付録・高橋亨氏のサイト上での百人切り論争をれんだいこが斬る |
【付録・「サイト上での百人切り論争」をれんだいこが斬る】 |
インターネットサイト上で「百人斬り競争事件」論争が公開されている。高橋亨氏主宰 「対抗言論」の「インターネット発言録」の中の「百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘」であるが、記事1から12までそれぞれの論争内容を保存している。現物は該当サイトで閲覧いただくとして、その一端を見ておくことにする。 |
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まことに叩くのに都合の良い議論能力しか持たない批判派A氏の「本多氏の『南京への道』記事の捏造性の指摘」に対して、擁護派B氏(高橋亨氏)が応戦するという構図になっている。一種のヤラセ論争のようにも思えるが、この論争を通じて当時の議論水準がよく分かる点で興味深い。以下、れんだいこがコメント付けていこうと思う。 |
【百人斬りの話が中国で広まった経過】 |
(1)、 発端は、東京日日新聞が両少尉による据え物斬り殺人競争を報道(第1報:1937年11月30日、第2報:12月4日、
第3報:同6日、第4報:同13日)。ただし、記事中では白兵戦の中で敵を斬った武勇伝として描かれていた。 (2)、 第3報、第4報がそれぞれ一日遅れで『ジャパン・アドバタイザー』 に紹介される。この段階で既に「東京日日新聞」が「朝日新聞」に化けてしまっている。 (3-a)、『ジャパン・アドバタイザー』の記事に基く報道が、上海の『チャイナ・ウィークリー・レビュー』など一般中国紙でも行われる(1938年初頭、報道内容は不明) (3-b)、 マンチェスター・ガーディアンの上海特派員ティンパーリー(H.J.Timperley)が編著``What war means: the Japanese terror in China (1938)''の付録に『ジャパン・アドバタイザー』の紹介記事を収録(この本は英語版と同時に中国語訳「外人目賭中之日軍暴行」も出版されている)。 こうして、東京日日新聞の報道の一部が次から次と紹介されていき、中国語訳『外人目賭中之日軍暴行』が広く読まれ知られることになった可能性が高い。また、この本に紹介されたのが報道された記事の全部ではなく後半の2報だけだったことが、姜氏のような誤解を生む原因にもなったと思われる。 (4)、 姜氏が本多氏に百人斬りの話をしたのは1971年ですが、このあと情報がどのようにして姜氏まで伝わったのかは分かりません。姜氏が(3-a)か (3-b)を直接読んだのかもしれないし、あるいは間に何人かの人を経たのかも知れません。(3-a)あたりで色々と誤りが混入してしまったという可能性もある。いずれにせよ、姜氏の話で競争が句容から始まったことになってしまっているのは明らかに(2)の段階で句容以前の情報が欠落してしまったせいですし、殺人競争を命じた上官が出てくるのは、この犯行が軍の組織的なものであったと印象付けるために為されたものと思われる。 |
【本多記者の「南京のへの道」記事の誤りに対する居直り論理考】 |
「百人斬り競争事件」の論争の一端を見ておくことにする。本多氏の「南京への道」記事の捏造性の指摘に対して、 「百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘」の「百人斬り --
記事2」では次のような詭弁を弄している。 「『中国の旅』を読めば分かるんですが、これは姜根福氏が直接体験・目撃したこととして証言されているのではなくて、『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』とことわって紹介されているものです。こうした情報源のはっきりしない間接伝聞については、語られたそのままの事実があったと盲信してしまうのも、部分的な矛盾をあげつらって全否定してしまうのも、どちらも幼稚な態度と言わざるを得ませんね。これって、ルポルタージュを読む場合の常識じゃないんですか」。 「問題の本質は、果たしてそのような殺人競争が行われたのかどうか、ということであって、山本ベンダサン氏との論争で本多氏が述べているとおり、最初からこの話の元になった新聞記事を確認した上で『中国の旅』は書かれているわけです。当たり前のことですが、本多氏は姜氏の話がそのまま事実であることを証拠立てるために新聞記事を引用しているわけではなくて、姜氏が紹介したような殺人競争が行なわれたことを裏付ける日本側の資料として示しているわけです」。 「本多氏が、姜氏の紹介した内容そのままが事実だなどと主張しているところがあるというのなら指摘して下さい。私は見たことないですよ」。「あのー、『中国の旅』のどこに、両少尉が白兵戦で百人斬ったなどという話が載っているのでしょうか?今私の手元には朝日文庫版のがありますので確認してみたいんですが」。 これに対し、「南京のへの道」記事批判氏が、「本多氏は上記の記事を根拠として示したのですから,記事の内容を信じていたとしか考えれません」と指摘したところ、「なるほど。やっぱり本多氏が言ってもいないことを憶断していたんですね。ある資料を根拠として引用したんだから、その内容をそのまま信じているはずだなんて、おめでたくも単純な解釈ですね」、「それに、最初は本多氏が『この証言が事実であることの根拠として』新聞記事を使ったのだと言い、次いで、その記事と『証言』には明らかな矛盾があると言い、こんどは本多氏がその『記事の内容を信じていた』 と言う。なんだか論理展開がメチャクチャですよ」と反論している。 |
