事件の概要と推移



 更新日/2021(平成31.5.1日栄和改元/栄和3).5.6日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、「百人斬り競争事件」の概要を確認する。そう難しい話であったり奥行きのあるものではない。単に事実確認をすれば良い。だが、その事実を廻って、糾弾派と冤罪派が大きく対立している。何故にこういうことが起るのか、それが問題だ。

 2011.10.25日 れんだいこ拝


【「百人斬り競争事件」の概要】
 「百人斬り競争事件」を概括すれば次のように云える。現在の毎日新聞の前身で当時の主要紙の一つであった東京日日新聞が、昭和12年の南京攻略戦を報じた際に、これに参加した第16師団の野田毅、向井敏明両少尉が、どちらが先に100人斬れるかを競ったとする記事を都合4回にわたり掲載した。典型的な時局迎合型の記事であったが、この記事が数奇な運命を呼び込むことになる。

 戦後、この時の野田、向井両名が戦犯扱いになり、南京軍事裁判に引きずり出され、無実を訴えたが処刑された。1971(昭和46)年、今度は朝日新聞が主役となる。同社の花形記者・本多氏が執筆した連載「中国の旅」の中で、「百人斬り競争事件」を大々的に取り上げ、南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺されたとする南京大虐殺の証拠として盛んに喧伝するところとなった。

 ところが、1973(昭和48)年、ノンフィクション作家・鈴木明氏が、著書「南京大虐殺のまぼろし」(文芸春秋社、大宅賞を受賞する)の中で、「百人斬り競争虚報説」をぶち上げ、大論争が始まる。この事件に冤罪を嗅ぎ取る動きが次第に強まり始め、次第に東京日日新聞の記事が戦意高揚の創作記事だったことが明らかにされるに至る。

 が、その後も中国各地の記念館では「百人斬り競争事件」記事が拡大展示され、中国側のプロパガンダに利用されている。国内の学校教育現場でも度々引用され、真実であるかのように独り歩きが続いている。2003年今日現在未決着という不幸な事態にある。

 2004.8.2日再編集 れんだいこ拝

【事件の発端となった新聞記事の概要】
 そもそもの発端は、当時の三大紙のひとつであった東京日日新聞(毎日新聞の前身)の記事による。日本中が南京攻略戦の勝利に沸き立っている最中、浅海記者は、南京を目指す日本軍をリアルタイムに報道する中で、第1報(1937.11.30日)、第2報(12.4日)、 第3報(12.6日)、第4報(12.13日)と4回にわたって次のような報道記事を書きこれが掲載された。

 参考までに記すと、東京日日新聞の記事は、第2次上海事件勃発後、日本軍が中華民国の首都・南京に進軍を背景として、昭和12年11月初頭の無錫から始まり、常州~丹陽~句容~12月12日付けで南京郊外の紫金山上で二人が次は百五十人切りを誓うところで終わっていた。記事には浅海一男記者の署名が入っていた。

 れんだいこの整理に間違いなければ、その記事内容は次のようなものであった。

第1報 1937.11.30日付け朝刊  常州にて29日浅海、光本、安田特派員発として、「百人斬り競争! 両少尉早くも80人」の見出しで、次のような記事を発信している。
 概要「その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた2名の青年将校がある。無錫出発後早くも1人は56人斬り、1人は25人斬りを果たしたといふ。野田少尉は無錫を距る8キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、4名の敵を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を切り伏せた」。
第2報 1937.12.4日付け朝刊  丹陽にて3日浅海、光本特派員発として、向井少尉が「丹陽中正門の一番乗りを決行した」と記事にされている。
第3報 1937.12.6日付け朝刊  句容にて5日浅海、光本両特派員発として、「 ”百人斬り”大接戦  勇壮!向井、野田両少尉 」 という見出しで、「勇壮な」向井、野田両少尉が軍刀を前にした姿を写真入りで大きく紹介していた。
第4報 1937.12.13日付け朝刊  紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発として、「百人斬り”超記録” 向井106-105野田  両少尉さらに延長戦」の見出しで、次のような記事を発信している。
 「野田『おいおれは105だが貴様は?』、向井『おれは106だ!』 両少尉は”アハハハ” 結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、 結局『ぢゃドロンゲームと致さう。だが改めて150人はどうぢゃ』 (向井少尉は)『俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろとも唐竹割りにしたからぢや・・・』と飛来する敵弾の中で106の生血を吸った孫六を記者に示した」。

