特攻隊能力論



 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和改元/栄和4).6.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、特攻論を確認する。ホームページ「神風」、「ウィキペディア特別攻撃隊」、「神風」の「最初の特攻」、「神風」、「日本民族再興の願い ~ 神風特別攻撃隊」「神風」の「大西瀧治郎中将の苦悩」を転載する。 その他を参照する。本格的に検証し論じるサイトではないので、主として航空特攻に限定することにする。その方が却って分かり易いと思うからである。

 2013.2.27日 れんだいこ拝


【特攻隊の編成と隊員の苦悩考】
 特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)の栄誉を受けることが原則であった。 特攻隊員の間では特攻花と称し、機内に桜ほか日本の花(実際は外来種)を持ち込み、その花を本土(大隅、薩摩半島の岬)から離れる瞬間に投げたり、そのまま胸に抱いて戦場へということがあった。

 日本陸軍の振武寮では、担当者だった倉澤清忠らによって「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた。日本海軍の神風特攻隊は、心構えを厳粛にするため特別扱いはしない、勝手な体当たりの禁止と大西瀧治郎によって決められた。初期には特攻隊員は出撃前にぼた餅やいなり寿司をもらう儀式があったが後に省略されていった。

 日本陸軍の特別攻撃隊は、最初の梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した富嶽隊、万朶隊以外は1944年11月6日陸軍中央は編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けて以来「八紘飛行隊」として編成された。由来は日本書紀(准南子)の八紘をもって家となす(八紘一宇)による。しかし送られた現地で冨岡恭次によって各隊は改名され命名式が行われ終戦まで続けられた。

 陸軍初の特攻部隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの万朶隊は飛行隊長が面接を行い志願を募った。大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した。飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋はその日のうちに罷免された。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。

 大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している。渡邉恒雄二等兵は太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がる事が出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている。

 日本海軍の航空特攻隊は「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称された。名称は猪口力平中佐の発案によるもので、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである。第201航空隊飛行長中島正少佐の証言によれば「かみかぜ」と読む。戦艦の突入による玉砕攻撃も豊田副武によって「海上特攻隊」と命名された。海軍では特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。特攻兵器専門部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められた。坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願し選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。志願した後回天を見せられ特攻の説明がありもし嫌なら原隊へ返すと説明されたという。鈴木英男(桜花要員)によれば必ず死ぬ任務のため強制はしないが志願者がいれば答えてほしいと募集があったという。佐伯正明(桜花要員)によれば一人づつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれたという。湯野川守正(桜花要員)によれば詳細を伏せて必死必中兵器として募集があったという。

 最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明し志願を募ると皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされ一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫びさっと一同の手が上がったと証言するものもいる。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという。

 特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したというが、人選した玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った。

 「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた。 フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという。 クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという。 特攻の志願が募られた際、岩本徹三少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった。杉田庄一上飛曹も特攻に志願したが許可されなかった。 末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命された。田中国義によれば何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという。

 清水芳人によれば海上特攻は否応なしの至上命令であったという。

 特攻の要請を拒否した部隊も存在し、美濃部正少佐は夜間攻撃を大西瀧治郎中将へ説き、美濃部の部隊の特攻不参加を認められ最後まで特攻を出さなかった。また中央が練習機で特攻をやらせようとするとそれに強く反対した。第343海軍航空隊に第五航空艦隊から特攻要請があった際、飛行長志賀淑雄少佐は、行くならば計画した参謀を連れて上のものからと意見し司令がそれに賛同し上申して以降343空には特攻の話がこなくなった。第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長岡嶋清熊少佐は国賊と言われても特攻に反対し自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。

 角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという。

【特攻隊員の構成人数・比率と戦死者数考】
 1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は陸軍202機、海軍333機。戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。

 殆どの特攻隊員は下士官・兵と学徒出陣の士官(将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。そして学徒出陣の士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に幹部候補生・特別幹部候補生・特別操縦見習士官出身者からなる。特攻指導者冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖、寺岡謹平海軍中将の子息、阿部信行総理大臣、松阪広政司法大臣ら官僚の子息も特攻隊員として戦死している。

 海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

 あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

階級 あ号作戦期間中の戦死者数 構成比率 捷号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率 天号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率
士官 99名 6.5% 185名(内33名) 9.9% 190名(内52名) 6.6%
予備士官 23名 1.5% 163名(内75名) 8.7% 963名(内507名) 33.6%
特務士官 38名 2.5% 30名 1.6% 55名 1.9%
准士官 115名 7.5% 124名(内10名) 6.6% 67名(内17名) 2.3%
下士官兵 1,257名 82.0% 1,371名(内299名) 73.2% 1,591名(内1,014名) 55.5%
合計 1,532名 100.0% 1,873名 100.0% 2,866名 100.0%

 顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これはこの頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、以後急速に士官の数的主力を占めていく過程と連動している。

 下表は昭和20年4月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた。

階級 S20.4.1現在数 構成比率
士官 1,269名 5.3%
予備士官 5,944名 25.0%
特務士官 675名 2.8%
准士官 827名 3.5%
下士官兵 15,114名 63.0%
合計 23,829名 100.0%

 海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
※ 特攻戦死者数の合計が一致しないのは、資料の差異や後日調査結果の補完などに起因するものと推測される。

 2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は、海軍は、海軍航空特攻隊員:2,531名、特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名、回天特攻隊員:104名、震洋特攻隊員:1,081名の合計:4,156名。陸軍は、陸軍航空特攻隊員:1,417名、丹羽戦車特攻隊員:9名、陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名の合計:1,689名。この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。第二艦隊戦没者:3,751名、回天部隊関連戦没者:1,083名、震洋部隊関連戦没者:1,446名、陸軍航空関連戦没者:177名、海上挺身隊関連戦没者:1,573名、空挺部隊関連戦没者:100名、その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名の合計:8,164名。以上合計14,009名を数える。

 元特攻隊員の著名人は次の通り。吾妻兼治郎(イタリア在住の彫刻家、作品がヴァチカン美術館の東洋人初のコレクションになる。)

、井出定治(牧師)、内村健一(天下一家の会会長)、蔦文也(元池田高校野球部監督)、黒尾重明(元東急フライヤーズ投手)、佐野浅夫(俳優・3代目水戸黄門)、島尾敏雄(作家)、千玄室、園田直(元内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣)、田中六助(元衆議院議員)、蓼沼謙一(元一橋大学学長・元日本労働法学会代表理事)、田英夫(元参議院議員)、西村晃(俳優・2代目水戸黄門)。

【特攻隊の戦果考】
●ミニッツ海軍元元師(米太平洋艦隊司令官)
 「沖縄作戦で我が海軍が被った損害は戦争中のどの海戦よりも、遥かに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9千人以上が死亡・行方不明または負傷した。その大損害は、主として日本の航空攻撃特に特攻攻撃によるものであった。我々は予め日本空軍は手強いという事は知っていたがこんなにやるとは思わなかった。我々は「カミカゼ」がかくも多数の人員を殺傷し多数の艦船を破壊しつつある事を日本軍に認めさせることが許せなかった。それ故、我々はそこに留まってこれを受けなければならなかった。日本が失った飛行機の12%で米損傷艦艇の約77%米海軍人員の死傷者中約80%をやっつけた事になる。素晴らしい戦果と言えようもし神風攻撃がなかったらアメリカの空母は自由に日本本土の基地や工場を破壊することが出来た筈である」。
●フランスの劇作家・詩人/ポール・クローデル(大正10年~昭和2年、日本駐在仏大使)
 「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にはない。(略)どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はない。しかし、日本にはその資格があるのだ」。
●フランスの日本史家/アイヴァン・モリス
 「神風特攻隊達の心の中には敵への憎悪、復讐心は殆ど無かった。彼等は、外国がもたらす汚れから日本の清らかな土地を護るためまた家族を防衛する為生命を捧げる義務があると、遺書に書き遺している。彼等の遺書からは、敵兵に対する憎悪や西洋人への人種的敵意が出てこない。寧ろ、誕生してからこれまでに与えられた数々の恩に報いなければという、責任感や「報恩」の決意が前面に顕れている」。
フランス文化大臣/アンドレ・マルロー
 「日本は敗戦したが、かけがえのないものを得た。それは世界の誰にも真似できない突別攻撃隊である。彼らには権力欲とす名誉欲とかはかけらもなかった。ただ祖国を憂う尊い情熱があるばかりだった。代償を求めない、純粋な行為、そこに真なる偉大さがあった。私は、祖国と家族を想う一念から全てを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特攻隊員の精神と行為の中に中に男の崇高な美学を見るのである」。(神坂次郎「特攻-還らざる若者たちへの鎮魂歌」)

【特攻隊の戦果考】
 アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。 神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。健康検査では戦闘を行える健常者が30%まで落ちた艦もあった。米資料にはフィリピンであと100機の特攻があればかなり食いとめられたというものもある。1945年7月2日スチムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっておりこの調子では日本の抵抗でアメリカに100万人以上の被害がでる、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。大統領付幕僚レーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきじゃないと意見した。

 1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻で米軍が公式に認めている艦船の損害は、空母(護衛空母含む)撃沈2、撃破18、戦艦撃破5、巡洋艦撃破8、駆逐艦撃沈3、撃破22、上陸用舟艇撃沈14、計撃沈19、撃破53である。但し、これらの損害に米海軍所属外の艦船の被害は含まれていない。

