遺族の訴訟考



(最新見直し2006.6.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【遺族が、南京攻略「百人斬り」報道などで、朝日などを提訴】
 2003(平成15).4.29日付け産経新聞は、「南京攻略『百人斬り』報道 朝日などを遺族提訴 乏しい信憑性、名誉棄損」の見出しで、次のように報じている。「百人斬り事件」は新たな展開を見せつつある。

 昭和十二年の南京攻略戦で旧日本軍の将校が日本刀で殺人ゲームを行ったとされる「百人斬り」報道で、二将校の遺族が、信憑(しんぴよう)性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き、名誉を傷付けられたとして記事を報道した毎日新聞社(当時・東京日日新聞)と朝日新聞社、元編集委員の本多勝一氏などを相手取り総額千二百万円の支払いと出版差し止めを求める訴訟を二十八日、東京地裁に起こした。

 訴えたのは、十六師団の野田毅、向井敏明両少尉の遺族三人。訴状によると、両少尉は南京攻略戦で、どちらが先に百人斬るか競争したと東京日日新聞に報道され、南京軍事裁判で無実を訴えたが処刑された。

 「百人斬り」は「南京で捕虜・市民三十万人が日本軍に組織的に虐殺された」とする“虐殺派”の証拠として頻繁に持ち出されてきた。昭和四十六年に朝日新聞が「中国の旅」の中で連載。翌年には本多氏が「中国の旅」(同社刊)を出版し、両少尉の実名(その後、イニシャル)で掲載し論争となった。遺族は、東京日日新聞の記事は創作で二人は冤罪(えんざい)で名誉を傷付けられたとし、朝日、毎日両社に訂正謝罪広告を掲載するほか、本多氏と「南京大虐殺否定論13のウソ」を出版した柏書房(本社・東京)とともに慰謝料など総額千二百万円を支払うよう求めている。

 「百人斬り」はノンフィクション作家、鈴木明氏の大宅賞受賞作「『南京大虐殺』のまぼろし」(昭和四十八年、文芸春秋)などで虚構性が明らかになり、記事自体が戦意高揚目的だったこともわかっている。

 毎日、朝日両新聞社と柏書房は「訴状をよく読んで対応する」とした。本多氏はコメント要請に対し回答がない。

 2003(平成15).4.30日付け産経新聞の「産経抄」は、次のように報じている。「南京攻略戦の日本人将校『百人斬り競争』報道で、二将校の遺族が毎日新聞、朝日新聞などを相手に東京地裁に訴えを起こしたと聞いて胸が痛んだ。あれから六十六年、暗黒の日本犯罪史観はいまも改まっていないからである」。他にも次のような記述が為されている。

 ▼この記事は同十一月三日付の同紙で、二人の青年将校、向井敏明少尉(二六)と野田毅少尉(二五)が百人斬り競争を企てたという報道の報告だった。これが元で二人は戦後の軍事裁判で処刑されたが、記事は“南京大虐殺”の証拠として何度となく持ち出された。

 ▼朝日の元編集委員・本多勝一氏は「競う二人の少尉」として中国ルポで使っている。こうして「まやかしめいたネタ」(鈴木明氏『「南京大虐殺」のまぼろし』)が学校などでも歴史的事実として独り歩きをはじめた。二少尉の遺族は悲しみの日々を送ってきたという。

 ▼佐藤振寿(しんじゅ)氏は昭和七年に東京日日新聞にカメラマンとして入社、南京攻略戦を従軍取材した。その佐藤さんなどは「あの記者が記事はフィクションですと一言はっきりいえばよかったのです」と語り、“南京大虐殺”を明確に否定している。

 ▼『アジアの戦争』を書いたエドガー・スノーのような意図的に侮日のジャーナリストもいるにはいたが、日本の“悪”を喜々として書くのはおおむね日本人である。「最も反日的なのは日本のマスコミ」という世間の評判は残念ながら当たっている。


 産経新聞の2003.5.4日付け「産経抄」は、「毎日新聞記者手荷物爆発事件」に言及しつつ次のような一文を書いている。「▼余談だが、昭和十二年の南京攻略戦で日本軍の『百人斬り競争』という虚構の記事を書いたのは、東京日日新聞(現毎日新聞)の従軍記者だった。戦意高揚のためだったとされる。しかしそこには間違いなく『何を書いてもいい』という記者の思いあがりもあった。▼言うまでもないが、イラクに集まった従軍記者のほとんどは勇敢に真面目に取材に当たった。こんどの事件でその誇りを傷つけられたとすれば被害者だ。毎日新聞社が謝罪すべきは、死傷者ばかりでなく彼らに対してもである」。

