遺族の訴訟考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
【遺族が、南京攻略「百人斬り」報道などで、朝日などを提訴】 |
2003(平成15).4.29日付け産経新聞は、「南京攻略『百人斬り』報道 朝日などを遺族提訴 乏しい信憑性、名誉棄損」の見出しで、次のように報じている。「百人斬り事件」は新たな展開を見せつつある。 昭和十二年の南京攻略戦で旧日本軍の将校が日本刀で殺人ゲームを行ったとされる「百人斬り」報道で、二将校の遺族が、信憑(しんぴよう)性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き、名誉を傷付けられたとして記事を報道した毎日新聞社(当時・東京日日新聞)と朝日新聞社、元編集委員の本多勝一氏などを相手取り総額千二百万円の支払いと出版差し止めを求める訴訟を二十八日、東京地裁に起こした。 訴えたのは、十六師団の野田毅、向井敏明両少尉の遺族三人。訴状によると、両少尉は南京攻略戦で、どちらが先に百人斬るか競争したと東京日日新聞に報道され、南京軍事裁判で無実を訴えたが処刑された。 「百人斬り」は「南京で捕虜・市民三十万人が日本軍に組織的に虐殺された」とする“虐殺派”の証拠として頻繁に持ち出されてきた。昭和四十六年に朝日新聞が「中国の旅」の中で連載。翌年には本多氏が「中国の旅」(同社刊)を出版し、両少尉の実名(その後、イニシャル)で掲載し論争となった。遺族は、東京日日新聞の記事は創作で二人は冤罪(えんざい)で名誉を傷付けられたとし、朝日、毎日両社に訂正謝罪広告を掲載するほか、本多氏と「南京大虐殺否定論13のウソ」を出版した柏書房(本社・東京)とともに慰謝料など総額千二百万円を支払うよう求めている。 「百人斬り」はノンフィクション作家、鈴木明氏の大宅賞受賞作「『南京大虐殺』のまぼろし」(昭和四十八年、文芸春秋)などで虚構性が明らかになり、記事自体が戦意高揚目的だったこともわかっている。 毎日、朝日両新聞社と柏書房は「訴状をよく読んで対応する」とした。本多氏はコメント要請に対し回答がない。 2003(平成15).4.30日付け産経新聞の「産経抄」は、次のように報じている。「南京攻略戦の日本人将校『百人斬り競争』報道で、二将校の遺族が毎日新聞、朝日新聞などを相手に東京地裁に訴えを起こしたと聞いて胸が痛んだ。あれから六十六年、暗黒の日本犯罪史観はいまも改まっていないからである」。他にも次のような記述が為されている。 ▼この記事は同十一月三日付の同紙で、二人の青年将校、向井敏明少尉(二六)と野田毅少尉(二五)が百人斬り競争を企てたという報道の報告だった。これが元で二人は戦後の軍事裁判で処刑されたが、記事は“南京大虐殺”の証拠として何度となく持ち出された。 ▼朝日の元編集委員・本多勝一氏は「競う二人の少尉」として中国ルポで使っている。こうして「まやかしめいたネタ」(鈴木明氏『「南京大虐殺」のまぼろし』)が学校などでも歴史的事実として独り歩きをはじめた。二少尉の遺族は悲しみの日々を送ってきたという。 ▼佐藤振寿(しんじゅ)氏は昭和七年に東京日日新聞にカメラマンとして入社、南京攻略戦を従軍取材した。その佐藤さんなどは「あの記者が記事はフィクションですと一言はっきりいえばよかったのです」と語り、“南京大虐殺”を明確に否定している。 ▼『アジアの戦争』を書いたエドガー・スノーのような意図的に侮日のジャーナリストもいるにはいたが、日本の“悪”を喜々として書くのはおおむね日本人である。「最も反日的なのは日本のマスコミ」という世間の評判は残念ながら当たっている。 産経新聞の2003.5.4日付け「産経抄」は、「毎日新聞記者手荷物爆発事件」に言及しつつ次のような一文を書いている。「▼余談だが、昭和十二年の南京攻略戦で日本軍の『百人斬り競争』という虚構の記事を書いたのは、東京日日新聞(現毎日新聞)の従軍記者だった。戦意高揚のためだったとされる。しかしそこには間違いなく『何を書いてもいい』という記者の思いあがりもあった。▼言うまでもないが、イラクに集まった従軍記者のほとんどは勇敢に真面目に取材に当たった。こんどの事件でその誇りを傷つけられたとすれば被害者だ。毎日新聞社が謝罪すべきは、死傷者ばかりでなく彼らに対してもである」。 |
【木村愛二氏が参戦する】 |
木村愛二氏は、上記産経報道に関連させて「従軍戦意高揚虚構記事の先輩日本で毎日・朝日・本多勝一を遺族提訴の卑劣報道」で、次のように述べている。
