第一審判決考新版(第一審判決考旧版)



 (最新見直し2006.6.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第一審判決確認しコメントしておく。「読める判決『百人斬り』Hypertext 東京地裁判決〔8/23〕 」その他を参照する。

 2011.10.25日 れんだいこ拝


【判決文主文、事実及び理由その1(提訴の概要)】
 当時の国民政府国防部審判戦犯軍事法庭検察官は、昭和22年12月4日、両少尉について、昭和12年12月5日、句容において、向井少尉が中国人89人を殺害し、野田少尉が中国人78人を殺害し、さらに、同月11日、紫金山麓において、向井少尉が中国人106人を殺害し、野田少尉が中国人105人を殺害したとの事実により、国防部審判戦犯軍事法庭(以下「南京軍事裁判所」ともいう。)に公訴を提起した。両少尉は、起訴事実を争ったが、同法廷は、昭和22年12月18日、両少尉に対し、作戦期間共同連続して捕虜及び非戦闘員を屠殺したとして、田中軍吉大尉と共に、死刑判決を言い渡した(以下「南京軍事裁判」又は「南京裁判」という)。両少尉は、同判決を不服として上訴を申し立てたが、昭和23年1月28日、南京雨花台において、田中軍吉大尉と共に銃殺刑に処せられた。

1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。


 第2 事案の概要

 原告は、故向井敏明少尉(以下「向井少尉」という)の遺族である原告田所千惠子(以下「原告千惠子」という)及び原告エミコ・クーパー(以下「原告エミコ」という)並びに故野田穀少尉(以下「野田少尉」という)の遺族である原告野田マサ(以下「原告マサ」という)。

 被告は、本多の「中国の旅」及び「南京への道」。「南京大虐殺否定論13のウソ」。向井少尉及び野田少尉の百人斬り事件記述、被告毎日の前身たる東京日日新聞の故浅海一男(以下「浅海記者」という)が昭和12年11月30日から同年12月13日までの間の同年11月30日、12月4日,同月6日、同月13日に掲載したいわゆる「百人斬り」報道について、虚報であることが明らかとなったにもかかわらず、それを訂正しない不作為に対して、両少尉の名誉毀損、その遺族である原告らの名誉毀損、原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情侵害したとして、いずれも、人格権侵害の不法行為に基づき、各書籍の出版、販売、頒布の差し止め請求、謝罪広告の掲載、損害賠償金の連帯支払を求めた事案である。

  • 日日記事第四報には、当時、戦線に特派された同新聞社写真記者佐藤振壽(以下「佐藤記者」という)によって撮影された両少尉の軍服姿の写真が掲載されていた。 
  原告の主張
 「中国の旅」は、①賞がかかった上官命令により、②両少尉が句容から南京城まで3回にわたって百人斬り競争をし、3度目は百五十人斬り競争であったこと、③その対象は中国人であって、戦闘中ではなく、平時の殺人ゲームであったこと、④両少尉が、紫金山の時点において、向井少尉については195人、野田少尉については183人の中国人を殺害していたことを事実として摘示し、両少尉が「捕虜据えもの百人斬り競争」をしたこと、本件日日記事の報道した「百人斬り競争」が「捕虜据えもの百人斬り競争」であったことを事実として摘示している。

 「南京への道」は、「百人斬り"超記録"」の見出し及び本文部分において、「百人斬り競争」が記録としてあったこと、両少尉が、捕虜虐殺である「据えもの百人斬り競争」をしたことを事実として摘示している。

 「南京大虐殺否定論13のウソ」は、「第6のウソ 「百人斬り競争」はなかった」の見出し及び本文部分において、「中国の旅」及び「南京への道」に摘示した事実に加え、両少尉が「百人斬り」を認めていたこと、両少尉が互いに罪をなすりつけようとしたことを事実として摘示している。

 日日記事の「百人斬り競争」が虚偽であることは、以下のことから明らかである。

 南京攻略戦当時の我が国の新聞においては、被告毎日の前身である東京日日新聞や被告朝日を始め、各新聞社の報道競争が過熱しており、真実は軽んじられ、戦意を高揚する記事がもてはやされていた。両少尉の南京軍事裁判での陳述によれば、両少尉は、昭和12年11月29日、無錫郊外で浅海記者と出会い、その後、常州の城門近くで記念撮影をしたということである。この際、浅海記者は、両少尉に「百人斬り競争」という冗談話を持ちかけたところ、その武勇伝に両少尉が名前を貸し、この冗談話を基に本件日日記事が掲載されたものであって、それらは、浅海記者によって作り上げられた戦意高揚のための創作記事であった。

 冨山大隊は、昭和12年11月26日正午すぎに無錫駅を占領した後、同日午後、常州に向けて追撃を開始したため、無錫城内には入っていない。冨山大隊は、同日は無錫より約3里のところで露営し、翌27日には横林鎮で中国の退却部隊と遭遇し、戦闘となった。冨山大隊は、同月28日、常州へ向けて出発し、翌29日に常州に入城した。

 向井少尉は、同年12月2日、丹陽にて砲撃戦中に負傷して、離隊し、救護班に収容された。冨山大隊は、同月4日、命令変更により丹陽を出発し、句容に向かったが、翌5日早朝、既に金沢師団が句容西方の退路を遮断していることを知り、旅団長の命令により句容を攻略することなく、北へ迂回転進することとなった。

 そのため、冨山大隊は、句容に入ることなく北上し、同日は賈崗里で宿泊して、翌6日、同所を出発し、砲兵学校を占領し、同月7日、前面偵察のため、西進した湯水鎮を経由することなく蒼波鎮に出た。冨山大隊は、その後、同月10日から12日にかけて、紫金山南麓にいる中国軍を攻撃しながら、南京城に向かって西進した。

 このように、向井少尉は、丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ、同月中旬に冨山大隊に復帰したものであるし、野田少尉も句容には入っておらず、また、紫金山の攻撃は、歩兵第三十三連隊が行ったものであって両少尉とも紫金山の山頂にも行っていないのであるから、本件日日記事第三報及び第四報に記載された経路は、両少尉の真実の行軍経路に反している。

 本件日日記事は、上記のほか、以下の点においても事実に反している。

 本件日日記事第一報は、昭和12年11月30日に掲載されているところ、それによれば、両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め、無錫から常州までの間に、向井少尉が56人、野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら、佐藤記者は、常州で両少尉と会った際、浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする」という話を聞いたのであって、第一報はこの話の内容に反している。

 また、第一報では、向井少尉の斬った人数が、横林鎮で55人、常州駅で4人の合計59人となっており、上記の人数と矛盾しているし、第一報が真実であれば、両少尉の記念撮影をしたとき、両少尉は、常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが、佐藤記者もそのような話を聞いておらず、両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって、不自然である。

 本件日日記事第二報は、昭和12年12月4日に掲載されているところ、それによれば、常州から丹陽までの間に、向井少尉が30人、野田少尉が40人を斬り、向井少尉が丹陽中正門に一番乗りをしたとされている。しかしながら、向井少尉は、上記のとおり、丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、野田少尉も丹陽には入城しておらず、両少尉の行軍経路に反している。

 本件日日記事第三報は、昭和12年12月6日に掲載されているところ、同日の隣の記事は、浅海記者が同じ日に丹陽で取材したものであり、同記者が丹陽からはるか離れた句容まで「百人斬り競争」の結果を取材したとは考えられない。

 本件日日記事第四報は、昭和12年12月13日に掲載されているところ、それによれば、両少尉は同月10日の紫金山攻略戦で106対105という記録を作って、同日正午に対面し、翌11日からさらに「百五十人斬り競争」を始めることとしたとされているが、そもそも、この記事の内容自体が大言壮語の荒唐無稽な作り話であるとしか言いようがないものである。

 本件日日記事の「百人斬り競争」については、後述する望月五三郎を除き、当時、両少尉の部下で、これを目撃した者は一人もおらず、これを信じる者もいなかった。また、本件日日記事報道以後、「百人斬り競争」は武勇伝としてもてはやされ、他紙においても後追い記事が掲載されたが、これらはいずれも到底信用できないものであった。

 野田少尉は、南京攻略戦後、郷里の鹿児島で講演を行った際、「百人斬り競争」を否定しており、向井少尉は、南京攻略戦後も、部下に対し、「百人斬り競争」が冗談話を新聞記事にしたものであると度々話しており、「百人斬り競争」が創作であると話していた。

 なお、本件日日記事は、中国側では我が国を誹謗中傷する宣伝材料として利用され、本件日日記事の第三報と第四報がジャパン・アドバタイザー紙に転載されると、国民党国際宣伝処の秘密顧問であったティンパレーによって、「殺人ゲーム」というタイトルを付けて紹介され、残虐事件の報道記事に仕立て上げられた。

 向井少尉は、昭和21年7月1日、極東国際軍事裁判(以下「極東軍事裁判」又は「東京裁判」ともいう)法廷3階325号室において、米国のパーキンソン検事から尋問を受けたが、「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となり、釈放されたものである。パーキンソン検事は、向井少尉に対し、同少尉を召喚する前に新聞記者を喚問し、その結果、「百人斬り競争」は事実無根と判明したと述べ、「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカ人にもたくさんいますよ」と述べて、握手して別れたのである。

 なお、浅海記者及び鈴木記者は、向井少尉の尋問に先立って、同検事から尋問を受けており、その際、両記者は、本件日日記事の内容を「真実である」旨答えているが、この供述書は東京裁判には提出されなかったのであって、その理由は、記事を書いた両記者が「百人斬り競争」を目撃しておらず、記事に証拠価値がないと判断されたからである。

 南京軍事裁判において、両少尉は、

 浅海記者が野田少尉と会ったのは2回、向井少尉と会ったのは1回であったにもかかわらず、新聞記事が4,5回も報道されていること。
 野田少尉が麒麟門で戦車に乗った浅海記者に会ったとき、浅海記者が最後の記事を既に送稿したと話しており、後日、その記事が紫金山の記事であることを知ったこと。
 両少尉が句容には入っておらず、句容の記事が創作であること。
 向井少尉が砲撃戦に参加したのは、無錫と丹陽のみであり、丹陽の戦闘で左膝頭部及び肘右手下部を負傷して、離隊し、救護班に収容され、その後戦闘に参加することができず、砲兵学校で帰隊したことから、句容,紫金山の記事が創作であること。
 両少尉は丹陽で別れた後、向井少尉が帰隊するまで会っていないこと。
 向井少尉が昭和21年7月に東京裁判の検察官から取調べを受けたが不問に付せられたことなどを主張して、「百人斬り競争」が虚偽であると主張し、無罪を訴えた。しかしながら、南京軍事裁判所は、ただ一度の公判審理で、両少尉の申請した浅海記者と冨山大隊長を証人として採用することもなく、被害者証人を取り調べることすらせずに、即日両少尉及び田中軍吉大尉に死刑判決を言い渡した。両少尉は、冨山大隊長、冨山大隊本部書記竹村政弘、浅海記者の証明書を付けて、再審を申し立てたが、認められず、昭和23年1月28日、銃殺刑に処せられた。これら南京軍事裁判の記録及び経過を見れば、この裁判が極めて不当であり、報復裁判以外の何物でもなかったことは明らかである。

 本件日日記事の「百人斬り競争」は、日本刀の強度の点からもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、軍刀は、将校にとって身分の象徴であり、守護刀であって、いわゆる指揮刀として使用されるものであり、戦闘に用いられることは極めて稀であった。しかも、将校用の軍刀は、美観を重視したものであり、実際には脆弱なものであって、多くの人を斬ることは到底不可能である。

 本件日日記事の「百人斬り競争」は、当時の日本陸軍の組織の点からもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、向井少尉は、歩兵砲の小隊長であるところ、歩兵砲の小隊長は、歩兵砲小隊を指揮し、自らを砲撃戦に任じているので、第一線の歩兵部隊のように突撃戦には参加しないし、その任務は、敵の重火器の撲滅あるいは制圧、第一線歩兵の援護射撃の指揮等であって、多忙を極め、そのような立場にある者がいきなり持ち場を離れることは、軍律違反であって許されることではない。なお,向井少尉は、軍刀での戦闘経験はない。

 また、野田少尉は、大隊の副官であるところ、大隊副官は、大隊本部の事務整理と取締りを担当し、その任務は多忙であって、白兵戦に巻き込まれるのは、大隊本部が敵の急襲を受け、あるいは大隊長自らが突撃するような緊急の場合のみであり、そのような立場にある者が持ち場を離れて勝手気ままに殺人競争をすることは、許されることではない。

 本件日日記事の「百人斬り競争」は、当時の南京攻略戦の実相から見てもおよそあり得ないことであり、虚偽である。すなわち、南京攻略戦は、近代戦であり、組織化した日本軍と中国軍との戦闘であって、中国軍はドイツ式の近代的組織防衛戦を行い、武器も日本軍兵器に遜色ないものであったから、両少尉が日本刀を振り回して中国兵に立ち向かうなどということはおよそ考えられない。

(イ)  被告本多は、本件日日記事の「百人斬り競争」を、上官が命令して両少尉に民間人を殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」に変容させ、昭和46年の朝日新聞紙上に「競う二人の少尉」として掲載させ、「中国の旅」にも記載した。この「殺人ゲーム」は、本件日日記事の「百人斬り競争」とは全く別物であり、何の根拠もないものである。
(ウ)  「百人斬り」論争は、被告本多の上記朝日新聞記事を契機として、本件日日記事の「百人斬り競争」の真偽について論争がなされたものであり、最終的には、被告本多が「死人に口なし」と逃げ込んで論争を放棄し、「百人斬り競争」が虚偽であることで決着がついた。そこで、被告本多は、新たに「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと唱えたものであるが、これが虚偽であることは、以下のとおり明らかである。

 被告本多は、「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として、志々目彰が小学生の時に聞いたという野田少尉の話を引用しているが、そのような話が本当にあったか否かも定かではないし、その内容も、近代戦である南京攻略戦においてはおよそ考えられないような話であって、到底信用することができない。

 被告本多は、「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」を引用しているが、「百人斬り競争」とは、時と場所と殺害対象を特定した事実であり、残虐行為を行った全くの別人の話を根拠として、「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと断定することは許されない。

 被告朝日は、望月五三郎の「私の支那事変」の一部を、コピーで「農民虐殺」の証拠として提出しているところ、この本には200か所を超える誤りがあり、依拠したとされる「覚え書」や「資料」等が存在するか否かも疑わしいものであるし、望月五三郎の「南京攻略作戦」当時の所属も不明確である。「百人斬り」の項では、常州と丹陽の位置関係を誤って記載したり、「百人斬り」を開始したとされる場所に誤りがあり、記載内容も抽象的かつあいまいであって、到底信用することができない。
(エ)  被告本多らは、「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」において,両少尉の遺書を引用した上で、両少尉が一種のなすり合いをしている旨指摘しているが、遺書等の内容を素直に読めば、これをなすり合いと理解することは全くできないものであって、当該指摘は虚偽であることが明らかである。

【被告(本多)の主張)】
  • (被告本多の主張)
    本件各書籍は、原告主張に係る事実を摘示したものではなく、両少尉の「百人斬り競争」について、種々の資料批判の上で、戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから、捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。
  • (被告柏の主張)
    本件各書籍がどのような事実を摘示したものであるかは、一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきところ、「南京大虐殺否定論13のウソ」の別表記事番号三は、本件日日記事から62年、両少尉の死亡から52年を経過した後に出版されたものであって、東京日日新聞が報道した「百人斬り競争に対する否定論の論評を紹介した上、関連する資料を検討することによって否定論に反論し、「百人斬り競争」の実相を究明しようとしたものであって、全体が史料考証による論評という性格を有し、両少尉に対する人格的な非難を伴うものではない。
  • (被告朝日の主張)
    「中国の旅」は、「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは、両少尉の不運であった」旨記載し、「南京への道」は、別表記事番号ニの1の1、二の2の1及び二の3の1において、志々目彰が直接聞いたという野田少尉の言葉を引用した上で、「これでは,あの武勇伝も実は『据えもの百人斬り』であり、要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる」旨記載しているところ、これらは、本件日日記事、志々目の話、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて、両少尉の「百人斬り競争」について、白兵戦のような状況で自分が傷つかずに百人も斬ることは常識的には無理な話であろうとの趣旨で論評したものであって、「据えもの百人斬りをした」、「捕虜を虐殺した」との事実を摘示したものではない。

  なお、死者自身に対する名誉毀損については、名誉毅損の趣旨及び立法内容からして、否定されるべきであるし、死者に対する名誉毀損が原告らに対する名誉毀損となる場合であっても、摘示した事実のうち主要な事実の虚偽性が要件となるところ、後記エのとおり、主要な事実としての「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については、真実であることが明らかである。

 「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」が行われていたことが明らかであるし、原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情が存在していたとしても、両少尉の死後50年以上を経た現在において、その情は十分軽減されていることに加え、「百人斬り競争」についても、既に30年も前に論争となったように、歴史的事実へ移行しているというべきであるし、

 本件日日記事は、昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり、関係した記者も、浅海、光本、安田、鈴木の4人の手によるものである。そして、浅海、鈴木両記者は、極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で、両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また、佐藤記者も、両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて、「取材の中で『斬った、斬ったと言うが、誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ、『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ』」という話だった」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず、これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。

 「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか、

  • 昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島版,
  • 同月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,
  • 同月16日付け鹿児島朝日新聞,
  • 同月18日付け鹿児島新聞,
  • 昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,
  • 同年3月21日付け鹿児島新聞,
  • 同月22日付け鹿児島朝日新聞,
  • 同月26日付け鹿児島新聞,
  • 昭和14年5月16日付け東京日日新聞


 にそれぞれ掲載されており、

 野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し、「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版)、野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞)、野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも、両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。

 望月五三郎は、昭和12年当時、冨山大隊第十一中隊に所属し、南京戦にも参加した人物であるところ、同人の著書である「私の支那事変」には、両少尉による「百人斬り競争」について記述されており、その内容は、具体的で迫真性があり、体験者でなければ到底書き得ないものである。

 志々目彰は、雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で、同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており、それによれば、野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は、野田少尉の話が、軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり、それゆえ、明確な記憶として残っていたとするものであって、その内容も具体的で確かなものである。

 両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。

 なお、両少尉は、南京軍事裁判において、野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し、南京に入った事実はないとし、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、救護班に収容されていた旨弁解しているところ、野田少尉は、上記のとおり、自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし、南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ、向井少尉については、冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか、昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では、自ら負傷した事実がないことを自認しているから、いずれの弁解も客観的資料や証言に反し、信用することができない。

 (イ) 両少尉が行った「百人斬り競争」が戦闘行為の中だけでなく、投降兵、捕虜、農民等に対する殺害でもあったことは,以下のとおり明らかである。

 望月五三郎の「私の支那事変」によれば、野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し、「その行為は支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた」ことが明記されており、志々目彰の上記論稿によれば、野田少尉は、投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。

 洞富雄元早稲田大学教授は、詳細な資料批判を行った上、「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし、田中正俊元東京大学教授も、客観的資料に基づく実証的見解として、「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており、「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め、秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。

 そして、昭和12年の南京攻略戦当時、日本軍による略奪、強姦、放火、捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり、多数の資料も存在するのであり、鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように、多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。

 (ウ) なお,上記真実性に関するその余の主張については、被告朝日の主張のとおりである。

 これは、死者についての記述が、往々にして歴史的事象への考察、検証、論評の性格を持つものであり、その記述に遺族が不快感を抱いたことから、当該記述や当該出版が不法行為となれば、言論表現の自由や歴史研究、発表の自由が不当な制約を受けるからである。

 「百人斬り競争」や捕虜・民衆虐殺は事実である。史料考証による歴史的探求。

 名誉毀損の不法行為責任に関する判例法理が、真実性について、重要(主要)な部分において真実であることが証明されれば足りるとしている。

 「中国の旅」及び「南京への道」で摘示した事実又は表明した論評のうち、重要(主要)な部分は、本件日日記事に記載された「百人斬り競争」の事実及び「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」との論評であるところ、事実摘示の点については、後記のとおり、真実であり、虚偽でないことは明白であるし、本件日日記事は、両少尉が自ら進んで話した話の内容を記事にしたものであり、両少尉の承諾のもとに掲載されたものとして違法性がなく、それを引用した両書籍の記載にも違法性はない。

 また、論評の点については、両少尉の百人斬り競争を、本件日日記事、志々目彰の話、鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて論評したものであって、今から六十数年前の歴史的事実の紹介ないしその論評という表現行為の意義、目的に照らし、社会的に妥当な範囲内の公正な論評であるし、両少尉は、後記のとおり、まさに「据えもの百人斬り」を行っていたものであるから、「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」との論評は真実ないし真実に基づくものであって、虚偽ではない。

 (エ) 本件日日記事に記載された「百人斬り競争」が真実であり、両少尉の「据えもの百人斬り」、「捕虜虐殺」が真実であることは、以下のとおり明らかである。
(ア)  両少尉が、記者からの取材に対し、本件日日記事のとおり語ったことは、以下のとおり事実である。

 浅海記者は、本件日日記事について、自らが取材、執筆したものであるとした上、両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって、その内容は真実であると述べている。

 すなわち、浅海記者は、まず、昭和21年6月15日、極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際、本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し、「真実です」と明言し、続いて、南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても、「両氏の行為は決して住民、捕虜等に対する残虐行為ではありません」、「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。

 また、浅海記者は、「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において、両少尉から話を聞いたことを認めているほか、昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても、両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し、その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて、その経過を取材したことについて具体的に述べている。

 鈴木記者は、本件日日記事第四報について、浅海記者と共同で取材、執筆したものであるとした上、両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって、その内容は真実であると述べている。

 すなわち、鈴木記者は、まず、昭和21年6月15日、浅海記者とともに、極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際、本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し、「真実です」と明言するとともに、同尋問において、1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については、振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも、上記記事に書いたことは、自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。

 また、鈴木記者は、昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において、両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ、「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても、紫金山で両少尉に会い、浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。

 さらに、鈴木記者は、昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において、両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと、虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか、「『南京事件』日本人48人の証言」においても、両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。

 佐藤記者は、本件日日記事第四報の写真を撮影をした際、両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。すなわち、佐藤記者は、まず、「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において、本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ、両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと、浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ、「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。

 また、佐藤記者は、平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集Ⅱ」所収「従軍とは歩くこと」において、両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと、佐藤記者も納得できない点を質問し、返答を受けて納得できたと述べており、その後、南京の手前で浅海記者に会った際に、浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。さらに、佐藤記者は、当法廷においても、両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。
(イ)   野田少尉は、本件日日記事が掲載された後に、郷里の友人あての手紙で、あるいは翌年(昭和13年)に帰国して以降、郷里の鹿児島で新聞記者や父親などに対し、あるいは幾つもの講演で、本件日日記事に掲載された「百人斬り」が真実であることを繰り返し述べている。また、向井少尉も、本件日日記事の掲載以後、「百人斬り競争」が事実であることを認めているし、両少尉とも、遺書において「百人斬り」を否定していない。

 昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には、野田少尉から中村碩郎にあてた書信のことが書かれており、それによれば、野田少尉自身が、同日時点では、既に本件日日記事に「百人斬り競争」の記事が出たことを知っており、南京入城まで105人を斬り、更に253人を斬ったと自ら述べており、同様の内容の記事は、同月26日付け大毎小学生新聞にも掲載されている。

 野田少尉は、南京攻略戦後の昭和13年に日本に帰国し、同年3月に郷里の鹿児島に立ち寄った際、新聞記者や父親に対し、あるいは講演で、百人斬り(それ以上の数を斬ったこと)を認めている。

 昭和13年3月21日付け鹿児島新聞では、野田少尉自らが374人を斬ったと述べ、さらに紫金山攻撃に参加したと述べており、同月22日付け鹿児島朝日新聞では、野田少尉の父が、野田少尉から374人の敵兵を斬ったことを聞いている旨述べている。

 同月26日付け鹿児島新聞には、同月24日「百人斬の野田少尉神刀館で講演」との記事が掲載されており、阿羅健一「名誉回復のその日まで」(「正論」平成15年12月号所収)によれば、当時、野田少尉の講演を聞いた人が多数いて、「百人斬り」が話題になったことが述べられている。

 野田少尉の父親である野田伊勢熊は、昭和42年6月に陸軍士官学校四十九期生会が発行した「鎮魂第二集」に寄稿し、その中で、南京軍事裁判以後も両少尉の「百人斬り競争」が事実であったことを認めている。

 志々目彰は、雑誌「中国」昭和46年12月号所収「百人斬り競争--日中戦争の追憶--」において、野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ、鹿児島県立師範学校付属小学校で行った「百人斬り競争」についての講演を直接聞いたと述べている。

