「ピッポ事件」考その2 |
(最新見直し2015.7.1日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ピッポ事件」に関係するピッポの投稿文及び問答有用掲示板で為された遣り取りを後日の証とするためここに取り込んでおくことにする。れんだいこ弁明も挿入した。必要な箇所に付き、れんだいこのコメントを付けた。 問答有用掲示板主宰者おクマの趣意に拠れば、同掲示板に投稿された文章は管理人に著作権が発生するとのことである。そうすると、れんだいこが同掲示板の投稿分を掲載することは、管理人の著作権を侵害するそうな。余りにも馬鹿馬鹿しい話であるが、無用のトラブルを控える為に本サイトのアップを慎んできたが、れんだいこをネット検索すると、ピッポの言い分がかなり上位に出てくるので目ざわりを覚えるようになった。 いつまでも抗弁せぬのが良いとは思えなくなったので、防戦上れんだいこ見解を世上に伝えておくことにする。問答有用掲示板主宰者おクマが無断転載云々と指弾してくるなら、受けて立とう。そして、サヨ族の反左派的生態を俎上に乗せて存分に解析してやろう。しかし、逆恨みだけはご免だな。それを思うから、一応ここまで書いておき、もう少し様子見しよう。 2005.12.7日、2007.1.5日再編集 れんだいこ拝 |
2015.7.1日、ネット検索で入手した「ピッポ事件考その2」のサイト化をしておく。 |
37894 | Re:ひとことの断りもなくって… | you | 2005/12/04 09:57 |
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youさん こんばんわ > > > 字の色変えたり フォントを変えたり 字を斜体にしたり 字を枠で囲んだりすれば私も人の小説をコピーして著作権を持てるんですね。 こりゃ、良いこと聞きましたね。 > 人違いです。私は逆のことを言っています。 なんだ。わかっているんじゃないですか。所詮、ピッポさんのしたことは、イラストを薄紙に写し取っただけの作業でありそれを、れんだいこさんが写し取ったからといって「あいさつもなく!」などと非難する資格は何もない。 ようするに、デパ地下の試食コーナーのウィンナーを「いただきますよ。」と言わずに食べた客に文句を言っているアルバイトの馬鹿女みたいなものだ。みっともないだけですな。 |
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you 氏が、試食理論で、ピッポ派の泥棒呼ばわりを揶揄している。 |
37895 | あらためてピッポ氏に感謝する | クマ | 2005/12/04 11:20 |
クマです。 いわゆる南京事件・百人斬り訴訟において、本多勝一氏ら被告側を勝利させた地裁判決にいたる過程を、岩波『世界』11月号に書いた。このルポを書く過程においては、inti-solさんや高橋亨さんがテキストとして打ち込み、公開していた各種史料や判決文を利用させてもらったので、そのことを末尾の注のなかで次のように記した。 「なお、これらの関連資料のほとんどすべては有志によって打ち込まれ、ネット上で閲覧可能になっている。本稿でも利用させていただいた。下記に記してその努力に敬意を表する」(以下、高橋亨さんとinti-solさんの名前とサイト名) この原稿を書いた段階ではピッポ氏のサイトが完成していなかった(あるいは私が知らなかった)のだが、知っていれば無論のこと記して、その「植字工の汗」に対して「敬意を表した」だろう。使ってみればわかるが、非常に使いやすい仕様である。これまで多くの判決文をネットで見てきたし、たとえば戦後責任関係のサイトでは私自身も判決文を転記してきたりもした。しかし、判決文についてこのように便利な仕様で公開されているのはピッポ氏のサイト以外に知らない。 改めてピッポ氏の努力に感謝するしだいです。 |
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管理人クマが、ピッポの手間隙著作権論を支援する立場からヨイショしている。微妙にルールとマナー問題へと移行させようとしている魂胆が透けて見えてくる。 |
37896 | Re:れんだいこ氏のマナー違反 | クマ | 2005/12/04 12:01 | |||
つづいてクマです。短くレスです。 > 要するに、「窃盗か否か」ということを抜きにして、この問題を論ずることはできないし、その意味もないということです。 同じことの繰り返しですが、著作権の観点から「窃盗か否か」を論点にして議論しているのはtpknさんであって、私が問題視しているのは、ピッポ氏の言う「植字工の汗」に対する敬意の払い方です。論点が違うのですから、別の題名でスレを立てているのですが、それにレスをつけて“窃盗ではないのだ!”と、私が論及していないことを持ち出してきているのはtpknさんです。私は「窃盗罪に問われるようなものではないかもしれないけれども、マナー違反だよ」と言っているわけです。 ピッポさんも著作権法の問題を指摘しているわけではなく、もっぱら礼儀やマナーの問題を指摘しています。とほほさんは著作権について見解をお持ちのようですが、私は「ピッポ氏の努力に対して、それを利用する側が敬意を払う必要はないのか」と言っているので、以下、その前提にたってお返事です。 > > > 結局言ってることは「無断リンク禁止」とかいう話と大差ない。 > > まったく別の問題でしょう。リンクはそれ自体では内容を含みませんが、れんだいこ氏の場合はまるごと内容を含んでおり、読者は一見してそれがれんだいこ氏による作業の成果なのか他者によるものなのかが理解できないようになっている。末尾のJANJAN記事の転載は(それが無断であれば、著作権のない判決文の転載と違って法律的にもどうなのかという話になるでしょうが)まだしも転載であることが示され、原著者名が明記されているのでそのような誤解は生まれようがありませんが、ピッポさんの判決文の転記にあたっては、そのようなクレジットは一つとしてない。これは労働の成果に対する敬意の払い方、マナーの問題であって、無断リンクを禁止するという話とは全然別種の問題です。 > 「無断リンクを禁止する」という話の根拠はすべて「マナーの問題」ですから、両者はまったく同じです。 これは論理的におかしな議論で、マナーの問題を問えばすべて「無断リンクを禁止する」のと「まったく同じ」というのでは全然話になりません。これでは「マナーを問うな」と言っているのと同然で、マナーを問うにしても一般に承認されることが期待できるものとそうでないものがあることを無視した議論です。他者の労働の産物を、自分の作業であるかのように誤認されるような方法で公開することは、もっとも基本的な部分でマナーに反しています。無断リンクとは全然違います。 > > また、あのような作業に対して敬意が払われず、他者がその成果を簒奪しても正当化されるようなことになれば、作業の動機付けや意欲がそがれかねず、結果として「公共の福祉」に反することになるでしょう。 > うむ、これはたとえばビル・ゲイツなどの思想とまったく同じですが、世の中のオープンソースの動きは、実際はそれとは反対の結果となることを証明しております。 ある意味でコミュニズム的なオープンソースには大きな意味があるでしょうし共鳴しますが、このような使われ方、つまり無償で知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理として使われる場合には大反対ですね。 |
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クマが、マナー問題であるとの認識を明確にさせ、その上で手間隙著作権論が成り立つことを饒舌している。 |
37897 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | ピッポ | 2005/12/04 12:01 |
クマさん 仰るほどのものではないと思います。皆さんの書き込みにありますように、ボロクソであります。でも、ボロクソに貶しながら便利だからといって剽窃する御仁がいるのですから、世の中は不思議なものです。 岩波『世界』11月号の貴稿ルポ、あたためて読み直すことにいたします。 |
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ピッポが、クマの支援に謝し、同盟関係を露骨にさせながらヨイショし合っている。 |
37899 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | URL | tpkn | 2005/12/04 12:20 |
>
この原稿を書いた段階ではピッポ氏のサイトが完成していなかった(あるいは私が知らなかった)のだが、知っていれば無論のこと記して、その「植字工の汗」に対して「敬意を表した」だろう。使ってみればわかるが、非常に使いやすい仕様である。これまで多くの判決文をネットで見てきたし、たとえば戦後責任関係のサイトでは私自身も判決文を転記してきたりもした。しかし、判決文についてこのように便利な仕様で公開されているのはピッポ氏のサイト以外に知らない。 まったくおっしゃる通りでしょう。 しかし、自分に敬意を払わなかった、謝辞を示さなかったなどという理由で他者を泥棒呼ばわりし、断罪するような傲岸不遜は改めるべきです。ましてや政治的に彼に同調する者が、なんの論理的考察もなく感情的にそれを擁護してある人間を同じく感情的に泥棒呼ばわりするなんてのは、相互批判の欠如した思想集団が個人に暴力を加える格好の例というべきでしょう。 そういう意味で、あなた方の考え方は非常に恐ろしく、また危険である。少しは反省すべきですね。 以下クマ氏への返答。 > これは論理的におかしな議論で、マナーの問題を問えばすべて「無断リンクを禁止する」のと「まったく同じ」というのでは全然話になりません。これでは「マナーを問うな」と言っているのと同然で、マナーを問うにしても一般に承認されることが期待できるものとそうでないものがあることを無視した議論です。他者の労働の産物を、自分の作業であるかのように誤認されるような方法で公開することは、もっとも基本的な部分でマナーに反しています。無断リンクとは全然違います。 マナーの問題と権利の問題は違います。マナーを問う際に、あたかもそれが正当な権利であるかのように誤解しているから、「どろぼう」などという断罪口調になるわけです。一言でいえば、「他人に(あなたの満足いくような)敬意を払われる権利」などない。敬意を払うべきか否かでいえば、いろんな敬意の払い方があるわけです。元のソースをそのまま使うこと、ピッポ氏の言葉で言えば「便利だからといって剽窃」も、敬意の払い方のひとつです。それが不快だったというのであれば、それはれんだいこ氏とピッポ氏の個人間の問題です(虹皿さんが指摘している通り)。 > ある意味でコミュニズム的なオープンソースには大きな意味があるでしょうし共鳴しますが、このような使われ方、つまり無償で知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理として使われる場合には大反対ですね。 ソースに対して過剰な権利意識を持つことはやめようというのが、オープンソースの理念です。ピッポ氏のように、公的なソースに手を加えて、その結果できたものを独占しようとする輩がたくさんいて、それが情報の自由な交換を阻害する要素になるので、コピーレフト・ライセンスのような形態が考え出されたわけですね。 情報の利用の仕方を一方的に手前勝手に制限し(勝手に想定された「マナー」を守らなければ泥棒呼ばわりされる覚悟をしなければ使えない)、それに従わない者を「マナーが悪い」といって大合唱で非難し、「知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理」などというのは本末転倒もはなはだしい。 ぜひ根本的なところから考え直していただきたいですね。 |
