本多ルポと事件を廻る論争



 (最新見直し2006.6.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【本多記者のルポ「中国の旅」で、「百人切り事件」が大きく取り上げられ、反響を呼ぶ】
 ところで、「百人斬り競争事件」のその後の史実的経過は、「南京事件」同様ヴェールに包まれることになる。「南京大虐殺事件」もその象徴的例証である「百人斬り競争事件」も、一部の研究者を除いては戦後20数年ほどは表舞台に現れぬまま注目されることもなく経過していたということである。

 俄然脚光を浴び始めたのは、日中国交回復交渉に合わせるかのタイミングで為された、1971年に朝日新聞(一部は朝日ジャーナルおよび週刊朝日)に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ「中国の旅」によってである。本多氏は、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行を、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で想起させ、国内に大きな反響を呼んだ。この時の文中で、「百人斬り競争事件」も大きく取り上げられていた。

 その記事を見るのに次のように書かれていた。
 概要「『これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが』と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。 『M』と『N』の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、百人の中国人を先に殺 した方に賞を出そう。 二人はゲームを開始した。結果は『M』が89人、『N』が78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再ぴ命令した。湯山から紫金山まで15キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。 結果は『M』が106人、『N』が105人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった、″どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで8キロで、こんどは150人が目標だ″ この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」。

 本多記者の「中国の旅」シリーズのこの記事には明らかに問題があった。このたびの記事では東京日日新聞の記事と様変わりして、姜根福氏の伝聞証言として断り書き為されているものの、1・いつのまにか敵兵に対する「百人斬り」が一般市民の「殺人ゲーム」に置き換えられ、2・上官が命じたものとされ、3・さらにその競争が3ラウンドに増やされ、4・全体として劇画的仕立てでフレームアップが為されていた。この「明らかな意図的な作り替え」に対し弁明を求められた本多記者は、本文で訂正することなく、「姜さんがそう言ったのは事実」として責任を回避した、とのことである。

 本多記者の長編ルポルタージュ「中国の旅」記事の影響は大きく、次のような事例が報告されている。
 「百人斬り」の向井少尉の虚像は、「殺人ゲーム」のM少尉と して一層パワーアップして復活したこともあって、これを教えた宮城県の小学校で、生徒の一人は次のような感想を残したという。 「ちょっとひどすぎるよ、日本も! おーい、野田さーん、向井さーん。人間のクズめ! 日本のはじ! ちょっと頭おかしいんじゃない。のう神けい外科 にでも行ってもらったら?」。

 山本七平は、本多ルポの記述に異議を発した。フレームアップに憤りを込めて次のように抗議している。
 概要「百人斬り競争事件」は史実であったのか冤罪による処刑であったのか、今日決着がついていない。『日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです』と死んでいった向井少尉は、こういう小学生の声を、草場の陰でどんな思いで聞いている事であろう」。

 更に、戦前・戦後共通のマスコミの体質批判に向かい次のように言う。
 「本多記者の『殺人ゲーム』を読んで、多くの人々は『こういう事実を全然知らなかった』と言った。そういっているその時に、まだその人自身が、実は自分が何の『事実』も知ってはいないことになぜ気が付かないのか。それでいてどうして戦争中の日本人が大本営発表を信じていたことを批判できるのか。『「百人斬り競争』を事実だと信じた人間と、『殺人ゲーム』を事実だと信じた人間と、この両者のどこに差があるのか。こういう信じやすい国民を相手に『平気でうそをつく』記者がいた事、そういう記者をとがめもせず、優遇する新聞社がある事、そしてそれは戦前も戦後も変わらない事を肝に銘じておこう」。

【鈴木明氏が著書「南京大虐殺のまぼろし」で「百人斬り競争虚報説」をぶち上げ、大論争始まる】
 このタイミングに合わせるかのようにして、本多ルポに反撃する形で、鈴木明氏が「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、のっけから紙数の半分を「百人斬り競争事件」の否定の検証に費やし、「百人斬り競争虚報説」をぶち上げた。ここに、「百人斬り競争事件」の史実性を廻って大論争が起ることになった。

 その後の経過として分かる範囲で述べると、原文が分からないので逐条コメントできないが「諸君、1972年4月号」で論争が行われているようである。

【山本七平氏の参戦】
 この論争に山本七平氏も参戦して一石を投じている。山本氏は、「私の中の日本軍」で、自らの従軍体験をもとに、これが完全な創作記事であることを暴いて見せた。曰く、日本刀で3人も斬れば、 どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は折れ曲がり、柄ががたがたになる。まして、「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、木刀でマキを割るのと同様に物理的に不可能であるとした。従軍した軍刀修理の専門家の著書から引用して、「『鉄兜』などという言葉は軍隊にない。日本軍では『鉄帽』と言う」と指摘していた。

