和田氏との公開論争



 (最新見直し2011.10.22日)



【和田啓二メール考】
 10.24日、次のようなメールが舞い込んできた。発信人は「wa312@lime.ocn.ne.jp」、題は「百人斬り記事について訂正すべきである」。
 和田啓二と申します。

 あなとと同様nio615氏から記事盗用などと非難されていますが、曽野綾子の「ある神話の背景」の嘘を芋づる式に暴いたのは私です。

 さて、あなたのサイトでは確たる理由もなく、ネッソス向井・野田が百人斬りをしていないと主張しております。しかし、裁判の過程で複数の戦友の証言や日本での野田等の公演でネッソス向井・野田が「捕虜や農民を戦闘行為によらず、殺害していた」ことが明らかになりました。

 百人斬りが真実であることは、渡嘉敷の集団自決について曽野綾子の「ある神話の背景」を無批判に真実と断定し、おそまつな捏造を繰り返した秦郁彦でさえ認めていることです。

 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080705/1215266292

 http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080107/1199695244

 秦郁彦の虚偽手法については、上記を参照されたい。

いまさら百人斬り論争をここで詳しくすることは避けたいですが、あまり論争にならなかったことを一つ。

 松井石根はB級戦犯であった。

 向井・野田等BC級戦犯は虐待行為が行われた現地で裁判をする原則だったのであり、向井等が主張するように日本で拘束されなかったことは、彼らの無罪を何ら証明するものでなく、単に予備的な調査をしたにすぎない。

 いいかげんに妄説を捨てて、百人斬りの記事について自己批判をすべきと思うがどうか。

 「上記を参照されたい」の1は、次の文章である。
 秦郁彦論文の「誤謬」と「隠蔽」について。……読者からの投稿より。

 大阪高裁に「証人申請」を却下された秦郁彦だが、その代わりというというわけでもないだろうが、秦郁彦論文(「諸君!」2月号)の方は高裁に証拠資料として採用されたようである。ところで、その秦郁彦論文だが、いろいろと問題のある論文であることがわかっているが、ここでは、一読者(「和田」氏)からの投稿(コメント欄http://d.hatena.ne.jp/yama31517/)を、かなり重要な指摘を含んでいると思われるので、参考までに、以下に、そのまま転載・引用しておく。

和田

2008/07/03 14:24

虚偽に満ちた秦郁彦の書証

承知のとおり、沖縄戦裁判控訴審で控訴人は秦郁彦の「諸君2008年2月号」論文を書証として提出することになったようです。

しかしながら、この論文は渡嘉敷島の集団自決に関する基本的事実について明らかな事実誤認と隠蔽を記載し、それらに基づいて恣意的結論を導いたものといえます。

事実誤認について

? 「諸君2008年2月号」71ページ「付図1」に記載された恩納河原の位置は標高234メートル赤間山より北西にあるとされ、留利加波方面に上陸した米軍の真東に描かれている。標高208メートルの御嶽が本来の北山(西山)であることはさておき、(最近では地元サイトにおいても赤間山をも西山と表記しているものがある)恩納河原はA高地の西の谷に位置していることは現地の地図などから疑いないところ。下記でも恩納河原の東にA高地は非常に小さな字で書かれている。

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf

間違っても赤松が危険な場所にいた島民を安全な場所に移動させたのではないことが分かる。

? 同じ71ページには、「ところで島民のまとまった集団自決は3月27日夜半と28日の正午前後に二箇所(付図1の第1、第2自決現場)で起きたのはたしかだが」と記載されている。

しかしながら、各種証言、住民の移動状況から最初の自決が始まったのは3月28日正午から午後2時の間である。3月27日夜半に、島民は赤松の本部陣地近くに集結し新城兵事主任を本部に連絡に行かせ「本部北方の西山盆地に移動せよ」との命令を受けたが深夜であるので就寝し、翌28日7時頃から西山盆地へ移動し集団の移動がほぼ終了したのが午前10時と考えられる。

また、第2自決が始まった時間帯については、ニューヨークタイムズ記者の記事と「ある神話の背景」に記載された赤松隊の「陣中日誌」がそれぞれ「米軍が野営した頃」「午後6時頃」に手榴弾の音や阿鼻叫喚があったとされ翌29日朝米軍は自決未遂者を収容している。

