「ピッポ事件」考れんだいこ見解 |
(最新見直し2015.7.1日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここに、「れんだいこのピッポ事件考」のうち掲示板に投稿した文を「ピッポ事件考/れんだいこ見解」として採録しておく。2015.7.1日、ネット検索で偶然出くわしたものである。 2008.6.29日、2015.7.1日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その127 | れんだいこ | 2005/12/02 |
【ピッポとか云う御仁とその同調者へ】 おっちゃんちわぁ。こちらへ振ります。ピッポとか云う方の著作権侵害クレームについては相手にしておりません。言い訳は好まないのですが、最近手違いで全部転送してしまい、その拍子でアップされたものです。膨大になっておりますので見直しもままならず、まっいいか、クレームされたらその時に対処しようとそのままにしております。 こたびの指摘に従い確認しますと、れんだいこも考察しようと思い、その際の貴重な法文サイトでしたからいずれの日にか咀嚼する為に全部転載していた「だけ」のものでした。れんだいこは、地文取り込み外式の全部転載につきましては、著作権法に従い、リンク同様に無承諾可論を確信しておりますので、まずはホッとしたのが実際です。 ピッポとか云う御仁は、この「だけ」と事前の挨拶がないのが気に召さないようです。しかし、如何せん、この御仁は、人を説教するには遅れすぎの未熟者であることを自ら晒しております。一つには、著作権法に照らしてこういう全部転載が許されないことを主張することで、著作権法に対する無知を晒しております。ましてやこたびは判決文の(転載の)転載です。 判決文に著作権被せるのは、新手の著作権論の登場です。手間隙と構成ぶりを根拠に著作権主張しているようですが、ちと苦しいでせう。いずれにせよ、著作権急進主義というか硬派というべきか全域著作権適用論者であることが分かります。最近こういうサヨが多過ぎる。 もう一つは、よそ様の問答有用版にふるという失態を晒しております。既に催促しておりますが、この御仁は、事前に問答有用掲示版管理人に了解取り付けているのか、予告しているのかにつきはっきりさせる必要があります。ピッポ君、この肝腎なところにつき君の口から語りたまえ。れんだいこには、この方が悪質に思える。 この御仁は、そのどちらにもダンマリし続けるのでせう。これも既に指摘しましたが、自分のサイトの面を自分で汚し、恥を上塗りし続けております。百人斬り事件被疑者処刑是論を唱える手合いの知の貧相さをここに認めることができます。 このピッポ君は、自分のサイトに次のような新たな書き込みしている。それによると概要、多くの人に読んでいただき、どんどん活用して欲しいから公開したが、れんだいこのような無断転載まで許していない。判決文をWEBで公開するにはそれなりの努力や苦労を要しており、「そうしたものを、そのまま自分の仕事であるがように流用して憚らぬ、彼の "思想" には我慢がなりません。(それも活用の一種? でも根性が枉っている。)」だと。 ピッポなる御仁のような手合いとは普通の会話は通じそうにないがいっておく。広めようとして公開したのならそれを転載されたら本望というべきではないか。それを、お前は、れんだいこがあたかも自分の仕事であるかのように転載しているから我慢ならぬとすりかえている。 こうなると、れんだいこが、自分の労作のようにサイトアップしているのかどうかの詮議をすればよい。該当箇所はここである。 daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_hyakuningiri_ hanketuco.htm これは永久保存しておくことにした。 これを見て、れんだいこが、れんだいこの労作のようにサイトアップしていると思うものは、よほど頭がイカレテイル。お望み通りに世に広めているだけのものであろう。それをどうしても盗作だの盗用呼ばわりしたいこの御仁に漬ける薬は持ち合わせていないので、お好きに騒げと云っておく。 もう十分君の面は汚れた。この先、ピッポなるハンドルネームをいつまで使うのか分からないが、この事件でかなり評判者になったことは確かである。今後はかなり根性を要すると思われる。これにつき、れんだいこに責任はない。自作自演で転んだものを援ける綱は持ち合わせていない。お調子者のお友達が居られるようなので、そういうところで憩えばよかろう。 今頃になって次のように述べている。"窃盗" という言葉がいやなら "剽窃" でも何でもいいですよ。私は法律を楯にして著作権がどうのこうのといっているのではありません。常識や公序良俗のレベルでものをいっているのです。 あのさぁ、広めようとしているものを広がりにくくさせようとするお前のロジックはヘンチクリンだぞ。