 また、「『貴様』は兵隊用語であり、名誉や威厳にうるさい将校は絶対に使わない。『向井少尉、貴公は』と言うはずである。 向井少尉は砲車小隊長であり、野田少尉は部下を持たない大隊副官である。勝手に砲車や大隊長のそばを離れて、敵陣を襲ったり、『飛来する敵弾の中で』新聞記者と話をしていたら、『違命罪』で軍法会議にかけられる」。等々の論拠を挙げ、種々胡散臭さを突いた。 

 山本氏は、このような分析の後に、結局この記事は、浅海記者が「飛来する敵弾の中で」一生懸命取材していますよ、という自分の上司に対する自己宣伝と、「お宅の二少尉が日本刀を振りかざして駆け出せば、シナ兵の百人や二百人はバッタバッタでございますよ」という陸軍に対するゴマスリであると結論付けていた。「二人が浅海記者に何を語ったかは分からないが、こういう記者に出会ってしまったのは、二少尉の一生の不運であった」と明快に指摘した。

 この山本氏と本多記者との論争も行われているようであるが概要が分からない。

【「百人斬り競争虚報説」派のお粗末な批判と本多ルポ支持派の反論騒動顛末】
 この経過で、「百人斬り競争虚報説」派のお粗末な批判が登場して論争に水を差している。「百人斬り」論争の真っ最中に、週刊文春1988.12.15日号で、「“創作記事”で崩壊した私の家庭、朝日・本多記者に宛てた痛哭の手記」なる記事が掲載され、東京日日新聞の浅海記者の記事を本多氏が書いたものと誤報した上で、本多氏に対して「“創作記事”で崩壊した私の家庭の責任を問う」というお粗末が為されている。

 これに対し、当然ながら本多氏から、「私が幼児のころ(1937年)に書かれた『東京日日新聞』(のちの 『毎日新聞』)の記事を、私の記事のようにスリかえた上で攻撃し、しかも私のコメントを大改竄して発表した」との反論が為され、論争者から失笑を買ったという経過がある。

 まさに「週刊誌の低級な記事レベル」を自己暴露しているが、誰が何のためにこのような遣り取りも発生せしめたのか、胡散臭いものがある。驚くことに、この誤報は引き続き流されている経過を見せている。その度に、本多ルポ支持派から格好の素材として次のように嘲笑されている。
 「要するにデマ記事なんですけど、いくら抗議などしてみても一度広がったこの手のデマは根絶しがたいもので、 例えば5年もたった後になっても、fj.soc.miscに同様記事が書かれ、俗に『百人切り』なんて宣伝されていたのが戦後になって真っ赤な嘘の記事(確か朝日新聞記者が書いた)だったことが分かったのに、『百人切り』したとされた人はその記事のためにB級戦犯として処刑された、というのもあります」。

 つまり、「真っ赤な嘘の記事(確か朝日新聞記者が書いた)」という箇所が滅茶苦茶な認識で、「右翼マスコミの杜撰さ恐るべし!」と批判される所以であるが、「百人斬り競争虚報説」派は何ゆえに凡そ初歩的なミスを訂正し得ないのだろう。背後事情が分からないが、右派系ジャーナルのお粗末さの標本のような話であろう。

 事実、「百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘」サイトの管理人氏から、「いまだにこのような『取材』によって書かれた本をネタにして本多氏の『ジャーナリストとしての姿勢』にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです」と揶揄されている。
(私論.私見)「右翼マスコミの杜撰さ恐るべし!」について
 問題は次のことにある。朝日新聞の本多記者を戦前の東京日日新聞の浅海記者と混同するようなお粗末さを批判したからと言って、「百人斬り事件」の史実問題には何らの影響がない。であるはずが、本多ルポ支持派は、「週刊誌の低級な記事レベル」と「右翼マスコミの杜撰さ恐るべし!」批判キャンペーン化することにより「百人斬り競争虚報説」派の主張そのものの検討を放棄している観がある。これは明らかにすり替え批判であろう。

【産経新聞が「百人斬り競争虚報説」の立場を鮮明にし、関連記事を掲載する】
 このような経過を見せている「百人斬り競争事件」であるが、2001年になって産経新聞が重要な記事を書き上げ注目を浴びているという最新事情にある。二つの記事がそうであるが、以下順次見ていくことにする。