 向井少尉は、南京戦の後、中尉に昇進し、昭和14年5月に中国漢水東方地区において、南京戦での百人斬りの青年将校として東京日日新聞の西本記者の取材を受け、その中で「百人斬り競争」が真実であることを認める言動を行っている。

 両少尉は、遺書の中で、捕虜や住民を殺害してはいないことを強調しているが、戦闘行為として斬ったことは否定しておらず、「百人斬り競争」について自ら進んで新聞記者に話したことを認めている。

 本件日日記事の直後、昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版、同月16日付け鹿児島朝日新聞、同月18日付け鹿児島新聞には、野田少尉関係の記事が、同月13日付け大毎小学生新聞には向井少尉関係の記事が、それぞれ掲載されている。
(ウ)  両少尉による「百人斬り競争」、「据えもの百人斬り」及び「捕虜虐殺」が事実であることは、冨山大隊の関係者等の証言からも裏付けられる。

 冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は、昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,両少尉の「据えもの斬り」を直接体験した事実として具体的に記述している。

 冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し、向井少尉直属の部下であった田中金平は、「我が戦塵の懐古録」(第十六師団歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦友会である「九'砲の集い」が出版した懐古録)に寄せた「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」において、第三歩兵砲小隊の行軍について詳細に記述しているところ、同行軍記録には、各場所での戦死者,負傷者の記述があるが、小隊長であった向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、救護班に収容されたとの記述はない。直属の小隊長が戦線を離脱したのに、その記述がないということは考えられず、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、救護班に収容されたという、南京軍事裁判における向井少尉の答弁や冨山大隊長の受傷証明書は、真実を述べたものとは到底考えられない。

 六車政次郎は、陸軍士官学校時代に野田少尉と同期生であり、第十六師団歩兵第九連隊第一大隊副官(少尉)として、南京攻略戦に参加している(野田少尉の手紙の中にも「六車部隊長」、「六車」として名前が出ている)が、白兵戦について実際に経験した内容を具体的に記述しており、平成2年8月発行の「惜春賦―わが青春の思い出―」においては、大隊副官であっても、白兵戦で人を斬ったことを具体的に記述しているし、昭和47年5月発行の「鎮魂第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)所収「野田大凱の思い出」においては、「百人斬り」という数についても違和感を抱いていない。
(エ)  南京軍事裁判での両少尉の弁明は、その置かれた立場からすればやむを得ない弁明というべきかもしれないが、重要な部分において虚偽であることが明らかであり、信用することができない。

 南京軍事裁判における両少尉の各答辮書によれば、浅海記者が架空の記事を創作したとされているところ、浅海記者、鈴木記者、佐藤記者の前記各証言や、野田少尉が百人斬りを認める言動をとっていたことなどからすれば、両少尉自身が浅海記者らに「百人斬り競争」の話をして、それを浅海記者らが記事にしたことが明らかであり、両少尉の上記弁明は、虚偽である。

 野田少尉は、記事を見たのは民国27年(昭和13年)2月のことで、その後も戦地を転々と転属して新聞記事訂正の機会を逃したとしているが、前記のとおり、野田少尉は、報道直後の同年1月から3月までの時点で、本件日日記事に両少尉の百人斬りの記事が掲載されていることを十分認識した上で、書信や新聞記者の取材、講演等で自ら「百人斬り」を行ったことを述べているのであり、この弁明も虚偽である。

 野田少尉は、麒麟門東方において行動を中止し、南京に入った事実はないと弁明しており、これによると、野田少尉の属する冨山大隊主力は、丹陽北方から鎮江方面に北辺迂回をし、揚水の南側を行軍したが、麒麟門手前で引き返し、湯水を経由して砲兵学校に至り、紫金山にも南京にも行かなかったこととなる。しかしながら,冨山大隊は、草場追撃隊の先発隊として丹陽を攻撃して占領し、さらに句容付近の敵の陣地を攻撃突破し、追撃隊主力とともに湯水鎮方面に向い、紫金山、中山門を経て、昭和12年12月13日に南京に入城していることが明らかであり、野田少尉自身,昭和13年の時点では自ら紫金山攻撃に参加したとはっきり述べており、野田少尉の上記弁明も虚偽である。

 野田少尉は、大隊副官の職務からして「百人斬りの如き馬鹿げたる事をなし得る筈なし」と弁明しているが、六車政次郎の証言にあるとおり、大隊副官の任務上、白兵戦で人を斬ることがないとはいえず、この弁明も虚偽である。両少尉は、俘虜住民を虐殺したことはないと弁明しているが、両少尉が無抵抗の農民を奪い合うようにして、日本刀で斬り捨てたことは、望月五三郎の前記証言から明らかであって、この弁明も虚偽である。

 向井少尉は、昭和12年11月末ころ、丹陽の戦闘で左膝頭部及び右手下膊部を負傷し、同年12月中旬(南京攻城戦終了)まで丹陽の臨時野戦病院において臥床中で、同病院が湯水温泉地に移動した際に担架車載トラックで湯水砲兵学校に駐留していた所属部隊に帰隊したと弁明している。

 しかしながら、前記のとおり、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、入院し戦列を離れたとの事実は、向井少尉直属の部下である田中金平の行軍記録には全く記載がないし、向井少尉自身が「百人斬り競争」の事実を認めており、さらに、浅海記者及び鈴木記者とも、昭和12年12月12日に紫金山の麓で両少尉に会って「百人斬り競争」の経過について取材したと明確に証言しているから、この弁明は虚偽であって、向井少尉は、冨山大隊の第三歩兵砲小隊長として、丹陽の戦闘の後、句容の攻撃に参加し、さらに紫金山攻撃に参加し、同月13日に中山門から南京に入城し、同月25日に南京から湯水東方の砲兵学校に移駐したものである。

 両少尉は、本件日日記事で「百人斬り」報道がなされたことを認識しながら、報道から10年後に南京軍事裁判のため逮捕、起訴されるまで、「百人斬り」が事実ではなかったとは全く述べておらず、野田少尉については、前記のとおり、講演等で「百人斬り」を行ったことを繰り返し公言していたもので、逮捕、起訴後の弁明に信用性はない。また,両少尉は、その遺書においても、前記のとおり、俘虜住民を殺害したことはないと述べつつも、百人斬りを行ったこと自体は否定していない。

 なお、冨山大隊が麒麟門東方において行動を中止し、南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したとする冨山大隊長の証明書及び向井少尉が丹陽郊外で受傷し、雛隊したとする冨山大隊長の受傷証明書も真実を記載したものとはいえない。受傷や離隊等が事実であれば、公式記録等によって証明することができたはずであるが、冨山大隊長は何ら裏付け資料を提出していない。

【原告らの主張、争点】
 本件各書籍の両少尉に関する記載は、上記(1)及び(2)の原告らの主張記載のとおり,両少尉の名誉を毀損することによって原告らの名誉を毀損するとともに、原告らの敬愛追慕の,情を違法に侵害し、原告らのプライバシー権を侵害するものであり、原告らは、これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって、原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには、被告本多、被告朝日及び被告柏において、第1の3及び5のとおり、謝罪広告を掲載し、第1の4及び6のとおり、慰謝料を支払う必要がある。

 なお、原告らは、本件各書籍の記載により名誉を侵害されているところ、その名誉回復のためには、当該記載がなされているすべての書籍を対象にするのでなければならず、現在書店で販売されている書籍のみならず、インターネットや古書店において販売されている書籍及び全集の中に収録されたものをも対象にするのでなければ、原告らの名誉回復を図ることができないというべきである。

  • (被告朝日の主張)
    被告朝日は、現在出版、販売、頒布している「中国の旅」文庫本の第24刷、「南京への道」文庫本の第6刷、「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外のものについては、今後出版の予定がなく、原告らの当該出版差し止めを求める部分は訴えの利益がない。

    また、名誉毀損を理由として出版を差し止めることは、原則として許されず、真実でないこと及び専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、重大かつ著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合に限り、例外的に認められるものであって、本件においてかかる事情は見当たらないし、死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由として出版を差し止めることはそもそもできないものである。
  • (被告本多及び被告柏の主張)
    原告らの主張は争う。
  • (4) 争点(4)について
    • (被告本多及び被告朝日の主張)
      本件各書籍のうち、「中国の旅」単行本の全部、「中国の旅」文庫本の第23刷まで、「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部、「南京への道」単行本の全部、「南京への道」文庫本の第5刷まで、「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第1刷については、本訴提起時に発行日から3年以上を経過しており,消滅時効が完成している。

      また、仮に、消滅時効の起算点を書籍の出庫終了時とするとしても、本件各書籍のうち、両少尉を実名で表記したもの(「中国の旅」単行本の全部、「中国の旅」文庫本の第15刷まで及び「南京への道」単行本の全部)についてはすべて、両少尉を匿名で表記したものについても、「中国の旅」文庫本の第23刷及び第24刷、「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部、「南京への道」文庫本の第6刷並びに「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外はすべて、出庫終了から3年以上を経過しており、消滅時効が完成している。

      したがって、被告朝日は、「中国の旅」及び「南京への道」二のうち、上記の書籍に関する不法行為に基づく損害賠償請求権について、民法724条に基づき、消滅時効を援用する。
    • (原告らの主張)
      被告本多及び被告朝日の主張は争う。
  • (5) 争点(5)について
    • (原告らの主張)
      本件日日記事は、片桐部隊の若い将校である両少尉が、首都南京に向かう前線で中国兵を斬り倒し、「百人斬り」の競争を行っているという内容のものであって、浅海記者による戦意高揚の創作記事であった。しかしながら、その記事が原因となり、両少尉は、昭和22年、南京軍事裁判所に戦犯として起訴され、昭和23年1月28日、銃殺刑に処せられた。

      被告毎日は、そもそも国民の知る権利に奉仕するジャーナリズムに携わる者として、真実を報道していないという疑いがある場合に、自ら検証し,その経過を国民に知らせ、誤りを発見した場合には、速やかに訂正する義務を負担しているというべきである。また、本件日日記事が虚報である以上、当時において、両少尉の名誉を毀損することがなかったとしても、虚報を国民に事実として報道したこと自体が、国民の知る権利を侵害し、公共性を有する新聞社として違法行為であるというべきである。そして、被告毎日は、本件日日記事が虚報であり、それを訂正しなかったことによって両少尉が軍事裁判で銃殺刑に処せられたという先行行為が存在していたにもかかわらず、その後、昭和47年に「朝日新聞」紙上において、被告本多が「百人斬り競争」の記事を掲載して以降、現在に至るまで、自社の虚報を正さず、放置し続けており、かかる不作為によって、本件各書籍を始め、「百人斬り競争」を事実とする多数の書籍により、両少尉及び原告らに対する名誉毀損状態が生じている。
    • (被告毎日の主張)
      本件日日記事が両少尉の名誉毀損に当たるか否かは、一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すべきものであり、当該記事が発行され、読者が閲読し得る時点を基準として判断すべきものであるところ、同記事は、日中戦争という国家間の戦争下にあって、日本軍に属していた両少尉が敵国正規軍9陣地トーチカに突進して、敵の兵隊を多数斃したという報道であり、あくまで正規軍間の戦闘関係を報じたものであって、敗走する兵は斬らないとしているのであるから、ましてや非戦闘員を虐殺したと報道したものではない。国家権力の発動たる戦闘行為にあって、敵国正規軍を多く斃したという事実を報道することは、当時においては日本軍に属し戦闘行為を遂行していた両少尉の社会的評価を高めることはあっても、その名誉を毀損するものではない。

      原告らは、現行憲法21条に基づく立論をするが、そもそも、本件日日記事発行当時は、旧憲法の下にあり、状況は自ずから異なるものであるし、発表当時適法行為であったものが、現行憲法制定により違法となることは、法律不遡及の原則(現行憲法39条)から失当であることが明らかである。

       また、原告らは、いったん名誉毀損行為がなされたときは、その訂正がなされるまでの間、名誉毀損行為が存続していると主張しているが、そもそも名誉毀損にあっては,表現行為が外部になされたときが不法行為時であり、この時点において請求権が発生し、行為は完結するものである。

       もし、原告ら主張のとおり、誤報を行った者すべてについて訂正すべき法的義務が存在するとなると、国家権力は、表現者に対して法的義務として訂正を命ずることとなり、憲法19条、21条に反するものであって、原告らの主張は失当である。

      さらに、本件日日記事について、原告らの主張のとおり不法行為に該当するとしても、両少尉は、当該記事の発表について、当時了承していたのであり、いわゆる被害者の承諾として違法性が阻却されるものである。すなわち、両少尉の供述によれば、二人の名前で「百人斬り」を新聞記事として発表することを持ちかけたのは向井少尉であり、これを受けた浅海記者が「百人斬り」の記事を掲載するという話に対し、野田少尉もこれについて黙認したのである。

      なお、本件日日記事が原告ら主張のとおり引用ないし掲載されたとしても、それは被告毎日の表現行為ではなく、被告毎日において、その点の責めを負うべき理由はない。
  • (6) 争点(6)について
    • (原告らの主張)
      本件日日記事の両少尉に関する記載は、上記(5)の原告らの主張欄のとおり、両少尉の名誉を毀損するとともに、原告らの敬愛追慕の情を違法に侵害するものであり、原告らは、これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって、原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには、被告毎日において、第1の7のとおり、訂正謝罪広告を掲載し、第1の8のとおり、慰謝料を支払う必要がある。
    • (被告毎日の主張)
      原告らの主張は争う。
  • (7) 争点(7)について
    • (被告毎日の主張)
      • ア 本件日日記事は、昭和12年、当時の東京日日新聞に大きく報道されたものであり、しかも、その中には両少尉が一緒に写っている写真まで掲載したものも存在するのであって、当時、両少尉において記事内容を十分了知していたものといえ、終戦までの間に、両少尉において加害者を知ったときから3年以上が経過したものであるから、民法724条により、消滅時効が完成している。

        また、本件日日記事報道当時、両少尉において、その記事内容を了知していなかったとしても、昭和二十一、二年当時においては,本件日日記事の内容を了知していたのであり、それゆえに当該記事が創作であった旨説明、弁明したのであるから、両少尉において、遅くとも昭和二十一、二年当時が加害者を知ったときといえ、それから3年以上を経過した昭和25年当時に、民法724条により、消滅時効が完成している。したがって、被告毎日は、上記消滅時効を援用する。
      • イ さらに、以上の点を措いても、本件日日記事は、昭和12年当時のことであり、本件提訴は、行為の時から20年をはるかに超えた後になされたものであって、除斥期間の経過により既に請求権が消滅したものである。なお、原告らは、不作為義務違反による名誉毀損を主張しているが、これが失当であることは上記(5)の被告毎日の主張欄のとおりである。
    • (原告らの主張)
      被告毎日の主張は争う。原告らは、上記(5)の原告らの主張欄のとおり、本件日日記事の発行自体を問題としているのではなく、被告毎日の不作為義務違反を問題としているのであって、被告毎日の主張は失当である。

【事実及び理由その2(争点整理と証拠)】
 第3 争点に対する当裁判所の判断

  1. 争点(1)について・・・《本多著書:事実の摘示か論評か》
    • (1)・・・《事実の適示か論評か、その検討基準》

      本件各書籍の記載が事実を摘示するものであるか、意見ないし論評の表明であるかを区別し、さらに、本件各書籍の記載がどのような事実を摘示し、又はどのような意見ないし論評を表明しているものであるかを理解するためには、一般読者の普通の注意と読み方とを基準とし、当該名誉毀損の成否が問題となっている部分に使用されている語の通常の意味に従って理解した場合に、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張していると解することができるかどうかを基準とすべきであり、対象部分が修辞上の誇張ないし強調を行ったり、比楡的表現を用い、あるいは、第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用しているとしても、当該部分の前後の文脈や、その公表当時に一般読者が有していた知識ないし経験等の事情を総合的に考慮して判断すると、間接、婉曲的にであっても、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張していると理解されるものであるときには、当該部分は事実を摘示するものと認めるのが相当である。
    • (2) そこで,かかる基準に従い,本件各書籍の記載について,以下検討する。
      • ア・・・《検討個所の確認と略記法》
        • ①別表記事番号一の1の1(*)は,「中国の旅」単行本の「南京事件」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の1の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの (以下,まとめて「番号一の1の記事」という。),
        • ②別表記事番号一の2の1(*)は,「中国の旅」文庫本の「南京」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の2の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号一の2の記事」という。),
        • ③別表記事番号一の3の1(*)は,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の「南京」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の3の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号一の3の記事」という。),
        • ④別表記事番号二の1の1(*)は,「南京への道」単行本の「百人斬り"超記録"」の項に記載された記事の本文の一部であり,同二の1の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の1の記事」という。),
        • ⑤別表記事番号二の2の1(*)は,「南京への道」文庫本の「百人斬り"超記録"」の項に記載された本文の一部であり,同二の2の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の2の記事」という。),
        • ⑥別表記事番号二の3の1(*)は,「本多勝一集 第23巻 南京大虐殺」の「百人斬り"超記録"」の項に記載された記事の本文の一部であり,同二の3の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の3の記事」という。),
        • ⑦別表記事番号三(*)は,「南京大虐殺否定論13のウソ」の「第6章第6のウソ『百人斬り競争』はなかった」の本文及び注記部分である(以下,まとめて「番号三記事」という。)ところ,

        上記①ないし⑦における各本文と各注記とは,いずれもこれを一体として読むことが通常の読み方であるものと解される。

        《 記事番号が書籍のどこのページを指すかは、文中の(*)をクリックして付録2の別表を参照してください 》
      • イ・・・《「中国の旅」単行本記事における事実の適示》

        そして、番号一の1の記事(*)は,日本兵が中国人を大量虐殺したとされる南京事件を取り上げた「南京事件」の項において、その前後に、日本兵による別途の残虐行為が記載されている文脈の中で、被告本多が姜根福という人物から聞いた話として、両少尉が上官からけしかけられて行ったとされる「殺人競争」の具体的内容とともに、殺人競争がなされた区間が城壁に近く人口が多いことや、両少尉が目標を達成した可能性が高いと姜氏が見ていることが記載されており、さらに、その点に関する注記として、別表記事番号一の1の2の注記部分(*)において、野田少尉が105人,向井少尉が106人を斬ったものの、勝負がつかなかったため更に百五十人斬り競争が始まったことなどを報じる本件日日記事第四報が引用されている上、両少尉から取材したとする鈴木記者がそのときの状況を「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」と月刊誌に報告していることや、野田少尉が故郷の小学校で語った話を直接聞いたとする志々目彰が、野田少尉は、実際に白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかおらず、本当は、占領して捕虜となった敵兵を並ばせて片っ端から斬ったものであると語った旨月刊誌において紹介していること、両少尉が南京で裁判にかけられ、死刑が決定し、南京郊外で処刑されたことが記載されている。

        そうすると、番号一の1の記事(*)は、婉曲的な表現を用いつつも、対象となる本文、注記部分をその前後の文脈も含めて総合的に判断すれば、両少尉が、上官から、100人の中国人を先に殺した方に賞を出すという殺人ゲームをけしかけられ、それをいわゆる「百人斬り」「百五十人斬り」の殺人競争として実行に移し、捕虜兵を中心として多数の中国人を殺害したこと、その結果、両少尉が南京軍事裁判にかけられ、死刑に処せられたことを事実として摘示したものと認められる。
      • ウ・・・《「中国の旅」文庫本及び「本多勝一集第14巻中国の旅」における事実の適示》

        番号一の2及び同一の3の各記事(*)には、番号一の1の記事(*)と同一の記載があるほか、各注記部分において、二少尉のエピソードについて、弁護する著書や、それを応援する著書、批判する著書を紹介して論争のある旨が記載されている。なお、「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」においては、両少尉をすべて「M」「N」の匿名で表記しており、別表記事番号一の2の2及び同一の3の2の各注記部分(*)において、「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは、両少尉の不運であった。」という追記がなされている。

        そうすると、匿名処理がなされる以前の上記各記事は、両少尉のエピソードについて論争のある旨が紹介されるなど、論者の個人的な一見解の体裁が採られているものの、その記載内容を総合的に判断すれば、やはり、上記イで述べた番号一の1の記事と同一の事実を摘示したものと認められ、匿名処理がなされた以降の記事は、「M」「N」の二少尉に関する同一内容の事実を摘示したものと認められる。
      • エ・・・《「南京への道」単行本記事における事実の適示》

        番号二の1の記事(*)においては、前章で唐栄発という人物が語った種類の腕くらべ殺人競争について、日本側にも似た記録がある旨の書き出しで、本件日日記事が引用された上、前記イ記載の志々目彰が月刊誌で紹介した野田少尉の言葉を受けて、「百人斬り競争」の武勇伝が「据えもの百人斬り」であり、捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる旨記載され、その後、?其甫(「襲其甫」とも表記されている。)という人物による「据えもの14人斬り」の証言、鵜野晋太郎による「据えもの斬り」の証言及び本件日日記事に掲載された「百人斬り競争」についての評価が引用され、加えて、別表記事番号この1の2の注記部分(*)において、「百人斬り競争」の当時の報道について、100パーセントでっち上げの虚報だとするルポがあるが、虚報の証明はついにできなかった旨記載され、百人斬り競争の二人の少尉が、南京軍事裁判で死刑にされた旨記載されている。

        そうすると、番号二の1記事は、婉曲的な表現を用いつつも、本件日日記事に掲載された「百人斬り競争」が虚偽ではないことを事実として摘示し、さらに、摘示されている事実からの推論の形式により論者の個人的な一見解としての体裁を採りつつ、両少尉による本件日日記事記載の行為がいわゆる「据えもの斬り」(通常,軍刀等を用いて座している者等を斬ることを意味する)であり、捕虜虐殺競争を行ったものであること、及び、その結果、両少尉が南京軍事裁判で死刑に処せられたことを事実として摘示したものと認められる。
      • オ・・・《「南京への道」文庫本及び「本多勝一集第23巻南京大虐殺」の記事における事実の適示と論評》

        番号二の2及び同二の3の記事(*)においては、いずれも、両少尉を「M」「N」として匿名表記した上で、番号二の1と同一の記載がなされているほか、別表記事番号二の2の2及び同二の3の2の各注記部分(*)において、前記ウ記載の「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」においてなされた追記と同様の記載がなされ、さらに、「両少尉は、裁判では『戦閾行為だった』と主張し、遺書では『冗談』とも『戦闘行為』とも書いている。その『冗談』にしても、Mは『Nが言った』と書き、Nは『Mが言った』と、一種なすりあいをしている」と記載され、両少尉の遺書等が引用された上、「死刑判決の罪状は「捕虜と非戦闘員の殺害」だが、両少尉は判決後も『正規の軍事行動だった』と主張していた。つまり百人斬りの行為それ自体は認めていたのである。」と記載されている。

        そうすると、番号二の2の記事及び同二の3の記事においては、匿名で表記された「M」「N」の二少尉に関する事実として、上記エで述べたのと同一内容の事実を摘示したものと認められる。また、当該各記事においては、二少尉が、その遺書等において、Mの遺書中には「Nが言った。」と書かれていること及びNの遺書中には「Mが言った。」と書かれていることが事実として摘示され、その点について、「一種なすりあいをしている」との記載がなされているが、なすり合いをしたか否かということは、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項とは理解できないことから、両少尉が遺書等において相反する記載をしたことについて、論評したものと認められる。
      • カ・・・《「南京大虐殺否定論13のウソ」の記事における事実の適示と論評》

        番号三の記事(*)においては、はじめに、「二人の少尉が、どちらが先に100人を殺すかを競いあった『百人斬り競争』は『東京日日新聞』1937年11月30日付朝刊にその第一報が報じられた。虐殺否定派はこの記事を荒唐無稽な捏造記事として、南京大虐殺そのものをなかったことにする一つの根拠にしてきた。たしかに当時の厳格な言論統制の下では国威発揚のための武勇伝としてあたかも白兵戦でのことのように脚色されているのは事実であろう。

        だが、この記事が書かれた背景には常態化していた日本軍の虐殺行為が確実にあったのである」との記述がなされ、さらに、この二少尉が南京裁判で死刑にされたことを指摘し、前記イ記載の志々目彰(「志乃目彰」と表記されている)が月刊誌で紹介した野田少尉の言葉のほか、「日本刀はそんなにヤワか?」との主題の下、前記エ記載の鵜野晋太郎による「据えもの斬り」の話及び本件日日記事に掲載された百人斬り競争についての評価、襲其甫という人物による「据えもの14人斬り」の話を引用し、「これでも完全な『創作』といえるのか?」との主題の下、前記オ記載の遺書及びなすり合いに関する記載と同旨の記載をし、最後に「結論として、次のようなことが言える。

