第一審判決考新版(第一審判決考旧版) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
第一審判決確認しコメントしておく。「読める判決『百人斬り』Hypertext 東京地裁判決〔8/23〕 」その他を参照する。 2011.10.25日 れんだいこ拝 |
【判決文主文、事実及び理由その1(提訴の概要)】 | ||||||||||||||||||
当時の国民政府国防部審判戦犯軍事法庭検察官は、昭和22年12月4日、両少尉について、昭和12年12月5日、句容において、向井少尉が中国人89人を殺害し、野田少尉が中国人78人を殺害し、さらに、同月11日、紫金山麓において、向井少尉が中国人106人を殺害し、野田少尉が中国人105人を殺害したとの事実により、国防部審判戦犯軍事法庭(以下「南京軍事裁判所」ともいう。)に公訴を提起した。両少尉は、起訴事実を争ったが、同法廷は、昭和22年12月18日、両少尉に対し、作戦期間共同連続して捕虜及び非戦闘員を屠殺したとして、田中軍吉大尉と共に、死刑判決を言い渡した(以下「南京軍事裁判」又は「南京裁判」という)。両少尉は、同判決を不服として上訴を申し立てたが、昭和23年1月28日、南京雨花台において、田中軍吉大尉と共に銃殺刑に処せられた。
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。 第2 事案の概要 原告は、故向井敏明少尉(以下「向井少尉」という)の遺族である原告田所千惠子(以下「原告千惠子」という)及び原告エミコ・クーパー(以下「原告エミコ」という)並びに故野田穀少尉(以下「野田少尉」という)の遺族である原告野田マサ(以下「原告マサ」という)。 被告は、本多の「中国の旅」及び「南京への道」。「南京大虐殺否定論13のウソ」。向井少尉及び野田少尉の百人斬り事件記述、被告毎日の前身たる東京日日新聞の故浅海一男(以下「浅海記者」という)が昭和12年11月30日から同年12月13日までの間の同年11月30日、12月4日,同月6日、同月13日に掲載したいわゆる「百人斬り」報道について、虚報であることが明らかとなったにもかかわらず、それを訂正しない不作為に対して、両少尉の名誉毀損、その遺族である原告らの名誉毀損、原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情侵害したとして、いずれも、人格権侵害の不法行為に基づき、各書籍の出版、販売、頒布の差し止め請求、謝罪広告の掲載、損害賠償金の連帯支払を求めた事案である。
「中国の旅」は、①賞がかかった上官命令により、②両少尉が句容から南京城まで3回にわたって百人斬り競争をし、3度目は百五十人斬り競争であったこと、③その対象は中国人であって、戦闘中ではなく、平時の殺人ゲームであったこと、④両少尉が、紫金山の時点において、向井少尉については195人、野田少尉については183人の中国人を殺害していたことを事実として摘示し、両少尉が「捕虜据えもの百人斬り競争」をしたこと、本件日日記事の報道した「百人斬り競争」が「捕虜据えもの百人斬り競争」であったことを事実として摘示している。
「南京への道」は、「百人斬り"超記録"」の見出し及び本文部分において、「百人斬り競争」が記録としてあったこと、両少尉が、捕虜虐殺である「据えもの百人斬り競争」をしたことを事実として摘示している。 「南京大虐殺否定論13のウソ」は、「第6のウソ 「百人斬り競争」はなかった」の見出し及び本文部分において、「中国の旅」及び「南京への道」に摘示した事実に加え、両少尉が「百人斬り」を認めていたこと、両少尉が互いに罪をなすりつけようとしたことを事実として摘示している。 日日記事の「百人斬り競争」が虚偽であることは、以下のことから明らかである。 南京攻略戦当時の我が国の新聞においては、被告毎日の前身である東京日日新聞や被告朝日を始め、各新聞社の報道競争が過熱しており、真実は軽んじられ、戦意を高揚する記事がもてはやされていた。両少尉の南京軍事裁判での陳述によれば、両少尉は、昭和12年11月29日、無錫郊外で浅海記者と出会い、その後、常州の城門近くで記念撮影をしたということである。この際、浅海記者は、両少尉に「百人斬り競争」という冗談話を持ちかけたところ、その武勇伝に両少尉が名前を貸し、この冗談話を基に本件日日記事が掲載されたものであって、それらは、浅海記者によって作り上げられた戦意高揚のための創作記事であった。 冨山大隊は、昭和12年11月26日正午すぎに無錫駅を占領した後、同日午後、常州に向けて追撃を開始したため、無錫城内には入っていない。冨山大隊は、同日は無錫より約3里のところで露営し、翌27日には横林鎮で中国の退却部隊と遭遇し、戦闘となった。冨山大隊は、同月28日、常州へ向けて出発し、翌29日に常州に入城した。 向井少尉は、同年12月2日、丹陽にて砲撃戦中に負傷して、離隊し、救護班に収容された。冨山大隊は、同月4日、命令変更により丹陽を出発し、句容に向かったが、翌5日早朝、既に金沢師団が句容西方の退路を遮断していることを知り、旅団長の命令により句容を攻略することなく、北へ迂回転進することとなった。 そのため、冨山大隊は、句容に入ることなく北上し、同日は賈崗里で宿泊して、翌6日、同所を出発し、砲兵学校を占領し、同月7日、前面偵察のため、西進した湯水鎮を経由することなく蒼波鎮に出た。冨山大隊は、その後、同月10日から12日にかけて、紫金山南麓にいる中国軍を攻撃しながら、南京城に向かって西進した。 このように、向井少尉は、丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ、同月中旬に冨山大隊に復帰したものであるし、野田少尉も句容には入っておらず、また、紫金山の攻撃は、歩兵第三十三連隊が行ったものであって両少尉とも紫金山の山頂にも行っていないのであるから、本件日日記事第三報及び第四報に記載された経路は、両少尉の真実の行軍経路に反している。 本件日日記事は、上記のほか、以下の点においても事実に反している。 本件日日記事第一報は、昭和12年11月30日に掲載されているところ、それによれば、両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め、無錫から常州までの間に、向井少尉が56人、野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら、佐藤記者は、常州で両少尉と会った際、浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする」という話を聞いたのであって、第一報はこの話の内容に反している。 また、第一報では、向井少尉の斬った人数が、横林鎮で55人、常州駅で4人の合計59人となっており、上記の人数と矛盾しているし、第一報が真実であれば、両少尉の記念撮影をしたとき、両少尉は、常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが、佐藤記者もそのような話を聞いておらず、両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって、不自然である。 