【木村愛二氏が参戦する】
 木村愛二氏は、上記産経報道に関連させて従軍戦意高揚虚構記事の先輩日本で毎日・朝日・本多勝一を遺族提訴の卑劣報道で、次のように述べている。

 こうなれば当然、提訴は間違いないと判断できるので、早速、かつての争議団時代に通い馴れたる東京地裁に電話をして、事件番号は「平成15ワ9271号」、原告の代理人は、稲田朋美と確かめ、日弁連に電話して、代理人の事務所は西梅田法律事務所、電話は06-6363-1622なり、これも直ちに電話して、「この件は自分も本多勝一の被害者で詳しいから協力する」と約束した。

 続いて、朝日新聞の広報に電話して聞くと、提訴の日の4月28日の夕刊に載せてあるとの返事を得た。私は、直ちに図書館に赴き、産経、毎日、朝日の該当記事を複写した。読売、日経、東京の報道はなかった。産経は朝刊で半頁に近い。4段縦見出しの電網発表の上記と同じ記事に加えて、解説の囲み記事もある。

 ところが、ところが、被告の毎日、朝日の記事は、案の定、「仕方なし」見え見えの報道振りで、1段見出しの実に実に小さな扱いである。両社ともに、「訴状の内容を検討した上で」などと、実に実に白々しい。卑劣極まりない。許し難い。新聞の「戦争犯罪」とその上塗りの名誉毀損の数々の自覚が、まったく見当たらない。

 この件に関する「わが闘争]の内の東京地裁における裁判の記録と関連記事は、以下に入っている。この中には、本多勝一の「名誉毀損」常習犯歴の証明として、「南京事件」の出鱈目報道振りと以後の居直り振りが、詳しく記載されている。




 木村氏は次のようにコメント付けている。「産経の『爆発物』持ち歩き便乗『百人斬り競争』虚構記事蒸し返し批判に、どう答えるか毎日、はたまた元朝日の本蛇蝎一よ!日本インチキ・メディア戦争やれ!」。

百人斬り訴訟 口頭弁論始まる】
 2003.7.8日、「百人斬り訴訟」の口頭弁論が始まり、遺族は切々と「父の汚名そそぎたい」と訴えた。この日、向井敏明少尉の二女で原告の田所千恵子さんが意見陳述し、「『百人斬り』が真実ならどんなことでも耐えますが、うそなのです。汚名を着せられ、歴史に残るのは残念」と訴えた。

 産経新聞に拠れば、田所氏は次のように語っている。父親が無実を訴えながら処刑された後、昭和23年、千葉にあった祖母と叔父の家に預けられた。周囲の人が「あの子は戦犯の子供」とささやく言葉を耳にし、祖母に「戦犯って何?」と尋ねて困らせたこともあった。周囲が一気に波立ったのは、結婚後の昭和46年、朝日新聞の本多勝一元編集委員が執筆した「中国の旅」が連載されてから。記事は翌年、同社から単行本として出版された。家庭では口論が毎晩絶えなくなり、次第にうまくいかなくなった。夫は、会ったこともない向井少尉を悪く言い、「人殺しの娘」呼ばわりされて、ついに離婚を決意した。 職場でも「戦争だったのですから仕方ないですよね」としばしば励まされた。「百人斬り」が事実であるという前提の言葉に、逆に傷つけられた。マスコミへの恐怖と失望を抱き、「戦犯・南京・抗日」といった言葉には常に過敏に反応してしまう。気持ちを張り詰めた生活が続き、今も心穏やかに過ごせる場所はないままだ。

 「中国の旅」の文庫本では、実名表記がイニシャルに改められているが、「周りのほとんどの人は誰のことか知ってますし、注釈では『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、ますます残虐な人間に描かれている。本多さんはどこまで私たちを侮辱するのか」と声を震わせた。裁判長に「遺族にとってこの裁判は最初で最後の機会。公正な裁判を信じ、父たちの汚名をそそぎ、精神的苦痛から解放されることを願っています」と訴えた、とある。
 この裁判は2004年現在東京地裁で続行されている。2004.7.9日、れんだいこ主催の「左往来人生学院」に次のような投稿が為されたので記録しておく。
【冤罪・報道被害】名誉回復の闘い つるみ 2004/07/09
 管理人様 掲示板お借りしますm(__)m
 昭和23年、戦意高揚の目的と冗談からはじまった虚報の新聞記事で、二人の日本人が南京で銃殺されました。その際、記事を書いた東京日日新聞(今の毎日新聞)の記者が「あれはウソだった」と証言すれば二人は殺されなかったのに、記者も新聞社も、保身のために黙してしまいました。