 この記事が数奇な運命を辿っていくことになるのが「百人斬り事件」の特質と言える。どういうことかというと、この文中記事によれば、1・白兵戦の中で敵を斬った武勇伝として描かれている。2・但し、向井・106-野田・105の殺人記録の中には、必ずしも白兵戦ではなく、据え物斬り殺人競争をも行われていたのではないか。3・果たしてこの記事はノンフィクションなのかフィクションなのかの疑念が拭いきれない、という三種の観点から物議を醸していくことになる。

 ちなみに、向井、野田両少尉のうちの野田少尉による戦後の次のような証言が確認されている。それによると、「百人斬り」というのは戦闘中に 勇敢に敵を斬ったというのではなく、ほとんど無抵抗の中国人を斬殺した「百人斬り」模様であったようである。野田少尉が帰国して、故郷の小学校で語った内幕は次の通りである。それを直接聞いた志々目彰氏が紹介している。

 概要「郷土出身の勇士とか、百人斬りの競争の勇士とか新聞に書いているのは私のことだ。実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵は馬鹿だから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱし から斬る。 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ。 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない」(月刊誌『中国』・1971年12月号)。

 「百人斬り事件」本筋から外れるが、この事件が実際にあったとしてのことだが、ほとんど無抵抗の人を百人以上も斬り殺して「何ともない」といっていることになる。戦争という特殊心裡下にあっては何ともなかったということであろうか。

【向井、野田両少尉、戦後突如逮捕される】
 通例であれば、こうした「百人斬り競争事件」も歴史の中に埋もれるところであるが、そうはならなかった。「百人斬り競争事件」の重みがここにある。終戦後、戦犯を裁く軍事法廷が各地で開かれた。この2名の兵士は、南京の戦犯裁判で責任を問われ、絞首刑に処せられるという運命になった、と言う重みにおいて「百人斬り競争事件」は画然としている。

 巷間伝えられるところの「大虐殺事件」によれば、「百人斬り競争事件」なぞ物の数ではないほどの虐殺証言があまた流布されている。その「南京大虐殺事件」の戦犯を裁く法廷で、選りによってこの2名が死刑を言い渡されていると言う史実がある。南京裁判において死刑に処せられたのは4名であり、他の指揮官クラスの責はここでは触れないとして、この2名はいわば一般兵士であった。もう一人三百人斬り事件で名を馳せていた1名がいるようであるが詳細不明である。

 このこと自体をどう見るのかと言うのも重要ではあるが、「百人斬り競争事件」が「南京大虐殺事件」を象徴する重みとして位置付けられており、決して「南京事件」の一つのエピソードに過ぎないとする訳には行かないということが確認されねばならないであろう。ここの認識を正確にしておかないと、「百人斬り競争事件」考察の価値が毀損されることになる。

 ところで、向井敏明氏が逮捕される経過が次のように明らかにされている。
 「元帝国陸軍大尉・向井敏明のもとに警察が訪れたのは、復員後1年足らずの昭和22年であった。米軍憲兵が彼を捜しているという。警察は暗に逃亡を進めたが、『自分は悪いことをしていないから、 出頭します』と答えた。妻は、虫の知らせで『もしや、百人斬りの事が問題になるのでは?』と聞いたが、向井は『あんな事はホラさ』と、事もなげに言った。しかし妻の不安は的中し、これが夫婦の最後の会話となった。 向井は南京に連れ去られ、『百人斬り』をした戦争犯罪人として死刑となったのである」。

 詳細不明であるが、向井・野田両氏はいきなり南京に連れ去られたのではなく、その前にGHQに呼び出され取調べを受け、更に東京裁判でも「百人斬り競争事件」が虐殺の象徴的事例として注目され、「二将校を拘留し、尋問」とある。この時のことであると思われるが、浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けているようである。鈴木氏は次のように書いている。
 概要「どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、 ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない” といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別々にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』 と強調した」。

