのに、目の前でざーっと死んでいて驚いた。おそらく千名くらいと思っています。その死体は氷のように冷たかったのを憶えています。だから2,3日前の爆撃かと思う。南京を爆撃したというようなことも聞いていた。人によっては、内輪でもめて、中国兵が毒ガスをまいたんちゃうかという話があったけれどもそこのところは証拠もない。いまだに不思議。でも、日本の飛行機かなあと思う。しかし、毒ガスとしたら、自分たちが通った時に被害を受けるはずです。毒ガスでもきつくなったのかどうかいまだにわからない。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 
B兵士のこの下りの証言は、むしろ虐殺なかった論でさえあろう。「兵隊同士では、血が出ていなかったから、毒ガスちゃうかと話していた」とある。「人によっては、内輪でもめて、中国兵が毒ガスをまいたんちゃうかという話があったけれどもそこのところは証拠もない」とも云う。日本軍と中国軍の戦闘による死者数がそれほどでもなかったということを「内輪もめか、毒ガスか、南京爆撃による死者」ではないかと云う。してみれば、B兵士のこの証言は、むしろ「虐殺無かった論」の側が採用すべき証言ではなかろうかということにさえなる。

 その晩は南京の北の方で泊まった。こういうことが書いてある。12月16日、南京東地区掃蕩戦参加。この南京の城内が済んだんで、その東地区の掃蕩戦参加と書いてあるけど、これは私の中隊やなしに他の中隊やと思う。今に見ているのは「軍歴簿」で、聯隊本部からの指示などが書いてあると思います。食料は続かん場合が多かったから、みんな適当にその付近にある豚とか鶏とか、中国の人が飼っていたものを食べた記憶がある。中国の人は逃げた後で一人も残っていなかった。軍歴簿の他に当時のことがわかる物は持っていない。昭和14年8月に奈良に帰ったとき、憲兵隊が我々を並ばせて、中国から持って帰った物を集めていたと思います。(軍歴簿を見せていただきたいこととお伺いしたいことを言ったが、快く承諾された)
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 B兵士のこの下りの証言もむしろ「虐殺無かった論」を云っているに等しい。「食料は続かん場合が多かったから、みんな適当にその付近にある豚とか鶏とか、中国の人が飼っていたものを食べた記憶がある。中国の人は逃げた後で一人も残っていなかった」と云う。案外これが実際であったのではなかろうか。付近にある食糧を調達したのであり、逃げた後の中国人の家屋から調達したとも云う。ここには婦女の残忍な暴行シーンも略奪の様子もない。「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」の「元日本軍兵士の証言」の巻頭二番目の証言には不似合い不適切な話ではなかろうか。

【国崎支隊(歩兵第9旅団司令部)(83歳)】
 1997年10月10日~12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、「国崎支隊(歩兵第9旅団司令部)(83歳)」が為されている。れんだいこがこれを解析する。   
 私は大正3年生まれで、今年83歳になります。本籍は広島県で広島の第5師団(師団長・板垣征四郎)に入隊しまして、“北支長城作戦"に参加。その後、第5師団に国崎 登少将を長とする、国崎支隊が出来てそこに配属されて南京攻略戦に参加しました。国崎支隊は福山の歩兵第41連隊と久留米の独立山砲第3連隊が、主力でした。私は当時歩兵の軍曹で、分隊長でした。昭和12年11月5日、上海戦線の膠着(こうちゃく)状態を打開するために、第10軍(柳川平助中将)の一翼として、杭州湾に敵前上陸しましたよ。上海上空に「皇軍100万杭州湾に上陸す」というアドバルーンが揚がった有名な戦争です。

 その後、あの、蒋介石の中央軍を追って、大きい戦いでは“湖州戦"をやって南京へと攻略したわけです。私らの属した国崎支隊は南京の上流の“石馬河"というところで渡河作戦を行い、浦口を攻略して、蒋介石軍の退路遮断を行いました。南京が落城したのは12月13日、それで、17日に“入城式”をやったわけですが、国崎支隊はそのとき南京へ入って、その年の12月30日に南京の下関を出るまでの12月13日~12月30日の間、南京に居ったのです。

 私たちの分隊は中山路の難民区の近くに駐留しておりました。そこで“占領掃除"といって死体の整理や壕を埋めたり、交通路を整理する作業にあたりました。私たち殺したり、或いは殺されている現場を見たりしたことはありません。しかし、死体はたくさんありました。城内で死んでるのは、大部分は飛行機による爆撃または砲撃による死者でした。一般住民も死んどりましたし、蒋介石軍の兵隊もあったし、なかには、日本軍の兵士の死体もありました。死体は壕に埋めて、道を整理しました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をCとすると、C兵士は、12.17日に南京に入城するまで「私たち殺したり、或いは殺されている現場を見たりしたことはありません」と云い、入城後に概要「一般住民、中国兵の死体がたくさんありました」と証言しているものの「南京爆撃または砲撃による死者」と推定している。これでは「南京大虐殺」の証言にはなり得ない。