秦は自決時間を早めたいようだ。

? 同じく71ページには、「安里巡査が島民の避難場所を相談すると、赤松は軍の背後にあたる西山地区の谷間が良かろうと勧めている。そのあたりは村役場が以前から隠れ場所と想定していた地点でもあり、すでに一部の島民は避難小屋を建てていた」との記載がある。

しかし、この記載は事実に反する。実際には古波藏村長等はA高地の西側反対斜面に位置する恩納河原を隠れ場所と想定し、そこに逃れていたのを赤松から西山盆地(又はとりあえず本部陣地)へ呼びつけられたのである。(当初から西山盆地を指定されていたのか、とりあえず本部近くまで来いという命令だったかはさまざまな証言があり、確定することは困難である)当初村民の多くは恩納河原に隠れ、恩納河原は谷間で見つけにくい安全な場所であったことは、「ある神話の背景」安里巡査証言にも書かれている。

隠蔽

付図1で慶良間列島米軍上陸地点が11箇所記載されている。ところが渡嘉敷島日の留利加波方面及び渡嘉敷部落への上陸日時が抜け落ちている。留利加波上陸の日時について資料がないわけでなく「ある神話の背景」では27日午前、戦史叢書では27日午前と(赤松隊は)誤認したが実際の上陸は27日午後であったと記載されている。

恣意的結論

以上の操作をした上で秦は「諸君2008年2月号」73ページで次のように結論づける。

「さて以上のような諸証言とくに傍線の部分を見るかぎり、赤松隊長は島内でもっとも安全と思われる場所への避難を助言はしたものの、・・・・」

「ある神話の背景」では、赤松が3月26日午後10時に安里巡査と会談した記憶があるとしているが、安里巡査を含め、すべての証言は安里巡査が3月27日夕に赤松隊長と会談し安里巡査等が島民の壕を探して命令を伝えたとしている。その点に関しては、「ある神話の背景」以外に例外は存在しない。そして「ある神話の背景」によれば赤松と安里は「従民を捕虜にしない」という動機から住民に対して集結命令を出している。

27日夕、赤松により、多くの住民に対して安全な恩納河原から、27日午前に米軍が上陸したと(赤松隊に)認識された留利加波に近い本部陣地北方の西山盆地への移動命令が出たのである(あるいは27日夕本部陣地への第一次集合命令が出て27日未明、本部近くへ集合した島民の代表として新城兵事主任が陣地の赤松へ具体的な異動先を問い合わせると陣地北方の西山陣地への移動命令が出た)。赤松は、村民が米軍に挟撃される危険性を認識していたが、捕虜になるより良いと考えたのは確実であり赤松隊長が島民に島内で安全と思われる場所へ避難を助言した事実はない。

秦は自決に関して基本的な空間的・時間的事実すら誤認又は捏造している。

以上、秦論文は恣意的な結論を導くために事実をねじ曲げているもので、およそ学者の名に値しない内容である。

 「上記を参照されたい」の2は、次の文章である。

 2008-01-07 沖縄集団自決問題、否定論者のあれこれ

 [][][]秦郁彦氏の「妄言」

 別のブログでの話だが、よく私のところへコメントをくれた人がいた。彼のブログも熱血HR/HM野郎といった趣で大変好ましかった。最近更新しないなーと思ったら突然アフィリブログ(それも私はこの方法で一ヶ月年収100万以上稼ぐことが出来ました!みたいなかなりアレなやつ)へ変貌してしまった。コメントをくれていた頃の彼のキャラとまったく違うものだったから、何がどう間違ってこんなことになってしまったのかと当初はかなり心配したが、変貌したのではなくて、もしかしたら今まで見えてなかった彼の面がたまたま表に出てきただけなのかもしれないと思い直した。

 前置きが長くなったが、元々腐れネット右翼のわたくしですので、藤岡信勝先生や秦郁彦先生には共感を覚えていた。持論の証明のためにコツコツと丹念に調べる姿勢には学ぶべき点が多いと思って敬意を抱いていた。赤い服を着た人が 「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというやつは」と私の耳元でささやくが、そうでもないよ。お二方のおかげで知った「歴史を自分なりに調べる作業」の楽しみは今も私の中にあるし。だが、そうはいっても、警備会社社員が忙しい業務をなげうって必死で数えた「沖縄県民大会」の人数を水戸黄門の印籠のようにほれみたことか沖縄県民サヨクども!と勢い込んで得意そうに掲げている姿をみると、ああ藤岡先生…帰ってきてくださいと悲しくなるが、これも本来の先生のもっていた「面」なんだろうと思うようにしている。