本件日日記事第二報は、昭和12年12月4日に掲載されているところ、それによれば、常州から丹陽までの間に、向井少尉が30人、野田少尉が40人を斬り、向井少尉が丹陽中正門に一番乗りをしたとされている。しかしながら、向井少尉は、上記のとおり、丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、野田少尉も丹陽には入城しておらず、両少尉の行軍経路に反している。 本件日日記事第三報は、昭和12年12月6日に掲載されているところ、同日の隣の記事は、浅海記者が同じ日に丹陽で取材したものであり、同記者が丹陽からはるか離れた句容まで「百人斬り競争」の結果を取材したとは考えられない。 本件日日記事第四報は、昭和12年12月13日に掲載されているところ、それによれば、両少尉は同月10日の紫金山攻略戦で106対105という記録を作って、同日正午に対面し、翌11日からさらに「百五十人斬り競争」を始めることとしたとされているが、そもそも、この記事の内容自体が大言壮語の荒唐無稽な作り話であるとしか言いようがないものである。 本件日日記事の「百人斬り競争」については、後述する望月五三郎を除き、当時、両少尉の部下で、これを目撃した者は一人もおらず、これを信じる者もいなかった。また、本件日日記事報道以後、「百人斬り競争」は武勇伝としてもてはやされ、他紙においても後追い記事が掲載されたが、これらはいずれも到底信用できないものであった。 野田少尉は、南京攻略戦後、郷里の鹿児島で講演を行った際、「百人斬り競争」を否定しており、向井少尉は、南京攻略戦後も、部下に対し、「百人斬り競争」が冗談話を新聞記事にしたものであると度々話しており、「百人斬り競争」が創作であると話していた。 なお、本件日日記事は、中国側では我が国を誹謗中傷する宣伝材料として利用され、本件日日記事の第三報と第四報がジャパン・アドバタイザー紙に転載されると、国民党国際宣伝処の秘密顧問であったティンパレーによって、「殺人ゲーム」というタイトルを付けて紹介され、残虐事件の報道記事に仕立て上げられた。 向井少尉は、昭和21年7月1日、極東国際軍事裁判(以下「極東軍事裁判」又は「東京裁判」ともいう)法廷3階325号室において、米国のパーキンソン検事から尋問を受けたが、「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となり、釈放されたものである。パーキンソン検事は、向井少尉に対し、同少尉を召喚する前に新聞記者を喚問し、その結果、「百人斬り競争」は事実無根と判明したと述べ、「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカ人にもたくさんいますよ」と述べて、握手して別れたのである。 なお、浅海記者及び鈴木記者は、向井少尉の尋問に先立って、同検事から尋問を受けており、その際、両記者は、本件日日記事の内容を「真実である」旨答えているが、この供述書は東京裁判には提出されなかったのであって、その理由は、記事を書いた両記者が「百人斬り競争」を目撃しておらず、記事に証拠価値がないと判断されたからである。 南京軍事裁判において、両少尉は、
本件日日記事の「百人斬り競争」は、日本刀の強度の点からもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、軍刀は、将校にとって身分の象徴であり、守護刀であって、いわゆる指揮刀として使用されるものであり、戦闘に用いられることは極めて稀であった。しかも、将校用の軍刀は、美観を重視したものであり、実際には脆弱なものであって、多くの人を斬ることは到底不可能である。 本件日日記事の「百人斬り競争」は、当時の日本陸軍の組織の点からもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、向井少尉は、歩兵砲の小隊長であるところ、歩兵砲の小隊長は、歩兵砲小隊を指揮し、自らを砲撃戦に任じているので、第一線の歩兵部隊のように突撃戦には参加しないし、その任務は、敵の重火器の撲滅あるいは制圧、第一線歩兵の援護射撃の指揮等であって、多忙を極め、そのような立場にある者がいきなり持ち場を離れることは、軍律違反であって許されることではない。なお,向井少尉は、軍刀での戦闘経験はない。 また、野田少尉は、大隊の副官であるところ、大隊副官は、大隊本部の事務整理と取締りを担当し、その任務は多忙であって、白兵戦に巻き込まれるのは、大隊本部が敵の急襲を受け、あるいは大隊長自らが突撃するような緊急の場合のみであり、そのような立場にある者が持ち場を離れて勝手気ままに殺人競争をすることは、許されることではない。 本件日日記事の「百人斬り競争」は、当時の南京攻略戦の実相から見てもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、南京攻略戦は、近代戦であり、組織化した日本軍と中国軍との戦闘であって、中国軍はドイツ式の近代的組織防衛戦を行い、武器も日本軍兵器に遜色ないものであったから、両少尉が日本刀を振り回して中国兵に立ち向かうなどということはおよそ考えられない。
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【被告(本多)の主張)】 | ||||||||
なお、死者自身に対する名誉毀損については、名誉毅損の趣旨及び立法内容からして、否定されるべきであるし、死者に対する名誉毀損が原告らに対する名誉毀損となる場合であっても、摘示した事実のうち主要な事実の虚偽性が要件となるところ、後記エのとおり、主要な事実としての「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については、真実であることが明らかである。 「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」が行われていたことが明らかであるし、原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情が存在していたとしても、両少尉の死後50年以上を経た現在において、その情は十分軽減されていることに加え、「百人斬り競争」についても、既に30年も前に論争となったように、歴史的事実へ移行しているというべきであるし、 本件日日記事は、昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり、関係した記者も、浅海、光本、安田、鈴木の4人の手によるものである。そして、浅海、鈴木両記者は、極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で、両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また、佐藤記者も、両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて、「取材の中で『斬った、斬ったと言うが、誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ、『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ』」という話だった」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず、これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。 「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか、