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れんだいこは思う。世の詭弁学の常套手法の典型であろう。本多記者が記事にする時点で、証言者の証言に真実性があると判断したから記事にしたのであろう。引用証言あるいは記事構成が正確でなかったことが判明すれば謝罪すれば良いだけのことではないか。「『間接証言』と断わっているものに対して真実性を勝手に仮託した方が悪い」などという詭弁がどうして通用し得ようか。 こういう論法をするから世間が相手にしない。相手の論理展開の拙さを指摘したところで、おのれの論法の無茶苦茶まで消えはしないであろうに。議論というのは勝った負けたではない。議論を通じて共有認識の精度を上げていくところに意味がある。詭弁を弄して何になろうぞ。 |
【「百人斬り論争」における個別的論点の検証】 | ||||||||||||||||||||||
【百人斬り -- 記事2】 | ||||||||||||||||||||||
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【百人斬り -- 記事3】 | ||||||||||||||||||||||
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【百人斬り -- 記事4】 | ||||||||||||||||||||||
百人斬り -- 記事5 > >浅海、鈴木両記者が果たして真相を知っていたのかどうかは分からないんですが、いずれにせよ当時の検閲下では武勇伝の形にでもしない限り記事になりようがなかったのは確かですね。 >どこかで「殺す場所は見ていなかった」というのを読んだような記憶がありますが… 「逃げるものは斬らない」とかいったのを記者の誰かが裁判の時の弁護の材料にしたのでは、(確かに逃げられる状態ではなかったとは思うが) これは鈴木二郎氏の証言ですね。東京裁判の際、百人斬りが虐殺の一事例として注目され、浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けたそうです。鈴木氏は次のように書いています。「 …どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、 ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない” といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別々にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』 と強調した」。 両記者は南京の軍事法廷にも嘆願書を送っており、嘘にならない範囲内で精いっぱいの弁護をしています。 >あの頃の保守系文化人てものすごく安易な発想を信じ込める人ばかりだったような…(いまでもか) 本当に信じているんですかねぇ…。むしろ本当かどうかなんて実はどう でも良くて、単に自分の主張に都合がいい材料でさえあれば何でも利用する、ということに過ぎないような気がします。 『中国の旅』で私が気になったのは、何かというと「親米独占資本と軍閥以外の日本人民は真の友です」というようなセリフが出てくることです。これは明らかに「日中友好」路線に従って「言わされた」セリフでしょう。現実に目の前で肉親を虐殺されたり自分自身殺されかけたりした人たちの本音がこんなものであるはずがないんで、そこをもっと突っ 込んで取材して欲しかったんですが、当時の状況では確かにそこまでは 無理だったんでしょう。この点については今後に期待したいところです。 百人斬り -- 記事7 > 「百人斬り」が「捕虜の殺害」だっかか? についてもコメントしておきましょう. > 事の真相としては、野田少尉自身が故郷の小学校で語っている[2]とお り、投降した無抵抗の中国兵などを据え物斬りにして虐殺したのがほとんどだったのでしょう。この事件に関する情報伝達の経過は次のように なります。[3] > で,この語った内容が真実であると判断できる理由は?当時,野田少慰は「100人斬り」の英雄として奉り上げられていたのですよ. で,小学校で講演を頼まれた.高橋さんならどうします?「いや, あれは作り話でして」などど言えますか? 彼が苦しまぎれに「白兵戦で斬ったのは3ー4人,あとはニーライライといって出てきたのを捕らえて斬った」と言っても,私ならそのまま信用はできませんがね.なぜなら,彼は砲兵隊の副官で歩兵ではないから,白兵戦で斬ったのは3ー4人という話からして新ピョウ性がうすい. 