 特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中の米軍機動部隊への奇襲も計画され、3.11日、第五航空艦隊の「銀河」24機(7機故障脱落)・二式飛行艇3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母ランドルフを中破させた。また、イギリス海軍のイラストリアス級航空母艦のフォーミダブルが5.4日に、ヴィクトリアスが5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出した。

 アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻(31隻沈没、368隻損傷)、768機を失った。人的損害は1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,82名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に香取基地を飛び立った海軍第二御楯特別攻撃隊が硫黄島沖において正規空母サラトガに突入、これを大破させ、同艦を終戦まで出撃不能とした。空母バンカー・ヒルは5月11日に特攻機2機の突入を受けて大損害を受けブレマートンに帰投を余儀なくされ、空母エンタープライズも5月14日の特攻機による損傷大破で炎上し、ピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還しており、終戦時は修理中であった。沖縄戦直前の空母フランクリンの大破戦線離脱を含めると以上、4隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した。これはアメリカ軍としてはかなりの痛手であった。

 損傷を受けた正規空母は少なくないが、沈んだ艦は1隻もない。その要因として、特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初より懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。アメリカ海軍が制空権・制海権を握っていたため、曳航退避が可能だった。例えばミッドウェー海戦で沈んだ日本空母4隻のうち、「赤城」と「飛龍」は曳航可能だったが、米軍制空権下では処分するしかなかった。イギリス海軍の正規空母は戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲を持ち、甲板上にいた航空機は大きな被害を受けたが、沈没に至るようなダメージは受けずに済んだ。等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害を特攻機が与えた事例もある。

 特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、連合国軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。

 唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となる。突入に成功した機は比較的多かったものの、飛行技術の未熟さや興奮などの諸条件により、小型艦艇を目標にした特攻機が多かった。その結果、駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、高速輸送艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。護衛空母「サン・ジャシント」(至近距離突入)、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューコム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューコム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入した事に対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた。

 アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定)。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱との見方が比較的多くなっている。ただし、視界に入らないうちに阻止されたものも含む実際の出撃数から算出される命中率は、5%程度である[要出典]。

 以下は日本軍特攻攻撃によって損傷・沈没した主要な連合軍艦艇である。
戦艦 ニューヨーク (USS New York, BB-34
ネバダ (USS Nevada, BB-36
ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40
ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41
アイダホ (USS Idaho, BB-42
テネシー (USS Tennessee, BB-43
カリフォルニア (USS California, BB-44
コロラド (USS Colorado, BB-45
メリーランド (USS Maryland, BB-46)、
ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48
ミズーリ (USS Missouri, BB-63)
航空母艦
沈没 セント・ロー (USS St.Lo, CVE-63)
オマニー・ベイ (USS Ommany Bay, CVE-79)
ビスマーク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95)
大破 バンカーヒル(USS Bunker Hill, CV/CVA/CVS-17,AVT-9)
サラトガ (USS Saratoga, CV-3
エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6
サラマウア (USS Salamaua, CVE-96
ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38
フォーミダブル (HMS Formidable, 67
インドミタブル (HMS Indomitable, 92)
中破 ハンコック(USS Hancock, CV-19) -
ランドルフ(USS Randolph, CV-15) - 中破
エセックス (USS Essex, CV-9
イントレピッド (USS Intrepid, CV-11
レキシントン (USS Lexington, CV-16
ベローウッド (USS Beleau Wood, CVL-24
サンガモン (USS Sangamon, CVE-26
スワニー (USS Suwannee, CVE-27
サンティー (USS Santee, CVE-29
重巡洋艦 ルイビル (USS Louisville, CA-28)
駆逐艦 ドーシー (USS Dorsey, DD-117
ウォード (USS Ward, DD-139
ブルックス (USS Brooks, DD-232
バリー (USS Barry, DD-248
ベルナップ (USS Belknap, DD-251
マグフォード (USS Mugford, DD-389
ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390
ウィルソン (USS Willson, DD-408
ヒューズ (USS Hughes, DD-410
アンダーソン (USS Anderson, DD-411
モリス (USS Morris, DD-417
ハッチンス (USS Hutchins, DD-476) - 本艦はマルレ艇の攻撃により艦首を損傷し後に座礁、放棄された。
プリングル (USS Pringle, DD-477
ロイツェ (USS Leutze, DD-481
サッチャー (USS Thahcher, DD-514
ルース (USS Luce, DD-522
アブナー・リード (USS Abner Read, DD-526
ブッシュ (USS Bush, DD-529
エヴァンズ (USS Evans, DD-552
ハガード (USS Haggard, DD-555
モリソン (USS Morrison, DD-560
ニューコム (USS Newcomb, DD-586
ツイッグス (USS Twiggs, DD-591
キャラハン (USS Callaghan, DD-792
リトル (USS Little, DD-803
エモンズ (USS Emmons, DD-457
マナート・L・エベール (USS Mannert L. Abele, DD-733) - 本艦は、桜花の体当たりによって撃沈された唯一の艦艇。
ドレクスラー (USS Drexler, DD-741
ハーディング (USS Harding, DD-625
バトラー (USS Butler, DD-636
シュブリック (USS Shubrick, DD-639
キッド(USS Kidd, DD-661)