        すなわち、二少尉による据えもの斬りは確かであろう。ただしそれが100人に達したかどうかは誰も証明することができまい。だが、否定派がいう完全な『創作』とか『斬った中国人はゼロ』とかは、ありえないだろう。実態は以上に述べた通りである」旨記載し、さらに、注記部分において、「日本刀による『試し斬り』や捕虜虐殺などは、当時の中国における日本将兵の日常茶飯事だった。たまたま表面化したおかげでMとNが処刑された点、二人にとって実に同情すべきところがある」旨記載するとともに、洞富雄の「私はこの二人の将校は、あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく、その根源の責任が問われなければならない」との著述を紹介している。

        そうすると、番号三の記事においても、匿名表記された「M」「N」の二少尉に関する事実として、婉曲的な表現を用いつつも、本件日日記事に掲載された二少尉による「百人斬り競争」が虚偽ではないことを事実として摘示し、さらに、推論による論者の個人的な一見解としての体裁を採りつつも、二少尉による本件日日記事記載の行為がいわゆる「据えもの斬り」であり、捕虜虐殺競争であったことを事実として摘示するとともに、前記オで述べたのと同様、二少尉が、その遺書等において、一種なすり合いをしていると論評したものと認められる。
    • (3) したがって、本件各書籍は、上記(2)のアからカまでに記載のとおりの事実を摘示し、又は論評を表明したものであると認められる。
 争点(2)について・・・《本多著書:名誉毀損等であるか》

 (1) 前記争いのない事実等に加え、証拠(各事実末尾に掲記のもの)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

 《「事実が認められる」とは、記述あるいは陳述された事実が認められる、という意味で、それら事実の真偽をこの項で判断した訳ではない。ここでは原告、被告双方が主張の根拠として提出した証拠の要旨を、判断無しに整理して記載したものと思われる 》《 なお、要約されたとはいえ膨大な資料なので、「判決文の構成」の該当部分をまず参照することをお奨めします 》

 《 被告側資料または弁論による?第十六師団の行動 》
 昭和12年11月13日に白茆口付近に上陸した第十六師団は、退却する中国軍を追って西進し、同月25日、無錫東方約6キロメートルの東亭鎮の拠点を占領した(丁21)。これに先立ち、軍司令官は、中国軍が無錫から依然常州及びその西方に向かい退却中であることを知り、同月22日、第十六師団及び第十一師団に対し、その追撃隊をもって常州に追撃するよう命じた(丁19,20)。

第十六師団では、無錫を占領した直後から、既に追撃隊の先発隊(冨山大隊及び歩兵第九連隊第二中隊)が中国軍を追って常州に向かっており、さらに、追撃隊主力(草場旅団長率いる歩兵第二十連隊の主力)が同月28日に無錫を出発して先発隊を追い、次いで第十六師団主力もこれを追った。追撃隊主力は、同月29日に常州を占領し、軍の命令で更に丹陽に向かい、第十六師団主力も、同月30日に常州に達した後、追撃隊主力を追って丹陽に向かった(丁14,19,21)。

同年12月1日、南京攻略の命令が下り、上海派遣軍は、同月3日、第十六師団に、句容―湯水鎮―南京道に沿う地区を南京に向けて追撃させた。第十六師団追撃隊は、これに先立つ同月2日、丹陽を占領し、同月3日、白兎鎮に進出し、同師団主力は、丹陽付近に集結し、同師団は、同日、上海派遣軍からの句容攻撃の命令を受けた。追撃隊主力は、同月4日、歩兵第九連隊の復帰を得て、一斉に行動を開始し、同日夕方には句容東方約6キロメートルの太平庄に達し、同月5日、句容付近に陣地を占領した中国軍を突破した(丁19ないし21)。

追撃隊主力は、途中、湯水鎮進撃の命令を受けたため、歩兵第二十連隊の一中隊と砲兵により句容を攻撃し占領させる一方、歩兵第二十連隊主力と歩兵第九連隊主力の二縦隊となって、句容付近から湯山拠点南北の敵外周陣地に向かって進撃した。追撃隊主力は、同月7日、湯水鎖を占領し、更に追撃を続行して、同月9日には上麒麟門に進出した。分進した歩兵第九連隊主力は、同月8日、大胡山隘路口において敵を撃破し、復興橋に進出し、また、歩兵第二十連隊主力も蒼波鎮に進出した(丁19ないし21)。

中島今朝吾師団長は、同月10日、南京城外の中国軍主陣地に対する攻撃命令を下し、右側支隊(歩兵第三十八連隊)については、上・下五旗―蒋司廟―玄武湖東方500メートル―南京城東北角を、右翼隊(歩兵第三十三連隊)については、下麒麟門―中山門を連ねる線を、それぞれ戦闘地境とし、追撃隊を左翼隊とした。しかしながら、この攻撃命令が追撃隊には伝わらなかったため、追撃隊は、蒼波鎮を出発し、右翼隊の戦闘地域とは知らずに、中山陵南東の稜線を目指した。同師団長は、同日、第一線の進出状況を把握して、両翼隊の戦闘地境を二二七高地-明孝陵北端-明故宮東北端(城内)を連ねる線に変更した(丁21)。

草場旅団長は、右第一線の歩兵第九連隊主力を掌握するため、左翼隊予備の歩兵第二十連隊第二大隊を率いて東凹子に移動し、両連隊の戦闘地境を東凹子--遺族学校--古物保存所(城内)の各南端を連ねる線とした。同月11日、左翼隊右正面では、歩兵第九連隊第一大隊主力が桂林石屋を南下して右第一線となり、冨山大隊が霊谷寺北側から進んで左第一線となり攻撃を行ったが、戦況は進展しなかった。同月12日、左翼隊方面は、砲兵の支援により攻撃が進展し、右第一線の歩兵第九連隊正面においては、第一大隊が中山陵南南西稜線を、冨山大隊が美齢宮をそれぞれ攻略した。同月13日未明、歩兵第二十連隊は、第八中隊の一部をもって中山門を占領し、第二大隊主力は衛岡に進出し、歩兵第九連隊は、師団予備の第二大隊(1個中隊)を増強され、これを右第一線に加え、第一大隊、冨山大隊をもって明孝陵以南の線に進出した。同日、南京城の中国軍が退却したことが判明した(丁14,19ないし21)。
 以上の第十六師団の行軍経路の概略は、別紙図1「南京攻略作戦経過要図」
 (※)及び別紙図2「南京付近戦闘経過要図」(※)(丁20)に示されており、第十六師団の各部隊の行軍経路の詳細は、別紙図3「要図8第16師団の外周陣地突破経過要図」(※)及び別紙図4「要図10第16師団主力の紫金山攻撃経過要図」(※)(丁21)に示されている。また,第十六師団第九連隊等の部隊の行軍経路が、別紙図5「南京攻略戦経過要図」(※)、別紙図6「大華山系・南京外周陣地の攻略要図」(※)及び別紙図7「南京・紫金山攻略要図」(※)(丁14)に示されている。《別紙図1~7 南京戦の経過要図は「文献目録リスト」より、それぞれ(※)をクリックしてください》
 冨山大隊の動向について、同大隊の第三歩兵砲小隊に所属し、向井少尉の直属の部下であった田中金平は、「我が戦塵の懐古録」に「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」を寄稿し、その中で,以下のとおり記載している(丁13)。《これは何年の執筆なのだろうか?》
 「連隊長片桐大佐 大隊長冨山少佐 小隊長向井少尉(中略)
  • 11月21日-26日 無錫附近の戦斗に参加
    常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損分隊長山田金治郎伍長,四番砲手山添銀治郎上等兵,五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。
  • 11月27日-30日 常州附近の戦斗
  • 12月1日-3日 丹陽附近の戦斗
    無錫駅を出て 鉄路沿いに人力搬送で急進する。
  • 12月4日 句容附近の戦斗
    丹陽を占領して 初めて予備隊となり 旅団長の指揮する草場挺身隊に編入され 句容より左第一線を 湯水鎮西方より南京に向い迂回前進する。
  • 12月6日 湯水鎮附近の戦斗
    至る所に 要害堅固なトーチカ陣地があり、湯水鎮前面の戦斗に於て師団長自ら野砲を指揮し 負傷されたとか 吾が前面にも各所にトーチカ陣地が張り回らされていたが 吾々の目的は南京に向って錐揉み突入するにあり。冨山大隊長も 強い所は避けて通るのが戦法と 迂回して進む。お陰で犠牲は少ないものの 道程は三倍以上ともなり吾々砲部隊の苦労は並大抵のものではなく 徴発使役した水牛が 分解した砲や弾丸を 脊にしばってよく急坂難路を登り 大いに助かった。紫金山山頂より 馬群高地正面へ展開する。
  • 12月9日-12日 紫金山附近の戦斗。
    馬群警官学校前台地に陣地侵入し,鉄条網で幾重にも守られた トーチカ陣地の台地に突入せんとする小銃部隊の支援射撃に砲門を開く。後方一千米の道路上に展開した野砲四十八門の一勢斉射と 敵の大口経砲の反撃は 将に壮絶。この間 紫金山山頂より掃射と敵台地よりの十字砲火に五番砲手 安福三郎上等兵 腹部貫通銃創にて戦死。警官学校台地の陥落により前進。忠霊廟 五重の塔と陣地を進め 夜に入り林森邸 の陣地攻撃 壮絶の夜戦に谷口重蔵一等兵戦死す。
  • 12月13日 南京城内の掃蕩戦
    中山門より砲兵営,玄武湖 玄武門へと掃蕩 引続き城外掃蕩
  • 12月15日 南京入城式」
 冨山大隊の動向について、歩兵第十九旅団司令部旅団通信班長少尉であった犬飼総一郎(以下「犬飼」ともいう。)は、要旨以下のとおり述べている(甲115)。《原告側陳述:根拠となる記録史料は?》
 草場旅団は、昭和12年11月25日、東亭鎮が攻略されると、第十六師団の追撃隊となり、その兵力は、歩兵第九連隊の第二中隊と冨山大隊、歩兵第二十連隊、野砲兵第二十二連隊第一大隊、工兵第十六連隊の一個小隊から編成されていたところ、冨山大隊は、追撃隊の前衛となって先行し、草場旅団司令部はその後方約200メートルを続行していた。冨山大隊は、同月26日、草場旅団司令部から無錫突破の命令を受け、軽装甲車中隊の協力を得て無錫駅を占領した。冨山大隊は、同月27日、洛社鎮を出発し、横林鎮を経て常州に向かい、同月28日、常州城北東側の北門外に迂回し、同所にて戦闘を行い、同月29日、常州を占領した。

  その後、常州から丹陽に向かう追撃の途中、奔牛鎮の攻撃は、追撃隊の前衛となった歩兵第二十連隊第三大隊が、呂城鎮の攻撃は、再び追撃隊の前衛となった冨山大隊が敢行し、それぞれ攻略した。冨山大隊は、同年12月2日、鉄道線路上を追撃し、冨山隊主力は丹陽駅の敵陣地にぶつかり、その後、丹陽駅周辺一帯を占領し、退却する中国軍に対し、攻撃を加えていた。犬飼は、このとき、冨山大隊から無線で戦況を聞いており、向井少尉が負傷したことも聞いた。

 追撃隊主力の歩兵第二十連隊は、同月3日、丹陽西方の白兎鎮に進出し、同月4日には、歩兵第九連隊の主力を旅団に復帰させることとして、句容を攻撃し、湯水鎮に向かって追撃するよう命令を受けた。草場旅団司令部には、歩兵第九連隊が追及し、その後に歩兵第三十旅団が追及し、最後尾に冨山大隊が続いていた。

  草場旅団司令部は、同月5日、賈崗里に進出した後、歩兵第二十連隊をもって、その西方約10キロメートルの地点にある砲兵学校に向かって進撃中、上海派遣軍司令部の直協機(旧式の偵察機)が旅団司令部の上空に飛来して通信筒を落とした。犬飼は、これを読み、句容は既に第九師団がその南西に進出し、句容西方の退路が遮断されようとしていることが分かり、その通報を受けて、草場旅団長は、歩兵第二十連隊に対し、句容を攻略することなく、迂回転進するよう命じ、歩兵第二十連隊の予備隊であった第二大隊が真っ先に転進し、砲兵学校に向かい、同第三大隊が追及し、更に句容北東の飛行場を攻撃中だった同第一大隊が最後に追及した。冨山大隊は、同日、賈崗里にて一泊し、翌日、草場旅団に追及し、砲兵学校に至った。

 草場旅団司令部は、同月7日、砲兵学校南方約3.5キロメートルの馬具頭付近に集結し、前面の敵情地形を偵察せよとの師団命令を受け、取りあえず歩兵第二十連隊第一大隊を前衛として先発させ、前面の偵察のために冨山大隊を砲兵学校から西進させた。冨山大隊は、奥村中隊を尖兵中隊、同第一小隊(大野小隊)を尖兵とし、庄裏から西進し、約3キロメートル進撃したものの、約2キロメートル北西の湯山陣地から砲撃を受け、旅団命令により撤退した。

 冨山大隊は、同月8日、西庄から黄泥岡に向かい、同地に残っていた草場旅団司令部と合流し、同月9日、蒼波鎮に進出した。冨山大隊は、同月10日、既に紫金山の敵主陣地内に入っていた歩兵第九連隊第一大隊を救援するため、向上村を出発し、北西に進んで小五顆松経由で無梁殿北側の記念塔(七重の塔)に登り,迫撃砲の集中射撃を受け、西進して桂林石屋南方の陵線上に並び、第一大隊は、右第一線、冨山大隊は、左第一線となった。

  同月13日、歩兵第九連隊では第五中隊と奥村中隊のみが南京城内の掃討隊に選抜され、午後一時半すぎに中山門から同城内に入城した。なお、歩兵第二十連隊は、中山門付近から城外の街道筋にかけて集結し、同第三大隊は師団予備となって馬群に移動した。師団予備であった歩兵第九連隊第二大隊は、紫金山北側を西進した歩兵第三十旅団の後を追って掃討に参加し、更に歩兵第二十連隊第三大隊も掃討に参加した。
 本件日日記事が掲載された直後,ジャパン・アドバタイザー紙には以下の記事が掲載された。
(ア)  1937年(昭和12年)12月7日付けジャパン・アドバタイザー紙には,英文で,概略以下のとおり記載されている(甲48)。
 「百人斬り競争の両少尉 接戦中 
 日本軍が完全に南京を占領する前に、どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか、仲良く競争中の句容の片桐部隊、向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。「朝日新聞」によれば、句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は、向井少尉89人,野田少尉は78人であった」。
(イ)  1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザー紙には,英文で,概略以下のとおり記載されている(甲49)。
「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦 
 向井敏明少尉と野田厳少尉の、日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった、と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人、競争相手は105人を斬ったが、どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに、目標を50人増やすことにした。向井の刀はわずかに刃こぼれしたが、それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で、二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う,と言った。

 土曜日の早朝,日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると、別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが、砲弾が頭上を飛び過ぎる間、呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は、一発の弾も私には当たりませんよ"と彼は自信満々に説明した」。


 これらの記事は,後に英国マンチェスター・ガーディアン紙の記者であったH.J.ティンパレーにより "WHAT WAR MEANS:The Japanese Terror in China"(中国語訳では「日軍暴行紀実」。以下「日軍暴行紀実」という)の中で「南京"殺人競争"」として紹介された(甲50)。なお,「曾虚白自傳」によれば,ティンパレーは、国民党国際宣伝処が、日本軍の南京における大虐殺について国際宣伝を行うに際し、米国のスマイス教授とともに協力を仰いだ人物とされ、ティンパレーについては、国際宣伝処の駐米宣伝の覆面の責任者となったとされている。同人は、後に国民党中央宣伝部顧問に就任している(甲53,54,90)。
 本件日日記事が掲載された直後,他の新聞にも、以下のとおり、両少尉のことが取り上げられた。 《今回の裁判で発掘された新資料多し。OCRで読み取れなかった漢字の情報を欲す》
(ア)  昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には、「百人斬り"波平"二百本の中から選んだ銘刀 田代村出身野田穀少尉」の見出しの下、以下のとおり記載されている(乙9)。
「○○百人斬を誓って江南の地に勇名をとゞろかせてゐる冨山部隊の野田穀少尉は鹿児島縣肝属郡田代村出身鹿児島縣立一中から士官學校に進み本年八月少尉に任官した青年将校で「城山」を吟じつゝ戦死した神田部隊加隅少尉と同期生であつた。出陣に當って『近代戰○は科學兵器の戦闘であるが最後を決するものは依然として大和魂だ。日本刀だ』とわざわざ○○にゐる愛刀家の叔父田代宮熊氏の愛刀約二百本のうちから鹿児島の名工波平作の二口を選んで譲り受け『これさへあればやるぞ』と○○出征したものである。果たせるかな同僚向井少尉と○○、南京百人斬りをやらうと阿修羅の如く奮戦してゐる。鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校長をつとめてゐる實父伊勢熊氏(五○)のもとにこの快報をもたらせば實母てるさん(四五)とともに喜んで語る。本年士官學校を出たばかりで○○○りですからそれくらゐのことはやるでせう。この間來た手紙にも友達は皆○○たる武勲を立て新聞に書かれてゐるが自分はそういふ○○がなくて残念だと書いてゐました」。
(イ)  昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には、「同僚たちは新聞にも書かれる手柄をした百人斬り念願野田少尉」の見出しの下、野田少尉が写真入りで紹介された上、以下のとおり記載されている(丁8)。
 「南京攻略戦で"報國百人斬り"を念願し同僚の向井少尉と念願達成の日を窺ってゐる鹿児島縣肝属郡田代村出身、野田毅少尉は縣立鹿児島第一中學時代、いま同じく南支で勇名を轟ろかしてゐる○○部隊長の薫陶を受け、自ら進んで士官學校を○○、さきに戦死した神田部隊加隅少尉その他中北支戦線で○○の武勲を樹てゝゐる青年少尉の多くは彼の同期生である。ために最近戦線から鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校に勤務してゐる實父伊勢熊氏(五○)に届けられた便りにも"御期待に副ふだけの働きはこれから十分するから安心してくれ"と書いてあった。以下○○から○○の新戰場へ移る○に書いた野田少尉の手紙である(中略)

 九月十六日○○上陸以來十月十七日まで一ヶ月のうちに百○里を追撃。まるで急行列車追撃戰でした。そのうち小○○、中○、大孫村では私の部隊が土戰部隊になって戰ひ、幾多の戦友、部下を失ひましたが弾丸の下の度胸は十分に出來ました。○郷では神田部隊と一足違ひで皆と逢ふことは出來ませんでしたが、同期生の加隅少尉が悠々「城山」を吟じながら戰死したことや○○少尉が名誉の戰傷を受けたことを聞いてひとしは励まされ羨ましくも思ひました。同僚の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。これから○○の新戰場に向かひます。次に來るものは何かこれはかねてから覺悟してゐるそれです。ついでがあったら煙草(バツト)を送って下さい。なほ大阪毎日と鹿児島の新聞を一部づゝ送って下さい。ほとんど一月おくれの新聞を讀んでゐるし、戦線では新聞が何より樂しみです」。
(ウ)  昭和12年12月13日付け大毎小学生新聞には、「弱冠ながら昭和『孫六』こゝにあり 百人斬競爭に關町の歡聲」の見出しの下、向井少尉の愛刀とされる「關の孫六」を生んだ岐阜県関町の様子が記載されており、写真説明の一つには「百人斬競爭を讀んで微笑する金子少年(左から二人目)とその師兼永翁(その隣)」と記載されている(丁10)。
(エ)  昭和12年12月16日付け鹿児島朝日新聞には、「南京攻略の華百人斬り再出發 背に浴びた太刀提げて 鹿児島出身の若武者野田毅少尉」との見出しで、両少尉の念願が南京陥落とともに達せられた旨記載され、「南京城にゴールインしサテ刀の血糊を拭ってみれば、前者が百○六人、後者は百○五人といふ勘定―どっちが先に百人を刀の錆にしたか、不明とあってこの勝負更めて百五十人を目標にスタートを切ることになった」と記載された上、「南京完全占領がもたらされた日、津貫小學校長を訪ふと、寫眞に見る少尉にそつくりのピリッとした小粒の嚴父野田校長は、「南京が陥ちて,斯んな目出度いことはありません。無論子供は陛下に捧げた軍人ですから、戦死は覚悟の上ですが、たゞ新聞にこんな風に書かれた以上、百人斬らんうちに死んだら残念だがと、そればっかりが氣掛かりでしたよ。刀は田代村で神官をやってゐる伯父の田代宮熊といふのが、出征前に贈ってくれたもので無銘でしたが、二尺三寸の業物です。あれは父に似て五尺二寸足らずの小兵ですので聯隊區司令部の岩山中佐殿が、君には長過ぎるぞといはれましたが、背に浴びるやうな長い奴を擔いでいきましたよ。ワッハッハッハー あれの気性ですからまだこれから働いてくれるだらうと、大いに期待して居ます」と記載され、野田少尉について、「性格は負ず嫌いの暴れン坊だが、繪なんか器用に描くので両親は最初お醫者か、繪描きさんという極温和しい處世法を打ち樹ててゐた。本人はそれが氣に喰わなかったらしく、中學に入るや、好きな繪筆をがらりと投げ捨て、明倫會の村山中佐らの主宰してゐる神刀館邉りに出入して、盛んに劔舞をやりだしたものだ。両親は、家に歸ってからも、狭い座敷で三尺もある長い奴を矢鱈に振り廻されるので、危くてしやうがないので、親父さん、到頭折れて出て、本人の願望の軍人を叶ってやったといふ次第」と紹介され、その後、「野田少尉手記」として、「陣中餘暇を見出し、煙草を吹かしながら、戰跡を追想して居ります今廿三日は、近頃珍らしい小春日和りです。やがて北支五省に春が還ってくるのも近いうちでせう。左に陣中所感の一端を認めてみませう。

 ○○日の○○沿線の作戰は○○○の第○軍と呼應○○線沿線の敵を包囲殲滅するに在つた。敵の退路遮断の目的を以てする機動戰に敵はこれを察知したか疾風の如く逃げ出したが、その一部を叩き潰した。タンネンビルヒの殲滅戰を夢見ていた余の作戦は失敗だったかもしれぬ。然し一部の目的は達したと思考す。○○上陸以來○○に至る間約一ヶ月間を以て敵陣百三十里を突破した。○○の約二千粁の所を行軍中、我先遣部隊と約三百粁を距てた道路を平行して前進する敵の大縦隊を発見、機関銃、重機銃、大隊砲を以て痛撃した敵五百が散を亂して潰走。先頭白馬の三將校が馬乗から轉落したのは愉快だった。間もなく約三千の大敵が現れ、三方から包囲攻撃し來つたので、五十メートル迄引寄せ、目茶々々に叩いた結果、敵は死體五百を遺棄潰走した。これで激戦を三回経験したわけだが、近頃は戰爭にも馴れて來ました。やがて華々しい戰果の御報できるのも近いうちでせう」と記載されている(丁9)。
(オ)  昭和12年12月18日付け鹿児島新聞には,「話題の快男子 百人斬り名選手 野田穀少尉 日本人たる無上の光榮に感激 肝属郡田代村出身」との見出しの下,「百人を突破して百五十人斬り競争話題の二勇士」の一人として紹介され,野田少尉の母の話として,野田少尉は,幼いときから軍人が好きで,戦ごっこをしていたことなどが記載され,野田少尉が父にあてた手紙が引用されている(丁11)。
(力)  昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,「二百五十三人を斬り 今度千人斬り發願 さすがの"波平"も無茶苦茶 野田部隊長から郎信」との見出しで,以下のとおり記載されている(乙5)。
「  このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島縣枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが,同部隊長が死を鴻毛の輕きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な勇姿そのまゝの痛快さがあふれてをり,"猛勇野田"の面目躍如たるものがある----

目下中支にゐます…約五十里の敵,金城鐵壁を木ツ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまった,極楽に行きかゝつたのは五回や十回ぢやないです,敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競爭なんてスポーツ的なことが出來たわけです。小銃とか機関銃なんて子守歌ですね,迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです,南京入城まで百五斬ったですが,その後目茶苦茶に斬りまくって二百五十三人叩き斬ったです。おかげでさすがの波平も無茶苦茶です。百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです。支那四百余州は小生の天地にはせますぎる,戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくってくれました

  百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)