 そして、それを根拠に本多勝一らの心無い新聞記者などによって、今もってこの二人をまるで殺人狂のように貶める記事がまかり通り、いわれなき「南京大虐殺」の象徴にすらされてしまいました。

 ご遺族の方たちは60年近く、これを耐え忍んでこられましたが「最初で最後の訴訟」として毎日新聞、これをさらに歪曲してあたかも殺人ゲームをしたかのように書き散らし、出版する本多勝一・朝日新聞・柏書房を相手取り、名誉毀損の訴えを提起。傍聴支援を始め、みんなの力で是非ともいわれ無き汚名を返上し、ご遺族をはじめ、日本、日本人の名誉を回復しよう!

 次回公判は東京地裁にて7/12 午前10:15分〜です。10時頃までに東京地裁に結集しよう!
 http://yanagi774.easter.ne.jp/enzai/atama.html
 ※他掲示板、メール、サイト等にどんどん転載してください。

 なお、「『最後のサムライ』を見殺しにした毎日新聞!」が支援サイトのようである。

【2004.7.22日付号の週刊新潮記事「[特集]南京大虐殺『100人斬り訴訟』が暴いた大新聞の歴史的ウソ」】
 2004.7.22日付号の週刊新潮(58−60頁)は、「[特集]南京大虐殺『100人斬り訴訟』が暴いた大新聞の歴史的ウソ」で次のような記事を掲載している。
 南京大虐殺の象徴として、今でもことあるごとに引き合いに出されるのが、日本兵による『100人斬り』である。大新聞が盛んに喧伝した、その「歴史的ウソ」が法廷で暴かれようとしている。創作された記事がもとで、戦犯として銃殺刑に処せられた日本兵の遺族が、昨年名誉回復を求めて提訴。裁判は山場を迎えた。

 7月12日、東京地裁第103号法廷で開かれた民事訴訟に、車椅子に座った老人が原告側証人として出廷した。佐藤振壽氏。大正2年生まれであるから、今年91歳になる。

 佐藤氏は、日中戦争が中国全土に拡大していく最中、昭和12年9月から12月まで、東京日日新聞(現在の毎日新聞)のカメラマンとして上海、南京戦線に従軍した。南京陥落が12月13日。いまや当時を知る数少ない貴重な証言者といえるだろう。佐藤氏は、巷間伝わる「100人斬り競争」などなかったことを証言するために、この日の法廷に立った。

 南京攻略に向かう戦闘で、中国兵を競って斬ったとされるのが、向井敏明少尉(26)“当時”と野田毅少尉(25)“同”である。当時の東京日日新聞が、昭和12年11月30日付の紙面を皮切りに、4回にわたって武勇伝としてそのニュースを伝えたことが発端だった。第1報のほんのさわりを紹介しておく。

 「まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ。(略)銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀『関の孫六』を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る」

 まさに当時の新聞が、戦意高揚のための紙面作りを競っていたことの典型だろう。この記事が災いした。戦後、昭和46年に本多勝一氏が朝日新聞に掲載した『中国の旅』と題するルポの中で、日本兵による残虐行為として断罪したことから世に広まったのである。現在でも、中国各地にある抗日記念館には、「南京大虐殺」の象徴として、当時の新聞紙面と、向井、野田両少尉の写真が大きく展示されている。

 向井、野田両少尉は、昭和22年12月、中国の法廷で戦犯として裁かれ、翌月に銃殺刑に処せられた。その判決の最大の根拠が、当時の東京日日新聞の記事だったのだ。だが、その記事自体が虚構であったとしたら、2人の少尉は新聞報道によって殺されたことになる。

 これまでにも、研究者によって「100人斬り」などなかったことがたびたび論証されてきた。しかし今回の裁判は、昨年4月、向井、野田両少尉の遺族が、記事の訂正など名誉回復を求めて、毎日新聞と朝日新聞、本多勝一氏などを相手取って提訴したものである。遺族は、長い間、筆舌に尽くしがたい苦労を味わってきた。