 秦郁彦先生も最近は悲しい姿ばかり目立つ。

 沖縄集団自決事件を「尊厳死である」と新聞紙上でコメントしていたのを見た、との話を聞いたときはまさかそんなトチ狂ったことをあのセンセイが、と思ったが*1それをはじめ、ここのところ「妄言」が散見される秦先生の極めつけを見つけてしまった。それは以前読んだ秦氏の正論がさっぱりわけのわからない内容だったので(なぜこのハナシを書くのか、また、どうしてこういう経緯なのかもよくわからなかった。つまり酒場の愚痴みたいな記事だったのだ)気にはなっていたのだが、あるブログにその解説とも読解のヒントともいえる記事があり、それを読み、得心がいったと同時に、ひどくうら悲しい気になった。秦センセイも、遠くに行かれてしまった。

 問題の記事は↓こちら。

【正論】再論・沖縄集団自決 良心の欠けた不誠実な弁明 現代史家・秦郁彦

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071121/edc0711210331001-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071121/edc0711210331001-n2.htm

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071121/edc0711210331001-n3.htm

 ≪まるで「異界人」の説話≫

 大江氏は提訴直後の朝日新聞紙上で「私自身、証言に立ち…その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもり」と述べていたが、当日の尋問の相当部分は日本語の語義解説に費やされた。「ペテンとは」と聞かれて「人をだますことです」とか、「罪の巨塊」とは「英語のミステリーから借用したが、語源は他殺死体のこと。ラテン語では…(聴きとれず)」といったぐあいで、私の知力を総動員しても理解不能に終わった。


 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』よりヒントとなった箇所を引用す。

 曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。

 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118

たとえば、池田信夫を相手に曽野綾子曰く、

決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊 長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現なさったんです。私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていました が、人を「罪の巨魁」と思ったことはない。だから罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。

(「SAPIO」2007/11/28)

この発言から、曽野綾子が、大江健三郎の『沖縄ノート』の何処の、何に、拘っているかがわかるだろう。つまり曽野綾子は、『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(罪の巨魁)」という記述部分に拘っているのである。


 当日の裁判所で傍聴したわけではないので以下は私の推測だが、上記箇所を読み、大江健三郎が何を弁護したかったのか、それは「罪の巨魁」(罪の親玉=赤松隊長)ではなく「罪の巨塊」(罪の巨大な塊=死体か?)であると彼は主張していたのではないだろうか。阿比留記者が「赤松隊 長をさしているのが明白にもかかわらず」云々と指摘しているのはこの「罪の巨魁」という誤読についてなのか。それならば知力の総動員もなにも「罪の巨魁」 が誤読であり、そんな記述がないことを大江が述べる必要がでてくるのは当然である。なぜならば、「罪の巨魁」という誤読がある意味この名誉毀損裁判の根幹を成すともいえるからだ。曽野綾子の誤読を糊塗し、口をぬぐい、このような小手先のごまかしでこのあたりの経緯のわからない人間が秦郁彦氏の正論を読めば、「大江健三郎はナニをわけのわからないことを言っているのだ、法廷を愚弄する気か」と思ってしまうだろう。こういう悪質な騙しは、(このテのことをよくやる八木秀次にもいえることだが)仮にも学者と名乗るならば絶対にしてはいけないことではないのか。悪魔に魂を売ったも同然である。片方で人の痛みをとかなんとかいいながら、沖縄県民や戦争被害者への痛みに無関心であるのもダブルスタンダードである。

 し かしながらここであえて告白すれば、こうして糾弾しながらも、どこかで私は、この私の「読み取り」が「誤読」であって欲しいとも思っている。「誤読」であ り、秦郁彦氏の指摘がぜんぜん別個のもので、単なる私の無知蒙昧によるものであったのなら、とどこかで願っている。秦郁彦氏は私に歴史を丹念に追うことの楽しみを教えてくれた人だ。そういう人がこういう事態になってしまったよりは自分の愚かさからくる「誤読」であったほうがどれだけよいか。