【向井、野田両少尉が南京軍事法廷に立たされる】
 結局、新聞記事では証拠にならないということで2兵士は放免されたと伝えられている。「東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した」とある。こうして東京裁判からは解放されたものの、向井、野田両名は、戦後、浅海記者の記事が証拠となって南京に送られ、南京軍事法廷に立たされる事になった。両少尉は法廷で、この記事自体が、「記者の創作せる架空的なる嘘説にして事実無根なる通信なり」と訴えた。少尉が、「花嫁を世話して下さい」ともちかけ、記者が、「戦場で何か手柄話があればいい。こちらもネタがなくて困っている」と答えた冗談話が発端だという。

 この時の向井少尉の裁判中の様子の記録と遺書が残されており、それによると、「裁判中、家族が浅海記者に、あの記事がでたらめだったことを証言してくれ、と必死に頼んだようである」。が、浅海記者が書いてくれたのは、「同記事に記載されている事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」という「消極的証言」だった。

 これを、「両記者は南京の軍事法廷にも嘆願書を送っており、嘘にならない範囲内で精いっぱいの弁護をしています」と「積極的証言」と見る向きもあるが、この解釈はおかしい。厳密には、「これは非常に巧妙なセリフ」で、「『百人斬り事件』そのものの存在事実は別として、ただ二少尉がそれを自分で話していたのは事実です」という「現場を目にしていないことは認めつつも、創作であるとは元明しなかった」と受け取るべきであろう。事実、判決は、概要「記事が虚偽というのは自らの罪を言い逃れるためである。東京日日新聞は日本の重要なる刊行物で証拠になり得る。その野蛮的行為は倫理にも反し、これは実に人類の蠢賊(しゅんざく、害虫の意)であり文明の公敵である」と判断した。結局は逆に、二少尉と「百人斬り事件」との因果関係を証明したことになり、向井、野田両氏を弁護する役には立たなかった。

【数多くの嘆願書が提出される】
 南京法廷には他にも数多くの嘆願書が出されている由である。そのうち最も重要なのは直轄の隊長である富山武雄氏の証言で、概要「この砲兵大隊は12月12日に南京東方で停止し湯水東方に駐屯したので、紫金山に二人がいるのはおかしい。向井少尉は12月2日迫撃砲弾により脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため当時は救護班に収容されていた。原隊に復帰したのは15日だから、12日に紫金山上で新聞記者と両少尉が会うはずもない。浅海記者と向井少尉は無錫でしか会っておらず、その後記者達は自動車で南京へと移動したのでその間二人と会ってはいない筈である」と、冤罪説をしたためていた。この直轄の隊長である富山武雄氏の冤罪証言は永らく無視されてきたが、後述するようにこのたびの産経新聞記事と照らし合わせると信憑性がかなり高い証言であったということになる。 

 向井少尉は処刑の前に、次のような遺書を残した。
 「我は天地神明に誓ひ 捕虜住民を殺害せることは全然なし。南京虐殺等の罪は全然ありません。死は天命なりと思ひ、日本男子として立派に中国の土になります。然れども、魂は大八州(おおやしま、日本)に帰ります。我が死をもって中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです。中国の奮闘を祈る、日本の敢闘を祈る、天皇陛下万歳、日本万歳、中国万歳、死して護国の鬼となります」。

 一方の浅海記者は戦後、毎日新聞を代表する「大記者」として活躍し、定年退職後は「日中友好推進派」として、毛沢東や文化大革命を礼賛した数冊の著書を残している、ということである。

【向井、野田両少尉、南京戦犯裁判で判決くだされ、絞首刑に処せられる】
 通称「南京戦犯裁判」は、向井歩兵砲小隊長と野田副官に対し、いかなる理由で起訴し、どのような証拠をもって死刑としたのか。「南京事件資料集 2中国関係資料編 南京事件調査研究会・編訳(p360~364)」に判決文要旨が紹介されているとのことであり、これを参照する。
 
 中華民国の南京戦犯裁判第1号事件(正式名称は「中国国防部戦犯裁判軍事法廷」)で、1947.12.18日に下された.判決主文は、「向敏明・野田岩(野田毅)・田中軍吉は、戦争中捕虜および非戦闘員を共同で連続して虐殺をおこなった。よって各人、死刑に処すものとする」と言い渡した。

 事実として、概要「向井敏明・野田岩は戦争中日本軍第十六師団に所属し、両人とも少尉で、小隊長および副官であった。民国26.12月、南京侵攻作戦においてわが軍の頑強な抵抗にあったことへの恨みのあまり、計画的虐殺をおこない憤りを晴らした。向井敏明と野田毅は紫金山山麓で殺人ゲームをおこない、鋭利な刃物を振り回し老若の別なく逢えば斬り殺した。その結果野田毅は105人であったのに対し、向井敏明が106人を殺して勝利した云々」と断定している。