当の本人が気づこうとしないのだから始末が悪い。それに、「私は法律を楯にして著作権がどうのこうのといっているのではありません」とは、無茶な話だと云うことさえ分からないのか。 こういう場合に頼るべきは法であり、その法でさえ人にはまずは優しく、どうしても許せないことには断じて怒るのを通常の作法とすべしで、逆に取るに足らない事を鬼の首でも取ったかのようにわめき散らし、天下に触れまわす手前の根性にこそ「その心根、さもしさは一体何なのでしょう」と問いかけるべきであろう。まさに恐れ入りやの鬼子母神な倒錯ではないのか。 れんだいこを何としてでも非難したい気持ちがあることは分かる。それは良く伝わる。しかしな、ひとを責めるのならもうちっと甲斐のある根拠で為さねば。弁士はここで、「お粗末」とセンスを叩くところだ。 2005.12.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その128 | れんだいこ | 2005/12/03 |
【引用、転載にサイト元の承諾が本当に居るのか考】 れんだいこには、「引用、転載に関するれんだいこの被抗議事例」が際立って多い。これは、れんだいこが無断無承諾で、あちこちからお気に入りのサイトから文章を引用、転載する手法に起因している。これは、ブックとは又違うインターネットのメリットを追求する立場からは当然出てくる使い方である。お陰で、過去のブックやら口コミやから学ぶ手法に比して格段のスピードで知識を得ることができている。れんだいこは、これにより多いに恩恵を受けており、インターネットという文明の利器に感謝している。 問題は、れんだいこのこの手法が、「引用、転載のルールとマナー」に反しているのかどうかである。れんだいこは、無断無承諾でも、引用元を明記し、リンク掛けを怠らずの引用、転載の場合には可と心得、「引用、転載のルールとマナー」を遵守していると考えている。しかし、サヨ連中が、その反対の立場から規制を仕掛け、それに正義の美名を被せて批判してくる。曰く、「無断、無承諾な引用、転載はご法度である」と。 その理由は、人が手間隙掛けたものをそうは容易くは利用されたくない。然るべき挨拶があって当然であるというもののようである。しかしながら、れんだいこは考えている。実際にやれば分かるが、もし事前挨拶要す論にすると、サイトの充実に応じて引用、転載もかなりの頻度になり、その都度挨拶、了解を取り付けていくとなると、不便さの方が際立つことになる。場合によっては、挨拶、了解取り付けを送ったこちらの真意が詮索されたり、好悪で判断されたり、加えてメールを貰った方の負担も顧慮せねばならない。 こうなるとむしろ、「すれば良し、せんでも可論」にした方が良いのではなかろうか。この方がよほど実践的である。あれこれ考えると、検索エンジンのグーグル(Google)のように、これと思うものを任意で拾えるようにすればよいのではないかと思うようになった。それはリンクだけのことであるが、文面を紹介しても同じことと思うようになった。一々挨拶、事前了解要す論にすることの方がナンセンスではないのかと思うようになった。 手間隙論もウソクサイ。引用、転載を互いがやり合えば、その手間隙を互いが享受することができるのではないのか。それこそ真に手間隙を生かす道ではないのか。手間隙をもったいぶる方がおかしいのではないのか。云うか云わぬかの違いで、みんなそれなりに手間隙かけており、それを楽しみでやっている。無報酬ではあるが、それでも成り立っている世界なのではなかろうか。 それと、議論バトルのように、あるいは批判的コメントの場合など、相手側の承諾が貰いにくい場合がある。故に、引用、転載できないというのは変調である。議論とか認識の向上の為には、相手側の駁論をもよく理解する必要があり、併用掲載することによって第三者に分からすことができるのであり、誰しも論の比較と推移ができるメリットがあり、そういう意味に於いても「特段の事情無き限り引用、転載可論」でなければオカシイ。 もとへ。れんだいこは、「著作権問題に関わるれんだいこに対する叱責考、経緯概括」サイトを設け、過去に批判されたやり取りのそのそれぞれを記録している。れんだいこに抗議してきたその多くが、出典元明記の作法を守っても、無断無承諾であること故に「引用、転載のルールとマナー」違反であり、心外であるとの立場から非難してきている。 つい最近2005.11月末日、「ヒッポ事件」が起こっている(これについては、、「ピッポ事件考」として採りあげていくことにした)。これは、ヒッポなるものが、そのサイトで百人斬り事件関連裁判の判決文をサイトアップしていたのに対し、れんだいこが有益資料として認め、これをノーコメントで全文転載していたことに対して盗用呼ばわりして抗議してきた事件である。 