 なお、「城内で死んでるのは」とあり、B兵士の「城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった」証言矛盾している。それとも「城内」の捉え方の範囲が違っているのだろうか。

 隊員数から限度がありますから、私たちの分隊では数十人位、整理したでしょうか。そりゃ、南京には五個師団もおりましたし、駐留している区域も決まってましたから、全体からみたら、死人は相当な数になると思いますよ。全体からみたら何万人にもなるでしょう。戦さですから、爆撃とかやむを得ないです。そう言うことが、あったのは事実と思います。しかし30万ということは絶対にない。どういう証拠があるんですか? 30万も死体があれば整理するのに大変なことなんですわ。私ら処理した体験から30万は絶対ない。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 
「全体からみたら、死人は相当な数になると思いますよ。全体からみたら何万人にもなるでしょう」は伝聞推測であるから一級証言にはならない。むしろ、この証言を読めば、「しかし30万ということは絶対にない。どういう証拠があるんですか? 30万も死体があれば整理するのに大変なことなんですわ。私ら処理した体験から30万は絶対ない」の方に力点が置かれていることが分かる。

 してみれば、C兵士の証言は大虐殺否定論を補強していることになる。「南京虐殺60ヵ年全国連絡会ホームページ」は、「元日本軍兵士の証言」を採録するに当たり、自ら不都合な証言を選択しているという不思議さが又も見える。それとも基本的に読解力がないのだろうか。

 私たちが駐留しておった中山路の近くに難民区がありまして、20万の住民を収容して糧食を与えて保護しとりましたよ。憲兵隊が、軍人、軍属の出入りを厳重に警戒しておりました。こいうことも、堂々と言ってもらいたいですね。かっての日本軍は武士道の精神を持っとったんです。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここも同様であり、C兵士は、概要「難民区保護に当たっては、憲兵隊が軍人、軍属の出入りを厳重に警戒しており」、「日本軍は武士道の精神を持って20万の住民を収容して糧食を与えて保護しとりましたよ」という文意になる。これのどこが気に入られて、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」では「元日本軍兵士の証言」として採用しているのだろう。

 12月30日に下関を出発して、正月に青島(チンタオ)に帰り第5師団に復帰しました。その後、曹長になりましてね。陸軍士官学校を出て任官して、最後は「満州」の部隊へ行きました。昭和19年8月の終わりに、関東軍直属の機動兵団が出来ました。“セイシン奇襲部隊です。空中艦隊によって、モスクワへ突入して、ソ連の死命を制するために訓練していた特攻隊なんですよ。それで、昭和31年までソ連に抑留されて帰ってきた者です。

第16師団京都歩兵9連隊第7中隊(80歳)
 1997年10月10日~12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、第16師団京都歩兵9連隊第7中隊(80歳)」が為されている。れんだいこがこれを解析する。     
 私は昭和11年1月召集されました。16師団京都歩兵9連隊(片桐部隊)第7中隊第2分隊です。(内地の訓練では)伏見の藤の森の兵舎を朝8時頃出て、、滋賀県饗庭野に昼頃着きました。途中どこどこに敵がいる、と演習しもって歩いたんです。その年の盆に宇治の火薬庫の爆発が起こりました。日本を発ったのは翌年の5月頃です。

 中国へ行った頃は上等兵でした。最初に上陸したのは天津で、そこらで銃砲が聞こえてました。真暗で、水を汲みにいくのも難儀しました。天津で初めて斥候に行き、20歳くらいの兵隊をつかまえてきて調べました。つかまえてきた者が殺せというので、いやだと思っても鉄砲の先に剣付けて突きました。なかなか突けないでいると、皆がまわりで見てて、そんなもん、どうして突けん、と言う。ええい、何くそ、と思って腹から力まかせに突くと、剣(先)が後(背中)から出まして、突かれた者が、ひゆっと後を見ました。その見た顔が何ともいえない顔で、こんなこと、もうかなわんなと思いました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をDとすると、D兵士は貴重な虐殺シーンを証言している。天津で掴まえた中国兵を突いて殺したと証言している。但し、これは南京ではないということと、大虐殺シーンではないということと、「こんなこと、もうかなわんなと思いました」と述べているところからすれば、むしろ好んで殺戮におよぶようなことはなかったということを証言していることになる。

 つまり、ここでも、
これのどこが気に入られて、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」では「元日本軍兵士の証言」として採用しているのだろう、ということになる。