 理由として次のように述べている。
 「調査によれば、本事件被告向井敏明および野田岩は、南京侵攻作戦において紫金山山麓で殺人ゲームとして捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった。その結果、野田毅が105人殺害したのに対し、向井敏明が106人を殺害して勝利した事実は、当時南京に滞在していた外国人記者ティンパレー(H.J.Timperley)の著した『日軍暴行紀実』にすでに詳細に記述されている。それだけではなく、それは極東国際軍事裁判法廷中国検察官事務所が捜査・入手した当時の『東京日日新聞』に、当被告らがどのように紫金山山麓で『百人斬り』競争をしたか、虐殺記録を超過達成したあと、どのように二人が血のついた刀をかざして笑みをうかべて向かい合い勝敗を語っていたかが掲載されていることも一致している。ならびに『百人斬り競争の両将校』等の説明書きのある、当時被告らが各々凶器の刀を手に武勲を誇示している写真も上記の事実の証明を補強するものである。そのうえ南京大虐殺事件の既決犯谷壽の確定判決所載の内容を参照することもできる」。 

 判決は、個々の殺人の具体的な立証は行わず、記事のみを根拠とした。さらに起訴状では戦闘中とされていた百人斬りが、判決文では「捕虜・非戦闘員を殺害」に代わっていた。問題の新聞記事に捕虜、市民の殺害記述はない。記事を唯一の証拠としながら、そこに書かれていない「事実」をもとに判決を下していることになる。(2009.8.13日日経新聞30面「BC級戦犯裁判第1部3、百人斬り事件」参照)

 判決文の理由付けで重要な役割を演じている外国人記者ティンパレーの素性が胡散臭い。曾虚白氏(中国国民党国際宣伝処を発足させ、その機関の責任者であった。1949年の中華人民共和国の成立後に台湾にわたり、中央通信社社長を務めた)の自伝の中で次のように述べられている。
 概要「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝処を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった、オーストラリア人である。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわなければならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。この後ティンパーリーはその通りにやり、二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。

 ここで云われている二冊の著作の一つは、「南京の『殺人競争』(Murder Race)」という表題がつけられた「―実録・南京大虐殺―外国人の見た日本軍の暴行」(ティンバーリィ原書、訳者不明、評伝社)」のことと思われる。かような役割で立ち働いたティンパレーの指摘する「実録・南京大虐殺」が信頼されるに値するものであろうか、そこで挙げた証拠が使用に耐えられるであろうか、という疑問が当然発するであろう。

 鈴木明氏は、著書「南京大虐殺のまぼろし」(文藝春秋社)のp82で、上訴申弁書を掲載しており、その文中には次のような記載がある。
 「原判決は、被告などの『百人斬競争』は当時南京に在りたるティンパーリー(原文では田伯烈)の著『日本軍暴行紀実』に鮮明に掲載しあるを以て証し得るものなりと認めあるも、『日本軍暴行紀実』に掲載されある『百人斬競争』に関する部分は、日本新聞の報道に根拠せるものなり。該書は本件関係書類として、貴法廷にもあり。復ねて参照するも難しとせず、すなわち、ティンパーリーの記述は明らかに南京に於いて目撃したるものに非ざること言を俟たさるものなり。然るに、原判決のいわゆる『詳明に記載しあり』とは、如何なる根拠に依るものなりや、判知し得さるところなり。

 いわんや新聞記事を証拠と為し得ざることは、己に民国十八年上字第三九二号の最高法院の判例にも明にされあり。それは単に事実の参考に供するに足るのみにして、唯一の罪証と為す能わざるものなり。なお犯罪事実は須く証拠に依って認定すへきものにして、これらは刑事訴訟法第二六八条に明かに規定せられあり。

 そのいわゆる『証拠』とは、積極証拠を指して言うものなることは、己に司法院に於いて解釈せられたるところなり。而して貴法廷には、被告らの所属部隊と異なる兵団の部隊長たる谷壽夫の罪名認定を以て被告らに南京大屠殺に関する罪行ありと推定判断せるものなるも、かかることの不可能なることは、些も疑義なきところなり」。