 他損傷艦多数。補助艦艇の撃沈破された艦は割愛。

【対特攻迎撃考】
 航空特攻に対しては対空砲火、対空弾幕、射撃管制用レーダー、レーダーピケット艦、戦闘機による迎撃、VT信管などの対策がとられた。 フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。

 下表はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。一般に有効とされた5インチVTが特攻に対しては意外に効果を挙げておらず、対して40mmボフォースは通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き3インチ両用砲に換装される大きな動機となった。

【戦後の特攻論考】
 特攻に反対した美濃部正は次のように述べている。

 「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」。

 多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を忘れ、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある。機体故障などでやむをえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたこと知られる第6航空軍参謀倉澤清忠少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた。戦後行われた海軍反省会では、中央から命令はなかったと主張する中沢祐中将と中央の指示で回天特攻を指揮し戦後元部下に責められた鳥巣建之助が論争になった。

 旧軍人、元特攻隊員は戦後復興・経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。戦後息子が特攻死した寺岡謹平と特攻指導者の菅原道大も特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。

 フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した。
 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

 またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。

 ビルマ(現ミャンマー)独立の英雄のバー・モウも神風特攻隊に激しく感動した一人である。タイの王室主催の晩餐会でスピーチを求められたバー・モウは、流暢な英語で特攻隊について語っているうちに涙で声が詰まり、それを聞く晩餐会出席者もまた感涙に堪えなかったという。(深田祐介『大東亜会議の真実』)

 フランスのジャーナリストのベルナール・ミローは、著書『神風』の中で次のように述べている。
 「散華した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」。

 フランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授でのあったモーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する』という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している。

 2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)の様だ」と報道されたものである。実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」というレッテルはなお根強く、「テロ」が反米勢力全体へのレッテル化していることへの議論、2000年10月12日に発生したミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へ行った場合の評価などが曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない。また、戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されている。また民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。更にはタミル・イーラム解放のトラやハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来るという。

 「★阿修羅♪ > 戦争b19 >」の赤かぶ氏の2016 年 11 月 13 日付投稿「日本人が終戦まで「特攻」を止
められなかった、驚きの理由 尊い犠牲の上に、今日があるからこそ(現代ビジネス)
 日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 尊い犠牲の上に、今日があるからこそ
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50145
 2016.11.13 栗原 俊雄 現代ビジネス

 特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

 (前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara

 ■「お前ら、覚悟しろ」
 「特攻隊を志願しましたか?」。筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。
「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」。早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」。特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。

 前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」。

 ■「ヨチヨチ歩き」でも出撃

 ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。 

 ■なぜ「続けざるを得なかった」のか

 1944年10月、大西が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに向かう前のことである。大西は多田力三中将(軍需省兵器総局第二局長)に特攻構想について話した。多田が「あまり賛成しない」と述べたところ、大西は「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」と話した(『日本海軍航空史(1)用兵編』)。また毎日新聞記者で、海軍に従軍していた新名丈夫の証言をみてみよう。
大西は「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもししれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」と話していたという(『一億人の昭和史3 太平洋戦争 昭和16~20年』)。

 二人が残した大西証言がその通りだったとしたら、大西にとって大切だったのは戦果だけではない。後世の人々に、自分たち先祖がどう戦ったかを記憶してもらうこと、いわば「民族的記憶遺産」を託すことであった。大西はもう一つ、特攻を続ける理由があったのかもしれない。それは、その「作戦」を続けていれば、いずれ昭和天皇が停戦を指示するだろう、という期待だ(この大西の心情については、角田和男『修羅の翼 零戦特攻隊員の真情』などに詳しい)。

 天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。

 海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。同日、梅津美治郎参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎少将日記」)と述べた。これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。

 ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。四半世紀の時間と莫大な税金を投じただけあって、歴史研究の貴重な資料となるものだが、特攻の場面から分かる通り、天皇の生々しい肉声が削られている憾みが残る。筆者は毎日新聞オピニオン面のコラム「記者の目」で、具体的な例をあげてこの問題を指摘した(2014年8月18日)。ともあれ、先に見た大西の狙いは、かりにそれが事実であったとしたら完全に外れた。