 2001.5.12日付け産経新聞は、「日本軍南京攻略『百人斬り』やはりねつ造」(ワシントン11日=古森義久)記事を掲載した。次の通りである。

 1937年(昭和12年)の日本軍の南京攻略の際、日本軍将校2人が日本刀で中国側100人をどちらが先に殺すかの競争をしたという「百人斬(き) り」事件について米国人の歴史学者がこのほど詳細な学術論文を発表し、この事件はねつ造であり、戦後にその2人を処刑した軍事裁判も不当だったという結論を打ち出した。

 同論文は「南京百人斬り競争論議=1971年から75年のねつ造されたまぼろしの戦争の罪意識」と題され、カナダ・トロントのヨーク大学の歴史学教授ボブ・ワカバヤシ氏(50)によって書かれた。ワカバヤシ教授は米国オハイオ州生まれの日系米人で、カナダの大学で歴史を教え、日本の近代史を専門としている。「百人斬り」に関して日本や中国以外の第三国の学者がこうした研究を発表したのは初めて。

 33ページにわたる同論文は米国の日本研究学術雑誌でも最有力の「日本研究ジャーナル」の最新号に掲載された。ワカバヤシ教授はこの論文でまず「百人斬り」について日本国内で歴史家の洞富雄、新聞記者の本多勝一、ノンフィクション作家の鈴木明、評論家の山本七平の各氏らが71年から75年にかけて展開した論争の内容を詳しく紹介し、点検している。

 「百人斬り」というのは37年11月から12月にかけ、南京を攻略する日本軍の行動の一端として毎日新聞(当時の名称は東京日日新聞)の浅海一男記者らが現地から3回にわたって送った記事で、「日本軍の少尉二人がどちらが先に日本刀で中国軍兵士百人を殺せるかという競争をして、実際にそれぞれ106人と105人を殺した」という趣旨の報道をしたことから、戦後の中国側の南京軍事裁判でこの記事をほぼ唯一の根拠として二人を死刑としたという事件、として以下考察している。

 ワカバヤシ教授はこの事件をめぐり70年代の論争や、その対象となった毎日新聞記事、日本国内の英字紙「ジャパン・アドバタイザー」に掲載された同新聞記事の英訳、南京軍事裁判での各証拠書類などを点検し、当時の南京での戦争の状態などをも調べた結果、
 日本側の当初の報道では二人の将校は南京近くの句容から紫禁城までの何キロもの区間で「百人斬り」競争が実行されたとしている。
 当初の報道では「百人斬り」の対象はあくまで中国側の将兵だったが、後の本多勝一氏らの報道ではいつのまにか、一般住民にまで広げられた(戦争で敵の将兵を殺すことは犯罪ではない)。
 当初の記事の筆者の浅海記者らは二人の将校が実際に中国人を殺すところなど、みたことはないと証言し、東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した。
 当時の日本軍は日本刀で敵を殺すことは一般的ではなく、また将校の日本刀はそれほど頑強ではなかった−などという点を強調している。

 ワカバヤシ教授はこうした諸点を踏まえて、「提示された証拠は二将校の有罪を十分には立証していない。私としてはこれら証拠を総合して『百人斬り』事件というのはねつ造だという結論を得た」と述べ、さらに「事件は虚構であり、二人の将校は不当に処刑された」と明言している。  
 続いて2001.6.18日付け産経新聞は、「野田少尉“百人斬り”虚構裏付け」として「南京で死刑前の獄中手記発見、戦意高揚記事『記者が創作』」なる記事を掲載した。次の通りである。

 日中戦争の南京戦で“百人斬り”競争をしたと当時の新聞に報じられ、戦後、記事を理由に中国・南京で処刑された野田毅少尉が獄中で書き残した手記が、17日までに見つかった。手記には新聞記者との会話が記され、記者が「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」などと戦意高揚記事を持ち掛けた様子が生々しく伝えられている。“百人斬り”の創作説は、過去にも指摘されてきたが、手記の発見は記事が作り話であったことを改めて裏付ける資料となりそうだ。

 野田少尉の手記は今年3月、鹿児島県在住の実妹、野田マサさん(72)が保管していた遺品の中から見つかった。B4判のわら半紙の表裏に鉛筆の細かい文字で書かれており、執筆時期は昭和22年12月18日に死刑判決を受けてから、翌年1月28日の処刑までの間とみられる。

 手記で野田少尉は、「被告等ノ個人的面子(めんつ)ハ一切放擲(ほうてき)シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス」として、自分と向井敏明少尉の二人が昭和12年秋、中国・無錫で、記事を書いた東京日日新聞の記者(故人)と交わした会話を再現している。