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tpkn氏が、クマの詭弁と饒舌をなじっている。 |
37901 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | おっちゃん | 2005/12/04 12:27 |
>仰るほどのものではないと思います。 >皆さんの書き込みにありますように、ボロクソであります。でも、ボロクソに貶しながら便利だからといって剽窃する御仁がいるのですから、世の中は不思議なものです。 ピッポさんが判決文をサイトを公開なさっていること(その事実やサイトの内容)をボロクソに貶した人はひとりもおられませんよ。 微妙に話がズレているように思います。はい。 |
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おっちゃんが、 ピッポの論点ズレを指摘している。 |
37902 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | 虹皿 | 2005/12/04 12:28 |
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いわゆる南京事件・百人斬り訴訟において、本多勝一氏ら被告側を勝利させた地裁判決にいたる過程を、岩波『世界』11月号に書いた。このルポを書く過程においては、inti-solさんや高橋亨さんがテキストとして打ち込み、公開していた各種史料や判決文を利用させてもらったので、そのことを末尾の注のなかで次のように記した。 光学式文字読取装置(OCR)を使えば電子テキストにするのは難しくないし、素人でもWISYWIGなウェブオーサリングソフトを使えば、ウェブ上に公開するのは大した手間ではありません。しかしまぁ、少しでも手間暇かけた人への敬意は払われるべきでしょうね。ピッポさんがが問題にされている件は、ソースを比較するとれんだいこさんが意図的にやっているのが見え見えで、抗議したくなる気持もわからなくはないです(あんなふうにソースをいじるんなら、最初からマークアップしたほうが早いだろうに)。盗んだとまで言うのはいいすぎでしょう。 一部の判決文については裁判所のウェブサイトで公開されているようですが、全ての事件について(少くとも当事者には)判決文やその他の資料を電子テキストで提供するようにすべきでしょう。 |
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虹皿氏が、中間的な立場から、ピッポの手間隙著作権論の過度の行使の形勢悪しを諭している。他方で、「ソースを比較するとれんだいこさんが意図的にやっているのが見え見えで、抗議したくなる気持もわからなくはないです」と追従している。 |
37903 | Re:れんだいこ とやら君、盗んだものは返しておくれ! | タラリ | 2005/12/04 13:08 |
ピッポさんの抗議はまったくもっともなことですが・・・ れんだいこさんのとこへはどういう抗議のmail送ったのですか? 彼の返事はどうだったのですか? 彼の掲示板へは書き込みましたか?彼の返事は? (彼自身の掲示板と称するもの、私は見つけられなかったが) 彼は転載は勝手である、転載されるのを名誉と心得るべし、とうそぶいている確信犯です、この掲示板で抗議を公表する意味は? 彼はこの問答有用板には出入りしなくなった、とHPに書いていますし、少なくとも彼の返事(ある、なしを問わず)をダシにしないことには。第三者ばかりが盛り上がってもしようがないでしょう。 それにしても、れんだいこのマナー違反は今年の問答有用板のテーマ・ランキング1位になってしまいそう。アホクサ。 |
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タラリが登場し、ピッポークマ同盟員の立場から、「第三者ばかりが盛り上がってもしようがないでしょう」と幕引き水差ししている。 |
37904 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | クマ | 2005/12/04 13:58 |
クマです。久しぶりの三投稿完遂。 >ピッポさん おそらく皆さん(れんだいこ氏をのぞいて)、ピッポさんの作業そのものには敬意を払っていると思いますよ。人によっては「誰でも書ける程度のもの」だとか言う向きもあるかもしれませんが、そういう人にはぜひとも実践してもらうこととして、少なくとも私には全然書けないんで(笑)、その能力に敬意を払い、その努力に感謝するしだいです。そういえば、原告側の右翼のヒトビトもピッポさんのサイトは無条件に紹介していましたね。 >tpknさん > しかし、自分に敬意を払わなかった、謝辞を示さなかったなどという理由で他者を泥棒呼ばわりし、断罪するような傲岸不遜は改めるべきです。 謝辞を示さなかったから「泥棒呼ばわり」ではなく、これまた繰り返しになりますが、れんだいこ氏がピッポさんの作業を、あたかも自分の作業であるかのように誤認させかねない仕様とした傲岸不遜にこそ問題があります。 > ましてや政治的に彼に同調する者が、なんの論理的考察もなく感情的にそれを擁護してある人間を同じく感情的に泥棒呼ばわりするなんてのは、相互批判の欠如した思想集団が個人に暴力を加える格好の例というべきでしょう。 そうした点がtpknさんにとって一貫した問題関心となっている点は理解しますし、それは基本的な線では共鳴し自戒しなきゃいかんと思っておりますが、今回はぜんぜんそんな問題ではない。むしろtpknさんに、自分の反発する議論をそのように見なす傾向があることのほうが心配ですね。 > そういう意味で、あなた方の考え方は非常に恐ろしく、また危険である。少しは反省すべきですね。 これまた傲岸不遜ですね。第一に、「あなた方」とtpknさんは言うが、私はれんだいこ氏を「感情的に泥棒呼ばわり」などしていない。してもいいが、今はしていない。第二に「政治的に同調」というが、私はピッポさんの政治的傾向については全然無知である。第三に「個人に暴力」など全然加えていない。マナー違反を問うことのどこが暴力なのか。こういう誹謗のほうがよほど「恐ろしく、また危険である。少しは反省すべきですね」。 > > これは論理的におかしな議論で、マナーの問題を問えばすべて「無断リンクを禁止する」のと「まったく同じ」というのでは全然話になりません。これでは「マナーを問うな」と言っているのと同然で、マナーを問うにしても一般に承認されることが期待できるものとそうでないものがあることを無視した議論です。 > マナーの問題と権利の問題は違います。マナーを問う際に、あたかもそれが正当な権利であるかのように誤解しているから、「どろぼう」などという断罪口調になるわけです。 論点を変えないで下さい。私は権利についてはまだ一言も言っていない。ここでは、同じマナーの問題であっても、れんだいこ氏のマナー違反を問うことと、無断リンクを禁ずるような行為とはまったく性質が違うと私は言っているのです。 > 一言でいえば、「他人に(あなたの満足いくような)敬意を払われる権利」などない。 いま誰かそんな話をしているのですか? > > ある意味でコミュニズム的なオープンソースには大きな意味があるでしょうし共鳴しますが、このような使われ方、つまり無償で知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理として使われる場合には大反対ですね。 > 情報の利用の仕方を一方的に手前勝手に制限し(勝手に想定された「マナー」を守らなければ泥棒呼ばわりされる覚悟をしなければ使えない)、それに従わない者を「マナーが悪い」といって大合唱で非難し、「知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理」などというのは本末転倒もはなはだしい。 誰もピッポさんの作業の成果を利用したこと自体を非難しているのではない。れんだいこ氏の使い方があまりにひどいから問題になっているのです。他者の労働の成果を利用する時には最低限の敬意を払え、少なくとも自分の作業であるか他者の作業であるかが区別できるようにしろということが、「勝手に想定された」「手前勝手」な制限だと考えるほうがどうかしています。というか、あなたはそういう原則を無視して活字と向かい合っているのか。tpknさんの言う「オープンソース」とは提供する側の自発性によるものではなくて、利用する側が「手前勝手」に行なうものなのか。 > ぜひ根本的なところから考え直していただきたいですね。 もちろん私も考えますが、現時点ではtpknさんこそ根本的に考えるべきでしょう。 |
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クマが、tpknさ氏の批判に対して反論している。しかし、この御仁は何事も事を小難しくせんと気がすまない性質であることをますます饒舌し始めている。 |
37908 | Re:あらためてピッポ氏に感謝する | inti-sol | 2005/12/04 17:59 |