 天津から済南へ行き、南京までずっと歩いていきました。16貫ほどの背嚢しよって、鉄砲弾薬持って、1日15、6里くらい歩いたんです。毎日、歩きながら戦闘していました。南京へは中山門から入りました。中山陵のあたりから4里まど離れたところから、重砲隊が前もって南京へ重砲を撃ち込んだんです。中山門の外の堀にはたくさんの死体がありました。想像ですが、門から出て逃げるところを撃たれたのでしょう。門の外から100~150メートルほど離れたとこに陣地を張って、軽機関銃とかを持って伏せ、門から出てくるところをめがけ撃つんです。中山門から兵や民間人が逃げるのも見ました。中山門までは私らが先だったのが、そこで交替になり、福知山20連隊の後かち南京へ入りました。南京城内では、何かないか調べて討伐してました。便衣隊が隠れてないか、そこらの銀行や店を一軒一軒調べたんです。小隊で行って、分隊に分かれました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 D兵士の南京入城時の証言は、「中山門の外の堀にはたくさんの死体がありました」とあるものの、日本軍の重砲攻撃による死者ないしは軽機関銃によるものと推測しているだけで現認証言ではない。B兵士が毒ガス説を述べているのに対し、重砲ないしは軽機関銃説を主張していることになるが、こうなると推測でしかなかろう。

 続いて、「中山門から兵や民間人が逃げるのも見ました」とあるこの表現は、D兵士の部隊では、逃げる中国兵や民間人を見過ごしていたとも受け取ることが出来る。入城後は便衣隊の摘発に向かったと云う。

 一小隊4分隊(一分隊に12、3人)です。あやしい素振りを見せた中国人はつかまえてきて、中隊長とか、上の人にわたしていろいろきくんです。よっぽど調べんなん者は連隊にもっていったりね。(あやしい人は)ひとりか二人見ただけです。他の部隊が他の門から入ってるから、私らは城内の東部の南角4分の1くらいの範囲を調べました。中隊本部が城内のどこにあったかはわかりません。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで便衣兵を摘発した際の様子が述べられているが、「あやしい素振りを見せた中国人はつかまえてきて、中隊長とか、上の人にわたしていろいろきくんです。よっぽど調べんなん者は連隊にもっていったりね。(あやしい人は)ひとりか二人見ただけです」とあるこの証言は、極めて秩序正しく摘発が為されたことを伝えており、とても大虐殺シーンを証言するものではない。

 南京ではそんなにたいしたことはなく、4、5日居ただけで裕渓口へ下がり、そこで正月をしました。南京から1里ほどで、あたりはクリークばかりで、道らしい道はありません。となりの部落まで1里か半里歩かないといけない。細いクリークで、百姓が舟で物を運んだりしてました。港はなく、内陸でした。ここでは夜でもうっかり寝ていられませんでした。子どもでも老婆でも、抗日排日の教育で、手榴弾を持って、寝ているところを襲うんです。そんなことが再々あって、子どもでも年寄でも、中国人は皆殺せと、連隊長の命令が出ました。鉄砲の弾一発で始末せえ、と。つかまえたち撃つことはしないで、試し斬りするんです。将校は軍刀持ってますから。兵隊は銃剣で突くんです。2、3人つかまえてきて、地形とか、そこらに兵隊がいないか聞き、調べるだけ調べてから、川のふちに並べて座らせ、斬るわけです。尋ねるときは穏やかにし、中国人も観念していて口をききます。首斬りはしょっちゅうはなく、1カ月かそこらでおさまり、後は治安維持といって子どもに体操させたりしてました。裕渓口には2カ月ほどいて、次の戦闘の命令を待ちました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで初めて大虐殺シーンが証言されている。「子どもでも年寄でも、中国人は皆殺せと、連隊長の命令が出ました」とある。「試し斬り」が為されたとも証言している。しかし、どう読んで見てもアナーキーな状態での大虐殺シーンの証言ではない。むしろ、「首斬りはしょっちゅうはなく、1カ月かそこらでおさまり、後は治安維持といって子どもに体操させたりしてました」とあることからすれば、危険を避ける為に戦闘状況下での最小限行為として抵抗者を粛清したことの証言であって、恣意的に為されたものではないことが逆に判明させられる。

 中国には4年居て、200くらいの戦闘がありました。討伐とかを入れたらもっと多いですが。いちいち記録する余裕はありません。目があいてるうちはずっと歩いてるんだから。4年後に部隊がえしになり、6カ月家に居て、大東亜戦争になって、また召集されました。そのときは日本に残って教育要員になり、新兵を教育しました。最後は敦賀の勤務で、東京で終戦を迎えました。(戦争というのは)人間対人間やから、何もないのに殺すのはね、命令だから、仕方が無い。殺すときは気がたっているが、一日か二日、一服すると、なかなか人は殺せんもんです。当時は教育方針がそういうもんで、侵略戦争だから、行けというからしゃあないから行ったんです。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 D兵士の「(戦争というのは)人間対人間やから、何もないのに殺すのはね、命令だから、仕方が無い。殺すときは気がたっているが、一日か二日、一服すると、なかなか人は殺せんもんです」も、むしろ虐殺シーンは有り得なかった側が採用しても良い証言である。

(私論.私見) 【「南京大虐殺60カ年全国連絡会お奨めの兵士口演証言」考】

 以上、ABCD4名の元兵士の証言を見てきたが、おかしなことにそのどの兵士も南京大虐殺事件を証言していない。ところが、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」のサイトでわざわざに掲載されているその真意は奈辺にあるのだろうか、皆目分からない。

 2005.5.21日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)