にそれぞれ掲載されており、 野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し、「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版)、野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞)、野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも、両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。 望月五三郎は、昭和12年当時、冨山大隊第十一中隊に所属し、南京戦にも参加した人物であるところ、同人の著書である「私の支那事変」には、両少尉による「百人斬り競争」について記述されており、その内容は、具体的で迫真性があり、体験者でなければ到底書き得ないものである。 志々目彰は、雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で、同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており、それによれば、野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は、野田少尉の話が、軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり、それゆえ、明確な記憶として残っていたとするものであって、その内容も具体的で確かなものである。 両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。 なお、両少尉は、南京軍事裁判において、野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し、南京に入った事実はないとし、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、救護班に収容されていた旨弁解しているところ、野田少尉は、上記のとおり、自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし、南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ、向井少尉については、冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか、昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では、自ら負傷した事実がないことを自認しているから、いずれの弁解も客観的資料や証言に反し、信用することができない。 (イ) 両少尉が行った「百人斬り競争」が戦闘行為の中だけでなく、投降兵、捕虜、農民等に対する殺害でもあったことは,以下のとおり明らかである。 望月五三郎の「私の支那事変」によれば、野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し、「その行為は支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた」ことが明記されており、志々目彰の上記論稿によれば、野田少尉は、投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。 洞富雄元早稲田大学教授は、詳細な資料批判を行った上、「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし、田中正俊元東京大学教授も、客観的資料に基づく実証的見解として、「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており、「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め、秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。 そして、昭和12年の南京攻略戦当時、日本軍による略奪、強姦、放火、捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり、多数の資料も存在するのであり、鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように、多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。 (ウ) なお,上記真実性に関するその余の主張については、被告朝日の主張のとおりである。 これは、死者についての記述が、往々にして歴史的事象への考察、検証、論評の性格を持つものであり、その記述に遺族が不快感を抱いたことから、当該記述や当該出版が不法行為となれば、言論表現の自由や歴史研究、発表の自由が不当な制約を受けるからである。 「百人斬り競争」や捕虜・民衆虐殺は事実である。史料考証による歴史的探求。 名誉毀損の不法行為責任に関する判例法理が、真実性について、重要(主要)な部分において真実であることが証明されれば足りるとしている。 「中国の旅」及び「南京への道」で摘示した事実又は表明した論評のうち、重要(主要)な部分は、本件日日記事に記載された「百人斬り競争」の事実及び「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」との論評であるところ、事実摘示の点については、後記のとおり、真実であり、虚偽でないことは明白であるし、本件日日記事は、両少尉が自ら進んで話した話の内容を記事にしたものであり、両少尉の承諾のもとに掲載されたものとして違法性がなく、それを引用した両書籍の記載にも違法性はない。 また、論評の点については、両少尉の百人斬り競争を、本件日日記事、志々目彰の話、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて論評したものであって、今から六十数年前の歴史的事実の紹介ないしその論評という表現行為の意義、目的に照らし、社会的に妥当な範囲内の公正な論評であるし、両少尉は、後記のとおり、まさに「据えもの百人斬り」を行っていたものであるから、「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」との論評は真実ないし真実に基づくものであって、虚偽ではない。 (エ) 本件日日記事に記載された「百人斬り競争」が真実であり、両少尉の「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」が真実であることは、以下のとおり明らかである。