 とはいっても、最近の秦氏の言説には目に余るものがあるのも事実である。上記で誤読云々と縷々述べたが、でも私にもわかっているのだ。これも秦先生のある面が出てきたに過ぎないのだろう、ということが。しかし、どちらかというと私はいま、かこさとし「科学者の目」で紹介されている「恐竜」の命名者リチャード・オーウェンを思い出している。オーウェンは「恐竜」と命名し、科学的にも貢献の大きかった学者であったが、ダーウィンの進化論には強硬に反対し、また晩年は人の研究成果を自分のもののように偽ったりした人物である。上記本の記述から少し長いが引用する。

オーエン(原文ママ)はやがて博物館長になり、多くの書物を書き、古生物学者の第一人者となった。王室から別荘をおくられるなど、多くの名誉と自信にあふれたオーエンは、ダーウィンの進化論には頭から反対しつづけた。

かつて鋭く輝いたオーエンの目は、この新しい科学の光を感じとろうとしなかったのである。1892年オーエンは科学の流れにさからうすねた老人として豪壮な邸宅で、しかしさびしく死去した。

オーエンの生涯は、私たちに科学の発展の姿をおしえるとともに、科学者のきびしさを物語っている。科学者の目は進歩と発展を見出しうるよう、いつもくもりなくみがかれていなければならない。いかにすばらしい科学者であり、どんなにすぐれた業績をうちたてたとしても、その名声によりかかって努力をおこたったならば、古代の恐龍たちのように滅亡の運命がまっていることとなるだろう。科学者も、君も、私たちも一生が勉強なのである。


 オーウェンだけではない。歩みを止めれば、待つのは退化だけだ。ああ秦センセイどこへ行く。悲しみは湧くばかりである。

 Permalink | コメント(3) | トラックバック(0) | 17:40 秦郁彦氏の「妄言」を含むブックマーク 秦郁彦氏の「妄言」のブックマークコメント
*1:そういえば私の祖母がある病特有の症状がでたときに、さっき「郵便屋さんが来たよ」なんてマトモなことをいっていたと思ったら、その次にはもう「スパイダーマンが壁をよじ登ってきた」などとわけのわからないことをいっていたのを思い出した。まだらなんとかなどと失礼なことをいう気はないが、なんだか心配である
和田和田 2008/09/12 14:59 秦郁彦に「従軍慰安婦と戦場の性」という著作がある。
秦 が出した一つの結論が従軍慰安婦の数は朝鮮半島出身者より、日本人のほうが多かったというものである。しかしその推定作業は恣意的作為に満ちたものであ る。秦は朝鮮半島出身者を含む海外渡航者の職業区分から従軍慰安婦の民族割合を推定する。そして、酌婦と職業区分された者はほとんど売春婦である、ダン サー・芸妓の職業区分も相当数が売春婦になると言う。また、1941/12/8以前の樺太・サイパン・満州及び中国の大都市での統計をも戦地に近い地域と 同じ扱いをして酌婦・ダンサー・芸妓を従軍慰安婦の変数として代入する。
当然の事ながら戦前傀儡政権を通じて中国は日本の最大貿易国である。満州及び中国の大都市には従軍慰安婦などでない酌婦・ダンサー・芸妓がいるだろうし軍人を相手にしない売春婦もいたと思われる。
そうすると、方法論として統計集計当時において戦地になりそうもない日本の植民地や満州及び中国大都市の数値は削除すべきである。
また、数値代入に当たってはダンサー・芸妓には酌婦の0.5等のウェイトを乗じるべきである。 実はダンサー・芸妓には日本人が多く、朝鮮半島出身者が少ない。大都市の状況も同様。戦地に近くなると朝鮮半島出身者の割合が高まる傾向となっている。
秦は初めから日本人の従軍慰安婦割合が高くなるように仕組んでいたとしか思えない。
私は昔から学匪と思っていますが。

とおりすがりとおりすがり 2008/10/18 13:03 現地の単なる「娼婦」と「慰安婦」とは同一の種のものと考えていいのだろうか?