 鈴木氏の云わんとするところ、もっともなりしと云うべきではなかろうか。

 2003.11.29日 れんだいこ拝

【向井、野田両少尉の遺書】
 林俊嶺真実を知りたい-NO2」の2015年07月15日付ブログ「「百人斬り競争」 野田・向井両少尉の遺書(日記)」参照。
 大日本帝国陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、「南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人を斬るか」を競ったとされる「百人斬り競争」について、鈴木明「新南京大虐殺のまぼろし」(飛鳥新社)には、この件に関して下記のように書かれている。”どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能である、と判断し、起訴はしないことにした。” 
 
 野田少尉は”つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。”と書いている。「百人斬り競争」に関しては、 ”只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。”と正当化している。向井少尉も同様に”我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。” 、”公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。”と書いている。「戦闘行為」であり、「捕虜住民を殺害せる犯罪」ではないとしている。

 向井少尉も、野田少尉も、戦場で連日日本刀を振り回す白兵戦を強いられるような立場になかったことはよく知られている。2人は同じ第十六師団・第九連隊・第三大隊所属であり、野田少尉は第三大隊の副官、向井少尉は歩兵砲小隊の小隊長である。また、第十六師団を率いた中島今朝吾師団長(陸軍中将)が、その日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」と書いている。そして、多数の第十六師団諸聯隊の将兵が陣中日記等に捕虜殺害の事実を書き留めている(452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言・453南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言・454南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の証言等参照)。向井少尉は、「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり……」と書いている。また、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です」とも書いて言いる。さらに「浅海様にも御礼申して下さい」とまで書いている。

  下記、資料1、野田少尉の遺書は12月20日から1月28日の日記の一部を、資料2、向井少尉の遺書は全文を、『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)から抜粋した。
 資料1
 日支の楔とならん 野田毅               
 鹿児島県出身 陸軍士官学校卒業 元陸軍少佐                     
 昭和23年1月28日、広東にて銃殺刑。35歳
 遺書(日記より)  昭和22年12月20日

 公判は12月18日南京市の公会堂の様な処でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆が一杯でした。女子供もいました。

 日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今迄の戦犯公判では一番立派な態度でした。」と後から通訳官や其他の人から聞きました。最後の檜舞台のつもりで大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間拍手があつたり、或は民衆の喧々轟々たる声があつたらしいですが吾々の時は終始静粛でありました。中国の民衆も耳を傾けて吾々の云ふ事を聞いていた様で吾々に対する悪い感情といふ様な雰囲気は別に感じられませんでした。最終発言では一言一句力をこめて申し上げました。一緒に公判を受けた向井君(向井敏明少佐)は長時間ねばつて答弁しました。田中さん(田中軍吉少佐)は聴衆の方々に向かつて「私の死刑は問題ではありません。中国と日本との親善の楔となれば幸いです」と云ふ意味の熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛び散る観がありました。

 公判の最後に死刑の宣告がありましたが別に感動も何もなく、まるで他人事の様な気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。田中さんは私と同じく身動きもせず毅然としていました。帰途の自動車(トラック)の上では田中さんが「海ゆかば」を歌い向井君も之に和していました。 
 12月30日
 今日は30日明31日を1日余すのみとなつた。向井君は昨夜一睡もせず田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を読み疲れて寝てしまつた。私は幼時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だつたと思う。だが、何時の間にか神経の鈍い男になつてしまつた。寸前の死の観念が心臓にも神経にも何等響きを持つて来ない。死に対する恐怖がない。死が直前にぶらさがつていても食事前の気分、読書の気分と何等変りがない。と云つて全然死を忘却しているわけでもない。面白い心理だ。

 戦争では気がたつて興奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても尽忠報国の気分が之を圧倒していた。然し平静な時に死刑を宣告されて平静心のままで居られることは私も35才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の聖人、賢士、哲人、高僧、偉人、武将、も結局私と同じ心境だと信ずるに到つた。

 つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
 愛と至誠のある処に人類の幸福がある。  
 死刑執行の前日である。爪を取る。故郷への形見である。
 天皇陛下万事!
 中華民国万歳!
 日本国万歳!
 東洋平和万歳!
 世界平和万歳!
 死して護国の鬼となる。
 絶唱
 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 
 昭和22年12月31日 朝 死刑執行の日 野田毅
 我は日本男児なり
 昭和22年12月31日
 1月28日
 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々