殺人競争が「作り話」だったなどという根拠のない仮定の上に立って野田少尉の心理状態を推測するんですか? そんな憶測ゲームに参加するつもりはありませんので悪しからず。 百人斬り -- 記事8 > そもそも,日本刀で百人の人間をたて続けに斬り殺すなんてまず無理だと思いますが.... > 刀の品質や,問題の両少尉の技術・体力などにより一概に言えないにせよ,半分もいかないうちに,刀も両少尉の体力も持たないのでは? は? いつの間に百人たて続けに斬り殺したなどという話になっちゃったんですか? そんなバカなことは誰も書いていませんが。 両少尉の場合、だいたい2週間くらいかけてやってます。据えもの斬りの場合、一度に十人位ずつなら十分可能でしょう。これについては現場の目撃者や実行した体験者の証言があります。 百人斬り -- 記事9 > 最初から指 摘しているとおり、両少尉が実際にやったのは白兵戦などではなく据え物斬りでしょう。歩兵でない云々というのは反論になっていませんよ。 >つまりは,姜氏が「中国の旅」で証言した内容が嘘であることは,お認めになるわけですね.この記事の中では,噂や言い伝えでなく,事実としてこの人は語っているのです.捕虜の話などしているのではありません(論点を逸らさないで欲しいなぁ). 高橋>さて、上記のとおり、結局この問題は両少尉が果たして殺人競争を行なったのかどうかという問題に帰着するわけですが、それでは鈴木明氏はどのようにしてこの殺人競争に関する報道が虚報であり、両少尉が無実であったことを論証したのか、次はこの点について教えて頂けませんか?と書いたとおり、私ははじめから、果たしてこの殺人競争が実際に行われたのかどうかが本質的な問題なのだと指摘しているにもかかわらず、なぜこの肝心の質問には答えて頂けないんでしょう?鈴木氏の論証のポイントはS.Mさんが繰り返しているような憶測じゃなくて両少尉のアリバイ証明だったはずなんですが。 姜氏の話は新聞報道を出発点としてさまざまな変形を受けたなれの果てに過ぎないので、その細部をあげつらっても意味はありません。 >捕虜の殺人競争 があったかについても,まともな根拠を示してしていただいていないのですが,どうなったのですか? これもとっくに指摘したとおり、野田少尉自身が、百人斬り競争の実態が実は捕虜の据え物斬り競争にほかならなかったことを認めています。これは既にfjで詳しく紹介されたことがあるので、過去の記事から引用します。 > 『南京への道』からの孫引きですが、月刊誌「中国」(徳間書店) 1971年12月号でのN少尉の言葉を以下に引用します。 | 「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私 のことだ......実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない...... 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る......百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ.....二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない......」 | | これは志々目氏の回想だから、記憶違いも混じっているかもしれませんが、据えもの斬りであるという大筋は正しいと思います。 また、向井少尉の方も、据え物斬りという実態はともかく百人斬りの行為そのものは認めており、敗戦前まではむしろそれを周囲に誇っていたことが知られています。 >もともとの新聞記事が実は「捕虜の殺人競争」を脚色したものだという根拠でもあるのですか? 浅海、鈴木両記者が百人斬りの実態にうすうす感づいていたという可能性はありますが、彼らが積極的に脚色して記事に仕立てたということは恐らくないでしょう。殺人競争を武勇伝に脚色したのは両少尉自身ということになります。 > 東京裁判はA級(平和に対する罪)戦犯を中心とする日本の主要戦争犯罪人が対象(被告はわずか28名)ですから、末端における殺人行為の実行者に過ぎない両少尉がここで訴追されることなどあり得ません。彼らが東条英機らと並んで裁かれる可能性があったなどと、本気で考えて いるんですか? こんな基本的なことすら分かってない人が、何回となく東京裁判がどうこうと論じて来たとは…。(唖然) > これに対して、犯罪の行為地である中国の軍事法廷が両少尉の所轄裁判 所として彼らを訴追するのは当たり前のことです。 >当たり前とは思いませんが,まあ,訴追するのは良いでしょう.しかし,新聞記事,しかも書いた本人が直接目撃したわけではないと証言している証拠で,死刑判決とは! 記者自身は確かに殺害現場を見てはいませんが、殺害の行為者本人から直接聞いた話に基いて記事を書いているんですよ。敗戦前までは本人自身が周囲に誇示していた行為について、敗戦後急に否定しだしても説得力はありません。 >南京法廷では,南京事件の責任者として松井石根大将も処刑していますが,これも当時南京で何があったにせよ,松井大将がこの事件に関わった証拠は一切ないのです. >かように,中国における事実認定というのは信頼性の置けないものであり,姜氏が伝聞に基づく 100人斬りをさも事実であるかのように語るのも,氏の立場では無理のない話なのかもしれません. やれやれ、もう何が何だか……松井石根を死刑にしたのは*東京裁判*の方ですよ。