 「訴訟という形になればいいなと思っていましたが、公務員という仕事をしていましたし、お金もかかるので無理だと思っていました」と、原告の1人である向井少尉の次女の千恵子さん(63)は話す。彼女は、成田市役所に勤務し、課長、図書館長を歴任して平成13年に退職した。「父のことで、“戦犯の子供”と言われ続けて生きてきました。ことに本多勝一さんの連載が始まり、父たちのことを“殺人鬼”として登場させて以来、職場や家庭でも影響を受けました。夫からも、“お前は人殺しの娘だ”と言われるようになり、毎晩のように口論になりました。それがもとで離婚することになったのです。図書館の戦争コーナーには、左翼系の本ばかり置いてあります。このままにしてはおけない、という思いから、本格的に父のことで活動を始めるようになった。そもそも毎日新聞が訂正しなかったために、孫引きでいろいろなことを書く人が出てきてしまったのです」

 野田少尉の妹で、鹿児島県下に住む野田マサさん(75)もこう話す。「向井さんに誘われて、私も訴訟に参加することにしました。一昨年、ちょうど向井さんが訪ねてこられる直前に、鹿児島で新聞やテレビ、教職員組合の後援で南京大虐殺の展示会が開かれたんです。娘が行きまして、主催者に会いたいとお願いしたら、“平和教育のためにやっているんだ”と言われたそうです。兄の写真も飾られていたみたいです。毎日と朝日には間違いを認めてほしい。南京の兄の写真も撤去してもらいたいと思います」

 支援組織もできたことで、遺族はようやく訴訟にこぎつけた。戦後、半世紀以上を経た今日でも、遺族にとっては重くのしかかる問題だったのである。

 「ホラ話を書いた」

 問題の東京日日新聞に掲載された向井、野田両少尉の写真は、そもそも佐藤氏が撮影したものだった。記事を執筆したのは、浅海一男記者(戦後、毎日新聞労組委員長。退職後、中国問題評論家。故人)。佐藤氏と浅海記者は、南京攻略の途上、常州に一番乗りした第16師団の片桐部隊と合流する。そこで向井、野田両少尉と出会った際の様子を、佐藤氏はこう振り返る。

 「浅海から“将校が2人いるんだけど、タバコを切らしているんでやってくれ”と言われたのです。私は、上海で買い込んでおいたタバコを彼等にあげました。その時に、浅海から、“これから南京に入るんだけど、100人斬るんだって。だから写真を撮ってやってくれ”と言われたのです。それで2人に、“どうやって100人斬るんだ。まさかチャンバラじゃないだろう?”と聞くと、“白兵戦をやるから”と言うのです。“誰が証明するんだ?”と聞くと、“私の当番兵が勘定する”と説明したのです」

 しかし、佐藤氏は2人の話を信用しなかったという。「野田さんは大隊副官で、向井さんは歩兵砲の小隊長でした。2人とも兵を指揮する役職ですから、刀を振り回して白兵戦に参加することはありえない。私は最初からホラ話だと思って、たいして気にもとめていなかったのです。その後、2人には会っていませんが、2人が所属していた冨山大隊には何度も行きました。そこの兵隊から100人斬りの話は聞いたことがありませんでした」

 佐藤氏が両少尉に会った時点では、まだ競争は始まっていない。しかし第1報ではすでに何十人も斬ったことになっているのである。佐藤氏は、まさかホラ話が記事になるとは思っていなかったという。「前線にいると内地の新聞は来ません。その後、上海に引き揚げた時に、支局でバックナンバーを見ていて記事に気がつきました。“あいつ、ホラ話、書きやがったな”と思いましたよ」

 そしてこう懺悔する。「南京大虐殺記念館では私の写真を勝手に使っている。南京軍事裁判でも、人定尋問で私の写真が使われた。記事はウソでも写真は本人に間違いないですからね。その新聞がもとで銃殺されてしまって遺族の方には申し訳ないと思います。私が今回証人として出ることにしたのは、遺族への謝罪の気持ちと、真実をはっきりさせなければならないと思ったからです。陸軍省は、ホラ話でも、戦意高揚のために都合のいい話だから検閲を通してしまったんですよ」