    一,今宵別れて故郷の月に,冴えて輝くわが剣
    二,軍刀枕に露営の夢に,飢えて血に泣く聲がする
    三,嵐吹け吹け江南の地に,斬って見せたや百人斬
    四,長刀三尺鞘をはらへば,さっと飛び散る血の吹雪
    五,ついた血糊を○衣でふけばきづも残らぬ腕の冴え
    六,今日は○かよ昨日はお○,明日は試さん突きの味
    七,國を出るときや○の肌よ,今ぢや血の色黒光り……(中略)

まだ極楽や靖國神社にもゆけず,二百五十三人も斬ったからぼつぼつ地獄落ちでせう  」
(キ)  これと同様の内容の記事は,昭和13年1月26日付大毎小学生新聞にも掲載されている(乙6)。
野田少尉は,南京攻略戦後の昭和13年3月,郷里の鹿児島に帰郷し,母校鹿児島男子師範学校附属小学校などで講演を行っており,そのことは当時の新聞に,以下のとおり記事にされている。
  • (ア) 昭和13年3月21日付け鹿児島新聞には,「袈裟がけ・唐竹割-突つ伏せ-唸れる銘刀の凄味 三百七十四人を斬った戰場の花形・鬼少尉薩摩男の子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ その途次に郷里へ凱旋」の見出しの下,次のように記載されている(丁3)。
    「  陸軍士官学校を巣立つとともに片桐部隊に属して第一線に出動し同僚たる山口縣出身の向井少尉と百人斬の競爭をはじめた快男子野田穀少尉は今回師團から選抜されて陸の荒鷲群に入ることになり所澤陸軍飛行練習所へ赴く途中目下加世田津貫尋常高等小學校長の職にある嚴父伊勢熊氏の膝下に歸り,數日間身を委ねることゝなつた。  」

    「  十九日午後九時二分伊集院驛から南薩線に乗替へた同少尉を父伊勢熊氏らと出迎へると元氣一杯に満ちた,今年二十六歳の若武者は悠然と車室に納まり武運長久を祝す酒盃を外にして出征以來の戰績を語るのであつた,例の向井少尉との競爭談に水を向けるとニツコと笑ひ乍ら

    三百七十四人の敵を斬りました袈裟がけ,唐竹割,突伏せなど眞に痛快でした愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは餘りありません

    と水も滴る軍刀を抜き放って示すのである見れば中ほどから刃先にかけてところところに刃がこぼれてゐる,然しこれが三百七十四人の支那人の血を吸ふたものとは思へぬほどに濁り一つ見せぬ明皎々たる名刀である

    津浦京漢兩鐵道線路の中間地區から京漢線方面の戰闘に従事轉じて常熟南京攻略の戰闘に参加しさらに又北支に舞ひ戻り大小數々の戰闘に参加し所謂弾丸雨飛の間を往來しましたが弾丸は私には一發も當りませんでした紫金山攻撃の際のごとき私の左右にある兵士どもは七人までバタバタ倒れましたが中間にある私には一度も當りませんでした,弾丸は決して私には當らないものと信念を得ました

    と武運に恵まれた若い少尉は微笑し乍ら語るのであった競爭相手の向井少尉は何人斬ったかをそれとなく尋ねると破顔一笑

    矢張り百六七十人でせう

    と己れの功のみを誇らぬところに同僚への床しい厚誼が偲ばれる同少尉は二十日午前中父君の津貫校児童に一場の競争談をなし午後は校區主催の講演會および歓迎會に臨み二十四,五,六日ごろ郷里肝付郡田代に帰省墓参をなす豫定である  」
  • (イ) 昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞には,「斬りも斬ったり敵兵三百七十四人剛勇野田少尉突如加世田に凱旋」の見出しの下,次のように記載されている(丁4)。

    「  戰友向井少尉と百人斬りの競争をして戦線に薩摩隼人の面目を遺憾なく發揮し,武人の華と謡はれた野田少尉は赫々たる武勲を樹て突如故國に凱旋し,三月十九日父の住地たる川邉郡加世田町津貫に歸って來た,父伊勢熊氏が津貫小學校の校長をしてゐるからである。  」

    「  野田少尉の凱旋を聞き二十日校長宅にこの勇士を訪へば,當日野田少尉は午前九時から津貫校児童の爲に實戰談の講演をするといふで多忙の模様であったが,父伊勢熊氏の談に依れば、野田少尉は北支戰線から中支方面に轉戦し南京攻撃を最後として前後二十回の激戰に参加し敵兵を斬ること實に三百七十四人に及び,殊に河北省の邯鄲攻撃では最も多くを斬りその爲愛刀が少し曲ったといふことである  」
  • (ウ) 昭和13年3月26日付け鹿児島新聞には,

    「  百人斬の野田少尉神刀館で講演」の見出しの下,「北支中支と薩摩隼人の意氣を發揮し南京入りに百人斬りの名聲を轟かした片桐部隊野田少尉は廿四日歸鹿昨日昔詩を吟じ釣を舞した神刀館生一同の盛大なる歓迎會に臨み實戰に花を咲せ名残を惜しみつつ午后一時二十一分西驛發の列車にて上京せり。  」

    と記載されている(丁5)。
 向井少尉は,南京攻略戦の後,中尉に昇進した。昭和14年5月19日付け東京日日新聞には,「戦死した競爭相手に『孫六』手向けの斬れ味向井中尉 漢水戰線にあり」の見出しの下,西元特派員がある日寺莊という小部落で向井中尉に会ったとして,以下のとおり記載されている(丁22)。

「  實は向井中尉の念願は千人斬りださうで記者が『孫六は斬れますか』とはなしかけると朴訥な中尉は次の如く語った
『よく斬れます,ちよつと○先がひつかゝりますが自信を持ってゐるから大丈夫です,出征以來病氣もせずいつも第一線に立って負傷せず不思議なやうです,長期戰に耐へ得るやうに體が出來てゐるのでせう,たゞ部下を死なして申譯ないと思ってゐます それだけが残念です,遺族の方々には悔みの手紙を出したのみで千人斬りがやれないので残念だ私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果すため一生懸命やってゐます,今日まで三百五人切りました,部隊長が槍をもってをられるので負けないやうに奮闘する決心です』  」
ケ   東京裁判のため,昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室で行われた検察官の尋問調書によれば,浅海記者及び鈴木記者は,米国のパーキンソン検事から本件日日記事等について尋問を受け,概略,以下のとおり答えた(丁1)。
「  
(問)鈴木さん。浅海さんをご存知ですか。
(答)はい
(問)あなたは毎日新聞社に勤めていた間,彼のことを知っていたのですか。
(答)はい,彼のことはずっと知っていました。
(問)1937年12月,あなた方は南京で一緒だったのですか。
(答)私たちは別々の部隊に従軍していましたが,12月10日に丹陽で合流して,12月13日に中山門から南京入りしました。
(問)そして,先に供述した通りの期間,そこに滞在したのですね。
(答)私は南京には12月16日までいました。
(問)その間に,つまり12月10日から南京入りする13日まで,そして南京を出る16日までの問に,浅海氏とは常に接触していたのですか。
(答)その3,4日間,私たちはChyukaという同じ旅館に泊まりました。
(問)では,中国派遣中にはどれくらいの頻度で東京の新聞社へ特電を送っていましたか。
(答)非常に不規則でしたが,中国滞在中はおよそ40本程度の特電を送りました。
(問)中国から東京の新聞社へ特電を送る前に軍当局からの許可を必要としましたか。
(答)従軍記者は特電をまず上海支局に無線電信で送り,そこで東京に無線電信で送信される前に検閲を受けることになっていました。
(問)誰が検閲をしたのですか。
(答)軍部です。
(問)軍部で検閲を担当していたのはどの部局でしたか。
(答)上海に支部がある`情報部が検閲を行っていました。
(問)陸軍の情報部ですか。
(答)はい,陸軍のです。
(問)では,その頃にあなたが例えば南京から上海へ情報を送信するに際して,軍当局から何らかの妨害はありましたか。
(答)いいえ,妨害は何もありませんでした。
(問)好きなことを自由に書くことができたのですね。
(答)はい。好きなことを自由に書くことができました。しかし,東京で記事になる前に上海で検閲を受けていました。  」
「  
(問)それでは,あなたに関する限りは,恐らくあなたが送信した素材はどれも自分自身の知識によるものだということですね。
(答)私に関する限り,軍人から直接命令を受けたことは一度もありません。しかし,南京入りしている間に毎日新聞が現地に支局を開設したので,その支局長から記事を書くように何度か指示を受けたことはあります。
(問)そして,そういう記事を書いたのですね。
(答)はい,書きました。
(問)そうした記事に書かれた素材が真実なのか虚偽なのかを知っていましたか。
(答)はい,知っていました。
(問)どちらですか。
(答)真実でした。
(問)では,ある記事を書くように命じられて,実際に執筆するに際しては,自分が真実だと知っていることだけを書いたのですか。
(答)はい,その通りです。
(問)毎日新聞に掲載されたニュース記事を2本お見せした上で,あなたがその執筆者かどうか,あるいはいずれかの記事の執筆に携わったかどうかをお聞きしたいと思います。
(答)1937年12月5日付けで掲載された記事は自分が書いたものではありません。しかし,12日付けで毎日新聞に掲載された二つ目の記事は私が浅海さんと一緒に書いたものです。
(問)日本語版に掲載された写真は同じようにあなたが送ったものですか。
(答)この写真はサタさんという別の従軍記者が撮影しました。常州で撮影したものです。
(問)この写真は別の人が撮ったということですが,自分の記事の一部としてあなたが送ったものですね。
(答)私はこの写真について知りませんが,浅海さんは知っています。実際は彼が送信したものですから。
(問)しかし,写真は浅海さんが撮ったのではありませんね。
(答)佐藤という名の別の従軍記者が撮ったものです。
(問)それから鈴木さん,あなたが浅海さんと共同で,記事の一部として送ったのですね。
(答)浅海さんが送った,と言った方がいいでしょう。
(問)浅海さんと協力して執筆した記事をあなたが送ったのですか。それとも浅海さんが執筆に加わった記事を彼が送ったのか,またはあなたが参加した記事を彼が送ったのか。
(答)その記事は浅海さんが主に執筆したものです。
(問)しかし,加わったのは…。
(答)鈴木さんが加わりました。
(問)つまり共同執筆ですか。
(答)そうです。
(問)では,12月5日付け東京毎日新聞に掲載された記事を執筆したのは誰ですか。
(答)5日付けに掲載された記事については,私は何も知りません。
(問)浅海さん。鈴木氏に対する質問と答えを聞いていましたね。彼が言ったことが正しいと思いますか。
(答)その通りです。
(問)1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか。
(答)はい。私がこの記事の執筆者です。
(問)では,鈴木さん。あなたは12月12日の記事の執筆に関わりました。あなたはその記事に事実として書かれていることが真実か虚偽か知っていますか。
(答)はい,知っています。
(問)真実ですか,虚偽ですか。
(答)真実です。
(問)浅海さん。たった今,鈴木さんに尋ねた質問をお聞きになりました。あなたもこれらの記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか。
(答)真実です。
(問)では,この新聞発表2本を確認する上で,お二人の共同供述書に署名を頂くことができますか。執筆者であること,そしてその記事が真実であること,つまり,記述内容が真実であることを供述してください。
(答)はい。供述します。  」
「  
(問)当時,このような競争が他にも行われたのですか。
(答)他の競争については知りません。  」
「  
(問)鈴木さん。あなたが中国に滞在している間,中国一般市民に対する日本軍の行為にどのような印象を受けましたか。
(答)自分が従軍した部隊に関する限り,残虐な行為もあったし,民間人に対する親切な行為もありました。
(問)全体としてみた場合,日本軍は攻撃戦または防御戦のどちらを行っているような印象を受けましたか。
(答)日本軍は攻撃戦を行っていたと思います。
(問)浅海さん。今,鈴木さんに尋ねた質問が聞こえましたね。そして,彼の答えも聞きました。あなたの受けた印象はいかがでしたか。
(答)私が従軍した部隊はたくさんの中国民間人と遭遇することはなかったので,私には中国民間人に対する行為についての意見はありません。日本軍が攻撃的又は防御的のどちらかの振る舞いだったかと言えば,攻撃的行為を行っていたと,私は断言できます。
(問)鈴木さん。中国ではどの部隊に従軍していましたか。
(答)上海をたつ時には,第101部隊に従軍していました。
(問)それは師団ですか。
(答)第101部隊は連隊ほどの大きさで,南京へ向かう途中で私はいろいろな部隊の間を移動しました。南京入りの時は中島中将率いる第16師団に同行していました。
(問)鈴木さん。中島中将率いる軍隊は日本軍の中でも最も残虐な師団であったとされています。そのような意見にあなたは同意しますか。
(答)最も残虐な師団だったとは思いません。
(問)他の師団も同じように酷かったと思いますか。
(答)わかりません。
(問)浅海さん。あながた中国にいる間に従軍したのはどの部隊でしたか。
(答)上海をたつ時に私が従軍していたのは,台湾軍の旅団に従軍しており,南京へ向かう途中はさまざまな部隊に同行し,南京入りの当時はイワナタカ戦車連隊に従軍していました。
(問)南京入りののちは。
(答)南京に入ってからは,どの部隊にも従軍していませんでした。
(問)あなたは,私たちが米国で呼ぶ"フリーランサー"だったのですか。
(答)"フリーランサー"でした。
(問)その後,あなたは"フリーランサー"だったのですか,鈴木さん。
(答)はい。私たちはともにその後は"フリーランサー"でした。
(問)ひとつ質問をしたいと思いますが,最初に鈴木さん,次に浅海さんに答えて頂きたいと思います。戦時中の日本における報道の自由についての意見を聞かせてください。
(答)戦争が勃発して以降,報道機関は統制されており,戦時下に報道の自由などはありませんでした。
(問)あなたはどう思いますか,浅海さん。
(答)報道は法律によって規制され,また戦争に反対する記事が掲載された場合はその執筆者は通常,社会から追放されるというのが戦時中の通例でした。
(問)最初に鈴木さん,そして浅海さん,中国から戻ってからお二人が執筆した記事の内容についてお聞きしたいと思います。つまり,軍事作戦に関するものか,または別のニュース記事を扱っていたのか,という質問です。
(答)私が中国から戻って来た当初は"フリーランス"でしたが,警視庁記者クラブ勤務を経て,宮内省へ,そして1941年9月から終戦まで陸軍省記者クラブに所属していました。
(問)陸軍省記者クラブ担当になってから,あなたの記事は軍事活動と関係していたという意味ですか。
(答)陸軍省記者クラブで働いていた頃は大本営情報部の発表や,大本営情報部のメンバーが指示したコメントを報道したりしていました。
(問)軍事活動に関係することですか。
(答)陸軍の活動すべてにわたって報道していました。
(問)あなたの記事に使われる,情報の出所は何でしたか。
(答)私の取材の情報源は大本営情報部のメンバーの説明でした。
(問)振り返ってみて,1941-45年の間を通じてあなたに伝えられた情報は真実でしたか,それとも虚偽でしたか。
(答)われわれには,真実だと伝えられました。私に関して言えば,情報は真実でした。
(問)当時,あなたは'情報が真実だったと考えていた。しかし,振り返ってみると。
(答)加えて申し上げたいことは,情報の出所は通常,陸軍参謀長が発表するものが情報部に届けられ,情報部の将校が私たちに対して何を書いて,何を書いてはいけないかを伝えていました。ですから,振り返ってみれば,それら記事の大部分は虚偽だったと思います。  」

「  
(問)浅海さんに見せたいものがあります。毎日新聞に掲載された「百人斬り競争」の記事の原文と"the Japan Advertiser"に掲載された英語の同じ記事の証明済みの写しです。二つの記事を見比べてみて,英語版が日本語版の正しい翻訳かどうかをお聞きしたいと思います。その際,毎日新聞に掲載された競争者二人の写真は The Japan Advertiser には掲載されていない点に注意してください。では,二つを比べてみて,これが正しい翻訳と思うか見てもらえませんか。
(答)12月7日付けthe Japan Advertiserの最初の記事で"朝日"という言葉が"日々"となるべきですが,それを除けば,この記事の翻訳は正確だと思います。  」
 向井少尉は,昭和21年ないし22年ころ,東京裁判に関し,国際検事団から召喚を受けて東京市ヶ谷に出頭し,同検察官から尋問を受けたが,その後,極東国際軍事裁判所に起訴されることはなかった(甲25,26,103,弁論の全趣旨)。
 両少尉は,いずれも昭和22年ころ,戦犯として身柄を拘束され,巣鴨戦犯拘置所から南京軍事裁判所に押送され,同年11月ころ,南京軍事裁判の検察官から審問を受けた。両少尉は,検察官からの審問を補足する形で,概略以下のような趣旨の答辮書を提出した(甲23ないし26,76,103,弁論の全趣旨)。
  • (ア) 野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辮書(甲23)

    「  昭和12年11月,無錫付近において,向井少尉とともに浅海記者に会い,たばこをもらい互いに笑談戯言した。これが浅海記者と会った第1回目である。浅海記者は,当時,特別記事がなくて困っており,『あなた方を英雄として新聞に記載すれば,日本女性の憧れの的になり多数の花嫁候補も殺到するでしょう。もし新聞に記載されれば郷士に部隊の消息をも知らせることになり,父母兄弟親戚知人を安心させることになるでしょう。記事の内容については記者に任せてください。』と言った。  」

    「  私は,まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず,かつ笑談戯言であるために意に止めずにほとんど忘れていた。その後,同年12月ころ,麒麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と行き違ったが,これは浅海記者と会った第2回目である。そのとき,浅海記者は,早口で,『百人斬競争の創作的記事は日本国内で評判になっていますし,最後の記事も既に送りました。いずれあなたも新聞記事を御覧になるでしょう。』と言い,戦車の轟音とともに別れた。このとき向井少尉は不在であった。  」

    「  私は,翌年の昭和13年2月,北支でその記事を見たが,余りにも誇大妄想狂的であって,恥ずかしく思った。  」

    「  『百人斬り競争』の記事は,誇大妄想狂的で日本国民の志気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり,これが事実無根の第一の理由である。  」

    「  浅海記者と会見したのは無錫付近と麟麟門東方との2回である。それにもかかわらず,新聞記載の回数は4回か5回であって,会見の回数より多いのは何を意味するか。記者が勝手に創作打電したことは余りにも明瞭であり,これが事実無根の第二の理由である。  」

    「  私と浅海記者が麟麟門で会合したとき,向井少尉は不在であったにもかかわらず,新聞記事には二人で会見談話したように記載しており,これが事実無根の第三の理由である。  」

    「  私の所属していた冨山大隊は,常州--陽--容--湯水街道では全く戦闘をしていなかった。特に,冨山大隊(歩兵一個中隊と歩兵大隊砲小隊を除く。)は,丹陽付近から北方に遠く迂回し,本隊に遅れたため,草場部隊の予備隊となり,本隊に追及すべく急行軍を実施中であった。このように,戦闘を実施せず,また,常州,丹陽,句容に入らず,しかも百人斬りの記事資料を記者に与えたこともなかったにもかかわらず,百人斬りの累計が逐次常州,丹陽,句容の諸地点において向上増加するかのようなことは常識で考えてもばかげたことであることが明瞭であり,これが事実無根の第四の理由であって,冨山大隊長を召喚して尋問すればこのことは明瞭となる。  」

    「  向井少尉は,昭和21年7月1日,東京において,国際検事団検事の尋問を受けた際,事実無根であることを認められ,即刻不起訴処分に処せられて釈放された。私は,本件に関して向井少尉と同一問題であるから,同様に事実無根の認定を受けたものと信じて現在に至っている。  」

    「  冨山大隊は昭和12年12月12日ころ,麟麟門東方において,行動を中止し,警備のため,湯水東方砲兵学校跡に集結し,同月13日ころから昭和13年1月7,8日ころまで駐留し,その後北支へ移動した。その駐留の間,将兵は外出禁止で私はもちろん外出したこともない。当時,私は,副官の職にあったので,陣中日誌及び戦闘詳報の作成,功績調査,日々の命令会報の伝達,北支移動の準備等のため,激務多忙であり,到底外出不能で南京に行く余裕は全くなかった。  」

    「  私は,昭和12年9月から昭和13年2月まで,冨山大隊の副官にして常に冨山大隊長の側近にあって,戦闘の間は作戦命令の作成,上下への連絡下達,上級指揮官への戦闘要報の報告等を,行軍露営の間は,行軍露営命令の作成下達,露営地の先行偵察,露営地の配宿,警戒警備線の実地踏査,弾薬,糧秣の補充及び指示,次期戦闘の準備等で忙しく,百人斬りのようなばかげたことをなし得るはずがない。  」
  • (イ) 向井少尉の答辯書(民國36年(昭和22年)11月6日の検察庭における審問後に提出されたもの。(甲25)

    「  昭和12年11月,無錫郊外において,私は,浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は,浅海記者に向かって,『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから,花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は,笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので,『できない。』と答えた。浅海記者とは,『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。  」

    「  私は,無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら,砲撃戦の位置は,第一線よりも常にはるかに後方で,肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では,冨山大隊長の指揮から離れて,私は,別個に第十二中隊長の指揮に入り,丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ),その後,第十二中隊とも離別し,看護班に収容された。

      新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い,かつ,百人斬りを続行したかのような記載があるが,事実においては,句容や常州においては全く戦闘がなく,丹陽以後,私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃,湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は,引き続き砲兵学校に駐留していたが,昭和13年1月8日,北支警備のため移動した。その間,私は,臥床し,治療に専念していた。  」

    「  私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。  」

    「  私の戦争参加に関しては,新聞記事に数回連続して報道されたが,私は,中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで,かつ,無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが,記事には数回会合したかのように記載してある。しかも,私は負傷して臥床していたにもかかわらず,壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。  」

    「  昭和21年7月1日,国際検事団検察官は,私と新聞関係者,1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果,百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと,私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと,私が戦闘に参加したのは,無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること,私が丹陽の戦闘で負傷し,野戦病院に収容され,爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し,本件に関しては再び喚問することがないから,安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて,同月5日,不起訴釈放されたものである。  」
  • (ウ) 野田少尉の民國36年(昭和22年)11月21日付け答辯書(甲24)

    「  『民國26年(昭和12年)12月10日南京に入らなかったのか。』との検察官の質問に対し,同日絶対に南京に入ることができなかった理由として,私は,民國26年12月10日前後は湯水東北方を行軍中で同月11,12日ころようやく麟麟門東方付近に進出した状況であり,同月10日に南京に入ることが不可能であることは明瞭であることがあげられる。私は,その後,麒麟門付近から反転して湯水東方砲兵学校に集結し,同月13日ころから翌年1月8日ころまで同所に駐留し,かつ外出したことはなかったので,絶対に南京に入ったことはない。なお,日本軍が南京に突入したのは民國26年12月13日と伝え聞いている。  」

    「  『紫金山山麓までにおいて野田少尉が105人,向井少尉が106人斬ったと話し合ったことは事実か。』との検察官の質問に対し,それが事実無根の理由として,私が,騏麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と会ったとき,同記者は既に最後の新聞記事を日本に打電したと述べており,そのとき,浅海記者がいう「最後の記事」が紫金山山麓の記事であることは後日知ったこと,そもそも,そのとき,私は,その会合のときに,新聞記事のごとき資料を提出提供しなかったのはもちろんのこと,その余裕すらなかったこと,私と向井少尉が話し合っているところを新聞記者が実際に見たものではないことが挙げられる。しかも,その際は,私一人のみであり,記者は向井少尉について聞きもしなかったし,特に,私は,丹陽東方で向井少尉と別れて以来会っておらず,麟麟門付近で新聞記者と会ったときには,向井少尉は丹陽で負傷していて不在であった。  」

    「  検察庭において見た句容の記事(向井少尉が八十何人,野田少尉が七十何人斬ったという記事)が全くでたらめで事実無根である理由として,私は,丹陽東方で向井少尉と別れた後は,遠く北方に迂回し,句容を通過したことは絶対にないのみならず,句容北方を遠く離れて湯水付近に進出した。このことは冨山大隊長を召喚して尋問されれば明瞭となる。  」

    「  昭和21年7月1日国際検事団検事は,東京法庭において,向井少尉を調べるに当たり,『百人斬り記事』を書いた毎日新聞の記者を取り調べたが,その際,新聞記者は『百人斬り記事は事実ではなく宣伝の目的をもって作ったものである』と自白した。そのため,上記検事は,向井少尉については新聞記事のようなことがないものと判定し不起訴処分をしたものである。  」
  • (エ) 向井少尉の答辯書(民國36年(昭和22年)11月15日の検察庭における審問の後に提出されたもの。甲26)