inti-solです 小さくなって訂正しなければなりません。 > いわゆる南京事件・百人斬り訴訟において、本多勝一氏ら被告側を勝利させた地裁判決にいたる過程を、岩波『世界』11月号に書いた。このルポを書く過程においては、inti-solさんや高橋亨さんがテキストとして打ち込み、公開していた各種史料や判決文を利用させてもらったので、そのことを末尾の注のなかで次のように記した。 > > 「なお、これらの関連資料のほとんどすべては有志によって打ち込まれ、ネット上で閲覧可能になっている。本稿でも利用させていただいた。下記に記してその努力に敬意を表する」(以下、高橋亨さんとinti-solさんの名前とサイト名) 判決文は、弁護団がOCRによってテキスト化されたのです。私がやったことは、送っていただいたテキストの校正と改行の修正、html化だけです。ですから、一番感謝しなければいけないのは、まず弁護団であり、また私のサイトより数段わかりやすいかたちで判決文を再構成したぴっぽさんなのです。(もちろん、それ以外に私が最初から全部テキスト化した資料もありますが、量的には判決文には及びません) ぴっぽさんの払われた労力には、本当に頭の下がります。それなのに、まだぴっぽさんのサイトにリンクを貼っていませんでした^^;;;;;、次回更新時に貼ります。 |
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inti-sol 氏が、ぴっぽにヨイショしながら重要な事を告げている。それによると、件の判決文サイトアップは、1・まず弁護団がOCRによってテキスト化したものである。2・inti-sol 氏がそれをテキストの校正と改行の修正、html化した。3・ぴっぽが再構成編集した、とのことである。「ぴっぽさんの払われた労力には、本当に頭の下がります」は皮肉にも取れる。 |
この投稿の間には、重要な投稿があったはず。れんだいこはたまたま転載し損なった。れんだいこの記憶に拠ると、ピッポの最初の同一文投稿が、れんだいこ版より早く、問答無用版へ投稿されていたとの事である。これは何を意味しているのだろうか。
37915 | ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | gaou | 2005/12/04 23:26 |
Gaou@オープンソースソフトウェア開発者 誤解があると思うんで指摘しておきます。 > > うむ、これはたとえばビル・ゲイツなどの思想とまったく同じですが、世の中のオープンソースの動きは、実際はそれとは反対の結果となることを証明しております。 > > ある意味でコミュニズム的なオープンソースには大きな意味があるでしょうし共鳴しますが、このような使われ方、つまり無償で知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理として使われる場合には大反対ですね。 > いやいや、ここでGNU FDLをだすtpknさんがそもそも間違いです。GNU FDLはもちろんあらゆる形式のドキュメントに使用可能ですが、ほとんどの場合これはソフトウェア関連のドキュメントに適用されています。これはGNU GPLがソフトウェア向けのライセンスであり、それと共に配布するソフトウェアドキュメントに関する規定がなかったためにそれを補うべくFDLが定義された、という歴史的経緯によります。 最近は知的コンテンツに関するオープンな使用を促すライセンスとしては、クリエイティブコモンズが一般的です。(http://www.creativecommons.jp/) クリエイティブコモンズでは、自由な利用であったり、コピーレフト制限をつけたり、非営利限定の制限をつけたりすることでいろいろな組み合わせが可能ですが、原則全てにおいて、「帰属」、、すなわち利用者は知的コンテンツ作成者を、作成者が指定する方法で紹介する義務があることを明記しています。 というわけでピッポさん、クリエイティブコモンズライセンスで配布することにしませんか?例えば、帰属・非営利・同一条件承諾(Attribution-NonCommercial-ShareAlike)なんかがいいと思います。(http://www.creativecommons.jp/apply/index.html) マナーといういわゆる「常識」や「普遍」と似通った用語で、著作権などの知識も乏しい人たちと水掛け論をやるよりはよほど楽だと思います。 |
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gaouが登場し、無味無臭の薀蓄をひけらかそうとしている。 |
37916 | Re:ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | とほほ | 2005/12/04 23:53 |
GNU宣言(GNU Manifesto 1993年改訂)- 日本語版 -
(1998年11月4日) Copyright (C) 1985, 1993 Free Software Foundation, Inc. いかなる媒体でも次の条件が全て満たされている場合に限り、本ドキュメントをそのまま複写し配布することを許可する。配布者は第三者に対して本著作権表示と本許可告知と同一の許可を与える場合に限り、再配布を許可する。 ●受領、配布された写しに著作権表示および許諾告知が前もって載せられていること。 ●第三者(写しの受領者)がさらに再配布する場合は、配布者が本告知と同じ許可を第三者に与えていること。 修正版の作成を禁ずる。 -------------------------------------------------- 【本日本語版について】 Copyright (C) 1998 Mieko Hikichi and Nobuyuki Hikichi 上記と全く同じ条件が満たされている場合に限り、そのまま 複写し配布することを許可する。 -------------------------------------------------- GNU宣言 ******* GNU宣言 (GNU Manifesto)(以下参照)は、GNUプロジェクトの初期の頃に、Richard Stallmanが参加とサポートを求めるために書いたものである。当初2~3年間は、開発について説明するために参考として用いつつ更新していたが、現在では、人々がよく目にするので変更しないでおくことが最善であると考えている。 その時以来、我々は、いくつかの表現をわかりやすくしたつもりだがよく誤解を招く点があることがわかった。そこで、そのような点を明確にするべく、1993年に脚注として追記した。 現在配布可能なGNUソフトウェアに関する最新情報は、GNU'sBulletin ([訳注] 日本語版であれば「GNUダイジェスト」)の最新号をご覧いただきたい。ここに引用するには情報量が多すぎるので。 GNUとは何か? GnuはUnixではない(Gnu's Not Unix)! ================================================ GNUとはGnu's Not Unixの略であり、誰もがフリーに使えるよう(1)、私が今 作成しているUnixと完全互換のソフトウェア・システムの名称である。何人ものプログラマが私を手伝ってくれている。時間やお金、プログラム、機器の寄付を大いに必要としている。 既に我々のもとには、エディタ・コマンド記述用のLispを備えているEmacsというテキスト・エディタや、ソース・レベル・デバッガ、yacc互換の構文解析部生成ツール、リンカ、その他約35個のユーティリティがある。シェル(コマンド・インタープリタ)はほぼ完成している。移植性の良い新しい最適化Cコンパイラは自分自身をコンパイルできるようになり、今年中にはリリースできるだろう。初期段階のカーネルはあるが、Unixをエミュレートするためにはもっと多くの機能が必要である。カーネルとコンパイラが完成すれば、プログラム開発にふさわしいGNUシステムを配布できるだろう。テキスト処理にはTeXを採用するつもりだが、nroff関連の作業も進行中である。また、フリーで移植性の良いX Window Systemも採用する。そのあとは、移植性の良いCommon Lispや、Empireゲーム、スプレッドシート、その他数多くのものを、オンライン・ドキュメントと共に追加していく。最終的には、Unixシステムに標準で付いている有用なツール全てに加えて、さらにはそれ以上のものを提供したいと考えている。 GNUは、Unixのプログラムを実行できるようにするつもりだが、Unixとは同一のものにはならない。他のオペレーティング・システムでの我々の経験を基に、より使いやすくなるよう、全面的に改良していくからである。特に、長いファイル名の使用やファイルのバージョン番号、耐クラッシュ性に優れたファイル・システム、ファイル名の補完機能 ([訳注] ファイル名を途中まで指定しただけでそのあとはシステムが完全なファイル名を追加してくれる機能)、端末に依存しない表示のサポート、おそらく最終的には、いくつかのLispプログラムと通常のUnixプログラムが1つの画面を共有できるようなLispベースのウィンドウ・システムを作る予定である。システム・プログラミング言語としては、C言語とLispの両方が使用可能になるだろう。通信用には、UUCP、MITChaosnet、Internetの各プロトコルをサポートしようと考えている。 GNUでは、最初は68000/16000 ([訳注] モトローラ68000とナショナル・セミコンダクタの16000) クラスの仮想記憶を備えたマシンを対象とする。というのは、GNUを最も実行しやすいマシンだからである。もっと能力の小さなマシン上でGNUを動作させるための努力は、そのマシン上で使いたい人の手に委ねることにする。 とんでもない誤解を避けるために、このプロジェクトの名称としての「GNU」の場合は、「G」を発音していただきたい。([訳注] もともと普通名詞のGnuはヌーという動物であり、その発音を採用するとGNU projectはヌー・プロジェクトになりnew projectと間違われる可能性もある。) なぜGNUを作成しなければならないのか? ==================================== もし私の好きなプログラムを他の人も好きであれば、私はその人とプログラムを分かち合わなくてはならない、という黄金律 ([訳注] 自分の欲することは他の人にも為すという考え方)を考案した。ソフトウェア販売会社は、ユーザ1人1人に他人と共有しない契約をさせることによって、ユーザを分離し支配しようとしている。そのような方法で他のユーザとの連帯意識を壊すことは私は嫌である。機密保持契約やソフトウェア・ライセンス契約へのサインは良心からできない。何年もの間、私はそういった傾向やその他の冷遇に抵抗するために、AIラボ内で活動してきたが、最後にはその傾向や冷遇は度を越していった。 