 死刑に臨みて
 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚くお礼申し上げます。只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児最後の如何なるものであるかをお見せ致します。今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以つて死刑を判決したり、或は抗戦8年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。我々は死刑を執行されて雨花台(法廷)に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
 中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
 野田毅
 資料2
 向 井 敏 明
 千葉県。元陸軍少佐。昭和23年1月20日、南京に於て銃殺刑。36歳
 時世
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨て石となり幸ひです。中国の奮闘を祈る 日本の敢奮を祈る

 中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります。
 12月31日 10時 記す 向井敏明
 遺書
 母上様不幸先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが、公判に間に合いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ、人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となつては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。

 猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした。兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明も猛の手紙も見たのです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間のすることではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねて御不自由の御身老体に加え孫2人の育成の重荷を負せまして不孝これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当苦労する事は明らかですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互いに相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生きる為に収入の道も拓かねばなりますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です。早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理には申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。

 母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりとお姿が浮かんで来ます。子供等も家も浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不孝の連続でたまらないものを感じます。赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮らして下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過ごして下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不孝の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と3名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝へ願います。
 日記の中より
 今日31日執行せられると言ふ朝は何一つとして頭心慾と言ふべきものは無かつた。然し之も正確には言へない弱さがある。血の流れある限りとも言ふべし。立派に武人らしく斃れよう安らかに我家に還らんと服装を正して待つた。思つたより平静で居られたのは不思議でならない。時間の経つのも長い様にも短い様にも思つた。正確には判断が出来ない。合掌をして居たと言ふ事より記憶がない。唯日常より真剣に合掌が出来たと言ふ満足があるのみで陽が西に廻つて来た頃今日はもう無いよと野田君が言ふと田中氏が奇蹟現出だ、我々は助かると喜びの声が震えて壁に打ち当つて聞える。突然生への愛着を覚えて来た。空腹を感じる。今朝向ふの人に渡した味噌が欲しくなつて来た。生きていると美味い煙草だと田中氏が笑つて呼びかけて来た。本当だ、自分も同調、明日は正月だ、3日間は大丈夫と言い合つたら各々御馳走が来るだろうと楽しみにした。楽しみつゝ早寝した。精神的の疲れとでも言おうか追ひ込まれるような眠たさだ。何時か誰かに聞いたが死ぬ前は馬鹿にねむたいと言ふ事を思ひ出した。或はそうかなとも思ひうとうとする。

 元旦、気が抜けた。未だ奥歯に物の在る元旦で限られた3日正月の様に淋しい感じがする。声を張り上げて君が代を唱つた。野田君の部屋からも聞えて来た。念仏を暁方から始めて居たが念仏を念ずるときが一番幸福だと感じた。君が代を唱つて番兵に階上に上官が寝て居るので静かにせよと注意される。やつぱり念仏に限る楽しさが増して来る。朝食前マンヂウが5ヶ宛来た、万寿とは上々と田中氏喜ぶ。味は全然無いが美味しかつた。2つは本当に呑んだやうだつた。料理が十時頃来たが獄舎で作つたとの事。80万元か90万元の料理だと言つて居たが成程とうなづけるものばかりだ。碗一杯と小皿一杯ではあつたが3人喜んで喰ふ。生きて居ないと駄目だよ、マンジウも喰はないで供えて貰ふところだつたねと、田中氏のにこにこ笑う顔が見える様だ。満腹すれば寝正月より他になし。29日、30日夜寝ずに遺書を書き念仏を唱えて居たので風邪を引き咳が出て苦しめられる。3日目の今日あたり少々楽になつて来た。3日間喰つては寝るの正月だつた。この3日が人生の一番ゆつたりとした日になるだろう。生きて居れば思い出の日だ。

 昭和23年1月28日、様子が変である。最後の様である。28日午前12時南京雨花台にて散る。
 母上様、妻子元気で幸福に生きて下さい。頑張つて下さい。さようなら。
 母上様御恩の万分の一も尽されず、先立つ不孝を御赦し下さい。孫等のためいついつまでも永生きして下さい。後をたのみます。

 皇室のいや栄を護り奉る
 天皇陛下万歳
 日本国万歳
 平和日本の再建
 国民一同の御奮闘を祈る  
 誓つて国家を護り奉る







(私論.私見)