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【原告らの主張、争点】 |
本件各書籍の両少尉に関する記載は、上記(1)及び(2)の原告らの主張記載のとおり,両少尉の名誉を毀損することによって原告らの名誉を毀損するとともに、原告らの敬愛追慕の,情を違法に侵害し、原告らのプライバシー権を侵害するものであり、原告らは、これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって、原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには、被告本多、被告朝日及び被告柏において、第1の3及び5のとおり、謝罪広告を掲載し、第1の4及び6のとおり、慰謝料を支払う必要がある。
なお、原告らは、本件各書籍の記載により名誉を侵害されているところ、その名誉回復のためには、当該記載がなされているすべての書籍を対象にするのでなければならず、現在書店で販売されている書籍のみならず、インターネットや古書店において販売されている書籍及び全集の中に収録されたものをも対象にするのでなければ、原告らの名誉回復を図ることができないというべきである。
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【事実及び理由その2(争点整理と証拠)】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3 争点に対する当裁判所の判断
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争点(2)について・・・《本多著書:名誉毀損等であるか》 (1) 前記争いのない事実等に加え、証拠(各事実末尾に掲記のもの)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。 《「事実が認められる」とは、記述あるいは陳述された事実が認められる、という意味で、それら事実の真偽をこの項で判断した訳ではない。ここでは原告、被告双方が主張の根拠として提出した証拠の要旨を、判断無しに整理して記載したものと思われる 》《 なお、要約されたとはいえ膨大な資料なので、「判決文の構成」の該当部分をまず参照することをお奨めします 》
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【事実及び理由その3(判断と結論)】 |
事実及び理由 第3 争点に対する当裁判所の判断
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以上のとおりであって,原告らの請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第6部 裁判長裁判官 土肥章大 裁判官 田中寿生 裁判官 古市文孝 |
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【地裁判決の報告と解説】 |
地裁判決の報告と解説8月23日に言い渡された一審判決について,以下に報告するとともに,その判断構造を解説します。 名誉毀損とは,公然と事実を摘示して他人の名誉を毀損することを言います。ここで「公然」とは「不特定ないし多数に対し」という意味であり,「事実の摘示」とは「事実を述べること」であって,一定の事実を前提とした評価を述べることである「論評」とは区別される概念です。また,「名誉を毀損する」とは,その人に対する「社会的評価を低下させる」行為であると理解されています。 そこで本件では,まず問題の記述部分が「事実の摘示」なのか「論評」かが争点となり,次にその記述が他人の社会的評価を低下させたのかどうかが問題となります。そして社会的評価を低下させたなら,次にそのことが不法行為を構成するか,すなわち名誉毀損になるのかどうかが争点となるのです。 以下要点について説明します。 1) 「事実の摘示」と「論評」まず第一に,本多さんが「中国の旅」,「南京への道」や「南京大虐殺否定論13のウソ」で記載した「据えもの百人斬り」について,これが「事実の摘示」に該当するのかあるいは「論評」かが問題となります。これがもし「事実の摘示」なら,当該「事実」が社会的評価を低下させる内容かどうかが問題となり,「論評」だとするならそのような論評が「公正な論評」と言えるかどうかが問題となります。 この点今回の東京地裁判決は,本多さんの記述についてはこれを「論評」ではなく「事実の摘示」であると認定しました。すなわちこれらの書籍について,両少尉が殺人競争としての「百人斬り競争」を実行し,しかもその実態が「据えもの斬り競争」だとの事実を摘示したものと認定しました。 ただし,二人の少尉がその遺書において互いに《相手が冗談で言ったことから記事になった》と述べている点について「一種なすり合いをしている」と本多さんが記載した点については,これを「論評」であると認定しています。 2) 社会的評価の低下判決は,本件の記述が以上のような「事実の摘示」と「論評」であることを前提に,これらの記述は二人の少尉の「社会的評価を低下させる」ものであることを認めました。 これはある意味当然のことですが,しかし特に次のように述べている点にも留意すべきでしょう。 「本件各書籍は,両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり, 問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は,既に,日中戦争時における日本兵による 中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべきものである」 すなわち判決は,本件で争いになっている内容がすでに「歴史的」な問題となっていることをここで特に指摘しているのです。 3) 両少尉自身に対する名誉毀損判決は,本件の記述によって「両少尉」の社会的評価が低下させられたと認定しました。しかし,死んだ人の社会的評価が低下させられたからと言って,遺族が損害賠償を請求できるものでしょうか。 この点について判決は,「名誉」というのはその人の人格に由来する「人格権」であり,これはその本人だけが行使することのできる「一身専属権」だから,死んだ人には「人格権」が無くなるので,死者の名誉も原則としてそれ自体としては法的に保護されないものと認定しました。 もっとも,例外的に法律が死者の人格権を保護している場合は別であり,現に著作権法60条・116条などは著作者が死んだ後も「著作者人格権」を50年間にかぎって保護すべきものと定めていますが,このような例外的規程がない限りは,死者の名誉それ自体は法的保護の対象ではないとしたのです。 このような判断は,これまでの判例及び学説の一般に認めてきたところであって,普遍性のある妥当な判断であると解されます。 4) 敬愛追慕の情それでは,死んだ人の名誉は一切保護されないのかと言えば,もちろんそんなことはありません。 代表的な判例としての「落日燃ゆ」事件東京地裁・東京高裁判決は,「死者の名誉を毀損する行為は,虚偽虚妄を以てその名誉毀損がされた場合にかぎり違法行為となる」とした上で,そのような死者に対する名誉の毀損のために,遺族が死者に対して有する「敬愛追慕の情」を,「社会的に妥当な受忍の限度を超えて侵害した」場合において,初めて不法行為が成立するものと判示しました。 