私に対してAIラボが行なった事は私の意志に反するので、そこに留まることができなくなった。 信念を曲げることなくコンピュータを使い続けるために、フリーでないソフトウェアがなくてもうまくやっていけるようなフリー・ソフトウェアのしっかりした団体を組織することを決意した。私がGNUを配布することをMITが合法的に阻止するのを拒否するために、私はAIラボを辞職した。 なぜGNUはUnix互換なのか? ======================== Unixは私の理想とするシステムではないが、それほど悪いシステムでもない。 Unixの基本的な機能は良いものなので、それらを生かしつつ、Unixに欠けているものを補っていけるだろうと考えている。また、Unix互換のシステムであれば、GNUを採用する他の多くの人々にとっても有用であろう。 GNUをどうやって配布するか? ======================== GNUはパブリック・ドメインには置かない。それにより、誰もがGNUを修正して再配布でき、配布者が再配布することを禁止されることもない。つまり、独占的な修正はできないのである。私は、あらゆるバージョンのGNU ([訳注] 誰でもソース・コードをアクセスできるという意味で)が確実にフリーであり続けて欲しいのである。 なぜ他の多くのプログラマが協力してくれるのか? ============================================= 私は、他の数多くのプログラマがGNUに熱狂し、そして協力したがっていることを知った。 多くのプログラマが、システム・ソフトウェアの営利化に不満を抱いている。 その営利化とは、プログラマに金儲けをさせる代わりに、他の一般のプログラマを仲間ではなく競争相手として見るよう仕向けるからである。プログラマ間の友情を示す基本的な行為は、プログラムの共有である。現在の典型的な市場の取り決めは、プログラマが他のプログラマを友人として接することを根本的に禁じてしまっている。ソフトウェアの購入者は、友情をとるか、法律に従うかを選択しなくてはならない。当然、友情のほうが大切であると考える人のほうが多いだろう。しかし、法律に従うべきであると考える人のなかには、このようなことが簡単に選択できない人が多い。そういう人は人の誠意を信じない人間になっており、プログラミングは単なる金儲けの一手段でしかないと考えているからである。 独占的なプログラムではなくGNUに関する作業を行ない、GNUを使っていれば、誰に対しても排斥的ではなくなり法を守ることもできる。さらに、GNUは共有という点において、激励するための一例となり、人々が我々に参加すべく結集するための旗印となる。これにより、もし我々がフリーでないソフトウェアを使っていては得られないある種の和の感情を抱くことができる。私が対話したプログラマのうちの約半数が、これはお金には換えられない大切な幸福であると言っている。 あなたはどのようにしたら貢献できるか? ===================================== 私は、コンピュータ・メーカにはマシンとお金の寄付を求めている。個人に対してはプログラムと労働の寄付を求めている。 マシンの寄付を受けた場合は、その見返りの1つとして、GNUが近いうちにそのマシン上で動作するようになるだろう。マシンは完成していてシステムが使える状態であり、住宅区域で使用可能で、特殊な冷却や電力を必要としないものでなくてはならない。 私は非常に多くのプログラマがGNUのためにパートタイムで作業する熱意があることを知った。ほとんどのプロジェクトでは、そういったパートタイムでの分散した作業をまとめていくことは非常に困難だろう。しかし、Unixを置き換えるというこの特定の作業に関しては、そのような問題はない。完全なUnixシステムには数百ものユーティリティ・プログラムがあり、その1つ1つには別個にドキュメントが付いている。たいていのインタフェース仕様は、Unixとの互換性の観点から決定されている。プログラマ各人が単一のUnixユーティリティと互換の代替品を作成できれば、そのようなユーティリティをひとまとめにしても正しく動作するはずである。マーフィの例で言えば、いくつか予期せぬ問題が生じたとしても、これらの構成要素をまとめることは可能な作業であろう。 (カーネル作業には、より緊密なコミュニケーションが必要なので、少人数で 密接なグループでの作業となる。) お金の寄付を受けた場合は、フルタイムかパートタイムで2~3人を雇えるだろう。給料はプログラマの標準収入ほど高くはないが、お金を稼ぐことと同じように共同体精神を築くことは重要だと考えている人を私は捜している。私は、この給料とは、プログラマが別の方法で生計を立てなくても、GNU作業に全力投球できるようにするための一手段としてとらえている。 なぜ全てのコンピュータ・ユーザが恩恵をうけるのか? ================================================= いったんGNUが作成されれば、誰もが良質のシステム・ソフトウェアを無料で入手できるようになる。(2) これは、Unixライセンスの価格を誰もが節約できることだけではなく多くのことを意味する。つまり、非常に無駄となるシステム・プログラミングの重複を避けることができる。代わりに、その労力は現在の技術水準の進歩に向けることができる。 完全なシステム・ソースは誰に対しても配布可能になる。そのため、システムに変更を施さなくてはならないユーザは、自分でいつでも自由にそれを行なったり、あるいは、自分の代わりにそれを行なってくれるプログラマや企業を雇うことができるようになる。ユーザはもはや、ソース・コードを所有するプログラマや企業のなすがままになることはなく、変更を施すことに関しては独立した存在でいられる。 大学側は、学生にシステム・コードを学習し、改良するよう奨めることにより、はるかに良い教育環境の提供が可能になる。ハーバード大学のコンピュータ研究所では、ソース・コードを公開して見れないようなプログラムは一切、システムにインストールしないという方針が習慣であり、特定のプログラムをインストールすることを実際に拒否することを支持した。このことに私は非常に勇気づけられた。 最後に、システム・ソフトウェアを誰が所有しているのかを、それを使ってやっていいことといけないことを考慮することのオーバーヘッドが解消されるだろう。 人々にプログラムの使用料を支払わせる契約 (複製のライセンスを含む) は常に、人がいくら (つまり、どのプログラムに) 支払わなくてはならないかを理解するのに欠くことのできない厄介な機構を通じて、社会は多大なコストを被っている。そして、警察国家でもなければ、そのような機構に全ての人を従わせることはできない。例えば、多大なコストをかけて空気を製造しなくてはならない宇宙ステーションのことを考えてみよう。空気1リットルごとの息継ぎに課金すれば公平かもしれないが、たとえ皆が空気料金を支払う余裕があったとしても、そのために一日中メータ付きの空気マスクを付けるとなれば耐え難いことである。まして、マスクを外したかどうかをTVカメラが至る所で見張っているなどというのは、全くとんでもないことである。それよりは、料金を頭割りにした税金で空気工場を維持して、マスクを外すほうがましである。 プログラムの一部または全てを複写することは、プログラマにとって呼吸するのと同じくらい自然なことであり生産的なものである。だから、プログラムはフリーであるべきである。 GNUの目標への異義と、簡単にできる反証 ===================================== 「プログラムがフリーであれば誰もそれを使わないだろう。なぜならば、無料ということは、サポートを当てにできないからである。」 「サポートを提供するために料金をプログラムに課す必要がある。」 人々が、サービスのない無料のGNUよりも、サービス付きの有料のGNUのほうに支払うというのであれば、GNUを無料で入手した人々に対して、サービスだけを提供する企業は利益を得て当然である。(3) 本当のプログラミング作業を行なうサポートと、単なる支援とは区別すべきである。前者は、ソフトウェア業者からのサポートを当てにできない種類のものである。もしあなたの問題が多くの人々の問題になっていなかった場合には、ソフトウェア業者は邪魔しないでほしいと言うだろう。 あなたのビジネスがサポートに頼らざるをえない場合は、必要なソース・コードとツールを全て自分で抱えるしかない。そうすれば、あなたの問題点を直してもらうための人を雇うことができる。人に翻弄されることはない。Unixを使う場合、ソース・コードが高価なので、ほとんどのビジネスではこのようなことはできない。GNUを使えば、これは簡単に実現する。有能な人材がいなかったとしても可能であり、しかも、問題点を修正できないのは配布規定のせいでは断じてない。GNUは、世界中の全ての問題ではなく、その一部のみを取り除いている。 一方、コンピュータについて何も知らないユーザには支援が必要である。自分で容易に処理できる範疇であっても、その方法を知らない場合に支援が必要なのである。 そのようなサービスは、単なる指導や修理サービスだけを行なっている企業が請け負うことができるだろう。ユーザがお金を支払ってもサービス付きの製品を購入するほうが良いと考えているのであれば、無料の製品に対するサービスにも喜んでお金を払うだろう。サービス会社は、品質と価格の面で競争することになり、ユーザは特定のサービス会社にこだわる必要がなくなる。一方、サービスを必要としない我々等などであれば、サービスへの対価を支払わなくても、プログラムを使うことができる。 「広告なしでは多くの人々に知らせることは無理であり、その費用だけでもプログラムに料金を課すべきである。」 「誰もが無料で入手できるようなプログラムを宣伝しても仕方がない。」 GNU等の情報を、多くのコンピュータ・ユーザに知らせられるような無料また はきわめて安価な広告媒体がいろいろとある。しかし、宣伝すれば、より多くのマイクロコンピュータ・ユーザに知らせられるというのも事実かもしれない。 本当にそうであれば、GNUを無料で複写したり配布するサービスを宣伝するビジネスは、その広告費用にかかった以上の成功をおさめるはずである。この方法は、宣伝によって利益を得るユーザだけが広告料を払うものである。 他方では、多くの人々が友人からGNUを入手するので、上記のような企業が成功しないというのであれば、その宣伝がGNUを広める上で、本当に必要なものではないということである。なぜ自由市場擁護者は、このことを自由市場に決めさせたくないのだろうか?(4) 「私の会社は、競争の頂点に立つために独占的なオペレーティング・システムが必要である。」 