 ■後世の日本人に残すため

 さて、特攻と言えば航空機によるそれがよく知られている。しかし軍艦などによる水上特攻もあったし、改造した魚雷に人間が乗る水中特攻、さらには上陸してくる敵戦車などに、爆雷を抱いて突っ込む陸上特攻もあった。実際は、航空特攻の死者よりこれらの死者の方がはるかに多かった。たとえば1945年4月、沖縄に上陸した米軍を撃退すべく出撃した戦艦「大和」以下10隻の艦隊を、海軍首脳は「水上特攻」と認識していたし、命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な燃料が積まれた)。この「大和」艦隊の死者だけで3000人を超える。今回は紙幅の事情で詳細は省くが、機会があればこれらの特攻のことも書きたいと思う。敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。
 「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」。

 大西はさらに「一般青壮年」に向けて、「(前略)諸子は國の寶なり/平時に處し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と世/界人類の和平の為/最善を盡せよ」とつづった。大西は後世の日本人が「特攻精神」を継承することを、最後まで望んでいたことが分かる。 

 ■大西の願いは叶ったのか?

 ところで、大西が前述の多田力三中将に特攻構想を明かした際、多田が強く反対していたら、どうなっていただろうか。それでも、まず間違いなく、特攻は遂行されただろう。なぜなら、特攻は一人大西だけでなく海軍上層部の意思だったからである。いかに海軍航空部隊育ての親の一人といえども、大西は一中将である。大西一人では、作戦の成功=死という「作戦」を始めることはできたとしても、それを組織的に継続することは不可能であっただろう。たとえば1944年10月25日に「敷島隊」が突っ込む前の同月13日、軍令部作戦課参謀だった源田実が起案した電報には、「神風特別攻撃隊」の隊名として「敷島隊」「朝日隊」等が記されている。また軍令部作戦部長だった中澤佑少将によれば、大西はマニラ着任前、及川古志郎軍令部総長に会い、特攻の「諒解」を求めた。同席した中澤によれば、及川は「諒解」し、「決して命令はして呉れるなよ」と応じた(『海軍中将 中澤佑』)。この席で本当に大西から航空特攻を申し出たかどうかは、疑問も残るところだ。いずれにしても、海軍の実質的最高責任者である軍令部総長が遂行に同意していたことは確かだ。

 さらに言えば、実は航空特攻以外の特攻は、「敷島隊」のずっと前から決まっていた。「人間魚雷」回天の試作が始まったのは1944年2月である。「自分も後から続く」と約束しながら、長い戦後を生き延びた将軍に比べれば、いや比べる意味がないほど、大西は潔かった。その大西の願い、「民族の記憶」は実現したと言える。敗戦から71年が過ぎた今日まで、特攻はときに祖国愛や同胞愛を語り振り返る文脈のなかで語られ、現代人の感動をよんでいるからだ。それは「家族や国を守るため、自ら命を投げ出した若者たち」に対する共感や同情であり、「戦争でなくなった人たちの尊い犠牲の上に、今日の繁栄、平和がある」という歴史観にも通じる。


 ■本当に死者たちを悼むならば

 こうした「『尊い犠牲=今日の繁栄と平和』史観」は、戦没者の追悼式で、来賓の国会議員などがしばしば口にするフレーズだ。筆者はこの歴史観に同意する。同意するが、そのフレーズには危険性があることも感じている。それはたくさんの犠牲者たちを悼むあまり、追及すべき責任を追及させなくさせる呪文になり得るからだ。本当に死者たちを悼むならば、以下のことを考えるべきだと、筆者は思う。たとえばたくさんの人たちが死んだ戦争を始めたのは誰なのか。あるいはどの組織なのか。敗戦が決定的になっても降伏しなかったのか誰なのか。そしてそれはなぜだったのか。特攻でいえば、それを始めたのは誰だったのか。責任者は責任をとったのか、とらなかったのか、と。

 「特攻は志願だった」

 戦後、特攻隊を送り出した上官らによって、特攻はそう物語られてきた。しかし、冒頭にみた江名さんのように、意思をまったく聞かれないまま特攻隊員にされていた人もたくさんいる。筆者は水上特攻として動員された戦艦「大和」の生還者20人にインタビューしたが、「作戦」参加の意思を聞かれた人はただの一人もいなかった。そして注目されがちな航空特攻と違い、忘れられた特攻隊員も、たくさんいる。たとえば、満州の荒野で押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ兵士たちだ。他の民族がそうであるように、私たち日本民族も、自分たちの歴史を誇らしいものとして記憶しがちだ。それゆえ、特攻も美しい物語として記憶されてゆくだろう。そういう側面があったことは確かだが、そうではなく、強制されて死んでいった若者たちがたくさんいたこと、さらにはそうした死の多くが忘れ去られてしまっていることも事実だ。筆者は今後も、トータルとしての特攻を取材し、執筆したいと思う。