 米軍の取調べでは釈放に

 浅海記者は、100人斬りの現場を目撃して記事を書いたわけではない。先の向井千恵子さんは、「父が死んだ理由を聞かされたのは小学校3、4年生の時です。祖母は100人斬りについて、父から“食後の冗談で言っていた全くのホラ話だよ”と聞かされていたと言いました」と語るが、佐藤氏の証言を裏付ける話はいくつもある。

 後に野田少尉の遺品の中から、当時、浅海記者との取材のやり取りを詳細に記録した手記が発見されている。それを読む限りでは、野田少尉が持参していた刀で何人斬れるか、といった雑談から、浅海記者のアイデイアで、100人斬りの武勇伝が生まれた様子がうかがえる。確かに、その場で100人斬りの話題にはなったのだろう。少尉も大言壮語したと思われる。とはいえ、事実かどうかも確認せずに送稿したのだから、明らかに創作である。

 さらに、向井少尉は南京で裁判を受ける前に、東京でも取調べを受けているが、この時には釈放されている。南京事件に詳しい評論家の小堀桂一郎氏はいう。「南京戦は近代戦で、銃撃戦ですから刀を振るって100人も斬るなんてことはありえない。戦後まもなくB、C級戦犯を裁く目的で、2人は米軍によって取調べを受けていますが、米軍だって近代戦とわかっているから、事情を聞いてすぐ釈放したのです」

 今回の裁判では、新たな証拠が提出される予定である。裁判を支援しているジャーナリストの水間政憲氏はいう。「南京攻略では、武勲のあった兵士に金鵄勲章が授与されました。仮に戦闘行為で100人斬ったことが事実なら、最高の武勲として記録されているはずです。しかし実際には、記録を調べてみても2人とも受章していません。つまりそもそも100人斬りなどなかったということになるのです」

 被告側は非を認めていない。毎日新聞は裁判の中で、「適正に取材し、かつ正確に記録したもので記事は真実である。他者が誤って引用したとしても、それは今の毎日の責任ではない」と主張している。だが、当の毎日新聞自身が、平成元年に発行した「昭和史全記録」の中の南京関連の項目で、「100人斬りは事実無根だった」とはっきり記述しているのだから、その矛盾をどう説明するのか。

 また、朝日新聞も後に単行本となった本多勝一氏の連載について、「60数年も前の新聞記事の記載を歴史上のものとして紹介したものであり、また、当該行為を当時の戦場でありがちだったものであると論評したものである。したがって、同記述によって両少尉の子や兄弟が社会的に非難されることになるとは、通常考えられない」(準備書面)と主張するのである。

 報道被害を訴える大新聞が、自社の「歴史的ウソ」には頬被りするつもりか。

 木村愛二氏は、「好戦でっち上げ100人斬り記事の護持で生き恥さらす毎日新聞ほかのメディア関係者は日本の恥」で、概要次のように述べている。
 1937年、日本軍の南京攻略戦で、現在は併合されて毎日新聞の東京本社になっている東京日日新聞が、「百人斬り競争」のでっち上げ記事を連載した。この件は、実に根の深い問題だが、わが電網宝庫の以下の特集リンクに、簡略に掲載されている。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/uwa-series.html 興味のある方は、関係箇所を参照されたい。

 私は、今回も、毎日新聞の広報に電話して、これでも訂正せず、遺族に詫びなければ、私が、「日本人として恥ずかしい」から、小泉レイプ事件のように提訴すると通告した。編集綱領制定の記念日もある毎日新聞の労組も、何しちょるのか、好い加減にせい、甘ったれるなよな!

 この件で、裁判の進展があったのだが、このところの超多忙状況で、発売日が7月15日の『週刊新潮』の記事の紹介が、半月遅れた。この記事で重要なのは、「今年91歳になる車椅子に座った老人が原告側証人として出廷した」ことも、さることながら、当の毎日新聞自身が、平成元年に発行した「昭和史全記録」の中の南京関連の項目で、「100人斬りは事実無根だった」とはっきり記述している、との記述があることである。
 
 私は、この「老人」「佐藤振壽」元写真報道班記者の同趣旨の証言を、産経新聞記事で知っていた。それだけでも、毎日新聞は「降参」すべきであると考えて、同紙の広報部に電話したが、応じなかった。私には、毎日新聞の「お守り」をする義理はないから、「昭和史全記録」の記述のことは、この『週刊新潮』記事で、初めて知った。呆れたことだが、毎日新聞は、往生際が悪すぎるのである。













(私論.私見)