こうなれば当然、提訴は間違いないと判断できるので、早速、かつての争議団時代に通い馴れたる東京地裁に電話をして、事件番号は「平成15ワ9271号」、原告の代理人は、稲田朋美と確かめ、日弁連に電話して、代理人の事務所は西梅田法律事務所、電話は06-6363-1622なり、これも直ちに電話して、「この件は自分も本多勝一の被害者で詳しいから協力する」と約束した。 続いて、朝日新聞の広報に電話して聞くと、提訴の日の4月28日の夕刊に載せてあるとの返事を得た。私は、直ちに図書館に赴き、産経、毎日、朝日の該当記事を複写した。読売、日経、東京の報道はなかった。産経は朝刊で半頁に近い。4段縦見出しの電網発表の上記と同じ記事に加えて、解説の囲み記事もある。 ところが、ところが、被告の毎日、朝日の記事は、案の定、「仕方なし」見え見えの報道振りで、1段見出しの実に実に小さな扱いである。両社ともに、「訴状の内容を検討した上で」などと、実に実に白々しい。卑劣極まりない。許し難い。新聞の「戦争犯罪」とその上塗りの名誉毀損の数々の自覚が、まったく見当たらない。 この件に関する「わが闘争]の内の東京地裁における裁判の記録と関連記事は、以下に入っている。この中には、本多勝一の「名誉毀損」常習犯歴の証明として、「南京事件」の出鱈目報道振りと以後の居直り振りが、詳しく記載されている。 木村氏は次のようにコメント付けている。「産経の『爆発物』持ち歩き便乗『百人斬り競争』虚構記事蒸し返し批判に、どう答えるか毎日、はたまた元朝日の本蛇蝎一よ!日本インチキ・メディア戦争やれ!」。 |
【百人斬り訴訟 口頭弁論始まる】 | ||||||
2003.7.8日、「百人斬り訴訟」の口頭弁論が始まり、遺族は切々と「父の汚名そそぎたい」と訴えた。この日、向井敏明少尉の二女で原告の田所千恵子さんが意見陳述し、「『百人斬り』が真実ならどんなことでも耐えますが、うそなのです。汚名を着せられ、歴史に残るのは残念」と訴えた。 産経新聞に拠れば、田所氏は次のように語っている。父親が無実を訴えながら処刑された後、昭和23年、千葉にあった祖母と叔父の家に預けられた。周囲の人が「あの子は戦犯の子供」とささやく言葉を耳にし、祖母に「戦犯って何?」と尋ねて困らせたこともあった。周囲が一気に波立ったのは、結婚後の昭和46年、朝日新聞の本多勝一元編集委員が執筆した「中国の旅」が連載されてから。記事は翌年、同社から単行本として出版された。家庭では口論が毎晩絶えなくなり、次第にうまくいかなくなった。夫は、会ったこともない向井少尉を悪く言い、「人殺しの娘」呼ばわりされて、ついに離婚を決意した。 職場でも「戦争だったのですから仕方ないですよね」としばしば励まされた。「百人斬り」が事実であるという前提の言葉に、逆に傷つけられた。マスコミへの恐怖と失望を抱き、「戦犯・南京・抗日」といった言葉には常に過敏に反応してしまう。気持ちを張り詰めた生活が続き、今も心穏やかに過ごせる場所はないままだ。 「中国の旅」の文庫本では、実名表記がイニシャルに改められているが、「周りのほとんどの人は誰のことか知ってますし、注釈では『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、ますます残虐な人間に描かれている。本多さんはどこまで私たちを侮辱するのか」と声を震わせた。裁判長に「遺族にとってこの裁判は最初で最後の機会。公正な裁判を信じ、父たちの汚名をそそぎ、精神的苦痛から解放されることを願っています」と訴えた、とある。 |
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この裁判は2004年現在東京地裁で続行されている。2004.7.9日、れんだいこ主催の「左往来人生学院」に次のような投稿が為されたので記録しておく。 | ||||||
なお、「『最後のサムライ』を見殺しにした毎日新聞!」が支援サイトのようである。 |
【2004.7.22日付号の週刊新潮記事「[特集]南京大虐殺『100人斬り訴訟』が暴いた大新聞の歴史的ウソ」】 | ||
2004.7.22日付号の週刊新潮(58−60頁)は、「[特集]南京大虐殺『100人斬り訴訟』が暴いた大新聞の歴史的ウソ」で次のような記事を掲載している。
木村愛二氏は、「好戦でっち上げ100人斬り記事の護持で生き恥さらす毎日新聞ほかのメディア関係者は日本の恥」で、概要次のように述べている。
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