 2016.11.6日付けブログ、栗原俊雄「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?一隻撃沈のために、81人の命が犠牲に…
 特攻。今日では美化されて語られることの多い「十死零生」のこの作戦。一方で、はたしてその戦果がどの程度だったのか、が語られることは少ない。毎日新聞記者・栗原俊雄氏が、ある特攻隊員の証言と史料をもとに、歴史の闇に斬り込む。(前編はこちらから

 「特攻の記憶」

 目の前に、「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛んでいた。護衛のゼロ戦に乗っていた野中剛(1925年生まれ)は突然、「耳元でバケツを打ち鳴らされたような音を聞いた」。そして機体後部に「ガン」という衝撃を感じた。1945年3月21月。海軍鹿屋基地(鹿児島県)から特攻隊が飛び立った。一式陸攻18機を基幹とする「神雷部隊」である。護衛のゼロ戦は30機。敵は九州沖南方の米機動部隊(航空母艦=空母を基幹とした艦隊)であった。一式陸攻は爆弾、魚雷も搭載できる軍用機だが、この日は初めての兵器を胴体に抱いていた。その兵器こそ特攻のために開発された「桜花」である。重さ2トン。機体の前身に1・2トンの爆弾を積んでいる。ロケットエンジンで前進し、小さな翼でグライダーのように飛ぶ。車輪はない。つまり一度空中に放たれたら、着陸することはほぼ不可能であった。「普段は前三分、後ろ七部なんですが」。護衛30機のパイロットの一人だった野口は、70年近く前の体験を振り返って筆者にそう証言してくれた。

 ゼロ戦のような戦闘機に限らず、撃墜される場合は死角である後方から攻撃されることが多い。このため、搭乗員は前方よりも後方を強く意識するのだ。「しかしあの時は前の編隊(「桜花」を抱いた一式陸攻の部隊)を守る意識が強すぎて、後方がおろそかになりました」。

 第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍は航空機が搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。現在は「カミカゼ」と読まれがちだが、当時は「シンプウ」と呼ばれることが多かった。また「神風」は海軍側の呼称であり、海軍に続いて特攻隊を送り出した陸軍は、「神風」という言葉を組織としては使わなかった。呼称はともかく、海軍も陸軍も爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に突っ込む、という点では同じだ。成功すれば搭乗員は必ず死ぬ。「九死に一生」ではなく、「十死零生」である。飛行機も必ず失う。爆撃機でいえば、通常の作戦ならば搭乗員は敵艦に爆弾をあてて帰還し、さらに出撃する。その繰り返しである。もちろん、その過程で戦死することは多々あるが、あくまでも前提は生還することである。特攻は、そうした戦争の原則から大きく逸脱するものだ。筆者がカッコつきで「作戦」と書くのはそのためである。
 
 その「作戦」は、前回みたように1944年10月、フィリピン戦線で始まった。海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。第二次世界大戦において、帝国海軍は戦艦12隻を擁していた。「大和」「武蔵」はよく知られている。帝国海軍の実力は、艦船数や総トン数などでみるかぎりアメリカとイギリスに継ぐ第3位であった。しかし戦艦部隊の実力に関する限り、それは世界第一位であったといっていい。
 
 敗戦時、12隻のうち何とか海に浮かんでいたのは「長門」だけ。ほかの11隻は撃沈されるか、航行不能だった。戦果と言えば、戦艦が米空母で沈めたと思われるのはたったの1隻(レイテ沖海戦における護衛空母「ガンビア・ベイ」)だった。「思われる」というのは、「ガンビア・ベイ」を撃沈したのが日本軍戦艦だったのか、あるいは巡洋艦だったのか判然としないからだ。

 ともあれ、世界に誇る12隻の戦艦群が沈めた敵空母が、最大でも1隻でしかなかったことは事実である。「敷島隊」の戦果から半年後、「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は瀬戸内海から九州東南を経て沖縄に向かったが、米軍機の空襲が始まってからわずか2時間余で撃沈された。敵空母を撃沈するどころか、その姿をみることもなく、かすり傷一つ与えることはなかった。
 