    「  私は,国際検事団の不起訴書を所持していない理由として,これを日本政府内務省戦犯課に提出したことを思い出したので,この事情と併せて国際法庭において私が召喚尋問を受けた状況について,以下のとおり答弁する。

      私は,昭和21年6月下旬,東京復員局法務長から,「国際検事団から東京法庭に出頭すべしとの命令があるから直ちに市ヶ谷法庭に出頭すべし」との電報を自宅で受領し,同月30日に復員局法務部に立ち寄った。その際,法務部員は,審査終了して不起訴釈放となったときは,書類を交付されるので,当該書類を内務省戦犯課に提出するよう告げた。自分は,翌日東京国際法庭に出頭した。  」

    「  審査終了時,国際検事団検事は微笑して,『あなたを召喚する以前において新聞記者を喚問して審査した結果,記者の証言により新聞記事の百人斬り競争の真相は全く事実無根の作為記事であることが判明した。あなたの答弁した当時の状況と符合し,無根の真相が一層明確になり,何ら犯罪事実は認められない。』と言明し,『遠路来庭させて驚愕苦慮させましたが,本件に関しては再度喚問することはないのでご安心下さい。新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。野田さんは終戦時に満州で死亡したとのことで気の毒です。』と謝し握手して別れた。

      釈放の際,上記検事は,英文の書類に署名し,私に交付し,私は,復員局法務部の注意に基づいて,その書類を内務省戦犯課に提出し,引替に喚問の日当及び帰郷旅費を支給されて帰宅した。私は,英語を読めないので,その書類の内容が分からなかったが,その書類は日本政府内務省に保管されているので,調査されれば明瞭である。  」   《「内務省戦犯課に提出した書類」なるものは調査されたのか?》

    「  『句容の戦闘において累計が向井が八十数名,野田が七十数名斬ったとの新聞記事があるがいかがか』と質問されたが,それは事実無根である。私は,丹陽砲撃戦で昭和12年11月末ころ負傷した後は,一切の戦闘行動から離脱し,入院していた。野田少尉の属する冨山大隊の主力は,丹陽東方から遠く北方に迂回し,湯水付近に進出し,句容は通過していない。したがって,句容において不在人物である二人が百人斬り競争をできるはずがない。  」
シ   国防部審判戦犯軍事法庭検察官は,昭和22年12月4日,両少尉を起訴した。その犯罪事実は,

「  被告らは,軍に従って来華し,民國26年(昭和12年)12月5日,江蘇句容縣において入城した時,向井は中国人89人を殺し,野田は78人を殺害した  」

というものと,

「  同年12月11日,南京攻略戦中,被告らは再び百五十人斬り競争をし,紫金山麓において,向井は106人を殺し,野田は105人を殺害した  」

というものであった。起訴書の証拠及び所犯法条の項には,

「  右記事実は既に敵従軍特派員浅海及び鈴木を経て,その目撃情形を前後して東京に伝達し,各新聞紙は,その勇壮をたたえ,争って連載をしてこれを万人に伝えたが,更に東京日日新聞を資料として考査するに,その新聞に登載された被告らの写真もまたそれに符合しており,証拠確実にして自らその空言狡展に任せて刑責を免れることはできない  」

旨記載されている(甲27)。

南京軍事裁判所は,昭和22年12月9日,予審庭で両少尉に対して尋問を行い,両少尉は,起訴書に対する論駁及び審問の補足として,概略以下のとおりの申辯書を提出した(甲28,29)。

  • (ア) 野田少尉の民國36年(昭和22年)12月15日付け申辯書(甲28)

    野田少尉は,起訴書記載の「犯罪事実」に対する論駁として,

      まず,自分が句容北方を遠く迂回していて句容縣に入城していないこと,丹陽東方において自分は北へと向井少尉は西へと別行動を取ったため,句容縣で両名が会合していなかったことなどから,句容における犯罪事実が事実無根であるとした。また,野田少尉は,紫金山山麓で向井と会合していないこと,当時,抗戦中の中国兵以外は一人の俘虜及び住民も見ていないことから,紫金山山麓における犯罪事実が事実無根であるとした。

      さらに,両犯罪事実に関する共通の論駁として,当時,中国民衆が熾烈な抗戦意識と戦闘に対する恐'怖心から戦場に姿を見せたことがほとんどなかったこと,常識で考えても戦場の突撃戦,白兵戦で中国兵の百人斬りが不可能であることなどを挙げた。

      野田少尉は,起訴書の証拠に対する論駁として,記者らが冨山大隊と行動を共にしておらず,自分の「百人斬り」行動なるものも見ていないこと,自分が浅海記者に会ったのは,無錫付近と麒麟門東方の二回であり,しかも,麒麟門東方で会ったとき,向井少尉は不在であったのだから,句容,紫金山の記事はいずれも虚偽であるとした。

      野田少尉は,予審庭における「何故新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」との質問に対して,自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐したころであるが,その後も各地を転々としたため,訂正の機会を逃し,かつ,軍務繁忙のため忘却してしまったこと,何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが,善事を虚報されれば,そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること,自分の武勇を宣伝され,また,賞賛の手紙等を日本国民から受けたため,自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく,積極的に虚報を訂正しようとしなかったこと,また,反面で,虚偽の名誉を心苦しく思い,消極的には虚報を訂正したいと思ったが,訂正の機会を失い,うやむやになってしまったとした。
  • (イ) 向井少尉の民國36年(昭和22年)12月15日付け申辯書(甲29)

    向井少尉は,起訴状の「犯罪事実」に対する申辯として,

    民國26年(昭和12年)12月5日句容縣に入城し,中国人89人を斬り,同年12月11日紫金山山麓において106人を斬ったとの事実が事実無根であるとして,
      従軍記者の浅海と鈴木が,向井少尉の部隊には随伴せず,後方の上級部隊司令部と行動を共にしていたはずであること,
      自分は無錫の戦闘で砲撃戦に参加したのが初陣であったこと,
      自分は,無錫での戦闘が終了した翌朝,後方の上級司令部が無錫に到着した際,無錫郊外で浅海記者らと初めて会い,共に会合をし,各種の談話をして記念撮影をして別れたこと,
      両少尉は,丹陽の東方で別れ,自分は丹陽へ向かい,野田少尉は冨山大隊と共に鎮江方面に北進したこと,
      自分は,昭和12年11月末,丹陽の砲撃戦において中国軍の追撃砲弾のために左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け,臨時野戦病院に収容され,以後一切の戦闘行為から離脱したこと,
      新聞に掲載された写真は,無錫における戦闘が終了した後に,浅海記者と初めて会ったときに記念写真として撮影したものであること,昭和21年7月1日に国際検事団検事から詳細な審理を受けた結果不起訴処分と判定され釈放されたことなどを挙げた。
 両少尉の公判期日は,昭和22年12月18日と定められた。両少尉は,この公判期日までに,新聞記事が事実無根であることを証明する浅海記者の証明書が到着しないおそれがあるとして,同月10日,公判延期申請を行ったが,認められず,同月18日に公判が開かれた。南京軍事裁判所は,両少尉申請の証人を採用せず,両少尉が以下のとおり最終弁論を行った上,結審した(甲30,31,78,79)。
  • (ア) 野田少尉の最終発言(甲30)

    野田少尉は,最終発言において,

    自分が中国人7人の生命を救助したことがあること,浅海記者と冨山大隊長の証人召喚を希望すること,百人斬りについて,大阪毎日新聞の記事は興味本位の宣伝的創作的記事であり虚報であるから,もっとよく調査してほしいこと,起訴された以上は物的証拠を示してほしいこと,新聞記事をもって法律上の証拠とした事例は世界にないことなどを指摘し,無罪を訴えた。
  • (イ) 向井少尉の最終辯論(甲31)

    向井少尉は,最終辮論において,

    自らの中支における行動として,丹陽戦闘で受傷し,入院した状況について再度指摘するとともに,浅海記者が創作記事を書いた原因として,向井少尉が冗談で,「花嫁の世話を乞う」と言ったところ,浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて,花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり,そこから察すると,浅海記者の脳裏には,このとき,既にその記事の計画が立てられたものであろうと思われ,浅海記者は,直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し,報道しており,無錫の記事を見れば,「花嫁募集」の意味を有する文章があって,冗談から発して創作されたものと認められること,浅海記者は,創作記事に両少尉の名前を使用した謝礼として「花嫁侯補云々」の文章を付記したと思われること,浅海記者は無錫から南京まで自動車での行程と思われるので,第一線に来ていないことは明白であることなどを主張し,無罪を訴えた。
 両少尉は,昭和22年12月18日,作戦期間共同連続して捕虜及び非戦闘員を屠殺したとして,田中軍吉大尉と共に,死刑判決を受けた。両少尉に関する事実は,

「  向井敏明及び野田厳(「即野田穀」と表記されている。)は,紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し,その結果,野田厳は105名,向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり  」

というものであり,その理由は,以下のとおり記載されている(甲32)。

「  按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は當時南京に在留しありたる外籍記者田伯烈(H.y.Timperley)が其の著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず(谷壽夫戦犯案件参照)即遠東國際軍事法庭中國検察官辯事處が捜獲せる當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。尚被告等が兇刃を振ってその武功を炫耀する為に一緒に撮影せる写真があり。その標題には「百人斬競争両将校」と註しあり。之亦其の証拠たるべきものなり。

  更に南京大屠殺案の既決犯谷壽夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり。之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。更に亦本庭の其の発葬地点に於て屍骸及び頭顱数千具を堀り出したるものなり。

  以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。

  然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。

  所謂殺人競争の如き兇暴'惨忍なる獣行を以て女性の歓心を博し以て花嫁募集の広告となすと云うが如きは現代の人類史上未だ嘗て聞きたることなし。斯る抗辯は一つとして採取するに足らざるものなり。  」
 両少尉は,昭和22年12月20日,同判決を不服として上訴申辯書を提出し,その際,冨山大隊長の証明書2通及び浅海記者の証明書1通を添付した(甲33)。
  • (ア) 冨山大隊長の証明書には,

    毎日新聞紙上記載のような「百人斬り競争」の事実がなかったこと,冨山大隊が昭和12年12月12日麟麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したこと,大隊将兵が湯水東方砲兵学校跡駐留間(昭和12年12月13日から昭和13年1月8日まで)は,全く外出を禁止し,特に南京方面に外出したことがないことが記載されており,冨山大隊長の受傷証明書には,向井少尉が昭和12年12月2日丹陽郊外において左膝頭部盲貫及び右腕下膊部盲貫弾片創を受け,離隊し,救護班に収容され,同月15日湯水において部隊に帰隊し治療したことが記載されていた。
  • (イ) 浅海記者の証明書には,

    浅海記者が昭和12年11月ころ大阪毎日新聞及び東京日日新聞に掲載した記事について,同記事に記載されている事実は,両少尉から聞き取って記事にしたもので,その現場を目撃したことがないこと,両少尉の行為が決して住民,捕盧等に対する残虐行為ではなく,当時でも,残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることができなかったこと,両少尉が当時若年ながら人格高潔で模範的日本軍将校であったこと,これらの事項について浅海記者は昭和21年7月東京裁判においてパーキンソン検事に供述し,当時不問に付されたことが記載されていた。
  • (ウ) なお,上訴申弁書の修正案(甲79)には,上記弁明に加え,

    本件日日記事の両少尉の写真が,無錫付近における記念撮影であり,紫金山における「百人斬り競争」とは何の関係もなく,証拠にはならないことなどが記載されていたほか,原稿の最後に,「新聞記事の真相」という項があり,その中で,両少尉と浅海記者との間の会話が再現されており,これによれば,浅海記者が両少尉に「無錫から南京まで何人斬れるか競争してみたら。」と持ち掛け,それに応じて向井少尉が冗談で「百人斬り」の話をしたところ,浅海記者が武勇伝に名前を貸してほしいと言い,それを両少尉において了承し,浅海記者が「記事は一切記者に任せてください。」という会話であったとされている。
 両少尉は,昭和22年12月28日,南京軍事裁判所にあてて,冨山大隊本部書記竹村政弘の証明書及び向井少尉の弟である向井猛の書簡を提出した(甲34)。
  • (ア) 竹村政弘の証明書には,

    南京攻略戦当時,毎日新聞紙上記載のような「百人斬り競争」の事実がなかったこと,南京攻略戦終了後冨山大隊が昭和12年12月12日麒麟門東方において戦闘行動を中止し,南京城に入ることなく湯水鎮東方砲兵学校に集結したこと,湯水鎮東方砲兵学校に待機していた間(昭和12年12月13日から昭和13年1月8日まで)は次期作戦の準備のため公用のほか一切外出を厳禁されていたことが記載されていた。
  • (イ) 向井猛からの書簡には,

    「  浅海記者は若しも必要ならば,進んで出廷し直接証言したいと語っております。浅海記者も大隊長もこの様な事実はなかったと語っております。また隊長は『向井は当時負傷していたのであの様な機会がある筈はない』とも語っていました。当時の新聞記事が信用出来ないことは現在の日本人全ての明白な認識となっております。  」 と記載されていた。
 南京軍事裁判所は,両少尉の不服申立てを認めず,両少尉は,昭和23年1月28日,南京雨花台において,田中軍吉と共に銃殺刑に処せられた。両少尉の遺書等には,以下の記載がある。
  • (ア) 向井少尉(甲35)

    「  我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。  」(辞世)

    「  野田君が,新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい,との事です。何れが悪いのでもありません。人が集って語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。

      公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海,冨山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合ったところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。冨山隊長の証明書は真実で嬉しかったです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ケ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ケ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。  」(遺書)
  • (イ) 野田少尉(甲35,58)

    「  向井君から父上へ
    『口は禍の元,冗談を云ったばかりに大事な独り息子さんを死の道連にして申訳ありません。』との事です。  」(昭和22年12月25日の欄)

    「  南京屠殺事件にくっつけられとんでもない濡衣を着せられました。 『口は禍のもと』と申します。向井君の冗談から百人斬競争の記事が出てそれが俘虜住民を斬ったと云うのです。無実である事を信じて下さい。  」> (同日の欄)

    「  一,日本国民に告ぐ
    私は曽つて新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武雄伝を以て世の中をお騒がし申上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。  」(昭和22年12月28日の欄)

    「  只俘虜,非戦斗員の虐殺,南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。  」(死刑に臨みて)
昭和41年,大森実は,その著書「天安門炎上す」において,「百人斬り競争」について,以下のとおり記載した。

「  夏さんは,"南京百人斬り"の日本人将校の"殺人競技"の詳細を話してくれた。昨夜,毛さんが,ちょっと話しかけたのと同じ事件らしい。―南京入城に先立ち,野田厳という少尉と向井敏明なる少尉が,郊外の句容山から南京入城まで``百人殺し"の競技約束をした。どちらが先に,軍刀で百人斬るか争ったのだ。郊外の湯山に着いたとき,城門まであと二キロだったが,向井少尉が八十九人,野田少尉が七十八人斬っていた。上官の許しを得て湯山から競技を再開し,二人が中山陵にたどりついたとき,向井は百七人,野田は百五人。しかし,これでは,どちらが先に百人斬ったか証拠がないというので,延長戦をやり,目標を百五十人にエスカレートした。  」

その後,雑誌「偕行」昭和45年7月号ないし昭和46年1月号において,野田少尉の遺言が連載された。
被告本多は,昭和46年8月ころから12月ころにかけて,朝日新聞紙上に「中国の旅」を連載し,同年11月5日付け朝日新聞紙上において,「競う二人の少尉」との見出しの下,別表記事番号一の1の1(*)と同内容の記事を掲載し,その際,両少尉を「A」「B」と匿名で表示した。被告本多による「中国の旅」の連載は,大きな反響を呼び,上記記事の「百人斬り競争」については,それが事実か否かについて論争を生じた(甲1,8)。

「百人斬り競争」の存在を肯定する論者として,鈴木記者は,雑誌「丸」昭和46年11月号に「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」を寄稿し,志々目彰は,「中国」昭和46年12月号に「"百人斬り競争"--日中戦争の追憶--」を寄稿した。また,洞富雄は,昭和47年から昭和48年にかけて,「歴史評論」誌上などにおいて,「百人斬り競争」の存在を肯定する論稿を発表した(乙3,丁2)。

山本七平(イザヤ・ベンダサン)は,「諸君!」昭和47年1月号において,「朝日新聞の『ゴメンナサイ』」を掲載し,これに対して被告本多が,「諸君!」昭和47年2月号で「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し,以後同年4月号まで同誌上で論争が繰り返された。この論争の中で,両少尉は,実名を挙げて議論の対象とされ,このころ出版された「中国の旅」単行本の番号一の1の記事においても,すべて実名で掲載された。その後,山本七平及び鈴木明は,同誌上で「百人斬り競争」を否定する論稿を掲載した。なお,鈴木明が昭和47年4月号から連載した「『南京大虐殺』のまぼろし」は,昭和48年,第4回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した(甲103,106)。

鈴木明は,昭和48年,上記論稿を単行本化した「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し,山本七平は,自らの軍隊経験などを基に,昭和50年「私の中の日本軍」を発表した。洞富雄は,同年に「"まぼろし"化工作批判南京大虐殺」を発表し,鈴木らの見解に反論した。被告本多は,昭和52年に「ペンの陰謀」を発表し,その中で,浅海記者及び鈴木記者の論稿を掲載するとともに,鵜野晋太郎の論稿を掲載し,さらに,昭和62年,「南京大虐殺」を主に取り上げた「南京への道」単行本を出版した(甲9,10,16,87,乙1)。
ト   「百人斬り競争」については,現在に至るまで,その存在に否定的な見解と肯定的な見解とが対立しており,当裁判所に提出された各種書籍や論稿には,以下のものがある。《 以下「 」は判決者による引用の符号。この符号が無いものは判決者による要約 》
  • (ア) 鈴木明は,上記単行本「『南京大虐殺』のまぼろし」において,向井少尉の未亡人である北岡千重子からの手紙をきっかけに,同人のほか,原告千惠子,原告エミコ,向井少尉の実弟である向井猛,浅海記者,南京軍事裁判所の裁判長であった石美瑜など関係者に対するインタビューや南京軍事裁判の資料を基に,「百人斬り競争」をルポルタージュという形式で検討した。鈴木明は,

    「  いま僕も,全く同じように,『かりに,この小文が,"銃殺された側"の"一方的な"報告のようにみえても,終戦後の中国で,二人の戦犯がどのように行動し,それを,関係者や遺族がどう受けとめ,いまどう感じているかを知ることも,相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。そして,同じく『百人斬り』を取材しながら,このルポで僕が取材した内容の意識と,朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき,僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持にならないではいられなかった。  」

    と記載して,被告本多及び被告朝日らの見解を批判している(甲16)。

    山本七平は,上記単行本「私の中の日本軍」において,自らの軍隊経験を中心として,「百人斬り競争」について検討し,

    本件日日記事第四報の取材場所があり得ないこと,本件日日記事の内容自体が軍の規律に違反するものであること,本件日日記事に使用された用語が軍隊の通常の用語とは異なること,日本刀の殺傷能力から見て,「百人斬り競争」が不可能であることなどを検討し,本件日日記事が虚報であると断定するとともに,

    被告本多らの見解を批判している(甲87)。
  • (イ) 阿羅健一は,昭和62年「聞き書 南京事件」を出版し,その後,同書の一部を「『南京事件』日本人48人の証言」で文庫本化した。阿羅は,同書において,昭和12年12月に南京で何が起こったのかについて,日本人の生存者から証言を集めており,その中には東京朝日新聞足立和雄記者,佐藤記者,鈴木記者及び浅海記者に対するインタビューが含まれている。阿羅は,その陳述書において,インタビューをした当時の状況について供述し,

    佐藤記者の話が信用性のあるものであったこと,鈴木記者自身は真実であると答えているが,本心は虚偽だと思っているのではないかと思われたこと,浅海記者が最後までインタビューに応じなかったこと,昭和12年当時の浅海記者を知る足立記者から,浅海記者の人柄などを含めた上で,「百人斬り競争」は創作かもしれないとの話を聞かされたこと,向井少尉の直属の部下であった田中金平から「百人斬り競争」について信用していないことなどの話を聞かされたことなどを理由として,「百人斬り競争」が創作だと確信した

    旨供述している(甲36,91)。
  • (ウ) 北村稔は,「『南京事件』の探求」において,

    南京戦当時の中国当局の国際宣伝と戦時対外戦略について分析し,本件日日記事の「百人斬り競争」については,当初,斬殺の対象が戦闘中の中国兵士であり,武勇伝として紹介されたものが,ジャパン・アドバタイザーに転載される際の翻訳では「剣による個々の戦闘において」と記載されていたにもかかわらず,斬殺の対象が「百人の中国人」と記述され,さらに,ティンパレーの著書に収録される際には「殺人競争」という表題が付けられ,いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であるという装いがなされた

    旨記載している。
    また,北村稔は,その論稿及び陳述書において,

    南京軍事裁判における両少尉の判決書を分析し,本件日日記事にはない捕虜と非戦闘員の殺害が理由としてあげられていること,紫金山麓において「老幼を択ばず逢う人を斬殺」することがあり得ないこと,本件日日記事がジャパン・アドバタイザーに転載された後,さらにティンパレーによる「日軍暴行紀実」に転載される過程で,あたかも残虐事件の報道記事であるかのように仕立て上げられてしまったこと,南京軍事裁判が政治裁判であり,本件日日記事を詳しく確認せずに判断されたこと,両少尉の弁護側としても,記事の内容の真偽のみならず,本件日日記事が戦闘中の敵兵を斬り倒す描写であることを争うべきであったにもかかわらず,そうしなかったことなどを記載し,

    両少尉に対する死刑判決が事実誤認である旨供述している(甲52,90,143)。
  • (エ) 中山隆志は,その陳述書において,

    南京攻略戦当時において日本刀を使用した白兵戦が起きる頻度が低かったこと,南京攻略戦では捕虜取扱いについて明確な方針等が準備されず,日本軍の中でも対応が分かれていたこと,両少尉が本件日日記事第一報の内容を自ら記者に話すとは考え難く,その内容も軍事上の常識からみれば理解し難いこと,本件日日記事第二報については,向井少尉の離隊の事実と矛盾すること,本件日日記事第三報については,向井少尉の離隊の事実や冨山大隊主力が句容を攻撃することなく,通ってもいないことと矛盾すること,本件日日記事第四報については,負傷したはずの向井少尉が隣接部隊の行動地域にいることが疑問であること,南京攻略戦当時の砲兵砲小隊長と大隊副官において,白兵戦に加入するのが真に危急の場合だけであることに加え,南京攻略戦当時の新聞報道の規制状況などから見て,「百人斬り競争」があり得ない

    旨述べている(甲89)。

    犬飼総一郎は,その論稿において,

    日本刀で短期間に百人も殺害できないこと,両少尉がいずれも大隊長の側近として,常時大隊本部と同行し,最前線に出ることがないこと,冨山大隊が無錫駅を発進してから南京城東の正門「中山門」に進出するまでの18日間に戦ったのが8回であること,向井少尉が昭和12年12月2日に負傷し,同月3日には野戦病院に入院していたことなどを指摘し,「大野日記」や野田少尉の手記,佐藤記者の証言などに基づき,本件日日記事が虚報である

    と述べている(甲115)。

    なお,このほかにも,南京攻略戦に関する論稿に対する批判や本件訴訟に提出された資料の検証,戦争体験などから,本件日日記事や「据えもの百人斬り」を信用できないとする旨の供述がある(甲121,123ないし125,142)。
  • (オ) 鵜野晋太郎は,上記「ペンの陰謀」に「日本刀怨恨譜」を寄稿し,その中で,中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたこと,鵜野晋太郎自身,昭和31年に,住民,捕虜等を拷問,殺害したとの罪により中国当局によって禁固13年を言い渡されたことなどを述べ,「百人斬り競争」については,

    「  当時私は幼稚な『天下無敵大和魂武勇伝』を盲信していたので,百人斬りはすべて『壮烈鬼神も避く肉弾戦』(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが,前述の私の体験的確信から類推して,別の意味でこれは可能なことだ----と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合,穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが,進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で,立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。

      ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが,それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては,進撃途上で比隣部隊から『どうぞ,どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に『戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々』とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵戦で斬ったのか真偽の程はきわめて疑わしくなる。  何れにせよ,こんなにはっきりしていることを『ああでもない,こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千もの野田・向井がいて,それは日中五○年戦争----とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。  」

    と記載している(乙1)。
  • (カ) 洞富雄は,上記「ペンの陰謀」に「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」を寄稿し,その中で,山本七平,イザヤ・ベンダサン及び鈴木明の見解を批判するとともに,