GNUにより、オペレーティング・システム・ソフトウェアは競争の世界から取り除かれることになるだろう。このオペレーティング・システム・ソフトウェアの分野では、あなたは競争の頂点に立つことはできないし、競争相手もそうなることはできない。この分野では、あなたとその競争相手は互いに利益を受け、競い合うのは他の分野でということになる。あなたのビジネスがオペレーティング・システムの販売であった場合には、GNUは好ましくなく、あなたにとって厳しい状況になるだろう。あるいは他の種類のビジネスならば、オペレーティング・システムの販売といった高価なビジネスにあなたが強要されないように、GNUがあなたを救うことができる。 私は、多くのメーカやユーザからの寄付に支えられてGNUが発展し、そのような人々の個々のコストが軽減されていくのをこの目で見たいと思う。(5) 「プログラマは自分の創造性に対して報酬を受けるに値しないのではないか?」 何事にも報酬があるとしたら、それは社会的貢献である。創造性は社会的貢献となりうるが、それは社会がその成果を自由に使用できる場合に限られる。もしプログラマが、革新的なプログラムを作成したことで報酬を得るとしたら、そのようなプログラムの利用を制限した場合にも同じ理由で罰に値する。 「プログラマは、自分の創造性に対して報酬を要求してはいけないのではないか?」 仕事に対して支払いを求めたり、自分の収入を最大に増やすよう求めることは、破壊的な手段を使わない限り、何ら悪いことではない。しかし、今日のソフトウェア分野で習慣となっている手段は、破壊的行為に基づいている。 プログラムの使用を制限してプログラムのユーザからお金をとることは、その制限のせいで、使用できるプログラムの種類や方法が減ってしまうので、破壊的行為となる。これは、人類がプログラムから得られる富の量を減らしてしまう。故意に制限すると決定したときには、意図的な破壊という有害な結果をもたらすだろう。 善良な市民がそのような破壊的手段を用いないのは、そうしないことこそが裕福であると思っているからである。もし誰もが破壊的手段を用いたとしたら、我々は互いの破壊行為によってさらに貧しくなっていくばかりであろう。これがカント哲学の倫理、または黄金律である。皆が情報を隠し持った結果として`生じる結末を私は好まないので、そうすることは悪いことであると考えざるを得ない。明確に言えば、自分の創造性が報われたいという欲望は、その創造性の全部または一部を、一般の世の中から奪う言い訳にはならない。 「プログラマは飢えてしまわないだろうか?」 プログラマに強要できる者はいないということは言える。我々の大半は、街に立ってしかめ面をしてもどうにもお金を稼ぐことはできない。しかし、結果的には、我々がしかめ面をしながらひもじい思いをしつつ街に立って一生を過ごすことになったとしても、それを厳しく非難されはしない。我々には他にすることがあるからである。 しかし、これは、質問者の暗黙の仮定、つまり、ソフトウェアの所有権がなければ、プログラマは一銭たりとも収入を得ることはできないという仮定を受け入れているので間違った答えである。おそらく、一か八かということなのだろう。 プログラマが飢えてしまわない本当の理由は、単に今ほどの額ではないだけであって、プログラミングに対しては支払われる可能性が依然としてあるからである。 複写を制限することだけが、ソフトウェアにおけるビジネスの唯一の基礎ではない。それが最も多くのお金をもたらすので、一番の共通基盤になっているだけである。もし顧客のほうから複写の制限を禁じたり拒絶すれば、ソフトウェア・ビジネスの組織の土台は、今ではあまり多くは使用されていないような別の種類ものへと変わるだろう。 おそらく、新しい基盤のもとではプログラミングは現在と同じくらいの利益にしかならないだろう。しかし、それだからといって変化に反対する理由にはならない。販売員が今と同じ給料を得ることが不公平だというのではない。プログラマも同様に今と同じ給料を得たとしても、不公平にはならないだろう。 (実際、プログラマは給料以上のことを行なうだろうから。) 「人々には自分の創造性がどのように使用されるのかを制御する権利があるのではないか?」 「自分のアイデアの使用を制御すること」は実は、他人の人生を制御し、一般にその人の人生をもっと困難にするために用いられる性質のものである。 (弁護士のように)知的所有権の問題を勉強した人によれば、知的所有物には本来の権利もないと言っている。政府が認めている推定上の知的所有権の類は、特定の目的のための特定の法律によって作り出されたものである。 例えば、特許制度は、発明家がその発明の細部を公開するよう促進するために制定された。その目的は、発明家を保護するというよりは、社会を保護することにあった。当時、17年という特許の保護期間は、技術水準の進歩に比べて短いものであった。特許は製造業者の間だけの問題なので、ライセンス契約のコストや手間が製品作りの準備に比べれば少ないような人々にとっての特許とは、さほどの損害にはならない場合が多い。特許製品を使用するたいていの個人を妨害してはいない。 著作権という概念は、著者がノンフィクション作品の中に他の著者から長々と頻繁に真似ていた古代には存在しなかった。この習慣は役に立っていたし、現在でも多くの著者の作品に部分的に生き続けている習慣である。著作権制度は、著述業を明白に促進するために作られた。その制度が作られた分野として本があるが、これは印刷するだけで安く複製できるのでほとんど損害を与えることはなく、何よりも本を読む個人を妨害することはなかった。 全ての知的所有権は、社会が認めるライセンスにすぎない。というのは、良きにつけ悪しきにつけ、知的所有権を認めることにより社会全体が利益を得ると考えられたからである。しかし、どのような特殊な状況においても、我々には問直さなければならないことがある。「我々はそのようなライセンスを認めることで本当により裕福になるのか?」、「我々はどのような種類の行為を人に許可しているというだろうか?」と。 今日のプログラム事情は、100年前の書物のときとは全く異なっている。例えば、プログラムを複写するときの最も簡単な方法は、隣の人からさらに隣の人へと順にまわしていくという事実や、プログラムにはソース・コードとオブジェクト・コードがあってそれぞれ別のものであるという事実、プログラムは読んだり楽しむものではなく使用されるものであるという事実が混ぜ合わされて、著作権を押し通す人が、物質的にも精神的にも社会全体に害を及ぼしている状況を作り出しているのである。つまり、法的に著作権の強要が可能かどうかにかかわらず、人はそのようなことをすべきではないということである。 「競争が物事をより良くしていく。」 競争の典型はレースである。勝者には報酬が与えられるので、誰もがもっと速く走ろうと努力する。資本主義がこの方法で本当に機能すればよいが、資本主義の擁護者は、この方法で常に機能することを前提としている点が間違っている。例えば、なぜ報酬が与えられるのかを走者が忘れてしまい、手段を選ばず勝つことのみに執着したとすれば、他の走者を攻撃するといった他の作戦をとるかもしれない。走者達が真っ先に殴り合いをしてしまえば、皆のゴールインが遅れてしまうだろう。 ソフトウェアの占有と秘密は、真っ先に殴り合う走者と道義的には同じである。 悲しいことに、我々の唯一の審判でさえ、殴り合いに反対していないように見える。ただ走者を(「10ヤード走るごとに1発殴ってもよい」というふうにして)規制するだけである。審判は本来、そのような走者達の中に分け入って、暴力を働こうとした走者を罰してしかるべきである。 「金銭的な刺激がなくなっては誰もプログラミングなどしないのではないか?」 実際には、多くの人々が金銭的刺激が皆無であってもプログラムを書いているだろう。プログラミングには、一部の人にとってはたまらないほどの魅力があり、そういう人こそプログラミングに最も向いている。音楽で生計を立てる望みがないからといって、プロの音楽家がいなくなることはない。 しかし、この疑問は実際、よく提起されるのだが、現実に即してはいない。プログラマへの支払いは少なくなっても、無くなることはない。したがって、正しい質問は、「金銭的な魅力が減っても人はプログラムを書くか?」となる。私の経験がそれを語っている。 10年以上もの間、世界中の多くの最優秀プログラマが、よそでならもっと収入を得られたはずにも関わらず、AIラボで働いてきた。彼らは、金銭ではない報酬、例えば、名声や感謝といったものを得てきた。そして、創造は楽しくもあり、それ自体が自分への報償であった。 やがて、彼らの大半は、多くの給料をもらいながら引き続き興味ある同じ仕事ができる機会を与えられて去っていった。 この事実は、人は金持ちになること以外の理由でもプログラムを書くということを示している。しかし、より多くのお金を得る機会があれば、人はそれを期待し求めもするだろう。給料が少ない組織は、多いところと競争すれば劣勢にはなるが、給料の多い組織が息詰まっても、少ないほうまで悪くなるわけではない。 「我々は絶望的になってプログラマを必要としているのではないか。我々の隣人を助けるのをやめるようプログラマが我々に要求すれば、我々はそれに従わざるを得ない。」 あなたは、そういった要求に従うほど決して絶望的ではない。忘れないでいただきたい。そのような要求に従わなければ数百万ドルの価値となるが、従えば1セントもの賛辞には値しないのである! 「プログラマは何とかして生計を立てなくてはならない。」 短い目で見ればこれは当てはまる。だが、プログラマが、プログラムの使用権を売らずに生計を立てていける方法はいくらでもある。この方法は、他に生計を立てる手立てがないからではなく、プログラマやビジネスマンに多額のお金をもたらすので、今では慣習的となっている。他の方法を見つけようと思えば簡単に見つかる。その例をいくつか示しておく。 ●新しいコンピュータを導入している製造業者は、新しいハードウェアにオペレーティング・システムを移植する作業に対して支払うだろう。 ●プログラミングに関する教育や指導、保守といったサービスをビジネスとする場合にもプログラマを雇うことができるだろう。 ●新しいアイデアを持った人は、プログラムをフリーウェアとして配布し、それに満足したユーザに寄付を求めたり、簡単な指導サービスを販売することができるだろう。私は、この方法を既に実践して成功した人々を知っている。 ●似たような要求があるユーザ同士は、ユーザ・グループを組織し、会費を払う。グループでは、ソフトウェア業者と契約して、メンバーが使いたいプログラムを作成してもらう。 あらゆる種類の開発が、以下に示す「ソフトウェア税」で積み立てることができる。 ●コンピュータを買う人は誰でも、ソフトウェア税として、その価格の x パーセントを支払うようにする。