本判決も,このような先例を踏襲し,以下のように規範を定立しています。ここがこの判決のもっとも重要なポイントですから,よく注意しておいて下さい。 「死者に対する遺族の敬愛追慕の情も,一種の人格的利益であり,一定の場合にこれを保護すべき ものであるから,その侵害行為は不法行為を構成する場合があるものというべきである。もっとも, 一般に,死者に対する遺族の敬愛追慕の情は,死の直後に最も強く,その後,ときの経過とともに 少しずつ軽減していくものであると認め得るところであり,他面,死者に関する事実も,ときの経過と ともにいわば歴史的事実へと移行していくものともいえる。そして,歴史的事実については,その 有無や内容についてしばしば論争の対象とされ,各時代によって様々な評価を与えられ得る性格の ものであるから,たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても,相当年月の経過を経て これを歴史的事実として取り上げる場合には,歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な 配慮が必要となると解される。 それゆえ,そのような歴史的事実に関する表現行為については,当該表現行為時において,死者が 生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分に ついて,一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合であって,なおかつ, 被侵害利益の内容,問題となっている表現の内容や性格,それを巡る論争の推移など諸般の事情を 総合的に考慮した上,当該表現行為によって遺族の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したものと 認められる場合に初めて,当該表現行為を違法と評価すべきである。」 やや難しいですが,要するに死者に対する記述が遺族に対して不法行為を構成するためには,以下の要件が必要になるとしたのです。
言うまでもなく,この2点についての立証責任を負うのは不法行為の成立を主張する原告側となります。 判決がこのような基準を定立したのは,要するに憲法21条が規定する「表現の自由」と「遺族の死者に対する敬愛追慕の情」の保護とのバランスです。 すなわち,前述のように死者自身の名誉は法的保護の対象とされず,保護の対象とすべきなのは遺族が死者のことを大切に思う気持ちです。これ自体は,法的保護の対象とされなければなりません。 しかしながら,このような気持ちはその人が死んだ直後がもっとも強いものであり,通常は時間の経過とともにこうした気持ちも薄れていきます。一方で,人が死んだ後のことはむしろ「歴史的事実」となっていくものであり,このような「歴史的事実」については,むしろ自由な言論と事実の探求が優先されなくてはなりません。 まして,本件のように南京大虐殺にかかわる事柄は,名誉毀損の圧力の元で事実に対する自由な探求を阻害させるよりも,事実を明らかにしていくための「表現の自由」の方が優位に立っていくものと解すべきことになるのです。 そこで,このような歴史的事実に対する「表現の自由」の要請と,遺族が死者を大切に思う気持ちとの利益を考慮した結果,死者に対する表現は原則的には表現の自由の要請が優先されるべきだが,明らかな虚偽であるということがわかっているにもかかわらずあえてこれを摘示し,しかもその摘示内容が遺族にとって一般的に「受忍」できないほどの酷いレベルにいたっていた場合には,これを不法行為として認めることにするという基準を示したのです。 いかがでしょう。遺族の心情の保護と表現の自由の要請とのバランスに配慮した,極めてわかりやすい基準ではないでしょうか。 5) 死者に対する名誉毀損と刑法の規定以上のような裁判所の判断の枠組みは,名誉毀損に関する実定法の規定にも合致するものです。 すなわち,本件では民事上の不法行為責任が問われているのですが,実は民法には名誉毀損の成否を直接規定する法律はありません。それは実は刑法にあるのです。 「刑法第230条1項 公然と事実を摘示し,人の名誉を毀損した者は,その事実の有無に かかわらず,三年以下の懲役若しくは禁固または五十万円以下の罰金に処する」 「刑法第230条2項 死者の名誉を毀損した者は,虚偽の事実を摘示することによってした 場合でなければ,罰しない」 1項が通常の名誉毀損であり,2項が死者の名誉毀損です。 一見して明らかなとおり,通常の名誉毀損の場合には,「その事実の有無にかかわらず」名誉毀損が成立するとされており,摘示した事実が「虚偽であること」は名誉毀損成立の要件とされていません。したがって,問題の記述が「本当」であったとしても,形式的には名誉毀損が成立するのです(ただし,公共の利害に関することで公益目的がある場合,当該事実について真実性・相当性を要件として免責される。刑法第230条の2第1項)。 しかしながら死者の名誉毀損の場合には,摘示した事実が「虚偽」でなければならないことを,まさに刑法がその要件として掲げています。この規定の存在との比較においても,問題となる事実の摘示が「違法である」と主張する原告の側が,その「事実」の虚偽であることを立証しなければならないというのは,法律学の判例・学説では当然の前提であると考えられています。 一部右翼の側の反論で,この判決が「一見して明白に虚偽であること」という基準を確立しているのが不当だとの意見がありました。虚偽であることを原告に立証させるのでは負担が重すぎるというのです。 しかしながら,不法行為の場合にはその成立を主張する側が立証責任を負うのは,名誉毀損にかぎらずそれが原則とされています。まして,本件のように死者の名誉毀損に関することであれば,上記の刑法の規定の仕方に照らしてもこれは当然の解釈です。実質的に言っても,裁判所が指摘しているように,死者の名誉に関しては「歴史的事実探求の自由」の方が優位に立つと解するべきです。 だいたい,死者の名誉毀損について判例・学説が上記のように判断しているというのは,始めからわかっていたことのはずです。わかっていて裁判を起こしてきながら,いざ負けるとこの基準が不当だなどというのですから,これほど身勝手な話はありません。 6) 本件における事実判断の枠組み判決は前述のように,「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合」という点を,不法行為成立の大きな要件としました。したがって,本多さんの記述が不法行為を構成して原告らの請求が認められるかどうかは,すべてこの「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合」に該当するかどうかに従って判断すればいいことになります。 そこで判決は,本件での争点についても,「据えもの百人斬り競争」の事実が「一見して明白に虚偽」だと言えるかどうかだけについて判断を行いました。そして,原告被告の双方から提出された幾多の資料を検討した結果として,「据えもの百人斬り競争」の事実は「一見して明白に虚偽だとまでは言えない」と判断して原告らの請求を棄却したのです。 