    「  それはさておき,山本七平氏のとなえるような,極端な『日本刀欠陥論』はうけいれられないにしても,たとえ捕虜の殺害とはいえ,二本や三本の日本刀で一○○人もの人を斬るなどということが,はたして物理的に可能かどうか,だれしもがいちおうは疑ってみるのが常識というものであろう。したがって,野田・向井両少尉が,無錫から紫金山まで約半月の戦闘で,どちらも一○○人以上の中国兵を斬った,と彼らみずから語ったのは,あるいは『大言壮語』のきらいがあるかもしれない。だが,たとえ『百人斬り』は『大言壮語』だったとしても,それは,二人の場合,捕虜の虐殺はまったくやっていないとか,『殺人競争』は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。  」,

    「  極東国際軍事裁判で裁判長は,『百人斬り競争』を日本軍がおかした捕虜虐殺の残虐事件としてとりあげなかった。だが,このことは向井・野田両少尉を『不起訴』にしたとか,『無罪』にしたとかいうことを意味するものではない。極東国際軍事裁判はA級戦犯を審判した法廷であるから,向井・野田両少尉は,残虐事件の証人としてこの裁判の法廷に立たされることはあっても,戦犯として裁判されるはずはないのである。しかしながら,極東国際軍事裁判における検察側の処置は,ただちに両少尉を,中国関係B・C級戦犯の容疑者として,南京の軍事裁判で裁かれる運命からまぬがれさせるよりどころになるものではなかった。  」,

    「  私は拙著『南京事件』で,この『百人斬り競争』の話を,『軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である』若手将校にみられた残虐性の一例として簡単に紹介しておいた(212-3.235-6.244-5ページ)。そこでは,五味川純平氏ののべているところなどにもふれながら,斬られたものの大半は捕虜である,と考えたのであるが,この見方は今も変わっていない。でも,私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐`性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。  」

    と記載している(乙1)。
    また,田中正俊は,「戦中戦後」において,

    「  南京攻略までにいたるいわゆる『百人斬り競争』について,調査官がその事実の信憑性に疑義を唱えたと聞くが,この"事実"は,当時の"検閲"を経て『東京日日新聞』1937年12月13日(月)に写真入りで報道されており,『百人斬り"超記録"両少尉さらに延長戦』の見出しのもとに,『十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を前に対面した。(中略)

      両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったか……』という記事を載せている。それぞれが人数を確認して百人以上も殺しておきながら,刃こぼれしたのは刀のみで,両人とも何の負傷も見せず,写真の中で肩をいからせているところを見ると,控え目に考えても,被害者の殆どすべての人々が非武装者であったのではないか,というのが,一歴史研究者としての私の客観的史料にもとづく実証的見解であるが,教科書調査官もまた,これらの記事を実証的に"調査"するとともに,これらの新聞紙面に窺われる当時の日本人の日中戦争観が,いかに傲慢で軽薄で,非人間的であったかについても,知見を広め,かつ深めておくべきであろう。  」

    と記載している(乙2)。
さらに,両少尉の「百人斬り競争」に関連する記事,資料等として,以下のものがある。
  • (ア) 浅海記者に対する取材記事

    浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された「南京百人斬りの"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」と題する記事において,取材に答えて,  《 以下「 」は判決者による引用の符号 》

    「  あなた方はきのうの出来事のようにいわれるが,なにしろ三十五年も前のことだ。記憶も不確かになっている。『諸君!』にあのように書かれて,私が十分に答えなくても,私は一つも損などしない。私の周囲のインテリは,あのような指摘があっても,一つも私がかつて書いた新聞記事のような状況がなかったとは疑いませんからね。何が真実かは,大衆と歴史が審判してくれますよ。鈴木(明)さんもジャーナリスト,私もジャーナリスト。彼の,私の書いた記事によって二人の生命が消えたという見方は,むろん異論はあるが,私のプライバシーをそこなわない限り,ジャーナリストが一つの考えにもとづいてお書きになることは,それが当然だ,私は文句はいいません。いずれ真相は,しかるべき専門のメディアに私自身の筆で書きますよ。

      それに,『諸君!』によれば,向井さんは,"日中友好のために死んでいく"といっておられる。感銘を受けましたね。敬服している。今,田中内閣もようやく日中復交をいい出したが,あの二人の将校こそ,戦後の日中友好を唱えた第一号じゃないですか。こんな立派な亡くなり方をなさった人たちに対して,今はもう記憶の不確かな私が,とやかくいうことはよくないことだ。それに,遺族もいらっしゃる。私はいわないほうがいい。

      当時,二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は"百人斬り"を目撃したわけではないが,話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ,証人はいたはずだ。また,私の報道が証拠になったかどうか,それも明らかではありませんからね。しかし,私は立派な亡くなり方をなさった死者と,これ以上論争したくないな・・・・」

    と述べた旨記載されている(乙4)。
    また,浅海記者は,上記「ペンの陰謀」に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する文章を寄稿し,その中で,以下のとおり記載している(乙1)。

    「  何しろ,もう三十数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに,当時の,筆者をふくむ東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは,上海から南京まで急速に後退する『敵』を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので,その環境の悪さとともに,多種類の取材目標をかかえて活動していましたので,その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。連日の強行軍からくる疲労感と,いつどこでどんな"大戦果"が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに,あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で,M少尉,N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。  」

    「  筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と,その夜そこで天幕野営をする準備をしていた,と記憶するのですが,M,N両将校は,われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て,向うから立ち寄って来たのでした。『お前たち毎日新聞か』とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。

      両将校は,かれらの部隊が末端の小部隊であるために,その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり,かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり,いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで,かれら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは,この多くの戦争ばなしのなかから,このコンテストの計画を選択して,その日の多くの戦況記事の,たしか終りの方に,追加して打電したのが,あの『百人斬り競争』シリーズの第一報であったのです。

      両将校がわれわれのところから去るとき,筆者らは,このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは,どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから,かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ,といった意味の応答をして,元気に立ち去っていったのでした。  」

    「  このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM,N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は,その後三,四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変っていましたが)に現われてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは,いま筆者の記憶からほとんど消えていますが,たしか,丹陽をはなれて少し前進したころに一度,麒麟門の附近で一度か二度,紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度,両少尉の訪問を受けたように記憶しています。

      両少尉はあるときは一人で,あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙がしいとみえて,必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく,あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると,その時の場所と月日が記載されていますが,それはあまり正確ではありません。なぜなら,当時の記事送稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって,その他のあまり緊急を要しない記事は二,三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」

    「  すべての損害事件に加害者と被害者があることはいうまでもありませんが,それなら,その事件の存在そのものに疑問を抱く人は,そのことを加害者と被害者の両方に質してみることは疑問を解く最も常識的かつ初歩的な手続きではないでしょうか。この点で三人組の方々は,加害者とみられる旧日本軍の関係者などの証言を提示して事件の不存在を主張していますが,それらの証言は明らかに加害者の利益関係人によるものであって,そのような証言の立証力はきわめて乏しいとされるのが今日の常識です。しかし,それはそうとしても,事件不存在の主張者が冷静,公平になすべきことはもうひとつあります。それはいうまでもなく被害者である中国またはいま台湾にある当時の中華民国の事件処理担当の責任者にそのことの存在か不存在かをたしかめてみることです。  」

    「  してみれば,こんにちの中国は,『南京大虐殺,百人斬り競争』のような事件がもし本当に不存在であったのなら,喜こんでそれを証明できる立場にあるのだし,反対にそれが存在していたとしても,その責任を下級将校や兵士--M少尉やN少尉の--責任とはしないという立場をとっていることは明白です。  」

    「  三人組の論述によれば,南京軍事法廷は当時の毎日新聞(東京日日新聞)の記事を重要な証拠として,興奮した大衆の怒号のなかであの判決を下したとあるのですが--あるいはそのようなことがあったことを是認しておられるのですが--,それならばあの裁判は事件そのものが不存在なのにその上にもうひとつの不当性をもっていたということになります。正常な裁判においては,「伝聞による新聞記事」は証拠としない,というのは国際的な法律常識です。そして,法廷に興奮した大衆を大量に入れ(あるいは入りこまれ),怒号を放置したまま(あるいは止むなくそうなったまま)審理,判決を行うというのは正常なまたは公正な裁判とはいえません。  」

    「  このことについて筆者の体験を参考までに記してみましょう。筆者は,敗戦直後の東京市ヶ谷で行われた連合国国際戦犯裁判に同事件の証人としてパーキンソン検事の事情聴取を受け,そして検事側証人として法廷に立ったことがあります。このとき,筆者の検事への陳述内容はすでに長文の文書にされて,あらかじめすべての判事,弁護人に配布されていたのですが,筆者が検事の請求によって陳述台に立ち,宣誓を終えるや否や,判事の一人から発言がありました。その趣旨は 『この証人の陳述は伝聞によるものであり,また,この証人の書いた新聞記事は伝聞によるものであるから,当裁判の証人,証拠とはなり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない』というものでした。すると裁判長はこの発言をとりあげ,筆者は直ちに退廷を命じられたのでした。  」

    「  しかし,もし万一,それでもあの新聞記事が南京法廷の主要な証拠として"活用"されたということが真実であったとしたら,この点からみてもあの法廷の判決は不当なものであったと(三人組は)判断することができるのです。  」

    なお,浅海記者は,阿羅健一からの取材要請に対して,記憶不鮮明を理由に断り,その際,「この世紀の大虐殺事実を否定し,軍国主義への合唱,伴奏となるようなことのないよう切望します」という返事をした(甲36,91)。
  • (イ) 鈴木記者に対する取材記事

    鈴木記者は,上記「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された記事の中で,取材に答え,

    「  南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに,前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが,その中で,『今,向井,野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら,その後どうなったか,何人斬ったのか,聞いてくれ』といわれた。『そして記事にあるように,紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり,結局,その場には向井少尉,野田少尉,浅海さん,ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって,頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである"赤筒"でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ,二人の少尉に会ったのは…。そこで,あの記事の次第を話してくれたんです』  」,

    「  『本人たちから"向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった"という話を直接聞き,信頼して後方に送ったわけですよ。(中略)従軍記者の役割は,戦況報告と,そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて,ぼくらは戦場で"見たまま,,"聞いたまま"を記事にして送ったんです』」

    と述べた旨記載されている(乙4)。
    また,鈴木記者は,上記「丸」昭和46年11月号誌上において,「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」との文章を寄稿し,

    「  この二つの特電にあるように,浅海,光本両記者がまずこの"競争"を手がけ別の部隊に属していたわたしは,紫金山麓ではじめて浅海記者と合流,共同記事として打電された。  」,

    「  検事の喚問は,やはりこの"競争"を「虐殺」として,事実の有無,取材の経緯,そして両将校の"競争"の真意をするどく追求されたが,どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく,ただ二人がこの"競争"を計画し,その武勇伝を従軍記者に披露したのであって,その残虐性はしるよしもなく,ただ両将校が"二人とも逃げるのは斬らない"といった言葉をたよりに,べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが,期せずして,『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので,一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』と強調した。 」

    旨記載している(丁2)。
    さらに,鈴木記者は,上記「ペンの陰謀」に「当時の従軍記者として」を寄稿し,その中で,

    「  一体,昼夜を分たず,兵,或いは将校たちと戦野に起居し,銃弾をくぐりながらの従軍記者が,冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で,彼我砲撃のさ中に"ゴール"迫った二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は,今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。」,

    「  戦後,浅海一男君ともどもこの"百人斬り競争"の特電をもとに,市ヶ谷台の東京裁判で,南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際,特に二人が強調したのは『二人とも逃げるのは斬っていない,立ち向う敵だけを斬った,虐殺ではない』ということだった。そしてまた,その事を信じての特電だったからだ。  」

    と記載している(乙1)。
    なお,鈴木記者は,上記「『南京事件』日本人48人の証言」の中で,阿羅健一からの取材に答えて,

    「  『私は三回の記事のうち,最後の記事だけにかかわっています。南京へ行く途中,あれを書いた浅海(一男)君に会ったら,こういう二人がいる,途中で会ったら何人斬ったか数を聞いてくれ,と言われていた。そこであの記事になった。全体のことはあまり知らなかった』  」,
      (「・・・二人から話を聞いて,本当の話と思いましたか。」との問いに対し)
    「  『逃げる兵は斬らないと言ってました。本当だと思いました。戦後,野田(厳)少尉が,塹壕にいる中国兵にニーライライと言って出てくるところをだまして斬った,と語ったと聞いて,裏切られた思いをしました』 と述べた 」

    旨記載されている(甲36)。
  • (ウ) 佐藤記者に対する取材記事

    佐藤記者は,上記「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された記事の中で,取材に答えて,

    「  とにかく,十六師団が常州(注・南京へ約百五十キロ)へ入城した時,私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが,社旗を立てた。そこに私がいた時,浅海さんが,"撮ってほしい写真がある"と飛び込んで来たんですね。私が"なんだ,どんな写真だ"と聞くと,外にいた二人の将校を指して,"この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む"という。"へえー"と思ったけど,おもしろい話なので,いわれるまま撮った写真が"常州にて"というこの写真ですよ。  」,
    「  私が写真を撮っている前後,浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だからあの記事はあくまで聞いた話なんですよ。  」,「  あの時,私がいだいた疑問は,百人斬りといったって,誰がその数を数えるのか,ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか,浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど,確かどちらかが,"あんた方,斬った,斬ったというが,誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら,野田少尉は大隊副官,向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ,という話だった。--それなら話はわかる,ということになったのですよ。  」

    と述べた旨記載されている(乙4)。
    また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集Ⅱ」所収「従軍とは歩くこと」の中で,以下のとおり記載している(乙7)。

    「  社会部の浅海一男記者が,無錫から同行していた。その浅海記者が常州城門の側の旅館へ筆者を呼びに来た。『将校さん二人の写真を撮ってくれないか。彼らはタバコを切らしているので,タバコもあげてくれないか』というのである。  」
    「  タバコを進呈して,将校から何を聞き出すのか。私は浅海記者と将校の話に聞き耳を立てた。将校の-人は大隊副官の野田毅少尉,もう一人は歩兵砲小隊長の向井敏明少尉。なんとここから南京入城までに,どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である。
      二人の将校の話を聞いていて,納得のいかないところがあった。同業の誰かが優れた写真を撮った場合,私はフィルムの種類は?レンズの絞りは?シャッター速度は?と,根掘り葉掘りデータを聞きたくなる。それを聞いてはじめて納得できるのだ。
      これから南京へ着くまでに,中国兵百人を斬るというのだが,誰がその数を確認するのかが不明だ。そうなると正確に百人も斬ったという事実も,証明できない。この点を二人の将校に質すと,次のような返事が返って来た。
      野田少尉の場合,向井少尉の当番兵が,野田少尉が斬った人数を確認する。向井少尉の場合は野田少尉の当番兵が,向井少尉が斬った人数を確認するというのである。
    いちおう納得できたが,しかし,実際いつ白兵戦になって,中国兵を斬るのか,腑にちなかった。  」
    「  こんないきさつがあったが,筆者が撮った二人の少尉の写真は,浅海記者の書いた『百人斬り競争』という見出しの付いた記事と共に,紙面に大きく掲載されたのであった。
    常州で両少尉に一度,会っただけなので,忘れかけていたところ,南京の手前で浅海記者に会った時,『あの二人はまだ競争をやっとるよ,タバコをもう一度用立ててくれないか』と,タバコを無心されたのであった。  」

    さらに,佐藤記者は,その陳述書及び当裁判所における証人尋問においても,両少尉から常州において直接話を聞いたことを認めている(甲65,証人佐藤振壽)。
  • (エ) 志々目彰の論稿

    志々目彰は,上記「中国」昭和46年12月号所収「"百人斬り競争"-日中戦争の追憶-」の中で,

    野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ,鹿児島県立師範学校附属小学校で行った講演を直接聞いたと述べ,野田少尉が,
      「郷士出身の勇士とか,百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四,五人しかいない・・・占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから,ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片つばしから斬る・・・百人斬りと評判になったけれども,本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・二人で競争したのだが,あとで何ともないかとよく聞かれるが,私は何ともない・・・」  と話した  

    旨記載している(乙3)。志々目彰は,その陳述書においても,同旨の供述をしている(乙11)。
  • (オ) 志々目彰の論稿に関する関係者の陳述等

    志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるAは,志々目彰の論稿に対して,

    「  之だけはと思い,野田少尉の事だけは,私の私見ですが伝へておこうと思って次に書いておきます。野田少尉は,戦争の犠牲者と云うより,マスコミの犠牲者と云った方が正しい様な気がします。野田少尉の話は,附属の裁縫室でありました。私たちの組だけでした。上海上陸から南京攻略迄の話,色々の苦労話が主だったのですが,捕虜を切った話もありました。彼が出鱈目に捕虜を切ったわけではないのです。多数の捕虜の中には逃亡を企てる奴等は必ずいる。他の捕虜の見せしめの為には處罰しなければならない。その様な連中を切ったのです。それも百人もと云う多人数ではないと思います。彼が日本刀を抜いて見せた時,歯こぼれが沢山していて,何とかいう名刀も,こんなに歯こぼれがしては使いものにならない。日本刀は,実際の所,実戦では役にたゝない。支那兵は厚い綿入を着ているので,切りつけてもはねかえされてしまう。捕虜を何人か切ったけど,骨迄切り落す事は非常にむつかしい。骨にあたると,此の様に歯がかげてしまう。実際問題として,日本刀は役にたゝない。  」

    と供述している(乙3,11)。

    これに対し,Bは,その陳述書において,志々目彰と同じ小学校で野田少尉の話を聞いたことがあるとした上,百人斬ったという話や捕虜を斬ったという話を聞いていないこと,志々目彰が聞いたとされる話を聞いていないことなどを述べている(甲72)。

    また,Cは,その陳述書において,鹿児島一中において野田少尉の話を聞いたことがあること,その話が,

    「  百人斬りの英雄ということで有名になったが,自分は決してそういうものではない。迷惑で心外である。百人斬りなんて無茶なことができるわけはない。白兵戦なんていうのはめったにおこるものではない。  」

    という内容であったことを覚えている旨述べ(甲67),

    Dも,鹿児島一中において野田少尉の話を聞いたことがあること,その際,南京戦の戦況らしいものが説明されたことを覚えているものの,それ以上のことを覚えていないことを述べている(甲73)。

    さらに,Eは,その陳述書において,田代小学校4年生のころ,野田少尉の話を聞いたことがあること,その際,印象に残っているのは,延々と続く高梁畑を進軍中に,敵弾を浴び,高梁の穂が銃弾で折れてぶら下がっている中での進軍であったとの話であり,敵と渡り合って切り結んだというような話は全然出てこなかった旨述べている(甲75)。
  • (カ) Fらの陳述

    Fは,昭和15年から約1年間,向井少尉の部下であったところ,向井少尉が,

    「  あれは冗談だ  」,「  冗談話を新聞記事にしたんだ  」

    とはっきり言い,

    「  冗談が新聞に載って,内地でえらいことになった  」

    とも言っていた旨述べており(甲114),Gは,昭和15年から約1年間,野田少尉の部下であったところ,野田少尉から「百人斬り競争」の話が出たことがなかった旨述べている(甲74)。
  • (キ) Hの陳述

    Hは,昭和21年ないし22年ころ,X警察署に勤務し,野田少尉を連行した警察官であるところ,野田少尉が,連行に際して,Hに対し,

    「  Hさん,いくら敵兵といえど人間ですよ。人が人を斬る,多くの人を斬れても斬る人は頭が狂ってくるのではないでしょうか。また如何なる銘刀といえども多くの人を斬れば『ノコギリ』のようになるでしょう。私は刀は多く持っておりません。  」,「  あの話は創作ですよ。中国ではこの話を証拠とするでしょうが,私はやっていないことはやっていないと言います。私に責任があれば,その責任は立派に果たします。  」

    と話していた旨述べている(甲76)。
  • (ク) 石美瑜に対するインタビュー記事

    鈴木明は,上記「『南京大虐殺』のまぼろし」において,南京軍事裁判の裁判長であった石美瑜に対するインタビューを記載し,それによれば,石は,

    「  終戦のとき,中国には百万位の日本軍がいたが,約二千人の戦争犯罪人を残して,すべて帰国させた。しかも,その二千人の中で実際に処罰されたのは数百人で,死刑になったのは,数十人である。
      向井少尉たち三人については,日本人の書いた本に記載されていたもので,この本にある写真はお前か,ときいた時,彼は犯罪事実を容認した。証拠の刀もあった。この百人斬り事件は南京虐殺事件の代表的なもので,南京事件によって処罰されたのは,谷中将とこの三人しかいない。南京事件は大きな事件であり,彼等を処罰することによって,この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。
      無論,私たちの間にも,この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし,五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし,更にこの種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。
      私個人の意見はいえないが,私は向井少尉が日本軍人として終始堂堂たる態度を少しも変えず,中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり,天皇の命令によりハラキリ精神で南京まで来たのであろう。先日の横井さんのニュースをきいた時,私はこれら戦犯の表情を思い出した。
      私は法律家だ。それぞれの法律を守ることが正しいと思っている。  」

    「  昔中国は日本と戦ったが,今はわれわれは兄弟だ。われわれは憶えていなければならないこともあるし,忘れなければならないこともある。最後に,もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら,これだけいって下さい。向井少尉は,国のために死んだのです,と  」

    と述べたとされている(甲16)。
  • (ケ) 六車政次郎の著作等

    六車政次郎は,陸軍士官学校時代に野田少尉と同期生で,第一大隊の副官として南京攻略戦に参加しているところ,同人の著作である「惜春賦-わが青春の思い出-」には,無錫攻略戦について,

    「  軍刀や銃剣を振りかざしてあたかも忠臣蔵の討ち入りのように,『居るか!』『居らんぞ!』など声を掛けながら村内を進む。出合い頭に銃剣を構えた敵兵とぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や,降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り降ろしていた。  」

    と記載されている。なお,同書には,第一大隊の行軍経路がかなり詳細に記載されており,第一大隊がしばしば突撃戦に参加していたとされている(丁14)。
      なお,六車政次郎は,昭和47年5月に発行された「鎮魂 第三集」(陸軍士官学校49期生会発行)に「野田大凱の思い出」を寄稿し,その中で,

    「  北支に上陸してからは,別々の戦場で戦うことが多く殆ど顔を合わせることはなかったが,中支に転じて南京攻略を目前にした一日,南京東部の句容鎮付近で珍らしく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて,出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく,野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く,敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。  」

    と記載している(丁15)。
  • (コ) 望月五三郎の論稿

    冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は,昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,以下のとおり記載している(丁12)。

    「  このあたりから野田,向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として,行軍中は馬にまたがり,配下中隊の命令伝達に奔走していた。この人が百人斬りの勇士とさわがれ,内地の新聞,ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である。
      『おい望月あこにいる支那人をつれてこい』命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが,やがてあきらめて前に坐る。少尉の振り上げた軍刀を脊にしてふり返り,憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。一刀のもとに首がとんで胴体が,がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も,少尉の手前じっとこらえる。戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが,抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
      その行為は,支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無惨にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聨隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

      この残虐行為を何故,英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから,支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり,報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。  」
《原告田所千惠子の手記・陳述など》

原告千惠子は,昭和46年に被告本多が「中国の旅」を発表し,「百人斬り競争」が論争されるようになると,周囲から向井少尉の子であることを指摘されることが多くなった。原告千惠子は,百人斬り競争に関連する出版が続くことに無念で,悔しい`思いをするとともに,向井少尉の無実を訴えようと考え,「諸君!」昭和64年新年特別号誌上において,「南京事件『百人斬り』『向井少尉の娘』の四十年」と題する手記を寄稿し,その中で,百人斬り競争が虚報であると指摘するとともに,

「  そういう人たちは,まだ遺族が生存していることなど考えないのでしょうか。もしそれが真実なら,どんなことでも耐えなければなりませんが,しかし,事実でないことははっきりしています。これでは,日中平和を願って死んでいった父は,安らかに眠るどころではないと思います。自分の国の人に何度も引きずり出されては鞭で打たれているのです。死人に口なしで,生きている人は,どうにでも理由をつけ,自己弁護できるのです。
  私は,いつもジャーナリストの方に申し上げたいと思っていました。『私たち遺族は一生懸命生活しているのです。幼くして,一家の柱を失い,やむなく違った人生を歩き,曲がりなりにも,いまやっとわが子を成長させ,社会に送り出せたのです。皆さんも,人の子,人の親ともなればお分かりいただけるでしょう』と。  」

と記載した(甲43)。

なお,「週刊文春」昭和63年12月15日号誌上に掲載された「"創作記事"で崩壊した私の家庭 朝日.本多勝一記者に宛てた痛哭の手記」と題する記事は,上記「諸君!」に掲載された原告千惠子の手記を紹介している(甲44)。