政府は、これを、ソフトウェア開発のためにNSF ([訳注] 米国科学財団、National ScienceFoundation) のような機関に与える。 ●ただし、コンピュータの購入者がソフトウェア開発に寄付する場合には、相当額の税金控除となる。自分で選んだプロジェクトへ寄付することができる。ほとんどは、プロジェクトの成果を利用したいような所を選ぶだろう。本来支払うべき税金の合計を上限として、寄付金の額に応じて控除することができる。 ●全体の税率は、課税額に応じて重み付けをし、納税者の投票によって決定可能とする。 その結果、*コンピュータを使用するコミュニティはソフトウェア開発を支援する。 *そのコミュニティは、どの程度のサポートが必要なのかを決定する。 *自分達の負担したものがどのプロジェクトに費やされるかに関心のあるユーザは、自分で([訳注] 立ち上げて欲しい)プロジェクトを選ぶことができる。 長い目で見た場合には、プログラムをフリーにすることは、欠乏の無い世界への第一歩であり、そこでは誰も生計を立てるためだけにあくせく働く必要はないだろう。人々は、週に10時間の課せられた仕事、例えば、法律の制定や、家族との相談、ロボットの修理、小惑星の試掘といった必要な仕事をこなしたあとは、プログラミングといった楽しめる活動に自由に専念することになるだろう。もはやプログラミングで生計を立てる必要はなくなる。 我々は既に、社会全体が実質的生産のためにしなければならない作業量を大幅に減らしてきたが、そのうちのほんのわずかが労働者の娯楽に変わっただけである。というのは、生産活動に伴い多くの非生産活動が必要とされるからである。その主な原因は、官僚主義と競争に対する差の無い骨折りである。フリー・ソフトウェアは、ソフトウェア生産の分野でこれらの乱費流出を大幅に減らすだろう。生産における技術的利得が我々にとっての労働の軽減になるよう、我々はこれを行なっていかなければならないのである。 ---------- 脚注 ---------- (1) ここの言葉遣いは不注意であった。意図することは、誰もGNUシステムを使う「許可」のために支払う必要はない、という意味である。しかし、これでも明確になっていないし、GNUの複写は常にほとんどまたは全くの無料で配布されるべきであると言われていると解釈している人が多い。後述で、この宣言では、利益のために配布サービスを提供している企業の可能性について述べているように、これは意図した意味では決してない。その後、私は、自由という意味の「フリー」と価格という意味の「無料」を注意深く区別するようになった。フリー・ソフトウェアとは、配布する自由と変更する自由をユーザが持っているソフトウェアのことである。無料でコピーを入手するかもしれないユーザもいれば、コピーの入手に支払うユーザもいるかもしれない。また、集まったお金がソフトウェアの改良支援となればますます良いことである。重要なことは、コピーを持っている人は誰でも、そのコピーの使用にあたり、他人と協力するための自由があるという点である。 (2) これは、2種類の意味を持つ「フリー」について私が注意深く区別するの を怠ったもう1つの箇所である。この文は文字どおりの意味である。つまり、GNUソフトウェアのコピーを友人やネット経由で無料で入手することができる、という意味である。ただし、間違った考え方を提示してしまっている。 (3) そのような企業は現に数社存在する。 (4) Free Software Foundationは企業ではなく慈善団体ではあるが、配布サー ビスで資金の大半を調達している。FSFへの注文によってコピーを入手する人がいなくなると、作業ができなくなるだろう。しかし、これは独占的制限によってユーザに支払いを強要することが正しいという意味ではない。たとえ小さな注文であってもユーザ全てがFSFへコピーを発注してくれれば、それだけでFSFは借金をしないで済む。あなたなりに何か貢献しているのか? (5) コンピュータ企業が数社集まって、GNU Cコンパイラの保守をサポートするための資金を最近共同出資した。 【問い合せ先】 本ページについては、 引地(ひきち)美恵子 〒170-8454 東京都豊島区南大塚2-26-15 (株)SRA 先端技術応用Gr. 引地信之(Fax.03-3942-5174) webについては、webmasters@www.gnu.org Copyright (C) 1998, 1999 Mieko Hikichi |
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とほほが全文転載している。とほほ著作権理論からすれば、事前通知、承諾を要しようが、当人はとりつけているのだろうかという事が気に掛かる。ご都合主義の御仁ではある。 |
37917 | ピッポ氏の【労働と成果】について | 烏龍茶 | 2005/12/05 00:32 |
ピッポ氏のつくられたコンテンツについての議論がなされているようですが、気がついた事をいくつか指摘します。 tpkn氏 投稿37881 >あなたのものでないと述べる根拠は、著作権法です。 (中略) >表現物に関する知的所有権(すなわち著作権)の重要な原則として「アイデアは保護されない」というものがあります。 「アイディアは保護されない」が「アイディアを形にした表現物」は保護の対象になります。ピッポ氏の作られたコンテンツは、判決文中のどういう用語に対してどのようなリンクを張るか、という部分についてピッポ氏独自の判断やアイディアに基づいて構成がなされています。それが著作権法で言う著作物に該当するかどうか、は裁判所が判断する事であるし、tpkn氏がはじめの投稿でリンクを張った先にも「現在、HTMLやCSSソースの著作権を争った裁判の判例がありません」とあるとおり、このような場合の司法判断はなされていません。 従って、著作権が存在しないと断定する事はできませんし、そのような素人判断に基づいて「盗んだという表現は不当だ」とか「自分のものではないものに過剰な権利意識」などという批判をする事も、不当であると思います。 >なぜなら、もしあなたのこのような主張を保護に値する著作物と見なすと、あらゆるリンクについて著作権を主張できることになってしまうからです。「ここからここにリンクを張ったのは、私の独自のアイデアである」という具合に。 主張できるがいつも認められるとは限らない、というのが正しいと思います。 tpkn氏 投稿37833 >したがってむしろ、あなたの書き込みのほうが、厳密に言えば法律上の名誉毀損(罪)に近いです 近い、とは微妙な表現ですが、このような場合名誉毀損が成立するでしょうか。 同37881 >公道で「ドロボー」と叫べば警察はやってきますし、相手が怒って裁判にすれば裁判所にも出頭しなければいけなくなりますよ。あなたは上杉聰と小林よしのりの裁判で何が争われてどういう結果になったのか知らないのですか。「ドロボー」と叫ぶためには、「著作権法違反」とか「窃盗罪」だとかの根拠が必要になるに決まっているでしょう。 その判決文には 「法的な見解の表明それ自体は,それが判決等により裁判所が判断を示すことができる事項に係るものであっても,そのことを理由に事実を摘示するものとはいえず,意見ないし論評の表明に当たるものというべきである。 」と言う部分があります。 1 「盗んだ」「どろぼう」という表現は、上記に照らせば「意見ないし評論」に該当すると思われます。 2 その表現の前提として、実際に窃盗罪(この場合は著作権侵害)が成立するかどうかは問題になりません。当該判決には「意見ないし論評については,その内容の正当性や合理性を特に問うことなく,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り,名誉毀損の不法行為が成立しないものとされている~」ともあるからです(個人的にこれは大きな問題を含むのではないかと思いますが)。 以上から、ピッポ氏の「どろぼう」発言自体は名誉毀損を構成しないと思われます。 tpkn氏 投稿37891 >法的に認められないものを窃盗だの犯罪だのと言い立てるところに、キミ(たち)の最大の問題があるわけです。なぜなら、それは他者の人権を侵害する行為であり、そのこと自体が法的にも道義的にも認められない行為だからです。 意見の表明または評論自体は、公共の利害に関する事実に係わるものであり、かつ公益を図る目的でおこなわれている場合は、法で保護される権利のうちである、というのが脱ゴー宣裁判の判決にもうたわれている事であります。 というか、こんな七面倒くさい話など抜きにしても、ピッポ氏の怒りは全く正当なものであると思いますが。 |
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烏龍茶が登場し、露骨にピッポにヨイショせんとして理屈を並べ立てている。 |
37918 | Re:ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | ピッポ | 2005/12/05 00:53 |
やはり、第3者的な機関に裏打ちされた「きめごと」と「表示」があるほうがいいですね。 gaou さん とほほ さん ご紹介有難う御座います。 しかし、GNU のほうは、ちょっと難しすぎますね。自分で使うためには、自分で説明できなければならないわけですから、そこには到達しないでしょう。 その点、クリエイティブコモンズの方が分かりやすそうですが、翻訳日本語がもつ違和感を克服するのと、表示の方法を勉強しなくてはなりませんね。 |
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ピッポが、ヨイショ者に対し、謝辞せんとして愛想振りまいている。 |
37922 | Re:ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | tpkn | 2005/12/05 07:31 |