れんだいこがどういう風に転載していたのかは、「判決考旧版」に永久保存した。 daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_hyakuningiri_ hanketuco.htm これも本来は批判される云われなき話であろう。恐らくは検索で、れんだいこの転載を知ったのであろう。己が広めようとしていたものが転載されたのだからして、怒るのではなく誉れに思うのが普通の感性であろう。れんだいこの場合はいつもそうである。有り難いことに、検索によれば、れんだいこ関連の記事がかなりアップされてくる。これは悦びであり怒ることではない。 ところが、世の中には気難しい者が居る。ビッポなる者は、よせば良いのに泥棒呼ばわりし、れんだいこの謝罪を集団的に要求しようとでも策したのか、ご丁寧にも問答有用なる掲示板に話題を持ち込むというはしゃぎぶりを見せている。れんだいこは、あまりなその痴愚ぶりに相手せずの構えをとっている。 まさか判決文に対して盗用問題が起こるとは夢にも考えていなかったが、サイトアップに要した手間隙と独自の構成ぶりが著作権になり、それを勝手に転載したれんだいこは泥棒である、という論法で抗議してきた。その後、実はそれなりに手を加えており、判決文だけではないのだ、私論も書き加えた著作物なのだ云々し始めている。 この間、お調子者のとほほなる者が、れんだいこの意訳によれば概要「著作権には創造性など関係ない。本人が手掛けた文章でないものであっても、例え判決文でも、我が物として著作権化できる。それを勝手に転載したれんだいこは著作権違反である」などと提灯している。この御仁の立論は、その昔やり取りした時もそうだが概ね狂っている。そういう遣り取りしている問答有用掲示版管理人のおクマが止せばよいのに登場し、著作権違反でなくても「引用、転載のルールとマナー違反であることは間違いない」などと援護している。 これらのバカに漬ける薬は見当たらないので、本人が悔い改める以外にはない。 それはともかく、「ヒッポ事件」は、れんだいこが欲していた格好の教材となった点で価値がある。それは、ヒッポなる者が、れんだいこの左往来人生学院掲示板に闖入し、ひとしきり抗議した後、続きは問答有用板掲示板でやろうと誘導し、問答有用板掲示板に同様の抗議文を投稿した結果、「れんだいこの盗用呼ばわり」を廻る論議が始まることになったことに発する。 これにより、この事件に於いて誹謗された当事者であるれんだいこは、その問答有用板の遣り取りを記録しておく必要を生むことになった。れんだいこと問答有用板管理人おクマとは、過去に「無断転載お断り」を廻るやり取りがあり、論を廻ってではなく遣り取りが面倒くさいので削除した経緯がある。その他、短期ではあったがれんだいこが問答有用板に登場していた時のやり取りもあり、以来れんだいこはこの版との関わりを遮断している。そういう訳で、余程でない限り、「ヒッポ事件」を廻るやり取りで問答有用板に登場しようとは思わない。 さて、この局面で、れんだいこが、問答有用板の遣り取りを引用、転載できないとしたら、泥棒、盗用呼ばわりされ続けているれんだいこはやられ損である。俗にこれを名誉毀損と云う。こういう場合、れんだいこは、自己防衛的にも、相手が何を主張しているのかを確認して証拠にしておく必要があり、無断、無承諾での引用、転載ができると考える。誹謗の記録を残しておかねばならないと考えている。相手が嫌がっても、れんだいこには、それらを晒す権利があると考える。 これが、「引用、転載問題の新視角」である。今や、我々は、この問題に言及せねばならない。このケースのような場合に於いては「無断無承諾な引用、転載」が認められるなら、いっそのこと「無断無承諾な引用、転載可論」にした方が良いのではないのか。その為のルールとマナー論に目を向けていった方が良いのではなかろうか。 それをさせじとする「無断、無承諾での引用、転載厳禁論」があるとすれば、云い得、やり勝ちな余りにも権力側に好都合なものでしかない。そのことを云いたかった。「引用、転載問題に纏わる承諾要す論」が果たす役割は、こういうところの考察をせねば見えてこない。 承諾論に固執するサヨ連中が究極、権力側の理論にハーモニーしつつそこにあぐらして鼓吹していることがお分かりいただけるだろうか。そういえば、最近の個人情報規制法案も構図が同じである。個人情報を保護するという建前で、権力犯罪隠蔽に資せようとしている。 してみれば、サヨとは、口先のポーズとは別に、搦め手から権力を援護する役割を担っている連中であることが透けて見えてくる。よって、サヨの愚論に妥協することなく、その美名を剥ぎ蠢動を蟄居せしめよ、ということになる。思えば、この種の闘いは昔から続いているような気がする。 2005.12.3日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)