事件の証言考



(最新見直し2006.6.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 事件の証言を確認しておく。


【各証言の再検証】
 最後に指摘しておきたいことは、反証の余地が残されているとしても、2001.6.18日付け産経新聞記事は2兵士の冤罪を称する「1級資料」であることが疑いない。そうすると、これまで日日の浅海記者の記事の真実性を裏付ける発言をしてきたかなりの数の知識紳士の証言の信憑性問題に発展することが避けられない。事実は二つに一つしかない。以下、「百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘」サイトから引用しコメント付ける。

 その一例を挙げれば、第一は、野田少尉の後輩同窓生である志々目彰氏の証言である。野田氏自身が百人斬り競争の実行とその実態(白兵戦中の行為ではなく捕虜の据え物斬りだったこと)を認めた決定的なものとされている。この志々目証言の信憑性や如何に、という問題が発生してくる。

 第二は、第4報に掲載されている両少尉の写真を撮影した佐藤振寿カメラマンの証言である。次のように述べている。
 概要「とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとっ た。(中略)そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある” と飛び込んで来たんですね。私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、 外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。“へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、 いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は、 城門のそばで撮りました。(中略)私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」。
(私論.私見)
 この佐藤カメラマン証言もかなり怪しくなってくる。

 第三は、第4報の共同執筆者である鈴木二郎氏の証言である。次のように述べている。
 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは…。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」である。
(私論.私見)
 この鈴木証言もかなり怪しくなってくる。
(私論.私見) 「事件肯定派の三証言利用」に対するれんだいこ見解
 これら三証言によれば、両少尉は少なくとも常州と紫金山麓でも浅海記者と会っていることになり、「浅海記者と向井少尉が無錫でしか会っていない説」を明確に否定している。事実は二つに一つしかない。どちかが嘘をついていることになる。
 第四は、山本七平氏が自身の連載中で紹介しているいくつかの手紙に対して、事件肯定派は逆に疑義を唱えてきた経過があるがこの見解は如何あいなるのだろう。山本氏の紹介した手紙は鈴木明氏(または週刊新潮)宛てに書かれたものであり、山本氏は鈴木氏から資料の提供を受けてその一部を紹介している。

 それによると、例えば向井少尉と同じ部隊にいたという衛生兵T氏は、「入城式の前日(16日)城外道路掃除命令をうけて、中山門(高橋注:南京城の東門)から外へ5キロほど清掃した」といい、また「11日には向井隊の本部が紫金山麓の霊谷寺におかれ、12日から16日にかけては南京城外で野営した」と証言している、とのことである。

 これに対し、事件肯定派は次のように云い為してきた。
 概要「これに従えば、中山門から5キロの範囲といえば、 ちょうど紫金山の南麓を走る公道にあたり、記者達と向井少尉らが会えない距離ではない。逆に、富山氏の主張する『紫金山に二人がいるのはおかしい』説が否定される」。
(私論.私見) 「事件肯定派の山本七平批判論理」に対するれんだいこ見解

 この疑義も根拠の無いそれであったことになりそうだ。
 山本七平氏は、別の手紙(差出人の名前は伏せられている)も紹介している。それには「負傷した向井少尉が『俺は歩けるから』といって 馬を降り、疲労困憊した部下を代わりに乗せていた」とある。山本氏はこの内容に注目し次のように指摘した。
 概要「富山氏の証言に従えば、向井少尉は歩くこ となど到底不可能なはずであり、それどころか馬に乗ることすら困難で、担架で搬送するほかなかった筈である。実際、上申書のほうでは帰隊時ですら担架に乗っていたことになっている」。

 これに対し、事件肯定派は次のように云い為してきた。
 概要「しかし、『俺は歩けるから』という本人の弁によれば、富山氏の向井少尉負傷説は崩れ去るであろう」。

 なお、「百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘」サイト管理人は次のように述べている。
 「向井少尉が何らかの傷を負ったこと自体は事実のようですが、それは離隊治療を要するほどのものではなかったと思われます」。
(私論.私見) 「向井少尉の負傷の程度考察」に対するれんだいこ見解
 事件肯定派は、何とかして据物斬り仕立てをしてきたが、この観点も崩れることが避けられない。
 第五は、新聞記事自身の中にあるとして、第2報の「向井少尉が『丹陽中正門の一番乗りを決行』したという記述」に信憑性を認め、富山氏の嘆願書中の「向井少尉が丹陽郊外ないしは『丹陽に向かって前進中』の時点で既に負傷・脱落してしまった」説を嘘としてきた見解も覆る可能性が出てきた。

 これについて、ある事件肯定派は次のように云っている。
 「しかし、当時の軍隊において『一番乗り』というのは極めて重要視された名誉であって、こんなことで嘘を書いたら本当に一番乗りを果した側が黙っていません。(南京に向かって日本軍各部隊が無茶苦茶な急進撃を続けた動機の一つとして『南京一番乗り』を果したいという名誉欲があったことはよく知られています) この「『一番乗り』報道が何ら問題にならなかったことは、それが実際そのとおりの事実であったことを示していると思われます」。
(私論.私見) 「事件肯定派の向井少尉負傷離隊は虚説論」に対するれんだいこ見解
 この見解も、どうしても百人斬り競争があったとする頑強な見立てであり、崩壊が免れない。
 第六は、「というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。この騒ぎで一番お気の毒だったのは、嘘の記事を書いて無実の人間を死刑に追い込んだとされ、人殺し呼ばわりされてきた浅海氏です」という見解。
(私論.私見) 「最大の被害者浅海記者説」に対するれんだいこ見解
 これもオカシナ話で、要約「この騒ぎで一番お気の毒だったのは浅海氏です」などと云うのは本末錯綜論であろう。一番お気の毒だったのは死刑になった2兵士であり、浅海氏もまた時代に弄ばれたお気の毒な記者であったかも知れぬというのが相応の観点というべきだろう。
(私論.私見) 「産経報道の衝撃」についてれんだいこ見解
 2001.6.18日付け産経新聞記事は、「南京大虐殺」派にしてその余勢で「百人斬り競争事件」を見てきたかのように立証しようとしてきた知識紳士のこれらの見解を総崩れさせるほどの衝撃性がある。問題は、確信を持って証言してきたこれらのインテリが「死人に口無し」を良いことに嘘をつき続けていたと言うことにある。ここが怖いところだと教訓化する必要があるように思われる。というのがれんだいこ見解であるが、さてどのように今後推移するのであろうか。

 2001.9.11日 れんだいこ












(私論.私見)