中国における事実認定云々とは何の関係もありません。 百人斬り -- 記事10 >あの本は基本的に関係者の証言を集めた本なので批判されて破産する余地はないと思いますし、少なくとも僕が読んだ限り最近の研究に大きく反する点はないと思う。確かにあの本の中に書いてある証言には問題があるという見方はできますが、少なくとも鈴木明氏が取材したときはそのような答 えが返ってきたのだしそれで鈴木氏を責めてもしょうがない。あの本が書かれた’72年と今では話が違うのだから。鈴木氏も証言者が必ずしも真実を語っているわけではないだろうと思っていたからこそインタビューしたときの状況や細かい問答の言葉遣いまで書いてるのでしょう。 前述の洞氏の本には、そのような無邪気な状況ではない(鈴木氏が関係者の証言を改竄して利用しているという濃厚な疑いがある)ことが示されています。この他、洞富雄・藤原彰・本多勝一編『南京事件を考える』(大月書店、1987年)には、和多田進氏のルポ「鈴木明氏の「取材」を取材する」が収録されており、ここでも鈴木明氏の取材がまともな取材になっていないことが台湾での追跡調査をもとに示されています。 >高橋さんの記事はたぶん田中正明氏か渡部昇一氏辺りと勘違いしてるんじゃないですかね。 百人斬り -- 記事11 >南京法廷に提出された嘆願書の内最も重要なのは直轄の隊長である富山武雄氏の証言でこれは両少尉の上司(大隊長)であった富山氏が、向井少尉が戦犯容疑者として逮捕された後に、その家族の懇願に応じて書いた「証明書」ですね。こうした後から書かれたものではないリアルタイムの記録(所属部隊の戦闘詳報など)が残っていれば有力な証拠となるのですが、これは当時すでに存在しなかったか、存在したとしてもアリバイ証明になるようなことは記載されていなかったようです。 さて、富山氏の証言には後述するようなさまざまな問題点があるのですが、その前に、正確を期するため、鈴木明氏が紹介している「証明書」 の内容[1]を示しておきます。 >・この砲兵大隊は12月12日に南京東方で停止し湯水東方に駐屯したので紫金山に二人がいるのはおかしい。 (a) 大隊は昭和12年12月12日 麒麟門東方に於て行動を中止し南京に入ることなく 湯水東方砲兵学校に集結す (b) 大隊将兵は昭和12年12月13日から翌年1月8日まで外出を禁止せられ特に南京方面に外出せしめたることなし >・向井少尉は12月2日迫撃砲弾により脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため救護班に収容。原隊に復帰したのは15日だから12日に紫金山上で新聞記者と両少尉が会うはずもない。 (c) 向井少尉は昭和12年12月2日丹陽郊外に於て左膝頭部盲貫を受け離隊救護班に収容せられ 昭和12年12月15日湯水に於て部隊に帰隊し治療す >・浅海記者と向井少尉は無錫でしか会っておらずその後記者達は自動車で南京へと移動したのでその間二人と会ってはいない。 これは富山氏の「証明書」にはなく、向井少尉の未亡人から鈴木明氏のもとに送られてきたという「上申書」[2]に書かれているものです。具体的には、 (d) 向井は浅海記者と無錫以外で会ったことがない (e) 記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない とされています。 >もし「百人切り」を立証するのならこれらの指摘に答える必要があります。S.Mさんも本当に読んだことがあったら最初にこれを出すはず なのだが。 これらが事実なら東京日日新聞の一連の記事はまったくの虚報ということになるわけですが、実はこれらの証言に対しては反証が多数存在するのです。 第一は、野田少尉の後輩同窓生である志々目彰氏の証言です。詳しい内容は既に<T-TAKAHA.96Sep10174654@...>で紹介済みなのでここでは省略しますが、野田氏自身が百人斬り競争の実行とその実態(白兵戦中の行為ではなく捕虜の据え物斬りだったこと)を認めた決定的なものです。鈴木明氏がこの証言を知らなかったはずはない[3]のですが、意図的に無視しています。 第二は、第4報に掲載されている両少尉の写真を撮影した佐藤振寿カメ ラマンの証言[4]です。 とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとっ た。(略)そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある” と飛び込んで来たんですね。私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、 外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているん だ。一枚頼む”という。“へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、 いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は| 城門のそばで撮りました。