重要なのは,このような裁判所の判断の枠組みです。一部では,「一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない」と判示した判決の文言を捉えて,《限りなく虚偽に近いけれども『一見して明白に虚偽』とまでは言えない》と裁判所が認定したかのように主張する言説が見られました。しかし,これは完全なる間違いです。この争点についてどちらの主張を採用するかを決めるためには,「一見して明白に虚偽」であるかどうかだけを判断すればいいのですから,裁判所は必要な限りにおいて判断したというだけに過ぎません。この判示は,「一見して明白に虚偽」という要件を原告の主張がクリアしていないことを指摘しただけのものであって,それ以上に《限りなく虚偽に近いけれども》などといった含意など存在していないのです。「据えもの百人斬り」の事実が怪しいものであるかのように裁判所が認定したものではありません。この点を誤解しないようにして下さい。 もっとも,裁判を離れた歴史論争としては,まさに本件の論争については「据えもの百人斬り」の事実の有無が争点になってきたわけで,裁判所もそのことはよくわかっていたはずです。そして本件では,あの望月五三郎氏の手記のような決定的な目撃証言まで今回の訴訟によって発掘されました。その意味では,裁判所は「据えもの百人斬り」の事実があったものと認定することは十分可能だったはずでした。 しかし裁判所は,そこまで踏み込んだ判断までは示さずに,あくまで裁判上の争点で必要な範囲においてのみ言及するに留まったものです。「踏み込んだ判断」でなかった点は残念でしたが,事案が事案だけに,裁判所が慎重な判断に固執して躊躇した面があったのかも知れません。この点は,私たちの今後の課題というべきだと思います。 7) 本件における事実認定以上のように,本件で裁判所は,「百人斬り競争」に関する一連の論争について,それが「一見して明白に虚偽」と言えるかどうかに絞って判断を行いました。その判断に関しては,3点ほどのポイントが指摘ができると思います。 まず一つは,原告被告双方から提出された主張や証拠について,裁判所がその一つ一つを引用しあるいは要約をしているということです。しかもこれは,引用ないしは要約をしてあるだけで,それ以上に踏み込んだ検討をあまりしていません。そのため,判決書の46頁(「2 争点(2)について」)から107頁(「2(2)」の前まで)まで,ひたすら証拠の引用と要旨の紹介がしてあるだけという,通常の判決書の体裁からするとかなり奇異な構成となっています。 裁判所が,このような通常とは異なる判決を書いた理由は何だったのか。これは推測するしかありませんが,おそらく原告及び原告の支援者に対するメッセージだったのではないかと思います。というのは,皆さんもご承知のとおり,右派の言説は勝手な希望と思い込みだけの場合が多く,事実を直視しようとせず都合の悪いことは無視・黙殺するのが常套手段です。そこで裁判所は,『このような事実を前提として判断したんだ』という前提事実を判決にハッキリ書いておくことで,今回の判決に対する批判に対抗しようとしたのではないでしょうか。この判決を通して読めば,裁判所が偏向判決をしたとか政治的判断をしたとかいった批判が謂われのないものであることを明らかにできるのではないかということです。確かに,双方の主張が整理してまとめてあるだけに,全くの第三者から見ても裁判所の判断の妥当性を容易に検証できる内容となっていると思います。 第二のポイントは,東京日日新聞の百人斬り報道が記者のでっち上げだとする原告の主張については,これを明確に否定したことです。 判決は次のように指摘しました。 「少なくとも,本件日日記事は,両少尉が浅海記者ら新聞記者に『百人斬り競争』の話をしたことが 契機となって連載されたものであり,その報道後,野田少尉が『百人斬り競争』を認める発言を行って いたことも窺われるのであるから,連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については,虚偽, 誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの,両少尉が『百人斬り競争』を行ったこと 自体が,何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である」 控えめな言い方をしていますが,両少尉の発言が「百人斬り競争」記事の契機となったことを認めています。逆に言えば,両少尉が南京軍事法廷で行った《記者によるでっち上げ》という弁明が虚偽であったことを,今回の判決は明確に認定したのです。まあ当然といえば当然ですが,この点は注目されてもよいと思います。 第三に,据えもの百人斬り競争の事実についても,裁判所はその信用性を認めた判断をしたことです。 前述のように裁判所の判断枠組みは「一見して明白に虚偽」と言えるかどうかとなっていますが,判決は志々目彰証言とともにその同期生のK氏も「逃走する捕虜を見せしめ処罰のために斬殺したという話を聞いている」ところ,このK氏は「野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることにかんがみれば,殊更虚偽を述べたものとも考えがたく」として,志々目証言が信用できるものと認定しました。 また,問題の望月五三郎証言(「私の支那事変」)について「野田少尉と向井少尉の百人斬り競争がエスカレートして,奪い合いをしながら農民を斬殺した状況を述べており,その真偽は定かでないというほかないが,これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」としています。さらに鵜野晋太郎証言については「日本刀で自ら『捕虜据えもの斬り』を行った」件について,同じく「客観的資料に裏付けられているものではなく,その真偽のほどは定かではないというほかないが,自身の実体験に基づく話として具体性,迫真性を有する」ものと判示しています。 戦場でのこのような違法行為にいちいち「客観的資料」などあるはずがない訳ですが,それを除けば表現は控えめでも実際上は一連の事実についての信用性を認定しているものと言ってよいでしょう。特に望月五三郎氏については,私家版としてひっそりと1985年に発行されていたこの回想録にことさら虚偽を記述する理由など考えがたく,自身の体験を記録しておくという純粋な動機に基づく記録であるとしか解されず,したがって自分の体験を忠実に記載したものと捉えるのが相当です。その意味で,まさに極めて高い信頼性を有する資料であると言うべきでしょう。この点,やはり裁判所は慎重表現に終始しているのが残念です。 以上のようにして,結局「据えもの百人斬り競争」との指摘が「一見明白にして虚偽」だとは言えないとして裁判所は原告らの請求を棄却しました。「一見して明白に虚偽」だと言えない以上は,遺族の「敬愛追慕の情」を受忍し難いまでに侵害したかどうかについて認定するまでもなく,原告らの請求には理由がないとしたのです。 8) 本件での「一種のなすり合い」という「論評」に関する判断本多さんがその著作で指摘した向井少尉と野田少尉との「なすり合い」に関しては,裁判所は以下のように指摘して公正な論評の範囲内だと認定しました。 