まとめレスにて失礼。 ▼クマさん 押し問答のループ部分は割愛します。 > > ましてや政治的に彼に同調する者が、なんの論理的考察もなく感情的にそれを擁護してある人間を同じく感情的に泥棒呼ばわりするなんてのは、相互批判の欠如した思想集団が個人に暴力を加える格好の例というべきでしょう。 > > そうした点がtpknさんにとって一貫した問題関心となっている点は理解しますし、それは基本的な線では共鳴し自戒しなきゃいかんと思っておりますが、今回はぜんぜんそんな問題ではない。むしろtpknさんに、自分の反発する議論をそのように見なす傾向があることのほうが心配ですね。 心配してもらって恐縮ですが、「自分の反発する議論をそのように見なす傾向」というのは、あなたの自己投影かと思います。私がこの話題の一連のレスで言っていること――つまりマナーや礼儀の問題と権利や正当性の問題は別という理屈は、イラク人質事件のときの自己責任論批判、立川テント村の不当逮捕批判のときと同じです。批判対象の政治的立場の違いによって、それに賛成したり反対したりしているのがクマさんでございます。 > これまた傲岸不遜ですね。第一に、「あなた方」とtpknさんは言うが、私はれんだいこ氏を「感情的に泥棒呼ばわり」などしていない。してもいいが、今はしていない。第二に「政治的に同調」というが、私はピッポさんの政治的傾向については全然無知である。第三に「個人に暴力」など全然加えていない。マナー違反を問うことのどこが暴力なのか。こういう誹謗のほうがよほど「恐ろしく、また危険である。少しは反省すべきですね」。 泥棒を働いていない人に、「実際に泥棒を働いたかどうかは別にして、おまえは泥棒だ」などと言うことが暴力でなくてなんでしょうか? それから「政治的傾向」についてですが、私がここで「政治的に同調」と言っているのは、百人斬り裁判という極めて政治的なイッシューに関する見解が概ね一致しているということを指しています。それとも、細かい「オリジナリティ」でも主張しますか?(藁 > > 一言でいえば、「他人に(あなたの満足いくような)敬意を払われる権利」などない。 > > いま誰かそんな話をしているのですか? ピッポさんとクマさん始め、それに同調する大勢がそのような話をしています。正当な権利なしに公の場で他人を泥棒と言えば、小林よしのりのように法で罰せられることもあります。 > > 情報の利用の仕方を一方的に手前勝手に制限し(勝手に想定された「マナー」を守らなければ泥棒呼ばわりされる覚悟をしなければ使えない)、それに従わない者を「マナーが悪い」といって大合唱で非難し、「知的共有のために素晴らしい仕事をした者に対して敬意を払わなくてもいいのだという論理」などというのは本末転倒もはなはだしい。 > > 誰もピッポさんの作業の成果を利用したこと自体を非難しているのではない。 私は「情報の利用の仕方を」と書いております。「利用したこと自体」でないのは明白ですね。 > れんだいこ氏の使い方があまりにひどいから問題になっているのです。他者の労働の成果を利用する時には最低限の敬意を払え、少なくとも自分の作業であるか他者の作業であるかが区別できるようにしろということが、「勝手に想定された」「手前勝手」な制限だと考えるほうがどうかしています。 下で説明したように、必要最低限の区別はリンクという形で行われています。そして、その区別は偶然そうなったのではなく、れんだいこさんが意図して行ったものですね(彼はピッポさんのものを転載する以前に書いた著作権に関する論考でそのように述べており、それが彼の敬意の証であると書いています)。それ以上のもの「謝辞をつけろ」とかいったものに関しては、「勝手に想定された」「手前勝手な制限」というほかないでしょう。引用に謝辞をつけろと騒ぎ立てるのと同じことです。 > というか、あなたはそういう原則を無視して活字と向かい合っているのか。tpknさんの言う「オープンソース」とは提供する側の自発性によるものではなくて、利用する側が「手前勝手」に行なうものなのか。 何を偉そうに言ってんだか(w 「そういう原則」がいったい「どういう原則」なのか、筋道立てて説明してみなさいな。ところが、こっちが筋道立てて説明するために法律の話を持ち出すと、法の話などしていないなどと言う。いったいクマさんの言う「そういう原則」とは、何によって担保された、誰と誰の合意事項なのです? サンクス・クレジットは参考文献の出典とは違います。それは書き手が自発的に記すものであって、記される側が求めるものではない。 > > ぜひ根本的なところから考え直していただきたいですね。 > > もちろん私も考えますが、現時点ではtpknさんこそ根本的に考えるべきでしょう。 こういうオウム返しの口答えが、何も考えてない証拠なのね(笑)。 ▼gaouさん > いやいや、ここでGNU FDLをだすtpknさんがそもそも間違いです。。GNU FDLはもちろんあらゆる形式のドキュメントに使用可能ですが、ほとんどの場合これはソフトウェア関連のドキュメントに適用されています。これはGNU GPLがソフトウェア向けのライセンスであり、それと共に配布するソフトウェアドキュメントに関する規定がなかったためにそれを補うべくFDLが定義された、という歴史的経緯によります。 だったら、なぜ「GNU FDLをだす」ことが間違いなのですか? 意味わかんないんですけど? もちろんGNU FDLはアメリカの著作権法をもとに書かれていますから、日本の著作権法に適合するのかどうかいまいちよくわからないという問題はありますが、それはソフトウェアかドキュメントかという違いとは関係ないでしょう。だいいち、クリエイティヴ・コモンズはGNU GPLから発展したものでしょう? ちゃうのですか? 結局、とりあえず否定しときたいだけちゃうんかと…(w ▼とほほ師匠 ストールマンをここで出すのは「間違い」だとgaou 先生が言ってるYO!(w それはともかく、hotwiredのストールマンのインタビューが面白いので、これはぜひピッポさんにも先入観抜きに読んでいただきたいですね。言ってること、ほとんどムチャクチャですが。 http://hotwired.goo.ne.jp/matrix/9709/2_1.html ▼ピッポさん > やはり、第3者的な機関に裏打ちされた「きめごと」と「表示」があるほうがいいですね。 ちゃうのです。 これは、誰かが(たとえば著作権法やその他の知的所有権関連の法令のように国家や権力が)オーソライズするというような発想のまったく逆から生まれているわけです。たとえば、自分で著作権を放棄したものに、誰かが勝手に著作権を主張したりすることのないように、何が必要で何が不要かを考えてきた結果、こういうものが生まれたわけですね。ぜひ、あなたの権利と他者の権利について、自発的に考えてみていただきたいと思います。 ちなみに、れんだいこさんの場合、私のようにアメリカの左翼の考えに同調するのではなく、おそらくいちからすべて自分で考えて、あのような見解に到っていると思われます。結果として、GNUやフリーソフトウェア財団などが培ってきた理念に非常に近いものになっています(自分一人で考えているので、もちろん穴もムリもかなりあります)。単純に「マナー違反」というところからスタートするのではなく、色眼鏡を外してれんだいこ氏の論考を読むことをお勧めします。 ▼烏龍茶さん > ピッポ氏のつくられたコンテンツについての議論がなされているようですが、気がついた事をいくつか指摘します。 全部間違ってます(w > 従って、著作権が存在しないと断定する事はできませんし、そのような素人判断に基づいて「盗んだという表現は不当だ」とか「自分のものではないものに過剰な権利意識」などという批判をする事も、不当であると思います。 素人判断で(すなわち自分の判断で)批判をすることが「不当」などと言う左翼は初めて出会いました。クソウヨにはそういう輩は多いですけども。批判の不当性は、反証あるいは反批判によってのみ可能でしょう。「オーソライズされた見解(判例)がない」のであれば、そのことに関するあなたの考えを述べればいいわけです。 > >なぜなら、もしあなたのこのような主張を保護に値する著作物と見なすと、あらゆるリンクについて著作権を主張できることになってしまうからです。「ここからここにリンクを張ったのは、私の独自のアイデアである」という具合に。 > 主張できるがいつも認められるとは限らない、というのが正しいと思います。 これは現行の著作権法(あるいはその解釈)ですでに否定されています。「判例がない」のは、リンク以外を含むhtmlソースそれ自体について争ったものに関してですね。 > > tpkn氏 投稿37833 > >したがってむしろ、あなたの書き込みのほうが、厳密に言えば法律上の名誉毀損(罪)に近いです > 近い、とは微妙な表現ですが、このような場合名誉毀損が成立するでしょうか。 相手が訴えてそれ相応の実害が認められれば(実害とは経済的損失のことではありません)、成立するでしょう。脱ゴー宣裁判で上杉さんが勝訴した部分は、これと同じです。 > 「法的な見解の表明それ自体は,それが判決等により裁判所が判断を示すことができる事項に係るものであっても,そのことを理由に事実を摘示するものとはいえず,意見ないし論評の表明に当たるものというべきである。 」と言う部分があります。 > 1 「盗んだ」「どろぼう」という表現は、上記に照らせば「意見ないし評論」に > 該当すると思われます。 > 2 その表現の前提として、実際に窃盗罪(この場合は著作権侵害)が成立するか > どうかは問題になりません。当該判決には > 「意見ないし論評については,その内容の正当性や合理性を特に問うことなく,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り,名誉毀損の不法行為が成立しないものとされている~」ともあるからです(個人的にこれは大きな問題を含むのではないかと思いますが)。 > > 以上から、ピッポ氏の「どろぼう」発言自体は名誉毀損を構成しないと思われます。 あー、間違えた! 逆転敗訴か。 私は、ここで↓上杉氏が述べていることに、ほぼ全面的に賛同します。最高裁の決定は不当な判決でしょう。 http://www.jca.apc.org/datu-gomanism/2004.07saikousai.html では最高裁で負けているということで、もとの投稿に私が書いた通り「名誉毀損罪に近い」ということですね。 > >法的に認められないものを窃盗だの犯罪だのと言い立てるところに、キミ(たち)の最大の問題があるわけです。なぜなら、それは他者の人権を侵害する行為であり、そのこと自体が法的にも道義的にも認められない行為だからです。 > 意見の表明または評論自体は、公共の利害に関する事実に係わるものであり、かつ公益を図る目的でおこなわれている場合は、法で保護される権利のうちである、というのが脱ゴー宣裁判の判決にもうたわれている事であります。 はい、あなたが、最高裁が上杉氏に対して下した「ドロボーというのは意見の表明であり評論である」という見解を支持するのであればその通りでしょう。しかし、この裁判では「引用は正当なものだった」と認めているわけですから、この最高裁の判決は明らかにおかしいですね。 > というか、こんな七面倒くさい話など抜きにしても、ピッポ氏の怒りは全く正当なものであると思いますが。 ピッポは正当、上杉聰が負けたのは正しい、しかし小林よしのりは間違ってる、そしてtpknは不当……要するに、あなたはモノを考えるのがめんどくさいというだけの話でしょう(爆笑) |