原告千惠子の上記手記を読んだ被告本多は,平成元年10月,原告千惠子を訪ね,「南京への道」の文庫本化に伴い,実名をイニシャルにする相談をした。原告千惠子は,被告本多の申出を了承したが,文庫本化された「南京への道」文庫本においては,両少尉が,百人斬り競争を言い出したことについて「一種なすり合いをしている」旨の記述が加えられるなどしたため,再び被告本多に対して抗議したが,被告本多は,「再検討してさらに調査したい。」としたまま,それ以降原告千惠子に回答することはなかった。原告千惠子は,南京軍事裁判の判決文を入手し,「正論」平成12年3月号に「『無実だ!』父の叫びが聞こえる 南京戦百人斬りの虚報で処刑された向井少尉次女が慟哭の告白」の中で,向井少尉の獄中手記とともに公表した。また,産経新聞記者の鵜野光博は,「正論」平成13年8月号に「『百人斬り競争』の虚報を証明した野田少尉の手記」を寄稿し,野田少尉の手記を公表した(甲14,15,71)。
《原告エミコ・クーパーの陳述など》

原告エミコは,米国人と結婚し,生活の本拠を米国に移していたところ,夫の仕事の関係で,昭和47年ころ来日し,被告本多の「中国の旅」及び「百人斬り」論争について知った。原告エミコは,この事態から逃れるため,滞在期間を短縮して米国に戻り,その後長らく来日することはなかった。原告エミコは,現在,本件日日記事に掲載された写真が,南京大虐殺の事件とともに,インターネット上で広く閲覧できるようになっており,向井少尉が虐殺者とされていることに行き場のない怒りや悲しみを感じている(甲16,69)
《原告野田マサの陳述など》

原告野田は,野田少尉の死後,静かに暮らしてきたところ,被告本多の「中国の旅」が新聞に出たことにより,野田少尉のことを周囲に知られるようになり,しかも,その記事の中で野田少尉が本当に殺人をした残虐な人間として描かれていることに心を痛めた。また,原告野田は,鹿児島市において南京大虐殺の展示会が開かれた際,両少尉が南京大虐殺の犯人として展示されたことに悲痛な思いを抱いた(甲70)。

【事実及び理由その3(判断と結論)】
 事実及び理由

 第3 争点に対する当裁判所の判断

  1. 争点(2)について 
    • (2) ところで,原告らは,本件各書籍の記載(*)により,両少尉各固有の名誉が毀損された旨主張する。

      しかしながら,名誉等の人格権は,いわゆる一身専属権であると解すべきところ,人は,その死亡によって権利能力を喪失するものであるから,上記の人格権も同様に消滅するものであって,死者の名誉等について,実定法がその法的保護の必要性を認めた場合において,その限りで死者の名誉等が法的に保護されるものと解するのが相当である。そして,私法上,遺族又は相続人に対し,死者が生前有していた名誉等の人格権について,これと同一内容の権利の創設を認める一般的な規定も,死者自身につき人格権の享有及び行使を認めた規定も存在しない。

      そうすると,死者の名誉等を毀損する行為は,私法上,独立の人格権侵害を構成しないこととなるから,両少尉各固有の名誉が毀損されたとする原告らの主張は,その余の点について判断するまでもなく,採用することができない。
    • (3) 原告らは,本件各書籍(*)の記載により,原告らの固有の名誉を毀損され,また,原告らのプライバシー権を侵害された旨主張する。しかしながら,前記認定事実のとおり,本件各書籍は,原告らの生活状況や原告らの経歴,行状などについては何ら言及していないから,原告らの名誉やプライバシーの権利を侵害しているものとは認めることができない。したがって,この点に関する原告らの主張も,採用することができない。
    • (4) 原告らは,さらに,本件各書籍の記載(*)により,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害された旨主張する。
      • ア 

        死者に対する遺族の敬愛追慕の情も,一種の人格的利益であり,一定の場合にこれを保護すべきものであるから,その侵害行為は不法行為を構成する場合があるものというべきである。もっとも,一般に,死者に対する遺族の敬愛追慕の情は,死の直後に最も強く,その後,時の経過とともに少しずつ軽減していくものであると認め得るところであり,他面,死者に関する事実も,時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくものともいえる。そして,歴史的事実については,その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ,各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから,たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても,相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には,歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となると解される。

        それゆえ,そのような歴史的事実に関する表現行為については,当該表現行為時において,死者が生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分について,一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合であって,なおかつ,被侵害利益の内容,問題となっている表現の内容や性格,それを巡る論争の推移など諸般の事情を総合的に考慮した上,当該表現行為によって遺族の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したものと認められる場合に初めて,当該表現行為を違法と評価すべきである。
      • イ 

        以上を前提として,まず,本件各書籍において,死者が生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評がなされているか否かについて検討するに,本件各書籍のうち,「中国の旅」文庫本の第24刷以降のもの,「南京への道」文庫本の第6刷以降のもの及び「本多勝一集 第23巻 南京への道の第2刷以降のものは,両少尉について,いずれも匿名で表記しているとはいえ,「M」「N」が本件日日記事において「百人斬り競争」を行ったと報じられていたこと及び南京裁判で死刑に処せられたことを具体的に摘示しており,本件日日記事に掲載され,南京裁判で処刑された「M」「N」は両少尉以外にいないものとみられるから,この程度の記載であっても,両少尉を十分特定し得るものと認められる。

        そして,前記認定事実によれば,本件書籍一ないし三《「中国の旅」,「南京への道」,「南京大虐殺否定論13のウソ」》においては,いずれも,婉曲的な表現や,基礎事実からの推論の形式による論者の個人的な一見解の体裁を採りつつも,結論的に,両少尉が,上官から,100人の中国人を先に殺した方に賞を出すという殺人ゲームをけしかけられ,「百人斬り」「百五十人斬り」という殺人競争として実行に移し,捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる「据えもの斬り」にするなどして殺害し,その結果,南京裁判において死刑に処せられたといった事実の摘示がなされている(以下,当該事実の摘示を「本件事実摘示」という。)と認められるところ,両少尉が,「百人斬り」と称される殺人競争において,捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる「据えもの斬り」にするなどして殺害したとの事実(以下「本件摘示事実」という。)は,いかに戦争中に行われた行為であるとはいえ,両少尉が戦闘行為を超えた残虐な行為を行った人物であるとの印象を与えるものであり,両少尉の社会的評価を低下させる重大な事実であるといえる。

        また,「南京への道」のうち,番号二の2,同二の3の記事(*)を掲載したもの及び「南京大虐殺否定論13のウソ」においては,両少尉が,前記「百人斬り」競争に関し,その遺書等において,向井少尉が「野田君が,新聞記者に言ったことが記事になり」と記載しているのに対し,野田少尉が「向井君の冗談から百人斬り競争の記事が出て」と記載して,互いに相反する事実を述べていることに対し,「一種なすり合いをしている。」として責任のなすり合いをしている旨の論評(以下「本件論評」という。)をしているが,両少尉が死刑に処せられるに当たり,その遺書等において,互いに責任のなすり合いをしたか否かという点は,両少尉の社会的評価を低下させるものであるといえる。

        もっとも,本件各書籍は,両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり,問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は,既に,日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべきものであるから,当該表現行為の違法性については,前記アで述べた基準に従って,慎重に判断すべきであるといえる。
      • ウ そこで,次に,本件各書籍における前記イで述べた本件摘示事実及び本件論評の基礎事実が,その重要な部分について一見して明白に虚偽であるといえるか否かについて検討する。
        • (ア) 本件摘示事実について
          • 原告らは,そもそもいわゆる「百人斬り競争」を報じた本件日日記事自体が,浅海記者ら新聞記者の創作記事であり,虚偽である旨主張する。

            そこで,検討するに,本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ,南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容,南京攻略戦における新聞報道の過熱状況,軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると,上記一連の記事は,一般論としては,そもそも国民の戦意高揚のため,その内容に,虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして,前記認定のとおり,田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば,冨山大隊は,句容付近までは進軍したものの,句容に入城しなかった可能性もあること,昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は,百人斬り競争の話が冗談であり,それが記事になった旨を言明した旨陳述していること,さらには,南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の職務上の地位,日本刀の性能及び殺傷能力等に照らしても,両少尉が,本件日日記事にある「百人斬り競争」をその記事の内容のとおりに実行したかどうかについては,疑問の余地がないわけではない。

            しかしながら,前記認定事実によれば,
            • ① 本件日日記事第四報(*)に掲載された写真を撮影した佐藤記者は,本件日日記事の執筆自体には関与していないところ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事(*)以来,当法廷における証言に至るまで,両少尉から直接「百人斬り競争」を始める旨の話を聞いたと一貫して供述しており,この供述は,当時の従軍メモを基に記憶喚起されたものである点にかんがみても,直ちにその信用性を否定し難いものであること,
            • ② 本件日日記事を発信したとされる浅海・鈴木両記者も,極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来(*)(**),自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事の内容が真実である旨一貫して供述していること,
            • ③ 両少尉自身も,その遺書等(*)において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べていることなどに照らすと,少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。
                      
            また,前記認定事実によれば,昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(*)には,野田少尉から中村碩郎あての手紙のことが記事として取り上げられ,その記事の中で野田少尉が「百人斬り競争」を認めるかのような文章を送ったことが掲載されていること,野田少尉が昭和13年3月に一時帰国した際に,鹿児島の地方紙や全国紙の鹿児島地方版は,野田少尉を「百人斬り競争」の勇士として取り上げ,「百人斬り競争」を認める旨の野田少尉のコメントが掲載され,野田少尉自身が鹿児島で講演会も行っていることなどが認められ,少なくとも野田少尉は,本件日日記事の報道後,「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる。

            もっとも,原告らは,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されて前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったと主張し,南京軍事裁判における両少尉の弁明書面や南京軍事裁判における冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。しかしながら,前記認定事実によれば,両少尉の弁明書面や冨山大隊長の証明書は,いずれも南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり,この点に関して南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていないこと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,雛隊しているのであれば,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然その旨の記載があるはずであるにもかかわらず,そのような記載が見当たらないこと,犬飼総一郎の手記には,向井少尉の負傷の話を聞いた旨の記載がなされているものの,その具体的な内容は定かではないことなどに照らすと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるに足りないというべきである。

            また,原告らは,紫金山の攻撃については,歩兵第三十三連隊の地域であり,両少尉とも紫金山へは行っていないと主張する。しかしながら,前記認定のとおり,冨山大隊は,草場旅団を中心とする追撃隊に加わり,先発隊として活動していたのであって,その行軍経路には不明なところがあるものの,第九連隊第一大隊の救援のため,少なくとも紫金山南麓において活動を展開していたと認められ,紫金山南麓においては,比較的激しい戦闘も行われていたようであって,本件日日記事第四報の「中山陵を眼下に見下す紫金山」なる場所に誤りがないとは限らないが,両少尉の所属する冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認められない。

            さらに,原告らは,向井少尉が,昭和21年から22年ころにかけて,東京裁判法廷において,米国パーキンソン検事から尋問を受け,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となった旨主張する。しかしながら,向井少尉の不起訴理由を明示した証拠は何ら提出されておらず,また,パーキンソン検事が向井少尉に対して,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。」と述べたことを裏付ける客観的な証拠も何ら存在しないのであって,その処分内容及び処分理由は不明であるというほかなく,仮に向井少尉が不起訴であったとしても,東京裁判がいわゆるA級戦犯に対する審判を行ったものであることからすると,A級戦犯に相当しないと見られる向井少尉の行為が,東京裁判で取り上げられなかったからといって,当然に事実無根とされたものとまでは認められないというべきである。

            以上によれば,少なくとも,本件日日記事は,両少尉が浅海記者ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載されたものであり,その報道後,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言を行っていたことも窺われるのであるから,連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については,虚偽,誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの,両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと目体が,何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。
          • また,原告らは,被告本多において両少尉が捕虜を'惨殺したことの論拠とする志々目彰らの著述内容等が信用できず,本件摘示事実における捕虜斬殺の点が虚偽である旨主張する。

            そこで検討するに,前記21ナ(エ)(*)で認定したとおり,志々目彰は,小学校時代に野田少尉の講演を聞き,その中で,野田少尉が,「百人斬り競争」について,そのほとんどが白兵戦ではなく捕虜を斬ったものである旨語ったところを聞いたとして,野田少尉による「百人斬り」のほとんどが捕虜の斬殺であった旨を月刊誌において述べていることが認められるが,そもそも,志々目彰が野田少尉の話を聞いたというのが小学生時であり,その後月刊誌にその話を掲載したのが30余年を経過した時点であることに照らすと,果たしてその記憶が正確なのか問題がないわけではない。

            また,前記2(1)ナ(オ)(*)で認定したとおり,志々目彰と同じ小学校で野田少尉の話を聞いたとするBは,百人斬ったという話や捕虜を斬ったという話を聞いたことがない旨陳述しており,その他,別機会に野田少尉の話を聞いたことがあるとする複数の者から,志々目彰の著述内容を弾劾する陳述内容の書証が複数提出されているところである。

            しかし,他方,前記2(1)ナ(オ)(*)で認定したとおり,志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるKも,志々目彰と一緒の機会に,野田少尉から,百人という多人数ではないが,逃走する捕虜をみせしめ処罰のために斬殺したという話を聞いた旨述べていることも認められ,Aが野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることにかんがみれば,殊更虚偽を述べたものとも考え難く,少なくとも,当時,野田少尉が,志々目彰やAの在校する小学校において,捕虜を斬ったという話をしたという限度においては,両名の記憶が一致しているといえる。

            また,当時野田少尉を教官として同少尉と一緒に従軍していたという望月五三郎は,前記2(1)ナ(コ)(*)のとおり,その著作物において,野田少尉と向井少尉の百人斬り競争がエスカレートして,奪い合いをしながら農民を斬殺した状況を述べており,その真偽は定かでないというほかないが,これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しないのである。

            これらの点にかんがみると,志々目彰の上記著述内容を一概に虚偽であるということはできない。

            なお,被告本多は,「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」においては,本件摘示事実の推論根拠として,昭和12年12月ころ,○(さんずいに栗)水において,日本軍将校により,14人の中国人男性が見せしめとして処刑された場面に遭遇した旨の襲其甫の話や,日本刀で自ら「捕虜据えもの斬り」を行ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も,客観的資料に裏付けられているものではなく,その真偽のほどは定かではないというほかないが,自身の実体験に基づく話として具体性,迫真性を有するものといえ,これらを直ちに虚偽であるとまではいうことはできない。
          • さらに,「百人斬り競争」の話の真否に関しては,前記2(1)ト(*)で認定したものも含めて,現在に至るまで,肯定,否定の見解が交錯し,様々な著述がなされており,その歴史的事実としての評価は,未だ,定まっていない状況にあると考えられる。
          • 以上の諸点に照らすと,本件摘示事実が,一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない。
        • (イ) 本件論評について

          原告らは,本件論評が虚偽である旨主張する。

          しかしながら,本件論評においては,両少尉が,前記「百人斬り」競争に関し,その遺書等において,向井少尉が「野田君が,新聞記者に言ったことが記事になり」と記載しているのに対し,野田少尉が「向井君の冗談から百人斬り競争の記事が出て」と記載して,互いに相反する事実を述べていることが重要な基礎事実となっているというべきところ,前記認定によれば,その前提事実自体は真実であると認められる。そして,そのような相反する事実を述べている状態を「一種のなすり合いである」と評価し,そのように論評したとしても,これが正鵠を射たものとまでいえるかどうかはともかくとして,これを直ちに虚偽であるとか,論評の範囲を逸脱したものとまでいうことはできない。

          したがって,原告らの上記主張は採用することができない。
        • (ウ) 以上述べたところによれば,その余の点について検討するまでもなく,本件事実摘示及び本件論評により,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害された旨の原告らの主張には理由がない。
    • (5) したがって,本件各書籍によって,両少尉の名誉を毀損され,原告らの固有の名誉及びプライバシー権を侵害され,また,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を違法に侵害されたとの原告らの主張には,いずれも理由がなく,被告朝日,被告柏及び被告本多に対する各請求は認められない。
  1. 争点(5)及び(7)について
    • (1) 

      原告らは,被告毎日において,本件日日記事が虚報であることが明らかになったにもかかわらず,これを訂正しないという不作為により,両少尉の名誉を侵害し,また,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を違法に侵害した旨主張する。

      しかしながら,前記2(4)ウ(ア)(*)で検討したところによれば,現時点において,本件日日記事が虚偽であることが明らかになったとまで認めることはできないというべきである。したがって,その余の点について検討するまでもなく,原告らの上記主張に理由はなく,被告毎日に対する請求は認められないというべきである。
    • (2) 

      さらに,付言すると,前記争いのない事実等によれば,本件日日記事は昭和12年11月30日から同年12月13日までの間,4回掲載されたものであって,本訴提起の時点である平成15年4月28日において,60年余を経過していることが認められ,本件においては,民法724条後段の除斥期間が経過しているという点においても,原告らの被告毎日に対する請求は理由がないというべきである。

      この点,原告らは,被告毎日において,本件日日記事が虚報であり,それを訂正しなかったことによって両少尉が軍事裁判で銃殺刑に処せられたという先行行為が存在していたにもかかわらず,被告本多が「百人斬り競争」の記事を掲載して以降,現在に至るまで,自社の虚報を正さず,放置し続けており,かかる不作為によって,本件各書籍を始め,「百人斬り競争」を事実とする多数の書籍により,両少尉及び原告らに対する名誉毀損状態が生じているとし,本件日日記事の発行自体を問題としているのではないとして,被告毎日による不作為の違法行為が現在まで継続している旨主張する。

      確かに,作為の不法行為が継続して行われ,そのために損害も継続して発生する場合であれば,損害が継続発生する限り日々新しい不法行為に基づく損害として,各損害を知ったときから別個に消滅時効が進行することとの均衡上,日々新しい不法行為の各時点から,民法724条後段の除斥期間も進行するものと解される。しかしながら,先行する特定の作為が違法であることを前提として,その違法状態を是正しないことをもって不法行為の内容とする不作為の継続的不法行為についても,これと同様に解するとなると,実質的には先行する作為の違法行為を主張しているものと解されるにもかかわらず,請求者において不作為の継続的不法行為という形式を採りさえすれば,民法724条後段の除斥期間が及ばないこととなり,不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の趣旨を没却することとなる。

      それゆえ,不作為の継続的不法行為であっても,先行する特定の作為が違法であることを前提として,その違法状態を是正しないことをもって不法行為の内容とする場合には,先行する特定の作為が違法であるとされて初めて不法行為の要件を充足するものであるから,これを実質的にみれば,先行する特定の作為の違法を理由とする作為の主張を含むものとみざるを得ないのであって,この場合,当該作為の終了した日をもって同条後段の除斥期間の起算点と解するのが相当である。

      本件についてこれをみるに,原告ら主張に係る不作為の継続的不法行為は,被告毎日による本件日日記事の発表を先行行為としている上,本件日日記事が虚報であり,当時においても,被告毎日において虚報を報道したこと自体を違法行為であるとし,先行する作為が違法であることを前提として,その違法状態を是正しないことをもって不法行為の内容としているものと認められるから,当該作為である本件日日記事の発表が終了した日をもって同条後段の除斥期間の起算点とすべきである。そして,本件日日記事の発表は,遅くとも昭和12年12月13日に終了しているから,同日から20年をはるかに超えた本訴提起の時点においては,同条後段の除斥期間を経過したものであると認められる。
    • (3) 

      したがって,仮に,原告らの被告毎日に対する不法行為に基づく損害賠償請求権が存在していたとしても,同請求権は,除斥期間を経過したことによって消滅したものと認められる。
    第4 結論 


以上のとおりであって,原告らの請求は,その余の点について判断するまでもなく,いずれも理由がないから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第6部

裁判長裁判官 土肥章大
裁判官 田中寿生
裁判官 古市文孝
| ファイルリスト | 判決文の構成 | page top |

地裁判決の報告と解説

地裁判決の報告と解説



 8月23日に言い渡された一審判決について,以下に報告するとともに,その判断構造を解説します。


 名誉毀損とは,公然と事実を摘示して他人の名誉を毀損することを言います。ここで「公然」とは「不特定ないし多数に対し」という意味であり,「事実の摘示」とは「事実を述べること」であって,一定の事実を前提とした評価を述べることである「論評」とは区別される概念です。また,「名誉を毀損する」とは,その人に対する「社会的評価を低下させる」行為であると理解されています。
 そこで本件では,まず問題の記述部分が「事実の摘示」なのか「論評」かが争点となり,次にその記述が他人の社会的評価を低下させたのかどうかが問題となります。そして社会的評価を低下させたなら,次にそのことが不法行為を構成するか,すなわち名誉毀損になるのかどうかが争点となるのです。
 以下要点について説明します。


1) 「事実の摘示」と「論評」



 まず第一に,本多さんが「中国の旅」,「南京への道」や「南京大虐殺否定論13のウソ」で記載した「据えもの百人斬り」について,これが「事実の摘示」に該当するのかあるいは「論評」かが問題となります。これがもし「事実の摘示」なら,当該「事実」が社会的評価を低下させる内容かどうかが問題となり,「論評」だとするならそのような論評が「公正な論評」と言えるかどうかが問題となります。
 この点今回の東京地裁判決は,本多さんの記述についてはこれを「論評」ではなく「事実の摘示」であると認定しました。すなわちこれらの書籍について,両少尉が殺人競争としての「百人斬り競争」を実行し,しかもその実態が「据えもの斬り競争」だとの事実を摘示したものと認定しました。
 ただし,二人の少尉がその遺書において互いに《相手が冗談で言ったことから記事になった》と述べている点について「一種なすり合いをしている」と本多さんが記載した点については,これを「論評」であると認定しています。


2) 社会的評価の低下



 判決は,本件の記述が以上のような「事実の摘示」と「論評」であることを前提に,これらの記述は二人の少尉の「社会的評価を低下させる」ものであることを認めました。
 これはある意味当然のことですが,しかし特に次のように述べている点にも留意すべきでしょう。


「本件各書籍は,両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり,
問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は,既に,日中戦争時における日本兵による
中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべきものである」


 すなわち判決は,本件で争いになっている内容がすでに「歴史的」な問題となっていることをここで特に指摘しているのです。


3) 両少尉自身に対する名誉毀損



 判決は,本件の記述によって「両少尉」の社会的評価が低下させられたと認定しました。しかし,死んだ人の社会的評価が低下させられたからと言って,遺族が損害賠償を請求できるものでしょうか。
 この点について判決は,「名誉」というのはその人の人格に由来する「人格権」であり,これはその本人だけが行使することのできる「一身専属権」だから,死んだ人には「人格権」が無くなるので,死者の名誉も原則としてそれ自体としては法的に保護されないものと認定しました。
 もっとも,例外的に法律が死者の人格権を保護している場合は別であり,現に著作権法60条・116条などは著作者が死んだ後も「著作者人格権」を50年間にかぎって保護すべきものと定めていますが,このような例外的規程がない限りは,死者の名誉それ自体は法的保護の対象ではないとしたのです。
 このような判断は,これまでの判例及び学説の一般に認めてきたところであって,普遍性のある妥当な判断であると解されます。


4) 敬愛追慕の情



 それでは,死んだ人の名誉は一切保護されないのかと言えば,もちろんそんなことはありません。
 代表的な判例としての「落日燃ゆ」事件東京地裁・東京高裁判決は,「死者の名誉を毀損する行為は,虚偽虚妄を以てその名誉毀損がされた場合にかぎり違法行為となる」とした上で,そのような死者に対する名誉の毀損のために,遺族が死者に対して有する「敬愛追慕の情」を,「社会的に妥当な受忍の限度を超えて侵害した」場合において,初めて不法行為が成立するものと判示しました。
 本判決も,このような先例を踏襲し,以下のように規範を定立しています。ここがこの判決のもっとも重要なポイントですから,よく注意しておいて下さい。


「死者に対する遺族の敬愛追慕の情も,一種の人格的利益であり,一定の場合にこれを保護すべき
ものであるから,その侵害行為は不法行為を構成する場合があるものというべきである。もっとも,
一般に,死者に対する遺族の敬愛追慕の情は,死の直後に最も強く,その後,ときの経過とともに
少しずつ軽減していくものであると認め得るところであり,他面,死者に関する事実も,ときの経過と
ともにいわば歴史的事実へと移行していくものともいえる。そして,歴史的事実については,その
有無や内容についてしばしば論争の対象とされ,各時代によって様々な評価を与えられ得る性格の
ものであるから,たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても,相当年月の経過を経て
これを歴史的事実として取り上げる場合には,歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な
配慮が必要となると解される。
 それゆえ,そのような歴史的事実に関する表現行為については,当該表現行為時において,死者が
生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分に
ついて,一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合であって,なおかつ,
被侵害利益の内容,問題となっている表現の内容や性格,それを巡る論争の推移など諸般の事情を
総合的に考慮した上,当該表現行為によって遺族の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したものと
認められる場合に初めて,当該表現行為を違法と評価すべきである。」