「両少尉が,前記「百人斬り」競争に関し,その遺書等において,向井少尉が『野田君が,新聞記者に 言ったことが記事になり』と記載しているのに対し,野田少尉が『向井君の冗談から百人斬り競争の 記事が出て』と記載して,互いに相反する事実を述べていることが重要な基礎事実となっているという べきところ,前記認定によれば,その前提事実自体は真実であると認められる。そして,そのような 相反する事実を述べている状態を『一種のなすり合いである』と評価し,そのように論評したとしても, これが正鵠を射たものとまでいえるかどうかはともかくとして,これを直ちに虚偽であるとか,論評の 範囲を逸脱したものとまでいうことはできない」 これもまた,当然の判断です。 9) 佐藤振壽氏について最後に,右翼のサイトの中には「佐藤振壽氏が百人斬りは虚偽だと証言したのに何故…」という記述が見られましたので,その点について補足しておきます。 佐藤振壽氏は,二人の少尉の写真を撮ったカメラマンであり,当時確かに両少尉と話をしています。その話は,両少尉自身が新聞記者に対し二人が百人斬り競争をしていたことを説明していたというもので,上記の裁判所の認定にも沿うものでした。つまり佐藤カメラマンの証言によっても,両少尉が南京軍事法廷で述べていた言い訳が虚偽であったことが証明されたことになります。この意味で,裁判所は佐藤カメラマンの証言を正しいものとして採用しているのです。 けれども,佐藤カメラマンは両少尉から逆に「百人斬りなどやっていない」とは一言も聞いていません。両少尉の行軍に同行して目撃していたわけでもありません。両少尉が百人斬りをやったかどうかについての佐藤氏の証言は,単なる「推測」に過ぎないのです。一般に証人尋問においては,証言者が直接体験した事実は重視されますが,証言者の述べる「推測」になどほとんど証拠価値はありません。したがって,佐藤振壽氏がいかに「百人斬りはなかった」と自分の推測を述べたところで,そのような推測に裁判所が左右される謂われはどこにもないのです。 それでも,佐藤氏が述べる「推測」によって事実認定せよというのなら,同じく両少尉に会って話を聞いて記事にした浅海一男記者は「百人斬りはあった」と推測しているわけですから,浅海記者の「推測」によってそれこそ「百人斬りの事実はあった」と認定すべきだということになるのです。右翼の主張がどれほど馬鹿げたものか,これだけでも明らかだと言うべきではないでしょうか。 ちなみに佐藤カメラマンの証人尋問に際し,実は佐藤氏は「被告側の証人」だということをこのサイトでも指摘しておきました。そこで,現実の判決書(第3・2・(4)・ウ・(ア)・a)を見て下さい。東京日日新聞の百人斬り競争の報道が記者の創作であるという原告らの主張に対し,それを否定する根拠としてこの佐藤振壽氏の証言が援用されています。つまり裁判所は,被告側の主張を認めるために佐藤振壽氏の証言を使ったのです。まさに指摘しておいたとおり,佐藤振壽カメラマンは被告側に有利な証人だったのでした。 10) まとめ以上が本件に関する裁判所の判断です。 原告らの請求をすべて棄却した点で全面勝訴判決であり,判決にも引用された証拠に依拠して実証的に原告らの請求を棄却したもので,当然の判断とはいえまさに「事実」の勝利だと評してよいでしょう。すでに決着が付いていた問題を蒸し返し,誤った歴史認識を広げようとする策謀が破綻したものと言ってよいと思います。その上で,もう一つ大切なことを指摘しなくてはなりません。 上記の解説において,判決が定立した本件の判断基準に関連して,『本件のような南京大虐殺にかかわることなどは,名誉毀損の圧力の元で事実に対する自由な探求を阻害させるよりも,事実を明らかにしていくための「表現の自由」の方が優位に立っていくと解すべきことになるのです』と記載しました。実は,この点が本件との関係ではもっとも重要なことだと思います。 東史郎裁判,本件の百人斬り訴訟,そして沖縄の集団自決事件に関する岩波書店,大江健三郎氏に対する訴訟など,右翼勢力は相次いで名誉毀損訴訟を起こしています。しかしまさに裁判所が指摘しているように,このような問題は事実と資料に基づいて歴史論争によって決着すべきなのではないでしょうか。自らに都合の悪い言説を実力でもって排除しようとする企みに対しては,大きな危惧感を感じます。 もっとも,この訴訟がなければ望月五三郎氏の手記のような決定的な証拠は出てこなかったでしょう。その意味では,本多さんも指摘しておられるように感謝すべき側面もあったのかも知れません。 |
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改めて問う、「百人斬り」は真実か 【市民記者新聞JANJAN】 http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/240.html 市民記者新聞JANJAN より 柴田忠 氏の投稿を 転載 改めて問う、「百人斬り」は真実か 2005/10/05 http://www.janjan.jp/world/0510/0510033324/1.php -------------------------------------------------------------------------------- 本年8月、僕は、本紙に改めて問う、「百人斬り」は真実か http://www.janjan.jp/media/0508/0508291648/1.php という記事を投稿し、掲載された。 その記事の動機となったのは、8月24日、産経新聞の「『百人斬り』判決 史実の誤り広げかねない」という社説であり、僕はその中で、自分なりの意見として、 1.この「百人斬り」の話を浅海記者に持ちかけたのは、両少尉ではないだろうか。 2.ただ、その「百人斬り」が真実か否か、という点について見れば、これも佐藤カメラマンが言う通り「嘘っぱちを上手く書いたな」というのが、真相ではないか。 という2点を挙げ、結論として、「今後は、裁判所の形式的な判断ではなく、『百人斬り』の真実が明かされることに期待したい」と書いた。 また、その中で、人民網日文版にあった本多勝一氏の「これを突破口として南京大虐殺を全面的に否認し、さらには日本による中国侵略をも否認しようとするものだ」というコメントに対して、 「常軌を逸した拡大解釈のように見えてならない」 と感想を述べた。 ただ、実は、その段階では、僕は、その裁判の判決文に目を通していた訳ではない。僕自身、裁判の全体像が分かっていないことを、実は大変、気にしていたのだが、先月になって、インターネットのいくつかのサイトで、その時の判決文がネット公開されるに至った。その1つが、読める判決「百人斬り」- Hypertext 東京地裁判決(8/23) http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/file-list.htm だ。 この裁判の詳細については、こうしたサイトに詳しく書かれているので、そちらを参照してもらいたい。ここでは、そのサイトを紹介すると共に、今回、僕が新たに判決文を眺めた上での感想を、簡単に述べたいと思う。 判決文を読んで、改めて思った第1点は、こうした意見は実はネットでも数多く見られるものだが、遺族側が裁判のやり方として、昭和12年当時の東京日日新聞、現毎日新聞が掲載した4回にわたる新聞記事を、いわゆる「虚偽報道」として、それによる「報道被害」という形での裁判を行ったことは、やはり間違いではなかったかと言うことである。 