(略)私が写真を撮っている前後、浅海さん は二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話 なんですよ。 第三は、第4報の共同執筆者である鈴木二郎氏の証言[5]です。 そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていった んですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃 討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは…。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。 この二つの証言によれば、両少尉は少なくとも常州と紫金山麓でも浅海記者と会っていることになり、浅海記者と向井少尉が無錫でしか会っていないという(d)(e)は否定されてしまいます。 第四は、山本七平氏が自身の連載中で紹介しているいくつかの手紙です。これらの手紙は鈴木明氏(または週刊新潮)宛てに書かれ、山本氏は鈴木氏から資料の提供を受けてその一部を紹介しているのですが、それによると、例えば向井少尉と同じ部隊にいたという衛生兵T氏は「入城式の前日(16日)城外道路掃除命令をうけて、中山門(高橋注:南京城の東門)から外へ5キロほど清掃した」といい、また11日には向井隊の本部が紫金山麓の霊谷寺におかれ、12日から16日にかけては南京城外で野営したとも述べているそうです[6]。中山門から5キロの範囲といえば、ちょうど紫金山の南麓を走る公道にあたります。となると、富山氏の主張する(a)(b)は否定されてしまいます。 同じく山本七平氏が紹介している別の手紙(差出人の名前は伏せられている)[7]によれば、負傷した向井少尉は『俺は歩けるから』といって馬を降り、疲労困憊した部下を代わりに乗せていたそうです。富山氏の言うように向井少尉が「左膝頭部盲貫を受け」ていたとしたら、歩くことなど到底不可能なはずです。それどころか馬に乗ることすら困難で、担架で搬送するほかなかったでしょう。(実際「上申書」のほうでは帰隊時ですら担架に乗っていたことになっています。)よって富山氏の主張(c)も崩れてしまいます。向井少尉が何らかの傷を負ったこと自体は事実のようですが、それは離隊治療を要するほどのものではなかったと思われます。 言うまでもなく山本氏は百人斬りや南京大虐殺を否定するための材料としてこれらの手紙を使っているのですが、いつもの粗雑さが災いして余計なところまで紹介してしまったようです。 第五の反証は新聞記事自身の中にあります。第2報には、向井少尉が「丹陽中正門の一番乗りを決行」したという記述があるのですが、富山氏が(c)で言うように向井少尉が丹陽郊外(「上申書」では「丹陽に向かって前進中」)の時点で既に負傷・脱落してしまったのならば、この記述もまったくの嘘ということになります。しかし、当時の軍隊において「一番乗り」というのは極めて重要視された名誉であって、こんなこことで嘘を書いたら本当に一番乗りを果した側が黙っていません。(南京に向かって日本軍各部隊が無茶苦茶な急進撃を続けた動機の一つとして「南京一番乗り」を果したいという名誉欲があったことはよく知られています。)この「一番乗り」報道が何ら問題にならなかったことは、それが実際そのとおりの事実であったことを示していると思われます。 最後に、両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。これは裁判記録のほんの一部でしかないのでもとよりはっきりしたことは言えないのですが、ある程度の推測はできます。(法務省にはこれらの他に起訴状に対する申弁書、最終弁論、覆審請求書、上訴申弁書等も収蔵されているのですが、法務省はこれらの資料の公開を拒否しています[9]。) この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。)もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。 全体として「百人切り」は東京日々の浅海記者の創作であると見るのが妥当でしょう。南京で処刑された両少尉とその遺族に対してはまことに気の毒としかいいようがない。 というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。 この騒ぎで一番お気の毒だったのは、嘘の記事を書いて無実の人間を死刑に追い込んだとされ、人殺し呼ばわりされてきた浅海氏です。 そもそも証拠が新聞記事しか無く しかもその内容は戦闘中の事としか書かれていないのに死刑判決とは 不当とされてもしょうがないでしょう。 念のため申し添えておくと、私も死刑にはすべきでなかったと思います。両少尉には是非とも日中戦争の実態についての語り部になってもらうべきでした。 洞氏等のグループも認めているように「百人切り」自体はとうの昔に 決着が付いている話なのに何で今更こんな事で議論をするのでしょう か。 