和田和田 2008/10/24 15:49 単なる娼婦と慰安婦の違いは、軍の委託があるかどうかで判断したい。 怒る向きもあるだろうが、各人各様の外食と組織による集団給食ほどの違いがあり、委託なら軍の関与があるということ。 委託と個々の軍人が勝手にすることとは全然意味が異なります。というわけで、従軍慰安婦の数は考えられているより少ないとは思います。
(私論.私見)
 読んでは見たが何が云いたいのか分からない。次のように返信した。
 和田さんちわぁ。何やら下記のメールをいただきましたが、和田さん本人からのメールですか?。「あなとと同様nio615氏から記事盗用などと非難されています」とありますが、れんだいこが和田さんに対して記事盗用で非難していますか。れんだいこには覚えがありませんので、その下りをご指摘ください。なお、本論に 入る前に次の事を確認させてください。和田さんは、著作権について、著作物の引用転載に当たり、著作者に対して事前通知、事前承諾を要件とされるのでせう か。この辺り、どういうお考えの方であるのか教えてください。

 2011.10.22日 れんだいこ拝

 2011.10.22日 れんだいこ拝

 10.24日、和田氏から次のような返信があった。
 本名です。
記事盗用とれんだいこさんには関係ありません。
上記の追記欄で大体の想像はつきましょう。
 上記にnio615さん自身から依頼されBeethoven名で投稿していたものです。nio615さんの青い海の赤松・曽野綾子会合写真から曽野綾子が少なくとも3箇所で記録されている赤松隊の一人一人と
個別に会ったという嘘をnio氏から投稿を依頼され、投稿していたところ、徐々に最初は遠回しに最後は集中豪雨的に投稿中止を勧告され、最後には投稿を削除されたものです。
著作権についての私の考えは山崎行太郎氏と同じです。 インターネットのホームページに公開された画像を含め、それらを引用して論議することに違和感はなく、「青い海」の記事を電子化したnioさんが
著作権について云々されないのであれば、それらを引用して「ある神話の背景」の嘘を暴いた私が非難されるいわれはないと考えています。
 