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tpkn氏が、 ピッポークマ同盟員一同をなで斬りしている。 |
37928 | Re:ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | ピッポ | 2005/12/05 12:52 |
tnpkさん > ちなみに、れんだいこさんの場合、私のようにアメリカの左翼の考えに同調するのではなく、おそらくいちからすべて自分で考えて、あのような見解に到っていると思われます。結果として、GNUやフリーソフトウェア財団などが培ってきた理念に非常に近いものになっています(自分一人で考えているので、もちろん穴もムリもかなりあります)。単純に「マナー違反」というところからスタートするのではなく、色眼鏡を外してれんだいこ氏の論考を読むことをお勧めします。 随分と美化していますが、私は、れんだいこ氏の行為をみて評価しています。これからも、私に拘わる部分以外の彼のWEBサイトの実際も、ジックリ見て、評価することに致しましょう。 読者は引用文であるのか違うのかはっきりわかるか? 読者は引用文が誰のものか判るか? 自分の言説と他人の言説との線引がなされているかどうか 自分の仕事と他人の仕事との線引がなされているかどうか 読者は、読者は引用元原文を確かめられるのか? 彼の剽窃哲学を吟味するのを5%とし、彼のWEBサイトの現実を吟味するのを95%としましょう。 |
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ピッポは、tpkn氏がどう諭そうと聞く耳持たず、悪意ある結論から凡てを組み立てようとしている事を自己暴露させられている。 |
37931 | Re:ピッポさん、クリエイティブコモンズを使いましょう。 | gaou | 2005/12/05 16:37 |
> >
いやいや、ここでGNU FDLをだすtpknさんがそもそも間違いです。。GNU
FDLはもちろんあらゆる形式のドキュメントに使用可能ですが、ほとんどの場合これはソフトウェア関連のドキュメントに適用されています。これはGNU
GPLがソフトウェア向けのライセンスであり、それと共に配布するソフトウェアドキュメントに関する規定がなかったためにそれを補うべくFDLが定義された、という歴史的経緯によります。 > > だったら、なぜ「GNU FDLをだす」ことが間違いなのですか? 意味わかんないんですけど? 問題になっているのが「帰属」だからです。GNU FDLの主たる目的はあくまで「コピーレフト」にあります。良く読めばわかりますが、FDLのcopyrightの表示義務は、あくまで元のバージョンと改変したバージョンの区別を付ける為にあります。そのへんはストールマンの思想を見てもわかるでしょう。 Creative Commonsは最初に確かにGPLを参考にしていますが、オープンソースソフトウェアライセンスでは一波乱あったBSDライセンスと(GNUからみて、という意味で)同じ問題を抱えています。よって、GNU GPLやFDLと非互換です。これらのことはGNUサイトでCreative Commonsの紹介文を読めば明らかです。 http://www.gnu.org/philosophy/license-list.html ーーー引用開始ーーー This is a copyleft free license meant for artistic works and entertainment works. Please don't use it for software or documentation, since it is incompatible with the GNU GPL and with the GNU FDL. There is literally no specific freedom that all Creative Commons licenses grant. Therefore, to say that a work "uses a Creative Commons license" is to leave all important questions about the work's licensing unanswered. When you see such a statement, please suggest making it clearer. And if someone proposes to "use a Creative Commons license" for a certain work, it is vital to ask immediately "Which one?" We recommend using the Free Art License, rather than this one, so as to avoid augmenting the problem caused by the vagueness of "a Creative Commons license". ーーー引用終了ーーー ストールマンはそもそもcopyrightという考え方自体に意義を唱えていますので、GNU FDLを出すならばこの議論においてはクマさんの反論のようなものがでてもしかたがないでしょう。よって、copyrightを肯定して帰属を欲する場合、GNU FDLは内容的にも思想的にも間違いです。無償で公開する知的コンテンツを、帰属を明らかしながらある程度の利用は認める、という方針であれば、つまり現行著作権の慣習を踏襲した形で半ばオープンな形をとりたいのであれば、Creative Commonsが適しています。 |
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gaouが薀蓄だけをひけらかせている。 |
その後、「問答野暮掲示板」に次のような発言が為されているので転載する。
14236 | 「問答有用」 | cyan(gaji・花梨) | 2005/12/04 22:41 |
37912 返信 Re:あらためてピッポ氏に感謝する URL 花梨 2005/12/04 21:25 37914 返信 Re:あらためてピッポ氏に感謝する URL 花梨 2005/12/04 21:48 クマさん、こんばんわ。皆さん、こんばんわ。 部分横レス失礼致します。 > >ピッポさん > おそらく皆さん(れんだいこ氏をのぞいて)、ピッポさんの作業そのものには敬意を払っていると思いますよ。 《れんだいこも考察しようと思い、その際の貴重な法文サイトでしたからいずれの日にか咀嚼する為に全部転載していた「だけ」のもの》http://otd3.jbbs.livedoor.jp/306865/bbs_plain?base=4966&range=1より と、れんだいこさん自身が述べておられます(といいますか、敬意云々は枝葉でしょう。リンク有・つまり転載先を明示しての転載ですから、客観的には何の問題もありません)。 > >tpknさん > > > しかし、自分に敬意を払わなかった、謝辞を示さなかったなどという理由で他者を泥棒呼ばわりし、断罪するような傲岸不遜は改めるべきです。 > > 謝辞を示さなかったから「泥棒呼ばわり」ではなく、これまた繰り返しになりますが、れんだいこ氏がピッポさんの作業を、あたかも自分の作業であるかのように誤認させかねない仕様とした傲岸不遜にこそ問題があります。 自分の作業を「窃盗」されたと「誤認」した?ピッポさんが、「誤認」のままにいきなりBBS上で相手を非難し始めたのですよ?(個人的に不快に感じられたのであれば、メールのやりとりで充分だったことでしょう)。 >>君のしたことは、 >>余りにもひどい窃盗だよ。 >>私になんの連絡も無く、私のサイトのソーススクリプトを丸ごと盗んだね。 >>しかも、謝辞とはいかなくても、何のクレジットすらないね。(2005/11/30 17:40) れんだいこさん宛ての名指し投稿であるのに、なぜか「問答有用」板への投稿でした。 そしてその約1時間後に同文をれんだいこさん板に「※」を添えて投稿。 http://otd3.jbbs.livedoor.jp/306865/bbs_plain?base=4960&range=1(2005/11/30 18:51) >※私のサイトと問答有用掲示板にも同文掲示しました。 >ご返答は問答有用掲示板にてお願いします。 >この掲示板はこれが初めてで要領を得ません。 >ピッポさん 「この掲示板はこれが初めてで要領を得ません」とありますが、掲示板の入力スタイルとしては、れんだいこさん板は問答板と同様ですので、「要領を得ません」というのは意味不明です。 仮に、ピッポさんにとって「要領を得」ず投稿がままならなかったとして、れんだいこさん宛のメッセージを先に「問答」板に投稿するというのはどこか不自然といいますか、傍目には不可解に思えましたが。。 ***** ”他板の話は他板で”といった”ルール”のようなものは、どこにいったのでしょうか。 (スミマセン。。再々投稿です。「電便」欄にアドレスを入れると通名が出てしまうことに気づき、自己削除しました) |
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cyan(gaji・花梨)さんが、急所衝きながら素敵にれんだいこを擁護してくれている。特に、れんだいこ板の1時間前に同文を問答有用板へ投稿していることに疑義を表明している。普通は順序が逆だよな。しかも、れんだいこ反論を問答有用板へ誘導しようとしている。しかも、問答有用板管理人のクマがしばしば出没しピッポを援護しまくりしている。どうも臭いと云うか臭過ぎる話しではないか。 既にinti-solが、1、件の判決文サイトアップはまず弁護団がOCRによってテキスト化したものである。2・inti-sol 氏がそれをテキストの校正と改行の修正、html化した。3・それを、ピッポが再構成編集した、流れにあることを判明させている。これがピッポの編集権の裏舞台であるとしたら、ピッポは、自身が相手に強要しようとしている丁重な著作権挨拶をinti-sol氏にしているのだろうか。「ぴっぽさんの払われた労力には、本当に頭の下がります。それなのに、まだぴっぽさんのサイトにリンクを貼っていませんでした^^」から推理するのに、サイト上での両者間の仁義が切れていない気がする。そうだとしたら、ピッポはこれにつきどう言い訳するつもりだろう。何せinti-sol氏が舞台裏を明かすまでピッポの悪戦苦闘編集譚を聞かされ続けてきたんだ。今からでも遅くないれんだいこに説いて罵倒してくれているところの礼儀なり品格なり人の道を率先太郎して示して欲しいと思う。 |
(私論.私見)