洞氏や本多氏から見れば、この件は『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』で決着がついてしまったので、その後取りたてて云々する必要などなかったわけです。実際、S.Kさんがおっしゃるとおり、百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。 確かにあの本の中に書いてある証言には問題があるという見方はできますが、少なくとも鈴木明氏が取材したときはそのような答えが返ってきたのだしそれで鈴木氏を責めてもしょうがない。あの本が書かれた’72年と今では話が違うのだから。鈴木氏も証言者が必ずしも真実を語っているわけではないだろうと思っていたからこそインタビューしたときの状況や細かい問答の言葉遣いまで書いてるのでしょう。 以上の議論は鈴木明氏が入手資料や証言を正確に紹介している、という前提の上に立ってのものですが、実はジャーナリストとしての最低条件とも言うべきこの点についても大きな疑惑があるのです。 例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙[10]が紹介されています。ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところ[11]で紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示されているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。 (1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。 (2)鈴木氏紹介の手紙には『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』という部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。 (3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には『刑の執行の朝、彼等が軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。 洞氏は、 この山本・鈴木両氏の引いた手紙が同一物であるとすれば、鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。 …鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつたえられているか疑わしくなる。フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 と述べています[12]が、私もまったく同感です。 また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています[13]。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。 肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』とか『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』などという話は出てこず、逆に『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』とか『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』といった証言が得られています。 もちろん、鈴木氏と和多田氏のどちらの取材が正確なのかはそれだけを比較してもわかりません。しかし、鈴木氏が石氏の証言として『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』などと書いているにもかかわらず、判決書[8]によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。 いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。 百人斬り -- 記事12 もし「百人切り」を立証するのならこれらの指摘に答える必要があります。S.Mさんも本当に読んだことがあったら最初にこれを出すはずなのだが。 >わたしがこの件に言及しなかったのは,わざわざ決着のついた問題をむし返して論点をぼかしたくなかったのと,鈴木氏の著作の内容に踏み込んでいくと,細かな誤りを指摘して「改ザン」者と罵り,鈴木氏の著書の内容自体が信用のおけないものであるかのような不毛な中傷合戦に陥ることを避けたかったためです. なるほど。『「南京大虐殺」のまぼろし』の内容にまで踏み込んだ議論を行うとすぐボロが出てしまうので、逃げ回っていたわけですね。これでS.Mさんの不可解な投稿の謎が解けました。 それにしても、最初に自分から洞氏や本多氏の著書を「トンデモ本」などと罵倒しておいて、よくこんなことが言えるもんだ。 |