 
 私は「ある神話の背景」についておおむね「
嘘 と隠蔽のための条件整備 ・地図を掲載せず、恩納河原・A高地・西山陣地・自決地であるフィジガー=東川を混同するようにしむけた。 ・ 曽野綾子は少な くとも東京・名古屋・大阪で 複数の赤松隊員と一度に会合しているのに一人一人個別に会ったと主張し続けた。証拠写真あり・クライン孝子と共謀し、出口確なる中学生が日本の前途を憂 い、「ある神話の背景」の復刊要請をしたという自作自演。(「ある神話の背景」では安里巡査は中城に住んでいるとされているのに出口確は首里と書く。クラ イン日記−プログに拠れば、その自作自演偽中学生投稿の数日前曽野綾子とクライン孝子は海竜社の連載の件で会合)−付記 クライン孝子はその後、該当記事 を削除した。・ABCDなる事情をあまり知らない婦人を利用して、海に集団で入る自殺鼠のように、村民が赤松の移動命令無しに自然に西山高地に移動したよ うにみせかける。嘘と隠蔽・マルレを陸揚げするには、泛水路が完成していない時期10数人の人力でも苦労したが、コロを使用する泛水路完成後は概ね10分 で1グループ1隻泛水可能だったことを隠した。・1945/3/22元基地隊長鈴木が泛水路の完成を祝いに来た、大町大佐はスケジュールで視察に来たなど 戦況の逼迫を隠した。事実は数日続いた3/19台湾陽動爆撃が終了したことにより、大本営は従来の米軍台湾上陸予測を改め、沖縄上陸を4月上旬と推測。つ れて21日沖縄軍再編。21日慶留間島では自決命令が出された。大町大佐に随行した石田四郎の手記で、15名中7名が通信兵ということから大町大佐の那覇 出航は出撃準備のためで、乱数表を伝える通信兵が3島に先行移動したことに疑いはない。通信兵各3名が座間味・阿嘉・渡嘉敷に先着し、大町大佐の乗船通信 兵3名が固有の周波数と暗号で対応。残り1名の通信兵が沖縄本島との連絡を担当したはずである。・3/22安里巡査が渡嘉敷に始めて赴任との記載は嘘。赴 任後長期の沖縄出向があったことを本人が沖縄県警史に記載。・3/26安里巡査と赤松が会合したという嘘。 安里巡査本人を含め、赤松・曽野以外否定。 27日以外にありえない。・3/26赤松・安里会談後、安里巡査のみが村民と赤松の伝令役となったという嘘。 事実は、自決命令を伝えたと思われる当時 40過ぎの「松川の兄さん」が伝令役で、新城(富山)兵事主任がそれに次ぐ伝令役。 曽野綾子は自決事件以後、安里巡査が主要な伝令役になったことを隠し 安里巡査を憎む古波蔵村長を挑発し、片言から「はい、ずっとです」と言わせた。 なお、松川の兄さんは、3/28手榴弾操作を誤り、自爆死。・曽野綾子 は、安里巡査に会った後古波蔵村長と会ったのに古波蔵村長に先に会ったようにみせかけた。これは恩納河原の位置や避難状況をめぐる曽野綾子の古波蔵村長と 安里巡査との問答を比較すれば、明白。・私が例をあげ、nio615氏が詳細に証明したとおり、日本軍の資料を含め、日本側資料はすべて1960年代後半 まで米軍の渡嘉敷上陸を3/26と誤って記載していた。曽野綾子は、その間違いを利用し、「戦争の様相」、「戦闘概要」の記載は「鉄の暴風」の誤りを踏襲 したものであり、、「戦争の様相」、「戦闘概要」は「鉄の暴風」を種本としていると主張した。・当初、出撃予定基地だった留利加波の変更を沖縄本島の参謀 が許さなかったと記載するが、留利加波基地は阿波連基地に合併された。・基地隊に留利加波基地変更を強要したため、主たる泛水の労働力、朝鮮人軍夫を基地 の変更の負い目から西山陣地の壕堀に協力させることを許したため、泛水が遅れたことを隠し、あまつさえ、赤松が本島や大町大佐の命令に先立ち、1/3泛水 を命じたなどと嘘。また勤務隊がゼネストをしたなど大嘘。皆本手記・勤務隊記録などから明白。・石田四郎手記から大町大佐は阿嘉島から沖縄本島に直接帰還 しようとしたが、米軍の砲撃に阻まれ、渡嘉敷へ難を避けたのに初めから渡嘉敷を目指したと嘘。これは、あくまでも大町大佐の出馬を視察スケジュール消化で あり、出撃準備ではなかったとみせかけるため。・複数の潮位ソフトから3/26午前6時頃、満潮となったことが明白だが前日の23時頃から始められた泛水 途中に潮位が干潮に向かったと天に唾する大嘘。・出撃予定時に富野中隊長が先頭でエンジンが故障したとするが、知念が先頭であったことが本人の沖縄県史記 述から明白。・大町大佐が渡嘉敷から沖縄本島の帰還にクリ船を考えたという嘘。戦史叢書などは漁船で鰹船をずっと前に徴用。前年10/10爆撃で全滅して いる。まだ徴用して無事な鰹船(漁船)があるかどうか尋ねたことをクリ船にすり替えた。大城証言から名古屋会合の謀議で考案された嘘であることがわかる。 狼魔人はこの嘘を利用し、村民は軍に船舶の徴用を断ることが出来たと強弁。 曽野綾子もそう言いたかったが示唆だけで露骨な主張は無理と踏みとどまったに すぎない。・阿波連では、青年団の協力で泛水出来たのに出来なかったと謀議に赤松に取り込まれた遠藤しか参加していない第一中隊を賤しめる。・「鉄の暴 風」に記載する3/31の赤松が持久戦を主張した将校会議は壕が完成せずないのですべて架空とする「ある神話の背景」の記載は4/7持久戦会議が開かれて いる谷本版陣中日誌から一部の間違いをすべて間違いとする嘘。・「戦争の様相」は、「戦闘概要」より3年早く書かれたのに、「戦闘概要」が早いという嘘。 嘘の理由は、自決命令が後の記載で訂正されたと主張するためだが、そのため裁判では年金をもらうために自決命令が捏造されたという原告の主張と齟齬するこ とになった。・皆本中隊長は、豊廣震洋隊長の演習での煙幕発言を剽窃し、大町大佐は全艇を沈める命令を出したが命令に背いて煙幕を張り陸揚げしたと自 慢。・安里巡査の自決前に伝令を出したが、伝令が帰る前に自決を始めたとの主張を記載。しかし、匿名女子青年団kのいう松川の兄さん、金城武徳のいう農林 学校を出た伝令、吉川勇助証言の古波蔵村長に耳打ちした40過ぎの伝令は同一人物と考えられ、彼が赤松の自決命令を伝えたと考えられる。・本島の通信兵証 言によると、28日正午頃には大町大佐の戦死が伝えられている。三池少佐の沈没・救援要請は無線がなくては出来ない。無線の存在を隠すことが転進命令の時 刻、戦況隠しに枢要な意味を持つ。・谷本版陣中日誌は元の記述に変更を加えていないと主張。 比べてみると、異同があり、異同が嘘を証明するきっかけにも なる。・3/28午前、複数の偵察を先導していた防衛隊が抜けだし、家族と自決と記載。朝偵察の先導員が軍から抜けることなど出来るはずもない。集団自決 に先立ち、個別的自決があったとのみせかけ。