 そうした現実からみると、たった5機の「敷島隊」による戦果は巨大であった。海軍内部には、特攻に対する抵抗もあった。前述の通り、作戦ではなく「作戦」だからであり、まさに「統率の外道」(特攻創設者とされてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)だからである。しかし「敷島隊」の大戦果によって、海軍は特攻を本格的に進めた。陸軍も、同じフィリピン戦線で特攻を始めた。「外道」が「本道」となり、「特別攻撃隊」が「普通の特別攻撃隊」になったことを、確認しておこう。

 子供の玩具のような特攻機 

 当初は確かに戦果を挙げた。なぜなら、米軍を初めとする連合軍は、爆弾を積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ組織的に行われることを予想していなかったからだ。このため日本軍の特攻への対処が遅れ、被害が拡大した。日本軍からみれば戦果が拡大した。
 
 特攻隊が「敷島隊」のような戦果を挙げ続けたら、第二次世界大戦の流れは変わっていたかもしれない。しかし、現実は違った。
 
 米軍は、特攻の意図を知って対処を進めた。特攻機の第一目標は航空母艦(空母)であった。レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に護衛機を多数、配備する。戦艦なども多数配置する。こうした結果、特攻隊は目標に体当たりするどころか、近づくことさえ困難になった。

 また、そうした護衛部隊をかいくぐってなんとか米空母群付近にたどり着いたとしても、そこにはさらなる護衛機群があって、艦船からは十重二十重の迎撃弾が吹き上がってくる。日本軍機は、一般的に少ない燃料で航続距離を伸ばすため軽量化を図り、その反面防御力を犠牲にした。

 大戦後半、米軍機が日本軍の機銃を浴びても分厚い装甲がそれをくいとめ、墜落を免れることがあった。一方、ゼロ戦を初めとする日本軍機は敵機の一撃が致命傷となり得た。
 
 さて特攻機は、出撃したものの機体の故障のため帰還することが少なくなかった。なぜか。

 以下は大戦末期に連合艦隊司令長官、つまり帝国海軍の現場の最高責任者だった豊田副の証言である(『最後の帝国海軍』)。米軍が沖縄に上陸した1945年4月以後の状況だ。
 
 「沖縄戦がだんだんと進行してゆくと、次は内地の本土決戦以外には考えようがないので、専ら本土決戦準備に、陸海軍とも狂奔し、すべてこの兵力の整備とか建直しをやつた」。ところが「今まで百機持つておつたのに、更に五十機来たとして、今までの可動五十機だつたのが、今度は三十機乃至二十機になるという始末」だった。

 豊田は航空部隊で、「新型飛行機」の完成品をみた。「それは新型戦闘機で、まるで子供が悪戯に作つた玩具のようなもので、一見リベットの打ち方もなつていない。実にひどいものだつた」。
 
 つまり生産機数が落ちているだけではなく、できあがった飛行機の質も著しく低下していたのだ。さらに言えば、精密機械である飛行機を維持するには、プロの整備兵が必要だ。しかし国を挙げての総力戦が長引くうち、パイロットのみならずその整備兵も不足していった。

 また南方の石油産出地域を占領していたものの、その石油を運ぶルートの制空権と制海権を米軍に抑えられているため、石油を十分に輸送することができなかった。このため、オクタン価の低い航空燃料で飛行機を飛ばすことになった。

 要するに、飛行機の生産数が減っていき、せっかく生産された飛行機は少なからずポンコツで、そのポンコツに粗悪な燃料を積み、その上十分な整備もなされないまま前線に送り出された航空機が多かった。それは特攻機としても動員されただろう。

 さらに言えば、1941年12月の対米戦開戦より前、日中戦争から使われていた老朽機も特攻に投入された。出撃したものの、引き返すケースが多いのは当然だった。

 1隻沈めるのに、81人の命

 ところで特攻といえば、一般的には「家族や国を守るため、自らの命を投げ出した若者たち」という印象が強いだろう。それゆえ特攻はそれが終わってから71年が過ぎた今も、多くの人たちの心を打つ。筆者はこれまで、たくさんの特攻隊員、しかも実際に出撃した特攻隊員を取材してきた。彼らの証言を聞き、あるいは戦死した人たちの遺書、親や妻、子どもたちに書き残したそれを読むと涙を禁じ得ない。「そうした尊い犠牲の上に、今日の日本の平和がある」という感想を、しばしば聞く。筆者はその感想にも同意する。同意するが、新たな疑問が生じてくるのだ。「なぜ、だれが未来有望な若者たちをポンコツ飛行機に乗せて特攻に送り出したのか。戦果が期待したほど上がらないと分かった時点で、どうして特攻をやめなかったのか」と。

 ともあれ、海軍による特攻「作戦」は当初、既存の航空機に爆弾を搭載していた。しかし軍が期待したほどの戦果は上がらなかった。前述のハードルを越えて敵艦に突っ込んでも、そもそも飛行機には浮力があるため、高高度から放たれた爆弾のような衝撃力はなかった。さらに爆弾が爆発する前に機体がくだけてしまい、肝心の爆弾が不発なこともあった。
 