 やや難しいですが,要するに死者に対する記述が遺族に対して不法行為を構成するためには,以下の要件が必要になるとしたのです。


  1. 一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえて社会的評価を低下させる「事実の摘示」「論評」をしたこと
  2. 当該「事実の摘示」「論評」が,遺族の死者に対する「敬愛追慕の情」を,受忍しがたい程度にまで侵害したこと


 言うまでもなく,この2点についての立証責任を負うのは不法行為の成立を主張する原告側となります。


 判決がこのような基準を定立したのは,要するに憲法21条が規定する「表現の自由」と「遺族の死者に対する敬愛追慕の情」の保護とのバランスです。
 すなわち,前述のように死者自身の名誉は法的保護の対象とされず,保護の対象とすべきなのは遺族が死者のことを大切に思う気持ちです。これ自体は,法的保護の対象とされなければなりません。


 しかしながら,このような気持ちはその人が死んだ直後がもっとも強いものであり,通常は時間の経過とともにこうした気持ちも薄れていきます。一方で,人が死んだ後のことはむしろ「歴史的事実」となっていくものであり,このような「歴史的事実」については,むしろ自由な言論と事実の探求が優先されなくてはなりません。
 まして,本件のように南京大虐殺にかかわる事柄は,名誉毀損の圧力の元で事実に対する自由な探求を阻害させるよりも,事実を明らかにしていくための「表現の自由」の方が優位に立っていくものと解すべきことになるのです。
 そこで,このような歴史的事実に対する「表現の自由」の要請と,遺族が死者を大切に思う気持ちとの利益を考慮した結果,死者に対する表現は原則的には表現の自由の要請が優先されるべきだが,明らかな虚偽であるということがわかっているにもかかわらずあえてこれを摘示し,しかもその摘示内容が遺族にとって一般的に「受忍」できないほどの酷いレベルにいたっていた場合には,これを不法行為として認めることにするという基準を示したのです。
 いかがでしょう。遺族の心情の保護と表現の自由の要請とのバランスに配慮した,極めてわかりやすい基準ではないでしょうか。


5) 死者に対する名誉毀損と刑法の規定



 以上のような裁判所の判断の枠組みは,名誉毀損に関する実定法の規定にも合致するものです。
 すなわち,本件では民事上の不法行為責任が問われているのですが,実は民法には名誉毀損の成否を直接規定する法律はありません。それは実は刑法にあるのです。


「刑法第230条1項 公然と事実を摘示し,人の名誉を毀損した者は,その事実の有無に
かかわらず,三年以下の懲役若しくは禁固または五十万円以下の罰金に処する」
「刑法第230条2項 死者の名誉を毀損した者は,虚偽の事実を摘示することによってした
場合でなければ,罰しない」


 1項が通常の名誉毀損であり,2項が死者の名誉毀損です。
 一見して明らかなとおり,通常の名誉毀損の場合には,「その事実の有無にかかわらず」名誉毀損が成立するとされており,摘示した事実が「虚偽であること」は名誉毀損成立の要件とされていません。したがって,問題の記述が「本当」であったとしても,形式的には名誉毀損が成立するのです(ただし,公共の利害に関することで公益目的がある場合,当該事実について真実性・相当性を要件として免責される。刑法第230条の2第1項)。
 しかしながら死者の名誉毀損の場合には,摘示した事実が「虚偽」でなければならないことを,まさに刑法がその要件として掲げています。この規定の存在との比較においても,問題となる事実の摘示が「違法である」と主張する原告の側が,その「事実」の虚偽であることを立証しなければならないというのは,法律学の判例・学説では当然の前提であると考えられています。


 一部右翼の側の反論で,この判決が「一見して明白に虚偽であること」という基準を確立しているのが不当だとの意見がありました。虚偽であることを原告に立証させるのでは負担が重すぎるというのです。
 しかしながら,不法行為の場合にはその成立を主張する側が立証責任を負うのは,名誉毀損にかぎらずそれが原則とされています。まして,本件のように死者の名誉毀損に関することであれば,上記の刑法の規定の仕方に照らしてもこれは当然の解釈です。実質的に言っても,裁判所が指摘しているように,死者の名誉に関しては「歴史的事実探求の自由」の方が優位に立つと解するべきです。
 だいたい,死者の名誉毀損について判例・学説が上記のように判断しているというのは,始めからわかっていたことのはずです。わかっていて裁判を起こしてきながら,いざ負けるとこの基準が不当だなどというのですから,これほど身勝手な話はありません。


6) 本件における事実判断の枠組み



 判決は前述のように,「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合」という点を,不法行為成立の大きな要件としました。したがって,本多さんの記述が不法行為を構成して原告らの請求が認められるかどうかは,すべてこの「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず,あえてこれを摘示した場合」に該当するかどうかに従って判断すればいいことになります。
 そこで判決は,本件での争点についても,「据えもの百人斬り競争」の事実が「一見して明白に虚偽」だと言えるかどうかだけについて判断を行いました。そして,原告被告の双方から提出された幾多の資料を検討した結果として,「据えもの百人斬り競争」の事実は「一見して明白に虚偽だとまでは言えない」と判断して原告らの請求を棄却したのです。


 重要なのは,このような裁判所の判断の枠組みです。一部では,「一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない」と判示した判決の文言を捉えて,《限りなく虚偽に近いけれども『一見して明白に虚偽』とまでは言えない》と裁判所が認定したかのように主張する言説が見られました。しかし,これは完全なる間違いです。この争点についてどちらの主張を採用するかを決めるためには,「一見して明白に虚偽」であるかどうかだけを判断すればいいのですから,裁判所は必要な限りにおいて判断したというだけに過ぎません。この判示は,「一見して明白に虚偽」という要件を原告の主張がクリアしていないことを指摘しただけのものであって,それ以上に《限りなく虚偽に近いけれども》などといった含意など存在していないのです。「据えもの百人斬り」の事実が怪しいものであるかのように裁判所が認定したものではありません。この点を誤解しないようにして下さい。


 もっとも,裁判を離れた歴史論争としては,まさに本件の論争については「据えもの百人斬り」の事実の有無が争点になってきたわけで,裁判所もそのことはよくわかっていたはずです。そして本件では,あの望月五三郎氏の手記のような決定的な目撃証言まで今回の訴訟によって発掘されました。その意味では,裁判所は「据えもの百人斬り」の事実があったものと認定することは十分可能だったはずでした。
 しかし裁判所は,そこまで踏み込んだ判断までは示さずに,あくまで裁判上の争点で必要な範囲においてのみ言及するに留まったものです。「踏み込んだ判断」でなかった点は残念でしたが,事案が事案だけに,裁判所が慎重な判断に固執して躊躇した面があったのかも知れません。この点は,私たちの今後の課題というべきだと思います。


7) 本件における事実認定



 以上のように,本件で裁判所は,「百人斬り競争」に関する一連の論争について,それが「一見して明白に虚偽」と言えるかどうかに絞って判断を行いました。その判断に関しては,3点ほどのポイントが指摘ができると思います。


 まず一つは,原告被告双方から提出された主張や証拠について,裁判所がその一つ一つを引用しあるいは要約をしているということです。しかもこれは,引用ないしは要約をしてあるだけで,それ以上に踏み込んだ検討をあまりしていません。そのため,判決書の46頁(「2 争点(2)について」)から107頁(「2(2)」の前まで)まで,ひたすら証拠の引用と要旨の紹介がしてあるだけという,通常の判決書の体裁からするとかなり奇異な構成となっています。
 裁判所が,このような通常とは異なる判決を書いた理由は何だったのか。これは推測するしかありませんが,おそらく原告及び原告の支援者に対するメッセージだったのではないかと思います。というのは,皆さんもご承知のとおり,右派の言説は勝手な希望と思い込みだけの場合が多く,事実を直視しようとせず都合の悪いことは無視・黙殺するのが常套手段です。そこで裁判所は,『このような事実を前提として判断したんだ』という前提事実を判決にハッキリ書いておくことで,今回の判決に対する批判に対抗しようとしたのではないでしょうか。この判決を通して読めば,裁判所が偏向判決をしたとか政治的判断をしたとかいった批判が謂われのないものであることを明らかにできるのではないかということです。確かに,双方の主張が整理してまとめてあるだけに,全くの第三者から見ても裁判所の判断の妥当性を容易に検証できる内容となっていると思います。


 第二のポイントは,東京日日新聞の百人斬り報道が記者のでっち上げだとする原告の主張については,これを明確に否定したことです。
 判決は次のように指摘しました。


「少なくとも,本件日日記事は,両少尉が浅海記者ら新聞記者に『百人斬り競争』の話をしたことが
契機となって連載されたものであり,その報道後,野田少尉が『百人斬り競争』を認める発言を行って
いたことも窺われるのであるから,連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については,虚偽,
誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの,両少尉が『百人斬り競争』を行ったこと
自体が,何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である」


 控えめな言い方をしていますが,両少尉の発言が「百人斬り競争」記事の契機となったことを認めています。逆に言えば,両少尉が南京軍事法廷で行った《記者によるでっち上げ》という弁明が虚偽であったことを,今回の判決は明確に認定したのです。まあ当然といえば当然ですが,この点は注目されてもよいと思います。


 第三に,据えもの百人斬り競争の事実についても,裁判所はその信用性を認めた判断をしたことです。
 前述のように裁判所の判断枠組みは「一見して明白に虚偽」と言えるかどうかとなっていますが,判決は志々目彰証言とともにその同期生のK氏も「逃走する捕虜を見せしめ処罰のために斬殺したという話を聞いている」ところ,このK氏は「野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることにかんがみれば,殊更虚偽を述べたものとも考えがたく」として,志々目証言が信用できるものと認定しました。
 また,問題の望月五三郎証言(「私の支那事変」)について「野田少尉と向井少尉の百人斬り競争がエスカレートして,奪い合いをしながら農民を斬殺した状況を述べており,その真偽は定かでないというほかないが,これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」としています。さらに鵜野晋太郎証言については「日本刀で自ら『捕虜据えもの斬り』を行った」件について,同じく「客観的資料に裏付けられているものではなく,その真偽のほどは定かではないというほかないが,自身の実体験に基づく話として具体性,迫真性を有する」ものと判示しています。
 戦場でのこのような違法行為にいちいち「客観的資料」などあるはずがない訳ですが,それを除けば表現は控えめでも実際上は一連の事実についての信用性を認定しているものと言ってよいでしょう。特に望月五三郎氏については,私家版としてひっそりと1985年に発行されていたこの回想録にことさら虚偽を記述する理由など考えがたく,自身の体験を記録しておくという純粋な動機に基づく記録であるとしか解されず,したがって自分の体験を忠実に記載したものと捉えるのが相当です。その意味で,まさに極めて高い信頼性を有する資料であると言うべきでしょう。この点,やはり裁判所は慎重表現に終始しているのが残念です。


 以上のようにして,結局「据えもの百人斬り競争」との指摘が「一見明白にして虚偽」だとは言えないとして裁判所は原告らの請求を棄却しました。「一見して明白に虚偽」だと言えない以上は,遺族の「敬愛追慕の情」を受忍し難いまでに侵害したかどうかについて認定するまでもなく,原告らの請求には理由がないとしたのです。


8) 本件での「一種のなすり合い」という「論評」に関する判断



 本多さんがその著作で指摘した向井少尉と野田少尉との「なすり合い」に関しては,裁判所は以下のように指摘して公正な論評の範囲内だと認定しました。


「両少尉が,前記「百人斬り」競争に関し,その遺書等において,向井少尉が『野田君が,新聞記者に
言ったことが記事になり』と記載しているのに対し,野田少尉が『向井君の冗談から百人斬り競争の
記事が出て』と記載して,互いに相反する事実を述べていることが重要な基礎事実となっているという
べきところ,前記認定によれば,その前提事実自体は真実であると認められる。そして,そのような
相反する事実を述べている状態を『一種のなすり合いである』と評価し,そのように論評したとしても,
これが正鵠を射たものとまでいえるかどうかはともかくとして,これを直ちに虚偽であるとか,論評の
範囲を逸脱したものとまでいうことはできない」


 これもまた,当然の判断です。


9) 佐藤振壽氏について



 最後に,右翼のサイトの中には「佐藤振壽氏が百人斬りは虚偽だと証言したのに何故…」という記述が見られましたので,その点について補足しておきます。
 佐藤振壽氏は,二人の少尉の写真を撮ったカメラマンであり,当時確かに両少尉と話をしています。その話は,両少尉自身が新聞記者に対し二人が百人斬り競争をしていたことを説明していたというもので,上記の裁判所の認定にも沿うものでした。つまり佐藤カメラマンの証言によっても,両少尉が南京軍事法廷で述べていた言い訳が虚偽であったことが証明されたことになります。この意味で,裁判所は佐藤カメラマンの証言を正しいものとして採用しているのです。
 けれども,佐藤カメラマンは両少尉から逆に「百人斬りなどやっていない」とは一言も聞いていません。両少尉の行軍に同行して目撃していたわけでもありません。両少尉が百人斬りをやったかどうかについての佐藤氏の証言は,単なる「推測」に過ぎないのです。一般に証人尋問においては,証言者が直接体験した事実は重視されますが,証言者の述べる「推測」になどほとんど証拠価値はありません。したがって,佐藤振壽氏がいかに「百人斬りはなかった」と自分の推測を述べたところで,そのような推測に裁判所が左右される謂われはどこにもないのです。
 それでも,佐藤氏が述べる「推測」によって事実認定せよというのなら,同じく両少尉に会って話を聞いて記事にした浅海一男記者は「百人斬りはあった」と推測しているわけですから,浅海記者の「推測」によってそれこそ「百人斬りの事実はあった」と認定すべきだということになるのです。右翼の主張がどれほど馬鹿げたものか,これだけでも明らかだと言うべきではないでしょうか。


 ちなみに佐藤カメラマンの証人尋問に際し,実は佐藤氏は「被告側の証人」だということをこのサイトでも指摘しておきました。そこで,現実の判決書(第3・2・(4)・ウ・(ア)・a)を見て下さい。東京日日新聞の百人斬り競争の報道が記者の創作であるという原告らの主張に対し,それを否定する根拠としてこの佐藤振壽氏の証言が援用されています。つまり裁判所は,被告側の主張を認めるために佐藤振壽氏の証言を使ったのです。まさに指摘しておいたとおり,佐藤振壽カメラマンは被告側に有利な証人だったのでした。


10) まとめ



 以上が本件に関する裁判所の判断です。
 原告らの請求をすべて棄却した点で全面勝訴判決であり,判決にも引用された証拠に依拠して実証的に原告らの請求を棄却したもので,当然の判断とはいえまさに「事実」の勝利だと評してよいでしょう。すでに決着が付いていた問題を蒸し返し,誤った歴史認識を広げようとする策謀が破綻したものと言ってよいと思います。その上で,もう一つ大切なことを指摘しなくてはなりません。
 上記の解説において,判決が定立した本件の判断基準に関連して,『本件のような南京大虐殺にかかわることなどは,名誉毀損の圧力の元で事実に対する自由な探求を阻害させるよりも,事実を明らかにしていくための「表現の自由」の方が優位に立っていくと解すべきことになるのです』と記載しました。実は,この点が本件との関係ではもっとも重要なことだと思います。
 東史郎裁判,本件の百人斬り訴訟,そして沖縄の集団自決事件に関する岩波書店,大江健三郎氏に対する訴訟など,右翼勢力は相次いで名誉毀損訴訟を起こしています。しかしまさに裁判所が指摘しているように,このような問題は事実と資料に基づいて歴史論争によって決着すべきなのではないでしょうか。自らに都合の悪い言説を実力でもって排除しようとする企みに対しては,大きな危惧感を感じます。
 もっとも,この訴訟がなければ望月五三郎氏の手記のような決定的な証拠は出てこなかったでしょう。その意味では,本多さんも指摘しておられるように感謝すべき側面もあったのかも知れません。

【】
改めて問う、「百人斬り」は真実か 【市民記者新聞JANJAN】
http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/240.html
投稿者 木田貴常 日時 2005 年 10 月 05 日 13:59:50: RlhpPT16qKgB2

市民記者新聞JANJAN より 柴田忠 氏の投稿を 転載


改めて問う、「百人斬り」は真実か 2005/10/05
http://www.janjan.jp/world/0510/0510033324/1.php
--------------------------------------------------------------------------------

 本年8月、僕は、本紙に改めて問う、「百人斬り」は真実か http://www.janjan.jp/media/0508/0508291648/1.php という記事を投稿し、掲載された。

 その記事の動機となったのは、8月24日、産経新聞の「『百人斬り』判決 史実の誤り広げかねない」という社説であり、僕はその中で、自分なりの意見として、

 1.この「百人斬り」の話を浅海記者に持ちかけたのは、両少尉ではないだろうか。

 2.ただ、その「百人斬り」が真実か否か、という点について見れば、これも佐藤カメラマンが言う通り「嘘っぱちを上手く書いたな」というのが、真相ではないか。

 という2点を挙げ、結論として、「今後は、裁判所の形式的な判断ではなく、『百人斬り』の真実が明かされることに期待したい」と書いた。

 また、その中で、人民網日文版にあった本多勝一氏の「これを突破口として南京大虐殺を全面的に否認し、さらには日本による中国侵略をも否認しようとするものだ」というコメントに対して、

 「常軌を逸した拡大解釈のように見えてならない」

 と感想を述べた。

 ただ、実は、その段階では、僕は、その裁判の判決文に目を通していた訳ではない。僕自身、裁判の全体像が分かっていないことを、実は大変、気にしていたのだが、先月になって、インターネットのいくつかのサイトで、その時の判決文がネット公開されるに至った。その1つが、読める判決「百人斬り」- Hypertext 東京地裁判決(8/23) http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/file-list.htm だ。

 この裁判の詳細については、こうしたサイトに詳しく書かれているので、そちらを参照してもらいたい。ここでは、そのサイトを紹介すると共に、今回、僕が新たに判決文を眺めた上での感想を、簡単に述べたいと思う。

 判決文を読んで、改めて思った第1点は、こうした意見は実はネットでも数多く見られるものだが、遺族側が裁判のやり方として、昭和12年当時の東京日日新聞、現毎日新聞が掲載した4回にわたる新聞記事を、いわゆる「虚偽報道」として、それによる「報道被害」という形での裁判を行ったことは、やはり間違いではなかったかと言うことである。

 前回の指摘でも、この「百人斬り」の話を浅海記者に持ちかけたのは、両少尉ではないだろうか、と書いたが、判決文を読めば読むほど、2人の少尉の言葉には矛盾が多いし、原告側の出した証拠も否定されている。「報道被害」「冤罪」という裁判の進め方には無理があるように思うのは、僕だけではないだろう。

 また、第2点目は、この裁判によって明らかにされた「百人斬り」の実像である。

 本多氏は「私のすべての報道は事実に基づいて書かれている」と語り、この「百人斬り」は、白兵戦での「百人斬り」ではなく、「通常、軍刀等を用いて座している者等を斬ることを意味する」「据えもの百人斬り」であるとする。一方、最初の記事である東京日日新聞には、「据えもの百人斬り」とは書かれていない。それを含めると、可能性は3つある。

 1つは、この報道自体が「ホラ話」という場合だ。この「ホラ話」の中にも2つあり、1つは、「記者の創作」の場合。そして、もう1つが、「2人が創作したホラ話」の場合である。

 2つ目は、この記事の「百人斬り」=「白兵戦での百人斬り」が真実である場合だ。この可能性も捨てることはできない。

 最後、3つ目が、この「百人斬り」が「据えもの百人斬り」である場合だが、僕は、この「据えもの百人斬り」にも、少なくとも3つの可能性があると考える。その1は、戦場で戦う意志のない敵兵を斬った場合、その2は、戦場で戦闘終了後の捕虜を文字通り「据えもの百人斬り」をした場合。残りの1つは、戦場で捕虜や近隣の非戦闘員も集めて虐殺的に「据えもの斬り」を行った場合だ。

 僕が何故、こうした可能性をわざわざ述べるのかと言えば、この裁判の中には、いくつかの重要証言がある。それらを読むと、いろいろな可能性が考えられる。

 例えば、東京日日新聞の鈴木記者。

 「本人たちから"向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった"という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ」

 前述の佐藤カメラマン。

 「"あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか"と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった」

 H氏証言。

 「(野田少尉談)あの話は創作ですよ。中国ではこの話を証拠とするでしょうが、私はやっていないことはやっていないと言います。私に責任があれば、その責任は立派に果たします」

 六車政次郎証言。

「出合い頭に銃剣を構えた敵兵とぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り降ろしていた」

 さらに、志々目彰証言。

 「(戦後の野田少尉の弁)実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片つばしから斬る……百人斬りと評判になったけれども,本当はこうして斬ったものが殆んどだ」

 望月五三郎証言。

 「その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無惨にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聨隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである」

 鵜野晋太郎証言。

 「進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で、立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける」

 証言によりニュアンスも異なり、これらの証言があいまいであるとか、否定する意見もあるが、この裁判では、こうした証言を元にして、本多氏の著作を「記載のとおりの事実を摘示し、又は論評を表明したものである」と認めた。つまり、本多氏の著作を「一見して明白に虚偽であるとまでは認めるに足りない」と判断したのである。

 では、「百人斬り」の真実とは何だったのか。ここからは僕の勝手な想像だが、2人の少尉が百人斬りを目指したことは事実ではないか、と考えるに至った。そして、占領のスピード、さらに当時の中国軍が敗走を続けていたことを考えると、その数の真否は別として、戦場で逃げ遅れた中国兵を次々と殺傷して行ったのが、いわゆる「百人斬り」ではないだろうか。そして、おそらく2人の少尉にとっては、それは純然たる戦闘行為であって、捕虜の虐殺でも、ましてや住民虐殺でもなかっただろう、というのが僕の推測だ。

 また注目すべきは、これも判決文で紹介された、南京軍事法廷での2少尉に死刑判決を与えた理由である。

 「向井敏明及び野田厳(「即野田穀」と表記されている)は、紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し、その結果、野田厳は105名、向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」

 とあり、何故か、ここでは、その場所が「紫金山麓」に限定されている。また、その証拠は、東京日日新聞の記事と、

 「其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり」

 という、そこにあった屍骸である。

 そして南京軍事法廷では、その「百人斬り」の動機を、「花嫁募集」と「殺人競争」であると指摘している。

 おそらく、2少尉にとっては、自分の命がけの戦争での体験を、「花嫁募集」と「殺人競争」という理由で評価されたことが、心残りだったに違いない。

 仮に「百人斬り」の事実が、純然たる「据えもの百人斬り」であるなら、東京日日新聞の記事は、明らかに虚報だろう。ただ、当時の記者たちが、そこに誇張表現や戦意高揚の気分を認めるにしろ、その後においても、その記事を正しかったと言うのであれば、その時点で、記者が矛盾に感じるような違法行為はなかったのではと思うのは、僕だけだろうか。そして、それが「据えもの百人斬り」だとしても、単純に残虐行為とは断言できない、いろいろな可能性が考えられるのではないだろうか。

 19万人にも及ぶ犠牲者の責任を、100数名を惨殺したとされる2人の少尉が、死をもって償った。さらに、彼らは兵士である。純然たる戦闘行為で敵兵を殺すことが、彼らの役目であって、だからこそ、当時の日本は彼らを英雄として扱った。敗戦によって、日本の価値観が変わったにしろ、彼らが日本のために戦場へ行き、成果を上げた、という事実には変わりはない。

 僕は、2人の少尉を日本の残虐性の象徴とする捉え方には疑問を感じる。僕には、2人が、戦場で大多数の兵士と同じように戦争に従事したにもかかわらず、戦後、いきなり南京軍事法廷に連れ出され、大いに迷った、悲しい日本人のように見えてならない。そして、中国への責任問題は別として、それが理解できるのは、日本人しかいないのではないだろうか。

 戦争の総括を中国のためや他国のためだけに行っても、意味はない。数々の証言をそのまま紹介した今回の判決は、僕らに今一度、日本の戦争の真実を考える機会を提供しようとするものではないかと思う。

 (柴田忠)


 次へ  前へ













(私論.私見)