などの嘘があることをhttp://keybowokinawan.blog54.fc2.com/blog-entry-29.htmlなどで論証したが、nio氏は言論を封殺しようとした。 理由はよくわからないが、

 自分が情報の統合能力がないことを棚に上げて「青い海」の写真を盗用し、「ある神話の背景」についてしゃべりすぎたということらしい。それについては、実は あなたとのnio氏を介した共通点を示したに過ぎません。  本題はあくまでも百人斬りにかかるあなたの記事がでたらめで事実を反映しない想像や感想にも とづいて論議をしていることについて、おかしいと言っているのです。
(私論.私見)
 次のように返信した。
  和田さんちわぁ。著作権につき、強権派の如くの転載につき事前通知事前承諾派の方でないことが分かりホッとしました。世の中難しいので、こういうところ も確認しておかなければなりません。それはそうと、れんだいこは、沖縄住民の自決問題には言及しておりません。この方面のことはさしあたり余計です。百人 斬り事件については、そういう試し切り事実は存在するが、百人斬り競争を競って更に二百人斬りに向かったと云う話は戦時特有の誇大報道の賜物と評しており ます。この論点のどこが「百人斬りにかかるあなたの記事がでたらめで事実を反映 しない想像や感想にもとづいて論議をしている」に当たっておりますか。文章を示していただけますか。それを見てまたメールいたします。

 2011.10.24日 れんだいこ拝

 10.24日、和田氏から次のような返信があった。
 赤松と曽野綾子の嘘についてはさしあたり余計なことではある。 しかしながら、鈴木明の「南京虐殺のまぼろし」は曽野綾子の「ある神話の背景」とほぼ同時期に書かれ、後者は意図的に嘘をついて日本人の再臣民化を企んだものと評価できる。 「南京虐殺のまぼろし」は、想像の積み重ねで百人斬りがなかったように主張する上、そのこと(一部)によって南京虐殺全部がなかったことが証明できたかのように錯覚させる標題となっている。そのことを前提に「百人斬り競争を競って」ということが、単に戦時特有の誇大報道の賜物と評していることが、各種証言や事実・論理的思考から組み立てることの出来ない空想の産物にすぎないと言っています。
 
 れんだいこさんが、nio氏の百人斬り裁判の判決・準備書面等を見ていることを前提にしますが、(とうてい見ていないとはいえませんね)裁判の過程で向井又は野田の同僚や中学生の後輩数人(裁判資料ではなく、秦郁彦氏が独自に発掘した証言を含む)が向井・野田の捕虜や農民に対する百人斬りの見聞、向井・野田の据え物斬りの自慢を証言又は記録していたことは承知のはず。
 
 彼ら複数の証言者等が、組織的(曽野綾子と赤松隊の謀略のようにということ)に向井・野田を陥れるために嘘の証言や記録をしたという証拠や痕跡・間接的事実・状況証拠に至るまでまったく見えてきません。そうすると、時と場所を異にする証言と記録がでたらめであるということは、(渡嘉敷虐殺に関して赤松本人がその後の曽野綾子の主張に反する赤松隊と曽野綾子の謀議写真を投稿したことに相当する程度の何らかの証拠が出てくるまでは)いえないことは当然です。 私は「ある神話の背景」の嘘に関して予感は持っていたが、証拠を挙げるまで発言は控えていた。
 
 南京虐殺についていえば、南京戦参加者は松井石根がB級戦犯に問われた時に多数生存していた。 当時彼らが、南京虐殺は存在せず松井石根は無罪だとの国民運動を行ったとの報道は寡聞ながら知らない。フィリピンのBC級戦犯救援運動は行われたのに。 もっとも、毎日新聞の連載などで実名で「フィリピン人の虐殺等に参加したが、戦後フィリピン滞在中気が触れたふりをし続けて戦犯になることを免れた」と証言した者もいた。実際、鈴木明の「南京虐殺のまぼろし」が発行されるまで、日本人で「南京虐殺がなかった」と主張できる者はほとんどいなかった。
 