 そうした中で開発されたのが、機体そのものが爆弾といっていい「桜花」である。搭乗員は必ず死ぬが、命中すれば敵の損害は大きい。しかしこれも敗戦まで、大きな戦果を挙げることはなかった。

 そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、冒頭にみた、野口が護衛した「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。 

 敵艦は一隻も沈んでいない。被弾した野口機は、何とか帰還したが、「作戦」自体は大失敗だった。
 
 敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)

 正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31

 撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。

 この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。

 「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。

 我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想し来したものよりはるかに低かった、ということだ。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は一ミリもない。

 押し付けられた責任

 ところで、「特攻隊を始めたのは誰だ?」。そういう問いに対してはしばしば、大西瀧治郎海軍中将の名が挙がる。実際1944年10月、フィリピン戦線で最初の特攻隊を見送ったのは大西だ。しかし、前出の豊田は言う。「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」。
 
 特攻は、大西一人の考えで始まったものではなかった。たとえば軍令部第二部部長の黒島亀人である。同部は兵器を研究開発する部署であった。奇抜な言動から「仙人参謀」と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。

 黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想・準備していた証拠はある(拙著『特攻 戦争と日本人』)。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たしたであろう役割を語らなかった。
 
 大西は敗戦が決定的となった1945年8月、自殺した。若い特攻隊員を送り出した将軍のなかには「自分も後から続く」などと「約束」しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして大西以外の特攻推進者たちは、「死人に口なし」とばかり、大西に責任を押しつけた。
 
 巨大組織である海軍には様々な部署があったが、メインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、あるいは雷撃すなわち魚雷の専門家であった。そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった。

 その大西がなぜ、航空特攻を推進したのだろうか。次回はその理由をみてみたい。


【富安俊助中尉の特攻機敢闘】
 「米軍が「神聖な風」と称賛した特攻精神」。
 遺書
 父上様 母上様
 突然,某方面に出撃を命ぜられ,只今より出発します。もとよりお国に捧げた身体故,生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。私が居らなくなったら淋しいかも知れませんが,大いに張切って元気で暮らしてください。心配なのは皆様が力を落とすことです。海軍に入る時に当然死を覚悟していたのですから,皆様も淋しがることはないと思います。では 大いに頑張りますから,その点御安心下さい。                   
 俊助〔予備学生13期,早稲田大学政治経済学部〕
 
 富安俊助中尉は空母エンタープライズに特攻し、見事に大破させました。エンタープライズは二度と戦列に復帰することはありませんでした。米軍は富安中尉の雄々しい戦いぶりに感銘を受けDIVINEWIND『神聖な風』と称賛しました。富安機はエンタープライズの前部エレベータの後部に突入しました。それはエレベーターホールを吹き飛ばし,飛行 甲板の大きな張り出し部分を持ち上げました。爆弾は飛行甲板を突き抜け,そこから 50フィートも奥(3階下のフロア)の船の深部に達して爆発しエレベーターは破壊され,部品は130メートル上空まで吹き上げられたそうです。

 人間社会は弱肉強食主義ではなく、親子の間に見られる愛情主義で成立します。相手の為に自己犠牲を惜しまないのが愛情主義です。聖人の教えは公の為に自己犠牲の道を教えています。特攻隊精神が感動を呼ぶのは、「愛する祖国、愛する者の為に自らを犠牲にした」からです。これは弱肉強食の正反対の生き方です。これこそが人間の人間たる根拠です。グローバル勢力は弱肉強食の伝統しかありませんが、日本歴史は愛情主義によって構成されています。その日本兵の美しい闘いぶりを見た敵国アメリカの評価は、『神聖な風』でした。(筑波海軍航空隊より引用)

 【海外誌にも掲載】 

 U.S.NAVAL INSTITUTE(USNI)発行の『NAVAL HISTORY』誌2008年4月号には,「Who Knocked the Enterprise Out of the War?」と題し,8ページにわたる詳細な記事 を掲載している。菅原完氏が寄稿したものである。エンタープライズはアメリカ海軍の象徴的空母であり,数々の戦歴を残してきたにもかかわらず,富安中尉の攻撃による大破 で,戦列を離れ,1960年5月の解体まで二度と戦闘に参加することがなかった。
----- ----- ----- ----- 

 アメリカが脅威を感じているのは、日本の特攻精神です。出アメリカを成功させるには、如何なる武器より強力なもの、即ち神を味方につけることです。その鍵は特攻精神を蘇らせる事だと確信します。







(私論.私見)