前回の指摘でも、この「百人斬り」の話を浅海記者に持ちかけたのは、両少尉ではないだろうか、と書いたが、判決文を読めば読むほど、2人の少尉の言葉には矛盾が多いし、原告側の出した証拠も否定されている。「報道被害」「冤罪」という裁判の進め方には無理があるように思うのは、僕だけではないだろう。 また、第2点目は、この裁判によって明らかにされた「百人斬り」の実像である。 本多氏は「私のすべての報道は事実に基づいて書かれている」と語り、この「百人斬り」は、白兵戦での「百人斬り」ではなく、「通常、軍刀等を用いて座している者等を斬ることを意味する」「据えもの百人斬り」であるとする。一方、最初の記事である東京日日新聞には、「据えもの百人斬り」とは書かれていない。それを含めると、可能性は3つある。 1つは、この報道自体が「ホラ話」という場合だ。この「ホラ話」の中にも2つあり、1つは、「記者の創作」の場合。そして、もう1つが、「2人が創作したホラ話」の場合である。 2つ目は、この記事の「百人斬り」=「白兵戦での百人斬り」が真実である場合だ。この可能性も捨てることはできない。 最後、3つ目が、この「百人斬り」が「据えもの百人斬り」である場合だが、僕は、この「据えもの百人斬り」にも、少なくとも3つの可能性があると考える。その1は、戦場で戦う意志のない敵兵を斬った場合、その2は、戦場で戦闘終了後の捕虜を文字通り「据えもの百人斬り」をした場合。残りの1つは、戦場で捕虜や近隣の非戦闘員も集めて虐殺的に「据えもの斬り」を行った場合だ。 僕が何故、こうした可能性をわざわざ述べるのかと言えば、この裁判の中には、いくつかの重要証言がある。それらを読むと、いろいろな可能性が考えられる。 例えば、東京日日新聞の鈴木記者。 「本人たちから"向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった"という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ」 前述の佐藤カメラマン。 「"あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった」 H氏証言。 「(野田少尉談)あの話は創作ですよ。中国ではこの話を証拠とするでしょうが、私はやっていないことはやっていないと言います。私に責任があれば、その責任は立派に果たします」 六車政次郎証言。 「出合い頭に銃剣を構えた敵兵とぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り降ろしていた」 さらに、志々目彰証言。 「(戦後の野田少尉の弁)実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片つばしから斬る……百人斬りと評判になったけれども,本当はこうして斬ったものが殆んどだ」 望月五三郎証言。 「その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無惨にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聨隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである」 鵜野晋太郎証言。 「進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で、立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける」 証言によりニュアンスも異なり、これらの証言があいまいであるとか、否定する意見もあるが、この裁判では、こうした証言を元にして、本多氏の著作を「記載のとおりの事実を摘示し、又は論評を表明したものである」と認めた。つまり、本多氏の著作を「一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない」と判断したのである。 では、「百人斬り」の真実とは何だったのか。ここからは僕の勝手な想像だが、2人の少尉が百人斬りを目指したことは事実ではないか、と考えるに至った。そして、占領のスピード、さらに当時の中国軍が敗走を続けていたことを考えると、その数の真否は別として、戦場で逃げ遅れた中国兵を次々と殺傷して行ったのが、いわゆる「百人斬り」ではないだろうか。そして、おそらく2人の少尉にとっては、それは純然たる戦闘行為であって、捕虜の虐殺でも、ましてや住民虐殺でもなかっただろう、というのが僕の推測だ。 また注目すべきは、これも判決文で紹介された、南京軍事法廷での2少尉に死刑判決を与えた理由である。 「向井敏明及び野田厳(「即野田穀」と表記されている)は、紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し、その結果、野田厳は105名、向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」 とあり、何故か、ここでは、その場所が「紫金山麓」に限定されている。また、その証拠は、東京日日新聞の記事と、 「其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり」 という、そこにあった屍骸である。 そして南京軍事法廷では、その「百人斬り」の動機を、「花嫁募集」と「殺人競争」であると指摘している。 おそらく、2少尉にとっては、自分の命がけの戦争での体験を、「花嫁募集」と「殺人競争」という理由で評価されたことが、心残りだったに違いない。 仮に「百人斬り」の事実が、純然たる「据えもの百人斬り」であるなら、東京日日新聞の記事は、明らかに虚報だろう。ただ、当時の記者たちが、そこに誇張表現や戦意高揚の気分を認めるにしろ、その後においても、その記事を正しかったと言うのであれば、その時点で、記者が矛盾に感じるような違法行為はなかったのではと思うのは、僕だけだろうか。そして、それが「据えもの百人斬り」だとしても、単純に残虐行為とは断言できない、いろいろな可能性が考えられるのではないだろうか。 19万人にも及ぶ犠牲者の責任を、100数名を惨殺したとされる2人の少尉が、死をもって償った。さらに、彼らは兵士である。純然たる戦闘行為で敵兵を殺すことが、彼らの役目であって、だからこそ、当時の日本は彼らを英雄として扱った。敗戦によって、日本の価値観が変わったにしろ、彼らが日本のために戦場へ行き、成果を上げた、という事実には変わりはない。 僕は、2人の少尉を日本の残虐性の象徴とする捉え方には疑問を感じる。僕には、2人が、戦場で大多数の兵士と同じように戦争に従事したにもかかわらず、戦後、いきなり南京軍事法廷に連れ出され、大いに迷った、悲しい日本人のように見えてならない。そして、中国への責任問題は別として、それが理解できるのは、日本人しかいないのではないだろうか。 戦争の総括を中国のためや他国のためだけに行っても、意味はない。数々の証言をそのまま紹介した今回の判決は、僕らに今一度、日本の戦争の真実を考える機会を提供しようとするものではないかと思う。 (柴田忠) 次へ 前へ |