 向井・野田の主張を検討すればある時は「日々新聞の報道員からほら話しをしてくれと頼まれた」と主張し、別の場面たとえば浅海記者への依頼では「百人斬りは戦闘員に対するものであり、非戦闘員に対するものではなかったことを証言してほしい」としている。それはそうだ。日本の軍人の戦闘行為を理由に戦犯に問われたケースは存在しない。  そもそも中華民国政府は向井・野田が捕虜や非戦闘員に対して虐殺行為を行った事実を「戦争犯罪」、「人道に対する罪」と認定し戦犯に問うたのであり、単なる戦闘行為の百人斬りを戦犯事実と認定できるはずがない。
 
 だからこそ、向井・野田のどちらかの遺書で「(百人斬りが)戦闘行為であって戦犯行為に当たらない」との嘘の主張をしているのだ。想像力を働かせばすぐわかることだが、占領軍の占領下当時世相はひっくり返り、戦犯容疑者は、その家族がその後長期にわたり世間から後ろ指をさされ不利益をこうむるとの予測をするだろう。向井・野田は一面では死刑を免れたいとの理由から嘘を語るのだろうが、他面では自らの家族の将来をおもんばかって嘘をついたということだろう。
 
 いったい、どのような理屈で「百人斬り競争を競って」ということが、単に戦時特有の誇大報道の賜物と評することが出来るのか、渡嘉敷の虐殺に関して天皇の名で集団自決を強要したい連中が自分独自の論理や事実を基に主張するのではなく、単に曽野綾子の「ある神話の背景」を鵜呑みにし、オウム返しに反覆したように、あなたは山本七平の空虚な空想を鵜呑みにして反覆しているにすぎないと私は思っているのだが、
そうではなくて、何か自分自身で発見した事実や論理を持っているのでしょうか。
(私論.私見)
 次のように返信した。
 和田さんちわぁ。ようやく内容らしきものが出て参り、何を主張されているのかが分かるようになりました。これについては片手間の答弁では良くないと思い ますので、久しぶりに「れんだいこの百人斬り事件考」を見直し、ついでに書き直そうと思います。和田さんとのやり取りのサイトも作ります。何がしか有益な やり取りができれば本望です。問題は、ここ数日は忙しく集中できません。その後、必ず返事いたします。

 2011.10.25日 れんだいこ拝

 和田さんの論点で気になることがあります。鈴木明の「南京虐殺のまぼろし」の著作動機を「日本人の再臣民化を企んだものと評価できる」としていることです。鈴木氏にそういう動機があったとは思えません。単に史実の緻密な考証を求めたとも考えられます。「『南京虐殺のまぼろし』は、想像の積み重ねで百人斬りがなかったように主張する上、そのこと(一部)によって南京虐殺全部がなかったことが証明できたかのように錯覚させる標題となっている」についても同様に、鈴木氏の考証では「まぼろし」と云う結論になった訳でせう。和田氏が「単に戦時特有の誇大報道の賜物と評していることが、各種証言や事実・論理的思考から組み立てることの出来ない空想の産物にすぎない」と述べるのも自由ですが、全ては考証に基づけば良いと考えています。

 「向井・野田の据え物斬りの自慢を証言又は記録していた」としても、百人斬り事件問題の要点は、それが存在したかどうかを廻るものではありません。戦闘員に対してであれ非戦闘員に対してであれ現に百人以上斬り、なお足らず新たな百人斬り競争に向かったと云う報道についての真偽問題が問われています。れんだいこは、この点で、そういう競争ぶりをフィクションとする説に軍配を上げています。
 
 南京虐殺についても同様です。「鈴木明の「南京虐殺のまぼろし」が発行されるまで、日本人で「南京虐殺がなかった」と主張できる者はほとんどいなかった」のは、単に時代の気まぐれでせう。東京裁判全体を通して流れる戦勝国軍論理批判は当時から存在しました。
 
 向井・野田の遺書の読みとり方も違うようです。和田さんは、「戦犯容疑者は、その家族がその後長期にわたり世間から後ろ指をさされ不利益をこうむるとの予測をするだろう。向井・野田は一面では死刑を免れたいとの理由から嘘を語るのだろうが、他面では自らの家族の将来をおもんばかって嘘をついたということだろう」と読みこんでいますが、れんだいこは、据え物斬りは存在したが、新聞報道されたような百人斬り先陣争いは存在しなかったと理解しています。
 
 補足。曽野綾子の話がよく出て参りますが、れんだいこは彼女にも彼女の説、著作にも関心を持っておりません。
















(私論.私見)