 当時の新聞記事では、野田少尉ら二人が戦場で“百人斬り”競争を始め、その途中経過を記者らに逐次伝えたことになっている。しかし、野田少尉の手記によると、記者が6月18日に「ドウデス、無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と逆に持ちかけている。向井少尉が冗談として、「ソウデスネ無錫附近ノ 戦斗デ向井二〇人野田一〇人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井40人野田30人…(中略)無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ100人以上ト云フコトニシタラ」と数字を挙げて応じると、記者は「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」、「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」と二人に話したと書かれている。

 手記によれば、二少尉と記者は無錫で別れ、その後、野田少尉が記者と次に会ったときには既に“百人斬り”競争の記事が日本で話題になっていたという。

 野田少尉は「被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為ザリキ」と「百人斬り」を否定。「被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ嘘報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任」と自分たちの責任を認めながらも、「記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と記者を批判している。

 野田少尉と向井少尉は戦後、記事を理由に処刑された。

 昭和四十六年に朝日新聞で連載された「中国の旅」でも取り上げられたが、その後、ノンフィクション作家、鈴木明氏が、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作「『南京大虐殺』のまぼろし」で、記事中にある二少尉の行動経路が事実と異なっていることなどが書かれた文書の存在を明らかにし、虚構だったことを指摘している。(以上引用)

 つまり、これらの記事によれば、「百人斬り競争事件」はほぼ当時の新聞記者による時局迎合的な捏造記事になるということになる。手記には新聞記者との会話が記され、記者が「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」などと戦意高揚記事を持ち掛けた様子が生々しく伝えられており、「“百人斬り”の創作説は、過去にも指摘されてきたが、手記の発見は記事が作り話であったことを改めて裏付ける資料となりそうだ」とコメントが為されている。

(私論.私見) 「百人斬り事件」に対するれんだいこ見解
 さて、れんだいこがここで一章を割く理由は、この「百人斬り競争事件」論争の経過が、まことにもって南京事件まぼろし派にしても大虐殺派にしても、不誠実な態度を証していると思われるからである。れんだいこから見れば、「総体としての『南京事件』も、『百人斬り競争事件』もむしろ本当かどうかなんて実はどうでも良くて、単に自分の主張に都合がいい材料でさえあれば互いが何でも利用し、大虐殺派同士の齟齬があっても内部で精査されず、まぼろし派同志の齟齬があっても内部で精査されず、ただ単に大虐殺派VSまぼろし派という構図で50年間論争が経過しているに過ぎないという気がする」。

 ここでは最新事情としての虐殺派の対応にコメントしてみたい。

 2001.6.18日付け産経新聞記事によれば、「百人斬り競争事件」は当時の新聞記者が戦意高揚のため創り上げた虚報であり、それを元に南京事件で絞首刑に処せられた2兵士は冤罪で処罰されたことになる。もっとも、2001.6.18日付け産経新聞記事に反論する資料が今後出ないとも分からないので決め付ける訳には行かないという余地は残されている。

 れんだいこが問題にしたいことは、「百人斬り競争事件」を史実としていたいわゆる「大虐殺」派の諸君が、この記事を前にしてどのような姑息な話法を駆使し始めているのかということについてである。一つは、「南京大虐殺事件」と「百人斬り競争事件」の関係を遮断し、概要「百人斬り競争事件など南京大虐殺事件の解明上ほとんど意味を持たない」なる「本筋ではない論」を言い始めていることにある。これまでさんざん例証として使っておりながら、頬被りし始めたという図式である。これが知識紳士で鳴る連中の採り始めた態度であることをここで確認しておく必要がある。

 一つは、「百人斬り競争事件」の「百人」枠を取り外し、「人斬り事件」そのものは存在したのだからこのたびの産経記事は何らの変化を与えないとする論である。この論者は一つの重要な流れを説明できない。つまり、戦後の南京戦犯裁判で、「百人斬り競争事件」の責を負って2名の兵士が絞首刑されたという史実と、南京裁判において当時の軍部の暴走を証する象徴的重要事件として「百人斬り競争事件」が位置付けられていた従来の見解はどうなるのか、と言うことにについてコメントができないであろう。更に、両名の生贄説を発生させるが、虐殺派はこのような生贄を認めるのであろうか、ということにもなる。

 一つは、この最新事情によると、戦犯の責を問われ処刑された2兵士は冤罪であったということになる。こうした史実が判明してもなお冤罪事件としての解明に向かわないとすれば、法治国家を支える論理の形骸化に拍車をかけるだけのことになるであろう。全てを政治主義的に処する無能の手法が白けを生み出すばかりとなるであろう。












(私論.私見)